東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2024-07-09 17:27:56 | 日記

昭和

2024-07-09 17:23:57 | 日記
 昭和維新ですか・・・。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは奥六郡といわれる岩手県にあった6つの郡に勢力を広げてたことになってる。金ヶ崎町に鳥海柵跡があって、安倍貞任の兄弟の安倍宗任がいたことになってる。安倍宗任は鳥海三郎というらしい。安倍頼時の息子が安倍貞任と安倍宗任で、安倍頼時は鳥海柵で亡くなったことになってる。 
 
 安倍貞任の息子の高星丸が津軽に逃げて安藤氏(安東氏)の祖になったらしいけど、安藤氏(安東氏)は戦国時代は秋田県にいたらしい。安藤氏(安東氏)は江戸時代は秋田氏を名乗っていて、福島県にあった三春藩の藩主だったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 福島県にあった三春藩の藩主は秋田氏で、三春藩の最後の藩主は秋田映季で、明治40年(1907年)に亡くなったらしい。次の秋田氏の秋田重季は大原氏から養子で入った人で、秋田重季の時に太平洋戦争の終戦を迎えて華族制度が廃止になったようだ。
 
 安東実季という人が秋田氏を名乗ったらしいけど、秋田実季は国替えで秋田県から茨城県笠間市にあった宍戸藩に移され、幕府の命で三重県伊勢市の朝熊というところで隠居生活をさせられて亡くなったらしい。秋田氏は宍戸藩から福島県の三春町に移って三春藩の藩主になったらしい。本当か知らないけど・・・。
  
 ウィキペディアを見ると、秋田氏の祖を長髄彦の兄の安日彦とする系図があるらしい。秋田実季が記した秋田家系図に載ってるらしい。
 
 神武東征の話では神武天皇の敵は長髄彦ということになっていて、長髄彦は奈良県の生駒山地のあたりにいたことになってるらしく、那賀須泥毘古や登美能那賀須泥毘古や登美毘古とも記載されてるようだ。
 
 初代天皇の神武天皇は橿原神宮がある畝傍山で即位したことになっているらしいけど、奈良県橿原市にある橿原神宮では神武天皇を祀っていて、橿原神宮は明治23年(1890年)に創建されたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 橿原神宮のHPを見ると、明治44年(1911年)から橿原神宮の宮域の拡張や施設の整備事業が始まったようだ。大正4年(1915年)から大正10年(1921年)まで国費が支出され、帝国議会でも橿原神宮の拡張整備事業が可決されたらしい。整備事業は大正15年(1926年)まで行われたようだ。
 
 昭和10年(1935年)に当時の総理大臣だった岡田啓介が会長になって紀元二千六百年祝典準備委員会が発足したらしく、紀元二千六百年祝典準備委員会は紀元二千六百年祝典評議委員会ができて廃止になり、内閣には内閣紀元二千六百年祝典事務局が設置され、昭和12年(1937年)には恩賜財団紀元二千六百年奉祝会ができたようだ。それに合わせて橿原神宮の整備が進められていったらしい。
 
 昭和15年(1940年)の年初には橿原神宮からのラジオ中継が行われ、2月11日の紀元節には橿原神宮では紀元二千六百年奉祝紀元節記念大祭が行われ、日本各地の神社でも大祭が行われ、11月10日には紀元二千六百年式典が皇居外苑で盛大に行われたらしい。この年には紀元二千六百年を記念した美術展覧会や天覧武道大会や児童唱歌大会や吹奏楽競演会なども行われ、日本各地の都市や東京や大阪の百貨店で展覧会が行われたらしい。記念切手も発売されたらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

昭和

2024-07-09 17:15:55 | 日記
 昭和11年(1936年)に2.26事件があって、2.26事件は陸軍の青年将校の人たちが中心になって引き起こしたようだ。2.26事件を引き起こした人たちは昭和維新を掲げていたらしい。2.26事件も不可解な点があるんだよなあ。
 
 2.26事件の時の総理大臣は岡田啓介で、次の総理大臣は広田弘毅で、広田弘毅が総理だった時に陸軍の粛清人事が行われ、決起した人たちの処刑が行われたらしい。次の総理は林銑十郎で、次の総理が近衛文麿らしい。第一次近衛内閣の後に平沼内閣と阿部内閣と米内内閣があって、その後に第二次近衛内閣と第三次近衛内閣があって、その後が東条内閣らしい。
 
 板垣征四郎は岩手県の岩手町の出身らしいけど、盛岡の小学校と中学校に通ったらしい。本当か知らない。板垣征四郎は陸軍の軍人で、満州事変の中心人物で、第一次近衛内閣と平沼内閣で陸軍大臣に就いたようだ。板垣征四郎は太平洋戦争の終戦後にA級戦犯になり、昭和23年(1948年)に処刑されたらしい。
 
 東条英機は東京の生まれらしいけど、東条英機の東条家は南部藩に仕えていたことになってるらしい。東条英機は第二次近衛内閣と第三次近衛内閣で陸軍大臣に就き、第三次近衛内閣の後に総理大臣になって、東条内閣では様々な大臣を兼任し、陸軍大臣も兼任したようだ。東条英機は太平洋戦争の終戦後にA級戦犯になり、昭和23年(1948年)に処刑されたらしい。
 
 閑院宮家は江戸時代の後半に途絶え、伏見宮家から閑院宮載仁親王が入って継いだことになってるらしい。閑院宮載仁親王は陸軍の軍人で、昭和6年(1931年)から昭和15年(1940年)まで参謀総長を務め、皇族軍人として陸軍の重鎮のような存在だったようだ。閑院宮載仁親王は太平洋戦争の終戦前の昭和20年(1945年)に亡くなったらしい。
 
 板垣征四郎と東条英機の間に畑俊六という人が陸軍大臣に就いていて、畑俊六は阿部内閣と米内内閣で陸軍大臣に就いたようだけど、閑院宮載仁親王は米内内閣の陸軍大臣だった畑俊六に辞表を提出するように指示して、米内内閣の崩壊の要因を作ったらしい。
 
 第一次近衛内閣の時の昭和12年(1937年)に日中戦争が始まったようだけど、第一次近衛内閣では国家総動員法が成立したようだ。第二次近衛内閣では近衛文麿は大政翼賛会の総裁になって、すべての政党が大政翼賛会に合流したようだ。第二次近衛内閣では日独伊三国同盟や日ソ中立同盟が結ばれたらしい。第三次近衛内閣の退陣前にはゾルゲ事件というスパイ摘発事件があって、ゾルゲというソ連のスパイの人や尾崎秀実という近衛文麿の側近の人も捕まったようだ。
 
 昭和10年(1935年)に当時の総理大臣だった岡田啓介が会長になって紀元二千六百年祝典準備委員会が発足したらしく、紀元二千六百年祝典準備委員会は紀元二千六百年祝典評議委員会ができて廃止になり、内閣には内閣紀元二千六百年祝典事務局が設置され、昭和12年(1937年)には恩賜財団紀元二千六百年奉祝会ができたようだ。それに合わせて橿原神宮の整備が進められていったらしい。
 
 昭和15年(1940年)の年初には橿原神宮からのラジオ中継が行われ、2月11日の紀元節には橿原神宮では紀元二千六百年奉祝紀元節記念大祭が行われ、日本各地の神社でも大祭が行われ、11月10日には紀元二千六百年式典が皇居外苑で盛大に行われたらしい。この年には紀元二千六百年を記念した美術展覧会や天覧武道大会や児童唱歌大会や吹奏楽競演会なども行われ、日本各地の都市や東京や大阪の百貨店で展覧会が行われたらしい。記念切手も発売されたらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

昭和

2024-07-09 17:13:46 | 日記
 昭和11年(1936年)に2.26事件があって、2.26事件は陸軍の青年将校の人たちが中心になって引き起こしたようだ。2.26事件を引き起こした人たちは昭和維新を掲げていたらしい。2.26事件も不可解な点があるんだよなあ。
 
