東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2023-12-31 23:32:08 | 日記

お祓い

2023-12-31 23:28:44 | 日記
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2023-12-31 23:24:04 | 日記
 岩手県北上市にある天照御祖神社も東北のお伊勢さんといってる。
 
 岩手県には沿岸のほうの気仙地方の大船渡市と陸前高田市と住田町に天照御祖神社があって、大船渡市の隣の釜石市と、釜石市の隣の大槌町にも天照御祖神社がある。インターネットで調べると、一関市の東山町にも天照御祖神社があるらしい。
 
 インターネットで調べると、北上市の天照御祖神社は寛文5年(1665年)に南部藩士の人が北上市のあたりの和賀郡の開拓を始め、延宝6年(1678年)に伊勢神宮から勧請して創建したらしい。元禄2年(1689年)に今の場所に新宮を建てたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 北上市に全明寺という曹洞宗の寺があって、山号は日月山だ。日月山全明寺。全明寺の本堂の屋根や門には徳川家の紋の三つ葉葵がある。全明寺の由緒は不明のようだけど、江戸時代の初め頃に南部藩士の人が北上市の辺りの和賀郡を開拓した時に全明寺の僧が協力して、徳川家の紋の入った袈裟をもらったらしい。本当か知らないけど・・・。全明寺は地域の普通の寺というかんじの寺で、回りに民家や田んぼもあるけど、近くに南部藩と伊達藩の藩境塚がある。
 
 江戸時代は全明寺に天照御祖神社の元宮があったらしく、祭りの時に全明寺と天照御祖神社の間を神輿が歩いたらしい。その時に全明寺の僧は徳川家の紋の入った袈裟を着たらしい。岩手県の寺の本に、そのようなことが書いてある。全明寺と天照御祖神社の間は車でも15分か20分かかるぐらい距離が離れてる気がする。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2023-12-31 23:16:06 | 日記
 東北の伊勢ですか・・・。
 
 戦国時代の福岡県には高橋氏がいて、高橋氏は高橋紹運と高橋元種の2つの家系に分かれたらしい。高橋紹運の息子の立花宗茂は柳川藩の初代藩主で、立花宗茂の兄弟の立花直次の息子の立花種次は三池藩の初代藩主らしい。高橋元種は宮崎県にあった延岡藩の初代藩主らしいけど、高橋元種は秋月氏から来た人らしい。秋月氏は戦国時代は福岡県朝倉市にいて、江戸時代は宮崎県にあった高鍋藩の藩主だったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 ウィキペディアで調べると、柳川藩の最後の藩主は立花鑑寛で、立花鑑寛は明治7年(1874年)に家督を譲って隠居して、明治42年(1909年)に亡くなったらしい。次の柳川藩の立花氏の立花寛治は立花鑑寛の息子で、明治20年(1887年)に柳川に農事試験場を設立し、明治22年(1889年)に柳川に移住して、大正4年(1915年)には農事試験場を立花農場に改称したようだ。立花鑑寛は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。次の柳川藩の立花氏の立花鑑徳は立花寛治の息子で、華族制度の廃止の時の立花氏の当主がわからないけど、立花鑑徳の娘の文子の婿養子の人が立花氏を継いだようだ。
 
 三池藩の最後の藩主は立花種恭で、明治38年(1905年)に亡くなったらしい。次の三池藩の立花氏の立花種忠は立花種恭の息子で、立花種忠の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 柳川藩の初代藩主の立花宗茂は福島県にあった棚倉藩の初代藩主らしいけど、高橋元種は棚倉藩の預かりになって、棚倉町で亡くなったらしい。棚倉町にある常隆寺という曹洞宗の寺に高橋元種の墓があるみたいだけど、詳しいことがわからない。立花宗茂は、その後に柳川藩に戻ったことになってるらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 棚倉藩は藩主の入れ替わりが激しかったらしいけど、棚倉藩には立花氏の後に丹羽氏が来て、高橋元種の子孫は丹羽氏に仕えたらしい。丹羽氏は福島県にあった二本松藩に移って、廃藩置県まで二本松藩の藩主だったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 二本松藩の最後の藩主の丹羽長裕は山形県にあった米沢藩の上杉氏から養子で入った人で、明治19年(1886年)に亡くなったようだ。次の丹羽氏の丹羽長保も上杉氏から養子で入った人で丹羽長裕の弟らしい。丹羽長保は明治35年(1902年)に亡くなったようだ。次の丹羽氏の丹羽長国は丹羽長裕の前の藩主で、戊辰戦争の時の二本松藩の藩主らしい。丹羽長国は明治37年(1904年)に亡くなったようだ。次の丹羽氏の丹羽長徳は愛媛県にあった宇和島藩の伊達氏から養子で入った人で、宇和島藩の最後の藩主の伊達宗徳の息子らしい。丹羽長徳の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 福島県郡山市にある開成山大神宮は東北のお伊勢さまといってるみたいだけど、開成山大神宮では天照大神と豊受大神と神武天皇を祀ってるらしい。郡山市の辺りは安積郡だったらしいけど、江戸時代は二本松藩だったんでしょうか?。伊勢神宮の分霊を祀りたいと神宮司庁に働きかけ、明治9年に創建されたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

