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アメリカの対外支援縮小 世界の地雷対策に影響

2025年04月30日 09時22分53秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

 

2025年3月14日

トランプ大統領の就任以来、米国では矢継ぎ早に様々な政策転換が行われています。ルビオ米国務長官は3月10日、米国の対外援助を担当する国際開発局(USAID)の事業の83%を打ち切ったと明らかにしました。

米国は地雷対策への世界最大の資金拠出国であり、すでに地雷対策活動を停止せざるを得ないNGOが相次いでいます。米国の政策変更が今後世界の地雷対策に与える影響について考えます。

地雷除去の様子

地雷を起爆させるトリップワイヤーを探すヘイローの除去要員=ウクライナの首都キーウ近郊(紺野誠二撮影)

トランプ大統領は就任初日の1月20日、「米国の対外援助の見直しと再編制(REEVALUATING AND REALIGNING UNITED STATES FOREIGN AID)」という大統領令を発令しました[1]

この中で「米国の対外開発援助は、プログラムの効率性と米国の外交政策との整合性を評価するため、90日間一時停止する」としています。米国の国際開発局(United States Agency for International Development、通称USAID)については、廃止を含む見直しがなされています。

大手国際NGO 次々地雷対策を停止

既にいくつかの大手国際NGOは米国政府の資金による地雷対策活動の停止を余儀なくされています。例えば、ノルウェーに本部を置く「Norwegian People’s Aid(NPA)」は12カ国で米国政府資金による活動を停止しており[2]、さらに90日間の援助一時停止期間中に事業期間が満了となるイラク、パラオ、タジキスタンでの活動終了の準備を進めています[3]

イギリスに本部を置く「Mine’s Advisory Group(MAG)」も、米国政府の資金による活動停止を1月27日に発表し[4]、カンボジアでも除去活動が一時停止となっています。ちなみにAAR Japan[難民を助ける会]は米国政府からの資金を受けていないため、事業への影響は出ていません。

この状況に対し、地雷対策をはじめ爆発物などに関するアドボカシー活動を行っているNGOであるACTION ON ARMED VIOLENCE (AOAV、本部イギリス)のエグゼクティブ・ディレクター、イアン・オーバートン(Iain Overton)氏は「地雷除去の努力を止めることは、人間の苦しみを長引かせ、世界の安全保障を危うくするという壊滅的な結果をもたらしかねない。

もしこれが一時停止よりも長引けば、無数の人命を危険にさらす近視眼的な決定となりかねない」と米国政府を批判しています[5]。米国政府以外の資金による活動は継続されていますが、地雷対策に大きな影響が出ていることは間違いありません。

米国は世界地雷対策費の約4割を拠出

米国は対人地雷全面禁止条約(通称オタワ条約)の締約国ではなく、クラスター弾に関する条約(オスロ条約)にも参加していません。

しかし、長年にわたって国際的な地雷対策の最大の拠出国であり続けてきました。Landmine Monitor Report 2024によれば、2023年の地雷対策への国際社会からの支援額は7億9,830万ドル。

うち米国政府の拠出額は3億980万ドルで、38.8%を占めます。2番目に多いのはドイツの8,030万ドルで、米国は文字通り「ケタ違い」の額です。

日本は6,750万ドルで、米国の5分の1強です。

そもそも国際社会の地雷対策への拠出が大幅に増えたのは1999年のオタワ条約(対人地雷禁止条約)の発効がきっかけでした。

オタワ条約第6条で、地雷対策への国際的な協力および援助が求められたためです。米国の地雷対策への拠出額も、1999年の約8,129万ドルから、2010年に約12,958万ドルとなり、以後も右肩上がりでした。

世界の地雷対策への拠出額は、2019-2021年ごろまでは総額5億5,000万ドル前後で推移しており、2022年に8億ドル近くまで急増しました。米国のウクライナへの拠出が増えたためです。

同国は2019-2021年にもウクライナの地雷対策に850万ドル規模の拠出をしていましたが、2022、2023年はいずれも推定9,000万ドル以上と約10倍になっています。

大半は米国国務省から

実は、米国政府の最大の地雷対策資金拠出機関は、USAIDではなく、米国国務省です。同省が毎年発行する報告書“To Walk the Earth in Safety”[6]と、Landmine Monitor Report 2024を突き合わせると、米国の地雷対策の拠出の大半[7]は、同省の核不拡散・反テロ・地雷除去・関連プログラム(Department of State – Nonproliferation, Anti-terrorism, Demining and Related Programs)や国防省から出ていることが分かります。

2023会計年度の拠出額は、国務省からの拠出が2つの資金ソース合計で3億5,061万ドル、国防省からの拠出額が3,417万ドル、USAIDからの拠出額が1,347万ドルで、合計3億9,826万ドルになっていました。

合計額には地雷対策だけではなく、通常兵器の廃棄のための拠出も含まれていますが、大半は地雷対策への拠出です。

国務省も資金停止 国防省は8%に削減

現状では、USAIDだけでなく、国務省からの資金拠出も停止されています。米ニューヨーク・タイムズ紙の記事によれば、国務省で地雷対策を担当する武器撤去室(Office of Weapons Removal and Abatement)のカレン・R・チャンドラー室長(Karen R. Chandler) は、資金拠出の停止を認めたうえで、「国際的な地雷対策への拠出については、米国の対外援助の見直しに関する大統領の大統領令に沿ったもの」だとしています[8]

国防省の資金拠出については、ピート・ヘグセス(Pete Hegseth)国防長官が、現行予算から8%(約500億ドル相当)を削減し、トランプ大統領の提唱する「国防における米国第一主義」の優先事項に集中させる、と2月20日に発表しています[9]

現時点ではこの8%の中に地雷対策への拠出が含まれるか、逆に資源を優先的に集中される事項に含まれるのかどうかは、はっきり示されていません。

一連の動きに対し、イギリスの地雷除去大手NGO、MAGのCEO、ダレン・コルマック(Darren Cormack)氏は「私たちの活動は、米国の国益に合致していることから、トランプ大統領の第一次政権を含むすべての米国政府政権から強力かつ超党派的な支持を得ています。今後数年間、トランプ新政権と協力していくことを望んでいます」との声明を出しています[10]

イギリスの地雷除去NGO「The HALO TRUST」の米国事務所のディレクター、クリス・ハートリー(Chris Whatley)氏も同様の見解を示しています[11]

かつての米軍派遣国を積極的に支援

コルマック氏らの主張は、これまで米国がどのような国の地雷対策を重点的に支援してきたかを見るとよく分かります。米国国務省の地雷対策を含む通常兵器破壊プログラム(Conventional Weapons Destruction Programme)の拠出額や、Landmine Monitor Reportを見ると、カンボジアやボスニア・ヘルツェゴヴィナ等が上がり、さらにアフガニスタン、イラク、ベトナム、ラオス、コロンビアが続きます。コロンビア以外の国々には、いずれも米軍が派遣された歴史があります。突出して拠出額が多いイラクとアフガニスタンは「テロとの戦い」で戦場となり、ラオスとベトナムにはベトナム戦争の負の歴史が刻まれています。米軍はラオスに多くのクラスター弾を投下し、今も住民の安全を脅かしています。このことは米国が必ずしも国際協力の枠組みだけでなく、関係改善を必要とする国への支援を重視し、国益の観点からも地雷対策の資金拠出をしてきたことを示唆しています。

もちろんそれだけではなく、2023会計年度ではタジキスタンやルワンダなどの国々の地雷対策にも資金を拠出しており、地雷対策のため同国の支援は欠かせません。AARとしては、米国が引き続き国際的な地雷対策に貢献していくように、他のNGOと連携して働きかけを行っていきたいと考えます。

[1] REEVALUATING AND REALIGNING UNITED STATES FOREIGN AID
[2] Statement from NPA: All of NPA’s US-funded activities are put on pause
[3] Termination of activity on expiring US grants 
[4] MAG, “MAG statement on US funding suspension”, January 27, 2025  
[5] U.S. halts global mine-clearing efforts amid foreign aid review
[6] To Walk the Earth in Safety (2024)
[7] Landmine Monitor Report 2024に掲載されている拠出額合計309,756,000米ドルのうち、東南アジア地域への拠出額4,250,000米ドル(全体の約1.4%)だけは拠出を特定できず。
[8] The NEW York Times, “State Dept. Halts Global Mine-Clearing Programs”, January 25, 2025
[9] U.S. Department of Defense, “Hegseth Addresses Strengthening Military by Cutting Excess, Refocusing DOD Budget”, February 20, 2025.
[10] MAG, “MAG statement on US funding suspension”, January 27, 2025  
[11] The NEW York Times, “State Dept. Halts Global Mine-Clearing Programs”, January 25, 2025

紺野 誠二KONNO Sei東京事務局

AARから英国の地雷除去NGO「ヘイロー・トラスト」に出向し、コソボで8カ月間、地雷・不発弾除去作業に従事。現在は東京事務局で地雷問題やアフガニスタン事業を担当。


物価高対策 公明党で推進

2025年04月29日 08時01分46秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

2023年4月8日

公明党がリードする物価高対策

議員サポート

統一地方選の前半戦となる道府県・政令市議選の投票日がいよいよ、あすに迫りました。きょう1日、街頭演説などで訴え抜きたい公明党の物価高対策を紹介します。

光熱費・燃油費

電気、都市ガス料金値引き実現

今年1月から、使用量に応じた電気・都市ガス料金の値引きが始まっています。

電気料金は一般家庭向けに1キロワット時当たり7円の補助で、標準的な世帯で月2800円程度(400キロワット時使用)、都市ガス料金は1立方メートル当たり30円の補助で月900円程度(30立方メートル使用)が軽減されます。

さらに4月使用分からは、電気代に上乗せされている「再生可能エネルギー賦課金」が引き下げられ、標準世帯で月820円の一層の負担軽減になる見通しです。また、大手電力7社が家庭向け電気料金の値上げを国に申請していることについては、値上げ幅を圧縮できないか政府が厳格に審査します。

ガソリン料金も補助金で負担軽く

ガソリンなどの店頭価格抑制に向けた燃油補助金では、ガソリン価格を1リットル当たり168円以上に上昇しないよう抑えています。今年は、月々の補助上限額を調整しながら9月末まで実施されます。

家計への支援で4.5万円軽減

こうした電気代と都市ガス代に、ガソリンなどの燃油代を合わせた負担軽減額は、1月から9月までの使用分で標準世帯では総額4万5000円程度になる見込みです。

自治体への財政支援

ネットワークで臨時交付金を拡充

公明党の主張で実現した地方創生臨時交付金が、全国の自治体の物価高対策に役立っています。これは、公明党が誇る「ネットワークの力」によるものです。

新型コロナ対策のため2020年度に創設された同交付金は、昨年から物価高対策にも使えるようになり、予算も上積みされました。各自治体の判断により、地域で必要とされる施策に活用できる使い勝手の良さが特徴です。

学校給食費の補助など推進

臨時交付金の活用事例は多岐にわたります。例えば、学校給食費の補助や水道基本料金の一時免除、子育て家庭や生活困窮家庭への給付、消費喚起のためのプレミアム付き商品券などに使われています。

大幅積み増しで追加策に生かす

公明党の提言を受け、政府は臨時交付金を1.2兆円積み増すことを決定。このうち5000億円は「低所得世帯支援枠」として、住民税非課税世帯1世帯当たり3万円を目安に給付します。残り7000億円については、LPガスや電気使用量の多い法人向け「特別高圧電力」の負担軽減策などに活用するよう自治体に促すことが決まりました。

低所得の子育て世帯に給付金も

臨時交付金とは別に、低所得の子育て世帯支援に向け、児童扶養手当を受給するひとり親世帯や住民税非課税の子育て世帯などを対象に、児童1人当たり5万円の「子育て世帯生活支援特別給付金」を支給します。

中小企業の賃上げ

継続的な賃上げを積極的に後押し

本格的な経済再生に向けて、「物価上昇を上回る賃上げ」が鍵を握ります。中小企業の賃上げへ、コスト上昇分を適正に価格転嫁しやすい環境を整備するため、「下請Gメン(取引調査員)」の増員などの対策が強化されています。

また、中小企業の収益性を高めるための研究開発や、デジタル化・脱炭素化への取り組みをきめ細かく支援。公明党は、革新的な商品・サービス開発で急成長をめざすスタートアップ(新興企業)の海外展開も強力に後押しします。

農林水産業の振興

輸入に依存する肥料の国産化へ

物価高の影響は、農林水産業にも及んでいます。公明党は生産資材の高騰に苦しむ農家や畜産、酪農の経営支援、輸入依存度の高い肥料・飼料・穀物の国産化の推進を訴え、対策に反映されました。

肥料については、国内資源の利用拡大に必要な施設の整備を進めるほか、肥料原料の備蓄支援も行います。

また、国産飼料の供給・利用拡大へ、稲作・畜産農家の連携強化や大豆・小麦の国内生産の拡大と安定供給、米粉の普及に向けた施設整備なども支援します。

食料品の値上げ抑制など進める

輸入小麦を民間に売り渡す価格を抑えるため、臨時交付金から311億円を確保し、4月以降の同価格の値上げ幅を5.8%と、本来の13.1%から圧縮することになりました。こうした取り組みにより、食料品の値上げ抑制などを進めます。


トランプ米政権の大学いじめ

2025年04月25日 08時59分49秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

トランプ政権、ハーバード大学に謝罪要求 連邦資金の凍結に再言及

  • (CNN) トランプ米政権は15日、ハーバード大学に対して謝罪を要求し、連邦政府による資金支援の目的に疑問を呈した。政権は前日、ハーバード大に対する複数年の助成金22億ドル(約3150億円)を凍結していた。

ホワイトハウスのレビット報道官は政権の措置について、大学のキャンパスにおける反ユダヤ主義に歯止めを掛ける取り組みと位置づけた。ただ、ハーバード大に対してはこれ以外にも、多様性・公平性・包摂性(DEI)プログラムの廃止や学内の抗議運動でのマスク着用禁止、実力主義に基づく採用の徹底を求めている。

レビット氏はトランプ氏がハーバード大を政治団体とみなして課税対象とし、非課税資格を剥奪(はくだつ)する可能性を示唆した件について問われ、内国歳入庁(IRS)に問い合わせるよう述べるにとどめた。ただ、詳細には触れずハーバード大は謝罪する必要があるとの見方を示した。

レビット氏は「(トランプ氏は)ハーバードが謝罪することを望んでいる。ハーバードはキャンパス内で起きたユダヤ系米国人学生に対する悪質な反ユダヤ行為について謝罪すべきだ」としている。

レビット氏はまた、議会公聴会でのハーバード大のゲイ前学長の発言にも言及した。

ゲイ氏は公聴会で、ユダヤ人虐殺を呼びかける行為は、「状況によっては」いじめとハラスメントに関する大学の規定に違反する「可能性がある」と発言していた。ゲイ氏はこの発言について謝罪済み。

レビット氏はさらに、大学に拠出される連邦政府資金の今後の扱いについても改めて疑問を呈した。これを政治的に有利に働く争点だとみなすトランプ政権の思惑が透ける。

レビット氏は「大統領はもっともな疑問を呈していると思う」と前置きした上で、「ハーバードには500億ドル以上の基金があるにもかかわらず、20億ドルを超える連邦資金が投じられてきた。すでに多額の資金を銀行に持っている大学を、なぜ米国の納税者が支えなければならないのか。これほど重大な反ユダヤ行為が存在する場所には間違いなく資金提供すべきではない」との見方を示した。

コロンビア大、親パレスチナデモで建物占拠の学生処分 停学や退学

コロンビア大、親パレスチナデモで建物占拠の学生処分 停学や退学
3月13日、米コロンビア大学は昨年春に親パレスチナの抗議活動で構内の建物を占拠した学生に対し、さまざまな処分を下したと発表した。写真は占拠された建物に入る警察。昨年4月撮影(2025年 ロイター/Caitlin Ochs)
[13日 ロイター] - 米コロンビア大学は13日、昨年春に親パレスチナの抗議活動で構内の建物を占拠した学生に対し、さまざまな処分を下したと発表した。
コロンビア大を巡っては、トランプ政権が先週、構内での反ユダヤ主義的活動に対する大学側の対応が不十分だとして、総額4億ドル相当の助成金と契約を取り消すと発表。カトリーナ・アームストロング臨時学長は政権側の懸念を妥当とし、政府と協力して対処していると述べていた。 もっと見る
同大学は13日の声明で、構内の建物「ハミルトンホール」が昨年春に占拠されたことに関連し、学生や教授、職員らで構成する委員会が数年間の停学や一時的な学位剥奪、退学などの処分を決定したと明らかにした。
法的なプライバシー保護を理由に、処分を受けた学生の氏名や人数などは公表しなかった。学生は処分に異議を申し立てることができる。
コロンビア大の学生労働者を代表する労働組合「UAWローカル2710」は、同組合トップのグラント・マイナー氏が退学となった学生の1人だとし、大学側の処分は憲法修正第1条で保障される言論の自由に対する攻撃だと批判した。
 

戦争は人間性の敗北 フランシスコ・ローマ教皇

2025年04月23日 10時30分25秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

 「戦争は人類の敗北」教皇、一般謁見で
教皇フランシスコは、一般謁見の会場で参加者と共に、戦争の犠牲者を思い起こし、祈られた。

 

 教皇フランシスコは、3月23日(水)、バチカンで行われた一般謁見の席で、戦争の犠牲者を思い起こし、参加者と共に祈られた。

 一般謁見の終了前、教皇は、ここで戦争の犠牲者を思い起こしたい、と述べた。

 「疎開する人、逃げる人、亡くなった人、負傷した人、戦死した多くの双方の兵士たち…、これらはすべて死のニュースです。いのちの主に、戦争の死からの解放を祈りましょう」と教皇は招いた。

 「戦争に勝利はありません。あるのは敗北だけです」と述べた教皇は、「主が聖霊をおくり、戦争は人類の敗北であり、むしろ戦争自体に打ち勝つことが必要だと、わたしたちに理解させてくださるように」と願った。

 そして、教皇は「主の霊がわたしたちをこの戦争という自滅から守るように」、また「治世者たちが、武器の取引と製造は問題の解決にならず、聖書が言うように、共に平和のために働くことこそが解決であると理解するように」と祈られた。

 こうして、教皇は巡礼者らと共に「アヴェ・マリアの祈り」を唱えられた。

大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために


23 3月 2022, 14:29


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父親と二人の息子のたとえを考察、教皇一般謁見カテケーシス
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教皇、イエスとニコデモの出会いを考察、一般謁見カテケーシスですべて読む >
23-04-2025 15:50

 

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東北・アイヌ語地名の研究

2025年04月18日 08時54分14秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

アイヌ語地名の研究 1 ペーパーバック – 1995/7/1

 
 
調査重ね厳密な解釈 平易な文章で興味深く
 「私の弟子であり師匠である」(故知里真志保氏)、「空前絶後のアイヌ語地名研究家」(服部四郎東大名誉教授)―同学の人々をしてかくいわしめた在野の研究者、山田秀三氏の「アイヌ後地名の研究―山田秀三著作集」全4巻が完結した(草風館)。
小冊子に発表されてきた同氏の文章や論文がまとめて公刊された意義は大きい。
 よく調べると北海道では溝のような小川にまでびっしりアイヌ語地名がついている。漁業や狩猟で暮してきた民族らしく、そのほとんどが地形からつけた地名である。
 語尾に「ペッ」(一般的に大きな川の意)、「ない」(一般的に小さな川、沢の意)、「ウッシ」(××が群在する所の意)がつく地名が、アイヌ語地名の半分以上を占めている。青森、岩手、秋田の東北3県の主として山間部にも無数のアイヌ語地名が残っている。
 津軽海峡をはさんだ北海道側と青森側には、同じアイヌ語地名の土地がたくさんある。これは北海道と東北の北半部が地名上は切れ目のないアイヌ語地名地帯であり、東北に住んでいた「エゾ」がアイヌ語族だったことを示している。
 以上が山田秀三氏の研究の要約である。この著作集の第4巻には7000余のアイヌ語地名の索引がついているが、こうした研究の結論は氏の丹念な現地調査と独学で習得したアイヌ語による厳密な地名解釈に裏付けられたものである。
 アイヌ語地名研究者としての山田氏の経歴は変わっている。戦前は軍需省化学局長まで務めた一高、東大卒のエリート官僚だった。
昭和16年、仙台鉱山監督局長だったとき、東北各地を歩いて日本語では意味がわからない風変わりな地名があることに興味を持った。
 昭和24年、北海道登別に設立された北海道曹達会社の社長に就任、こんどは道内のアイヌ語地名の調査を始めた。この時期に金田一京助、その弟子のアイヌ人言語学者知里真志保両博士の知遇を得た。
初めて金田一氏を訪れたとき、東北のアイヌ語地名に関する山田説を披露すると、博士の目がギラギラ光り出したという。
            (朝日新聞1983.6.20読書欄)            
 
↓「前書きなど」に続く

内容(「MARC」データベースより)

アイヌ語の地名は日本列島中での貴重な文化財-という著者が、金田一京助、知里真志保の薫陶を受けつつ、30年に亘り実際に地形を見て廻った膨大な資料を纏めたもの。アイヌ語地名の分布・系統を解明した山田地名学の集大成。
 
 
 
東北・アイヌ語地名の研究
 地名は、その土地で生活した人々の言語の痕跡であり、土地の歴史を刻み込んだ文化遺産でもある。古くからの地名変更に多くの抵抗が起きるのも、こうした認識が浸透していることの証明と言えるであろう。
 本書は、40年以上にわたってアイヌ語地名の研究を続けてきた著者が、ここ10年の成果をまとめた。田子、山内、三内、長内、米内、比立内など、東北に残るアイヌ語地名と思われる例について、詳しい検証がなされている。
「仙台から秋田・山形県境付近にかけての線から北方に、一段と濃く分布するアイヌ語地名こそ、蝦夷(えみし)が残した足跡であり、北東北の蝦夷はアイヌ語を常用していた」。これが著者の結論だ。
 著者は仙台鉱山監督局長、軍需省化学局長などを歴任した後、北海道曹達社長、会長を務めた。昨年7月、93歳で死去しており、本書が遺稿集となった。
              (1993.9.12 河北新報)
 

〈世界を結ぶ対話録〉第4回 池田先生がつづる インドの詩人 クリシュナ・スリニバス博士

2025年04月08日 12時17分35秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
    2025年4月7日
  • 詩人は永遠を見る

 「池田氏は、豊かな大衆に根ざす詩人、時代を若返らせる詩人、そして巨大なる詩人」「その声が聞けることは、世界にとって幸運です」と評したインドの詩人クリシュナ・スリニバス博士。池田先生が出会いをつづったエッセーを掲載する。〈『私の世界交友録』読売新聞社(『池田大作全集』第122巻所収)から〉

1979年7月13日、スリニバス博士と対談する池田先生(神奈川文化会館で)
1979年7月13日、スリニバス博士と対談する池田先生(神奈川文化会館で)

 永遠が ここにある
 限りなき「今」のなかに
 晴れ晴れと輝く「今」のなかに
 運命の凍結のなかに
 憎しみの死滅のなかに
 (詩集『五大』の「火」から)
  
 インドの詩人クリシュナ・スリニバス博士の宿願は、「五大」すなわち宇宙をつくりあげている五つの要素「地水火風空」を謳い上げることであった。
 「それが私の使命であり、それが終われば、私はもうどうなってもよい、と思っています」
 博士の話しぶりには巧まざる韻律があった。声は正直である。博士の私心なきお人柄が、言葉の中身以上に声の抑揚に表れていた。
 横浜の港のかなたに雄大な夏雲が隆起していた。一九七九年(昭和五十四年)七月。私は神奈川にいた。空は光にあふれ、海も耀い、人の世の不透明な相克を朗笑っているかのようであった。
 その日盛りの午後、インドの港町マドラスからの賓客を迎えて、私は詩論を楽しんだ。マドラスは、その十八年前、私が「精神の大国」への第一歩をしるした忘れ得ぬ町である。あの喧騒。あの活力。それでいて、時の流れが変わったような、永劫感覚とでもいうべき、あの悠久の趣。
 スリニバス博士は、この町を拠点に、世界五十カ国に読者をもつ英語の月刊詩誌『ポエット(詩人)』を一九六〇年から発行しておられる。世界詩歌協会の会長、国際詩人学会の会長を務め、この時の来日は、ソウルで開かれた第四回世界詩人会議の帰途であった。菜食主義者らしい、ほっそりとした長身である。
 「偉大な詩人がいなくなりました」。博士が大息された。
 「私は『ポエット』を通して、世界中の多くの詩を見ます。それらは『良い詩』であっても『偉大な詩』ではありません。かつて私は『埃りの舞い(Dance of dust)』という詩集を出版しました。今の詩は塵芥が舞っているようなものだ、しかし偉大な詩人が、いつかきっと現れる、という内容です」
 博士の名を高めた、この詩集(一九四六年刊)は、T・S・エリオット、オーデン、スティーヴン・スペンダーら錚々たる詩人に絶賛された。
 博士は言われる。
 「真実の詩人は、宇宙、精神、真理などについて語る詩人です」「詩には常に呼びかけるもの(メッセージ)がなければなりません。また永遠性がなければなりません」
 メッセージとは、「歌わずにいられない」何かをもっているかどうかということであろう。これを表現し終えれば死んでもいい、これを伝えなければ生きている甲斐がない――そういう炎が内に噴き上げているのが詩人である。
 博士の炎が向かう焦点が詩集『五大』であった。私は申し上げた。
 「五大は、わが生命でもあります。この一個の生命は大宇宙と同じく地水火風空からなる。すなわち五大は我即宇宙の哲学を表しています。この五大は妙法蓮華経の五字でもあります……」
 ◆ ◆ ◆ 
 私は思う。詩人は永遠を見る人である。全身で永遠を感ずるゆえに、彼は諸行の無常を観ずる。諸物の止まらない流転が目に映るゆえに、この一瞬一瞬のかけがえなさを知る。
 この「今」。充溢の「今」。生命にあふれた「今」を愛おしみ、詩人は歌わずにいられない。
 詩人はいつも元初の地平に立っている。彼は毎朝、新しく誕生する。彼には毎日が始まりの日である。「久遠の子ども」の汚れない瞳で詩人は世界を見る。
 すると日常は何と美しいことだろう。
 葉裏に透ける陽の光――何という奇跡! 
 窓ガラスをすべる銀の雨粒――何という宝石!
 詩人は宇宙の法則の探究者であり、万象を黄金の大生命の表れと見る。ゆえに彼は常に「ほめたたえる人」である。
 詩人は、平凡な日常にも、不滅の生命が浸透していることを知っている。だから彼は、ものの価値を機能で見ない。「それが私の何の役に立つか?」でなく、「その命は光っているか?」を、それ自身のために思いやる。消費文明の市場価値でなく、心による価値が彼の基準である。一枚の粗末な紙でも、心がこもっていれば、億万の紙幣より彼は大切にする。
 科学は「だれでも代わりになれる」と突き放し、詩は「君でなければならない」と呼びかける。
 詩人は戦う人である。
 彼は人間の運命に責任を感じる。彼は、世界のどこかで非人間的に扱われる人間がいることを容認できない。一人の人間こそ全宇宙という織り物を結びつける結び目であり、どの一人なくしても宇宙は完全ではないことを彼は感じている。
 だから――私は博士に語った。
 「現実に埋没した社会にあって、詩は心の窓を開けます。その窓から、さわやかな生命の涼風が吹きこんできます。詩は人間性の証であり、崇高な魂の歌です。詩は人間を人間に立ち戻らせます。ゆえに指導者層も含めて、あらゆる階層、あらゆる立場の人々が、詩を愛するようになった時、どれほど社会は明るく、美しく、活力に満ちて進歩することでしょうか」
  
 世紀の病は深い。人々は無感動、無気力という「心の死」に呻いているかに見える。物質主義の青黒い病菌が心をも機械にしてしまったかのように、悲しむべき時に悲しめず、喜ぶべき時に喜べず、その苛立ちを刹那の陶酔に、まぎらそうとし――。
 この心を蘇生させるのが、詩の力である。広くは文化の力、美の力である。
 詩――それは夏の雲のようにわきあがる清朗なエネルギーであり、生き生きと感動する心であり、みずみずしい目の輝きである。そこに永遠は宿っている。
 スリニバス博士は八十歳を超えた今もお元気で「詩を通しての平和」へ活動しておられる。大いなる人生を彫琢し続けておられる。あの日の凜とした言葉そのままに。
 「そうです、詩は境涯です。偉大な詩は、偉大な人間からしか生まれません!」

池田先生への世界桂冠詩人賞が、世界詩歌協会から贈られた(1995年8月8日、インド・マドラス〈当時〉で)
池田先生への世界桂冠詩人賞が、世界詩歌協会から贈られた(1995年8月8日、インド・マドラス〈当時〉で)

クリシュナ・スリニバス 1913年生まれ。インドの詩人。T・S・エリオット、オーデンら20世紀を代表する詩人から絶賛された。60年、「世界詩歌協会」を設立し、会長を務め、「国際詩人学会」会長、「世界芸術文化アカデミー」事務総長なども歴任。同アカデミーからは「桂冠詩人」称号(81年)が、世界詩歌協会からは「世界桂冠詩人」賞(95年)、「世界民衆詩人」称号(2007年)が池田先生に贈られた。07年、死去。

交流の足跡

 池田先生に嫉妬し、創価学会の前進を阻もうとする宗門の悪僧らが邪知を巡らせていた。謀略の嵐が渦巻く1979年(昭和54年)7月13日、池田先生は神奈川文化会館でスリニバス博士と出会いを結んだ。
 古代サンスクリット文学が開花したインド。大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」が生まれ、大詩人カーリダーサや詩聖タゴールを育んだ国だ。
 文化や国民性にも詩歌が根づく。その“詩魂の国”から訪れた博士が、池田先生の詩に深く魅せられた。
 語らいでは、博士が先生の詩を朗々と暗唱する一幕も。先生は詩集『わが心の詩』を贈った。日本からインドへの帰路、博士は機内で詩集をひもといた。その時のことを記している。
 「私は恍惚にも似た感動が全身を走り抜けるのを感じた。今日まで、(中略)三万人以上の詩人の作品を『ポエット』誌に掲載してきたが、これほど私の心を激しく打った詩人はいなかった」
 博士は、インド大統領も寄稿し、世界50カ国に愛読者を持つ詩歌専門誌『ポエット』を発刊してきた。出会いを刻んで以降、先生の詩を同誌に掲載することを決め、表紙に掲げた。
 博士は語っている。
 「私は、繰り返し、喜びと誇りをもって強調します――ヒマラヤ山脈にはただ一つのエベレストしかないが、詩人・池田氏はその詩歌の中に、幾つものエベレスト(最高峰)を持っている」
 「氏の詩的エネルギーは、内的な変革を求める衝動からわき出ます。その詩は、予知不可能なものを発見しようとの探究であり、自身の魂の内奥を赤裸々に明かさざるを得なくなります」
 先生への博士の深い尊敬は、各国の詩人が先生の詩と出あい、心を打たれ、たたえることへとつながっていく。
 デンマークの桂冠詩人であるエスター・グレース氏もその一人。2000年(平成12年)、氏は先生に献詩。両者は出会うことはなかったが、2人の詩心は深く共鳴した。
 インドの詩人であり、教育者のセトゥ・クマナン氏も、スリニバス博士を通して先生を知った。『ポエット』に掲載された先生の詩「母」に感動が五体を貫いた。
 氏は、自らが経営するセトゥ・バスカラ学園(幼稚園から高校までの一貫教育校)で、1996年(同8年)から先生の詩を教材にした授業を開始。翌97年(同9年)、学園内に建設された新校舎を「ドクター・イケダ・ブロック(池田博士校舎)」と命名した。
 さらに、インド・チェンナイに先生の名を冠した「創価池田女子大学」を2000年に創立した。
 07年(同19年)、スリニバス博士が同大学の第4回卒業式に出席。「未来は皆さま方、青年の手にあります。池田会長の精神を勇気を持って受け継いでください」と述べ、万感の期待を語った。
 「皆さまの中から、マハトマ・ガンジーが現れるでしょう。(中略)池田会長の分身となって、この世界に栄光と壮麗をもたらすでしょう!」
 この年の12月、博士は逝去。詩人団体「世界詩歌協会」が、池田先生に初の「世界民衆詩人」称号を贈ったのは、博士が旅立つ2カ月前だった。あいさつに立った博士は、先生と出会った喜びを語り、こう言葉を結んだ。
 「友よ! 今日の世界の危機は、池田博士のような偉大なる詩人のみが救うことができるのだ」

2007年1月30日、インド創価池田女子大学の第4回卒業式の席上、「創価大学名誉博士号」を授与される世界詩歌協会のスリニバス博士(右から4人目)
2007年1月30日、インド創価池田女子大学の第4回卒業式の席上、「創価大学名誉博士号」を授与される世界詩歌協会のスリニバス博士(右から4人目)
 

 

 

 

 

 
 

自分の弱みも見せる

2025年04月03日 09時46分27秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

自分の弱さを見せる:その好影響と阻害要因

コラム

人は完璧ではなく、長所があれば短所もあります。これはあたり前のことです。職場において、自分の弱さを適切に見せることは、お互いを補い合い、より良いパフォーマンスを発揮するために必要です。

しかし、多くの人が頷けるように、他者に弱さを見せることは簡単ではありません。これは能力というより、心理的障壁があるという表現が近いかもしれませんが、なぜ難しいのかを考えるべきでしょう。

職場で弱さを見せる文化を作るためにはどうすれば良いのでしょうか。弱さを見せることに関する研究知見から得られる含意をもとに、本コラムでは弱さの開示に対して多角的に検討を加えます。

弱さを見せることには意義がある

弱さを見せることの重要性の一つは、心理的安全性を高めることにあります。特にマネジャーが自らの弱さを示すことで、部下の心理的安全性が高まります。心理的安全性とは、エドモンドソンという研究者が発展させた概念であり、対人関係のリスクを恐れないことを指します[1]

心理的安全性が高い環境では、恐れることなく自分の意見やアイデアを表明できます。その結果、職場での個々人の能力が最大限に引き出され、パフォーマンスが向上します。さらに、心理的安全性の高い社員は、エンゲージメントも高いことが実証されています[2]

自らの欠点を認めたり、部下に助言を求めたりすることで、マネージャーが部下に対して自分の弱さを示す行動は「謙虚なリーダーシップ」と呼ばれ、心理的安全性を高める要因です[3]

謙虚なリーダーシップは、これまでの研究で多くの効果が認められています。例えば、会社に対する愛着を高めたり、仕事の満足度を上昇させたり、上司との関係を良質なものにしたりする効果があります[4]

このように、特に部下を持つマネージャーにとって、弱さを見せることは重要であり、職場全体にとっても有益な行動と言えます。

開示の悪影響を過大評価する

問題は、私たちには自分の弱さを見せようとしない傾向にあることです。多くの人が、自分の弱さを積極的に見せることはありません。私自身もその一人です。これはなぜでしょうか。

この現象に関する興味深い研究を紹介します。人が自分の失敗やミスをどれだけ他者が厳しく評価するかについて過大評価することを明らかにした研究です[5]

この研究では複数の実験が行われました。一つの実験では、想像上の社会的失敗をおかした場合、参加者は他者からの評価が実際よりも厳しいと予想していました。一方で、他者は本人が考えるほどには厳しい評価をしておらず、失敗をそこまで気にしていないことが示されました。

他の実験では、公開の場における知的失敗に関しても試されています。先述の結果と同様に、他者は本人が推測するよりも厳しく評価していないことが明らかになりました。

人は自分の失敗が他者に与える負の印象を過大評価しがちです。この傾向は、失敗した本人が自分の失敗に過度に焦点を当てることから生じ、これを「焦点効果の錯覚」と呼びます。

実際に、自分の失敗から焦点をずらすことで、その悪影響を過大評価することがいくらか緩和されることが分かりました。

この研究が示すように、人は自分の弱さを見せることによって、自分に対する評価が本来よりも過剰に下がると考えがちです。その結果、弱さを見せる行動が抑制されているのです。

他者の脆弱性は肯定的に捉える

他者の脆弱性をより肯定的に見る現象を「美しい混乱効果」と呼びます。脆弱性を示すことは本人にとってあまり良くないと推測されがちです。しかし、他者からは意外にも(少なくとも本人の推測よりは)良い形で受け止められるのです[6]

研究では、脆弱性を見せる様々な状況を準備し、自分自身と他者がそれぞれどのように評価するかを検討しました。

結果の一般性を少しでも高めるために、複数のシナリオが用いられましたが、結果は一貫していました。他者の脆弱性を示す行動が肯定的に受容されたのです。

例えば、即興演奏を行うかもしれないというタスクを用いた実験があります。自分が演者である場合(実際には演奏していません)と審査員である場合では、脆弱性の評価に違いがありました。自分の評価より他者の評価の方が肯定的で、やはり美しい混乱効果が裏付けられました。

美しい混乱効果に影響を与える要素の一つが感情です。実験によってネガティブな感情を誘発した場合、自分と他者の脆弱性の評価差がより大きくなることが分かりました。

美しい混乱効果がなぜ起こるのかというと、他者の脆弱性を目の当たりにした時、人はオーセンティシティや信頼感、勇気などを感じ取るからです。これは、人が社会的なつながりや共感を重視していることが背景にあると思われます。

逆に、脆弱性を示す本人は、脆弱性を示すことで否定的な評価を受けたり、拒絶されたりすることを他者が思う以上に懸念しています。これは、対人関係のリスクを誤評価している結果とも言えるでしょう。

弱さを見せるために何ができるか

ここまでの研究知見を通じて、人が自己評価を過剰に厳しく行い、自分の弱さを見せることに対して過度な恐れを抱いていることが明らかになりました。しかし、実際には他者は、本人の推測よりも弱さを肯定的かつ寛容に受け止める傾向にあります。

このようなメカニズムを踏まえた上で、私たちが弱さを見せるために何ができるかを、周囲にできることと本人にできることに分けて、いくつかの提案をしてみます。

周囲にできること

  • 話をしっかり聞くことが重要です。他者の話を安易に評価せず、共感を示すことで、安心感を提供できる可能性があります。判断を留保することが特に求められます。
  • 弱さを開示することを勇気ある行動として称賛します。ポジティブな言葉をかけるなど、具体的な行動を取りましょう。弱さを見せても問題ないという信頼関係を築くことにつながります。
  • 開示する人と開示される人という非対称な関係は、開示する人にとって負荷が高まります。小さなグループを作り、お互いに弱さを開示し、それを受け止めるといった工夫があり得ます。
  • 弱さを見せることが組織にとって有用であることを啓蒙することも一案です。その上で、弱さを見せるための方法や、それを受け止める際の良い対応について教育の機会を提供します。

本人にできること

  • 自分を知ることが第一歩となります。自分にはどのような特徴があるか、弱さや強さは特徴を重み付けしたものです。弱さも強さも自分の一部であることを理解し、自分自身をまず受け入れることが大切です。
  • いきなり自分の核に近い弱さをさらけ出すのは誰にとっても無理があります。それどころか、反動の危険性があります。まずは小さな弱さを開示し、そして身近な仲の良いメンバーに対して開示するなど、ステップを踏みましょう。
  • 弱さを開示した際にどのような反応が得られるかを予測し、それを記述しておきます。実際に開示した後に答え合わせをすると良いでしょう。そうすることで、自分が過剰に厳しい評価を予測していたことに気づくかもしれません。
  • 弱さを上手に伝える方法は、コミュニケーションスキルの一種です。自分の弱さを正確に、そして建設的な表現で伝え、相手に負担を与えない方法を学びましょう。

弱さは強さをもたらす資源になる

弱さを開示するという行動は、一見すると文字通り弱い行動と思われがちです。しかし、他者から見れば、弱さを開示できること自体が強さとして受け止められることがあり、社会的な信頼を得ることができます。少し逆説的ではありますが、弱さを見せることが強さを得る方法になり得るのです。

例えば、マネージャーが自分の過去の失敗や現在の不安を部下に打ち明けた場合、これは上司の弱点や不完全さをさらけ出す行動であると同時に、それを打ち明けたことでマネージャーに対する部下の共感や敬意を引き出します。結果的にマネージャーは弱さではなく強さを手にすることができます。

弱さを見せることは、他者との関係を強化する手段となり得ます。この意味で、弱さはむしろ個々人が持つ資源であり、うまく活かせば社会的な支持を得ることが可能です。

結局のところ、人は他者に完ぺきであることを求めているわけではありません。それよりも、ある種の人間性を求めています。弱さを開示することは、自分の人間らしさを他者に感じてもらう機会となる可能性があります。

弱さというと、それをいかに克服するかという観点からアプローチされることが多いのですが、弱さはいつも克服すべき対象ではなく、周囲との関係を構築する上で、また、冒頭で紹介したようにチームのパフォーマンスを高めるための資源でもあります。

他者の評価に依存しないことが大事

ただし、こうした議論には注意すべき点があります。弱さが社会的な関係を築く強さにつながること、そして弱さは資源であるという視点は、弱さをネガティブなものと捉えがちな人にとって有効な主張になり得るはずです。

とはいえ、他者との関係を築くために自分の弱さを「利用する」という行為は、実際には、自分がどう思われるかを恐れて弱さを開示できない心理状態と構造的に似ています。つまり、他者からの評価を気にしているわけです。

他者からの評価が悪化することを恐れて弱さを開示しないのも、他者からの評価が実際には悪化せず、むしろ肯定的に受け止められる可能性を知った上で弱さを開示するのも、結局は自分自身の価値を他者の評価に依存していることに他なりません。

もちろん、人は組織において他者との関係の中で働いており、他者からの評価を気にすることは自然であり、それが全くなければ協働は成立しません。他者からの評価を意識することは高次の学習と考えられますが、自分の弱さを開示することが他者からの評価と強く結びついている状態は問題でもあります。

先ほど、弱さを開示するためには自分の弱さを受け入れることが重要である点を指摘しましたが、ここでその観点を再度考察する必要があります。

弱さや強さに絶対的なものはありません。あるチームでは特定の特徴が弱さとなっても、別のチームではその同じ特徴が強さとなることもあります。弱さや強さは、このように文脈によって変化する可能性があるものです。

そのため、変化する価値を見極め、何よりも自分自身で承認することが必要ではないでしょうか。他者の評価に依存した構造の中で自分の弱さを開示しても、自尊心の低下などの問題に直面することになるかもしれません。

最後は少し複雑な話になりましたが、弱さを見せることを単なる手段として還元するだけでは、それが危険であるという点を強調したいと考え、いくらかの私見を展開しました。

脚注

[1] Edmondson, A. (1999). Psychological safety and learning behavior in work teams. Administrative Science Quarterly, 44, 350-383.

[2] Frazier, M. L., Fainshmidt, S., Klinger, R. L., Pezeshkan, A., and Vracheva, V. (2017). Psychological safety: A meta-analytic review and extension. Personnel Psychology, 70(1), 113-165.

[3] Wang, Y., Liu, J., and Zhu, Y. (2018). Humble leadership, psychological safety, knowledge sharing, and follower creativity: A cross-Level investigation. Frontiers in Psychology, 9, 1727.

[4] Luo, Y., Zhang, Z., Chen, Q., Zhang, K., Wang, Y., and Peng, J. (2022). Humble leadership and its outcomes: A meta-analysis. Frontiers in Psychology. 21, 980322.

[5] Savitsky, K., Epley, N., and Gilovich, T. (2001). Do others judge us as harshly as we think? Overestimating the impact of our failures, shortcomings, and mishaps. Journal of Personality and Social Psychology, 81(1), 44-56.

[6] Bruk, A., Scholl, S. G., and Bless, H. (2018). Beautiful mess effect: Self?other differences in evaluation of showing vulnerability. Journal of Personality and Social Psychology, 115(2), 192-205.


執筆者

伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。

 

残り少ない人生に何をしたいのか?

2025年03月13日 00時21分06秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

【豊かな老後へ】残りの人生の過ごし方9選!楽しい毎日を送る方法も解説

【豊かな老後へ】残りの人生の過ごし方!楽しい毎日を送る方法も解説

「定年退職してから毎日なんとなく過ごしている」
「後悔しないよう一日一日を大切に過ごしたい」
「残りの人生を有意義に過ごすにはどうしたら良いの?」

勤めていた会社を定年退職し、子育てもひと段落して残りの人生について考えるようになったものの「どのように過ごせば良いか分からない…」と悩んでいる方は多いのではないでしょうか。老後生活は長いため、楽しい日々を送るために生きがいを持つことが大切です。そこでこの記事では、以下の内容について解説します。

  • 残りの人生が豊かになる過ごし方
  • 楽しく過ごすためにやるべきこと

ご自身に合う過ごし方を見つけるヒントになる内容となっていますので、ぜひ最後までお読みください。

残りの人生が豊かになる過ごし方9選

残りの人生が豊かになる過ごし方

定年後は自由な時間が増えますが「やりたいことが見つからない」と悩まれる方もいるでしょう。ここでは、時間の使い道に悩んでいる方に向けて、充実した老後を送る方法を9つ紹介します。

  1. 仕事を続ける
  2. 身体を鍛える
  3. 趣味を深める
  4. ボランティアに参加する
  5. 移住する
  6. シニア留学に行く
  7. 新しい夢に挑戦する
  8. 自分磨きに取り組む
  9. 終活を始める

興味があるものを見つけて、ぜひ挑戦してみてください。

1. 仕事を続ける

仕事が好きな方は、定年後も働き続けることで社会とのつながりを持てたり、培ってきたスキルを活かしたりできるので大変おすすめです。実際に65〜69歳の就業率は50%を超えており、老後も仕事を続けて充実した日々を送っている方は多いです。

同じ会社で働き続けたい場合は、再雇用制度を利用するのも良いでしょう。約94%の企業が「再雇用制度」や「勤務延長制度」を導入しています。再雇用制度を利用するメリットは、慣れ親しんだ会社で仕事を続けられ、これまでと同じ生活スタイルを維持できる点です。

ただし、役職や給料は下がってしまうケースが多いので、生活資金を把握し「生きがい」や「働く意味」を考慮した上で選択しましょう。

おすすめの仕事については、関連記事の「【完全版】セカンドライフにおすすめの仕事12選!求人の探し方も紹介」にて詳しく解説しています。こちらもぜひ参考にしてみてください。

参照:総務省統計局|高齢者の就業、厚生労働省|令和4年就労条件総合調査

2. 身体を鍛える

いつまでも健康でいられるように、身体を少しずつ鍛えていくのが良いでしょう。年齢を重ねるにつれて体力は徐々に衰えてきますが、できる限り筋肉量を減らさずに基礎代謝を上げることが大切です。

身体を鍛えることで筋肉量が増えて代謝が上がり、疲れにくくなります。また、基礎代謝が上がると1日のエネルギー消費量が多くなるので、肥満の予防にもつながります。

このように、身体を鍛えることでさまざまなメリットを受けられるので、適度に筋トレなどの運動を取り入れてみてください。運動を続けることで、元気な身体になるだけでなく気持ちも前向きになるでしょう。

3. 趣味を深める

老後は自由な時間が増えるので、趣味を追求してみるのもおすすめです。例えば、資格や免許を取得できる趣味であれば、積極的にチャレンジしてみると良いでしょう。目標を設定することで、フレッシュな気持ちで趣味に取り組めます。

その結果、知識やスキルが身に付く上に、資格を取得できた際には大きな達成感を得られるでしょう。ほかにも、仲間と一緒に趣味を楽しむのもおすすめです。在職中は人づき合いが多かった方でも、退職した途端に交友関係が減るケースは多いです。

共通の趣味を持つ仲間がいることで孤独を避けられ、日々の生活に楽しみができます。おすすめの趣味について知りたい方は、関連記事の「【保存版】60代におすすめのお金のかからない趣味17選!選び方のポイントも紹介」を併せてご覧ください。

4. ボランティアに参加する

社会貢献をしながら余生を送りたい方には、ボランティア活動がおすすめです。ボランティアを通して「社会の役に立っている」と実感でき、ご自身の幸福度も高まるでしょう。

また、ボランティア活動に参加することで、引きこもりがちな方でも自然と外出の機会が増えます。定年後にボランティア活動を始める方は多く、内閣府の調査によると60歳以上の約半数が参加経験があると回答しています。

そのため、同世代に出会える可能性が高く、新しい交友関係の構築が期待できるでしょう。ボランティアには、公共施設の清掃や観光ガイドなどさまざまな種類があるので、各団体の活動内容をチェックしてみてください。

参照:内閣府|高齢社会白書

5. 移住する

定年退職すると、通勤の必要がなくなり住む場所を自由に選べるので、移住して残りの人生を楽しむのも良いでしょう。

移住すると、周りの環境や関わる人が一気に変わります。例えば、都市部から地方に移住してアウトドアや農業を始めてみるなど、新しい暮らしに触れる機会が増えます。また、地域のイベントに参加したり近所の方と交流したりすることで、これまでとは違う価値観に触れて視野を広げられるでしょう。

移住を検討する際は「ゆっくり過ごしたい」「環境を変えたい」などの目的を決めた上で、ご自身に合う居住先を探してみてください。

6. シニア留学に行く

語学に興味がある方や海外旅行が好きな方は、思い切ってシニア留学に挑戦してみるのはいかがでしょうか。シニア留学とは、主に50~70代の方が語学学校で言語や文化を学んだりホームステイをしたりして、海外生活を体験することです。

語学に興味はあったものの、仕事や育児に追われて勉強する時間がなかった方にとって、老後は言語を学ぶ絶好のチャンスです。留学に向けて準備や学習を進めたり、現地で言語を学んだりすることで刺激的な毎日を送れるでしょう。

また、留学中はさまざまな国籍や年齢の方と交流する機会が増えるので、異なった価値観を受け入れられるようになり視野が広がります。長期滞在が不安な場合は、2週間程度の短期留学からチャレンジしてみるのも良いでしょう。

人と交流することで得られる効果については「【必見】高齢者が人との交流で得られる効果5選!おすすめな趣味・習い事も紹介」にて詳しく解説しています。こちらも併せて参考にしてみてください。

7. 新しい夢に挑戦する

叶えたい夢や目標がある方は、自由な時間がたっぷりある老後がチャンスです。例えば「カメラを使いこなせるようになりたい」「英語を話したい」など、些細なことでもチャレンジ精神を持つことは大切です。

勇気を出して新しい夢への挑戦を決心すると、意欲的に学ぶようになるので知識やスキルが身に付いていきます。また、少しずつ新しいことができるようになるので、ご自身の成長を実感でき自信を持てるようになります。

新しいことに踏み出すには勇気が必要ですが、挑戦することで後悔することが少なくなり、常に前向きな気持ちになれるでしょう。

8. 自分磨きに取り組む

自分磨きに取り組むことで、充実した老後生活を送れるでしょう。自分磨きというと、美容やダイエットをイメージしやすいですが、勉強や趣味なども含みます。

例えば、読書をするとこれまで知らなかった情報や新しい価値観を得られるので、世界が広がるでしょう。また、読書を通して語彙力を鍛えられるので、文章を書く際に役立ちます。

このように、自分磨きをすることで自己成長だけでなく自信を持てるようになる効果があります。さまざまな方法で自分自身をアップデートできるので、まずは興味のあることから始めてみると良いでしょう。

9. 終活を始める

老後に時間ができたら、終活を始めてみるのもおすすめです。終活とは、身の回りの物を整理したり、介護や医療・葬儀について自分の意向を家族など伝えたりなど「人生の最期」に向けた活動を指します。

終活は、遺された家族の負担を減らすことが目的の1つですが、自分自身を見つめ直す時間でもあります。終活を通してこれまでの人生を振り返ることで、気持ちを整理できます。

また、残りの人生の過ごし方を考えるきっかけになり、後悔しないように生きようと前向きな気持ちになれるでしょう。終活は、相続やお墓などさまざまなことを考えなければならないので、気力や体力があるうちに始めると良いでしょう。

残りの人生を楽しく過ごすためにやるべき5つのこと

残りの人生を楽しく過ごすためにやるべきこと

楽しい老後生活を送るために、以下の5つのポイントを意識することが大切です。

  1. 老後の人生を設計する
  2. 目標を持つ
  3. 生活習慣を見直す
  4. お金を管理する
  5. 家族や友人に感謝の気持ちを伝える

1つずつ詳しく解説するので、老後の過ごし方と併せてそれぞれのポイントについて考えてみてください。

1. 老後の人生を設計する

老後の人生をしっかり設計することで、楽しい生活を送れるようになります。まずは「定年後も働き続けたい」「田舎でのんびり過ごしたい」など、老後生活において優先したいことを考えます。

そして、貯蓄や健康状態などを考慮し実現可能かを検討していくことで、より具体的に老後の計画を立てられるようになるでしょう。

残りの人生を設計する際は、パートナーや家族と相談しながら決めることが大切です。老後の生活をイメージしておくことで、準備しておくべきことなどが明確になり、安心して残りの人生を過ごせるでしょう。

2. 目標を持つ

目標を持つことで、やるべきことが明確になり行動に移しやすくなります。目標を立てる際、まずは叶えたいことを思いつく限り紙に書き出してみましょう。ご自身の考えを整理でき、目標に優先順位を付けられるようになります。

そして、優先度が高い目標から1つずつ達成していくことが、残りの人生を充実させることにつながります。成功体験も徐々に増えるので、より自信が付いてさまざまなことに挑戦できるようになるでしょう。

3. 生活習慣を見直す

残りの人生をできるだけ長く楽しむためにも、健康維持に努めましょう。老後にやりたいことがたくさんあっても、病気や介護が必要な状態になってしまったら実現するのは難しいです。

まずは、生活習慣を見直すところから始めてみてください。好きなものだけを食べていたり、1日中座って過ごしたりしていないでしょうか。栄養バランスの取れた食事や適度な運動・良質な睡眠を意識することで、自然に規則正しい生活を送れるようになります。

「まだ元気だから」と思うのではなく、今から健康な身体を作っていきましょう。健康寿命を延ばす方法を知りたい方は「【今日からできる】健康寿命を延ばす方法10選【もしもの時の備えも紹介】」をぜひチェックしてみてください。

4. お金を管理する

残りの人生をどのように過ごしたいかをしっかり考え、お金を管理しましょう。総務省の統計によると、仕事をしていない65歳以上の夫婦における1ヶ月あたりの生活費は224,436円です。

あくまで平均なので、家計簿を付けてご自身の生活費を把握することが大切です。保険料や通信費などの固定費を見直すことで、生活コストを下げられることもあります。また、老後は医療費や介護費用もかかるので、しっかりと考慮した上で楽しみに使えるお金を計算してみてください。

老後資金が気になる方は、関連記事の「【解決策】60歳定年後の生活費は月23万円以上!働くメリット4選と雇用形態別の収支を解説」を参考にしてみてください。生活に必要な資金や老後の働き方が分かる内容となっています。

参照:総務省統計局|家計調査年報(家計収支編)2021年

5. 家族や友人に感謝の気持ちを伝える

豊かな老後生活を送る上で、人間関係はとても重要です。いつも側にいてくれる家族や友人に感謝を伝えることで、相手だけでなく自分自身も幸せな気持ちになれるでしょう。照れくさいかもしれませんが、ご自身の気持ちを素直に伝えることで後悔がなくなり、家族や友人とさらに良好な関係を築けます。

また、日常生活における当たり前のことに感謝してみるのもおすすめです。幸せは、普段の生活にたくさん転がっています。例えば「美味しいご飯を食べる」「ゆっくり湯船に浸かる」など身近なことに感謝することで、自然と幸福度が高まり豊かな人生を過ごせるでしょう。

 

教育は、他者や他の文化を大切にし、友情を育むためにある

2025年03月04日 11時41分37秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼人格形成こそ教育の目的。

平和貢献の新たな人材を育成する。

人間主義の哲学は、平和の根源は何なのかを、提示するものだ。

非暴力や利他主義の重要性を認識することだ。

戦争や紛争が起こる原因はさまざま考えられるが、その一つに、人々が、自分とは異なる信仰や信念を軽視してしまうことがある。

皆が互いの宗教や考えからを尊重すれば、戦争や紛争は起こらないだろう。

戦争は、人間のエゴや権力欲が生み出すものだ。

権力を使って富を蓄積し、征服をい試み、より多くの領土を手にいれようとする。

こうした意味からも、真の指導者になることは本当に難しいことだ。

重要なのは、指導者になる人自身が、人権を尊重したり、他者の信念や価値を大切にすることを、教育を通して学んでいたかどうかだ。

その意味で豊な人格を養うことができない教育は、正しい教育とは言えない。

教育は、他者や他の文化を大切にし、友情を育むためにある。

望まれるのは、良き人格が育まれる教育システムを構築することだ。

人格こそ、人生を<成功>に導けるかどうかの、最大の鍵である。

人生の<成功>とは、富を蓄えることではない。

学位などを取得することでもなく、優れた人格を築くことだ。

「富を蓄えることは良いことだ。しかし、その目的は、他者を助けるためのなだ」

 


多元的無知

2025年02月22日 23時13分56秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

多元的無知(: pluralistic ignorance)とは、特定の社会的集団の構成員に見られるバイアスの一種である[1][2]

多元的無知は社会心理学において、集団の過半数が任意のある条件を否定しながらも、他者が受け入れることを想定しそれに沿った行動をしている状況を指す[3]

言い換えれば「誰も信じていないが、誰もが『誰もが信じている』と信じている」と表現できる。

また多元的無知は 傍観者効果の好例である[4]

他者がある特定の行動をしない場合、その行動が不適当と他者が信じている可能性を考慮し傍観者は行動を自制しがちである。

概要

多元的無知は、多岐にわたる不協和に関連している。

そして一般的に交友関係において自身を異分子と見なす傾向にある。

そして自身が周囲の人と比べて、無知で、保守的で、冷淡であり、無能であると考える傾向にある(ダニング=クルーガー効果とは正反対の影響を及ぼす)。

そして自身に嫌悪感を抱くことで、所属する集団で疎外されやすい。

また集団が広範囲の支持を失った政策や慣行に固執する原因となる。

例えば大学生が大酒飲みであろうと固執したり、企業が失敗する経営戦略に固執したり、政府が不人気な外交政策に固執したりするのはその最たるものである。

つまり多元的無知は集団の長期的に有益な行動の妨げとなる要因となる。

ただし教育を通じて、多元的無知を払拭しその効果を軽減することができる。

例えば、アルコール依存の学生に飲酒量を一定期間減らさせ、その生活を快適と理解させることにより、依存を辞めさせることができる。

現在、アメリカの大学では実際に若年アルコール依存症者への治療法としてこの方法を採用しており、大学での飲酒問題に対処している[5]

研究

デボラ・プレンティス英語版とデイル・ミラー(Dale T. Miller)は、大学内で飲酒習慣を持つ生徒の私生活の充実度は平均よりもはるかに低いことを発見した。

男性の場合、 大量飲酒への抵抗が減りアルコール依存症となりやすい。

一方、女性は大学内で孤立しがちであることが判明した。

おそらく大学内での飲酒に関する常識が女性よりも男性が中心であることが原因で、男性のような変化が見つからなかった[6]

また多元的無知は、飲酒だけでなく、ギャンブル、喫煙、そして菜食主義者の間で悩まされている[7]

研究によると後者は、認知的不協和ではなく、社会的ネットワークの構造上の問題によって引き起こされる可能性がある。

多元的無知という概念は、フロイド・ヘンリー・オールポート英語版と彼の教え子であるダニエル・カッツ英語版リチャード・シャンク英語版により考えられた [8]

彼らは人種的な固定観念と偏見、態度の変化について研究し、アドラー心理学と社会体制のつながりの追求により組織心理学分野の発見をした[要出典]

沈黙の螺旋で知られるエリザベート・ノエル・ノイマン英語版メディア・バイアスが多元的無知につながると主張した[9]

アメリカ合衆国における人種差別を悪化させたのは、多元的無知のせいである。

多くの人は差別を行う当時の政権に反対したが、ソビエト連邦共産党を力で抑えた政権の架空の人気が叫ばれたことで、人々は他人はその政権を支持していると考えた。

それによりほとんどの人は自分が政権に対して反対の意を表明することを恐れていた[10]

多元的無知のもう1つのケースは、飲酒が普及している国の大学生が飲酒することによって起こる。 学生達は週末のパーティーや夕方の休憩時間に飲酒をする。

その状況では、周囲の学生達は心配し非難する兆候を公共の場で示すのを躊躇することと相まって大量飲酒の視認性の高さにより多元的無知が生じる。

周囲の学生達は大量飲酒をすることは自身が考えるよりはるかに気持ちの良い行動であると信じてしまうのだ[11]

また、アンデルセンの童話「 裸の王様 」[12]は、多元的無知を用いた有名な寓話である[13]

この物語では、2人の詐欺師が王国で愚か者には不可視の最高の服を王様に作る。

王様の部下や町民は全員、愚かと見られるのを恐れて、小さな子供が王様が服を着ていないと言うまで、服が見えなかったという事実について黙っていた。

しかし一度その子供が王様の服を見れないと言うと、人々は王様が裸で服を着ていないと認めるようになる。

多元的無知の影響で、大多数の国民が気候変動について沈黙していると非難されている。

アメリカとイギリスの国民の「圧倒的少数」が気候変動を懸念しているが、彼らは自分たちを少数派であると誤解されている[14]

それが公害を引き起こす産業への気候変動に対する公的支援の国民の支持が過小評価される一因となっていることが示唆されている[15]

具体的には米国では公害対策用の国家予算は高いにもかかわらず[16][17] 、公的支援に対する国民の認識ははるかに低くなっている[18]

男らしさの規範にどのように準拠することが期待されるかについての男性の概念は、多元的無知の追加の例を示しています。

例えば、ほとんどの男性は性行為を自慢し、詳細を述べるが、それが他者には不快にもかかわらず、自分のみ不快であると考え少数派であると誤って信じている。

同時に、男性は性的なことに関して自身が正しいと保証してもらうことを強く望んでいる。

この対立は、男性の肉体的および精神的健康だけでなく、社会にも有害な結果をもたらす可能性がある[11]

誤解

多元的無知は、 偽の合意効果と対照的な働きをする。

多元的無知の観点では、人々は内心軽蔑しながらも表向きには他人の常識や信念を支持する。

対して偽の合意効果の観点では、人々は多くの人が自身と同じように考えると想定する。

そして実際には、他人が自分と同じように考えることはない。

例えば、多元的無知が、学生がアルコールの大量摂取をすることに繋がる。

他者も同様にそうしていると思いこむからである。

だが実際には、人々はアルコールの過剰摂取は避けたいと考えている。

ただ自身が排斥されることを恐れ、その考えを言動に出さないのである[4]

そして偽の合意効果では、「人々がアルコールの過剰摂取を楽しんでいないと学生が信じている」ということである。実際のところ、人々も飲酒を楽しんでいて、そのことを隠したりはしない。

グリーン、ハウス、ロスが実施した調査では、スタンフォード大学の学生の簡単な状況調査票を使用して、偽の合意効果に関する情報を収集した。

社交性、協調性、信頼度、冒険心などの個性を考慮して、人々が行うべき選択についての考えをまとめた。

調査により、参加者は自分の決定を説明する際に、「一般的な人々」として説明した内容と「典型的な」回答の考え方に基づいて選択を判断することが分かった。

ある社会集団内で、ある特定の行動をする命令が内密に与えられた場合、指示に従った被験者は、選んだ選択肢が「一般の人々」的である傾向があった。

対して、指示に従わなかった被験者は、「一般の人々」とは異なる選択をした。 指示への従順さ「一般の人々」的な行動をとるかの相関性は明らかである[19]

多元的無知と偽の合意効果の2つは同じ社会規範を前提で構築されているように見える。

しかし上で述べた現象に対してその2つは完全に反対の立場を取る。

偽の合意効果は、結果を予測する際に、人々は「大衆が自分たちの意見に同意する」ことを想定し、問題について大衆がするのと同じように考えることを考慮する。

だが多元的無知では、個人がある意見に同意しない場合に起こりうる。この見方では「自身の考えは大衆と共有されていない」と誤解し、盲目的に行動する。


人間は仏の当体

2025年02月17日 19時13分20秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

成仏とは、自身の内に具わるの生命境涯(仏界)を開くことにほかなりません。

「凡夫」すなわち普通の人間である私たちが、 その身のままで、自身にの生命境涯を開き顕せるのです。

そのことを、確信できれば、人間は他者を含めて人間の命を始末にすることはできないはずだ。

この根本理念は、キリスト教はじめ、多くの宗教にはない基本的な概念である。

つまり、人間は神になれないが、最高の境涯である仏にはなれるのである。 


失われた日本精神

2025年02月14日 02時12分04秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

敗戦がもたらしたもの~失われた日本の誇り~

本レポートでは、先の戦争、とありわけ日米開戦へ至るまでの経緯を見つめながら、開戦前から勝ち目のない戦いと考えられていたにもかかわらず、なぜに対米開戦という結論に至ったのかを考え、その後の敗戦という結果が現在までの日本のくにのかたちに与えた影響を私なりの視点で記述していく。

先の戦争をなんと呼ぶか、これだけで一つのレポートが書けるほどの議論ができるだろう。

いかに呼ぶかをいうことだけで先の戦争の捉え方が問われ、また政治的議論に引きずりこまれることとなる。

大東亜戦争なのか、太平洋戦争なのか、第二次世界大戦なのか。

 大東亜戦争と呼ぶことで、軍国主義を彷彿させ、右翼的であると指摘されるならば、その呼称は避けることが無難であるかもしれない。なぜならこのレポートでは先の戦争は侵略戦争であったか否か、という無意味な二元論を展開したいがためのレポートではないからである。しかしながら当時の日本がおかれた状況をより実体的にとらえるには、当時の日本政府が呼称として使った大東亜戦争を呼ぶことが的確であると考える。だがあくまでも議論のポイントをそこに置くつもりは毛頭ないので、あえて先の戦争という言葉にて表現を進めていく。

 そしてそれは先の戦争という過去をぼやかすことではない。むしろ私が問題にしたいのは、先の戦争での敗戦がこの日本にもたらしたものは、まだ払拭ができていないということであるのだ。その敗戦によってもたらされたもの、いわゆる戦後という呼び方が正しいのかどうか、現在の日本にまとわりついて離れることなく影響を及ぼし続ける、そのものについて議論をしたいがためであることをご理解いただきたい。

2.対米開戦への経過と終焉

 先の戦争がいかなる戦争であったのか。それを考えるには当時の世界情勢、さらにはそこに至るまでの近代の歴史の流れを考えなくてはならないであろう。本レポートの中心となる日米開戦までを追うのであれば、その半世紀も前の、日露戦争での日米間の確執についての記述を外すことはできない。

 米国は日露戦争時点では極めて親日的であった。多額の日本公債を購入し、日露戦争講和条約締結の際にも、時のアメリカ大統領。セオドア・ルーズベルトの積極的仲介があった。これには米国なりの中国(清国)支配への欲望が背景にあった。そのためにはロシアの力が邪魔であり、日米の利害関係が一致していたのである。しかし日露戦争後、米国の鉄道王、エドワード・ハリマンと日本の間で共同管理を目論んでいた肝心の南満州鉄道は、日本の単独経営の方向に舵が切られた。これによって米国は満州から締め出されることとなり、対日感情にしこりが出来たわけである。その後の中国にまつわる日本の行動に米国が敏感に反応し続けたのはこの時の確執が尾を引いていたといえよう。

 その後、米国は国内において日本人移民の排斥運動を強め、1924年には日本人移民の完全禁止を意図した排日移民法を制定した。これにより相互に国内で相手国への不信感が決定的になった。

 合わせて当時の世界、及び日本国内は慢性的な不況に陥っていた。1920年の第一次世界大戦後恐慌、1923年の関東大震災、1929年の米国株価暴落による世界恐慌。それをうけ列強諸国はブロック経済に突入していく。米国は1930年にホーリー・スムート法を制定し、輸入商品に対して高率関税をかけることとした。これによって日本の製品は次第に世界から締め出されることとなった、こうした閉鎖的経済政策は植民地を持たなかった日本にはボディーブローのように効くこととなる。

 1939年には天津事件によって米国は日米通商条約の破棄を通告。米国は完全に日本に対して敵対の姿勢を明確にした。当時の日本は米国への輸出が輸出額全体の3割以上、輸入が4割以上であり、国内経済への打撃はあまりあるものであった。

 1940年9月27日、日独伊三国同盟成立後には米国は屑鉄の対日全面禁輸を決定し、完全に仮想敵国として日本を捉えるようになった。その後日米間では戦争回避に向けての交渉が続けられたが、相互の不信から進展することはなく、1941年7月の日本による南部仏印への進駐に対し、米国は日本に対する石油の全面輸出禁止を発表し、同時にイギリス・中国・オランダに経済封鎖網、いわゆるABCD包囲網を構築し、日本を追い詰めることとした。当時の日本はアメリカに石油の8割を依存しており、この時点で当時の海軍軍令部総長永野修身は「備蓄石油は1年半で消費しつくす」と発言していた。これによって日本政府内では対米開戦論も出ていたが、天皇陛下の意図を受けた近衛首相は戦争回避に向けての日米交渉を継続していた。1941年9月6日の御前会議において、陸海軍による帝国国策遂行要領は原案どおり通され、10月上旬までに日米交渉が妥結しないときには開戦となる方針が決定された。このときに昭和天皇陛下は日米開戦には反対の意思であったといわれる。

 その後近衛首相は日米開戦回避に向けて駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと通して、コーデル・ハル国務長官との交渉を繰り返した。しかし後にハル国務長官が回想録で語るには、既にこの時点では日米交渉が成立する見込みはなく、アメリカの太平洋正面に対する軍備が整うまで、対日戦突入を先に引き伸ばすだけであったということである。近衛首相は10月上旬を迎えても、9月6日の御前会議の決議を撤回してでも日米交渉を継続すべきだと主張したが、即時開戦派であった東条陸相に御前会議の決定を覆すことの責任を問われ、近衛内閣は10月18日に総辞職し、10月19日には東条内閣が出来た。

 東条首相のもと、1941年11月5日の御前会議にて新たな帝国国策遂行要領が決定された。11月30日中に日米交渉が成功しなければ対米戦争へ突入するということとなる。連合艦隊司令長官山本五十六は「開戦後1年くらいは暴れてみせるが、そのあとはどうなるかわからない」と悲観論を開陳しており、なにより軍中央部には米国への本土攻撃計画もなかったにもかかわらずである。この悲壮な覚悟はなぜゆえであろうか。

 1941年11月26日、ハル国務長官から平和解決要綱、いわゆるハル・ノートが提示された。この内容は日本軍の南方・中国からの完全撤退、蒋介石政権の承認、日独伊三国同盟の離脱が主であった。これは到底日本が受け入れられる内容ではなく、これがアメリカの最後通牒と認識した日本は、12月1日の御前会議にて正式に対米開戦を決定したのである。

 こうして日米間の歴史を振り返れば、先の戦争の対米開戦が決して真珠湾攻撃という単純な勃発ではなかったということがわかるだろう。帝国主義全盛の当時の時代背景において、極東の有色人種であった日本が世界に伍していく中で、資源を持たない日本が資源を求めて大陸に進出することを列強諸国が決して歓迎しなかったことが伺える。対米開戦については勝ち目がなかったことは当時の状況でも認識をされていた。しかしながら当時の資源に関する抜き差しならぬ状況を考えれば、進むも地獄、退くも地獄。一国の独立と存続を考えるうえで究極の選択であったこともまた事実である。それが先の悲壮な覚悟につながっているといえよう。そしてこれは政府一部の人間だけではなく、報道を通じた国内の熱狂に近い盛り上がりがあったことも付け加えておきたい。

 後に天皇陛下はこのように語っている。

「私がもし開戦の決定に対して拒絶したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の生命も保証できない。それはよいとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨時が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」

 

陛下のこの覚悟をして、こうして先の戦争は避けることが困難であったという結論に至るのである。

 対米開戦後の戦史については、ここでは触れることはしない。それは本レポートの視点では書くに余りある内容であるからである。

3.敗戦後

 2度の原子爆弾の投下という屈辱を受けた敗戦後、日本をまさに仕切ったのはダグラス・マッカーサーであった。マッカーサーを語るうえで外すことができないのは、あの昭和天皇陛下との写真であろう。当時の国民にとって衝撃的であり、かつ屈辱的であった写真には、マッカーサーの大きな意図が隠されていた。それは日本をマッカーサーの理想の国に作り変えるというものである。戦時中は現人神であった天皇に対してあのような写真が撮れるということを、彼のいうところの12歳の国、日本の国民達に見せ付けたわけである。戦後の混乱の中で、マッカーサーをこれまでの天皇陛下の代わりと考え、マッカーサー様と拝みたてまつり、親愛の手紙を送るという軽薄な輩が出現したことも事実である。

 マッカーサーは日本を古い封建社会ととらえ、理想の民主主義国家、極東のスイスとなるべく、教育の自由主義、男女平等、労働組合の推進、農地解放、などの政策を次々と展開した。同時にアメリカ文化の普及を徹底し、日本に脈々と続いてきた精神主義を否定した。日本の軍国化、帝国主義の復権をなにより恐れていたからこそ、戦後の日本をアメリカ礼讃の国へと作り変えることを進めていった。非軍事化と民主化によって日本が二度とアメリカに立ち向かうことないようにという狙いがあったのである。

 そして日本の民主化の象徴となったのが日本憲法の制定である。GHQの意向が強く繁栄されたこの憲法においては憲法九条に戦争の放棄が明記される画期的な内容として、当時の世界の注目を受けたと伝えられている。当時の報道には戦後の壊滅的な打撃に嫌気が指していた国民もこの憲法を歓迎したという記述もあれば、当時は極度の食糧難であったため、国民は今に毎日を生き抜くかで精一杯であり、憲法などかえりみる余裕はなかったという記述もある。どちらにせよ、占領下での混乱期を示すものであるといえるだろう。

 さて結果として、マッカーサーはどのような影響を現在の日本に残したのであろうか。戦後民主主義こそがその大きな遺産であるということもいえるだろう。だがそれ以上に私が問題にしたいのは、それまでの日本が維持していた精神性・道徳の完全否定である。物質文明の価値を喧伝し、日本を日本たらしめてきた公という概念、恥の精神、神話、大和魂といった精神性の価値を貶めた。戦後の焼け野原では精神性では腹いっぱいにならなかったのであるから、当たり前と言われれば当たり前なのかもしれない。しかし、戦後に失われた精神性、そして現在に至るまで、そこからもたらされている日本という国家の形のあやふやさ。これこそが戦後60年を超えた今、このくにに問われているものなのである。戦前までの日本を全否定されたこと。その後は経済成長のみを追いかけてきたこと。そして今、現在の日本があるのである。

 歴史の中で脈々と続く国家の意識、日本独自の価値観を断絶してしまったこと、これこそが敗戦がもたらしたものなのだ。連合国の物量に負けた、民主主義に負けた、その反動が経済大国への道であったともいえよう。しかし、その後の60年の間に国家として経済繁栄以上に重要な精神を失ってしまったのである。精神とは伝統から育まれるものである。日本人が日本人である限り、精神性が続くとはまるで限らない。断ち切られた伝統からは、空虚しか生まれないのである。

4.国家とは

 道徳の退廃を示すような事件、その事件の発生自体を疑いたくなるような犯罪、社会生活の中でのモラルの欠如、こうした報道を聞くたび、そして実際に目の当たりにするたびに、一体誰がこんな国にしたのだ、という憤りに駆られる、そうした純粋な良識を持つ方々がまだこの日本には多くおられることを私は知っている。

 その良心の代表として、戦後から25年後に自決を遂げた三島由紀夫をあえて挙げたい。私は日本の戦後が清算しなくてはならないもの、それこそが込められているのがこの檄文であると考える。

「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を糾さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
 政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」

 

 三島は一体何を歯噛みしていたのか、日本の美しさが踏みにじられたことであるのか、ナショナリズムが解体されたにも関わらず国家が存続していることなのか。なによりもこの日本という国がまるで淫したかのような事態に陥っていることに嘆いたのか。それはこの国に生きる国民一人一人の想像力に掛かっている。その想像力すらも働かなくなった日本人がいることもまた悲しむべき事実でもあるが。

 結局のところ、先の戦争の敗戦がもたらしたもの、それはいわゆる戦後であり、戦後民主主義は日本の伝統精神、価値といったものを断絶させ、復興させることはなかった。先の戦争以降の民主主義が外部からの効力によって成就されたものであること、そしてその戦後民主主義が、マッカーサーから与えられたアメリカ民主主義の理想の模倣に過ぎず、そこに安易な戦後民主主義者が乗っかっていった結果が象徴しているのは戦後教育の荒廃であり、現在の教育の崩壊である。

 結果として国家の共通の価値基準、規範といったものは取り戻されることなく今に至った。この精神の空洞化こそが、現在の日本における諸処の混乱の元凶であると私は考えるのである。今必要なのは、戦後というものを近代日本の歴史の中で相対化し、俯瞰的な視点で日本の歴史を捉え、どんな価値、規範がこの日本という国家・社会の根本に置かれるべきなのかということを議論することである。そのときにはじめて国家という存在について、共同体の意義について、宗教的な伝統について自らの国を定義し、国家としての日本を取り戻すことができるであろう。これによって、心ある人々が感じている現在の日本への違和感を解消することができると私は信じている。

5.おわりに

 ここまで私は先の戦争の敗北がもたらしたもの、それはいわゆる日本の戦後であり、戦後民主主義であり、その存在ゆえに日本が精神の空洞化に陥り、国家としての明確なくにのかたちを打ち出すことができずにここまで経過したと論じてきた。

 無論こうした意見に異を唱える方も多くいるだろう。抽象的かつ感覚的な論であるゆえ理解できないという方もおられるだろう。しかし私は国民の中に同意をされる方もまた多くおられると信じている。いわゆる戦後、そして戦後民主主義になんら問題がなかったのであれば、ではなぜいま、靖国問題に関する論議がこれまでに盛り上がりを見せるのか。それは中国、韓国からの批判にさらされているという一事象だけの結果ではない。

 そしてなぜこれまで堂々と語られることのなかった憲法改正が現実の政治問題として机上に乗ってきたのか。現実との乖離に国民が目をそむけることができなくなったのではないのか。こうした象徴的な事態が指し示すのは日本という国の国家像の欠如であり、ナショナルアイデンティティの漂流である。この漂流は無策無為のままでは決して止まることが無いだろう。

 ここで戦前の政治家であり、東条内閣の打倒に動いて自決に追い込まれた中野正剛の戦時宰相論をここで取り上げたい。

「国は経済によりて滅びず、敗戦によりて滅びず、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷うことによりて滅びるのである」

 

 国家の再生を指導者が示すことができなければ国家は滅びるというこの言葉は非常に深く、重いものがある。戦後多くの政治家が取り組んできたこの国家の再生こそが、現代の日本が真っ先に取り組まなくてはならない政治課題であると私は考える。

 昨今の構造改革によってバブル崩壊後を乗り越え、真に経済大国となった今こそ、経済至上主義を超えた次の価値を政治が提示していくことが必要であるはずだ。真・善・美という古来日本からの伝統的な価値に沿った国家像を作り上げ、犯罪の多発、教育の崩壊、経済モラルの溶解、様々な問題をはらんだカオス状態の現在の日本と、物心のバランスが取れた美しい日本とを厳然と対峙させなくてはならない。そのためには深遠なる歴史観を携え、高貴なる使命感を持って日本の将来像を描き出すリーダーシップを携えた政治家が求められるのである。

以上

<参考文献>

ジョン・ダワー 「敗北を抱きしめて 上・下」 岩波書店 2004年2月
小熊英二 「民主と愛国」 新曜社 2002年11月
田原総一朗 「日本の戦争」 小学館 2000年11月
河合 敦 「目からウロコの太平洋戦争」 PHP研究所  2002年8月
松本健一 「日本の失敗」 東洋経済新報社 1998年12月
渡部昇一 「ラディカルな日本国家論」 徳間書店 2004年4月
佐伯啓思 「総理の資質となにか」 小学館文庫 2002年6月
堺屋太一 「日本を創った12人」 PHP研究所 2006年2月
佐伯啓思・筒井清忠・中西輝政・吉田和男
「優雅なる衰退の世紀」 文藝春秋 2000年1月


働かざつ者食うべからず

2025年02月11日 13時24分08秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

働かざる者食うべからず」(英語He who does not work, neither shall he eat.)とは、労働に関する慣用句である。

働こうとしない怠惰な人間は食べることを許されない。

食べるためにはまじめに働かなければならないということ。

歴史や価値観によって対象となる立場の人間は、下記の通り異なっている。

聖書

新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節には「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という一節がある。

(働こうとしない者は、食べることもしてはならない)

これが「働かざる者食うべからず」という表現で広く知られることとなった。

ここで書かれている「働こうとしない者」とは、「働けるのに働こうとしない者」であり、病気や障害、あるいは非自発的失業により「働きたくても働けない人」のことではないとされている

ソビエト連邦

ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア連邦)およびソビエト連邦共産党(前身はボリシェヴィキ、現在はロシア連邦共産党)の初代指導者ウラジーミル・レーニンは、1917年12月に執筆した論文「競争をどう組織するか?」の中で、「『働かざるものは食うべからず』――これが社会主義の実践的戒律である」と述べた。

レーニンがこの言葉を使った際には、労働者を酷使し「不労所得で荒稼ぎする資本家達」を戒める意味合いがあった。

1918年制定のロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法(いわゆる「レーニン憲法」)の第18条では、次のように書かれている。

(ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国は、労働を共和国のすべての市民の義務であるとみとめ、『はたらかないものは、くうことができない』というスローガンをかかげる。)
 
(第14条 社会的富の拡大と人々およびすべてのソビエト人の幸福の源は、搾取のないソビエト人民の労働である。『それぞれからは自分の能力に応じて、それぞれへは自分の仕事に応じて』という社会主義の原則に従う)

日本

日本では聖書やソ連の考え方とは異なっていた。

倫理観、つまり「勤労の義務」を暗黙のうちに影響を与えた。

井手英策日本国憲法への「勤労の義務第27条)」挿入の際のいきさつを分析すると、強者の富裕層の勤労でなく弱者の貧困層の勤労が念頭にあったといってよいだろう、としており(松本烝治委員長の憲法問題調査委員会)、これには近世以来の日本社会の価値観が影響していると考察している


米不足に対応

2025年02月04日 10時56分10秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

米の買い占めが問題

投機的な動きができないようにする。

買い戻し価格に細心の注意を払う。

生産者の所得を確保し、安定的なコメ価格を実現する

社説)政府備蓄の機動的な活用で米価の安定を

 

長引く米価の高騰を考えれば当然の判断だろう。

農林水産省は政府が保有する備蓄米を、流通に支障が出たときにも放出できるよう運用ルールを見直した。

必要に応じて備蓄米を活用することで、米価の安定を実現してほしい。

農水省はこれまで備蓄米の放出を大凶作などに限ってきた。

今後はコメの流通が目詰まりを起こしたときも放出でき、実施した場合は1年以内に同量を買い戻す。

米価の上昇は2023年の不作がきっかけだ。

 

2024年〜2025年は米不足?

早めにお米を確保した方が良い理由とは

2023年〜2024年には、深刻な米不足になりました。

米屋を含めたスーパーなどの小売店の棚からお米の存在が一時消えました。

それに伴い、急激にお米の価格上昇が起こりました。

2024年〜2025年も、この減少は避けれないと考えられます。

全国的なお米の収量は例年並ですが、例年では見られない農家からのお米の買い占めが起こっており、農協ではなく、卸売業者にお米の在庫がある状況です。

高い価格で買い取っていることもあり、安い値段では提供しないと考えるのが普通なので、お米の価格の低下が見込めません。

つや姫は、収量が例年に比べると少ないと農家レベルでは言われており、価格が下がりづらく、買い手は、海外にもいますので、早期につや姫は在庫がなくなると想定されます。

つや姫の価格が下がらないと思われる理由

山形県の発表は先ですが、農家の話では、つや姫の収量は例年に比べると少ないです。また、農協にいつもならば出荷するのに対して、今年は、高値で業者が大量に買取をしており、農協の在庫が少なくなっている状態です。

買取をしている理由は、昨年発生した米不足にあると考えられます。米の在庫が減ると、ふるさと納税の需要に対応することができません。昨年は、つや姫のふるさと納税を受諾していた米屋がつや姫を確保できなかったなどの話題もありました。

そのため、高値で購入された在庫は、一気に出されるとは考えづらく、農協で確保されているつや姫も相対的に価格が安いので、早々に在庫切れを起こすでしょう。

Amazonの価格で見ると、最安値は、パールライスで、2024年11月15日現在で3,882円です。


傍流の巨人 渋沢敬三

2025年02月04日 09時41分00秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

畑中章宏 (著)

多彩な顔をもつ巨人の全貌と、その思想の〈非主流性〉を描き出す
2024年6月期「100分 de名著」指南役・畑中章宏氏最新作!

2024年7月3日に改刷された一万円札の新しい肖像、“日本資本主義の父”渋沢栄一の孫であり事業の継承者、あるいは民俗学者・宮本常一の調査・研究上のパトロン――渋沢敬三(1896-1963)のイメージはこんなふうにだれかを通して思い描かれることが多い。

渋沢敬三には、日本銀行総裁、大蔵大臣、国際電信電話(現・KDDI)、文化放送初代会長といった経済・財政・実業面の側面と、「アチック・ミューゼアム(屋根裏の博物館)」の創設、水産史・漁業史の民俗学的側面からの研究、資料保存・文化財保護、後進の育成、本の執筆・編纂・企画といった民俗学者としての側面というふたつの顔がある。 彼が日本民俗学に果たした役割の大きさにもかかわらず、柳田国男や宮本常一の影に隠れて、これまでその業績や仕事の意義に光を当てられてこなかった。

本書は、民俗学の学問的根拠は「オルタナティブ」にあると考える著者が、渋沢の思想と方法が持つ非主流性(傍流)に着目して描き出す、ユニークな評伝であり、昭和史である。


【主要目次】
はじめに――カメラを持つ男

第一章 〈民俗〉と〈実業〉のはざまで
 1 “日本資本主義の父”の孫
 2 アチック・ミューゼアムという「場」
 3 「花祭」というきっかけ
 4 「民具」から見た日本
 5 渋沢敬三が育てた人びと
 6 戦争の時代へ

第二章 『祭魚洞雑録』『祭魚洞襍考』ほかを読む
 1 最初の単行本――『祭魚洞雑録』
 2 「延喜式」への着目――『祭魚洞襍考――第一部 日本水産史研究』
 3 滋味に富む〝雑文集〟――『犬歩当棒録―― 祭魚洞雑録第三』
 4 渋沢版『雪国の春』――『東北犬歩当棒録』
 5 外交と科学――『南米通信』

第三章 〈非主流〉の証明
 1 「フィランソロピスト」として
 2 規格外の思想家
 3 民間学としての「渋沢学」
 4 渋沢敬三という「オルタナティブ」

渋沢敬三 年譜
参考文献一覧
あとがき

渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体澁澤 敬三1896年明治29年〉8月25日 - 1963年昭和38年〉10月25日)は、日本実業家財界人民俗学者政治家。第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣幣原内閣)。祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。

 

財界人として

1896年(明治29年)8月25日、渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれる(敬三の下に弟が2人がいる)。「敬三」は論語の一節「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊ばんぱくの邦といえども行われん」(衛霊公第十五)より栄一が命名した。敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁

東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1913年に父篤二が廃嫡されたこともあり、中学卒業時(1915年)には祖父の栄一により澁澤同族株式会社が設立され、同社の初代社長に就任。当初は動物学者を志し、仙台第二高等学校農科への進学を志望していたが、敬三に期待する祖父・栄一が羽織袴正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、第二高等学校の英法科に進学する。

1918年(大正7年)、第二高等学校卒業後、東京帝国大学経済学部入学。

1921年(大正10年)山崎覚次郎博士のゼミナールにて「ビュッヘル氏の所謂工業経営階段と本邦に於ける其の適用に就て」を提出して卒業。

1921年、大学卒業後、横浜正金銀行に入行。1922年、ロンドン支店に着任(支店長は大久保利賢、のちに矢野勘治)。その間に木内重四郎、磯路夫妻の次女登喜子と結婚(媒酌人は和田豊治)。登喜子の父の重四郎は京都府知事等を務めた官僚で、登喜子の母磯路は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の次女である。その間の1925年(大正14年)には長男・渋沢雅英(渋沢栄一記念財団初代理事長)が誕生する。そして1926年(大正15年)に5年間に渡り勤務した横浜正金銀行を退職した。同年には祖父・栄一ゆかりの第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任。第一銀行副頭取などを経て1942年(昭和17年)に日本銀行副総裁[1]1944年(昭和19年)には第16代総裁に就いた。

第二次世界大戦直後、姻戚の幣原喜重郎首相(幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹)に乞われて大蔵大臣に就任。およそ半年の在任中に預金封鎖新円切り替え、高税率の財産税の臨時徴収等により、インフレーション対策と戦時中に膨らんだ国債等の国家債務の整理に当たった。またこの頃より高松宮家財政顧問も務めるようになった。一方で、渋沢家はGHQ財閥解体の対象となり、1946年(昭和21年)には創立以来敬三が社長を務めた澁澤同族株式会社も持株会社整理の対象となり、自らも公職追放の指定を受ける[2]。 また、自ら蔵相として導入した臨時の財産税のために、三田の自邸を物納することになった。追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に東久邇稔彦津島寿一次田大三郎らとともに証人喚問された[3]

1951年(昭和26年)追放解除[2]後は、経済団体連合会相談役や、電電公社からの国際電話事業分離で特殊法人として設立された国際電信電話(KDD。現KDDI)の初代社長、財界が共同で設立した文化放送の会長(澤田節蔵の後継として就任)などを務めた。

民俗学者

並行して、若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、漁業史の分野で功績を残した。

祖父・栄一の没後の1932年(昭和7年)には、糖尿病の療養のため訪れた静岡県内浦(現在の沼津市)で大川四郎左衛門家文書を発見。 一つの村の400年にわたる歴史と海に暮らす人々の生活が記録されていたこの文書を持ち帰って、これを筆写した。 そしてアチックの同人らとともに纏めた『豆州内浦漁民史料』[4]を刊行し、1940年(昭和15年)日本農学賞を受賞した[5]。他に『日本釣魚技術史小考』、『日本魚名集覧』、『塩俗問答集』などを著した。

港区三田の自邸[6]の車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」[7]を開設(第二次大戦中に日本常民文化研究所と改称[注 2])。

アチック・ミューゼアムに収集された資料は、東京保谷にあった日本民族学会附属の民族学博物館を経て、現在は大阪吹田・万博公園内の国立民族学博物館収蔵資料の母体となり、常民文化研究所は神奈川大学に移管された[注 3]

なお三田の旧渋沢邸[注 4]は、戦後国所有になり大蔵相公邸などに使われその後取り壊しの案も出たが、1991年(平成3年)に渋沢家で執事をしていた杉本行雄により青森県三沢市古牧温泉渋沢公園[注 5]へ移設され展示されていた。

現在は所有権を清水建設が買い取り(清水建設の創業二代目がこの渋沢邸を設計した)2023年に江東区へ移築し一般公開する予定。東京・北区飛鳥山公園内にある渋沢史料館[9]でも敬三の事績が紹介されている。

また、栄一没後に竜門社が企画した「日本実業史博物館」を主導し、書籍、絵画(含む広告)、器物、紙幣など近世経済史資料の収集を進めるが、戦時統制経済の影響で建築資材が集められずに挫折する。戦後も建設を模索し続けたが実現せず、収集された資料は1951年に文部省史料館に寄託、1962年に敬三自身により正式に寄贈している。

多くの民俗学者も育て、岡正雄宮本常一今西錦司江上波夫中根千枝梅棹忠夫網野善彦伊谷純一郎らが海外調査に際し、敬三の援助を受けている。

他にも多くの研究者に給与や調査費用、出版費用など莫大な資金を注ぎ込んで援助し、自らも民俗学にいそしんだのは、幼い頃から動物学者になりたかったものの諦めざるを得なかった心を癒したものとみえる。

敬三と、柳田をはじめ多くの研究者との交友の様子は、友人でもあった岡茂雄(岡書院店主)の回想『本屋風情』[10]に詳しく記載されている。

晩年・死去

1960年、旅先の熊本にて倒れる。以後入退院が増える。1961年、東洋大学の理事に就任する。小川原湖民俗博物館開設。1963年、朝日賞受賞。東洋大学の名誉文学博士号を授与される。受賞後、体調を崩し入院。

1963年10月25日、虎の門病院にて糖尿病と腎萎縮を併発し死去。満67歳没(享年68)。

畑中章宏(はたなか・あきひろ)

民俗学者。1962年大阪府生まれ。近畿大学法学部卒業。災害伝承・民間信仰から、最新の風俗・流行現象まで幅広いテーマに取り組む。

著書に『天災と日本人』『廃仏毀釈』(ちくま新書)、『柳田国男と今和次郎』『『日本残酷物語』を読む』(平凡社新書)、『災害と妖怪』『忘れられた日本憲法』(亜紀書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)、『死者の民主主義』(トランスビュー)、『五輪と万博』(春秋社)、『宮本常一』(講談社現代新書)ほか。

 

「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況でよく状況をみていくことだ」

敬三は実業家の立場、民俗学者の立場、どちらかに主軸を置くことなく、それぞれにおいて傍流でありたいとつよく思っていたのではないか。

そしてそれは、財閥のような自身の勢力の拡大を好まず、ひろく日本のため、社会のために企業家、社会事業家として尽くした祖父の渋沢栄一の思想とも根底において通じるのではないかと考えた。