ビルオーナーの夫妻が死亡、無理心中か 東京・文京区

2020年11月30日 02時59分44秒 | 事件・事故

11/29(日) 23:45配信

産経新聞
 29日午後5時40分ごろ、東京都文京区根津の10階建てビルで、82歳のオーナー夫妻が死亡しているのを警備会社の社員が発見し、110番通報した。夫が書いた遺書のようなものが見つかり、警視庁本富士署は無理心中の可能性もあるとみて経緯を調べている。

 同署によると、夫婦はメゾネットタイプの9、10階の自宅で2人暮らしをしていた。妻は9階の寝室のベッドで首にネクタイが巻かれた状態で倒れ、夫は10階の台所の床に倒れていた。

 夫妻と連絡が取れないのを心配した娘に依頼された警備会社社員が合鍵で室内に入り遺体を発見。鍵は施錠され、室内に物色された様子などはなかった。

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女性の「自死」が急増中…そのあまりにも「やりきれない」理由とは?

2020年11月30日 02時45分06秒 | 事件・事故

11/26(木) 6:31配信

現代ビジネス
39.9%増の衝撃

もはや緊急事態である。新型コロナウイルス感染者の数ではない。急増している自殺者だ。

【写真】死ぬ瞬間はこんな感じです。死ぬのはこんなに怖い

 警察庁が11月9日時点の数字として発表した2020年10月の自殺者数(速報)は、2153人と前年同月比39.9%増加した。

 新型コロナ蔓延以降、4月の17.6%減、5月の15.0%減と大幅に減っていたものが、7月の2.6%増から、増加に転じた。

 この統計は、速報値発表後に死因が特定されるなどして数字が変わるが、最新数値での前年比較では8月17.8%増、9月10.0%増と大きく増加。それが10月になって39.9%増という、少なくとも2012年1月以降、見たこともない増加率になっているのである。

 そうした中でも「女性」の自殺は、かつてない増加を示している。8月に前年同月比42.2%増を記録して世の中を驚かせたが、10月は何と82.6%増。昨年10月の1.8倍である。厚生労働省の調査では、女性の中でも40歳代の人の自殺が142人と前年同月の2.29倍に達していることが明らかになっている。

 このデータについて厚生労働省は、「新型コロナウイルスの影響が長期化する中、仕事やDV=ドメスティック・バイオレンス、育児や介護の悩みなどが深刻化していることが背景にある可能性がある。また芸能人の自殺を伝える報道の影響を受けているおそれもある」としている。

 確かに、8月、9月の増加時は、芸能人の自殺が相次いだことから、その影響を指摘する声もあった。だが、これだけ「異常値」が長引くと、そうした一過性の問題ではないと思われる。明らかに新型コロナの影響、それも経済的な影響だと考えるべきだろう。経済的に追い詰められた人たちが、将来に絶望し、自ら死を選んでいるのではないか。

「女性」「非正規」の大幅減
 総務省が発表する「労働力調査」を見ると、女性が職を失って経済的に困窮しているのではないか、と伺わせるデータがある。

 2013年1月以降、増加を続けてきた「雇用者数」の前年同月比は、今年4月以降マイナスに転じた。明らかに雇用情勢が急変したのである。以後、9月まで6カ月連続で減少し続けている。

 ところが、不思議なことに、正規雇用の従業員は増え続けているのだ。その一方で、大幅な減少となっているのが「非正規雇用」。中でも女性の非正規雇用が激減している。9月のデータだけをみても、1年前に比べて73万人、4.8%も雇用が減っている。女性パートだけ見ても26万人の減少だ。立場の弱い非正規雇用の女性が職を失っていることが、このデータからもはっきりと見てとれる。

 この傾向は4月以降続いており、非正規雇用の女性の失業が長引いている様子が浮かび上がる。パートの場合、社会保険の加入対象にならないように働いている人も少なくないため、雇い止めで失業しても、失業保険などが受け取れないケースが多いとみられる。

 パートやアルバイトが職を失った場合に、救済策として助成金を支給する仕組みも国は作ったものの、飲食店や小売店など零細事業者では手続き申請を行う知識が欠如していることもあり、なかなか支給が広がっていない。

 こうした世代では総じて預金額が少ないこともある。つまり、職を失ったことで、一気に生活困窮に追い込まれている可能性が高いのだ。

まず生活が成り立つように
 自殺者を増やさないために、相談窓口の整備などを行うことも必要だが、現状の場合、とりあえずの生活を成り立たせるための支援の仕組みが不可欠だ。

 雇用調整助成金や失業給付、生活保護などの仕組みを総動員して、生活が瓦解するのを何としても防ぐことが重要なのだ。ひとり一律10万円を給付した特別定額給付金を、本当に困窮して資金が必要な人に給付する新たな仕組みも早急に導入するべきだろう。

 収入が減少して生活に困窮する人たちに市区町村の社会福祉協議会が「緊急小口資金」を貸し付ける仕組みもある。これを使った人もすでに100万人を大きく超えている。月20万円を3カ月間にわたって貸与する制度などだが、新型コロナの影響が長期化していることで、その資金も枯渇する人たちが出始めている。手元の資金を供給する仕組みを大幅に拡充することが求められている。

 とりあえず、足元の生活資金が確保できたとしても、それだけで十分なわけではない。「将来への希望」を持ち続けられるようにしなければ、経済的な要因で自殺する人は減らない。新しい仕事を供給することや、新たな仕事に就くための職業技術の取得支援などで、先の見通しが立つようにするのも政府の重要な役割だろう。

 今回の新型コロナによる経済への打撃は、飲食店や小売店、宿泊業といった「現場」に近いところを襲っている。この点、金融危機によって銀行や輸出企業などから始まったリーマン・ショックと大きく違う。雇用調整助成金など、比較的規模の大きい企業が利用することを前提とした救済策では間に合わないことが判明している。自営業者を含めた経済的に弱い存在、社会的な弱者が真っ先に打撃を受けているわけだ。

 新型コロナの感染者が再び増加する「第3波」が現実となり、東京都などは再び営業自粛要請を行うことを決めた。それによって再び、飲食店の女性パートなどが仕事を失うことも予想される。弱者を生活困窮に追い詰めないための、新たな救済策を早急に打たなければ、さらに自殺者が増えることになりかねない。

磯山 友幸(経済ジャーナリスト)

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コロナ禍で強まる中国一人勝ち 経済規模、2025年には米国の9割 ビジネス解読

2020年11月30日 02時41分30秒 | 事件・事故

11/29(日) 20:30配信

産経新聞
 新型コロナウイルスの感染拡大が世界経済を減速させる中、中国の一人勝ちの様相が強まっている。国際通貨基金(IMF)の見通しによると、2020年の中国の実質国内総生産(GDP)は前年比1・9%増で、主要国・地域の中で唯一のプラス成長。

25年には中国の経済規模が米国の9割に達するとみられ、企業活動の観点では中国市場の存在感は無視できなくなる一方だ。ただし独自の強国路線をとる中国への依存は経済活動の不安定化につながりかねず、米国を中心とした各国経済の立て直しが不可欠だ。

 「中国のプラス成長への復帰は予想よりも力強く、7~9月期はさらに加速する兆しがある」

 IMFのギータ・ゴピナート調査局長は10月発表の世界経済見通しで、中国経済のコロナ禍からの復活を高く評価した。

 IMFの見通しによると、世界経済の20年の実質成長率はマイナス4・4%。世界最大の経済規模を誇る米国がマイナス4・3%に沈むほか、欧州連合(EU)もマイナス7・6%に落ち込む。感染拡大が比較的緩やかな日本もマイナス5・3%と振るわない。

 一方の中国は20年にプラス成長を維持した後、21年も8・2%という高い成長率をたたき出すとみられている。コロナ禍拡大の中心地として世界で最初に経済活動への悪影響を受けたものの、4月初旬には正常化に動き出し、その後も輸出の好調さが続いていることが安定的な経済成長につながっているからだ。

 中国一人勝ちの帰結は、世界経済における中国経済の存在感のさらなる拡大だ。IMFのデータによると、20年の中国の名目GDPが世界全体に占める割合は17・7%となる見通し。それが5年後の25年には20・3%にまで拡大する。このときの中国の名目GDP規模は米国の89・3%という大きさに達する。

 人民日報(電子版)によると、北京大学新構造主義経済学研究院の林毅夫院長(元世界銀行チーフエコノミスト)は10月のイベントで、「中国のGDPは30年まで毎年8%成長する潜在力がある」と述べた。香港の英字紙サウスチャイナ・モーニング・ポスト(電子版)によると、林氏は8月、中国の経済規模が30年までに米国を抜いて世界最大になると予測したという。

 こうした中、米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は今月6日、自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)や飲料大手コカ・コーラなど、多くの米国企業が中国市場への依存を高めていると報じた。

 中国にとって世界が中国経済への依存を強めることには戦略的な意味がある。習近平国家主席は今月上旬、上海で開かれた大型見本市「中国国際輸入博覧会」の開幕前のビデオ演説で、「(中国は)世界で最も潜在力がある大きな市場だ」と誇った。

 しかし中国経済は知的財産権保護の不十分さや、企業活動への不透明な介入など、企業にとっての問題を多く抱えている。中国経済への過度な依存は企業活動のリスクだ。

 米大統領選では民主党のバイデン前副大統領が勝利を確実にしたが、今後もトランプ政権下と同様の対中強硬姿勢は続くとの見方が多い。米国による中国通信機器大手の華為技術(ファーウェイ)への禁輸措置が続けば、華為に半導体などを輸出する企業にとっては逆風となる。

 また、中国経済への依存が行き過ぎれば、企業が中国政府の意向に逆らえなくなるおそれもある。

 中国による香港への統制強化を目的とした香港国家安全維持法(国安法)をめぐっては、今年6月、傘下に香港上海銀行を持つ英金融大手HSBCホールディングスの幹部が施行前の国安法案への支持を表明したと報じられ、国際的な批判を浴びた。HSBCには香港政府から支持表明を迫る圧力があったという。

 中国経済の成長を象徴する電子商取引最大手のアリババ集団でさえ、中国政府からの圧力と無縁ではないようだ。アリババ傘下の電子決済サービス企業の上場計画が突如延期された背景には、アリババ創業者の馬雲(ジャック・マー)氏が金融当局を批判したことがあったとされる。

 中国依存リスクの排除のためには、米国が再び世界経済の牽引役としての役割を果たすことが重要だ。日本や欧州も米国と経済面で共同歩調をとりながら、成長を取り戻すための政策を打ち出していくことの重要性が高まっている。(経済本部 小雲規生)

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藤本事件=菊池事件

2020年11月30日 02時32分47秒 | 事件・事故
藤本事件(ふじもとじけん)とは1951年(昭和26年)に熊本県菊池郡で発生した爆破事件および殺人事件である。地名を取って菊池事件と呼称する場合もある。
被告人はハンセン病患者であり、差別に基づく冤罪であったとの主張がある。
 
目次
1 事件の概要
1.1 第一の事件
1.2 第二の事件
2 支援団体
3 捜査および裁判に対する疑問
3.1 捜査段階
3.2 裁判
4 ハンセン病隔離法廷 違憲
5 題材にした作品
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
事件の概要[編集]
第一の事件[編集]
熊本県菊池郡水源村(現在の菊池市の一部)の村役場衛生課職員(当時50歳)の自宅にダイナマイトが投げ込まれたのは1951年8月1日のことであった。ダイナマイト自体は完全には爆発しなかった。衛生課職員とその子供が軽傷を負った。
警察は、同村の住民・藤本松夫(当時29歳)を容疑者と断定した。藤本はハンセン病に罹患しているとしてハンセン病施設国立療養所菊池恵楓園への入所を勧告されていた。この入所勧告を被害者職員の通報によるものと逆恨みしての犯行とされた。藤本はこのダイナマイト事件で逮捕された後、恵楓園内の熊本刑務所代用留置所(外監房)に勾留[1]され、裁判は熊本地裁菊池恵楓園出張法廷で行われた[1]。裁判ではダイナマイトの入手先が解明されなかった。藤本に対して1952年6月9日に熊本地裁は、殺人未遂と火薬類取締法違反で懲役10年の有罪判決を宣告した。藤本は控訴・上告したが、1953年9月15日に最高裁で上告が棄却され、有罪が確定した。
第二の事件[編集]
藤本はダイナマイト事件一審判決直後の1952年6月16日に恵楓園内の菊池拘置所から脱獄した。ところが、3週間後の7月7日午前7時ごろ、村の山道でダイナマイト事件の被害者職員が全身20数箇所を刺され惨殺されているのが登校中の小学生に発見された。
その6日後、山狩りをしていた警官や村人らによって発見された藤本は、誰何されて崖の上の小屋から飛び降り、畑を通って逃げようとした際に拳銃で4発撃たれ、右前腕に貫通射創を受けて逮捕された。
藤本は逃走罪及び殺人罪で追起訴され、公判は熊本地裁菊池恵楓園出張法廷で行われた。検察はこの犯行を「執拗に殺害を計画し、一回目は失敗し、二回目に達しており、復讐に燃えた計画的犯行」であるとした。
1953年8月29日に熊本地裁は藤本に死刑を宣告した。藤本は控訴・上告したが、1957年8月23日に最高裁が上告を棄却し死刑が確定した。
懲役刑および死刑の確定後も藤本は通常の刑務所や拘置所に移送されることなく、恵楓園内の菊池医療刑務支所に収容されたまま3度の再審請求を行った。
いずれも棄却された。1962年9月14日午前中、藤本は福岡拘置所へ移送となり、同日午後1時ごろ死刑が執行された。3度目の再審請求が棄却となった翌日のことであった。
支援団体[編集]
全国ハンセン氏病患者協議会は、岩波書店の雑誌課長らを中心に結成された「藤本松夫さんを死刑から救う会」とともに早くから藤本を支援していた。1960年には支持者は政党人、作家、文化人、宗教家ら1000名に達し、公正裁判を求める署名は50000筆を超えた。
「救う会」には日本共産党の野坂参三や、後に首相になった中曽根康弘なども名を連ねた。
捜査および裁判に対する疑問[編集]
全国ハンセン氏病患者協議会によれば、捜査および裁判では次のような疑問点が指摘されている。
捜査段階[編集]
(爆破事件について)爆破に使われた導火線や布片が被告人の家から発見されたとする。だが、当時は衣料切符による配給制度がとられていたため、同じ生地はどの家にもあった。
取調べは、銃弾が貫通した腕の痛みを無視して行われた。
タオル1本からA型の血液が検出された。藤本も被害者もA型である。
凶器とされた短刀が、現場付近からではなく歩いて10分も離れた農具小屋から発見された。
当時の技術では短刀から血痕が検出されなかった。それは農具小屋の傍らの池で被告人が洗ったためだとされた。
最初の調書では凶器は鎌とされていた。しかし、検死の結果、短刀に切り替えられた。
藤本の逃走中に、藤本に罪を着せれば逃げられると考えて窃盗事件を起こした者がいた。衛生課職員は村では恨まれていたので動機のある者は他にもいる。
裁判[編集]
第一の事件と同様、第二の事件も、最高裁判所の決定に基づき、審理は裁判所ではなく療養所内に設置された特設法廷で行われた。
そのうえ裁判官、検察官、弁護人らは感染を恐れ、白い予防服とゴム長靴を着用し、ゴム手袋をはめた手で証拠物を扱い、調書をめくるのには火箸を使っていたという。
なお国の委託を受けた日弁連法務研究財団[5]は、2005年3月、調査報告書で「手続的保障が十分に尽くされ(ていた事件かという)視野に立った場合、藤本事件は、到底、憲法的な要求を満たした裁判であったとはいえないだろう」と指摘した[3]。
ハンセン病隔離法廷 違憲[編集]
2020年2月26日熊本地裁は「特別法廷での審理は人格権を侵害し、患者であることを理由とした不合理な差別で、憲法に違反する」との判断を示した。
当時のハンセン病に関する科学的知見に照らしても合理性がなく、裁判所法69条2項(必要と認めるときは、前項の規定にかかわらず、他の場所で法廷を開き、又はその指定する他の場所で下級裁判所に法廷を開かせることができる。)にも違反し、人格権を保障した日本国憲法第13条に違反し、法の下に平等を定めた日本国憲法第14条1項にも違反する。
日本国憲法第37条1項と日本国憲法第82条1項が定める裁判公開の原則にも違反する疑いがある。
2020年3月11日の控訴期限前に原告の元患者らが、控訴しない方針を固めことが分かった。請求棄却の主文に対し国は控訴できないため、違憲判断が確定する。
題材にした作品[編集]
この事件に取材して、冬敏之が『藤本事件』という小説を書いている。(『民主文学』掲載)
この事件を基にして、中山節夫が『新・あつい壁』という映画をつくっている。
この事件をモデルにして、木々高太郎が「熊笹にかくれて」という小説を書いている。(桃源社)
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ハンセン病患者とされた男性が死刑に「菊池事件」の講演会 高松市

2020年11月30日 01時59分10秒 | 野球

11/29(日) 18:24配信

KSB瀬戸内海放送

「菊池事件」の講演会

 ハンセン病患者とされた男性が殺人事件の被告として死刑となった、いわゆる「菊池事件」についての講演会が、高松市で開かれました。

 講演会には、約30人が集まりました。

 「菊池事件」とは、ハンセン病患者とされた熊本県の男性が1952年に起きた殺人事件で逮捕・起訴され、隔離施設に設けられた「特別法廷」で無実を訴えながらも死刑となったものです。

 男性が無実であること、また、事実上非公開の「特別法廷」での訴訟手続きは憲法違反だとして現在も再審請求の手続きがなされています。

 29日は、弁護団員の一人である大槻倫子弁護士が講演を行いました。

 (菊池事件再審請求弁護団 大槻倫子弁護士)

 その後、菊池事件をテーマにした映画も上映されました。

最終更新:11/29(日) 18:24
KSB瀬戸内海放送

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菊池事件とは?

菊池事件とは、わが国がハンセン病患者に対して、「絶対隔離・絶滅政策」と呼ばれる過酷な政策を推進し、その効率的な遂行のために官民一体となった患者あぶり出しのための「無らい県運動」を全国的に展開していた中で、熊本県の強い要請を受け、ハンセン病患者の現況調査を行ない、これを通報した熊本県S村(当時)役場の元職員が殺害されたという事件です。

この通報の対象とされたFさんが、通報を逆恨みして起こした事件だと疑われ、逮捕・起訴されたのですが、取り調べも、それに引き続く裁判も、予断と偏見に満ち、本来被告人が持つ裁判上の権利も認められないまま、ずさんな裁判が行われ、死刑判決がくだされました。

 非公開で開かれた特別法廷は、「消毒液のにおいがたちこめ、被告人以外は白い予防着を着用し、ゴム長靴を履き、裁判官や検察官は、手にゴム手袋をはめ、証拠物を扱い、調書をめくるのに火箸を用いた」と言われています。

 1962年9月14日、死刑が執行されました。

事件の概要

一 第一次事件(ダイナマイト事件)の発生とその経過
 
1 事件の発生

1951年8月1日午前2時頃、ダイナマイト事件(以下「第一次事件」という)が発生した。

 竹竿にダイナマイトがくくりつけられたものが、H氏(当時49才)方に投げ込まれ、H氏とその次男(当時4才)が負傷した。

 同年8月3日、第一次事件の被疑者としてF氏が、殺人未遂、火薬類取締法違反の疑いで逮捕された。しかし、F氏はダイナマイトを扱った経験もなかったし、ダイナマイトについての知識も持ち合わせてはいなかった。

2 第一次事件の発生とその経過

同年8月20日、F氏は熊本地方裁判所に起訴された。

 第一次事件は、同年10月19日の第1回公判を皮切りに、3回の公判を経て、1952年6月9日、懲役10年の有罪判決がなされた。これらの公判はすべてハンセン病の国立療養所である菊池恵楓園の中で行われ、一度も裁判所での公開の裁判が開かれることはなかった。

 F氏は直ちに控訴したが、同年12月8日、控訴が棄却され、翌1953年9月には上告も棄却され、懲役10年の判決が確定した。

二 逃走

第一次事件の控訴審係属中の1952年6月16日、F氏は、当時収容されていた国立療養所菊池恵楓園内にあった熊本刑務所代用拘置所から逃走し、逃走罪で指名手配された。

三 第二次事件(殺人事件)の発生と捜査の経過

1 事件の発生

同年7月7日午前7時頃、熊本県S村の山道で、H氏が全身20数ヶ所に切創、刺創を負って死亡した状態で発見された。以下、この事件を第二次事件という。

2 捜査の経過

同年7月7日午前10時30分、N医師によりH氏の死体検案がなされ、同日付死体検案書が作成された。同検案書によると、「死因は頚部刺創により大血管の損傷による大出血、並肺損傷による出血並呼吸困難によるもの」とされ、また、死亡は同月6日午後9時と推定された。凶器については同医師が「草刈鎌と思われる」と伝えた旨の記載が残されている。

 同月8日午後3時5分より、S熊本大学教授により、H氏方物置において、死体解剖がなされた。同教授の同年10月7日付鑑定書には、この時、同教授が立会の警察官に、凶器は鎌ではなく刺身包丁ではないかと思う旨述べたとの記載がある。

 同日、F氏の叔父であるI氏が、自宅に古い小型の刀を持っていたということで、銃砲刀剣類所持等取締法違反で逮捕された。なお、同違反事件は後日山鹿簡易裁判所で罰金3000円の判決となった。

 同月9日付捜索報告書には、犯行現場から徒歩10分の農小屋から刃渡り7寸の刺身包丁を発見したとの記載がある。但し、この報告書は後日に明らかにされたものであり、その信ぴょう性については問題が残されている。

 同月10日、F氏に対する逮捕状請求がなされ、逮捕状が発布された。この時点でF氏と事件とをつなぐ物証は何もなかった。

 F氏の叔父I氏と大叔母M氏は、同月11日、刑事訴訟法227条(証拠保全手続)による証人尋問を受けた。I氏はまだ別件で勾留されたままの状態だった。事件とF氏をむすびつける証拠はこの2人の供述しかなく、事前に証拠保全することで後にこの2人が供述を変更すれば偽証罪を問われることになるという枠をはめたのである。この調書は後に弁護人により同意証拠とされたために、F氏には反対尋問の機会も与えられなかった。

 同月12日午前11時、F氏は自宅のある集落の近くの小屋にいるところを発見され、単純逃走、殺人の疑いで逮捕された。逮捕の際、F氏が小屋を出て逃走しようとしていたのに対し、逮捕にあたった警察官は拳銃を発砲し、F氏は右腕に複雑骨折と大量の出血を伴う傷害を負った。

 逮捕直後に作成されたF氏の弁解録取書には、「草切り『ガマ』で突き刺して殺した」との記載があり、また同月13日付供述調書にも犯行を認める記載があるが、その後は公判に至るまで一貫して犯行を否認している。なお、弁解録取書及び7月13日の供述調書は、F氏が銃で打たれた傷の痛みに耐えている中で作成されており、指印はF氏のものだが、署名はF氏の自筆ではなく、F氏には自白した記憶はない。

四 裁判の経過

1 起訴

同年8月2日、F氏は菊池恵楓園の拘置所から逃走したとして、単純逃走罪で起訴された。なお、単純逃走罪については同年10月30日に第1回公判が行われた。

 同年10月9日、最高裁判所は、本件を裁判所法69条2項に基づき、国立療養所内で裁判することを承認する旨の決定をした。以後、この事件の裁判は、前半は菊池恵楓園内で、後半には1953年に菊池恵楓園の隣接地に設置された菊池医療刑務所の特別法廷において開かれ、一度も裁判所の公開された法廷で開かれることはなかった。

 同年11月22日、H氏に対する殺人罪で追起訴がなされた。

 公訴事実は次のとおりである。

「被告人は、かねてからHに対して、怨恨を抱いていた処、昭和二十七年七月六日午後八時三十分頃、S村大字○○字○○の山道に於て、前記Hに出逢うや、同人を殺害して恨を晴らそうと決意し、所携の短刀を以て、同人の胸部及び背部等を数回突き刺し因って即時同所に於て同人を出血のため死亡するに至らしめて殺害したものである。」

2 公判

同年12月5日、第2回公判が開かれ、ここで裁判が合議法廷に変更され、単純逃走被告事件と殺人被告事件の併合決定がなされた。従って、第2回公判が殺人事件についての最初の公判となった。

 第2回公判の罪状認否において、F氏は「逃走の点は間違いありませんが、しかし殺人の点はそういうことはした覚えはありません」と殺人については否認したが、国選の弁護人は「現段階では別段述べることはない」と述べ、その後の検察官からの証拠調請求についてはすべての証拠について同意した。

 以降の経過は以下のとおりである。

 1953年1月16日   第3回公判
 同   年2月25日   第4回公判
 同   年4月3日    実地検証及び証人尋問
              (被告人・弁護人の立会はなかった)
 同   年7月27日   第5回公判(弁論、論告)
 同   年8月29日   判決(死刑)

3 判決

判決は、菊池恵楓園へ収容通知を受けたF氏については、「被告人としては権威ある科学的診断により癩疾患者と断定せられた上は素直にこれに応じ、・・・医師の適切な治療に身を任せ、その間の精神的、肉体的の苦痛に堪え、健康恢復による幸福の一日も早く来らんことに希望を持ち、一意療養に専念することこそ被告人に残された唯一の更生の途であるに拘わらず、被告人はこのことに寸毫の反省を傾けることなく、却って被告人の生来の偏屈と執念深さの徹底するところ、ただ一途に、自己、母、妹、親類、縁者の将来に救うべからざる暗影を投げかけたのは、あくまでHの仕業なりと思いつめ」H氏に対する殺害を決意したと判示した。

 そして判決は、被告人は、6月16日に勾留されていた菊池恵楓園内の拘置所を逃走し、18日朝S村に着き、身を隠しながら、遂に同年7月6日午後8時30分頃、「山道で開拓団の会議に急ぐHに遭うや、やにわに所携の短刀を以て同人の頚部その他を突刺し或は切付け、因って・・・右頚部に負わせた刺創に基づく失血により同人を死に至らしめ、以て殺害の目的を遂げた」と認定した。

 国の政策に背き、その政策遂行にかかわった元村役場職員を逆恨みして犯行に及んだことが、F氏の死刑の理由とされたのである。

4 上訴審

F氏は同年9月2日福岡高等裁判所に控訴した。控訴審も公開の法廷で行われることはなく、すべて菊池医療刑務所内の特別法廷において行われた。

 その後の上訴の経緯は以下のとおりである。

 1954年1月28日   第1回控訴審
 同   年3月10日   第2回控訴審
 同   年4月9日    第3回控訴審
 同   年5月7日    第4回控訴審
 同   年6月4日    実地検証(逮捕現場)
 同   年10月15日  第5回控訴審(弁論)
 同   年12月13日  福岡高等裁判所判決(控訴棄却)
 同   年12月27日  上告
 1956年4月13日   第1回最高裁口頭弁論
 1957年3月22日   第2回最高裁口頭弁論
 同   年8月23日   最高裁判所判決(上告棄却)
 同   年9月2日    判決訂正申立
 同   年9月25日   判決訂正申立棄却

五 再審請求の経過

1 第1次再審請求

1957年10月2日、第1次再審請求がなされたが、1959年に棄却された。即時抗告を申し立てたがそれも棄却された。
2 第2次再審請求

1960年12月20日、第2次再審請求がなされたが、翌1961年3月24日棄却された。

 同年4月、即時抗告したが、同年6月20日棄却され、同年7月12日特別抗告したが、同年10月4日棄却された。

3 第3次再審請求

1962年4月 日、第3次再審請求がなされたが、同年9月13日棄却された。
六 刑の執行

F氏は、第3次再審請求が棄却された翌日である9月14日、死刑執行された。法務大臣の死刑執行指揮書への押印は、第3次再審請求棄却前の同月11日にすでになされていた。

 「法律家の責任、司法界の責任として絶対に再審開始を勝ち取らなければいけない」

 

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イチローの目さすが…阪神に3拍子揃う選手出るか?

2020年11月30日 01時59分10秒 | 野球

2020年11月6日6時1分

阪神対ヤクルト 4回裏阪神2死二塁、大山は左前適時打を放ち、一塁で村上(右)と話す(撮影・岩下翔太)
<阪神8-7ヤクルト>◇5日◇甲子園

阪神の逆転勝ちだったが、ヤクルト村上宗隆の「1イニング3盗塁」には驚かされた。重盗交じりとはいえ、安打で出てすべての塁を盗むなど、盗塁王を狙うような選手でもなかなかできない。それを本塁打打者の村上が決めるとは。この日までに8盗塁していたので足にも結構、自信あるのかも。

順調に成長する村上は17年のドラフト1位だ。阪神では同じ左打ちの野手で、11年のドラフト1位だった伊藤隼太が先日、戦力外通告を受けた。穏やかな好青年だが残念な結果になった。その伊藤隼に関して、思い出すことがある。

彼がルーキーだった12年の2月。神戸で自主トレ中だったイチローと雑談した。伊藤隼は背番号「51」で愛知県出身。イチローと同じだ。それもあって伊藤隼の話を向けたら「テレビで見ましたよ」という。宜野座キャンプでの日本ハム戦だった。感想を聞いた答えはこんな感じだった。

「そりゃ、もうね。彼のタイプなら、打って走って守ってというか。全部やらないとなかなか大変でしょうね」。走攻守3拍子そろわないと活躍するのは厳しいという見立てだった。

我々メディアやファンは当時、伊藤隼がどれだけ打てるかということばかり気にしていた。イチローの視点はさすがで、確かに彼のサイズ感なら打撃はもちろん走力、守備面も重要になってくるのは当然だった。

そんなことを思い出しながら走りまくる村上を見て、ふと思い至ったのは「では阪神では誰が3拍子そろっているのか」ということだ。じっと考えたが正直「この選手」と言える存在は見当たらないという答えしか出なかった。

今季限りで構想外となった福留孝介などは若い頃、その手本のような選手だったが、現在、一番近いのは大山悠輔か。打撃は伸びたし、三塁守備もうまい。足に関しては長距離砲なので盗塁を狙う必要はないのだが、俊足というイメージはあまりないかもしれない。

もちろん、そんな選手がゴロゴロしているわけではない。坂本勇人、鈴木誠也らすぐに名前が出るのは他球団でも多くはない。

来季以降はどうか。ドラフト1位で近大から入団してくる佐藤輝明はその触れ込みのようだ。楽しみだがプロは簡単ではないと思うし、期待し過ぎもよくない。それでもそんな存在が出てくるかどうかは阪神がさらに魅力あるチームになるための大きな課題だ。(敬称略)【高原寿夫】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「虎だ虎だ虎になれ!」)

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「八王子スーパー強盗殺人」3人銃殺の深い謎

2020年11月30日 01時37分35秒 | 事件・事故

22年前の未解決事件、残虐な犯行が明らかに 東洋経済

フジテレビ報道局「激動!世紀の大事件」取材班 

「この骨壺を抱いて、『今年中に犯人を捕まえる』と誓って下さい」

1995年7月、東京・八王子市のスーパー「ナンペイ」の事務所の中で、女子高生2人を含むアルバイト従業員の女性3人が何者かに射殺された事件は今年で発生から22年が経った。

フジテレビの取材に答えたこの事件の専従捜査員は、無残に命を奪われた被害者の遺族から冒頭の切なる思いを告げられたという。女子高生2人とアルバイト従業員の女性は事件に巻き込まれていなければ、多くのすばらしい人生の瞬間と巡り会うことができたはず。そして愛する人を失った被害者の家族、友人の人生にとっても、大きな悲しみの上に、どれだけの喪失感や虚無感をもたらしたか計り知れない。

日本の安全神話が崩れた年に起きた事件

事件が発生した1995年は地下鉄サリン事件などオウム真理教による事件が次々と発生し、警視庁は全庁を挙げてオウム事件捜査にあたっている最中だった。駅のゴミ箱は次々に撤去され、ひと駅ごとに警察官が毎日警戒にあたっていたが、新宿駅のトイレでは毒ガスが発見されたり、オウム真理教がヘリで毒ガスを散布するXデーが報じられたり(実際Xデー当日に休みになる学校も出たほど)国民はまさに恐怖におびえる日々を送っていた。

住宅地のスーパーで起きた凄惨な事件に日本中が騒然となった(写真はフジテレビ提供)
地下鉄サリン事件、警察庁長官銃撃事件など未曾有の事件が日本中の耳目を集め、日本の安全神話が音を立てて崩れていくような喧騒の中にあったあの年の真夏の夜、スーパー「ナンペイ」殺人事件は起きた。その衝撃はすぐに日本中を震撼させた。

事件から22年にわたり、これまでフジテレビ取材班は多くの捜査員や事件関係者に実際に会い、話を聞いてきた。

取材を重ねてきたものの、まずこの事件がなぜ発生したのか推理することが非常に難しかった。現場は住宅街の真ん中にある小さなスーパーで、トラブルを起こせば隣家にすぐに気づかれてしまうような立地、しかも発生時には夏祭りが開催されており夜間とはいえ、普段より人通りが多かったのだ。犯行は売上金を狙った強盗目的なのか、それとも恨みによる犯行なのか――。

強盗であればなぜ金庫に入っていた多額の現金を奪わなかったのか、大勢で押し入れば金庫ごと運び出すことも不可能ではなかったはずだ。一方、誰かに恨みを持った犯人であればなぜ無抵抗の女性3人全員をまとめて殺害したのだろうか。捕まれば死刑の可能性もある事件なのに、犯人はなぜごく短時間のうちにそれを実行し、逃げることができたのか。

至近距離から撃った?

