東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

津島

2023-08-31 22:35:22 | 日記
 明治18年(1885年)に日本では内閣制度が始まり、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したようだ。次の総理が黒田清隆で、次の総理が山縣有朋で、次の総理が松方正義で、次の総理が伊藤博文で、次の総理が松方正義で、次の総理が伊藤博文で、次の総理が大隈重信で、次の総理が山縣有朋で、次の総理が伊藤博文で、その後に桂太郎が総理になったようだ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 堀田正養という人は滋賀県にあった宮川藩の最後の藩主で、堀田正養は秋田県由利本荘市にあった亀田藩の岩城氏から養子で入ったことになってるらしい。堀田正養は第一次西園寺内閣で逓信大臣を務めたようだけど、第一次西園寺内閣では山縣伊三郎と原敬と堀田正養と逓信大臣が三回変わったようだ。逓信省は交通や通信や電気など幅広く管轄してたみたいだ。
 
 後藤新平は第二次桂内閣と第三次桂内閣で逓信大臣、寺内内閣では内務大臣と外務大臣、第二次山本内閣でも内務大臣に就いたようだ。本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平はフリーメイソンらしい。
 
 林董という人は第一次西園寺内閣で外務大臣、第二次西園寺内閣では逓信大臣を務めて外務大臣も一時兼任したようだ。林董は千葉県にあった佐倉藩の出身ということになってるらしいけど、佐倉藩の藩主も堀田氏だったらしい。明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたようだけど、林董は日英同盟の調印の時の日本の代表だったようだ。林董は駐英公使だったようだけど、明治36年(1903年)にフリーメイソンに入会し、次の年には日本人初のロッジ・マスターになったようだ。ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 ウィキペディアで調べると、滋賀県にあった宮川藩の藩主と千葉県にあった佐倉藩の藩主と栃木県にあった佐野藩の藩主が堀田氏だったようだ。堀田正敦という人は伊達藩の6代目の藩主の伊達宗村の息子で、堀田氏に養子に入って滋賀県大津市にあった堅田藩の藩主になったらしい。堅田藩の堀田氏はもともと佐野藩にいて、堅田藩に移され、堀田正敦の時に佐野藩に戻ってきたらしい。本当か知らない。
 
 愛知県津島市にある津島神社ではスサノオを祀ってるようだけど、江戸時代は牛頭天王を祀っていたらしく、全国天王総本社といってるようだ。本当に牛頭天王を祀ってたのか知らないけど・・・。堀田氏は紀氏の系統の氏族らしいけど、津島神社には弥五郎殿社があって、紀氏の祖先の武内宿禰を祀ってるらしい。
 
 津島神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

薩摩

2023-08-31 20:52:03 | 日記
 gooブログが急にメンテナンスになって、その後に繋がらなくなってしまった。なにか、俺がヤバいこと書いたかなあ?と思ってしまった。
 
 西郷従道という人は薩摩藩の出身で、西郷従道は西郷隆盛の弟らしい。本当か知らないけど・・・。西郷従道は初代海軍大臣で、第一次伊藤内閣と黒田内閣と第一次山縣内閣で海軍大臣に就き、第二次松方内閣と第三次伊藤内閣と第一次大隈内閣で海軍大臣に就いたようだ。西郷従道の次の海軍大臣が山本権兵衛らしい。
 
 山本権兵衛も薩摩藩の出身で、山本権兵衛は第二次山縣内閣と第四次伊藤内閣と第一次桂内閣と海軍大臣に就き、大正政変というみたいだけど、桂園時代の第三次桂内閣の後に総理大臣になったらしい。第一次山本内閣はシーメンス事件で総辞職したらしい。関東大震災の翌日に第二次山本内閣が組閣され、虎ノ門事件で山本権兵衛は責任を取って辞表を提出し、総辞職になったようだ。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、斎藤実は山本権兵衛に譲られるかたちで海軍大臣に就いたようだ。斎藤実は第一次西園寺内閣と第二次桂内閣と第二次西園寺内閣と第三次桂内閣と第一次山本内閣と海軍大臣に就き、シーメンス事件で海軍大臣を辞任したようだ。その後に朝鮮総督に就いたようだ。昭和7年(1932年)にあった5.15事件の後に総理大臣に就任し、斎藤実が総理大臣だった時には満州国の承認と国際連盟からの離脱があったようだ。斎藤内閣は帝人事件で総辞職したようだ。斎藤実は昭和11年(1936年)にあった2.26事件で暗殺されたらしい。
 
 斎藤実の奥さんは斎藤実が亡くなった後に水沢に住んでたらしいけど、斎藤実の奥さんは仁礼景範という人の娘で、仁礼景範は薩摩藩の出身で、仁礼景範は第二次伊藤内閣で海軍大臣を務めたようだ。
 
 樺山資紀という人も薩摩藩の出身らしいけど、第一次山縣内閣と第一次松方内閣で海軍大臣を務めたようだ。初代海軍大臣は西郷従道で、次の海軍大臣が樺山資紀で、次の海軍大臣が仁礼景範で、次の海軍大臣も西郷従道で、次の海軍大臣が山本権兵衛のようだ。山本権兵衛まで、薩摩藩の出身者が海軍大臣に続けて就任してるようだ。
 
 薩摩閥っていうの?、なんなんでしょう?、この人たちは。
 
 ウィキペディアを見ると、山本権兵衛は薩摩藩の出身で、山本氏は禰寝氏の系統の氏族らしい。禰寝と書いて「ねじめ」と読むらしい。江戸時代に平重盛の孫の平高清の末裔を主張したらしいけど、鎌倉時代や室町時代の公文書には建部氏で署名してるらしい。禰寝氏の直系は江戸時代に小松氏を名乗ったらしい。小松氏は西郷従道の息子が継いでるようだ。
 
 福井県丹生郡越前町にある剣神社は織田氏の神社らしい。剣神社ではスサノオと気比大神と忍熊王を祀っていて、剣神社のHPを見ると、小松建勲神社があって、織田信長と平重盛を祀ってるらしい。
 
 京都の八坂神社ではスサノオを祀っていて、京都の八坂神社には疫神社があって蘇民将来を祀ってるらしい。牛頭天王とスサノオは同じということになってるみたいだけど、牛頭天王は疫病の神ということになってるようだ。
 
 八坂神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

熊本

2023-08-31 13:43:06 | 日記
 竹田恒泰って人は旧皇族の竹田宮家の子孫らしいけど、旧皇族の皇籍復帰って、うるさいんだけど・・・。そんなこと、絶対にしちゃいけないって思いませんか?。
 
 天皇も皇室も令和で終わりにしてあげたほうが・・・。
 
 明治維新の後に九州と山口県では士族の反乱があったようだけど、明治7年(1874年)に佐賀県で佐賀の乱があって、明治9年(1876年)には、熊本県で神風連の乱があって、福岡県で秋月の乱があって、山口県で萩の乱があったらしい。西南戦争は明治10年(1877年)にあったらしい。本当か知らない。
 
 西郷隆盛の西郷氏は熊本県にいた菊池氏の系統の氏族らしく、西郷隆盛は菊池源吾という名前も使ってたらしい。西郷隆盛は西南戦争で亡くなったらしい。
 
 熊本県にいた菊池氏の人たちが岩手県奥州市の江刺に来たらしい。奥州市の隣の遠野市に菊池という名字が多いらしく、岩手県遠野市と熊本県菊池市は友好都市になってるらしい。熊本県菊池市にある菊池神社は明治時代に創建されたようだけど、菊池氏の全盛期は南北朝の頃で、菊池氏は南朝に仕えた忠臣ということになってるようだ。
 
 熊本県にいた菊池氏は戦国時代に滅亡したらしいけど、菊池氏の系統の米良氏が存続して、宮崎県児湯郡西米良村にあった小川城にいたらしいけど、明治時代になって菊池則忠という人が米良から菊池の名字を名乗ったらしく、晩年は菊池神社の宮司を務めたようだ。菊池則忠の息子が菊池武臣という人で、菊池武臣の息子が菊池武夫らしい。菊池武夫という人は貴族員の議員になって、天皇機関説を主張していた人たちを天皇に対する不敬として攻撃したようだ。天皇機関説事件というらしい。菊池氏の系統の家で、華族になったのは、おそらく、この菊池氏だけのようだ。
 
 熊本県玉名市にある広福寺という曹洞宗の寺が菊池氏と関係あるらしく、菊池氏の菩提所だったらしく、菊池氏の書状や菊池氏の位牌堂があるらしい。菊池市に聖護寺という曹洞宗の寺があるらしく、聖護寺の僧が広福寺に移ったらしい。
 
 明治天皇の側室に園祥子という女性がいて、明治天皇と園祥子の娘は竹田宮家と北白川宮家と朝香宮家と東久邇宮家に嫁いだようだ。詳しく知らないので、ウィキペディアで調べて書いてます。熊本県にあった肥後新田藩は熊本藩の支藩だったみたいだけど、肥後新田藩は熊本県玉名市にあったらしい。肥後新田藩の細川氏は明治時代に公家の園家の人が継いでいて、園祥子の兄弟らしい。
 
 幸徳事件というみたいだけど、明治43年(1910年)に明治天皇の暗殺計画を企てた人たちが捕まって、そのことが発端になって、社会主義者や無政府主義者の人たちが明治天皇の暗殺計画とは関係無く、でっち上げ捜査で捕まって処刑されたらしい。
 
 幸徳秋水という人は法廷で、今の天皇は南朝の天皇を暗殺して三種の神器を奪った北朝の天皇じゃないかみたいなことを言ったようだ。南北朝正閏論というみたいだけど、南北朝の南朝と北朝のどちらが正統かみたいな議論になって、国会でも取り上げられ、明治天皇によって南朝が正統ということになったらしい。今の天皇は北朝で続いてるらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

島津

2023-08-31 13:34:50 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、英米に逆らうと怖ろしいことになるって知ってたのかなあ?、征服者に従った人たちは。
 
 明治維新の後に九州と山口県では士族の反乱があったようだけど、明治7年(1874年)に佐賀県で佐賀の乱があって、明治9年(1876年)には、熊本県で神風連の乱があって、福岡県で秋月の乱があって、山口県で萩の乱があったらしい。西南戦争は明治10年(1877年)にあったらしい。本当か知らない。
 
 西郷隆盛の西郷氏は熊本県にいた菊池氏の系統の氏族らしく、西郷隆盛は菊池源吾という名前も使ってたらしい。西郷隆盛は西南戦争で亡くなったらしい。
 
 熊本県にいた菊池氏の人たちが岩手県奥州市の江刺に来たらしい。奥州市の隣の遠野市に菊池という名字が多いらしく、岩手県遠野市と熊本県菊池市は友好都市になってるらしい。熊本県菊池市にある菊池神社は明治時代に創建されたようだけど、菊池氏の全盛期は南北朝の頃で、菊池氏は南朝に仕えた忠臣ということになってるようだ。
 
 熊本県にいた菊池氏は戦国時代に滅亡したらしいけど、菊池氏の系統の米良氏が存続して、宮崎県児湯郡西米良村にあった小川城にいたらしいけど、明治時代になって菊池則忠という人が米良から菊池の名字を名乗ったらしく、晩年は菊池神社の宮司を務めたようだ。菊池則忠の息子が菊池武臣という人で、菊池武臣の息子が菊池武夫らしい。菊池武夫という人は貴族員の議員になって、天皇機関説を主張していた人たちを天皇に対する不敬として攻撃したようだ。天皇機関説事件というらしい。菊池氏の系統の家で、華族になったのは、おそらく、この菊池氏だけのようだ。
 
 熊本県玉名市にある広福寺という曹洞宗の寺が菊池氏と関係あるらしく、菊池氏の菩提所だったらしく、菊池氏の書状や菊池氏の位牌堂があるらしい。菊池市に聖護寺という曹洞宗の寺があるらしく、聖護寺の僧が広福寺に移ったらしい。
 
 鹿児島県にあった薩摩藩の最後の藩主は島津忠義で、次の薩摩藩の島津氏の島津忠重は島津忠義の息子で、島津忠重の時に太平洋戦争の終戦を迎えて華族制度が廃止になったようだ。
 
 島津忠義の娘の俔子は久邇宮邦彦王の妻になって、久邇宮邦彦王の娘が昭和天皇の皇后の香淳皇后らしい。今の天皇は薩摩藩の島津氏と繋がってるらしい。
 
 薩摩藩の島津氏の菩提寺は鹿児島市にあった福昌寺という曹洞宗の寺らしいけど、明治維新の後に廃寺になったらしい。薩摩藩の島津氏も本当に明治時代の前に日本にいたのか知らないけど・・・。
 
 福昌寺跡ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

宮家

2023-08-31 13:30:44 | 日記
 北朝鮮ですか・・・。
 
 明治維新の頃の臨済宗の僧で荻野独園という僧がいて、鹿児島市には南洲寺という臨済宗相国寺派の寺があるらしく、荻野独園が関わっていて、明治40年(1907年)に西郷隆盛の開基の南洲寺という寺になったようだ。荻野独園は京都にある臨済宗の寺の相国寺の僧で、廃仏毀釈の後の鹿児島県の仏教寺院の再建に尽力したようだ。詳しく知らないので、ウィキペディアで調べて書いてます。
 
 薩摩藩では明治維新の後の廃仏毀釈が凄かったらしく、薩摩藩にあった全ての寺が廃寺になり、全ての僧が還俗したらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 明治維新の頃に創設された宮家は、すべて伏見宮家の系統らしいし、伏見宮家の人が他の宮家を継いだりして、太平洋戦争の終戦後に皇籍離脱した旧皇族の人たちは、みんな伏見宮邦家親王の子孫らしい。本当か知らない。
 
 伏見宮邦家親王の息子の伏見宮貞愛親王は陸軍の軍人で、軍人としての最高位の陸軍元帥大将に就き、各種業界団体の要職を務めたようだ。伏見宮貞愛親王の息子の伏見宮博恭王は海軍の軍人で、伏見宮博恭王は昭和7年(1932年)に海軍軍令の最高位の海軍軍令部長に就き、海軍軍令部は軍令部になって軍令部総長になったようだけど、昭和16年(1941年)まで軍令部総長を務めたようだ。
 
 相国寺の塔頭の大光明寺が江戸時代の伏見宮家の菩提寺らしい。ウィキペディアで調べると、今の臨済宗相国寺派の管長の人は久留米藩の有馬氏の子孫らしい。有馬頼底という人のようだけど、九条の会の呼びかけ人の1人で、北朝鮮に何度も行ってるらしく、日本国内での北朝鮮絡みの会合にも出席してるようだ。禅の著書もたくさんあるらしい。
 
 有馬頼底という人は2009年からの3年間で、約2億円の所得の申告漏れを指摘され、修正申告したとウィキペディアに載ってる。金閣寺と銀閣寺は相国寺の境外塔頭のようだけど、相国寺と金閣寺と銀閣寺の宗教法人から受ける給与で、年間所得3000万円超という報道もあったようだ。
 
 相国寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか