東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

田村

2023-11-30 23:58:22 | 日記
 はあ。怖いなあ。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは奥六郡といわれる岩手県にあった6つの郡に勢力を広げてたことになってる。奥州市の隣の金ヶ崎町に鳥海柵跡があって、安倍貞任の兄弟の安倍宗任がいたことになってる。安倍宗任は鳥海三郎というらしい。安倍頼時の息子が安倍貞任と安倍宗任で、安倍頼時は鳥海柵で亡くなったことになってる。
 
 安倍貞任の息子が津軽に逃げて安藤氏(安東氏)の祖になったらしいけど、安藤氏(安東氏)の発祥の地は藤崎町らしい。安藤氏(安東氏)は十三湊を拠点にしてたことになっていて、安藤氏(安東氏)は戦国時代は秋田県にいたらしい。安藤氏(安東氏)は江戸時代は秋田氏を名乗っていて、福島県にあった三春藩の藩主だったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 三春藩の最後の藩主は秋田映季で、次の秋田氏の秋田重季は大原氏から養子で入った人で、明治40年(1907年)に家督を継いだようだ。秋田重季の時に太平洋戦争の終戦を迎えて華族制度が廃止になったようだ。
 
 坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、坂上田村麻呂の敵の蝦夷には安倍高丸や悪事の高丸や大嶽丸という人が登場するようだ。字は違っても高丸という人が登場することが多いようだ。
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は坂上田村麻呂の子孫ということになってる。田村氏は戦国時代は福島県の三春町にいて、戦国時代の終わり頃に途絶え、伊達政宗の妻の愛姫が田村氏の出身ということになっていて、伊達家が再興したことになってる。
 
 岩手県一関市にあった田村藩の田村氏は坂上田村麻呂の子孫ということになってる。戊辰戦争の頃の田村氏の田村邦栄という人は角田石川家から来た人で、石川義光の息子らしい。戊辰戦争の後に弟の田村崇顕に家督を譲ったみたいだけど、再び家督を継いだようだ。田村崇顕という人も角田石川家から来た人で、石川義光の息子らしい。次の田村氏の田村丕顕は田村邦栄の息子で明治20年(1887年)に家督を継いだようだ。田村丕顕は海軍の軍人だったようだ。田村丕顕は明治8年(1875年)の生まれで、昭和20年(1945年)に亡くなったらしい。
 
 一関市にある祥雲寺という臨済宗の寺に田村藩の田村氏の墓所がある。山号は大慈山のようだ。坂上田村麻呂の征夷の話も嘘の気がするけど、頭を殴られてるような頭痛がする。
 
 祥雲寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

鎌倉

2023-11-30 23:55:50 | 日記
 頭を殴られてるような頭痛がしてきたなあ。
 
 奥州市の江刺に豊田館跡があって藤原経清の居館跡だそうだ。奥州藤原氏の初代の藤原清衡は藤原経清と安倍貞任の妹の息子ということになってるらしい。藤原清衡は江刺で生まれたことになってるらしい。平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは前九年の役で源頼義と源義家に討たれたことになっていて、藤原経清も安倍氏の人たちと一緒に戦って首を刎ねられたことになってる。
 
 前九年の役の後に後三年の役があって、その後に奥州藤原氏は今のほぼ東北六県を治めたことになってて、奥州藤原氏の初代が藤原清衡で、2代目が藤原基衡で、3代目が藤原秀衡で、4代目の藤原泰衡の時に源頼朝に攻められて奥州藤原氏は滅亡したことになってる。
 
 平泉町にある中尊寺は天台宗の寺で、山号は関山だ。中尊寺の金色堂には藤原泰衡の首が納められていて、ウィキペディアで調べると、藤原泰衡の首は昭和25年(1950年)に調査が行われたらしく、何ヶ所もの切傷や刺傷があって、鼻と耳が削がれていて、眉間と頭の後ろのほうに釘が打たれたような跡があるらしい。
 
 藤原泰衡の首は藤原泰衡の兄弟の藤原忠衡の首と中尊寺では言い伝えられてきたらしく、首桶が入っていた箱にも忠衡公と書いてあるらしい。藤原忠衡は平泉町にあった柳之御所にいて、和泉三郎といわれるらしい。
 
 源頼朝は鎌倉幕府を開いたことになってるけど、神奈川県鎌倉市には鶴岡八幡宮があるらしい。日本の歴史は嘘の気がするけど、カルト神道の人たちは怖いなあ。
 
 鶴岡八幡宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

八幡

2023-11-30 23:54:29 | 日記
 はあ。頭痛がしてきたなあ、また。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは奥六郡といわれる岩手県にあった6つの郡に勢力を広げてたことになってる。奥州市の隣の金ヶ崎町に鳥海柵跡があって、安倍貞任の兄弟の安倍宗任がいたことになってる。安倍宗任は鳥海三郎というらしい。安倍頼時の息子が安倍貞任と安倍宗任で、安倍頼時は鳥海柵で亡くなったことになってる。
 
 奥州市の江刺に豊田館跡があって藤原経清の居館跡だそうだ。奥州藤原氏の初代の藤原清衡は藤原経清と安倍貞任の妹の息子ということになってるらしい。藤原清衡は江刺で生まれたことになってるらしい。藤原経清は宮城県の亘理郡の辺りにいた人で、亘理権太夫といわれるらしい。豊田館跡の近くに藤原経清の墓所の五位塚がある。
 