警視庁はこれまで、強盗、怨恨の両方の線で見えてきたさまざまな糸を手繰ってきた。強盗目的の犯行を疑う線としては、事件当時、都内を中心に拳銃を使って現金輸送車を襲う強盗事件が多発していて、この犯行グループが拳銃を躊躇なく人に向け発射していることから徹底的に捜査が行われていた。

当時の事件現場の様子。同事件の捜査資料を初公開する「報道スクープSP激動!世紀の大事件V」(フジテレビ系)は12月27日(水)よる9時から放送です(写真はフジテレビ提供)
中国人強盗グループによる犯行説も浮上し、中国の大連市に捜査員を派遣したこともあったほどだった。その捜査で事件について事情を知っているとして浮上したカナダ在住の中国人を日本に移送して、取り調べも行われたが、いずれも実を結ぶことはなかった。

フジテレビ系で12月27日(水)よる9時から放送される「報道スクープSP激動!世紀の大事件V」は、事件の捜査資料を初めて公開する。そこから判明したのは事件の“残虐性”である。

当時、事務机の上に金庫の開け方を書いたメモが貼ってあり、当日の売上金がしまわれていた金庫の開け方について、被害者3人のうちの誰かは知っていた可能性は十分にある。

被害者のどこに銃弾が撃ち込まれたのか――同事件の捜査資料を初公開する「報道スクープSP激動!世紀の大事件V」(フジテレビ系)は12月27日(水)よる9時から放送です(写真はフジテレビ提供)
ただ、現場となった事務所の中で犯人は物理的に大きな動きを見せなかった。事務所内のものはほぼ手つかずといっていい状況で、ごく短時間のうちに犯行に及び、犯行後すぐさま逃走したとみられることが改めて明らかになった。

何らかの理由で金庫内の現金はあきらめたにせよ、これだけの犯行に及んでおきながら何も盗らずに逃走するというのはつじつまが合わない。強盗犯による偶発的な犯行だったかもしれないが、はたしてそれだけなのだろうか。

一方で被害者の1人、アルバイト従業員の女性を殺害したときの詳細な状況も判明した。捜査資料をさらに専門家に分析してもらったところ、彼女だけは極めて至近距離から撃たれたことが指摘されたのだ。

犯人が拳銃の扱いに非常に慣れている人物だったこともわかってきた。犯行当時の事務所内の状況を正確に再現してみると、想像よりも非常に狭い空間の中で犯行が行われており、犯人が拳銃の弾の跳弾などを計算した可能性があるという。

被害女性とかかわりも? 謎の男の存在

フジテレビ取材班は犠牲となった47歳のアルバイト店員に恨みを抱いていた人物がいたかもしれないといううわさを聞きつけた。被害女性の当時の生活を知る人物に複数取材すると、見えてきたのが彼女を取り巻く複雑な人間関係。その中に、彼女に何らかの殺意を抱く人物がいたのだろうか――。

さらに、数年前、被害者を縛ったガムテープから検出された指紋と酷似した指紋を持つ日本人男性が浮上した。この男性がカギを握っているかもしれない。

事件から22年。強盗目的か怨恨による報復か。一つひとつ潰していく捜査が延べ19万人の捜査員によって続けられている。一方で今回の取材中多くの証言者・関係者が亡くなっていたのも事実で、時間の経過は事件解決をより困難にしているが、真相にたどり着く捜査の糸はまだあるはずだ。

フジテレビ報道局「激動!世紀の大事件」取材班さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー)

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世田谷一家殺人事件、被害者の姉の「その後」

2020年11月30日 00時55分45秒 | 事件・事故
隣に住んでいた姉一家の人生も激変した
 
「週刊女性PRIME」編集部 2018/01/13 15:00  東洋経済
 
入江杏さん(「ミシュカの森」主宰/上智大学非常勤講師)
2000年12月31日、20世紀最後の日に日本中を震撼させた「世田谷一家殺人事件」。
いまだに解決をみないこの凶悪事件の被害者遺族、入江杏さん(60)。最愛の妹家族を奪われ、暗闇のように絶望的な日々を乗り越え、今、「ミシュカの森」主宰、そして上智大学非常勤講師として人々の悲しみに寄り添う活動を行っている──。
11月15日、明治大学のホールで、講演が始まろうとしていた。「学部はどこ?」「今日は、どんな話が聞きたい?」講師の入江杏さんが、着席している学生に、気さくに声をかける。
 
講演のテーマは『犯罪被害者支援のつどい』──。
 
冒頭、スクリーンに映像が流れ始めると、学生たちの表情が引き締まる。
 
20世紀最後の凶悪犯罪
 
当記事は「週刊女性PRIME」(運営:主婦と生活社)の提供記事です
2000年、12月31日に発覚した『世田谷一家殺人事件』の報道番組を、10数分に編集したものだ。
 
当時、世田谷区上祖師谷に暮らしていた、宮澤みきおさん(44)、妻・泰子さん(41)、長女・にいなちゃん(8)、長男・礼くん(6)〈年齢は当時〉の一家4人が殺害された事件は、17年たった現在も犯人逮捕に至らず、未解決事件となっている。
 
宮澤みきおさん、泰子さん、にいなちゃん、礼くん。あの事件に巻き込まれるまで、一家は世田谷の地で幸せに暮らしていた
「みなさんは、この事件を知っていますか?」
 
VTRが終わると、入江さんが静かに語りかける。
 
若い学生のほとんどは知らなかったが、中高年の参加者は大きくうなずく。
 
「あの日、事件をニュースで見たとき、自分が何をしていたかまで覚えている方も多いんです。大みそか、という特別な日でしたからね」
 
確かにそうだ。自らを振り返っても、大掃除を終え、のんびりテレビを見ていたとき、不意に飛び込んできたニュースに凍りついたことを、今も鮮明に記憶している。かわいい子どもたちの命まで奪った残虐な事件は、日本中を震撼させ、20世紀最後の凶悪犯罪と呼ばれた。
 
だが、ほとんどの人は知らなかったのではないか。
 
殺害された宮澤さん一家のすぐ隣に姉一家が暮らしていたことを。事件を機に、姉一家も大きな渦に巻き込まれていったことを──。
 
その姉が、入江さんである。
 
「“世田谷事件の遺族です”、そう人前で話せるまでに、6年かかりました。そして、今、17年たった私の姿です」
 
穏やかな表情は、犯罪被害者遺族という言葉が不釣り合いなほど。ざっくばらんな話し方も、実に親しみが持てる。講演の中では、事件を語る一方、被害者遺族と周囲が、どう向き合えばいいか、という話にも多くの時間を割いた。終盤では、次々と質問する学生に、「いい質問ですね」と、時に笑顔を見せながら、自分の考えを伝えていた。その姿が物語っていた。
 
17年を経て、入江さんが、「助けが必要な人」から、「助ける人」へと立場を変えていることを。
 
『あの日』から、どう生き直してきたのか
 
事件があった『あの日』から、どう生き直してきたのか。壮絶な日々を振り返ってもらった。
 
「両親の話もするんですか?ちょっと待っててください」
 
ほっぺにチューでもわかるよう、入江さんと泰子さんは、幼いころからそれは仲のいい姉妹だった。写真は入江さん7歳(写真右)、泰子さん5歳の七五三のとき
 
東京・港区の自宅リビング。入江さんはそう言い置くと、別の部屋から風のように2つの写真立てを持ってきた。
 
「こちらが父。豪放磊落(らいらく)で、ちょっと遊び人、なんて言ったら怒られちゃうかな(笑)。母は、見てのとおり、まじめな人でした」
 
1957年、東京・品川区旗の台で生まれた。不動産業を営む父親は、仕事柄、浮き沈みが激しく、しっかり者の母親が、家庭を守っていたという。2つ違いの妹・泰子さんとは、2人きりの姉妹で幼いころから、それは仲がよかった。
 
「子ども時代は、路地裏で遊んだり、年ごろになってからは、恋の話も打ち明け合ったり。やっちゃん(泰子さん)は私にとって、誰よりも心を許せる存在でした」
 
小学校から高校まで、入江さんは私立の一貫校に通い、泰子さんは地元の公立学校に通った。姉妹で進路が違ったのは、「父の羽振りのいい時期が、たまたま私の学校の節目に重なっただけ」と笑う。
 
「だから、妹が高校受験のときは、勉強を見てあげたりと、できる限り応援しました。父の仕事がうまくいかず、家が大変だった時期も、やっちゃんがいれば心細くなかったし、たぶん、妹も同じだったと思います」
 
絆の深さは、唯一無二。
 
名門、国際基督教大学を卒業して間もなく結婚したのも、「やっちゃんの言葉が決め手でした」と言うほどだ。
 
「夫を自宅に初めて招いたとき、妹が“お姉ちゃま、わかってる? あの人、とってもいい人よ。あの人を逃したら、一生後悔するよ!”って、すごい勢いで。当時、末期がんを患う父を安心させたい気持ちと、仕事で自活したい気持ちがせめぎ合っていましたが、妹の言葉で迷いが吹っ切れました」
 
こうして、24歳のときに、大手自動車会社にエンジニアとして勤務する、8つ年上の夫・博行さんと結婚。父親にも、晴れ姿を見せることができた。
 
結婚から6年後には、待望の長男が誕生。同じころ、泰子さんも、会社員のみきおさんと結婚し、家族ぐるみの付き合いが始まった。
 
二世帯住宅に暮らす両家は、入江さん一家がイギリスから戻ってくるたび、大家族のように食卓を囲むのが常だった。写真は事件が起きる2年前の正月元日
 
そんな両家が、寄り添うように建つ二世帯住宅に引っ越したのは、1991年のことだ。
 
「妹と相談して、決めたんです。2つの家族が“支え合う仕組み”を作ろうって」
 
当時、夫の独立・起業にともない、入江さん一家はイギリスに生活の拠点を移すことになっていた。
 
「父に先立たれた母をひとり残すのが心配でしたが、母が私たちの家に暮らし、隣に妹夫婦が住んでくれたら安心だと。私たちも、日本と行き来するつもりだったので、妹たちと暮らせることを、楽しみにしていました」
 
宮澤家に、にいなちゃん、礼くんが生まれてからは、帰国のたび、両家8人の大家族が、にぎやかに食卓を囲んだ。泰子さんが学習塾を開く際は、入江さん一家のリビングを教室として提供。二世帯住宅は、当初の予定どおり、2つの家族が『支え合う』舞台となっていた。あの事件に巻き込まれるまでは──。
 
20世紀最後の日。悪夢の始まり
 
2000年、12月31日。事件発覚の日、入江さん一家と母親は、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。
 
「帰国したばかりの夫が、和食が食べたいと言うので、鮭を焼いたのを覚えています」
 
この年の春、息子が私立中学に入学したため、8年間のイギリス生活をいったん終え、入江さんは息子と帰国していた。年末を迎え、単身赴任中の夫も帰国し、昨夜は2家族で夕食のテーブルを囲んだばかりだった。
 
「いつもと違ったのは、早起きの、にいなちゃんと礼くんが、なかなか起きてこなかったことです。大みそかで朝寝坊かな、と気にもとめませんでしたが」
 
時刻は10時を回っていた。待ちきれないように腰を上げたのは、母親だった。泰子さんとおせち料理を作ることになっていたため、「起こしてくる」と隣家に向かった。両家は、二世帯住宅といっても、玄関が別々だった。
 
「だから、母が第一発見者になってしまったんです」
 
「家じゅうが荒らされていた」
 
2000年12月31日、事件発覚後、自宅周辺は非常線が張られ、ブルーシートで覆われた。入江さん一家は、捜査協力をしながら事件後も隣家の自宅で1か月を過ごした
10分もしないうちに、血相を変えて戻ってきた母親は、震える声で叫んだ。
 
「隣が、泰子たちが、殺されちゃってるみたい──」
 
ただならぬ様子に、入江さん一家は、隣家に急いだ。
 
「殺されたって、まさか──」
 
半信半疑で玄関に入った瞬間、全身が凍りついた。目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
 
「衣類や書類が散乱し、家じゅうが荒らされていました」
 
山積みの衣類の下から、みきおさんのものと思える白い足が見えた。弾かれたように中に入ろうとする入江さんを、夫が鋭い声で止めた。
 
「見るな! 触るな! 戻るんだ!」
 
悪夢の始まりだった。
 
「妹一家が殺されたと知ったのは、警察の事情聴取を受けているときでした。このとき、母の頬に血がついていることに気づいて。第一発見者の母は、たったひとりで家中を回り、4人の亡骸を抱きあげていたんだと胸が詰まりました」
 
犯行時間は30日午後11時から翌日の未明にかけて。犯人は宮澤さん一家を殺害後、現場に長時間とどまり、現金を強奪して逃亡した。
 
現場には、犯人の指紋、衣類、血液など、多数の証拠が残され、逮捕は時間の問題だと思われた。
 
だが、予想に反して、捜査は難航した。
 
「どんな小さな情報でも、思い出してください」
 
警察は殺気立ち、入江さん一家は、朝から晩まで、人を疑う作業を続けた。
 
「それこそ、寝食を忘れて、捜査に協力しました。絶対に、犯人を逮捕する。怒りに突き動かされるように」
 
葬儀の席では、同情の声が上がる一方、「家の前を通るのも恐ろしい」「犯人と違う血液型でよかったわね」だのと、心ない言葉を浴びた。
 
過熱したマスコミの、根も葉もない報道にも愕然とした。
 
「身も心も限界でした」
 
入江さん一家と母親が、逃げるように世田谷の地を離れたのは、事件から1か月後のことだ。
 
引きこもる母。自分を責め続ける日々
 
仮住まいのアパートに移ってからは、息をひそめるように暮らした。
 
母親の治子さんを「清貧な女性でした」と語る。事件後、悲しみに暮れる母親の姿に、入江さんは犯罪被害者遺族が悲しみを発信できる場づくりが必要だと痛感した
「母は、あんな事件に巻き込まれて恥ずかしい。世間に顔向けができないと、引きこもってしまいました。私も、どん底でした」
 
夫は半年間、忙しい仕事を休み、家族を支えた。息子も、先生と相談し、事件の遺族であることを公表しないまま、学校に通い続けた。
 
「夫のやさしさや、息子の健気さが、ありがたかった。でも当時の私は、その思いに応えるどころか、死ぬことすら考えていたほどです」
 
なぜ、みきおさんが「両家が仲よく暮らすために、防音設備にしよう」と提案したとき、「そんなの水くさいよ」と断らなかったのか。防音でなければ、犯人の気配に気づき、助けられたかもしれないのに──。
 
自分を責め続けた。
 
「何より、悔いたのは、なぜ、もっと早く、引っ越さなかったのか、ということです」
 
事件現場の周囲が閑散としていたのは、公園用地のため、近隣の家がほとんど立ち退きをすませていたからだ。姉妹一家も、東京都に土地を売却し、入江さんにいたっては、新しい土地を購入していた。早い段階から、「一緒に引っ越そう」と、泰子さんに提案もしていた。
 
しかし、泰子さんは引っ越しを躊躇した。
 
「立ち退きの猶予期間が3年あるので、しばらく、このまま生活したい」と。
 
それは、母親として、子どもを思ってのことだった。
 
「礼くんには発達障害がありました。妹は、翌年の春、1年生になる礼くんを、にいなちゃんと同じ、地域の小学校に入学させたかったんです」
 
礼くんの障害と向き合い、懸命に子育てする泰子さんを、間近で見てきた入江さんは、反対などできなかった。暗闇の中で、もがくような日々が続いた。一筋の光が見えたのは、1枚の絵と再会したことに始まる。
 
妹一家の幸せな姿を残しておきたい
 
「絵の中の女の子に気づいたとき、“あ! にいなちゃんがいる”と叫んでいました」
 
小学校の先生から、遺品として受け取った、にいなちゃんの絵は、目にするのもつらくて、しまい込んでいた。再び取り出したのは、事件から半年あまりが過ぎた、にいなちゃんの誕生日のことだ。
 
「『スーホの白い馬』という物語の一場面を描いた絵ですが、ほら、ここに!」
 
姪御さんのにいなちゃんが描いた『スーホの白い馬』の一場面。にいなちゃんの遺品となったこの絵が、入江さんが立ち直るきっかけとなった
入江さんは絵を見せながら、声を弾ませる。白い仔馬を抱いた、スーホの隣に、頭にバンダナを巻いた女の子が、しっかりと描かれていた。その姿は、事件前日のにいなちゃんそのものだった。
 
「あの日もバンダナを巻いて、大掃除のお手伝いをしていました。夫が“頑張ってるね”と声をかけると、はしゃぐように笑顔を見せて」
 
そのときの笑顔が、絵の中のにいなちゃんと重なった。泰子さん、礼くん、みきおさんの姿も、まぶたに浮かんだ。みんなが笑っていた。
 
「このとき、ふっと心が動きました。このままじゃいけないって。もちろん、ドラマみたいに、すぐに立ち直るなんてできなかった。でも、私がどん底にいたら、家族が悲しむ。そのことを、現実として、感じられるようになりました」
 
事件から1年後、港区の新居に引っ越してからは、上智大学などで死生学を学びながら、社会活動にも視野を広げ、地域の小学校の図書館でも働き始めた。少しずつ、日常を取り戻しながら、絵本づくりにもとりかかった。
 
「マスコミが伝える、“かわいそうな家族”ではない、幸せな妹一家の姿を、残しておきたかったんです」
 
主人公は『ミシュカ』。
 
2006年『ずっとつながってるよ こぐまのミシュカのおはなし』(くもん出版)の上梓を機に、『世田谷事件』の被害者遺族であることを公表。「励まされた」と多くの反響があった
にいなちゃん、礼くんが大事にしていた、クマのぬいぐるみだ。物語を紡ぐうち、心が温かくなるのを感じた。
 
「4人の死を、受け止められたというか」
 
臨床心理士で、後述する『ミシュカの森』の主要メンバー・倉石聡子さんが話す。
 
「入江さんは、にいなちゃんの絵から、メッセージを受け取り、絵本を書くことで喪失感から回復していったのではないでしょうか。回復のきっかけを探していたタイミングで、にいなちゃんの絵と出会えたことにも、運命的なものを感じます」
 
反響を呼び、多くの人の心をとらえた
 
文章と絵、両方に思いを込めて手がけた作品は、2006年、4人の七回忌に、『ずっとつながってるよこぐまのミシュカのおはなし』(くもん出版)として出版された。これを機に、『世田谷事件』の被害者遺族であることも公表した。
 
「とても勇気がいりましたが、大学に入学した息子が、友達にカミングアウトしたことや、世間体を気にしていた母が体調を崩し、世間の目どころではなくなったことも、公表に踏み切れた理由です」
 
ペンネームは、『入江杏』。名づけ親は、息子だ。
 
「にいな『NINA』と、礼『REI』、2人のアルファベットを入れ替えて、『IRIE・ANN』はどう? って。とても気に入っています。絵本のタイトルも、息子がつけてくれました」
 
絵本は反響を呼び、多くの人の心をとらえた。出版に携わった、元くもん出版の田中康彦さん(65)が話す。
 
「最初に絵本を読んだとき、妹さん一家の楽しい日常と、突然の別れを、ミシュカを通してやさしく表現されていることにホッとしたのを覚えています。私自身、すでに妻を見送っていたので、“これからもずっとつながっている。忘れないよ”というメッセージに、とても共感しました」
 
読者から届く手紙の中には、『池田小学校事件』(2001年・大阪教育大学附属池田小学校で起きた、無差別殺傷事件)で姉を亡くした女の子からのものもあった。
 
「“心の支えになった”と感想をもらって、私のほうが励まされました。そのころから、人とのつながりが広がって、被害者遺族として、自分に役割があることにも気づけたように思います」
 
泣いていい、思い切り笑っていい
 
講演を行う際は、著作絵本『ずっとつながってるよ』の読み聞かせも行う。感情を抑えた語りは、人々を物語の中にすっと引き込み、涙する人もいるほどだ
絵本の出版を機に、人前で話す機会も増えた。
 
「最初は、事件の話と、絵本の読み聞かせが中心でした」
 
この集いは、いつしか『ミシュカの森』と名づけられ、以来11年、行政などと協力し、誰もが悲しみを発信できる場として形を変えている。
 
「母もそうでしたが、弱い立場の人ほど、“悲しい”と声を上げられず、引きこもってしまいがちです。そういう人が、安心して話せる場所を、できるだけ自分でも設けていますし、そうした場づくりの応援もしています。話すこと、聞いてもらうことが、回復の糸口になるからです」
 
身近な人の死別、離別で悲しみを抱える人を支援する、グリーフケアについても学びを深めた。現在は、上智大学グリーフ研究所で非常勤講師、世田谷区グリーフサポート検討委員を務めるなど、それぞれの立場から、人々の悲しみに寄り添う。
 
前出・倉石聡子さんが話す。
 
「入江さんは率直な方なので、自分の弱さや失敗談も、あっけらかんと話します。その姿に、多くの人が“こんな自分でもいいんだ”と励まされ、声を上げることができるのだと思います」
 
息子さんを自死で失った、皮膚科医の樋口恵理さん(58)も、そのひとりだ。
 
「講義に参加して驚いたのは、入江さん自身の輝きでした。ああ、人は生き直せるんだと、その姿が教えてくれました。行動力も驚くほどで、私が今、月に1度、医療少年院で治療に携わっているのも、入江さんに誘われて少年院を見学したのが始まりです。虐待経験や障害のある少年たちと向き合う中で、息子の死にとらわれていた気持ちが変化し、自分ができることに気づけたように思います」
 
山口被害者支援センター直接支援員で、2006年に起きた『山口高専生殺害事件』で娘さんを失った犯罪被害者遺族でもある、中谷加代子さん(57)が話す。
 
「出会ってまだ2年なのに、杏ちゃんは本音で話せる相談相手です。ずっと聞き役だった夫が、“俺の出番はないな”と肩の荷を下ろすほど、家族以上に家族のような存在ですね。杏ちゃんとはお酒も飲むし、温泉に行ったこともあります。楽しければ、大いに笑う姿に、犯罪被害者である前に、ひとりの人間として、あるがままに生きていいと、気づけたように思います」
 
2013年、『悲しみを生きる力に』(岩波ジュニア新書)を出版。以来、著書のタイトルをテーマに、講演活動を行う。
 
全国から講演依頼が途切れないのは、犯罪被害者遺族として同じ立場の人に寄り添うだけでなく、社会全体に支援を呼びかけているからだろう。
 
「犯罪被害者遺族は、世間やマスコミが求める“遺族らしい姿”に縛られ、苦しくなってしまいがちです。ただでさえつらいのだから、悲しいときは泣いていい、うれしいときは遠慮なく笑っていいと思うんです。そうやって、遺族が素直に気持ちを発信できる社会にしたいし、それを受け入れられる社会になればと、活動を続けています」
 
講演などで人々と直接向き合うだけでなく、「こう見えても、被害者遺族の中でSNSを活用してるほうなんです」と、ツイッターやFacebookでも、メッセージを発信。一般の人にもネットワークを広げて、社会全体に思いを届ける。
 
ありふれた毎日こそが、かけがえない
 
入江さんの朝は、ピーターラビットのコップに新しい水を入れ、写真立てに供えることから始まる。そこには7人の笑顔が並ぶ。
 
泰子さん一家4人、父親、82歳で他界した母親、そして、2010年、60歳という若さで亡くなった、夫・博行さんの写真だ。
 
「夫が亡くなったのは事件から丸10年が過ぎたころです。“ようやく、いつもの生活に戻れたね”と話していた矢先に、突然、大動脈解離で倒れました。手術室に入るときの“行ってくるよ”が、最後の言葉だったので、今も“ただいま”と帰ってくるような気がしています」
 
事件以来、ずっと支えてくれた夫の死は、妹一家のときと違い、犯人への怒りがないぶん、悲しみも深かった。だが、7年が過ぎた今、語られるのは、夫との楽しい思い出だ。
 
「夫がイギリスから帰国すると、近所の公園で犬を連れて散歩するのが日課でした。いつも話すのは私。夫はもっぱら聞き役でしたね。そうそう、私たちの出会いも、公園だったんです。犬を散歩中に、動物が大好きな夫が話しかけてくれて」
 
「ただごと」の日々を大切に
 
入江さんは、「ただごと」の日々を大切にしている。
 
穏やかで、ありふれた毎日が、どれだけかけがえのないものかを知っているからだ。
 
「あの事件で、私たちは嵐の中に放り込まれました。非日常では、悲しみすら現実感が薄かった。でも、今、夫が逝って、心から悲しい。それは日常を取り戻せたから、感じられることなんです。妹一家は、ただごとの毎日を大切に、生活していました。私も、その意思を引き継げたらと思っています」
 
おいしいものを食べたとき、旅先で素敵な景色を見たとき、亡くなった4人にも食べさせてあげたい、見せてあげたいと、今も思うという
世田谷事件が起きた年末は、全国各地を講演で飛び回る。多忙な日常を送りながらも、地に足をつけて暮らす。
 
「朝はみそ汁を必ず作ります。都心に暮らしているのでスーパーが近くにないけれど、八百屋さんがあるので、新鮮な野菜を入れて。社会人になって忙しく働く息子に、“今日は夕飯いる? じゃあ、作っとくね!”なんて、声をかけて送り出しています」
 
17年たった今も、事件現場は、取り壊されることなく、当時のまま残されている。
 
犯人逮捕をあきらめていない、警察の象徴のように。
 
「建物は老朽化しても、事件は風化させたくない。思いは警察と同じです。犯人への怒りも、当時のままです」
 
入江さんは、そう言い切る。毎年、年末には、世田谷事件追悼の集い『ミシュカの森』を開催し、たくさんの参加者とともに故人を偲ぶ。
 
私たちも忘れずにいたい。
 
幸福に暮らしていた、4人の大切な命が奪われたことを。事件から17年、悲しみを生きる力に変え、懸命に生き直した家族がいることを。
 
(取材・文/中山み登り 撮影/森田晃博)
 
中山み登り(なかやまみどり)◎ルポライター。東京生まれ。晩婚化、働く母親の現状など、現代人が抱える問題を精力的に取材している。主な著書に『自立した子に育てる』『仕事も家庭もうまくいくシンプルな習慣』(ともにPHP研究所)など。中学生の娘を育てるシングルマザー。
 
 
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26年前の未解決殺人「司法解剖」から迫る犯人像

2020年11月30日 00時42分12秒 | 事件・事故

11/29(日) 13:01配信

東洋経済オンライン

漫画『監察医 朝顔』の監修者でもある佐藤喜宣氏の著書から、未解決事件「井の頭公園バラバラ殺人事件」を振り返ります(画像:©香川まさひと、木村直巳、佐藤喜宣/実業之日本社)

昭和、平成、令和にわたって40年以上、監察医・法医学者として1万体以上の検死、5千体以上の解剖を担当してきた杏林大学医学部名誉教授・佐藤喜宣氏は、ドラマ化もされた漫画『監察医 朝顔』の監修者でもある。
佐藤氏の著書『生きるための法医学 私へ届いた死者からの聲(こえ)』には、世間を震撼させた重大事件をはじめ、阪神・淡路大震災、東日本大震災、新型コロナ感染症、子ども虐待等、生死をみつめてきた法医学者だからこそ知り得た実体験エピソードが数多く収録されている。

本稿ではその中から昭和に起こった未解決事件「井の頭公園バラバラ殺人事件」を振り返る。

■26年前の未解決事件

 世間を震撼させた井の頭公園バラバラ殺人事件は、1994年4月23日に発覚しました。

 被害者が付近に住んでいた男性(当時35歳)だったことは判明しているのですが、犯人も犯行動機も不明の未解決事件となっています。

 特筆すべきは、死因特定につながる人体部分は、何ひとつ見つからなかったことです。

 解剖によって死因を特定するためには、頭部と内臓を丹念に調べていく必要があります。被害者男性の手と足は発見されたのですが、ご遺体は損壊されていたため、首から上と体の中身は発見されませんでした。

 しかも身元を特定するために必要となる指紋は、ハサミで切り取られ、見つかった身体部分は血抜きされた状態で、すべて22㎝という均等な長さに切りそろえられていたのです。

 この22㎝には理由がありました。井の頭公園に設置されていたゴミ箱の円形入り口から、引っかからずに入る奥行きサイズと一致していました。

 仮に22㎝以上あれば、円形入り口で引っかかってしまい、スムーズにゴミ箱に入らなかったのです。太い大腿部も同じ長さにされた上で、円形入り口の直径内に収まるよう、皮膚を削っている程の徹底ぶりでした。

 事前に遺棄する場所の直径と奥行きを調べていたことも含め、間違いなく計画的な犯行でした。

■なぜ井の頭公園を選んだのか

 被害者の自宅近くに位置している井の頭公園は、桜の名所としても知られています。

 都民の憩いの場を入念に調べ、そこに遺棄している事実からも、見つかっても構わないという明確な意志も感じられました。

 これは何かの見せしめではないのか。もしかしたら誰かと間違われた〝人違い殺人〟なのではないかという疑いすら持ちました。

26年前の未解決殺人「司法解剖」から迫る犯人像
11/29(日) 13:01配信
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 捜査上でも、被害者には誰かに恨みを持たれていた可能性や宗教的な背景も出てきませんでした。

 実はこの事件が発覚する前、熊本県内でも似たようなバラバラ事件が起きていました。

 熊本大学の教授に電話をして、事件の特徴を確認したところ「バリを見なさい」と言われました。

 バリとは刃の特徴のことで、人間で言えば指紋にあたります。損壊にノコギリを使っているのであれば、バリの目の形が出ているはずだから、刃物の特徴を見ればどこで購入したのかがわかるということでした。

 事件当時は、オウム真理教の脱会信者に対して弁護団が組織されたことが報道され始めていた頃でした。

 捜査本部には、解剖結果の報告とともに、これは人違い殺人の可能性もあるという疑念についても話しました。

 オウム真理教の脱会を図った人がいて、それを粛清しようとした教団が、被害者を間違って殺害してしまったのではないかという仮説も含め、とにかくあらゆる可能性を考慮する必要性があると伝えました。しかし「オウム真理教はそこまでやりませんよ」と広域捜査には至りませんでした。

 その後、1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生。それから約2カ月後となる3月20日、地下鉄サリン事件が起きてしまったのです。

 地下鉄サリン事件後、井の頭公園バラバラ事件の話をもう一度聞かせてくれと警察庁が飛んで来ましたが、2009年4月23日午前0時に公訴時効となり、未解決事件となってしまいました。

 こんな残忍で手際の良い犯人とは、一体誰なのか? 今現在、名乗り出て来た人間はひとりもいません。

■2010年以降、凶悪重大犯罪未解決事件の時効は撤廃

 2010年4月27日に「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」が施行されたことにより、殺人罪などの公訴時効が廃止され、凶悪な重大犯罪未解決事件は時効が撤廃されました。そのため現在は、どれだけ時間が経過しても犯人が生存していれば、処罰できるようになっています。

 ただ、井の頭公園バラバラ事件は同法の施行前だったため未解決事件となり、迷宮入りしてしまいました。

殺人事件、不慮の事故等には被害者と加害者だけではなく、被害者家族、加害者家族もいます。身近な人がもしもお亡くなりになってしまった場合、遺された人たちがその死をどうとらえるのか。死を受け止めた上で日常を生きていくためにはどうしたらいいのか。

 ご遺体には、これからを生きていく人たちに伝えたかったメッセージが必ずあるはずで、そのメッセージこそ、私たち法医学者が聞かせてほしいものでもあるのです。

 ご遺体から教えてもらった知識を生きている人に活用する。これを「臨床法医学」と呼んでいます。亡くなられた人の尊厳と権利を守り、生きている人たちに対して法医学の知識をフィードバックしていくことは、犯罪抑止にもつながります。

 私が子ども虐待や、ドメスティックバイオレンス(DV)の防止にも取り組んでいるのはそのためです。臨床法医学は、大規模災害等の防災対策にも役立てられていて、今後ますます重要になってくると感じています。

 人生100年時代と言われる昨今、生きている人に活用してこそ真価を発揮するのが法医学であり、法医学にはその使命があると考えています。

 構成:福山純生(雀聖アワー)

佐藤 喜宣 :杏林大学医学部名誉教授、日本歯科大学、広島大学医学部客員教授

 

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国内重症者、最多の462人 感染2066人、医療現場逼迫

2020年11月29日 08時55分20秒 | 医科・歯科・介護

11/29(日) 20:09配信

共同通信

愛知県が飲食店に要請した時短営業が始まった名古屋市の繁華街、栄をマスク姿で歩く人たち=29日午後

 国内では29日、新たに2066人の新型コロナウイルスの感染者が確認された。厚生労働省によると、重症者は462人で28日から22人増加し、7日連続で最多を更新した。重症患者の治療に必要な集中治療室(ICU)などが逼迫しており、医療現場の危機感は高まっている。

 感染者は東京が418人で日曜で初めて400人を超えた。そのほか大阪381人、北海道192人など。

 重症患者の治療に使う人工心肺装置「ECMO(エクモ)」の普及や活用を支援する「ECMOネット」によると、人工呼吸器を着けた重症患者は11月1日の140人から28日には257人へとほぼ倍増した。

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魂の邂逅: 石牟礼道子と渡辺京二

2020年11月29日 08時55分20秒 | 社会・文化・政治・経済

魂の邂逅石牟礼道子と渡辺京二[米本浩二]

 米本 浩二 (著)

共に生き、死ねる場所があるとすればここしかない――。唯一無二の世界文学と高く評価される『苦海浄土』をはじめ、詩歌、物語、歴史小説、随筆、新作能とおびただしい作品を書き続けた作家、石牟礼道子。地方の文芸誌編集者として出会い、道子の執筆を支えながら水俣闘争に身を投じた渡辺京二。その半世紀に亘る共闘と愛を、秘められた日記や書簡、発言から跡づける。

内容(「BOOK」データベースより)

ともに死ねるところがあるとすれば、それはただバリケードの上でだけ―傑作『苦海浄土』をはじめ、石牟礼道子の全活動を支えた編集者・渡辺京二。秘められた日記や書簡、発言から跡づける。半世紀の共闘と愛。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

米本/浩二
1961年、徳島県生まれ。毎日新聞記者をへて著述業。石牟礼道子資料保存会研究員。著書に『評伝石牟礼道子―渚に立つひと』(新潮社、読売文学賞評論・伝記賞)など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
池澤夏樹・評 『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』=米本浩二・著
 
苦海を生きる作家と編集者 11月28日毎日新聞

 今の時代に魂という言葉を本気で使う人がいるだろうか?

 魂は心ではない。心は人の中にあってその時々の思いを映すスクリーンである。しかし魂の現象はもっとゆっくりと推移する。そして、何よりも、魂は身体を離れることができる。

 心と心の出会いで魅せられれば性急に恋にもなるだろう。しかしそれが魂同士の邂逅(かいこう)ならば恋よりもずっと静かな、永続的なものになるはずだ。世俗的な理由から二人の心と心がぶつかる時でも、身体を離れた魂たちは穏やかに寄り添っている。

 
 
本書は新潮社から刊行された『評伝 石牟礼道子 渚にたつひと』に続き、前作に描いた石牟礼道子の作品と人生とが、いかに渡辺京二との関係で支えられていたのかを描いている。2人の関係、それが端的に本書の標題になっている。
 構成は明確である。「1道子の章」では、前作とはまるで異なった資料を用いて石牟礼道子の半生を描く。「2 京二の章」では、これまで描かれることの少なかった渡辺京二の半生が描かれる。そして2人がそれぞれの境遇を抱えて遭遇し、雑誌編集者とその主筆者として寄稿した「魂の章」を2人の書簡と日記から描く(ここまで密な資料を用いた評伝は本書が初めてである)。「4 闘争の章」は水俣病闘争内でも独自の位置を占めた「告発する会」について渡辺の談話も織り交ぜて描く。
 時はすぎ。「5道行きの章」では運動から40年を経た2人の関係が、そこに立ち会っていた著者のドキュメンタリーとして描かれる(著者は2013年から前作のために石牟礼道子のもとに通っていた)。「6訣別の章」は書き下ろしで、2人の関係が石牟礼道子の他界から今の渡辺京二と石牟礼道子の関係へと移る。
 「あとがき」には本書が書かれた経緯が書かれているが、全体を読んで、扉の若い2人の写真から、40年を経て老いた2人の写真へと、邂逅した魂が内に炎を孕む炭のようにじっと、ずっと貫いた魂の行方を露にする。エピグラフの渡辺の言葉の意味が最後に開示されるのも見事。「魂の邂逅」という主題は何より二人に捧げられらものに違いないが、時にその2人にたちあって著作や日記や往復書簡まで読み込んだ著者の姿でもあろう。
 石牟礼道子日記は数年を経て世に出るであろうが、渡辺京二日記は分からない。闘争時代の人たち(宇井純、石牟礼道子、原田正純、川本輝夫、ユージン・スミス、宮澤信雄ら)はもう逝ってしまった。後世のひとびとに、あの世界史的な事件をささえた2人の世界を伝えるに、本書が唯一無二のものになるのは間違いあるまい。著者による『チッソは私はであった』文庫版解説も愉しみにしている。本願の会の会誌『魂うつれ』は実質『苦海浄土』第4部の世界の現れであるからである。
 
 
 

 

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新型コロナ報道にみるメディアと言葉の本質的な問題

2020年11月29日 07時08分23秒 | 社会・文化・政治・経済

世の中を滑らかにするために真摯な言葉選びを


佐藤信 東京都立大学法学部准教授(現代日本政治担当)

2020年04月18日 論壇

新型コロナウイルスに感染して集中治療室(ICU)に入っていたボリス・ジョンソン英首相が退院したという。喜ばしいことだ。

自主隔離? 自己隔離?

 他方、ずっと引っかかっていることがある。それはジョンソン首相が陽性になってから入院する前、「自主隔離」していると日本で報道されたことである。

 この自主隔離、英語はself-isolationという。確かに自主隔離と訳してもおかしくはない。だが英政府のウェブサイトを確認してみると、コロナの症状が出たら7日間のself-isolationをしろと書いてある。つまり、この隔離は念のために自主的にする性格のものではない。

 そしてまた、症状のある者と同居している場合には、14日間のhousehold isolationをしろと書いてある。後者は家庭隔離だから、前者は「自己」隔離とする方が正確だろう。そもそも陽性反応が出ている人が本当に「自主」隔離で済むのか、記者たちは考えてみなかったのだろうか。

細部への心配りは欠如していないか

 これから現下のコロナ報道について論じる。重箱の隅をつつくように思われるかもしれない。けれど、わたしはここでマスメディアと言葉についての本質的な問題を取り扱おうとしている。

 マスメディアの影響力は甚大だ。こたび、安倍政権は国民世論に押し切られるかたちで制限なしの10万円給付へと舵を切った。これ自体、日本政治の文脈では大変重要で本格的な分析が求められるが、ここでは4月3日に一定の所得減少世帯を対象に30万円給付という政府与党の当初の方針が明らかにされたときのことを扱いたい。このとき、大々的にニュースを飾ったのは「30万円給付」というヘッドラインであった。その時点でだれが対象になるかは十分には報道されなかった。

 その後、この30万円を受け取ることがどれだけ狭き道で、また難儀なものであるかが頻りに報道された。一度は一安心した国民は一気に暗澹(あんたん)たる気分になった。政府与党の情報提供に問題もあっただろうが、その給付金額にのみ焦点を当てたマスメディアにも大きな責がある。

 本来、金額の多寡は給付対象の幅と併せて初めて意味を持つ。額が30万円に嵩上げされても、自分の家が対象にならなければ意味はない。マスメディアは初めからそこまで掘り下げて報道すべきだった。

 この件に限らず、また政府与党に限らず、マイナス面を隠してプラス面を強調しようとするのは、情報提供者の常ではないか。そのマイナス面も詳らかにして全体像を提示するのは報道の役割だ。

 マスメディアの劣化は多く「マスメディアのあるべき姿」とか報道倫理とか、大仰なものに結びつけて語られる。それもないとは言わないが、給付対象の話は、自分事として少し考えればわかること。原因はむしろ細部への心配りの欠如に巣食っているのではないか。

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コロナ経路不明の本質は?

2020年11月29日 07時00分19秒 | 医科・歯科・介護

長尾和宏
長尾クリニック 院長

日本中が、第三波到来で、疑心暗鬼になっている。
Go Toは一旦やめるべきだという声のほうが大きい。

しかし、この連休、どこも大賑わいである。
僕の周囲でも旅行に行っている人が何人も。

あちこちでクラスターが発生して、その濃厚接触者
をどうしたらいいのか、という風な相談が毎日続く。

保健所に電話したら「長尾さんに相談しなさい」との事。
なんなん、これは。もう5類に下げたほうがいいのでは。

ここまで来たら、PCRをバンバンやったほうがいいかも。
世の中の混乱を避けるためには、そんな気がしてきたよ。

僕自身は受けないけど、受けて安心するような人が世の中に一杯いる現状。
だから、いつでも、どこでも、何度でも、その場で結果が分かる無料PCR.決して夢ではない。
やろうと思えばできる。

そんな想いを月刊公論の1月号に書いた。
月刊公論2021年1月号 
社会的PCR検査も無料にすべき   
コロナ医療をがん医療に喩えてみた 長尾和宏
街角PCR検査テントを  
 新型コロナウイルス感染者数(コロナ)の第三波は、第一、第二波よりも大きいものになりつつある。重症者数も増加しているが、コロナ医療の進歩により死亡者数はなんとか抑え込むことができている。しかしPCR 検査体制に関しては、相変わらず決して充分とは言えない

。一方、NYの映像を観ると街角に医療機関とは別にPCR検査テントが設置され、いつでも、誰でも、何度でも、無料でPCR検査が受けられる体制になっている。しかもその場で検査結果が判明するという。2~3日もかかる我が国のPCR検査とは雲泥の差である。もしも結果を待つ間に自宅で容態が急変したら誰の責任なのか、国は明らかにしないまま年を越えた。  
 日本においてもNYにあるような街角PCR検査テントの設置を望む。しかしそもそも数多くの法的制約があるためにできないという。菅内閣が規制改革を旗印に挙げるのであればまずは、コロナ禍においては様々な規制を緩和するなど柔軟な対応を求める。

社会的検査も無料にすべき
 感染経路不明の感染者が増えている。家庭内、職場内のクラスターも増えている。無症状陽性者がスーパースプレッダーになっている可能性を考慮すれば、この冬、検査体制を拡充しなければいけない。現在、発熱や咳や味覚障害がある人は、医師がコロナを疑った場合、手挙げをした医療機関で唾液を用いたPCR検査が可能となった。

これは行政検査と呼ばれ、全額公費負担である。しかし、軽微な症状や無症状者、あるいは医師がコロナを疑わない患者さんは自費で検査することになっている。会社や学校からの指示であったり、自主的に検査を受けるわけだが、社会的検査とも呼ばれている。その費用は現時点では3~4万円が相場である。手作業のPCR検査の原価が2万円弱するためだそうだが高すぎやしないか。欧米では無料である検査が日本は別格である。
 今後、医療機関や介護施設や学校などのおける社会的検査の需要は増大する。一方、ある試算によると全自動のPCR機器を用いれば検体数が増えるほどスケールメリットにより1検体あたり千円弱までコストダウンできるそうだ。国をあげて早急に最新式全自動PCR機器を全国各地に設置して、できるだけ早く無料で検査が受けられる体制を整えて欲しい。

かかりつけ医とは切り離す  
 厚労省は当初は「発熱者は保健所に電話して」と広報していたが第二波からは「かかりつけ医に電話して」に変わった。本誌12月号で述べたようにかかりつけ医に「丸投げ」した。そして11月からは、「発熱外来」が対応する体制に移行した。

全国2万5千の医療機関が手を挙げたが、地域によっては開業医のほんの一部しか手を挙げていない。筆者の地域でも手を挙げた開業医は数%程度とかなり少数である。最大の問題点は発熱外来が原則、「非公開」であることだ。患者の集中や風評を防ぐためだという。しかし市民目線からはかなり不親切である。「かかりつけ医」に電話しても、対応していない確率が高く、結局は保健所に聞くことになる。やはり「公開」にすべきではないのか。  
 しかし登録されている開業医は決して「やりたくて」手を挙げたわけではない。仕方なく挙げただけである。なぜならコロナ以外の患者さんを診ることが本分であるからだ。通常外来と発熱外来を両立するには想像以上に大きな負担がかかる。万一、院内クラスターが発生すると最悪、「閉院」に至るかもしれない。

本来、地域の医療機関は生活習慣病診療や健康検診が責務である。だから発熱患者に特化した街角PCR検査テントのような場を行政と医師会などが協力して設置すべきだ。PCR検査をかかりつ医から分離するだけでも本来の診療に専念できるので市民は安心する。

コロナ医療をがん医療に喩えると  
 コロナ医療をがん医療に喩えて考えてみよう。がん患者には有症状者と無症状者がいる。無症状者はがん検診によりがんが発見される。同様に、コロナ医療においても無症状者から感染者を発見する体制を整えることも必要だろう。しかし、現行の検査体制は発熱などの有症状者しか対象としていない。今後、街角PCRテントのように検査体制の裾野を広げることがクラスター対策につながる。  

次に、陽性者のふるい分けになる。がんに喩えるなら早期がんと進行がんでは治療戦略がかなり異なる。進行がんに対しては外科手術に加えて抗癌剤や放射線治療を行うが、コロナ医療の難しい点は、一見、軽症と思われても一日でいきなり重症になり得ることだ。すなわち、ホテルや自宅療養中の軽症者のフォローアップ体制である。ここはかかりつけ医にお願いしてオンライン診療を活用すべきだ。患者数が多いのでマンパワーが限られている保健所だけが担うには荷が重すぎる。

そして中等度以上は、大阪市で始まった「コロナ専用病院」の出番である。結核医療と同様にコロナの治療に特化した医療機関を上手に活用すべきだ。もちろん地域の感染症病床を有効利用するためにはネット上の情報共有が必須だ。
 がん医療は病院間の競争もあるために情報共有は進んでいない。しかしコロナ医療は地域の感染症病床を有する病院同士がリアルタイムで連携しないといけない。  このようにコロナ医療を診断、重症度評価、治療、長期観察の4段階に分けて、合理的に提供すべきだ。現行は四段階が混在一体となっているためどうしても網からこぼれる人が出てくる。もしも以上の戦略を各地域で練ることができれば死亡者数はさらに減らせると考える。

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第 156 回 新型コロナウィルス問題-日本はなぜ対応を誤ったのか

2020年11月29日 06時31分57秒 | 事件・事故

市中感染が最大の問題

情報システム学会 メールマガジン 2020.5.29 No.15-02
連載 情報システムの本質に迫る

芳賀 正憲

新型コロナウィルス感染問題への対応で、日本は、台湾、韓国、ドイツなどに比し、大幅に後れをとりました。何よりも、感染問題への対応の基本となる、検査の徹底が遅れました。

クラスターのみに注目、クラスター対策こそ、この問題の本質と考えていたからです。クラスター対策は日本の新型コロナ問題への対応の、他国にない特長であり、5月になってからでさえ、西村担当大臣は、「日本が世界に誇るクラスター対策」と公言していました。もちろん、この対策自体は、厚労省に集う専門家たちが発案したものです。
情報システム学の観点に立つと、これは『新情報システム学序説』で述べている、典型的な ‟記号論上の誤り”です。この誤りは、目立つもの、際立つものが、全体を代表すると考えるもので、人間の概念化プロセスで起きる錯覚の一つとして、古くから知られています。
この概念化プロセス自体は、もともと人間が知識の拡張を効果的・効率的に進めるため、進化の過程で獲得した優れた能力で、通常、帰納法として用いられています。工場で品質を管理するとき、一部の製品だけ調べて良好な場合、そのロット全体を良品として出荷するということは、よく行われています。この優れた能力が、場合によって錯覚を起こさせ、判断を誤らせるのです。
例えば、情報システムは、情報を取り扱う仕組みです。人間や組織は、情報を取り扱っていて、誕生以来情報システムであることに違いないのですが、一般的には人間や組織は、今まで情報システムとして、ほとんど認識されていません。

一方、コンピュータ・システムは、情報を取り扱う明らかに目立つシステムとして出現しました。そのため一般の人はもちろん、専門家さえ、情報システムはコンピュータ・システムと同義と考え、専門用語辞典にもそのように書かれています。
新型コロナウィルス感染の初期段階、クラスターは、たしかに目立ちました。日本では屋形船で懇親をした人たちの集団感染が当初問題になりました。
しかし専門家の人たちが、感染の拡大は、クラスターの発生という形で生じ、さらなる感染の拡大は、クラスターの連鎖という形で進むと考えたのは適切ではありません。

ベースとして市中感染があり、その一部が凝集したものがクラスターと考えるのが妥当です。
さらに市中感染が進み、その一部が次々に凝集したものがクラスターの連鎖です。
実際に市中感染がどれくらいベースとして存在しているか、東京都で1日の感染確認者が最も多かったのは、4月17日の201人ですが、このうち67%の134人が、
経路不明・調査中とされています。

クラスターだけおさえていたのでは、感染の拡大を防止することは不可能です。(実際の感染者は、感染確認者数の10~20倍存在する可能性のあることが、多くの識者によって指摘されています。市中感染者は、それだけ多いということです。)
新型コロナウィルスの国内感染の可能性がでてきたとき、この問題に対する本質モデルが、「検査の徹底+トリアージ」と、潜在的な感染者からの伝染を防ぐ「人々の行動規制」であることは、4月号のメルマガで述べました。

トリアージは、感染しているかどうか、また、感染している場合、症状のレベルに応じて処置を分けることです。
このモデルは、情報システム学の再起概念をもとに形成したものです。
人間の情報行動の基本的なモデルとして、PDCA、あるいはOODAが挙げられます。
OODAは、Observations ‟観察”、Orientation ‟状況判断”、Decision ‟意思決定”、Action‟行動”の頭文字をとったものです。
これらのモデルをさらにもう一段階、抽象化して表現すると、哲学者の今道友信先生の提唱された、information⇒incarnation という、人間の情報行動の最も基本的なモデルになります。

ここで information は、OODAで言えば、OODのプロセスを表わし、incarnation は、Action を表わします。
新型コロナウィルスへの対応では、information のプロセスで、検査と診察を行ない、その結果にもとづいて処置を決定します。次に incarnation のプロセスで、処置を実行します。
このモデルから、新型コロナへの対応の出発点は、まず検査であり、検査をしなければ何ごとも始まらないことが分かります。
次に、このプロセスのリスクを分析します。1つは、検査能力の限界です。たとえ東京
都で1日7000人検査したとしても、人口の0.05%に過ぎません。

残りの人たちの間に感染者がいれば、感染は拡大します。また、検査は誤差をもちます。陽性なのに陰性と判断された場合、その人は隔離されず、市中に感染を広げる恐れがあります。
これらのリスクを評価した上で、対応した処置をとります。それが本質モデルとして挙
げた「人々の行動規制」です。
新型コロナウィルス問題に対応する本質モデル、「検査の徹底+トリアージ」と、潜在的な感染者からの伝染を防ぐ「人々の行動規制」は、きわめて基本的であり、当然と言ってもよい内容です。
ところが奇妙なことに、日本では、最初の感染者が確認されてから約2か月の間、専門家や有識者から検査の拡大に反対する主張が多くなされ、実際に検査件数の増加はほとんどありませんでした。

2月18日から3月15日までの27日間で見ると、全国で検査件数は、1日平均1200件、一人に複数回の検査をしており、検査をした患者さんの実数は、その半分以下でした。当時、韓国の1日平均1万2000件と比べて、桁違いの少なさです。
検査の拡大に反対する理由は4通りもありました。

①医療が崩壊する、②PCR 検査に誤差が多い、③検査で陽性であることが判明しても治療法がない、④検査を拡大すると医療機関に検査希望者が殺到して、そこで集団感染が起きる、等です。
中でも最も強力に叫ばれ、実際に検査の拡大を阻んだのは、①の医療が崩壊するという主張でした。この主張が生まれた原因を考えると注目すべきことがあります。先に人間の情報行動の基本モデルとして、今道先生の提唱された、information⇒incarnation を挙げました。ここで、当たり前のことですが、information と incarnation は異なったプロセスとして明確に峻別されます。

ところが、検査を拡大すると医療が崩壊すると主張する人は、
両者を分けないで、ドンブリのように渾然一体のものとして考えたのではないかということが推測されます。
情報学者の長尾真氏は、「一般的には、欧米の学者は、名前を与えることによって、ある概念を他の概念から明確に区別するということに関心が高く、こうした名称の体系によって学問を体系的につくり上げていくことが上手である」と述べています。

相対的に日本の学者は、ある概念を他の概念から明確に区別するということに関心が低く、学問を体系的につくり上げていくことが下手であることが示唆されています。
コロナへの対応にあたる専門家や識者の人たち(日本の社会では指導層)に、プロセス概念をドンブリのように考えてしまう習慣があるとすると、今後わが国社会でDX(デジタルトランスフォーメーション)を進めていく上においても、多くの文化的な困難が予想されます。
「検査の徹底+トリアージ」と、潜在的な感染者からの伝染を防ぐ「人々の行動規制」
というコロナ対策の本質モデルにおいて、前者のリスク対応として、後者の「人々の行動規制」をすることを述べました。「人々の行動規制」をすれば、そのレベルによって、経済は大打撃を受けます。

このとき上記の本質モデルから、「検査の徹底+トリアージ」を厳密に行なえば行なうほど、リスクが低下、「人々の行動規制」の緩和が可能になり、経済への打撃が少なくなることが分かります。
このことを立証する、数学モデルを用いた研究が、社会物理学者の小田垣孝氏によってなされたことが、5月6日、朝日新聞 DIGITAL によって報じられました。社会物理学とは、‟世の中の仕組み”学であり、情報システム学と密接な関係があります。
緊急事態宣言下の日本では、専門家会議により、人々の接触を8割減らせば感染拡大は2週間で減少に転じるが、7割減では2か月以上かかるという見解が出され、また政府からも、最低でも7割、できれば8割接触減の目標が示されました。

国民の多くが指針に従い自粛に努めたため、たしかに感染は終息に向かい、緊急事態宣言の全面解除が視野に入ってきました。しかし、経済には致命的な損害がすでに生じています。 
小田垣先生の研究によると、感染者数を減らすには、接触の自粛より、PCR 検査数を増加させ、発見した感染者を隔離する方がはるかに効果的です。
新規感染者数が10分の1になる日数を計算すると、検査数が現状のまま、接触を8割減らした場合、23日かかります。検査数が現状のままだと、10割減(ロックアウト)した場合でさえ、18日かかります。
ところが、検査数を2倍にすると、接触が5割減でも、14日で新規感染者は10分の
1になります。

さらに、検査数を4倍にすると、接触を一切自粛しなくても、8日で10
分の1になります。
韓国、ドイツをはじめ、多くの国が、日本の10~20倍も検査を進めていたのは、ま
さに上記のようなモデルを理解していたからではないか、とも言えます。その点、日本では、検査を拡大すると医療崩壊するなどの俗論が主流になり、実際に検査の拡大が進まなかったのは痛恨の極みです。
5月5日発表された論文の中で、小田垣氏は次のように述べられています。
「 2 月から 4 月にかけての政府の方針は、公式的には医療崩壊を防ぐために PCR 検査数を極力減らすというものであった。これは、結果として(中略)、市中の感染者を増加させたことになったと言わざるを得ない。
感染係数を小さくするために行われている人と人との接触頻度を下げる対策は、市民に極めて大きな影響を与え、さらに経済を少なからず減退させており、ひとえに市民生活と経済を犠牲にするものである。一方、隔離率を上げるために、効率的な検査体制と隔離の仕組みを構築することは政府の責任である。

政府が、「接触 8 割減実現」のみを主張するのは、責任放棄に等しい。」
政府が重要課題に関する意思決定をするとき、衆知を集めて最善の合意形成をする仕組みをどのようにつくっていくか、今の日本の大きなテーマと思われます。
連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からも、ご意見を頂ければ幸いです。 

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【国内感染】新型コロナ 28日 2684人過去最多に(午後9時半)

2020年11月29日 06時30分08秒 | 社会・文化・政治・経済

28日はこれまでに全国で2684人の感染が発表され1日の発表としては今月21日の2591人を超えて最多となりました。また、大阪府で8人、北海道で4人、茨城県で2人の合わせて14人死亡の発表がありました。国内で感染が確認された人は、空港の検疫などを含め14万5502人、クルーズ船の乗客・乗員が712人で、合わせて14万6214人となっています。亡くなった人は国内で感染した人が2110人、クルーズ船の乗船者が13人の合わせて2123人です。

各自治体などによりますと、国内で感染が確認された人は、累計で次のとおりです。()内は28日の新たな感染者数です。

▽東京都は4万210人(561)
▽大阪府は1万9630人(463)
▽神奈川県は1万2326人(215)
▽愛知県は9862人(217)
▽北海道は8526人(252)
▽埼玉県は8219人(118)
▽千葉県は6849人(113)
▽福岡県は5758人(56)
▽兵庫県は5459人(145)
▽沖縄県は4247人(78)
▽京都府は2646人(30)
▽静岡県は1560人(81)
▽茨城県は1508人(66)
▽宮城県は1195人(14)
▽群馬県は1177人(29)
▽奈良県は1081人(17)
▽岐阜県は1034人(20)
▽熊本県は1010人(4)
▽石川県は846人
▽三重県は826人(29)
▽広島県は821人(23)
▽滋賀県は777人(4)
▽長野県は691人(21)
▽鹿児島県は623人(2)
▽栃木県は619人(12)
▽岡山県は583人(15)
▽福島県は496人(6)
▽宮崎県は483人(7)
▽富山県は458人(1)
▽和歌山県は436人(8)
▽山口県は381人(9)
▽山梨県は338人
▽新潟県は329人(3)
▽福井県は314人(2)
▽佐賀県は307人(7)
▽愛媛県は304人(8)
▽青森県は287人
▽大分県は273人(18)
▽長崎県は269人
▽岩手県は183人(4)
▽徳島県は181人
▽高知県は149人
▽島根県は146人(1)
▽香川県は143人(4)
▽山形県は122人(6)
▽秋田県は90人(1)
▽鳥取県は58人です。

このほか
▽空港の検疫での感染は1499人(14)
▽中国からのチャーター機で帰国した人と国の職員や検疫官などの感染は合わせて173人です。

厚生労働省によりますと、新型コロナウイルスへの感染が確認された人で、人工呼吸器や集中治療室などで治療を受けるなどしている重症者は、28日時点で440人(+5)となり、過去最多となっています。

一方、症状が改善して退院した人などは、28日時点で
▽国内で感染した人が12万259人
▽クルーズ船の乗客・乗員が659人の合わせて12万918人となっています。

また、26日には1日に3万7177件のPCR検査が行われました。

※26日の発表分の訂正で埼玉県1人減(11/27)
※25日の発表分の訂正で神奈川県1人減(11/27)
※25日の発表分の訂正で兵庫県1人減(11/27)
・集計は後日修正される可能性があります。
・在日米軍の感染者は含めていません。
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