貴戸理恵 (著)
内容紹介
治療でも、感情論でも、ハウツーでもなく。
空気を読むのが苦手でも、人とつながって生きていける。
不登校やひきこもりに寄り添いながら、学校や職場を支配する
「コミュニケーション至上主義」の背景を明らかにする、
生きづらさを抱えたみんなのための社会学。
内容(「BOOK」データベースより)
空気を読むのが苦手でも、人とつながって生きていける。不登校やひきこもりに寄り添いながら、学校や職場を支配する「コミュニケーション至上主義」の背景を明らかにする、生きづらさを抱えたみんなのための社会学。
著者について
[著者] 貴戸理恵(きど りえ)
1978年生まれ。関西学院大学准教授(社会学、「不登校の〈その後〉研究」)。アデレード大学アジア研究学部博士課程修了(Ph.D)。
著書に『不登校は終わらない――「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』(新曜社)、『増補 コドモであり続けるためのスキル』(「よりみちパン! セ」、イーストプレス)、『増補 不登校、選んだわけじゃないんだぜ! 』(同、常野雄次郎氏との共著)、『女子読みのススメ』(岩波ジュニア新書)、『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える』(岩波ブックレット)など。
自身が不登校を体験、小学校高学年から教師が変わりいつの間にか学校へ行き、学力が向上し自信を持って進学、就職、定年退職、現在自分史を書きながら自身の不登校は何だったのかと分析しようとしてます。そうか家庭の問題というより「コミュ障」だったのかなと考えてます。再読して書こうと思います。
本書のタイトルは「『コミュ障』の社会学」ではありますが、内容は著者のライフワークでもある「不登校のその後」です。
「学校さえ出ればなんとかなる」時代に、病気として否定的にとらえられてきた「登校拒否」は、80年代に社会問題化して個人病理ではなく社会病理であるとされ、90年代以降「不登校」としていったん寛容がもたらされます。
しかしながらその後就職氷河期など「学校を出てもどうにかなるわけではない」という若者全体が抱える社会的なリスクと重なり合って、「学校に行く行かないは個人の選択だ」という「数多あるリスクの一つ」「自己責任」へと変化していきます。その様子がまずは繰り返し語られます。
それと同時に、不登校を語ることは「生きづらさ」を語ることだ、学校に行く行かないという問題だけではなく、社会とつながりにくい、共有しにくい人たちについて考える上で不登校という切り口を活かすべきだ、とも述べます。
不登校は「病気ではない」=「そのまま社会へ何の問題も無く出て行ける」という単純な二項対立ではない、それぞれの個人にそれぞれの理由があるのです。
後半では、そのような「当事者」が話題の中心となります。「コミュニケーション能力の無さ」は「コミュニケーションを図る当事者相互に調整能力が無い」のであり、さらにそれを「当事者の自己把握の曖昧さ」に帰因します。
浦河べてるの家や「生きづらさからの当事者研究会」の事例を通して、「生きづらさの原因を発見する」のではなく、「対話を通して場に受け止められることにより自己を産出していくプロセス」を通して生きづらさが軽減していく様子が描かれます。
対話を通して社会へのつながりを得ること、対話で問題を解決するわけではなく対話自体を目的とすることの重要性は、その他の箇所でも繰り返し述べられます。社会へのつながりの困難さや不安を持ちながらも「学校へ行きたくても行けない」「働きたくても働けない」と言う人へ「学校へは行かなくてもいいよ」「働かなくてもいいよ」と言うことは必ずしも救いにならない、と言う点もその一つです。
タイトルにある「コミュ障」は多くが語られるわけではありませんが、いわゆる「コミュ力」については「空気を読んで戦略的に振る舞わなければならないが、それはあくまでも自然体で、気づけばそうなっていたという身体化された形でなされる必要がある、という矛盾」と指摘されます。
すでに備わっているものであるからこそ価値がある、作為的に振る舞いながらその作為製を忘れることでしか「コミュ力がある」とされない矛盾。これは、世の中の「コミュ障」を自認する人間にとって、まさに正鵠を射た表現であると思われます。逆に「不登校児=社会性がない」ということは明確に否定されます。
不登校は多くの場合「社会的に受け入れられない状態である」と自覚した結果、社会へのつながりを意識しすぎて不安になってしまった結果として生じるものだからです。むしろ「コミュ力のある」人間のコミュニケーション能力はコミュ力のない人間を排除してしまうほどに低いのではないかとも。
本書には何かの正解が書かれているわけではありません。しかしながら不登校児の現在置かれている状況を俯瞰し、その(当事者研究を含めた)支援を構築していくヒントになる良書です。
「コミュ障」と言いつつも、コミュ障全般を取り上げ上げるというよりはほとんど「不登校→引きこもり」に内容が偏っています。
それから、書かれた年代も長さもバラバラで、1冊の書物としての統一感がありません。
コミュ障について体系的に理解ができる本というよりも、筆者自身がこれまで書いてきた不登校についてのやや専門的な論文から軽めのエッセーまでがごちゃ混ぜになっています。
それなりに内容は興味深いですが、この本を読んでコミュ障が分かるということはありません。