 前九年の役の後に後三年の役があって、その後に奥州藤原氏は今のほぼ東北六県を治めたことになってて、奥州藤原氏の初代が藤原清衡で、2代目が藤原基衡で、3代目が藤原秀衡で、4代目の藤原泰衡の時に源頼朝に攻められて奥州藤原氏は滅亡したことになってる。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは前九年の役で源頼義と源義家に討たれたことになっていて、藤原経清も安倍氏の人たちと一緒に戦って首を刎ねられたことになってる。源義家は京都府八幡市にある石清水八幡宮で元服したので八幡太郎といわれるらしい。日本の歴史は嘘の気がするけど、カルト神道の人たちは怖いなあ。
 
 石清水八幡宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

チベット

2023-11-30 23:50:21 | 日記
 怖いなあ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 桂太郎には、お鯉という妾がいたらしいけど、お鯉は安藤照という女性で、東京の出身で小久江家から安藤家に入った後に芸妓になったらしく、その後に桂太郎の妾になったようだ。お鯉は昭和9年(1934年)にあった帝人事件の後に出家して妙照尼と名乗り、昭和13年(1938年)に東京にある五百羅漢寺の住職になったようだ。
 
 東京都目黒区に五百羅漢寺があって、HPがある。天恩山羅漢寺というみたいだけど、明治41年(1908年)に今の場所に移ったらしい。羅漢寺は鉄眼道光の開山らしい。河口慧海は明治23年(1890年)に羅漢寺の住職になったようだけど、明治24年(1891年)に羅漢寺の住職を辞めて僧籍返上したらしい。その後に、また僧籍を取ったようだ。河口慧海は日本人で初めてチベットに行ってきたらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。
 
 河口慧海は明治30年(1897年)に日本を出発してチベットに行って、明治36年(1903年)に帰国したらしい。帰国した次の年の明治37年(1904年)に「西蔵旅行記」を出版し、また日本を出発してチベットに行って、大正4年(1915年)に帰国したらしい。河口慧海はチベットにいって、たくさんの仏教関連のものを持ち帰ってきたらしい。河口慧海は大正10年(1921年)には僧籍返還したらしいけど、経典の翻訳や研究をしたり、仏教やチベットに関する著作を続けたようだ。
 
 多田等観という人は岩手県花巻市に疎開してたらしいけど、多田等観は浄土真宗本願寺派の法主だった大谷光瑞の援助を受けてチベットにいたようだ。多田等観はダライ・ラマ13世とも懇意にしてたらしい。浄土真宗本願寺派はチベットと交換留学もしていたようだ。
 
 ウィキペディアで調べると、ダライ・ラマは1642年にチベット政府の長になって、1959年までチベット政府の長だったようだ。チベットのラサというところにポタラ宮という宮殿があるらしい。今のダライ・ラマは14世のようだ。
 
 ポタラ宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

千葉

2023-11-30 23:49:09 | 日記
 怖いなあ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 桂太郎には、お鯉という妾がいたらしいけど、お鯉は安藤照という女性で、東京の出身で小久江家から安藤家に入った後に芸妓になったらしく、その後に桂太郎の妾になったようだ。お鯉は昭和9年(1934年)にあった帝人事件の後に出家して妙照尼と名乗り、昭和13年(1938年)に東京にある五百羅漢寺の住職になったようだ。
 
 東京都目黒区に五百羅漢寺があって、HPがある。天恩山羅漢寺というみたいだけど、明治41年(1908年)に今の場所に移ったらしい。羅漢寺は鉄眼道光の開山らしい。河口慧海は明治23年(1890年)に羅漢寺の住職になったようだけど、明治24年(1891年)に羅漢寺の住職を辞めて僧籍返上したらしい。その後に、また僧籍を取ったようだ。河口慧海は日本人で初めてチベットに行ってきたらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。
 
 ウィキペディアで調べると、江戸時代の初め頃の黄檗宗の僧で鉄眼道光という僧がいて、明から来た隠元が持ってきた大蔵経をもとにして、日本版の大蔵経を刊行したらしい。本当か知らない。鉄眼道光の大蔵経は第二次世界大戦前の日本の教科書にも載るほど著名なもののようだけど、誤字が多いらしい。
 
 明治時代にも大蔵経の編纂が行われたみたいだけど、大正13年(1924年)から昭和9年(1934年)の10年間かけて編纂された大正新脩大蔵経が仏教界や仏教研究に大きく影響を与えてるらしい。
 
 大蔵経の中に七佛八菩薩所説大陀羅尼神呪経があって、その中に「妙見」という言葉の説明があるらしい。大蔵経について詳しく知らないけど、仏教の経典などをまとめた仏教の総合書籍みたいなもんなんでしょうか?。
 
 中国では北極星は北辰といって宇宙の中心と考えられていたようだ。中国の道教では北極星が神格化して天皇大帝になったようだ。北極紫微大帝も北極星が神格化して、北斗真君は北斗七星が神格化したようだ。北辰妙見菩薩は中国の道教に由来するらしい。ウィキペディアの妙見菩薩のところに詳しいことが載ってる。
 
 千葉県千葉市にある千葉神社は妙見本宮といってるようだけど、北辰妙見尊星王といって祀ってるようだ。本当に妙見宮だったのか知らないけど、呪われた人生だったなあ、俺の人生は。
 
 千葉神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか