駒ヶ根市中沢は、天竜川左岸にある山間地域。真ん中を新宮川が流れており、その右岸(北側)は江戸時代は本曽倉(ほんそぐら)村だった。安政5年にその本曽倉村から原村が分かれて二つの村になったが、明治になるとさらに中山村、大曽倉村、中曽倉村、本曽倉村の4村になった。二つに分かれていた本曽倉村と原村はこのとき再び一つの村にまとまっている。現在も自治上は4つの集落が残っているうえに、同じ本曽倉とはいえ、原と本曽倉は独立して自治は行われているようだ。明治の村4つには、それぞれ神社があり、本曽倉には御坂山神社が祀られている。とはいえ、原村が分かれていたこともあり、原村には明治の合祀までは熊野神社が産土様として祀られていたという。また、本曽倉に祀られていた神社は諏訪神社といわれていたようだが、合祀の際に現在の御坂山神社に改称したよう。このとき(明治41年)熊野社と大津渡(おんど)にあった妙見社を合わせて三社が合祀されたという。まだ真新しい現在の社殿は、平成28年に覆殿が新しくされたもので、本殿そのものはかつてのものである。覆殿の中にかつて祀られていた3社が納められたわけで、それまでは茅葺の覆殿が三つ並んでいた。趣のある光景だったようだが、茅葺では維持が大変だということもあって、銅板葺きの覆殿が新築された。
この御坂山神社の西側は洞になっていて、そこには桃源院という寺がある。しばらく前に最初にこの御坂山神社を訪れた際には、この桃源院側から東の斜面を上って尾根に出て神社があることを知った。実際の参道は南側から上る道があるが、境内までは歩く道で、車では上がれない。おそらく覆殿を新しくする際には参道からではなく、桃源院側から入ったようだ。この神社境内は、その東側にある洞と桃源院のある洞に挟まれた尾根にある。ところが境内はその尾根が窪んでいて、その窪みに神社が建てられている。人為的に掘られた窪みか?、と最初に訪れた際に思ったが、あらためて今回訪ねて、境内の南側にかつては舞台があったと聞き、この境内が舞台に向かって傾斜していること、さらに窪んでいることから舞台に向かって左右が尾根に向かって傾斜していて観覧席のようになっていること、などから人為的にこの空間は造られたのではないか、と想像した。神社背後は尾根の頂になっていて、けしてこれが自然にできない地形ではないだろうが、舞台に対してよく配置された空間は、人為的であると想像させる。
御坂山神社獅子舞 オネリ(令和6年9月28日撮影)
さて、御坂山神社では9月の第4日曜日が例祭にあてられている。その宵祭りである前日に、獅子舞が地区内で舞われる。この獅子舞を舞う行程や、獅子舞の構成に感心させられた。昔とそれほど変わっていない、そう関係者は言われるが、実は大きな変化が、現在神社で獅子舞が奉納される際の頭を更新した際にあったよう。今年はおもしろかっぱ館のある天竜川の橋の東側で最初に舞われた。午後1時ころのことと想像する。わたしは次の原地区にある集会施設(原いきいき交流センター)から見させてもらったが、このほか、新宮川沿いの原下段、下曽倉、大津渡の竹村家(菅の台に移築されている重要文化財「竹村家」のあった家)、本曽倉改善センター前、神社と7カ所で獅子舞は舞われる。山間と言うことや神社境内が歩いて上らないと行けない、という環境もあって、地区内に出て舞うことは、自ずと求められる姿。そして地区内で舞う際の頭は神社で舞う際の頭とは異なる。写真にも登場している「子獅子」の頭もその頭と同様に神社で舞う際に使われる頭と同じころに造られたもので、地元の北原さんという方が彫ったものだという。以前飯島町本郷の人形芝居について記したことがあるが、その人形も地元の方が製作されたものがいくつも利用されていた。今でこそ専門家に依頼して頭を用意するのは当り前だが、昔のこうした芸能の発祥時には、「自ら造る」というケースは多かったのではないだろうか。それだけ巧者な方が、地元には誰かしらいたものなのだ。とはいえ本曽倉の頭は素人が造られたとはいえ他の獅子舞の頭とそん色なく、ちゃんと利用されているわけで、この地区の獅子舞を続ける原点になっているようにも見える。そして子獅子を加えたことで、子どもたちが参加しやすい環境が整った。獅子舞のお練りに子獅子が加わり、囃子の太鼓を担う子どももいる。ようは継続していく環境が整っているように見える。神社で奉納される際には役員しかそれを見守っている人はいなかったが、各地区では近くの方が集まり、獅子舞を見守る光景が見られた。さすがに山間地域ということもあって子どもは少なく、子獅子は2頭だったが、北原さんが製作した子獅子は4つあるという。子どもが4人以上いれば4頭舞に加わると言うから、賑やかな獅子舞となるのだろう。
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