東京

2023-12-31 23:11:15 | 日記
 日月ですか・・・。
 
 戦国時代の福岡県には高橋氏がいて、高橋氏は高橋紹運と高橋元種の2つの家系に分かれたらしい。高橋紹運の息子の立花宗茂は柳川藩の初代藩主で、立花宗茂の兄弟の立花直次の息子の立花種次は三池藩の初代藩主らしい。高橋元種は宮崎県にあった延岡藩の初代藩主らしいけど、高橋元種は秋月氏から来た人らしい。秋月氏は戦国時代は福岡県朝倉市にいて、江戸時代は宮崎県にあった高鍋藩の藩主だったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 宮崎県にあった延岡藩は藩主が何度か変わって、内藤氏が廃藩置県の頃の藩主だったようだ。延岡藩の内藤氏は延岡藩に来る前は福島県いわき市にあった磐城平藩にいて、いわき市にあった湯長谷藩の藩主も内藤氏だったらしい。本当か知らないけど・・・。延岡藩の内藤氏の墓所も湯長谷藩の内藤氏の墓所も、神奈川県鎌倉市にある光明寺という浄土宗の寺にあるらしい。光明寺の山号は天照山のようだ。
 
 戊辰戦争の頃の湯長谷藩の藩主は内藤政養で、湯長谷藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府と戦ったということで内藤政養は強制隠居させられ、明治44年(1911年)に亡くなったらしい。湯長谷藩の最後の藩主の内藤政憲は大炊御門家から養子で入った人らしい。内藤政憲は明治14年(1881年)に家督を譲って隠居して、大正8年(1919年)に亡くなったらしい。内藤政憲の息子の内藤政潔が継いだようだけど、それ以降、わからない。
 
 ウィキペディアで調べると、南部藩の最後の藩主は南部利恭で、明治36年(1903年)に亡くなったようだ。次の南部氏の南部利祥は南部利恭の息子で、南部利祥は陸軍の軍人で、明治38年(1905年)に日露戦争で戦死したらしい。
 
 次の南部氏の南部利淳も南部利恭の息子で、南部利祥の兄弟だそうだ。南部利淳は昭和5年(1930年)に亡くなったらしい。次の南部氏の南部利英は一条家から養子で入った人で一条実輝の息子らしい。南部利英は南部利淳の娘を妻にしたらしい。南部利英の時に太平洋戦争の終戦を迎えたようだ。
 
 一条実輝は四条家から一条家に養子で入った人で、四条隆平という人の息子らしいけど、四条隆平の兄の四条隆謌の息子として育てられたらしい。四条家は四条隆謌の四条家が本家らしい。一条実輝は明治16年(1883年)に一条家を継ぎ、大正13年(1924年)に亡くなったようだ。一条実輝は海軍の軍人で、大正9年(1920年)に明治神宮の初代宮司に就いたらしい。
 
 次の一条家の一条実孝は大炊御門家から養子で入った人らしいけど、一条実孝は明治40年(1907年)に一条家に養子に入り、大正13年(1924年)に家督を継ぎ、一条実孝の時に太平洋戦争の終戦を迎えて華族制度が廃止になったようだ。大炊御門師前という人の息子が一条実孝のようだけど、ウィキペディアを見ると、いろいろと問題があって、大炊御門家は大炊御門師前の弟の大炊御門幾麿が継いだようだ。
 
 明治神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか