古事記も日本書紀も嘘の気がするし、神社に今のような祭神が祀られたのは明治時代になってからの気がするけどなあ。
明治維新の話も怪しいし、その後も怪しいんだけど、神社の話と、そういう話が混ざるとブログがごちゃごちゃしてくる。
三島通庸という人は薩摩藩の出身で、ウィキペディアで調べると、明治維新の後に酒田県令と山形県令に就いて、山形県から宮城県や福島県に抜ける道を作ったり、山形県に洋風建築の建物を建てたようだ。三島通庸は福島県令と栃木県令にも就いて、福島県と栃木県の開拓にも携わったようだ。
三島通庸が酒田県令に就いたのは明治7年(1874年)のようだけど、この頃の庄内地方ではワッパ騒動があって、明治13年(1880年)まで続いたようだ。ワッパ騒動は百姓一揆から自由民権運動に発展するような民衆運動で、庄内地方のすべての村に広がったようだ。詳しく知らないが、ウィキペディアに、そう載ってる。 三島通庸が山形県知事だったのは明治15年(1882年)までのようだ。
この人が怪しいんですけど・・・。
三島通庸の息子の三島弥太郎という人は外国留学して農業を学んだみたいだけど、金融業に進み、銀行の頭取になったり、日本銀行の総裁にも就任したようだ。
三島弥太郎の息子が三島通陽という人のようだ。三島通陽はボーイスカウト日本連盟の4代目の総長で、ボーイスカウト日本連盟の初代副理事長らしい。三島通陽は戦後のボーイスカウトの普及に貢献した人で、ブロンズ・ウルフ賞をもらってるらしい。三島通陽もフリーメイソンのようだ。
大正11年(1922年)にボーイスカウト日本連盟が創設され、後藤新平がボーイスカウト日本連盟の初代総長に就任したようだ。後藤新平はフリーメイソンらしい。
フリーメイソンですか・・・。
火をつけるか。
明治維新の話も怪しいし、その後も怪しいんだけど、神社の話と、そういう話が混ざるとブログがごちゃごちゃしてくる。
三島通庸という人は薩摩藩の出身で、ウィキペディアで調べると、明治維新の後に酒田県令と山形県令に就いて、山形県から宮城県や福島県に抜ける道を作ったり、山形県に洋風建築の建物を建てたようだ。三島通庸は福島県令と栃木県令にも就いて、福島県と栃木県の開拓にも携わったようだ。
三島通庸が酒田県令に就いたのは明治7年(1874年)のようだけど、この頃の庄内地方ではワッパ騒動があって、明治13年(1880年)まで続いたようだ。ワッパ騒動は百姓一揆から自由民権運動に発展するような民衆運動で、庄内地方のすべての村に広がったようだ。詳しく知らないが、ウィキペディアに、そう載ってる。 三島通庸が山形県知事だったのは明治15年(1882年)までのようだ。
この人が怪しいんですけど・・・。
三島通庸の息子の三島弥太郎という人は外国留学して農業を学んだみたいだけど、金融業に進み、銀行の頭取になったり、日本銀行の総裁にも就任したようだ。
三島弥太郎の息子が三島通陽という人のようだ。三島通陽はボーイスカウト日本連盟の4代目の総長で、ボーイスカウト日本連盟の初代副理事長らしい。三島通陽は戦後のボーイスカウトの普及に貢献した人で、ブロンズ・ウルフ賞をもらってるらしい。三島通陽もフリーメイソンのようだ。
大正11年(1922年)にボーイスカウト日本連盟が創設され、後藤新平がボーイスカウト日本連盟の初代総長に就任したようだ。後藤新平はフリーメイソンらしい。
フリーメイソンですか・・・。
火をつけるか。