東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

山王

2023-05-31 23:59:19 | 日記
 はげます会ですか・・・。
 
 明治以降の天台座主で一番著名な僧は山田恵諦という僧のようだけど、昭和49年(1974年)から平成6年(1994年)まで20年間も天台座主を務め、「一隅を照らす運動」の総裁を務めたようだ。
 
 山田恵諦という僧の前の天台座主の菅原栄海という僧は岩手県奥州市の江刺の出身らしい。岩手県の寺の本に、そう載ってる。江刺にある勝軍寺という寺の息子らしいけど、行ってみたら、寺が無かった。勝軍寺の山号は愛宕山で、勝軍地蔵を本尊に祀ってたらしい。中尊寺の貫首をしていた千田孝信という僧は菅原栄海の親戚らしい。
 
 菅原栄海の兄の菅原英信も僧で、菅原英信は日光にある輪王寺の門主や東京にある浅草寺の住職を務めたらしい。菅原英信の息子の菅原信海も僧で、ウィキペディアを見ると、早稲田大学の名誉教授で、仏教関係の本も出してるようだ。菅原信海は大正14年(1925年)の生まれで、平成30年(2018年)に亡くなったらしい。
 
 菅原信海は神仏習合関連の本を出してたり、山王神道の研究という本も出してるみたいだけど、廃仏毀釈や神仏分離の話も嘘臭いんだよなあ。
 
 滋賀県大津市にある日吉大社は日吉神社や日枝神社や山王神社の総本社で、日吉大社では大山咋神と大己貴命を祀ってるらしい。大国主と大己貴命は違う気がするし、大国主と大物主も違う気がする。
 
 日吉大社と天台宗の総本山の延暦寺は江戸時代は神仏習合で山王権現といって一緒になってたらしいけど、日吉大社で明治維新の後に日本で最初の神仏分離をして、その時に仏像や仏具を破壊して、それが廃仏毀釈になって日本各地に広まったらしいけど、それで、山王権現は大山咋神ということになってるの?。
 
 日吉大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

千葉

2023-05-31 22:20:08 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、作られた歴史を教えられてきたんじゃないのかな?。
 
 広島県にあった福山藩の藩主は阿部氏だったらしいけど、福山藩の藩主だった阿部正弘は老中首座に就いて幕府の政治の改革を行ったらしい。安政の改革というらしい。阿部正弘が老中首座だった時の嘉永6年(1853年)に黒船が来て、嘉永7年(1854年)に日米和親条約が結ばれたらしい。阿部正弘は、その後に亡くなったようだ。福山藩の阿部氏は幕末に広島藩の浅野氏の人が継いだようだ。
 
 千葉県にあった佐倉藩の藩主だった堀田正睦は黒船が来た後に阿部正弘から老中首座を譲られたらしい。堀田正睦はアメリカ総領事のハリスと交渉して、日米修好通商条約の調印のために孝明天皇の勅許を得ようとしたみたいだけど、無理だったらしい。井伊直弼が幕府の政治の権力を握り、堀田正睦は幕府の政治から追い出されて家督を譲って隠居したらしい。
 
 安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれたみたいだけど、滋賀県にあった彦根藩の藩主だった井伊直弼は大老に就き、天皇の勅許無しで日米修好通商条約に調印し、その後に反対派を粛清したらしい。安政の大獄というらしい。井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されたらしい。
 
 明治維新の話は嘘の気がするけど、公文書まで嘘って、有り得るの?。
 
 佐倉藩の最後の藩主の堀田正倫は堀田正睦の息子のようだけど、次の佐倉藩の堀田正恒という人は佐賀県にあった蓮池藩の鍋島氏から養子で入った人のようだ。
 
 明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれ、日露戦争は明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったらしい。林董は日英同盟の調印の時の日本の代表だったようだ。林董は駐英公使だったようだけど、明治36年(1903年)にフリーメイソンに入会し、次の年には日本人初のロッジ・マスターになったようだ。ウィキペディアに、そう載ってる。林董は第一次西園寺内閣で外務大臣、第二次西園寺内閣では逓信大臣を務め、外務大臣も一時兼任したようだ。林董は千葉県にあった佐倉藩の出身ということになってるらしい。
 
 林董は蘭学者で医者の佐藤泰然という人の息子で、蘭学者で医者の林洞海という人の養子になったようだ。佐藤泰然は順天堂の開祖らしい。佐倉藩の藩主だった堀田正睦は蘭学を奨励し、順天堂を開かせたようだけど、順天堂が順天堂大学になったんでしょうか?。
 
 千葉県千葉市にある千葉神社は妙見本宮といってるようだけど、北辰妙見尊星王といって祀ってるようだ。千葉市の大半は江戸時代は佐倉藩だったらしいけど、本当に明治時代の前に妙見菩薩は日本で祀られていたのか?。
 
 千葉神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

千葉

2023-05-31 22:01:10 | 日記
 江戸時代の藩も嘘臭いんだけど、千葉市の大半は佐倉藩だったらしく、千葉市内に生実藩があって、戊辰戦争の後の短期間だけ曽我野藩があって、幕府領もあったようだ。佐倉藩の城は佐倉市にあったらしい。
 
 岩手県奥州市には佐倉河という地名の場所があって、ウィキペディアで調べると、明治22年(1889年)に佐倉河村ができて、昭和29年(1954年)に佐倉河村は合併して水沢市になって、水沢市は平成18年(2006年)に合併して奥州市になってる。たぶんですけど・・・。
 
 奥州市は江戸時代は伊達藩だったらしいけど、本当か知らない。奥州市の江刺には岩谷堂伊達氏の岩城氏がいて、幕末の頃の岩谷堂伊達氏の人は亘理伊達氏から来た人らしいけど、明治維新の後に岩城氏に戻したらしいけど、その後がわからない。
 
 岩城氏は戦国時代は福島県いわき市にいたことになっていて、秋田県由利本荘市にあった亀田藩の岩城氏と奥州市の江刺にいた岩谷堂伊達氏の岩城氏は同族ということになってるらしい。
 
 亀田藩の岩城氏の最後の藩主の岩城隆彰は滋賀県あった宮川藩の堀田氏から来た人らしい。岩城氏は戊辰戦争の後に藩主が代わったらしく、岩城隆彰の次の岩城氏の岩城隆治は、岩城隆彰の前の藩主の岩城隆邦の息子らしい。岩城隆治の次の岩城氏の岩城隆長も岩城隆邦の息子で、岩城隆治の弟らしい。その次に、また岩城隆邦が家督を継いだらしい。岩城隆邦の次の岩城隆徳は岐阜県にあった郡上藩の藩主だった青山氏から来たらしい。岩城隆徳は明治44年(1911年)に家督を継いだらしいけど、明治以降の岩城氏の系図も、どこまで本当かわからないと思いませんか?。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 堀田正養という人は滋賀県にあった宮川藩の最後の藩主で、堀田正養は亀田藩の岩城氏から養子で入ったことになってるらしく、岩城隆邦の兄弟らしい。堀田正養は第一次西園寺内閣で逓信大臣を務めたようだけど、第一次西園寺内閣では山縣伊三郎と原敬と堀田正養と逓信大臣が三回変わったようだ。逓信省は交通や通信や電気など幅広く管轄してたみたいだ。
 
 後藤新平は第二次桂内閣と第三次桂内閣で逓信大臣、寺内内閣では内務大臣と外務大臣、第二次山本内閣でも内務大臣に就いたようだ。本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平はフリーメイソンらしい。
 
 明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれ、日露戦争は明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったらしい。林董は日英同盟の調印の時の日本の代表だったようだ。林董は駐英公使だったようだけど、明治36年(1903年)にフリーメイソンに入会し、次の年には日本人初のロッジ・マスターになったようだ。ウィキペディアに、そう載ってる。林董は第一次西園寺内閣で外務大臣、第二次西園寺内閣では逓信大臣を務め、外務大臣も一時兼任したようだ。林董は千葉県にあった佐倉藩の出身ということになってるらしい。佐倉藩の藩主も堀田氏だったようだ。
 
 堀田正養の次の逓信大臣が後藤新平で、その次の逓信大臣が林董で、その次の逓信大臣も後藤新平らしい。
 
 千葉県千葉市にある千葉神社は妙見本宮といってるようだけど、北辰妙見尊星王といって祀ってるようだ。千葉市の大半は江戸時代は佐倉藩だったらしいけど、本当に明治時代の前に妙見菩薩は日本で祀られていたのか?。
 
 千葉神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

千葉

2023-05-31 21:43:13 | 日記
 今日は昼間はブログを書かなかったけど、俺がブログを書かないと不安になる人もいるんだろうか?。ブログを書こうと思うと、気が重いんだよなあ、俺は。書く前から疲れるっていうかさあ。
 
 岩手県奥州市の水沢の羽田というところは南部鉄器の工場が密集してる場所で、他のところには南部鉄器の工場は奥州市には無いはず。羽田というところは江刺のすぐ近くで、新幹線の水沢江刺駅がある。水沢市と江刺市と胆沢町と前沢町と衣川村が合併して奥州市になってる。羽田の近くで江刺に愛宕という地区があるけど、愛宕と書いて「おだき」と読む。
 
 羽田には坂上田村麻呂と戦った蝦夷の長のアテルイの拠点といわれる場所があって、田茂山という丘のような山で、出羽神社があって坂上田村麻呂の創建ということになってる。奥のほうに愛宕神社があって、古塚がある。去年の秋に行ってきたけど、明治時代に愛宕神社の社殿を新しく建てたらしい。
 
 アテルイは阿弖流為と記述されてるみたいだけど、アテルイの名前が知られるようになったのは平成になってからの気がするし、その前の坂上田村麻呂の敵の蝦夷というと大嶽丸や高丸や悪路王だった気がする。
 
 阿多古と書いて、「あたご」と読むの?。
 
 明治以降の天台座主で一番著名な僧は山田恵諦という僧のようだけど、昭和49年(1974年)から平成6年(1994年)まで20年間も天台座主を務め、「一隅を照らす運動」の総裁を務めたようだ。
 
 山田恵諦という僧の前の天台座主の菅原栄海という僧は岩手県奥州市の江刺の出身らしい。岩手県の寺の本に、そう載ってる。江刺にある勝軍寺という寺の息子らしいけど、行ってみたら、寺が無かった。勝軍寺の山号は愛宕山で、勝軍地蔵を本尊に祀ってたらしい。中尊寺の貫首をしていた千田孝信という僧は菅原栄海の親戚らしい。
 
 菅原栄海の兄の菅原英信も僧で、菅原英信は日光にある輪王寺の門主や東京にある浅草寺の住職を務めたらしい。菅原英信の息子の菅原信海も僧で、ウィキペディアを見ると、早稲田大学の名誉教授で、仏教関係の本も出してるようだ。
 
 ウィキペディアで調べると、千田という名字は岩手県南に多いらしく、特に奥州市に多いらしい。多いというほどでもないと思うけど・・・。千田と書いて「ちだ」と読みます。千田氏は千葉氏の系統の氏族らしく、千葉県の多古町の辺りにいた氏族ということになってるようだ。
 
 千葉県千葉市にある千葉神社は妙見本宮といってるようだけど、北辰妙見尊星王といって祀ってるようだ。千葉氏は妙見信仰の氏族らしいけど、本当に明治時代の前に妙見菩薩は日本で祀られていたのか?。
 
 千葉神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

千葉

2023-05-30 23:26:13 | 日記
 疲れたなあ。
 
 中国では北極星は北辰といって宇宙の中心と考えられていたようだ。中国の道教では北極星が神格化して天皇大帝になったようだ。北極紫微大帝も北極星が神格化して、北斗真君は北斗七星が神格化したようだ。北辰妙見菩薩は中国の道教に由来するらしい。ウィキペディアの妙見菩薩のところに詳しいことが載ってる。
 
 千葉県千葉市にある千葉神社は妙見本宮といってるようだけど、北辰妙見尊星王といって祀ってるようだ。
 
 千葉神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか