東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

川西

2024-05-31 23:59:48 | 日記
 源ですか・・・。
 
 京都府福知山市にある大江山には源頼光の酒呑童子退治の伝説があるようだ。源経基の息子が多田満仲といわれる源満仲で、源頼光は源満仲の息子で、源頼光の子孫の源氏は清和源氏でも摂津源氏や多田源氏というらしい。
 
 兵庫県川西市にある多田神社のHPを見ると、源家祖廟って書いてある。多田神社では源満仲と源頼光と源頼信と源頼義と源義家を祀ってるらしい。清和源氏発祥の地ともHPに書いてある。
 
 多田神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

羽曳野

2024-05-31 23:57:14 | 日記
 源ですか・・・。
 
 岩手県の岩手町にある御堂観音堂は奥州三十三観音の札所になってる。御堂観音堂には北上川の源泉といわれる弓弭の泉があって、源義家が掘ったことになってる。平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは源頼義と源義家に討たれたことになってる。
 
 大阪府羽曳野市にある壺井八幡宮は河内源氏の発祥の地らしい。源頼義と源義家は北上川の源泉の水を壺に入れて持ち帰り、井戸を掘って壺を埋めたのが壺井の地名の由来らしい。詳しく知らないけど、壺井八幡宮のHPに、そのようなことが書いてある。
 
 壺井八幡宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

大阪

2024-05-31 23:55:54 | 日記
 大阪万博ですか・・・。
 
 ウィキペディアを見ると、大正時代の大阪市は東京市よりも人口が多くなったらしく、世界の主要都市の中でも6番目に多かったらしく、大大阪時代ともいわれてるらしい。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 神社の合祀は明治39年(1906年)の第一次西園寺内閣の時に内務大臣だった原敬の勅令で進められ、次の内閣の第二次桂内閣の内務大臣の平田東助という人が強行したようだ。
 
 床次竹二郎という人は第一次西園寺内閣の内務省地方局長に就き、内務省の神社局長だった水野錬太郎という人とともに神社の合祀を進めていったらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 大正8年(1919年)に当時の原内閣の内務大臣だった床次竹二郎を世話役に、玄洋社の頭山満を顧問に、大日本国粋会という任侠団体が結成されたらしい。大日本国粋会は土建業の人たちを含む全国的な博徒の結集団体で、全国規模の右翼団体で、皇室中心主義や大アジア主義などを信条としていたようだ。総裁には原内閣の司法大臣だった大木遠吉という人が就いて、会長には立憲政友会の幹事長だった村野常右衛門という人が就いたようだ。
 
 大正9年(1920年)には大日本国粋会の大阪本部ができて、大阪の住吉大社で結血式が行われ、住吉大社の宮司の津守国栄という人が会長に就いたらしい。副会長には代議士の人と陸軍大佐の人が就き、顧問には大阪府知事や大阪市長や警察部長や大阪医科大学の学長や弁護士の人などが就いて、1万人近く会員が集まったらしい。
 
 大阪府大阪市にある住吉大社は住吉神社の総本社で摂津国の一宮で、住吉三神と神功皇后を祀ってるらしい。住吉三神は表筒男命と中筒男命と底筒男命。住吉明神は神功皇后の三韓征伐に協力したことになってるらしい。
 
 津守国栄という人は清閑寺家から津守家に養子に入ったらしいけど、明治34年(1901年)に家督を継いで、明治36年(1903年)に住吉大社の宮司になったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 住吉大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

八木

2024-05-31 23:50:53 | 日記
 岩手ですか・・・。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは奥六郡といわれる岩手県にあった6つの郡に勢力を広げてたことになってる。安倍氏の棟梁は安倍貞任で、安倍貞任は盛岡にあった厨川柵にいて厨川次郎というらしい。
 
 京都府南丹市八木町にある船井神社では住吉三神と春日四神を祀ってるらしい。船井神社の由緒は神功皇后の三韓征伐の話に由来するらしく、神功皇后が住吉明神を祀ったことになってるようだ。船井神社には安倍貞任の腕を祀る腕守社があるらしく、安倍貞任の腕を埋めたといわれる五輪塔があるらしい。
 
 船井神社のHPを見ると、岩手県で討たれた安倍貞任の遺体は京都に運ばれ、陰陽師の進言で有頭というところに埋められたらしい。京都市右京区の下宇津というところの辺りに埋められたことになってるようだ。安倍貞任は何度も生き返り、祟ったので、バラバラにして数ヶ所に埋められたらしい。下宇津周辺には安倍貞任の遺体が埋められたといわれる場所が何ヶ所かあるらしい。安倍貞任の頭は南丹市にある久留守神社に埋められたらしい。祟りを鎮めるために安倍貞任の霊は下宇津八幡宮に祀られたらしい。
 
 安倍貞任伝説も作り話の気がするけど、本当に腕を埋めて封じ込めてる気がするんだけどなあ。本当に遺体をバラバラにして山中に埋めたんだろうか?。
 
 船井神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

久留米

2024-05-31 23:49:30 | 日記
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 福岡県にあった久留米藩の最後の藩主は有馬頼咸で、明治7年(1875年)に息子の有馬頼匡に家督を譲って隠居したらしいけど、有馬頼咸は明治14年(1881年)に亡くなったらしい。明治10年(1877年)に有馬頼匡の弟の有馬頼萬が家督を継いだようだけど、有馬頼萬は昭和2年(1927年)に亡くなったらしい。次の有馬氏の有馬頼寧は有馬頼萬の息子で、有馬頼寧の時に太平洋戦争の終戦を迎えて華族制度が廃止になったようだ。
 
 有馬頼寧は農商務省に入って農政に関わり、東京帝国大学の講師や助教授にもなって社会活動に関わっていたようだ。その後に衆議院議員選挙に立候補して当選し、衆議院議員だった時に家督を継いで貴族院の議員になったようだ。有馬頼寧は第一次近衛内閣で農林大臣に就き、近衛文麿の側近として大政翼賛会の設立に関わったようだ。その後は政界を退いてプロ野球チームのオーナーを務めたり、太平洋戦争の終戦後には日本中央競馬会の第2代理事長に就いたようだ。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは奥六郡といわれる岩手県にあった6つの郡に勢力を広げてたことになってる。金ヶ崎町に鳥海柵跡があって、安倍貞任の兄弟の安倍宗任がいたことになってる。安倍宗任は鳥海三郎というらしい。
 
 安倍宗任は前九年の役で敗れて京都に連れていかれ、伊予に流され、更に宗像の大島に流されたらしい。福岡県宗像市の大島にある安昌院という曹洞宗の寺に安倍宗任の墓があるらしい。安昌院の山号は東寧山らしい。
 
 福岡県久留米市に永福寺という真宗大谷派の寺があるようだけど、山号は光壽山のようだ。HPがある。永福寺は九州に流された安倍宗任の子孫の人が出家して開いた寺らしい。永福寺のHPを見ると、明治維新の頃に阿部という名字を阿に変えたと書いてある。高良山にあった仏像は明治時代の神仏分離の後に永福寺に移されたとも書いてある。
 
 明治維新の頃の永福寺の住職は大寧で、明治10年(1877年)に亡くなったらしい。次の永福寺の住職は大解で、大寧の長男で、自由民権運動に加わって、明治22年(1889年)に山口県で亡くなったらしい。次の永福寺の住職は現英で、大寧の次男で、現英は太平洋戦争の後の昭和24年(1949年)に亡くなったらしい。
 
 福岡県久留米市にある高良大社は筑後国の一宮で、高良玉垂命と八幡大神と住吉大神を祀っているらしい。高良大社の境外末社に味水御井神社があって、池があって水が湧いてるらしく、祠が祀られてるだけみたいだけど、高良大社は久留米市の御井町にあるらしい。
 
 高良大社のHPを見ると、高良山には蓮台院御井寺という寺があったらしく、今は久留米市の違う場所に復興されてるらしい。御井寺の山号は高良山のようだ。
 
 高良大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか