文化放送という局が 昔「アマチュア・フォーク・コンテスト」という企画を始めました。
別名「ハッピー・フォーク・コンテスト」
第1回は1972年 昭和47年でした。
この時の金賞(優勝)は、銀河鉄道というバンドで 後にフィリップスという音楽制作会社に所属しプロとしてデビュー
そして第3回は1974年 昭和49年の金賞は「甲斐よしひろ」率いる仮の名「甲斐バンド」でした。
銀賞は「田吾作」というバンドで、今は一人だけで活動されているようですが? も〜いいおっさんです。
さて、昭和49年といえば私が就職したての年でもあり当時の事はいい思い出でもあります。
と、いうのも・・・当時お付き合いをしていた女性が いつの間にやらこの企画の参加者募集に申し込んでいたのです。
ある日「ごめんね!勝手にこんな企画に申し込んで、でも誰かに聞いてもらいたかったから・・」と
ハガキを見せてくれました。
入社したてだったので無理に休みをもらって 当時大阪千里丘に毎日放送があり そこでオーディションがありました。
たまたま着くのが遅くなって最後に歌うことになり、緊張と共にテンポも速くなりかけ 終わってホッとしていたら
「君、もう少しゆっくり歌えないかな?」と言われ、もう一度歌う事となり結局 もう一度と言われ計3回歌うこととなり
「あの〜ちょっと風邪気味で〜」と、適当な事を言ってなんとか終了となったんです。
その後「ミキサー室へ来てください」と言われ、そこで一言「合格です!」
喜んでいいの? なんのこっちゃ?と 何か心から湧いてくるものがないまま「次は○月○日 サンケイ・ホールにおいて
近畿大会をしますので!」と言われ「何がど〜なってるんや?」とわからぬまま「はい!」と返事
でもちょっと気になる事があったので帰り際「あの〜すみません、今日のオーディションには何組ぐらいが参加されたんです?」と
聞くと・・・「300組ぐらいかな?」と軽く答えが返って来た。
そして彼女が「すごいね(^^) 何組の人たちが合格したのかね?」
私は「・・・・・・????」
月は変わってサンケイ・ホールにて近畿大会が始まった。
出演者は私を入れて7組で、私の出番は最後でした。
その時の司会者は南こうせつさんでした。
さほど緊張する事はなく演奏ができ これでいい思い出ができたな〜とホッと!
そして結果発表が始まった。 3位からの順にバンドの名前が読み上げられていく
「3位・・・・、準優勝は・・・・・」やっぱりね(^^)と思っていた時
「優勝、○○さん」と言われちょっと耳を疑った。 また今回も当たり前のように感動がそんなに湧いてこなかった。
そして南こうせつさんよりトロフィーを頂き 最後に実行委員会の人が「次は東京中野サンプラザ・ホールにて
全国大会が開催されます」とマイクに向かって言っていた。
そこでようやく実感が湧きだしてきたのだ。
控え室に戻り一緒に来れなかった彼女にその状況を説明したら「すごいね!(^^)」と喜んでくれたのを覚えています。
そして本番が始まる前日に悲劇が起こりました。
東京へは一人なので友達もと、無理にお願いしたら「仕方ないね」となんとかOKをもらい
前日は出演者全員が旅館に泊まる事となりました。
そこには今では有名な「甲斐よしひろ」氏もいました。
さてその悲劇とは・・・・友達とお風呂に入りに行き、あまりの熱さでちょっと水を入れ過ぎたのが原因か?
それは定かではないが、私だけ風邪をひいてしまい鼻水が止まらなくなったのです。
そして本番、中野サンプラザ・ホールは2回席まで2000人収容ができる大きなホールで
まさにデカイ!とちょっと飲み込まれてしまいそうな感じだった。
リハーサルが順番に始まる。さすが全国の優勝者たちばかりだ! みんな迫力があって凄い
そして私の番が回ってきた時、一番前の席には同行してきてくれた文化放送の担当者が見つめている
私はいつものようにイントロをかき鳴らしそして歌えと入ったが やはり鼻声が本来の自分の声を
邪魔してくる。 その僅か数分後担当者は席を外して行った。
自己管理が悪かったのだ。 これで終わったのだ。
そう思いつつおもいっきり歌い最後のエンディングまではしっかり終えた。
この流れの中で、自分が言った事が本当になり、また支えてくれた人をおろそかにした事が
このような結末になってしまったんだと 後になって思った。
オーディションの時、そして全国大会までに彼女と別れてしまった事
確かに自分ではトントン拍子に全国大会まで進めた・・・
でもこれは古い言い方かもしれないが 彼女はきっと「あげまん」だったと思う。
その他 この時代はフォークブームだったので各放送局でもいろんなコンテストをやっていた。
昭和46年にはチェリッシュ 47年には中島みゆき 48年にはふきのとう・・・など
現在でもバリバリ活躍されているミュージシャンがいる。
若いうちの夢 年を取ってもいい思い出でもあり 未だにアマチュアとして頑張っている
おじさんや、おばさん達もいる。
これで年を取っていっても共通の趣味を持った者同士 いつまでの楽しくエンジョイできれば
いいんじゃないですか?
