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辰野町川島木曽沢の道祖神

2024-10-02 23:04:03 | 民俗学

双体道祖神

 

「甲子」の背後にある自然石、右側の石が下の写真の奥のもの

 

自然石道祖神か?

 

竹入弘元氏が「奇石」として取り上げている道祖神

 

 辰野町の横川川の上流へ上って行くと、横川ダムにたどり着く。その手前に源上という集落があり、その手前が木曽沢である。町で運営しているバスの停留所は、昔民営のバスが運行していた際にもバス停があったところ。その辻には石造の蚕神さま(2006年に蚕の昔話で掲載した写真参照)も立っているが、広場のようになっていて、集落の人々の憩いの空間のようになっている。グーグルのストリートビューで見てみると、ちょうど女性の方たちが草取りをされている姿がある。もちろんこのストリートビュー、更新されてしまうとこうした光景は消えてしまうだろうから、今が「見ごろ」というわけだ。

 その辻に石碑がずらっと道に面して並んでいる。向かって左手の方に「庚申」、右手の方に「甲子」が立ち、真ん中あたりにはお地蔵さんや道祖神が立っている。ここの道祖神は双体像で、「元禄三庚午歳十二月朔日」と銘文がある。元禄3年というと1690年であり、双体像としては古い方のものにあたる。『長野県道祖神碑一覧』によると、同じ辰野町沢底の永正年代のモノは特別として、次に古いものは旧四賀村の西宮上郷にある天正5年(1577)のもの。ちょっとこれも古すぎるように思うが、1600年から1650年までの間の銘文のある者が3基、1650年から1700年の間のものが8基数えられる。1690年というとこの8基のうちの一つにあたる。写真1枚目のものがそれにあたる。右が男神、左が女神とはっきりわかり、男神は烏帽子をかぶり、盃をこちらに向けて持っている。その盃へ酒を注ごうとしているのが女神で、長い髪の毛を結んで垂らしている。いわゆるね祝言像で1600年代のものにしては新しい印象も与える。

 さて、問題は前面には並んでいない、見えないところにある「石」である。右端の「甲子」の背面には自然石がいくつも並べられている。これらは何か、ということになる。竹入弘元氏がまとめられた『長野県上伊那誌』の信仰の章にある道祖神一覧によれば、木曽沢バス停の道祖神は、前述の双体道祖神ともう1基双体像、くわえて「奇石」の3基が報告されている。「奇石」とされたものは陽石であり、後述するもので、「甲子」の裏にある写真2枚目、3枚目のものはこれらに該当しない。「奇石」を認識されていた竹入氏がこれらを道祖神として捉えられなかったのは、地元の方の捉え方からかもしれないが、特に3枚目の写真(2枚目も同じ場所を角度を変えて撮影しているもの)のの後ろ側にある石は、陽石にも捉えられそうな石で、いずれも道祖神であったのではないかと、わたしは想像する。

 さらに4枚目の写真が前述した「奇石」に当り、陽石である。左端の「庚申」の背後にあり、いわゆる男性器を模したもので、亀頭冠の部分がはっきりとわかるが、実はこの部分は石英が帯状に貫入している部分で、自然に洗い出された部分と考えられる。同じことは前述した「甲子」の背後にある石でも言え、環状に凹凸ができるのは、石の硬い部分と柔かい部分が摩耗現象によって凹凸になるせいである。こうした石が、道祖神として祀られているケースはよく見られるとともに、人為的ではないと思われる陽石には、こうした石が多い。

続く


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