メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする | |
クリエーター情報なし | |
紀伊國屋書店 |
副題は「メディアの生態系をデザインする」。
著者の水越伸氏は、東京大学大学院教授。
メディア論の世界では注目の論客、と言えるかもしれない。
タイトルにあるビオトープとは、「生物の棲息に適した小さな場所」のこと。
空気や水、光など生命の維持に不可欠な要素を持つ、ミニマムな生態系だ。
著者はこの生態系という概念を通じて、メディアが向かうべき姿への考察を試みている。
メディアを情報時代における「環境」として捉える視点は
特に目新しいというものではないけれど、
生態系と直に結びつけたところがユニークな点だろう。
また、もしかしたらビオトープという概念は、
ときおり感じる「マスメディア評論」の侵食を防ぐためにも有効かもしれない。
そのあたりの話、著者はざっくりと指摘している。
これまでのメディア論は、マスメディアばかりに焦点を当ててきた。
日本であれば、東京の巨大なマスメディアばかりだった。(中略)
国家より小さな社会空間、コミュニティや、国家を越えた
社会空間に対応したメディアの検討はなおざりにされてきた。(P.81)
ただしこのユニークな論法には、気になるところもある。
例えば「新しいメディアの根っこには表現者という球根が埋まっている」といった
現実の生態系を引き合いとしたメタファーは、
主旨をかえって分かりにくくしている気がするのだ。
しかし手法と主張は、別の目線で見るべきだろう。
著者が提唱しているのは、ビオトープとして確立したコミュニティベースのメディアが
お互いにつながっていくことだ。
一つ一つのメディア・ビオトープの運営は、それぞれの表現者たちがしっかりやればよい。
しかしそれだけでは足らないのではないか。「点」を結びつけ、「面」にしていくためには
別の次元の営みが必要になってくるんじゃないか。(P.158)
個々の表現から発したメディアが、ゆるく、しかし確実に結びついている状況。
ビオトープから他のビオトープへの地図がきちんと存在すること。
著者はある意味、コミュニケーション環境をデザインしようとしたのかもしれない。
この視点には、学問世界の枠を超えていくポテンシャルを感じる。
ただ、結びつきが上手くいけば万事OKなのだろうか、
といった疑問も個人的にはなくもない。
たとえば幾ら各ジャンルの専門家がうまく繋がっていても、
方向性、ビジョン、そして駆動力となるモチベーションがなければ、
その繋がりは機能しないのでは?
もしも自分がこういった論を述べるとするならば、
ビオトープという生態系より生物自体の器官をモチーフにすると思う。
各臓器とも重要な役割を持ち、専門性をもってそれを果たしているけれど、
コントロールタワーとなる脳とエンジンである心臓がなければ、
独立した生命として機能しない。そんなイメージだ。
情報が社会の血液だとすると、その循環器官であるメディアはどうあるべきか。
この点において、水越氏が目指そうとしている行き先は素晴らしいと思う。
ただそのガイドブックとしては、もう少し改訂の余地があるのかもしれない。
……しかし日進月歩(この言葉自体が古いか)のメディアの世界で、
この著作はすでに7年近く前のもの。
今の水越氏は何を語ってくれているのだろう。
最新の著作を探したら、それは放送大学大学院のテキスト。
書店では買えないので(そういう場所もあるのかもしれないけれど)
ちょっと中を見てという訳にはいかなそうだが、機会があれば読んでみたいなぁ。
(もちろん出版以外で氏の活動に触れる機会も多々あるようですが)