 2.26事件の時の総理大臣は岡田啓介で、次の総理大臣は広田弘毅で、広田弘毅が総理だった時に陸軍の粛清人事が行われ、決起した人たちの処刑が行われたらしい。次の総理は林銑十郎で、次の総理が近衛文麿らしい。第一次近衛内閣の後に平沼内閣と阿部内閣と米内内閣があって、その後に第二次近衛内閣と第三次近衛内閣があって、その後が東条内閣らしい。
 
 米内光政は岩手県盛岡市の出身で、米内光政は海軍の軍人で、林内閣と第一次近衛内閣と平沼内閣で海軍大臣を務め、平沼内閣の次の次の総理大臣になったようだ。東条内閣の後の小磯内閣と鈴木内閣でも海軍大臣を務め、終戦後の東久邇宮内閣と幣原内閣でも海軍大臣を務め、日本の海軍の最後の海軍大臣らしい。米内光政は昭和23年(1948年)に亡くなったらしい。
 
 及川古志郎は本籍は岩手県らしいけど、新潟県の古志郡の生まれらしい。及川古志郎は岩手県内の小学校に通って、盛岡の中学に進学したようだ。及川古志郎は海軍の軍人で、第二次近衛内閣と第三次近衛内閣で海軍大臣を務め、太平洋戦争では東条内閣の後に軍令部総長に就いたようだ。及川古志郎は昭和33年(1958年)に亡くなったらしい。
 
 米内光政と及川古志郎の間に吉田善吾という人が海軍大臣に就いたらしいけど、吉田善吾は阿部内閣と米内内閣の海軍大臣で、第二次近衛内閣でも海軍大臣に就いたようだけど、強度の神経衰弱に陥り、辞任を勧められても国際情勢に与える影響を考えて辞めるにも辞められず、自殺未遂を起こして海軍大臣を辞任したらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 伏見宮博恭王は明治16年(1883年)に華頂宮家を継いだらしいけど、明治37年(1904年)に伏見宮家に復帰して、大正12年(1923年)に伏見宮家を継いだようだ。伏見宮博恭王は海軍の軍人で、伏見宮博恭王は昭和7年(1932年)に海軍軍令部長に就き、海軍軍令部は軍令部になって軍令部総長になったようだけど、昭和16年(1941年)まで軍令部総長を務めたようだ。伏見宮博恭王は皇族軍人として海軍で重鎮のような存在だったようだ。伏見宮博恭王は昭和21年(1946年)に亡くなったらしい。
 
 第一次近衛内閣の時の昭和12年(1937年)に日中戦争が始まったようだけど、第一次近衛内閣では国家総動員法が成立したようだ。第二次近衛内閣では近衛文麿は大政翼賛会の総裁になって、すべての政党が大政翼賛会に合流したようだ。第二次近衛内閣では日独伊三国同盟や日ソ中立同盟が結ばれたらしい。第三次近衛内閣の退陣前にはゾルゲ事件というスパイ摘発事件があって、ゾルゲというソ連のスパイの人や尾崎秀実という近衛文麿の側近の人も捕まったようだ。
 
 昭和10年(1935年)に当時の総理大臣だった岡田啓介が会長になって紀元二千六百年祝典準備委員会が発足したらしく、紀元二千六百年祝典準備委員会は紀元二千六百年祝典評議委員会ができて廃止になり、内閣には内閣紀元二千六百年祝典事務局が設置され、昭和12年(1937年)には恩賜財団紀元二千六百年奉祝会ができたようだ。それに合わせて橿原神宮の整備が進められていったらしい。
 
 昭和15年(1940年)の年初には橿原神宮からのラジオ中継が行われ、2月11日の紀元節には橿原神宮では紀元二千六百年奉祝紀元節記念大祭が行われ、日本各地の神社でも大祭が行われ、11月10日には紀元二千六百年式典が皇居外苑で盛大に行われたらしい。この年には紀元二千六百年を記念した美術展覧会や天覧武道大会や児童唱歌大会や吹奏楽競演会なども行われ、日本各地の都市や東京や大阪の百貨店で展覧会が行われたらしい。記念切手も発売されたらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

昭和

2024-07-09 17:05:36 | 日記
 昭和11年(1936年)に2.26事件があって、2.26事件は陸軍の青年将校の人たちが中心になって引き起こしたようだ。2.26事件を引き起こした人たちは昭和維新を掲げていたらしい。2.26事件も不可解な点があるんだよなあ。
 
