AfDは、ドイツの政治において重要な役割を果たしており、その影響は今後も注視されるべきです。
ドイツのための選択肢(ドイツのためのせんたくし、独: Alternative für Deutschland、略称:AfD〈アーエフデー〉)[28]は、ドイツの極右[24]・右翼ポピュリスト[29]、国家保守主義政党である[9][30][31]。欧州懐疑主義で[32]、不法移民の排除などを主張している[33]。ドイツ連邦憲法擁護庁(BfV)は、以前、AfDを「右翼過激派」と公式に分類していた[34][35][36]。この分類は2025年5月の発表から1週間後に一時的に停止されたが[37]、認定の根拠となった報告書は後に流出して公表された[38][39]。AfD連邦支部は、2021年にBfVから「過激主義の疑いがある政党」と分類され[40]、2022年の裁判所の判決を経て、現在も監視対象となっている[41][42]。連邦議会に議席を有する政党がこのように分類され監視対象となるのは、ドイツ史上初の事例である[40]。
2013年4月、アレクサンダー・ガウランド(英語版)、ベルント・リュッケ(英語版)、元ドイツキリスト教民主同盟(CDU)のメンバーらによって、中道右派だが親欧州派のCDUに代わる右派で穏健な欧州懐疑派の政党として、ユーロ圏の政策に反対するために結成された。結成当初は、経済的にリベラルで[43]、欧州懐疑的で、保守的な運動を展開していた[44][45][46]。その後、さらに右傾化し[47]、歴代指導者の下で移民[13][10]、イスラム教[48]、欧州連合への反対を含む政策を拡大した[49]。2015年以降、イデオロギーはドイツ民族主義(英語版)[50][51][52]、フェルキッシュ民族主義[53]、国家保守主義を特徴とし[9][30][31]、反イスラム[54][55][14]、反移民(英語版)[56]、福祉排外主義(英語版)[53]、欧州懐疑主義に政策の重点を置いている[57]。連邦議会で唯一、人為的な気候変動の否定に基づいた環境・気候政策に掲げている政党である[58][59]。AfDのいくつかの州会と他の派閥は、PEGIDA、新右翼(英語版)、アイデンティタリアン運動などの極右民族主義や非合法運動とつながりを持ち[60]、歴史修正主義や[61]排外主義的なレトリックを使っていると非難されている[62][63][64]。2018年以降、憲法保護(英語版)のために様々な州政府機関によって監視されている[65]。AfD指導部は、党が人種差別主義的であることを否定しており、そのようなグループを支持するかどうかについて党内で意見が分かれている[66]。2022年1月、イェルク・モイテン党首は、AfDが全体主義的な特質を持つ極右に発展し、大部分がもはや自由で民主的な基本秩序(英語版)に基づいていないことを認め、党首を辞任してAfDを離脱した[67][68]。
2013年の設立後、2013年のドイツ連邦選挙で連邦議会に議席を獲得するための5%の選挙基準をわずかに下回った。2014年のドイツ欧州議会選挙では、欧州保守改革グループ(ECR)の一員として7議席を獲得した。2017年10月までにドイツ16州議会(英語版)のうち14議会で代表を獲得した後、2017年のドイツ連邦選挙で94議席を獲得して第3党に躍進し、最大野党となった。主な候補者は、アレクサンダー・ガウランド(英語版)共同副議長と、第19回ドイツ連邦議会(英語版)で党グループリーダーを務めたアリス・ワイデルだった。2021年のドイツ連邦選挙では、第5党に後退したが[69]、東部諸州(旧東ドイツ)では得票を伸ばした[69]。2023年以降の世論調査では、AfDはドイツの政党支持率で2位につけるようになり[70][71]、2025年ドイツ連邦議会選挙では152議席を獲得して第2党となった[72]。
歴史
党結成から2014年までの党の歩み
メルケル政権によるギリシャほか欧州連合諸国への救済措置に不満を抱く勢力が中心となって結成された。欧州連合からの脱退を目標とし、ユーロ圏からの離脱とドイツ・マルクの復活を当面の最優先課題に挙げている。党の政策は全体的に右派色が強いが、国粋主義や移民排斥は掲げていないとされる[73]。
結成から2か月後に開かれた党大会に1500名余りが参加するなど当初から強い注目を集め、同年9月の連邦議会選挙では阻止条項(得票率5%)を下回り議席獲得には至らなかったものの、連立与党の自由民主党(FDP)に肉薄する得票率4.7%を記録し一定の存在感を見せた。なおAfDはFDPの支持基盤を主に奪ったため、FDPも得票率4.8%で阻止条項を下回る結果に終わり、1948年の結成以来守り続けてきた連邦議会の議席を失った[73]。
なお第2投票(比例区)の得票率を州別で見た場合、メクレンブルク=フォアポンメルン州(5.6%)、ブランデンブルク州(6.0%)、ザクセン州(6.8%)、ヘッセン州(5.6%)、テューリンゲン州(6.2%)、バーデン=ヴュルテンベルク州(5.2%)、ザールラント州(5.2%)の7州で5%を上回る支持を集めることに成功した[74]。ただし連邦議会選挙と同日に行われたヘッセン州議会議員選挙では得票率4.1%に留まり、議席を獲得するには至らなかった。
2014年5月に行われた欧州議会議員選挙では、得票率7.4%で7議席を獲得した[75][76]。
欧州議会ではイギリス保守党が率いる会派「欧州保守改革グループ(ECR)」に属していたが、国境管理を巡って意見が相違した結果、2016年に会派を離脱。その後、2016年5月までに、ドイツのための選択肢の欧州議会議員は欧州懐疑派の会派「自由と民主主義のヨーロッパ(EFDD)」に加わった。
また同年8月のザクセン州議会議員選挙(得票率9.7%)で初めて州議会の議席を得ると[77]、翌9月のブランデンブルク(同12.2%)・テューリンゲン(同10.6%)両州議会議員選挙でも阻止条項を突破し、州議会への進出を果たしている[78]。
2015年7月の党分裂
ペギーダをめぐる党内不一致
ドイツのための選択肢は2014年10月に旧東独ザクセン州の州都ドレスデンに登場したペギーダ[79]の略称を持つ西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者運動と密接な関係を持っていた。事実、AfD党員や支持者たちがドレスデンにおいてペギーダと共に活動していた。2014年11月以降、ドレスデンAfDはペギーダのデモに歓迎され合流していた。AfDザクセン支部ハンス=トーマス・ティルシュナイダーの指導下にある愛国者プラットフォームはペギーダを最初から支持し、ペギーダの要求を支持し受け入れることをAfD連邦指導部に迫った。ケルンにおけるサラフィスト反対運動に参加することを禁止した2014年のAfD指導部の決定に反対するAfD党員たちはペギーダのメンバーたちと連帯して不満の声をあげた。2014年12月に旧東独ブランデンブルク州のAfDを率いるアレクサンダー・ガウランド(英語版)がドレスデンのデモ行進と集会を見物し、ペギーダ運動を支持し連携することはAfD党員として当然なことと語った。フラウケ・ペトリーはザクセン州議会でペギーダと合同幹部会を開催した。反対に当時の指導部にいたベルント・ルッケ(英語版)とハンス=オーラフ・ヘンケルはペギーダ運動とは距離を保つことを主張した。2015年1月になって、メルケル首相によるペギーダ批判に対抗する形で、AfD指導部がペギーダを擁護した。ペギーダ代表ルッツ・バッハマンによる外国人嫌悪発言が明るみに出ると、AfD連邦指導部はペギーダから離れた。けれどもAfDの州支部段階においてペギーダに対する姿勢はアンビバレントであった。フランクフルトのペギーダ系運動に極右政党のドイツ国家民主党が関与しているとして、ヘッセン州AfDはペギーダへの党員参加を批判した。しかし、ヘッセン州北部のカッセルで開かれた集会には党員の参加を促していた[80]。2015年7月にエッセンで開催されたAfD臨時党大会の挨拶において、開催地のノルトライン=ヴェストファーレン州AfDの代表マーカス・プレッツェル(ドイツ語版)はドイツのための選択肢はペギーダ運動の政党であると述べた[81]。
エアフルト決議
2015年5月、旧東独テューリンゲン州のAfD代表ビョルン・ヘッケと同じく旧東独のザクセン=アンハルト州AfD代表アンドレ・ポッゲンブルクはAfD指導部に抗してテューリンゲン州の古都エアフルトでエアフルト決議と呼ばれる狼煙をあげた。その決議において彼らはより保守的な政治姿勢に立つようにAfD指導部に要求した[82]。エアフルト決議の支持者たちはドイツのための選択肢党をドイツの現代社会に定着しているジェンダー・メインストリーミングや多文化主義に対抗するドイツ民族の運動体として理解していた。加えて、ドイツのアイデンティティーと独立の更なる希薄化に対抗する運動体という理解も彼らに存在していた。とりわけ、エアフルト決議はペギーダ運動との関係を批判した。大勢のAfD党員や支持者たちがペギーダのデモに参加しているにもかかわらず、ドイツのための選択肢AfD党は市民的抗議運動であるペギーダから距離を置いて、手を切るべきであると言い切っている[83]。少し後に、党内穏健派ハンス=オーラフ・ヘンケルは3人の欧州議会議員たちと共に「ドイツ決議」という名の対抗宣言を明らかにし、エアフルト決議の提唱者たちを党の団結を壊すものたちとして批判した。2015年3月25日までに1800人のAfD党員たちが署名したとエアフルト決議の主唱者は語った。署名した党員たちの中に、ブランデンブルク州代表のアレクサンダー・ガウラントも含まれていた。
ヴェクルーフ2015
2015年5月になって、ベルント・ルッケはヴェクルーフ2015と呼ばれる分派集団を作った。複数の欧州議会議員と若干の州の代表者と幹部たちがAfDの穏健派グループとしてベルント・ルッケの下に集まった[84]。そこに集まった党員たちは新右派の代表者たち(エアフルト決議の提唱者)による権力把握によってドイツのための選択肢AfD党の存立と一体性が脅かされていると見なした。その時点では、ヴェクルーフ2015に集った党員たちは新党を結成しようとしたのではなく、穏健派党員たちの離党を食い止め、穏健派を強めようとしていたのである[85]。2015年5月末に州支部の結成が始まり、その内部においてヴェクルーフ2015集団が党に発展すると語られ始めていた[86]。ヴェクルーフ2015と呼ばれる分派集団結成はルッケの支持者たちの多量離党を可能にするための準備と周囲では見なされた[87]。AfD指導部にいたフラウケ・ペトリーとアレクサンダー・ガウラントはルッケらの分派結成を党則違反行為であって、党を傷つけたと批判した[88]。その分派集団ヴェクルーフ2015においてベルント・ルッケの支持者約4千人が集まった[89]。ルッケのドイツのための選択肢AfD離党後の2015年7月に約2,600人が新たな欧州懐疑主義政党の結成を支持し集まったのである[90]。
エッセン臨時党大会
エッセン臨時党大会 2015
党内抗争後の2015年7月4日にノルトライン=ヴェストファーレン州の工業都市エッセンで開催された臨時党大会において、党首選出選挙がおこなわれた。決選投票において、フラウケ・ペトリーがベルント・ルッケの代わりに第一党首に選ばれた[91]。党首選出の決戦選挙においてペトリーには60%の支持票が集まったのに対して、ルッケへの支持票は38.1%に過ぎなかった[92]。加えてイェルク・モイテンが同等の権限を持つ党首に選ばれた[93]。ベルント・ルッケの党首選における敗北は政治学者たちから党の右傾化と経済自由主義派に対する国民保守主義派の勝利と評論された[94][95]。
ペトリーによると、エッセン臨時党大会はAfDを破壊的な党内権力闘争から救うための強行策だった。それによってドイツのための選択肢は再び独立と自由を回復したのである。新指導部の下でもユーロ救済策への批判が最重要課題として継続しており、難民対策や難民、亡命者庇護政策が党の前面に躍り出ているわけではない。中産階級と家族を守るための直接民主主義の更なる導入も重要政策として党は継続しており、社会政策や経済政策も同様である。単に欧州連合改革に関連する変更事項が生じたに過ぎない。党大会後のAfD新指導部は自国であるドイツ連邦共和国のメルケル政権よりもイギリス保守党とデーヴィッド・キャメロン首相に親近感を持っていることを認めている[96]。
党設立者ベルント・ルッケ
新党「進歩と新たな出発の連盟」の結成
党首選に敗れたベルント・ルッケは離党し、2015年7月19日に新たに進歩と新たな出発の連盟(英語版)(ALFA)を設立し[97]、5人の欧州議会議員、3人のブレーメン市議会議員、一人のテューリンゲン州議会議員を含む大勢の支持者たちを新党に呼び込んだ[98][99]。新たに結党された「進歩と新たな出発の連盟」との今後の関係を、ドイツのための選択肢党に残った党員たちが指導部に問い合わせたが、AfD指導部はあくまでも新党を無視し、彼らを決してリスペクトしないように残ったAfD党員たちに求めた[100]。党分裂は決定的であった。