夢 かなえるもの
別名「ハッピー・フォーク・コンテスト」
第1回は1972年 昭和47年でした。
この時の金賞(優勝)は、銀河鉄道というバンドで 後にフィリップスという音楽制作会社に所属しプロとしてデビュー
そして第3回は1974年 昭和49年の金賞は「甲斐よしひろ」率いる仮の名「甲斐バンド」でした。
銀賞は「田吾作」というバンドで、今は一人だけで活動されているようですが? も〜いいおっさんです。
さて、昭和49年といえば私が就職したての年でもあり当時の事はいい思い出でもあります。
と、いうのも・・・当時お付き合いをしていた女性が いつの間にやらこの企画の参加者募集に申し込んでいたのです。
ある日「ごめんね!勝手にこんな企画に申し込んで、でも誰かに聞いてもらいたかったから・・」と
ハガキを見せてくれました。
入社したてだったので無理に休みをもらって 当時大阪千里丘に毎日放送があり そこでオーディションがありました。
たまたま着くのが遅くなって最後に歌うことになり、緊張と共にテンポも速くなりかけ 終わってホッとしていたら
「君、もう少しゆっくり歌えないかな?」と言われ、もう一度歌う事となり結局 もう一度と言われ計3回歌うこととなり
「あの〜ちょっと風邪気味で〜」と、適当な事を言ってなんとか終了となったんです。
その後「ミキサー室へ来てください」と言われ、そこで一言「合格です!」
喜んでいいの? なんのこっちゃ?と 何か心から湧いてくるものがないまま「次は○月○日 サンケイ・ホールにおいて
近畿大会をしますので!」と言われ「何がど〜なってるんや?」とわからぬまま「はい!」と返事
でもちょっと気になる事があったので帰り際「あの〜すみません、今日のオーディションには何組ぐらいが参加されたんです?」と
聞くと・・・「300組ぐらいかな?」と軽く答えが返って来た。
そして彼女が「すごいね(^^) 何組の人たちが合格したのかね?」
私は「・・・・・・????」
月は変わってサンケイ・ホールにて近畿大会が始まった。
出演者は私を入れて7組で、私の出番は最後でした。
その時の司会者は南こうせつさんでした。
さほど緊張する事はなく演奏ができ これでいい思い出ができたな〜とホッと!
そして結果発表が始まった。 3位からの順にバンドの名前が読み上げられていく
「3位・・・・、準優勝は・・・・・」やっぱりね(^^)と思っていた時
「優勝、○○さん」と言われちょっと耳を疑った。 また今回も当たり前のように感動がそんなに湧いてこなかった。
そして南こうせつさんよりトロフィーを頂き 最後に実行委員会の人が「次は東京中野サンプラザ・ホールにて
全国大会が開催されます」とマイクに向かって言っていた。
そこでようやく実感が湧きだしてきたのだ。
控え室に戻り一緒に来れなかった彼女にその状況を説明したら「すごいね!(^^)」と喜んでくれたのを覚えています。
そして本番が始まる前日に悲劇が起こりました。
東京へは一人なので友達もと、無理にお願いしたら「仕方ないね」となんとかOKをもらい
前日は出演者全員が旅館に泊まる事となりました。
そこには今では有名な「甲斐よしひろ」氏もいました。
さてその悲劇とは・・・・友達とお風呂に入りに行き、あまりの熱さでちょっと水を入れ過ぎたのが原因か?
それは定かではないが、私だけ風邪をひいてしまい鼻水が止まらなくなったのです。
そして本番、中野サンプラザ・ホールは2回席まで2000人収容ができる大きなホールで
まさにデカイ!とちょっと飲み込まれてしまいそうな感じだった。
リハーサルが順番に始まる。さすが全国の優勝者たちばかりだ! みんな迫力があって凄い
そして私の番が回ってきた時、一番前の席には同行してきてくれた文化放送の担当者が見つめている
私はいつものようにイントロをかき鳴らしそして歌えと入ったが やはり鼻声が本来の自分の声を
邪魔してくる。 その僅か数分後担当者は席を外して行った。
自己管理が悪かったのだ。 これで終わったのだ。
そう思いつつおもいっきり歌い最後のエンディングまではしっかり終えた。
この流れの中で、自分が言った事が本当になり、また支えてくれた人をおろそかにした事が
このような結末になってしまったんだと 後になって思った。
オーディションの時、そして全国大会までに彼女と別れてしまった事
確かに自分ではトントン拍子に全国大会まで進めた・・・
でもこれは古い言い方かもしれないが 彼女はきっと「あげまん」だったと思う。
その他 この時代はフォークブームだったので各放送局でもいろんなコンテストをやっていた。
昭和46年にはチェリッシュ 47年には中島みゆき 48年にはふきのとう・・・など
現在でもバリバリ活躍されているミュージシャンがいる。
若いうちの夢 年を取ってもいい思い出でもあり 未だにアマチュアとして頑張っている
おじさんや、おばさん達もいる。
これで年を取っていっても共通の趣味を持った者同士 いつまでの楽しくエンジョイできれば
いいんじゃないですか?
夢 かなえるもの