 2.26事件の時の総理大臣は岡田啓介で、次の総理大臣は広田弘毅で、広田弘毅が総理だった時に陸軍の粛清人事が行われ、決起した人たちの処刑が行われたらしい。次の総理は林銑十郎で、次の総理が近衛文麿らしい。第一次近衛内閣の後に平沼内閣と阿部内閣と米内内閣があって、その後に第二次近衛内閣と第三次近衛内閣があって、その後が東条内閣らしい。
 
 板垣征四郎は岩手県の岩手町の出身らしいけど、盛岡の小学校と中学校に通ったらしい。本当か知らない。板垣征四郎は陸軍の軍人で、満州事変の中心人物で、第一次近衛内閣と平沼内閣で陸軍大臣に就いたようだ。板垣征四郎は太平洋戦争の終戦後にA級戦犯になり、昭和23年(1948年)に処刑されたらしい。
 
 東条英機は東京の生まれらしいけど、東条英機の東条家は南部藩に仕えていたことになってるらしい。東条英機は第二次近衛内閣と第三次近衛内閣で陸軍大臣に就き、第三次近衛内閣の後に総理大臣になって、東条内閣では様々な大臣を兼任し、陸軍大臣も兼任したようだ。東条英機は太平洋戦争の終戦後にA級戦犯になり、昭和23年(1948年)に処刑されたらしい。
 
 米内光政は岩手県盛岡市の出身で、米内光政は海軍の軍人で、林内閣と第一次近衛内閣と平沼内閣で海軍大臣を務め、平沼内閣の次の次の総理大臣になったようだ。東条内閣の後の小磯内閣と鈴木内閣でも海軍大臣を務め、終戦後の東久邇宮内閣と幣原内閣でも海軍大臣を務め、日本の海軍の最後の海軍大臣らしい。米内光政は昭和23年(1948年)に亡くなったらしい。
 
 及川古志郎は本籍は岩手県らしいけど、新潟県の古志郡の生まれらしい。及川古志郎は岩手県内の小学校に通って、盛岡の中学に進学したようだ。及川古志郎は海軍の軍人で、第二次近衛内閣と第三次近衛内閣で海軍大臣を務め、太平洋戦争では東条内閣の後に軍令部総長に就いたようだ。及川古志郎は昭和33年(1958年)に亡くなったらしい。
 
 第一次近衛内閣の時の昭和12年(1937年)に日中戦争が始まったようだけど、第一次近衛内閣では国家総動員法が成立したようだ。第二次近衛内閣では近衛文麿は大政翼賛会の総裁になって、すべての政党が大政翼賛会に合流したようだ。第二次近衛内閣では日独伊三国同盟や日ソ中立同盟が結ばれたらしい。第三次近衛内閣の退陣前にはゾルゲ事件というスパイ摘発事件があって、ゾルゲというソ連のスパイの人や尾崎秀実という近衛文麿の側近の人も捕まったようだ。
 
 昭和10年(1935年)に当時の総理大臣だった岡田啓介が会長になって紀元二千六百年祝典準備委員会が発足したらしく、紀元二千六百年祝典準備委員会は紀元二千六百年祝典評議委員会ができて廃止になり、内閣には内閣紀元二千六百年祝典事務局が設置され、昭和12年(1937年)には恩賜財団紀元二千六百年奉祝会ができたようだ。それに合わせて橿原神宮の整備が進められていったらしい。
 
 昭和15年(1940年)の年初には橿原神宮からのラジオ中継が行われ、2月11日の紀元節には橿原神宮では紀元二千六百年奉祝紀元節記念大祭が行われ、日本各地の神社でも大祭が行われ、11月10日には紀元二千六百年式典が皇居外苑で盛大に行われたらしい。この年には紀元二千六百年を記念した美術展覧会や天覧武道大会や児童唱歌大会や吹奏楽競演会なども行われ、日本各地の都市や東京や大阪の百貨店で展覧会が行われたらしい。記念切手も発売されたらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか