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熊本市の教育理念

2025年08月23日 13時16分14秒 | 社会・文化・政治・経済
熊本市の教育理念は「豊かな人生とよりよい社会を創造するために、自ら考え主体的に行動できる人を育む」ことです。

基本理念

熊本市の教育振興基本計画において、教育の基本理念は以下のように定められています。
  • 主体的に考え行動する力を育む: 学生が自らの意志で考え、行動できるような教育を推進します。
  • 豊かな心と健やかな体を育む: 心身の健康を重視し、バランスの取れた成長を促します。
  • 社会の形成や持続的発展に貢献する力を育む: 地域社会に貢献できる人材を育成します。
  • 遊びを通して創造的な思考を育む: 幼児教育において、遊びを通じた学びを重視します。 

    1. 個別最適な学びと協働的な学びの充実: 各児童のニーズに応じた教育を提供し、協力して学ぶ環境を整えます。
    2.  
    3. 特別支援教育の充実: 多様な教育的ニーズに対応するための支援を強化します。
    4.  
    5. 安全・安心な学校づくり: 学校環境の安全性を確保し、安心して学べる場所を提供します。
    6.  
     

知恵は現場にある

2025年08月23日 12時27分07秒 | その気になる言葉

▼自分の今いる場所を大切にしていく。

その場で何か結果を出していく。

これこそが「価値のある人生」である。

▼気候変動や経済の不安定化など数多くの課題に直面している現代社会において、一人一人がそれぞれの立場で価値を生み出す能力が求められている。

▼現実と理想の隔たりを超える<新しい現実>を構築する方途を探りたい。

▼AI(人工知能)登場によって思考の過程が空洞化しまうことで、現在の博士課程における専門教育の意義が揺らいでいる。

博士課程教育において重要なのは研究成果や学位の取得ではなく、世界の複雑な現実に向き合い、自ら思考し課題を発見する能力を養うことである。

▼人間らしさから逸脱しない等身大の生命感覚や生活感覚が必要である。

▼人間教育と価値創造の哲学こそ、現代の博士課程教育を全人的に人間を育成する教育へと変容させることができる。

▼知恵は現場にある。

▼「代表選手型」から「全員参加型」へ。

▼真の生命尊厳の思想が期待される。

▼信仰のない人生の幸福は弱弱しい土台―哲学者ヒルティ

 


不機嫌は怠惰と似たもの

2025年08月23日 10時21分24秒 | その気になる言葉

▼我等の本当の国籍は人類。

「地球民族主義」の社会を。

▼不機嫌は怠惰と似たもの―文豪ゲーテ

不機嫌になると、人は愚痴や文句が増え、周囲に怒りをぶつけてしまう。

▼人は「祈る」という行為によって、自らを見つめ、物事を良い方向に捉え直すこともできるだろう。

生命の状態を上向きにすることも。

▼道傍の地蔵堂へ向かって祈る人を見かける。

▼取手八坂神社でも祈りを捧げる人の姿も。

▼「よく分かる」ことは楽しい。

「よく生きる」ことは嬉ししい。

▼教育は「経験から出発する」「価値を目標とする」「経済を原理とする」

身近な生活や経験に根差した学びから出発する。

美・利・善の「価値」を創造できる人間への成長を目指すこと。

経済的・時間的な無駄を省き、教師の教育力や子どもの学習力を合理的・効率的に引く出すこと。

▼誰もが本来、「よりよく生きたい」と願っている。

その人間の心と力を信じ抜き、励ましつづけ、無限の可能性を開いていける「学び方」「生方」会得できるようにする。

 

 


人口減少の要因

2025年08月23日 09時24分06秒 | 社会・文化・政治・経済

人口から読む日本の歴史

縄文、弥生~鎌倉、室町~江戸、明治~令和にかけて。

共通するのは、新しい資源が見いいだされ、新技術の活用が進み、場合によって制度の変更も重なり、政治、経済、社会などの暮らしを支える文明の形が大きくかわってきたことだ。

こうした要素が絡み、文明が転換すると、人口が増える。

しかし、新技術が普及し尽くすと、資源や環境に制約が出てきて、死亡率の上昇と出生率の低下が起き、人口は減る。

人口の停滞、減少期は文明の転換が始める時期に重なる。

江戸時代は主食である米の生産が限界を迎え、人口も増やせなかったと考えられる。

17世紀には新田開発、農具や肥料の改良、普及が、食料生産が強化され、人口は増加した。

18世紀には頭打ちとなり、その後やや人口は減少した。

農村部では出生率が低下して「少子化」が起きた。

新田開発が限界にきた影響が大きい。

寒冷化が進み、冷害による凶作や飢饉が頻発し、環境面からの打撃も大きかった。

現代は地球温暖化が起きたから人口が減っているわけではない。

人類が先に人口過剰ではないかと意識するようになった。

同時に人間が環境を変動させている面が強く意識されている。

人間が経済活動を行って人口を増やし、エネルギー資源を消費し、排出された温室効果ガスが温暖化を引き起こしている。

環境変動を完全に乗り越えるのは困難で、強い制約となっているのは事実だ。

国際的な研究・提言機関ローマクラブの報告書「成長の限界」では爆発的な人口増加や経済成長が続けば、地球は限界に達すると警告し、ノーベル物理学賞受賞のデニス・ガボールは「成熟社会」で量的な拡大を抑え、質の向上を目指すべきだと提言した。

人口爆発の抑制へ向かった。

「子どもは2人まで」という国際的合意を得る方向へと向かう。

今も続く少子化の根本には、この方針や背景にある食料・資源・地球環境をめぐる危機感が強く影響していると思う。

このあたりをピークに日本など先進諸国の出生率は落ち込んでいった。

当初、出生率の低下は意図したものであった。

政府は子育て支援だけでなく、生涯未婚を十分手当しなけれなならない。

高校生などを対象に家庭や子どもを持つ意味や、どんな生き方をしたいのか、といったことをお金の問題と一緒に考えてもらう。

 


増加と停滞を繰り返す、4つの大きな波を示しつつ、1万年にわたり増え続けた日本の人口。
そのダイナミズムを歴史人口学によって分析し、また人々の暮らしの変容と人生をいきいきと描き出す。近代以降の文明システムのあり方そのものが問われ、時代は大きな転換期にさしかかった。その大変動のなか少子高齢化社会を迎えるわれわれが進む道とは何か。(講談社学術文庫)


長嶋一茂が番組収録中に突然の退出 

2025年08月23日 09時17分56秒 | 社会・文化・政治・経済

ちさ子の制止を振り切り「俺は帰るからな!」サバンナ高橋が涙目


旧日本軍による南京大虐殺

2025年08月23日 09時08分17秒 | 社会・文化・政治・経済

南京事件(ナンキンじけん)は、日中戦争の最中である1937年12月に日本軍が南京戦において中華民国の首都である南京市を攻略した後(もしくはその前後)に、数か月間にわたって多数の一般市民、捕虜、敗残兵を虐殺した事件である[1][2][3]。南京虐殺事件[3]や南京大虐殺[4][5]、中国では南京大屠殺という呼び名も使われている。

本稿での記述内容は、日本での日中戦争に係る代表的な研究者(秦郁彦・笠原十九司)の著作、日本陸軍の親睦団体であった偕行社が戦後にまとめた「南京戦史資料集」、事件当時のニューヨーク・タイムズ、シカゴ・デイリー・ニューズ等の海外の新聞、現地在住の欧米人の記録(ジョン・ラーベやミニー・ヴォートリンの日記やルイス・S・C・スマイスのスマイス調査など)、戦後明らかになった日本陸軍軍人や従軍関係者の発言や記録などをもとに一次資料やそれらを研究した内容を主にまとめたものであり、中立に記述するためにいわゆる否定派といわれる意見、否定派を巡る様々な日本側の研究者の意見、また中国側の意見や発信(プロパガンダ説)などについても記述する。

概要
日中戦争中の1937年12月上旬、日本軍は中華民国の首都南京市を攻略した。この南京攻略戦の前後に行われた日本軍による一連の虐殺、略奪、暴行、強姦、放火等の不法行為を総称して「南京事件」と呼ばれている[6]。犠牲者の数は正確には不明であるが、日本の研究者の多くは一定規模の虐殺があったと考え、数万人から20万人の犠牲者があったと推定している[注釈 1]。中国政府の見解では30万人とされるが、日本の研究者はこの数字を過大と見ている[8]。

事件の名称については「南京事件」の他、「南京虐殺事件」「南京大虐殺」とも呼ばれ、適切な呼称を巡っては様々に議論がある[9]。研究者によって、「南京事件」という用語は「南京大虐殺事件」の略称であるとも[10]、不法な殺害の他に略奪や強姦なども含めた不祥事全体を意味しているとも説明される[3]。中国では「南京大屠殺」という呼称が使われ、日本などにも「南京大虐殺」という形で普及している[9][注釈 3]。

この事件は、事件直後に日本陸軍も日本政府も把握していたが、戦後の日本社会において、極東国際軍事裁判等によって初めて広く知られることとなった。田中正明が南京大虐殺の虚構説を発表して以降、一部の政治家や歴史学者は、一般中国人への被害は少数でむしろ中国軍の殺害・強姦等が少なくなく、日本軍の中国兵殺害は戦時国際法上では合法もしくは一般戦闘での止む無い殺害である等、否定論を支持している。一方で、ほとんどの研究者は、一定規模の犠牲者があったのは史実であると同意し、反論している[11][12]。

事件の経緯を時系列で見る。昭和6年の満洲事変・翌年の満洲国建国以降、日本と中国は、それぞれの権益をめぐって対立する中、中国への侵略を進め(華北分離工作)、1937年7月に日中戦争が始まった。その後、戦線は、当初の中国北部のみならず上海付近にまで広がった。11月には、上海に派遣された日本軍(中支那方面軍麾下の上海派遣軍および第10軍)は、中国軍を駆逐して上海を占領したが、その後、首都南京へ進撃・占領することとなる。日本の陸軍中央は当初、南京への進撃に反対したものの、現地での命令を無視した南京へ向けた出撃などの行動を追認する形で、中支那方面軍の南京進撃は正式な命令となった[13]。

さて、中支那方面軍は、いくつかの問題を持っていた。上海派遣軍の頃から、士気低下・軍紀廃頽は問題化しており、そのうえ、軍に対する軍紀・風紀の取り締まりを行う憲兵の数もわずかであったため、軍記への取り締まりの実行能力を持たなかった[14][15]。また、捕虜をむやみに殺さないで人道的に取り扱うための戦時国際法であるハーグ陸戦条約(1907年改定後)を、遵守・履行しなくても良いと解釈できる命令を当時の軍部が出していた[16][17]うえ、作戦行動に必要な物資の補給・兵站の確保が行われず、必要な物資の大半を現地調達(徴発・略奪)に依存することになっており[14][15]、また上海戦において、日本軍人が戦友の多くを失い、中国側への復讐感情を芽生えさせていた[18]。この様な状況が、日本軍が軍紀・風紀を守らないで中国国内で略奪や違法虐殺を行うという事態を生むこととなる。

日本軍は、南京へ向かう進撃中の行程(南京周辺農村部)において、現地家屋の破壊・放火、一般市民・捕虜・敗残兵に対する虐殺・強姦などを行っており、その後、南京攻略後の12月13日から12月16日頃まで、南京城内外において、多くの住民に対する殺害事案、それより多くの中国軍兵士(捕虜・敗残兵)への戦時国際法上違法な虐殺、また城内での略奪・放火を行った[19][15]。日本軍が押し寄せたとき、南京の多くの住民(全員ではない)が、南京市内の欧米人が人道的活動として設置した南京安全区(英語版)(別称:南京難民区。南京城内の約8分の1の面積に相当する範囲)に逃げ込んで(約20万人後に25万人(いずれの数字も推測値))、命を長らえたが[20][21]、その外側にて住民・兵士を、戦時国際法に違反する形で殺害する(数は諸説あるが)事案が発生していた。12月17日以降は1月5日まで続いた敗残兵狩り(安全区内も含む)を除き、日本兵による組織的虐殺は一応終了するが、一部の殺人や強姦・放火の発生は継続し、完全に終息するのは4か月後の1938年3月頃であった[22]。南京攻略戦の前に、中支那方面軍司令官松井石根は、南京城攻略要領を示達し、前線部隊に統制の強化と綱紀粛正を命じていた[23][24]が、前線部隊の司令部は通達を守らず、不法行為・殺戮に歯止めがかからなかった[25][26]。

日本政府(外務省)も東京の陸軍中央も、発生直後から南京事件に気付くこととなる。現地の日本軍の殺害・不法行為について、南京の日本総領事館が東京の外務本省に報告したため、外務大臣広田弘毅から石射東亜局長を通して陸軍省軍務局に厳重注意の申し入れがあり、杉山元陸軍大臣にも軍紀粛正を要望した[27]。東京の陸軍も、南京での日本軍の虐殺・不法行為の問題を知っていたことが、当時の高級軍人の記録・証言で明らかになっており、後に陸軍大臣となる阿南惟幾は、南京事件直後に現地を視察した結果、「言語に絶するものあり」と述べている[28]。陸軍中央は、南京での現況調査の結果を踏まえ、松井石根中支那方面軍司令官を2月に日本に召還し[29](第10軍・上海派遣軍の司令官も解任)、中支那方面軍も新たに中支那派遣軍に再編制されて廃止される[30]。

なお、日本軍は、それ以前の日露戦争のときは戦時国際法を忠実に守り外国人捕虜への人道的配慮を行った[31]ことが国際的に知られており、続く第一次大戦のときもドイツ人捕虜への配慮や捕虜収容所での人道的扱い[32]が内外に広く知られていたが、日中戦争では、この様な恥ずかしい事態となった。陸軍の武藤章(南京にも参謀として従軍)は、シベリア出兵以降から、日本軍の軍規律に問題が起こり始めたと、戦後になって指摘している[33]。

当時南京在住であったニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン特派員は、他の記者の記事とともに世界にこの事実を発信した[34][注釈 4]。直後の欧米各国の反応は限られたものであった一方、その後、南京事件に代表される日本軍による中国人への非人道的な行為についての報道が、アメリカにおける対日感情を悪化させ、非人道的野蛮行為を行う日本兵というイメージを国民の間に醸成させる側面があった[35]。

さて、戦争のその後であるが、首都である南京を占領する、という華々しい軍事的成果が、日本政府を強気にさせ、中国との和平交渉の条件を引き上げたため、1938年1月に和平交渉は決裂した[36]。近衛内閣は中国の政府を相手にせずとの声明(第一次近衛声明)を発し、その後、3月に南京において日本の傀儡政権(中華民国維新政府)が創設され、以後、日中戦争は解決の道が探れない状況のまま、終わることなく継続することとなる[36]。

そして、終戦後に開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)において、この事件は日本に広く知られることとなり(ただ被害の誇張という問題はあったし、戦勝国のプロパガンダという面もあったが)、中支那方面軍司令官であった松井石根大将が、南京とその周辺における一般市民と捕虜の殺害について犯罪的責任があるとして絞首刑が宣告された[7][37]。A級戦犯(平和に対する罪)を裁いた東京裁判とは別に、BC級戦犯(交戦法規違反)とされた被告が連合国各国の軍事法廷で裁かれ、南京事件に関わるものは南京軍事法廷で審理された[38]。この法廷で南京戦に参加した日本軍部隊の関係者4名(谷寿夫中将等)に死刑判決が下され処刑された[39]。

前史
上海占領と南京空爆、南京への進撃
日本と中華民国は1937年7月7日の北京郊外の盧溝橋事件以降、日中戦争に突入した。8月には、戦争の中心は、中国北部から、中国の中部にある上海に移り(第二次上海事変)、激しい戦闘がおきる。9月には、日本軍は、上海に軍隊を増派したが、中国軍の激しい抵抗もあって、11月まで上海戦線の膠着状態が続く[40][41]。しかし、11月半ばには、日本軍は、上海全域を占領することに成功した[42][41]。

さて、日本軍は、8月15日には日本海軍機によって、南京の飛行場などの軍事施設と周辺の人口密集地帯に対して爆撃が行われた[43]。以降、南京市には繰り返し爆撃が行われ、8月29日は南京駐在のアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの外交代表が日本に抗議書を出した[44]。しかし、日本軍の空襲は継続し、9月には上海の飛行場からより更に本格的な攻撃が可能となる[45]。日本軍は早期に南京周辺の制空権を確保し、また「爆撃はかならずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐慌を惹起せしむるを主眼とするをもって...[46]」という通達が出され、民間人への被害を考慮せず、爆撃犠牲者は増大した[47]。日本の南京への空爆は、8月から65回程行われて、南京市民392名が亡くなった。[43]

上海の占領後、11月後半に日本軍の一部は、現地軍(第10軍)は南京へ向けて独断専行で南京進軍を開始した(ただし、陸軍中央は南京進軍に反対していた。)。[48][49] その頃、日本の上海派遣軍は上海占領時点で軍紀弛緩が深刻で、士気低下や食糧不足によって現地からの徴発(実質的な略奪)や暴行が増大した[42]こともあり、参謀本部は南京進軍に反対していた[48][49]。そして、次章で後述する様に、南京への進軍では日本軍は兵站の大半を現地徴発に依存し、軍紀の紊乱と相まって進撃路上の町や村では略奪と暴行が繰り返された[50][51]。南京への進軍途上で発生した一連の略奪・暴行は、「南京に向かう追撃戦の全過程は、すでに上海戦の段階で顕著になっていたさまざまな不法行為、残虐行為がより大規模な形で拡大される過程であり、南京事件の直接の前史をなす道程であった」と評される[50][注釈 5]。

南京市に進軍する途上での不法行為(殺害・略奪・放火・強姦)
南京占領に向かう途中の農村地帯において、日本軍が進撃中に日本軍が起こした村落での略奪は、兵站上の問題を解決するためとして、組織的に行われた[52]。日本軍が必要とする物資の大部分が現地調達によって賄われた事は『陸支密大日記』において「丁集団(第十〇軍)作戦地域は地方物資特に※、野菜、肉類は全く糧は敵に依るを得たり[注釈 6]」と記録され、第9師団参謀部は「軍補給点の推進は師団の追撃前進に追随するを得ずして上海付近より南京に至る約百里の間殆ど糧秣の補給を受くることなくほとんど現地物資のみに依り追撃を敢行」したとすることなどからわかる[53]。

こうした物資の強奪は「徴発」という体裁をとり、徴発証券が発行されることになっていたが、その実態は略奪であった[54][55]。東京裁判において上海派遣軍参謀榊原主計は占領地に行政上の責任者も一般住民も残留していない場合、軍事上の必要性から徴発が必要であった場合には、徴発した物資を明記し、所有者判明の場合は代金を受領しに出頭するよう張り紙をしていたことを証言している[53]。しかしこの徴発証券の運用は極めて杜撰であり、実際には発行されなかった場合が多く、発行されたものも内容の正確性について注意が払われなかった。第9師団経理部付の将校であった渡辺卯吉は日本軍が発行した徴発証券について次のように回想している。

然るに後日(中国人の)所有者が代金の請求に持参したものを見れば其記入が甚だ出鱈目である。例えば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云うものや全く何も記入していないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。...徴発したものの話では乃公(自分のこと)は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴はどうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である[56]。
—渡辺卯吉
略奪には住民の殺害が伴い、戦闘行為の巻き添えも含め、住民の虐殺が横行し多くの犠牲者が出た[57][58]。同県の本湖村でも村民40名余りが殺害された[58]。また、掃討の延長として敗残兵や捕虜の殺害も頻繁に行われた[注釈 7]"。この捕虜の虐殺は、当時複数の日本軍部隊が功名心に駆られ「南京一番乗り」を目指して急進撃を行っていたため、捕虜を足手まといと見たことによってより激しい形で行われた[60]。

以上の様に、日本軍は、南京周辺の農村部(南京市の行政区にも含まれる)で、組織的でときに村単位の住民虐殺を行った[61]。農村での虐殺は日中共同研究においても中国側が具体的に指摘しており、スマイス調査でも農村地域の一般住民の犠牲者は2万6千人以上と記録している[62]。

進撃中の不法行為としては日本兵による放火や強姦も深刻な問題となった。兵站が脆弱な日本兵にとって、食糧と並んで現地調達が必要な物資の一つとして防寒用の薪があった。これを現地調達する手段として、タンスなどの家財道具が略奪された他、家そのものを破壊して薪とすることが行われた[63]。また単なる気晴らしや余興として軍事上の必要性が全くない家屋への放火も頻発した[64]。中国人女性に対する強姦事件も頻発した[65]。

南京市内へ日本軍突入と南京市陥落後
日本軍突入直前の事情(松井司令官の南京城攻略要領と中国の焦土作戦)
12月1日、現地日本軍に対して(そもそも追認であるが)陸軍本部から、正式な南京攻略の命令が出された。当時南京は中華民国の首都であったが、蒋介石等の主だった政府首脳部や各国の外交使節は日本軍の進撃を前に脱出し、重慶や漢口に拠点を移した[51][66]。12月9日に日本軍による開城勧告が航空機により城内に投下されたが応答はなく、翌日に総攻撃が命じられた。中国軍の南京防衛準備は遅滞しており、三方から包囲する日本軍に対して長江(揚子江)を背に背水の陣の形をとり、各部隊に死守命令を出すと共に船舶の管理を厳格化することで兵士たちの退路を塞ぎ、南京を死守することを企図した[51][67]。

中国軍は日本軍の南京攻略に先立ち、12月7日にすでに、南京周辺地域における焦土作戦を開始し(「清野作戦」)、南京周囲の居住地、道路沿いの村落が焼き払われた[68]。日本軍の司令部は現地部隊に南京城内への駐屯を禁止していたが、攻撃の余勢を駆った日本軍部隊は司令部の統制外で城内に入場するものが相次ぎ、また焦土作戦の結果場外区域に駐屯することが困難になった上、飲料水も不足していたことから、7万人の大軍が南京城内に駐屯することになり、食糧の略奪が城内で行われることになった[68][69]。

南京陥落直前の12月12日午後には、中国軍は、南京を放棄して退却することとなり[70]、(日本軍による利用を阻止するため)重要建造物の放火破壊を開始し、市内の主要な建造物が破却された[70]。13日朝には中国軍の組織的抵抗は終了した。中国軍の司令官は、部下・一般市民を無対策のまま置き去りにして逃亡し、さらに長江を渡ろうとする中国軍部隊では船の奪い合いが発生し、また渡江を阻止しようとする部隊の間での同士討ちも発生した[71][72]。

さて、いよいよ南京占領が目前となったが、日本軍にとって、外国の首都占領は、長く歴史に残り、諸外国の注目を集める出来事になるため、12月7日に中支那方面軍司令官松井石根は、南京城攻略要領を示達し、前線部隊に統制の強化と綱紀粛正を命じていた[23][24]。

しかし、日本軍の前線部隊の司令部は、松井司令官の命令を守らず、不法行為・殺戮に歯止めがかからなかった(なお、松井司令官は、病気のために南京戦の前後の12月5日‐15日の間は通達等以外の直接の現場部隊への指導・指揮はおこなえず)、また南京への進軍自体が準備不足で行われた中で現実的に統制に十分な憲兵を備えておらず、12月17日時点において7万人の日本兵に対し憲兵は17人しか存在しなかった[73][注釈 8]。このため日本軍は兵員による不法行為を統制する手段を欠いており、更に南京制圧直前に中国軍が実施した焦土戦術によって周辺地域で物資の調達ができていなかったことが日本軍の略奪に拍車をかけることになった[68]。

(詳説)南京市の人口と南京安全区(難民区)
南京の人口は、日中戦争以前、つまり、その年の7月には100万人以上であった。しかし、南京が日本軍の空爆の被害を受け、日本陸軍の南京進撃が近づく中、首都機能が南京から漢口へ移転して中国政府首脳・官僚らも移転し、一般住民も多くの人々が避難した。その結果、人口は時間を追って非常に減少し(南京戦の20日前の11月23日に南京市人口は約50万人に減っていると、市当局は報告[74]。ただし、11月28日時点で約20万人説もある[注釈 9])、最終的に、南京戦当時の人口は非常に減少していたが、その当時の正確な人口は不詳である[76]。後述する様に、日本軍が押し寄せたとき、南京で戦災に巻き込まれた多くの住民(全員ではない)は、南京市内の欧米人が人道的活動として設置した南京安全区(英語版)(別称:南京難民区。南京城内の約8分の1の面積に相当する範囲)(この南京安全区は後述詳細)に逃げ込んだ。南京陥落直後の安全区内は、約20万人、安全区外からその後も流れ込み後に25万人(いずれの数字も推測値)の人口に膨れ上がり、南京城市内の南京安全区の外には住民が少ない状況となる[77][78]。南京安全区に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかった(いわゆる「ラーベ感謝状」[注釈 10][80][81])とされ、占領後も日本軍は立ち入りは制限された(日本軍と住民の仲良い交流写真が撮られたのは安全区あたり。一方で、安全区内での日本兵の強姦事案等が頻発する)。

しかし、後述するように、日本軍は、安全区の外側、南京市内や南京城の外の長江周辺等で、避難中や避難前の等の民間人(や捕虜となった兵士等)を違法殺傷・虐殺しており、「残敵掃討」(敗残兵狩り)として安全区内でも民間人の誤認殺害等の問題ある行為を行った。[82]

日本軍の南京市地域での民間人の殺傷
日本軍が、南京市内に突入したあとの市民への主な殺害行為は以下のとおりである。 日本軍は、南京市内の警察官や消防夫を殺害、中国側の発電所技術者も政府企業に勤めていたというだけの理由で殺害した[83]。また、12月13日の南京城市陥落以降、住民の多くが前述の安全区に避難したものの(避難民は20万以上で、最終的に安全区外から安全区へ逃げてきて25万ぐらいまでに膨れ上がるとされるが、いずれも推測値で正確ではない)、安全区に逃げる前や逃げられなった住民が日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれて城内で殺害された証言(日本兵に一家が、強姦殺人・幼児殺害も含め惨殺された新路口事件など)や、その他多数の市民が南京城外の長江沿いに避難していて兵卒とともに巻き込まれて日本軍に殺害された記録、長江渡河を試みようとして攻撃を受けて亡くなった老若男女の民間人と見られる無数の遺体が長江の中で浮いて流れていたという証言が、日本側も含めて存在する[84]。その他は、以下の「残敵掃討」の際に脱走兵・便衣兵と見なされて殺害された民間人が相当数含まれる。一般住民の犠牲者数は、笠原十九司の説では、南京城内1万2千人、農村部2万7千人[85]で、 秦郁彦は、1万人(南京城市のみ)[86]と述べる。

民間人の殺傷のうち、南京市と市の城壁周辺で行われたのは、12月13日から16日が大半であり、その後も、敗残兵に間違えられた成人男子民間人の虐殺が1月5日まで起きており、その他の一部の殺人もあり、完全に終息するのは3月に南京に傀儡政権ができたときである。

また、日本軍は「残敵掃討」を南京を陥落させた翌日から(安全区も含めて)開始した[87]とき、「あらゆる手段を尽くして敵を殲滅」することを要求し、中国軍残兵が「便衣に化せると判断」し「青壮年は全て敗残兵または便衣兵と見なし」て逮捕監禁すべしとされ、しかも捕虜を取らない方針で行動していた[87]ので、誤認による民間人殺傷も行った[88]。これらの「残敵掃討」は、以下の「捕虜の「解決」と民間人の殺傷」に詳細が記されている。

捕虜と民間人の殺傷 / 便衣兵としての敗残兵虐殺
ハーグ陸戦条約の規定では戦意を喪失し組織的な行動能力を失った敗残兵に対しては降伏を勧告し捕虜として待遇する必要があった[89]。戦時国際法であるハーグ陸戦条約(1907年改定後)を、日本は1911年12月13日、中華民国は1917年5月10日に批准[90]していた。しかし、日中戦争時に、日本の軍部が戦時国際法(ハーグ陸戦条約)を遵守・履行しなくても良いと解釈できる命令を出した記録が残っている[16][91]。

また、自軍の補給にも窮していた日本軍は制圧当初から全体として捕虜を殺害する方針で臨んでいた[89]。南京攻略戦に参加した第16師団の旅団長佐々木到一は当時の状況について次のような回想を残している。

この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。(中略)午後二時ごろ、掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。その後、俘虜続々投稿し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとて「皆やってしまえ」と言いたくなる。白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった[92]。
—佐々木到一
この証言のような状況は他の部隊でも同様に発生していたと見られる[93]。捕虜を取らないとするのは第16師団の方針であり[94][95]、12月13日に処理(殺害)された投降兵・敗残兵は第16師団のみで23,000人を超えた[96]。

12月14日、南京陥落を喜ぶ日本国内の世論の熱狂や昭和天皇による祝賀の「御言葉」の下賜があり、松井石根司令官が、12月17日に中支那方面軍の南京入城式を挙行する旨を、現地軍に通達した[97]。現地部隊は敗残兵の掃討まで時間が足りないことを主張したが、12月17日の入城式の挙行は強行されることとなった[98]。この結果、入城式の日程に合わせて12月14日から17日にかけて残敵の掃討が徹底的に行われることになった[99]。

第16師団以外のもの含め、日本軍各部隊が行った敗残兵・便衣兵の「掃討」では時期や部隊によって温度差があり、「良民」と「便衣兵」の選別が多少行われていた場合もあった。しかし、十分な調査を行うような人員が存在しなかったためその選別は非常に荒っぽいものとなった[100]。秦郁彦はこの「良民」と「便衣兵」の選別について「選り分けるといっても、軍帽による日焼けの線(面ずれ)や目付で識別し、家族らしいものに泣きつかれると放してやる式のおよそ非科学的なやり方だったから、末端兵士の気分しだいで連行はふえも減りもしたようだ。こうした気まぐれな選別が、安全区の住民に与えた衝撃と恐怖感は想像に余りある[101]」と述べている。

南満州鉄道株式会社に務めていた小川愛次郎は南京における日本軍の軍紀退廃・虐殺について1938年7月27日、日本の外務大臣宇垣一成に宛てた「時局の動向と収拾策(講和大綱)」と題する意見書の中で次のように述べている[102]。

虐殺放火が盛に行われた。南京陥落直後丈でも市民中の男子の狩り出されて機関銃の掃射を蒙ったもの万を以て数うべく、市街火災の多くは占領後日本兵の放火である。之等は、日清役(日清戦争)当時は捕虜を所謂「可然(しかるべく)処分」したり、又旅順大虐殺事件の如き、又満州事変後の匪賊討伐で賊の逃込んだ部落を焼払うと謂うが如き、実情不得已して採りたる処置とか又は敵愾心の発露とは全然其の精神を異にし、殆ど悪戯的に行われて居る、全く軍規の廃頽から来て居る[103]。
—小川愛次郎
南京攻略戦とその後の占領に携わった日本の現地軍は上海派遣軍と第10軍であったが、上海派遣軍の第16師団、第9師団、第13師団山田支隊、第10軍の第6師団、第114師団について、それぞれの指揮下の部隊がどのように敗残兵・市民の殺害を行ったかについては、秦郁彦が整理している[104]。

公式文書による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応
部隊 総数 対応 出典 適用
第114師団歩兵第66連隊第1大隊 1,657
12、13日に雨花門(中国語版)外で収容 処断 1,657
13日午後 第114師団歩兵第66連隊第1大隊戦闘詳報 雨花台事件[105]
第6師団歩兵第45連隊第2大隊 約5,500
14日午前、下関で収容 釈放
14日午後 第6師団戦時旬報 
第16師団歩兵第33連隊 3,096
10日 - 14日、紫金山北方から下関附近、太平山、獅子山附近の戦闘間 処断 3,096 歩兵第33聯隊戦闘詳報 
第16師団歩兵第38連隊第10中隊 7,200
14日、堯化門(中国語版)附近 収容 7,200
17日、18日頃、南京へ護送 歩兵第38聯隊戦闘詳報 
国崎支隊(歩兵第41連隊基幹) 120
3日 - 15日 不明 120 第9旅団戦闘詳報 
歩兵第41連隊第12中隊 2,350
14日夕、江興洲 釈放 2,350 第12中隊戦闘詳報 
第16師団歩兵第20連隊第4中隊 328
14日、安全区(中国語版)東方 処断 328 第4中隊陣中日誌 「銃殺ニシテ埋葬ス」
第9師団 約7,000
13日 - 14日 処断 約7,000 第9師団作戦記録概要 
第9師団歩兵第7連隊 (6,670)
安全区掃蕩間 処断 (6,670) 歩兵第7聯隊戦闘詳報 
戦車第1大隊第1中隊 (320)
14日、掃蕩間 処断 (70) 第1中隊戦闘詳報 戦争処置
第3師団歩兵第68連隊第1大隊 8 不明 8 第1大隊戦闘詳報 
第3師団歩兵第68連隊第3大隊 25 不明 25 第3大隊戦闘詳報 
第16師団歩兵第9連隊第2大隊 19 不明 19 第2大隊戦闘詳報 
集計(公式文書) 約27,000[注釈 11] 収容 7450、釈放 7850、不明 172、処断 約12,000  
公式文書以外による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応
部隊 総数 対応 出典 適用
山田支隊(歩兵第65連隊基幹) 8,000
14日 幕府山附近で収容された14,000のうち非戦闘員6,000は釈放 逃亡 7,000、処断1,000
14日夜、4,000が逃亡、残余は観音門へ連行 『戦史叢書』 幕府山事件[106]
第16師団第30旅団 約2,000
24日 - 翌年1月5日、安全区内の兵民分離 収容 約2,000 『佐々木少将私記』 その他入院中の500は収容
第16師団第19旅団歩兵第20連隊第12中隊及第3機関銃中隊 200 - 300 処断 200 - 300 『小戦例集』、『牧原日記』 
第16師団第30旅団歩兵第33連隊 数百
16日、17日、紫金山北方 処断 数百 『佐々木少将私記』  
第16師団第30旅団歩兵第38連隊 数百
16日、17日、紫金山北方 処断 数百 『佐々木少将私記』 掃蕩戦間の処分
第16師団第30旅団 数千
24日 - 翌年1月5日、南京近郊、不逞の徒 処断 数千 『佐々木少将私記』 下関にて処分
そして、これらの捕虜となった中国軍兵士への殺害のうち、軍服を脱いで逃げた敗残兵を捕獲した際に、民間人を装って戦闘行為を行う便衣兵であるから合法的な殺人であると見なして、虐殺した事案がみられた。例えば12月14日-16日の安全区において、日本軍が元中国兵を約6500-6700名ほど摘発し処刑したのもその様な考えを根拠とする[107]。便衣兵、つまり兵士が民間人を装って行う戦闘行動は、当時の戦時国際法ではハーグ陸戦条約第23条(ヘ)の趣旨から禁止される[108]。当時の国際法学者立作太郎は昭和19年に、民間人の敵対行為は原則禁止されるし、戦時犯罪として「概ね死刑に処し得べきもの」であり、正規軍人が民間人に偽装した場合は交戦者としての特権を失う[109]と述べている[110]。

しかし、北岡伸一は、軍服を脱いだ敗残兵を便衣兵とみなして殺したことは、戦時国際法上、間違った解釈・行動(敵対行為を行っていない場合は便衣兵ではないので)であるとみなし、批判している[111]。戦前の国際法学者信夫淳平も、便衣兵は「害敵手段(戦闘行為やテロ行為)を行うもの」であるとして、北岡と同じ解釈を示している[112]。(後述する、「捕虜への人道的配慮の欠如・中国への復讐心 / 敗残兵を便衣兵と見なしたことへの疑問」を参照)。

なお、日本軍が中国兵を人道的に扱った例として、旧中国政府施設の野戦病院を継承した欧米人が中国軍負傷兵を治療することを、ある期間、日本軍が許したことが、ニューヨークタイムズの記事と当時の日本の雑誌の写真から確認される[113][注釈 12]。

南京占領中の不法行為(略奪・放火・強姦)
占領後の南京城内および周辺地域では激しい略奪・放火が行われた。南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内の建物73パーセントが日本軍による略奪の被害を受けた[114]。日本軍による略奪行為の実情は統計情報が残っていないものの、当時南京に在住していた欧米人や日本兵の日記、戦後の証言などによって把握されている。第16師団長中島今朝吾は1937年12月19日の日記に以下のように記している[115]。

「日本軍が又我先きにと侵入し他の区域であろうとなかろうと御構いなしに強奪して往く。此は地方民家屋につきては真に徹底して居る。結局ずうずうしい奴が得というのである。」、「日本人は物好きである。国民政府(の建物)というのでわざわざ見物に来る。唯見物丈ならば可なるも何か目につけば直にカッパラッて行く。兵卒の監督位では何にもならぬ。堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである。」、「最も悪質のものは貨幣略奪である。中央銀行の紙幣を目がけ到処の銀行の金庫破り専門のものがある[116]。
—中島今朝吾
略奪された貨幣は兵営で日本円への換金が行われ、略奪品の一部は日本国内に転送された[117]。一連の日本軍による略奪はアメリカ大使館にまでおよんだ[115]。

また、入城式が行われた12月17日前後から、日本兵による強姦事件が安全区内も含めて多発した[118]。日本軍による残敵掃討においては民家一軒一軒に侵入しての捜索が行われたが、その過程で発見された女性が頻繁に強姦・輪姦の被害にあい、酔っぱらった兵士による強姦事件も多かった[119]。恐怖にかられた女性たちが庇護を求めて逃げ込んだ先に安全区内の金陵女子文理学院にある難民キャンプがあり、これを運営していた欧米人が一連の事件について部分的な証言を残している[119]。南京国際救済委員会のメンバーとして活動したアメリカ人大学教授マイナー・シール・ベイツは次のような手紙を残している。

有能なドイツ人の同僚たちは(安全区国際委員会委員長ラーベらのこと)強姦の件数を二万件とみています。私にも八〇〇〇件以下とは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。われわれ職員家族の若干と現在アメリカ人が住んでいる住宅を含めて金陵大学構内だけでも、一〇〇件以上の強姦事件の詳細な記録がありますし、三〇〇件ほどの証拠もあります。ここでの苦痛と恐怖はあなたにはほとんど想像できないでしょう。金陵大学構内だけでも、十一歳の少女から五十三歳になる婦人まで強姦されています。他の難民グループでは酷いことにも、七十二歳と七十六歳になる老婆までが冒されているのです。神学院では白昼、十七名の日本兵が一人の女性を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです[120]。
—マイナー・S・ベイツ
金陵女子大学で教師・教務主任を務めたアメリカ人の女性宣教師ミニー・ヴォートリンは、このときに大学構内で女性の保護に専心していて、頻発した事件について記録を残している。一例として、以下の内容がある。12月17日夜、キャンパスに大勢の日本兵がやってきて中国人の使用人を正門付近へ連行し、尋問を装ってヴォートリンら学院の責任者を拘束している間に、通用門から女性12人が連行される、という事件を体験した。日本兵が校舎に入るのを阻止しようとした際にヴォートリン自身も殴られ、また尋問に際して銃撃の恐怖にさらされた[121]。

この強姦事件の頻発は日本軍首脳部も現地からの聞き取り等によって把握するところとなり対策が考えられた[122]。第10軍は12月20日に次のような通牒を発した。

掠奪婦女暴行、放火等の厳禁に関しては屡次訓示せられたる所なるも本次南京攻略の実績に徴するに婦女暴行のみにても百余件に上る忌むべき事態を発生せるを以て重複をも顧みず注意するところあらんとす[123]。
—丁集参一第一四五号
しばらく時間を置き、1938年7月、第11軍司令官として上海に赴任した岡村寧次は、宮崎周一参謀、原田棟少将らからの聞き取り結果として次のように回想している。

上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
[124]

また、過去の戦争と対比して「それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し」たと記している[125]。

進軍中にも行われていた放火も各所で行われた。南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内のメインストリート地区の建物2828棟の損傷のうち、軍事行動に起因するもの2.7パーセント、放火に起因するもの32.6パーセント、略奪に起因するもの54.1パーセントだとされる[126]。ニューヨークキリスト教青年国際委員会書記として南京に駐在していたジョージ・A・フィッチは東京裁判において日記に基づいて以下のように証言している[127]。

十二月十九日は全く無政府状態の一日であった。兵隊の手で放火された幾つかの大火が荒れ狂い、其後も尚多くの火事が約束されて居た。「アメリカ」の旗は多数の場所で引き裂かれた。軍当局は兵隊の統制が出来ない。
十二月二十日、月曜日、蛮行及び暴行が阻止されることも無く続行された。市街中最枢要の商店街、太平路は全く火災に包まれた。私は火を放つ前に店舗から取り出された掠奪品を積載した数多の日本軍貨物自動車を見受け、又兵隊の一団が建物に現実に放火して居るのを目撃した[128]。
—ジョージ・A・フィッチ
12月21日には南京在住の外国人が日本大使館に「市の大部分にたいする放火をやめ、残りの部分を、気まぐれからおこなわれたり、組織的におこなわれたりする放火から救うこと」を要望事項として提出した[127]。

日本軍による不法行為が一応の終息を見せたのは日本軍の下で中華民国維新政府が南京で設立された1938年3月28日になってからであった[129]。

南京城内の外国人の人道支援と外国人記者の報道、中国国内と国際社会の反応
南京城内の外国人の人道支援(南京安全区国際委員会)
日本軍が南京に進軍する最中の1937年11月下旬、中国人避難民が安全に過ごせる場所を確保するため、南京城内を東西南北に四等分したうちの西北部南半、南京城内の約8分の1の面積に相当する範囲(アメリカ支援のミッションスクールである金陵大学や金陵女子文理学院、中国の最高法院や司法院、金陵大学の附属病院である鼓楼医院が存在する)に南京安全区(英語版)(別名:南京難民区、The Nangking Safety Zone)が設置された[130]。安全区は、ジーメンス社南京支社支配人であったドイツ人ジョン・H・D・ラーベを委員長とし、アメリカ聖公会伝道団宣教師だったジョン・マギー、アーネスト・フォスターや金陵大学の教授であったルイス・スマイス、マイナー・シール・ベイツ、ミニー・ヴォートリン女史らアメリカ人を中心に南京に残留した22人の外国人によって立ち上げられた南京安全区国際委員会によって設置された[131][132]。ラーベが委員長に就任したのは、ドイツ人かつナチ党員であったので、日本の当局と交渉しやすいとされたためである[133]。アメリカ人らは災害に対応した救援活動を通じて、中国人への組織・指導のノウハウを持ち、南京市の行政的機能を引き継いで組織化することができた[134]。日本軍の侵攻時に、南京市内に居た中国人住民が、この南京安全区に避難し[135]、最終的に250,000人(推測地)にまで達するが[134]、安全区には中国軍の敗残兵が武器・軍服を捨てて多数逃げ込んでおり、日本軍は安全区に対しても敗残兵狩りを実施した[136]。

南京城内に在住した外国人記者の報道やその他外国人の動き、それらの影響
当時、南京には現地駐在の欧米人記者5名(ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン特派員、シカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者、ロイター通信社のスミス記者、アソシエイツプレスのマクダニエル記者、パラマウントニュースリールのメンケン記者)が駐在し、[137]、南京占領後の状況を見た後、上海方面へ船で避難した[138]。この5人の記者は実際に南京戦に遭遇しており、彼らの南京事件についての記事が国際社会に対して1937年12月以降翌年にかけて掲載された[138][注釈 13]。その5人の記者の中のひとり、ニューヨーク・タイムスの記者ティルマン・ダーディンが、12月17日、上海沖に停泊中のアメリカ軍砲艦オアフ(英語版)から打電したレポートが、南京事件に関する第一報となった[139]。

「南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外交人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を失ってしまった...」「中国政府機構の瓦解と中国軍の解体のため南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともに確立されると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大被害を受けることもなくなったと考えて、中国人住民の間に大きな安堵の気持が広がった。歓呼の声で先頭の日本兵を迎えた住民もいた。
しかし日本軍が占領してから二日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、青年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった[140]。」
—ティルマン・ダーディン
南京占領直後を直接経験したジャーナリストによる初期の欧米諸国への報道があったものの、南京事件についての欧米各国の反応は概して大きなものではなかった[132]。これはアジアでの出来事に対する欧米社会の関心の低さに加え、1937年12月12日に長江(揚子江)でアメリカ海軍の砲艦パナイ号が日本軍によって撃沈される事件(パナイ号事件)が発生したことに影響されていた[132][141]。この事件は最終的には日本とアメリカの間で外交的に決着されたものの、事件を通じて日本軍の南京占領に対するジャーナリストの取材活動が大きく阻害された他、パナイ号事件の報道が連日トップニュースとして掲載される一方、南京事件の報道は隅に追いやられ、世論の注目自体がパナイ号事件に集中することにもなった[142][注釈 14]。その後、日本軍の不法行為が少なくなり、欧米のジャーナリストもいなくなっていた1938年1月26日に、日本兵の一部が旧米人住居に住みこみ、何人もの女性を拉致しては皆で強姦していたことをとがめるために日本人憲兵とともにその住居に入ろうとしたアメリカ人外交官ジョン・ムーア・アリソン(この人は戦後、駐日大使になる外交官。南京赴任前も日本在住経験ある元々親日家)が日本兵に殴打される事件がおきる[146]。外交官が兵卒に殴打されるという国家の面子を潰された事件であり、アメリカでは南京事件よりも報道されて、米本土で日本に対する世論の憤慨を巻き起こし、ワシントンでは日本特産シルクのボイコットを求めるデモも発生し、外務省側の陳謝でようやく沈静化した[147]。

一方で、南京事件に代表される日本軍による中国人大量殺戮の報道は、アメリカにおける対日感情を悪化させ、「『非人道的野蛮行為』を平然とおこなう日本兵にたいする嫌悪・憎悪の感情を国民の間に醸成させ、それが日米開戦時の『敵国日本』のイメージを形成した側面もあった[35]」。ジョン・ラーベはドイツに帰国後、日本軍の行為についての講演を行いアドルフ・ヒトラーを始めとしたドイツの政府幹部へこの事件を報告したが、同盟国日本の戦争犯罪についての記述がヒトラーの怒りを買い逮捕された[35]。彼はその後、南京事件について発言しないことを条件に釈放されることになる[148]。

中国国内での報道と情報伝播
中華民国政府や統治する中国国民党の南京事件にかかわる広報は、国民党の新聞では、外国報道の翻訳のみで南京事件について報じており[149]当時の中国国民党が1937年12月から約11か月の間に300回の記者会見を行ったが、国民党の秘密文書の中には「南京事件の記者会見があった」という記録はない[150]。その背景として、事実上国民党政府は、南京から逃げ出して後、その全貌を知りえない日本軍支配下で南京事件が起こり、外国人記者の報道で直後は被害を知る状態であり、また、当時中国側の新聞は戦意高揚のために戦勝記事を繰り返しており、南京戦での敗北を報じたくなかったためと推察される[151]。中国政府主席の蒋介石は、その声明「日本国民に告ぐ」で明らかに南京事件に触れており[152]、蒋の日記でも「南京であくなき惨殺と姦淫」と述べている[153]。 中国では口コミの形で広く中国人全体に知られることになり、また1938年7月に南京における日本軍の残虐行為の写真集『日寇暴行実録』が発行された[148]。とりわけ中国人女性に対する凌辱は日本に対する敵意を強く醸成し、抗日運動の活発化に繋がった[148]。

ただし、前述、日寇暴行実録には、日本軍の非人道行為ではないものが、かのごとく掲載された例があり、間違った写真も掲載されていることが指摘されている。[154] 中国側の発信には、戦後も、事実の誇張やプロパガンダも含まれることがあることが、研究者からも指摘されている。

国際連盟第100回理事会での動き
南京事件発生の約2か月後の1938年2月に開催された国際連盟第100回理事会[注釈 15]では、日本の軍事行動に対して、前年10月の国際連盟総会での非難決議を確認する形で再度非難の決議をした[155]。中国側代表の顧維鈞はこの会議で演説を行い、日中戦争全般の状況ついて、深刻な事態であると「南京2万人虐殺」もその一部に含めて主張し、中国の存亡にかかわる深刻な状況(日本が南京に傀儡政権を作り、中国経済を破壊するような不利な関税策を設置したなど)を訴えた[155]。

日本の前途と歴史教育を考える議員の会の戸井田徹衆議院議員(2008年当時)は、中国側代表顧維鈞が南京事件や空爆などの被害について説明した演説の内容が、国際連盟の非難決議案に含まれなかった(連盟理事会がすでに起案した非難決議案に「追加」で記述されなかった)ことから、国際連盟が南京事件を認めなかった、また当時中国は虐殺2万人と主張していたことから後の虐殺30万人説は虚偽である、と主張した[156]。戸井田は、1937年9月に日本軍の中国の都市への空爆(渡洋爆撃など)には国際連盟の具体的な非難決議があったものの、南京事件は(虚偽であったので)無視していると述べている[157]。一方、笠原十九司は、南京事件が連盟理事会が非難決議案に「追加で記述されて」いないのは事実であるが、中国側代表顧維鈞の演説の趣旨は、ナチスドイツの台頭等の危機に欧米の関心が向く中、何とか国際社会の中国支援を引き出し、「中国滅亡の危機を阻止」することであって、南京事件への非難決議を個別に要求しておらず(決議でも、日本の軍事行動への全体的な非難が述べられており)、南京事件を虚偽であるので「国際連盟が無視した」とまでは見なせないと主張している[157]。

その他の難民キャンプ
国際安全区以外にも南京城内では水西門南東の雙塘にあった教会や一時は2万人が避難したとされる城外の揚子江岸のイギリス人経営のハム工場「和記洋行」(宝塔橋難民区)、一時は2万4百人が避難したとされる寺院による棲霞山避難所があった。これらの避難所では日本軍入城前に国際委員会から配給されていた食糧を食い尽くすと国際安全区に移りたいと申し出たが、国際安全区はすでに満杯で、また敗残兵あぶり出しを狙う日本軍は移動を許さなかった。また、棲霞山近くの外国資本経営のセメント工場には多数の中国人が逃げ込み避難所の様相を示した。[158]

他にも、下関のある寺には千から二千人が、莫愁湖近くの寺には数百人が避難してきたが、これら外国人が関係しないところでは日本軍はほしいままに略奪・強姦を行ったという[158]。


アフリカ経済成長へ30万人育成

2025年08月23日 09時02分05秒 | 社会・文化・政治・経済

産学官で経済連携強化、首相表明

配信

 
第9回「アフリカ開発会議(TICAD)」の開会式で演説する石破首相=20日午後、横浜市(代表撮影)

ネットが興隆で テレビの存在感が低下している

2025年08月23日 08時50分36秒 | 社会・文化・政治・経済
調査あれこれ 2025年07月14日 (月)

テレビは信頼を得られているか?①~情報が多様化する中で視聴者が求めるもの~【研究員の視点】#589

世論調査部 芳賀 紫苑

 「テレビは時代遅れだ。その役目はもう終わったのではないか」。こうした厳しい意見をさまざまな場で耳にします。NHK放送文化研究所(以下、文研)が行っている各種調査でも、いわゆる"テレビ離れ"と言われる傾向を確認することができます。文研が昨年11月から12月に行った「全国メディア意識世論調査」では、リアルタイムでのテレビ視聴の低下に加え、ニュースを見聞きするためのメディアの利用についても、前回の調査に比べ、特に30代、50代でより大きな低下が見られました(図1)。さらに世の中の出来事や動きを知る上で、もっとも役に立っているメディアについて尋ねたところ、60代以上の高齢層ではテレビの占める割合が7割近くに達したのに対し、16歳から29歳の若年層ではテレビの割合が下がり、SNSが4割ほどを占めてもっとも多くなるなど、年齢が下がれば下がるほど、テレビが世の中の出来事や動きを知るのに役立っているという人が少なくなっています(図2)。

図1

図1ニュースを見聞きするために利用しているメディア(複数回答・抜粋)(2024年11月~12月 全国メディア意識世論調査)

図2世の中の出来事や動きを知るうえで もっとも役に立っているメディア(2024年11月~12月 全国メディア意識世論調査)

 では、どうして、このようなことが起こっているのでしょうか。その背景にある人々の意識を探るため、テレビは視聴者の信頼を得られているのかというテーマで、インタビュー調査*1を行いました。調査は3月15日(土)、16日(日)の2日間、グループインタビューの形式で実施しました。対象としたのは、昨年の「全国メディア意識世論調査」で、より"テレビ離れ"が顕著に見られた30代と50代です。調査会社に登録している方たちの中から、▽テレビの視聴が以前より減っているが、NHKか民放のいずれかを週1回以上は視聴しているという30代と50代それぞれ8人、さらに▽テレビを視聴することがほとんどなくなった30代8人を加えて、合計24人にインタビューの協力を頂きました。さまざまな意見を聞くために、居住地域や職業、そしてテレビをまだ視聴しているグループではNHKと民放の両方を見ている人、民放だけを見ている人など視聴傾向にも偏りがないよう、注意しました。

ニュースや情報番組をどのように見ていたのか
 "テレビ離れ"が指摘されるようになって久しいですが、とりわけ、テレビのニュースや情報番組に対して厳しい意見が数多く見られたのが昨年11月の兵庫県知事選挙でした。SNSやYouTubeが選挙結果に大きな影響を与えたのではないかと言われ、インターネット上でも、「テレビはもう終わった」「テレビはSNSやYouTubeにとって代わられた」といった書き込みや記事が数多く見られました。
 そこで、インタビューでは、兵庫県の斎藤知事をめぐる一連の放送について、視聴者はどのように見ていたのか。それによって、テレビのニュースや情報番組に対して、どのような考えを持ったのかを尋ねました。自分の住む都道府県ではないため、詳しく見ていなかったという人がいた一方で、知事選挙の結果が予想していたのと違ったことへの驚きとともに、テレビの報道内容に疑問を持つようになったという意見が聞かれました。インタビューの内容は、発言者の意図が伝わるよう、できるだけそのままの言葉で紹介します。

<fieldset>(51歳男性・会社員)
当初の報道がバッシングに近かったけれど、選挙が終わったら民意は彼を選んだ。その時に新聞やニュースの報道は何なんだと思った。中立性がない。何かを糾弾するのはいいと思うけれど、違う視点の報道もあってしかるべきだと思うけれど、偏っていたんじゃないかと思った。</fieldset>
<fieldset>(51歳女性・会社員)
テレビではマイナス報道ばかりだったので、知事がまた立候補するとなった時は当然落選すると思い込んでいた。でも実際は再選されたとニュースで知って、すごくびっくりした。兵庫県の方は自分の生活に関わってくるので、SNSとかネット情報とかをすごく調べていたのだなと思った。YouTubeとかSNSの影響力とか、結局テレビからの情報とSNSやネットからの情報に乖離(かいり)があったのだなと思っていた。</fieldset>
<fieldset>(36歳女性・主婦)
私は関西に住んでいるので、もうめちゃくちゃニュースをずっとやっていた。もういろいろあって、そういうのがありすぎて追いつけないというか、ついていけなかった。情報がありすぎて。疲れて追えてないというか、関心がなくなってしまった。</fieldset>


テレビの報道・情報番組で何が問題だと思ったのか

 このように選挙の結果と報道内容が大きく乖離(かいり)したことで、選挙後に、テレビの報道に対する批判的な意見が多くなったのではないかと考えることもできます。インタビューを通して強く印象に残ったのは、▼テレビが一方的に情報を押し付けている、あるいは自分たちの意図する情報だけを流しているという受け止めや、▼どのテレビ局も同じようなことを繰り返し放送していることへの不満、さらには▼視聴者の関心を引きつけることばかりに気を取られ、ニュースや情報番組がエンターテインメント化しているという意見でした。こうした意見をうかがう過程で、何が問題なのかをより深く分析するため、「テレビは知りたいことを伝えていない」と「テレビは正しいことを伝えていない」という2つの仮説を提示し、それぞれに対してどのように思うかを尋ねました。両方とも満たしていないという意見、テレビ局は正しいことを伝えていると思うが、知りたいことを伝えていないという意見など、さまざまな意見が出されました。

〇正しいことを伝えているか、知りたいことを伝えているか

<fieldset>(36歳女性・主婦)
テレビは正しいことを伝えていないとまでは思わないけど、どちらかというとテレビは私たちが知りたいことを教えてくれない。視聴者が食いつきそうな、ちょっと面白いみたいなことばかりやっていたけど、そうじゃないんじゃないみたいな、知りたいところって、そういうところじゃないし、知りたいと思うことを伝えていないなと感じることはあった。</fieldset>
<fieldset>(53歳男性・会社員)
民放のメディアに強い傾向だと思うけれど、世論の考えを誘導しようとしている。自分たちの考えを押し付けようとして、客観性がないと思った。もう少し静かにやってほしいと思うし、適切な情報を出してほしいと思った。</fieldset>
<fieldset>(39歳女性・会社員)
テレビが何か伝えたいことがあって、それに沿った内容とか、それに沿ったコメンテーターがしゃべっている感じなので、起こったことだったりとか、視聴者が判断するようなことを提示してくれているとは思っていない。テレビが伝えたいこととか、伝えたい方向に持っていかれちゃっている感じがした。</fieldset>
<fieldset>(51歳女性・会社員)
(テレビ局が)流している情報は正しいかもしれないけれど、それ以外に本当は10あるうちの2とか3しか伝えてなくて、残りは意図的に隠しているのかなと。</fieldset>

〇視聴率を気にしてエンターテインメント化しているのではないか

<fieldset>(39歳女性・会社員)
こういうことを流したら視聴者が喜ぶとかこういうふうな報道の仕方をしたらみんなニュースを見るでしょっていうような、問題の根本を掘り下げるというよりは、表面的な騒がしいところをやたらフィーチャーするというか。</fieldset>
<fieldset>(38歳女性・会社員)
報道がエンターテインメント化しているというか、どうしたら視聴者が楽しむかとか盛り上がるか、視聴者数が増えるのかというのを中心に報道されている気がする。</fieldset>
<fieldset>(30歳女性・会社員)
正しい情報も入っているかもしれないけど、視聴率をとるため、あおった言い方をしてねじ曲げている気がする。</fieldset>


SNSなどの情報はどのように見ているのか

 このようにテレビに対して厳しい意見が見られた一方で、冒頭の世論調査でも紹介したように、利用が広がっているのがSNSやYouTubeなどのインターネット動画です。インタビューの中でも、SNSなどネット上の記事や投稿は、押し付けられたものではなく、自分で調べることができると前向きに評価する意見が聞かれました。その一方で、誰が書いているか分からないものも多く、信頼という点で懐疑的な意見もありました。

<fieldset>(30歳女性・会社員)
テレビは一瞬の限られた情報しか取れないけど、SNSだとそこからさらにどうだったのか関係サイトやニュースサイトに行って調べることができるし、自分が知りたい情報まで得られる。</fieldset>
<fieldset>(39歳女性・会社員)
SNSとかYouTubeとひとくくりにいっても素人のやらせみたいなものもあると思う。でも、光るものを探せば、政府とか権力に迎合しないで報道しているものもあるので、テレビより優位性があると思う。</fieldset>
<fieldset>(51 歳男性・会社員)
インターネットは誰でも発信できて便利な一方で信ぴょう性をどこまで信じていいのか。だから情報を得た段階で本当かどうか裏取り作業をする。</fieldset>
<fieldset>(38歳女性・会社員)
SNSにもウソはあふれていると思っていて、そこを(自分で)選別できるのがSNSだと思っている。</fieldset>


視聴者は何を求めているのか

 テレビの視聴が低下する背景には何があるのかをインタビューを通して考察してきました。そこから見えてきたのは、利便性の問題だけではなく、テレビのニュースや情報番組に視聴者が満足していない、テレビの放送内容が視聴者のニーズに応えられていないということでした。一方のSNSについては、多くの人が好きな時に、好きな場所で、必要とする情報を得ることができると、その便利さを認めつつも、すべてが信頼していい情報なのか、疑問を持っていることも確認できました。それぞれのメディアに強みや弱みがある中で、テレビに求められているものは何なのか。それを考えるヒントとして、テレビに対して評価していること、今後の期待として、以下のような発言がありましたので、紹介したいと思います。

<fieldset>(36歳女性・主婦)
私は速報とか、地震とかそういう災害情報とかは結構テレビを信頼しているかな。ちゃんとした情報を伝えてくれているかなと思う。</fieldset>
<fieldset>(32歳男性・会社員)
インフルエンサーや大学生とかでもYouTubeで発信することはできるが、お金がないといいものは作れない。 中国のハゲタカのドキュメンタリー番組*2をやっていたけど、ああいうのは普通の人には絶対にできない。お金があってジャーナリスト魂もあるテレビ局だからこそできる番組で、よくこんな取材できたなと思う番組は素晴らしいなと思うし、興味が引かれる。</fieldset>
<fieldset>(39歳女性・会社員)
テレビ局はオワコンだと思うけど、じゃなぜNetflixを選んでいるかというと、そこでしか見られないものがあるから見ている。テレビでも、そこでしか見られないものがあるなら見るかもしれない。</fieldset>
<fieldset>(30歳男性・会社員)
テレビはどこも同じようなことをやっているけれど、各局が独自路線を貫いた方がいいと思う。YouTubeで自分の好きな情報を取りに行く時代なのだから、誰もが見るものではなく、特定の誰かに刺さる方向に舵(かじ)を切った方が伸びていくのではないかと思う。</fieldset>


 これらの発言から読み取れることは、自分の好きな情報を選べる時代になったからこそ、テレビでしか見られないものを見たい。そして、多くの人材とノウハウを持つテレビ局だからこそできる取材、テレビ局にしか作れない番組を見たいというニーズがあることです。どこにでもある情報や、誰を対象に発信しているのか分からないような情報では、人々に選ばれにくくなっていることも今回の調査を通じて見えてきました。「テレビはもう終わった」などとよく言われますが、このような状況にあるからこそ、これまでテレビを多くの人が見てきたのはなぜなのか。人々が求めているものは何で、それに対して、テレビは何ができるのか。そのことを追求し、視聴者に届くコンテンツをいかに発信していくか。この原点に立ち返ることが、今改めて大事なのだと思いました。

「放送研究と調査」2025年8-9月号(8月1日発行)では、冒頭に紹介した「全国メディア意識世論調査」の結果を詳細に伝えています。メディア利用の最新状況、情報に対する価値観の変化やメディア利用との関係なども子細に分析しています。ぜひご覧ください。


*1 調査会社に登録しているモニターを対象に募集した。全国メディア意識世論調査で、テレビ離れの兆候がみられた30代と50代に対象をしぼった。

*2 NHKスペシャル「臨界世界 -ON THE EDGE- 中国のハゲタカたち」初回放送日:2025年2月9日

【芳賀 紫苑】
2010年入局。山形放送局・制作局でディレクターとして番組制作を担当。2021年より放送文化研究所で視聴者調査の企画・分析に従事。


原爆が落ちた時刻は大事

2025年08月23日 08時38分41秒 | その気になる言葉

原爆の日はいつ?広島と長崎に投下された日と時刻を再確認して追悼を

毎年夏の時期は、広島と長崎では特別な想いを持ちます。

広島・長崎の原爆投下によるものです。

もうすぐ75年目を迎えようとしている最近では、

原爆が投下された日や、時刻が分からない人が多くなっています。

正直、他国の人の方が知っていたりします。

今回は、原爆の日について確認していきましょう。

もくじ(お好きなことろから読めます)<label class="cssicon" for="ez-toc-cssicon-toggle-item-68a8f84626d43"></label><input id="ez-toc-cssicon-toggle-item-68a8f84626d43" type="checkbox" />


ドイツの極右政党

2025年08月23日 08時29分44秒 | その気になる言葉

AfDは、ドイツの政治において重要な役割を果たしており、その影響は今後も注視されるべきです。

ドイツのための選択肢(ドイツのためのせんたくし、独: Alternative für Deutschland、略称:AfD〈アーエフデー〉)[28]は、ドイツの極右[24]・右翼ポピュリスト[29]、国家保守主義政党である[9][30][31]。欧州懐疑主義で[32]、不法移民の排除などを主張している[33]。ドイツ連邦憲法擁護庁(BfV)は、以前、AfDを「右翼過激派」と公式に分類していた[34][35][36]。この分類は2025年5月の発表から1週間後に一時的に停止されたが[37]、認定の根拠となった報告書は後に流出して公表された[38][39]。AfD連邦支部は、2021年にBfVから「過激主義の疑いがある政党」と分類され[40]、2022年の裁判所の判決を経て、現在も監視対象となっている[41][42]。連邦議会に議席を有する政党がこのように分類され監視対象となるのは、ドイツ史上初の事例である[40]。

2013年4月、アレクサンダー・ガウランド(英語版)、ベルント・リュッケ(英語版)、元ドイツキリスト教民主同盟(CDU)のメンバーらによって、中道右派だが親欧州派のCDUに代わる右派で穏健な欧州懐疑派の政党として、ユーロ圏の政策に反対するために結成された。結成当初は、経済的にリベラルで[43]、欧州懐疑的で、保守的な運動を展開していた[44][45][46]。その後、さらに右傾化し[47]、歴代指導者の下で移民[13][10]、イスラム教[48]、欧州連合への反対を含む政策を拡大した[49]。2015年以降、イデオロギーはドイツ民族主義(英語版)[50][51][52]、フェルキッシュ民族主義[53]、国家保守主義を特徴とし[9][30][31]、反イスラム[54][55][14]、反移民(英語版)[56]、福祉排外主義(英語版)[53]、欧州懐疑主義に政策の重点を置いている[57]。連邦議会で唯一、人為的な気候変動の否定に基づいた環境・気候政策に掲げている政党である[58][59]。AfDのいくつかの州会と他の派閥は、PEGIDA、新右翼(英語版)、アイデンティタリアン運動などの極右民族主義や非合法運動とつながりを持ち[60]、歴史修正主義や[61]排外主義的なレトリックを使っていると非難されている[62][63][64]。2018年以降、憲法保護(英語版)のために様々な州政府機関によって監視されている[65]。AfD指導部は、党が人種差別主義的であることを否定しており、そのようなグループを支持するかどうかについて党内で意見が分かれている[66]。2022年1月、イェルク・モイテン党首は、AfDが全体主義的な特質を持つ極右に発展し、大部分がもはや自由で民主的な基本秩序(英語版)に基づいていないことを認め、党首を辞任してAfDを離脱した[67][68]。

2013年の設立後、2013年のドイツ連邦選挙で連邦議会に議席を獲得するための5%の選挙基準をわずかに下回った。2014年のドイツ欧州議会選挙では、欧州保守改革グループ(ECR)の一員として7議席を獲得した。2017年10月までにドイツ16州議会(英語版)のうち14議会で代表を獲得した後、2017年のドイツ連邦選挙で94議席を獲得して第3党に躍進し、最大野党となった。主な候補者は、アレクサンダー・ガウランド(英語版)共同副議長と、第19回ドイツ連邦議会(英語版)で党グループリーダーを務めたアリス・ワイデルだった。2021年のドイツ連邦選挙では、第5党に後退したが[69]、東部諸州(旧東ドイツ)では得票を伸ばした[69]。2023年以降の世論調査では、AfDはドイツの政党支持率で2位につけるようになり[70][71]、2025年ドイツ連邦議会選挙では152議席を獲得して第2党となった[72]。

歴史
党結成から2014年までの党の歩み
メルケル政権によるギリシャほか欧州連合諸国への救済措置に不満を抱く勢力が中心となって結成された。欧州連合からの脱退を目標とし、ユーロ圏からの離脱とドイツ・マルクの復活を当面の最優先課題に挙げている。党の政策は全体的に右派色が強いが、国粋主義や移民排斥は掲げていないとされる[73]。

結成から2か月後に開かれた党大会に1500名余りが参加するなど当初から強い注目を集め、同年9月の連邦議会選挙では阻止条項(得票率5%)を下回り議席獲得には至らなかったものの、連立与党の自由民主党(FDP)に肉薄する得票率4.7%を記録し一定の存在感を見せた。なおAfDはFDPの支持基盤を主に奪ったため、FDPも得票率4.8%で阻止条項を下回る結果に終わり、1948年の結成以来守り続けてきた連邦議会の議席を失った[73]。

なお第2投票(比例区)の得票率を州別で見た場合、メクレンブルク=フォアポンメルン州(5.6%)、ブランデンブルク州(6.0%)、ザクセン州(6.8%)、ヘッセン州(5.6%)、テューリンゲン州(6.2%)、バーデン=ヴュルテンベルク州(5.2%)、ザールラント州(5.2%)の7州で5%を上回る支持を集めることに成功した[74]。ただし連邦議会選挙と同日に行われたヘッセン州議会議員選挙では得票率4.1%に留まり、議席を獲得するには至らなかった。

2014年5月に行われた欧州議会議員選挙では、得票率7.4%で7議席を獲得した[75][76]。

欧州議会ではイギリス保守党が率いる会派「欧州保守改革グループ(ECR)」に属していたが、国境管理を巡って意見が相違した結果、2016年に会派を離脱。その後、2016年5月までに、ドイツのための選択肢の欧州議会議員は欧州懐疑派の会派「自由と民主主義のヨーロッパ(EFDD)」に加わった。

また同年8月のザクセン州議会議員選挙(得票率9.7%)で初めて州議会の議席を得ると[77]、翌9月のブランデンブルク(同12.2%)・テューリンゲン(同10.6%)両州議会議員選挙でも阻止条項を突破し、州議会への進出を果たしている[78]。

2015年7月の党分裂
ペギーダをめぐる党内不一致
ドイツのための選択肢は2014年10月に旧東独ザクセン州の州都ドレスデンに登場したペギーダ[79]の略称を持つ西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者運動と密接な関係を持っていた。事実、AfD党員や支持者たちがドレスデンにおいてペギーダと共に活動していた。2014年11月以降、ドレスデンAfDはペギーダのデモに歓迎され合流していた。AfDザクセン支部ハンス=トーマス・ティルシュナイダーの指導下にある愛国者プラットフォームはペギーダを最初から支持し、ペギーダの要求を支持し受け入れることをAfD連邦指導部に迫った。ケルンにおけるサラフィスト反対運動に参加することを禁止した2014年のAfD指導部の決定に反対するAfD党員たちはペギーダのメンバーたちと連帯して不満の声をあげた。2014年12月に旧東独ブランデンブルク州のAfDを率いるアレクサンダー・ガウランド(英語版)がドレスデンのデモ行進と集会を見物し、ペギーダ運動を支持し連携することはAfD党員として当然なことと語った。フラウケ・ペトリーはザクセン州議会でペギーダと合同幹部会を開催した。反対に当時の指導部にいたベルント・ルッケ(英語版)とハンス=オーラフ・ヘンケルはペギーダ運動とは距離を保つことを主張した。2015年1月になって、メルケル首相によるペギーダ批判に対抗する形で、AfD指導部がペギーダを擁護した。ペギーダ代表ルッツ・バッハマンによる外国人嫌悪発言が明るみに出ると、AfD連邦指導部はペギーダから離れた。けれどもAfDの州支部段階においてペギーダに対する姿勢はアンビバレントであった。フランクフルトのペギーダ系運動に極右政党のドイツ国家民主党が関与しているとして、ヘッセン州AfDはペギーダへの党員参加を批判した。しかし、ヘッセン州北部のカッセルで開かれた集会には党員の参加を促していた[80]。2015年7月にエッセンで開催されたAfD臨時党大会の挨拶において、開催地のノルトライン=ヴェストファーレン州AfDの代表マーカス・プレッツェル(ドイツ語版)はドイツのための選択肢はペギーダ運動の政党であると述べた[81]。

エアフルト決議
2015年5月、旧東独テューリンゲン州のAfD代表ビョルン・ヘッケと同じく旧東独のザクセン=アンハルト州AfD代表アンドレ・ポッゲンブルクはAfD指導部に抗してテューリンゲン州の古都エアフルトでエアフルト決議と呼ばれる狼煙をあげた。その決議において彼らはより保守的な政治姿勢に立つようにAfD指導部に要求した[82]。エアフルト決議の支持者たちはドイツのための選択肢党をドイツの現代社会に定着しているジェンダー・メインストリーミングや多文化主義に対抗するドイツ民族の運動体として理解していた。加えて、ドイツのアイデンティティーと独立の更なる希薄化に対抗する運動体という理解も彼らに存在していた。とりわけ、エアフルト決議はペギーダ運動との関係を批判した。大勢のAfD党員や支持者たちがペギーダのデモに参加しているにもかかわらず、ドイツのための選択肢AfD党は市民的抗議運動であるペギーダから距離を置いて、手を切るべきであると言い切っている[83]。少し後に、党内穏健派ハンス=オーラフ・ヘンケルは3人の欧州議会議員たちと共に「ドイツ決議」という名の対抗宣言を明らかにし、エアフルト決議の提唱者たちを党の団結を壊すものたちとして批判した。2015年3月25日までに1800人のAfD党員たちが署名したとエアフルト決議の主唱者は語った。署名した党員たちの中に、ブランデンブルク州代表のアレクサンダー・ガウラントも含まれていた。

ヴェクルーフ2015
2015年5月になって、ベルント・ルッケはヴェクルーフ2015と呼ばれる分派集団を作った。複数の欧州議会議員と若干の州の代表者と幹部たちがAfDの穏健派グループとしてベルント・ルッケの下に集まった[84]。そこに集まった党員たちは新右派の代表者たち(エアフルト決議の提唱者)による権力把握によってドイツのための選択肢AfD党の存立と一体性が脅かされていると見なした。その時点では、ヴェクルーフ2015に集った党員たちは新党を結成しようとしたのではなく、穏健派党員たちの離党を食い止め、穏健派を強めようとしていたのである[85]。2015年5月末に州支部の結成が始まり、その内部においてヴェクルーフ2015集団が党に発展すると語られ始めていた[86]。ヴェクルーフ2015と呼ばれる分派集団結成はルッケの支持者たちの多量離党を可能にするための準備と周囲では見なされた[87]。AfD指導部にいたフラウケ・ペトリーとアレクサンダー・ガウラントはルッケらの分派結成を党則違反行為であって、党を傷つけたと批判した[88]。その分派集団ヴェクルーフ2015においてベルント・ルッケの支持者約4千人が集まった[89]。ルッケのドイツのための選択肢AfD離党後の2015年7月に約2,600人が新たな欧州懐疑主義政党の結成を支持し集まったのである[90]。

エッセン臨時党大会

エッセン臨時党大会 2015
党内抗争後の2015年7月4日にノルトライン=ヴェストファーレン州の工業都市エッセンで開催された臨時党大会において、党首選出選挙がおこなわれた。決選投票において、フラウケ・ペトリーがベルント・ルッケの代わりに第一党首に選ばれた[91]。党首選出の決戦選挙においてペトリーには60%の支持票が集まったのに対して、ルッケへの支持票は38.1%に過ぎなかった[92]。加えてイェルク・モイテンが同等の権限を持つ党首に選ばれた[93]。ベルント・ルッケの党首選における敗北は政治学者たちから党の右傾化と経済自由主義派に対する国民保守主義派の勝利と評論された[94][95]。

ペトリーによると、エッセン臨時党大会はAfDを破壊的な党内権力闘争から救うための強行策だった。それによってドイツのための選択肢は再び独立と自由を回復したのである。新指導部の下でもユーロ救済策への批判が最重要課題として継続しており、難民対策や難民、亡命者庇護政策が党の前面に躍り出ているわけではない。中産階級と家族を守るための直接民主主義の更なる導入も重要政策として党は継続しており、社会政策や経済政策も同様である。単に欧州連合改革に関連する変更事項が生じたに過ぎない。党大会後のAfD新指導部は自国であるドイツ連邦共和国のメルケル政権よりもイギリス保守党とデーヴィッド・キャメロン首相に親近感を持っていることを認めている[96]。


党設立者ベルント・ルッケ
新党「進歩と新たな出発の連盟」の結成
党首選に敗れたベルント・ルッケは離党し、2015年7月19日に新たに進歩と新たな出発の連盟(英語版)(ALFA)を設立し[97]、5人の欧州議会議員、3人のブレーメン市議会議員、一人のテューリンゲン州議会議員を含む大勢の支持者たちを新党に呼び込んだ[98][99]。新たに結党された「進歩と新たな出発の連盟」との今後の関係を、ドイツのための選択肢党に残った党員たちが指導部に問い合わせたが、AfD指導部はあくまでも新党を無視し、彼らを決してリスペクトしないように残ったAfD党員たちに求めた[100]。党分裂は決定的であった。

 


ソ連による日本兵士の過酷な抑留

2025年08月23日 08時23分34秒 | 社会・文化・政治・経済

シベリア抑留(シベリアよくりゅう、英:The internment in Siberia[1])は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリア、カザフ、キルギス、ウズベクなどソ連各地、モンゴル人民共和国(モンゴル抑留)などソ連の衛星国へ労働力として連行され、長期にわたる抑留生活、厳寒・飢え・感染症の蔓延る過酷な強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する総称である。男性の被害者が多いが女性も抑留されている[2][3][4][5]。

ソ連対日参戦によってソ連軍に占領された満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島などの地域で抑留された日本人は厚生省の帰国者や家族らへの聞取も利用した調査では約57万5千人に上る[6][4]。厳寒環境下で満足な食事も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万5千人が死亡した[7][4]。このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362人[8]。これは全抑留者の約1割で、これは日本国内に連行されてきた連合軍捕虜の死亡率とほぼ同程度という。ただし、この死者の多くが初年目の冬に集中している。2年目からは待遇が改善されて、死亡率は大幅に減っている。抑留期間は通常3年から4年、戦犯としての刑による収容が絡んで長いもので11年に及んだ者もいた[9]。亡くなった時の状況が判らない者も多い[9]。

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであるとして、日本側関係者からは批判される。ソ連の継承国であるロシア連邦のエリツィン大統領は1993年(平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した[10][11]。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている[12]。

シベリア抑留者の集団帰国は1956年に終了し、ソ連政府は1958年12月に「日本人の送還問題は既に完了したと考えている」と発言した[13]。だがソ連占領下の南樺太で逮捕されるなどしてソ連崩壊後まで帰国が許されなかった民間人もおり、ソ連政府は日本政府による安否確認や帰国の意向調査を妨害し続けた[13]。

「シベリア抑留」という用語が使われるようになったのは、1979年の「全国抑留者補償協議会」発足の時だとされる[14]。

2015年、舞鶴引揚記念館が収蔵する抑留資料が国際連合教育科学文化機関の「世界の記憶」として登録された[15]。

背景
→「大粛清」、「ラーゲリ」、および「グラグ」も参照
ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあった[16]。スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。

初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56 %が死亡した[17]。

スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた[18][19]。ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[20]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている[21]。

これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特に独ソ戦で捕虜となったドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった[22]。

経緯
ソ連軍侵攻と停戦
第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、日本の実質的支配下にあった満洲帝国との国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満洲および当時日本領だった朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。

8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

これらの行動は、ソ連と米英のヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満洲においては旅順租借権の回復および大連港や中東鉄道・南満洲鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた[23]。ソ連軍占領地域の確定過程としては、日本降伏直後の8月15日にトルーマンから日本軍が極東ソ連軍に降伏する範囲として満洲、朝鮮半島北部、南樺太とする旨がマッカーサーとスターリンに打電され、8月16日にスターリンが千島列島と北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線の北東側)を含めることを提案、8月18日トルーマンが千島列島分についてのみ同意し、北海道北半分については拒否して決着した、というものである[24]。

日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、満洲を管轄していた関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満洲帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍との全ての戦闘が終わった。

満洲では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった[25]。

抑留の決定
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、『国家防衛委員会決定 No.9898』に基づき、日本軍捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[26]。

関東軍密約説
ソ連軍がポツダム宣言に抵触しかねない、このような措置をとったことについて、関東軍とソ連側との間に、関東軍兵士の労役負担をもって日本国のソ連への賠償に代えるとする密約があったのではないかという声が長らくあった。

8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満洲に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の『ワシレフスキー元帥ニ対スル報告』を作成した。この報告書は、関東軍参謀だった草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍の山田乙三総司令官と秦彦三郎総参謀長の決定を受けて作成し、ソ連側に送付したものだという[27]。

同日、「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した『關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告』が作成されソ連側に送付された。この書類を作成したと噂された大本営参謀の朝枝繁春は、身に覚えがない、偽造されたものだと主張していた[28]。その後、フェデンコの朝枝との面談に関する電文報告書があきらかになった[29]。これによれば、在留邦人や軍人を全て満洲・朝鮮に残すといった内容ではなく、①米ソの離間を策すこと、②将来の帝国の復興再建を考えて為るべく多くの日本人を大陸に残しそのためには国籍変更も可とするというものであった[29]。これであれば、朝枝も不本意ではなかったのか、当時日本では在外邦人を全て受け入れることは困難と判断されたためとして(実際に飢餓が起こることが懸念されていた)、この報告書をついに認めた[29]。

ソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で前記密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかという疑惑が、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長の斎藤六郎や、近代史専門のノンフィクション作家保阪正康らによって主張されていた。この交渉に同行した瀬島龍三は、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦には密約を結ぶ権限はなかったと反論していた[30]。しかし、停戦にあたってロシア語を解さない瀬島参謀がロシア側との会談に同席していたり[29]、瀬島が大本営に打電した電文に欠落があったりしたこと[29]等から、瀬島自身が密約の提案者ではないかと疑念を指摘されることも多かった。1993年7月6日グラスノスチやソ連崩壊の流れの中でロシア公文書館から終戦時の関東軍文書が大量に現れたことをモスクワ共同通信は伝えた[29]。この中に、瀬島からのソ連軍への日本人使役の申し出も含む陳情書があった[29]。内容的には、困苦の予想される冬を控え、まず人命の観点から約3万人と見られる入院患者を冬までに帰し、次いで希望者や満洲に生業のある者を除き一般居留民を、最後に希望者や満洲に生業や家庭を有する者を除き軍人を逐次帰して欲しい、入院者以外は残留する者や帰国を待つまでの間の者についてはソ連軍運営に協力させてさしつかえないというものであった[29]。この文書自体には、一部で言われていたような日本軍兵士の労務と賠償金を交換にするといった提案は直接には見られない(文面からは、むしろ彼らを従来の職場に復帰させることで、これまで扶植した日本の勢力を維持させようとしていた節が窺える。)。

北海道代償説
8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」という理由であった。

しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説[31]があるが、8月23日に決定された『国家防衛委員会決定 No.9898』は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい[32]。

政治記者の細川隆一郎は、スターリンは北海道を侵略する気であり、それを察知したトルーマンは、スターリンに「もし、ソ連軍が北海道に侵略するようなことでもあれば、残りの原爆をモスクワに投下する」と警告し、スターリンは北海道侵略を諦めたものと、自身の考えを主張している[33]。

移送
占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際、多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、既に離隊していた男性も強引に連行した。

日本人捕虜は、まず満洲の産業施設にあった工作機械を撤去してソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満洲民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。

行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり、絶望したことが伝えられる。また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵は「ダモイ」(帰れるぞ)と叫び、捕虜を貨車に乗せたという[34]。

抑留被害者の総数
日本の厚生労働省は、抑留された日本人の総数を57万5000人、うち5万5000人程度が死亡したとしている[6]。一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[35]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[36]。

移送先
コムソモリスク・ナ・アムーレ
ハバロフスク
シベリア
ブラーツクダム
ナヴォイ劇場
タシケント
ナホトカ
エラブガ
シベリア以外にも、中央アジア、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連領内各地のほか、ソ連の衛星国だったモンゴル人民共和国でも抑留と強制労働が行なわれた。日本の厚労省によると、「病弱」等の理由で、ソ連国内から、ソ連軍が進駐した旧満洲や朝鮮半島北部に送られた日本人が約4万7000人いる[6]。その後、旧満洲は国共内戦を経て中国共産党が制圧して中華人民共和国の一部となり、朝鮮半島ではソ連の支援を受けて朝鮮民主主義人民共和国が成立し、戦後日本を含む西側諸国と分断され、詳細は不明な部分も多い。両地域では日本の敗戦直後、日本軍民はソ連軍だけでなく地元住民からも襲撃対象となった(「二日市保養所」「中国残留日本人」参照)。

ソ連側の史料が全面提供されない中、厚生省援護局(現:厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所超の収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。地図類をまとめる[45]。日本政府による遺骨収集がソ連国内数か所において許可されており[いつ?]、その進展によってより正確な収容所の位置、抑留者数、死亡者数が解明されることと期待される[46]。

宮脇淳子は「シベリア抑留」という言葉について、実際にはシベリア以外にも抑留されていたことから、正確には「ソ連抑留」あるいは「共産圏抑留」と言うべきとしている[47]。


厚生省作成地図には各地点の抑留日本兵の動員数、死亡者数が含まれる。カタカナのみで記してあった地名は、アメリカやイギリスならびにソビエト発行のソビエト連邦地図を参照して特定した[注釈 1]。
収容所での生活
シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[注釈 2](犠牲者数に関しては後述)。これは日本軍における太平洋戦争中の捕虜の死亡率とさして変わらないとの話もあるが、問題はそのほとんどが最初の1年目に集中しているという。収容所暮らしそのものの過酷さは多く語られるものの[48]、反面、日本兵どうしのリンチ等を別として、ソ連兵らから陰惨あるいは執拗な虐待を受けたといった話は意外と少ない。また、中央アジア南方などの気候の温暖な地域では暮らしは必ずしも過酷なものではなかったという。

とはいえ、シベリア抑留者の圧倒的多数が送られた地域は、冬には日本人が経験のないような酷寒となる地域であった。ここで、独ソ戦後の再建を図るソ連は木の伐出しを主に、その他建設作業等の労働に日本兵を使うことになった。カラガンダ収容所のように地場産業(炭鉱)の労働力に利用されてる例もあった[48]。

長勢了治は、飢餓・重労働・酷寒が三重苦で、なかでも飢餓こそが最大の問題で、あとの二つがこれに加わって死者を出したとする。長勢は、本来のソ連収容所の給食基準にしたがって糧食が出されていれば、もっと重労働や酷寒にも耐えられ死者も減っただろうとする。実際には初めから十分な糧食が送られていなかった、収容所内のソ連側管理者によるピンハネなどで十分な給食がなされなかったというのである。栄養不足と寒さから朝になると寝ていた者が死んでいたとの話も多い。また、酷寒の中で木を伐り出した際、倒木のときには合図を送り合うことになっていたが、酷寒と餓えのために十分な声が出せない、体が十分に動かせない等のことで倒木事故に遭うこともあったと伝えられる。(なお、事故に遭った者が病院に送られ、きちんとした治療を受けたという話は帰還者からも語られることがある。)

死亡者の8割は初年度の冬を超えるまでに亡くなったとも言われる。この初年度の死亡率の高さにはソ連側も驚いたとされる。ソ連は対ソ戦で多数の労働人口を失っており、彼らも日本軍兵士らを労働力として期待していたのである。ロシア人らは自分らと同等もしくはそれ以上に食料を与え、同じ寒さの中で働くのに日本人の犠牲者が多いことを訝っていたという話もあり、長勢は慣れない黒パンと雑穀などが日本人に合わなかったと見ている[49][注釈 3]。いずれにせよ、食料の問題は死亡率の高さから改善され、二年目からは死亡者は激減している。

共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、日本共産党の隠れ党員だったりした捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。新聞として『日本しんぶん』が発行された。

→「日支闘争計画 § コミンテルン1928年テーゼ」、および「自己批判 (共産主義)」も参照
共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、「反ソ分子」の執拗な吊し上げや露骨な暴行を行った[50]。彼らの中には捕虜達からシベリア天皇と呼ばれた者もいる。有名な者には浅原正基[51]、袴田陸奥男[52][53][54][55][要ページ番号]がいる。

「民主運動」による批判・糾弾活動も当初は、旧軍隊時代やその支配体制がまだ残っていた初期の収容所で下級兵士らを虐待したり、地位を利用し食べ物の上前をはねる等の不正を働いていた将校・上級下士官等が対象であったが、次第に対象は拡大、事実上ささいな理由を見つけて行う等無差別化[56]、あるいは「革命」や「階級闘争」に引込むため、あえて兵卒や下級下士官に将校や上級下士官を糾弾させることもしばしばあり、自身が新たな批判・糾弾の対象とならないため、心ならずも競争するかのように「民主運動」に参加した者も多かったとみられる。一方、志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行った者もいる[57](ラストヴォロフ事件も参照)。

当初は収容所側は多くがノルマ達成のため、統制に都合が良いとみて元日本軍の旧階級による上下構造の温存を事実上認める措置をとっていた[58]。しかし、1947年1月頃から一部収容所で闘争的な民主運動が起き、ソ連側もこれが寧ろ利用できると考えたのか、やがて他の収容所でも民主運動を後押しする方向に転換している[56]。シベリア抑留での死者は大部分が1年目の最初の冬に集中していて、富田武は、このときが転機で、兵士らが飢えと重労働に苦しむ中で将校らは労働は免除され食物は兵士より恵まれ、旧軍隊そのままに兵士らを虐待していたことで不満が昂じ、(穏健な形のものからだったが)民主化が始まったとする[59]。死者数の多さに驚いたソ連側により収容者の待遇自体は改善が図られ、死者数は減少したが、一方で、将校・上級下士官らの虐待・しわ寄せが下級兵士らの死亡を招き、作業効率を妨げていることに気付いた収容所によって将校らと下級兵士らの居住分離が行われ、将校らによる支配統制が及びにくくなった[60]。そのため戦闘的な民主運動は2年目の冬の1947年1月に入った頃から始まり出している。

なお、抑留中、2年目の冬以降にも多数の死者が出た事件として知られるものに「暁に祈る」事件がある。この事件は、自分に任せれば基準ノルマを超える成果を達成してみせると、自身を収容所側に売り込み、抑留者らの隊長となった旧日本軍下士官(元憲兵曹長)によって引き起こされている。この事件はソビエト・モンゴル地区で起こっており、モンゴル地区では民主運動はなかったという[61]。

共産主義の労働ノルマに対する報酬、資本主義との違いゆえ、捕虜達の中にはストライキを起こした例もあり、小峰国保は不当に仕事量を増やされていたことが発覚し、待遇は後に改善されたと記す[62]。

収容所内で病死した兵士の遺骨を故郷に送り届ける目的で、旧上官や戦友の兵士が遺体の一部や遺髪を小箱に保管する事例があったが、ソ連側はこの風習を不衛生で魔術的な残虐行為と罵り、所持品検査で発見次第、全て廃棄させ、日本側の説明にも理解を示すことはなかった[63]。

他ソビエト共和国へのさらなる移送
シベリア抑留者の、他ソビエト共和国へのさらなる移送も行われた。

ウクライナ
ウクライナのザポリージャへ1200人が移送させられて、ドイツ抑留者[64]とともに、戦争中に破壊された水力発電所の修復に当たった[65]。

ウズベキスタン
ソビエト連邦構成共和国の一つであったウズベク・ソビエト社会主義共和国では、約23000人もの日本人捕虜が現在のウズベキスタンの地に強制連行され、そこで強制労働させられた[66]。公式データによると、3000人から5000人もの日本人捕虜はダムや水力発電所、ベカバードからタシュケント迄の運河の建設を命じられたという[66][67][68][69]。

彼らは掘削機が無い中、ウズベク人、ロシア人、ドイツ人と共に厳しい肉体労働を強いられ、土壌は手で整備しなければなかった。実際に配給を行ったボキ神父によれば「彼らは毎日3食たった600グラムのパン一つしか与えられなかった中、懸命に働いた[66]。」と彼らの勤勉さを大いに評価した[66]。タシュケントのナヴォイ国立劇場側面では、その顕彰碑を今でも見ることができる。

ハバロフスク裁判
→詳細は「ハバロフスク裁判」を参照
1949年12月に戦犯裁判としてハバロフスク裁判が行われ、関東軍司令官の山田乙三や731部隊等が裁かれた。ボンダレンコはこのハバロフスク裁判について国際法違反だと述べている[70][71]。

この頃、その他に日本軍や満州国の元高官、スパイ活動・ソ連研究・生物化学兵器の研究に関与した人など2千数百人裁かれ、彼らはイワノボやハバロフスクの収容所に入れられた。これらは、通常の収容所と異なり戦犯捕虜収容所とも呼ばれ、収容者は有期刑を受けた戦犯として扱われた。1950年4月ソ連が抑留者帰還は完了したと発表して一方的に帰還を打ち切ったことにより、彼らは引き続き抑留されることとなり、「長期抑留者」とも呼ばれた[72]。日本帰還は1953年12月に再開したものの、半数近くは1956年の日ソ国交回復まで残され、最終的には刑期未了の者も含めて同年12月の日ソ共同宣言の発効により帰還することとなった[72]。

日本側の対応
→「引き揚げ」を参照
1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年(昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。これにより長期抑留者と呼ばれた約2600人を除く大部分が1949年までに送還された。ここで、協定が日ソ間ではなく、米ソ間になっているのは、日本がサンフランシスコ平和条約により主権を回復する1951年より前であり、連合国の占領下にあったためである[11]。

高良とみのハバロフスク訪問
1952年(昭和27年)に緑風会の高良とみがハバロフスク収容所を個人の立場で訪問した。正規の手続きを踏まない、いわばヤミでの訪問で、国会の反対派政治家からは罰則はないものの許してよいのかという声も挙がる訪問であった。この当時、収容所収容者は全て正規の戦犯裁判(ただしソ連によるもの)を受け有期の刑で収容されている戦犯のみとなっていた。この訪問に関し、稲垣武は、収容所側による工作が行われ、健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどして、ベッドに起き上がった見るからに元気そうな患者に面会しただけだとし、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は平然と「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と答えたとしている[73]。ただし、新聞に載った高良の帰国後の報告によれば、健康な収容者らには新市街建設工事に出ていて会えず、19名が収容所内の病院に入院していて18名と面会、多くが老人で脳溢血で入院していたとなっている[74]。なお、病院には若者もいて、彼はいったん名前を書いた紙を高良に渡したものの、(つい戦時中までは捕虜になることは恥だとされていたため)家族にやはり知られたくないと高良から手紙を取り返している[74]。

議員団の公式訪ソと収容所訪問
1955年(昭和30年)国会議員団が平和友好、国交の回復、抑留者の訪問・慰問を目的とするソ連訪問を行った。ハバロフスクの収容所訪問も交渉していたものの同収容所の公式訪問はこれまで認められたことがなかったため、イワノボの収容所を訪問した段階で自由民主党の議員らは目的を果たしたので引揚げたいとの意見で先に出発した。ところが、ハバロフスク収容所訪問も認められることになったため、急遽ハバロフスク収容所も訪問可能になった旨を帰路中の自民党議員団に向けて電報を打ち、社会党左派らの国会議員らは現地に着いたものの、自民党の議員らは結局姿を現さず、その場にいたメンバーだけで収容所の視察が行われた[要出典]。

稲垣武によれば、地元ごとに収容者らが議員と懇談し手紙を書いて渡しているさなか、団長の野溝勝衆議院議員は全国区議員だったため所内を見回り、品数豊富な売店で所長から日本人はこういうものを買っていると説明されたものの、ロシア語が分からず、居合わせた朝鮮人収容者に通訳してもらい、その際、通訳は所長が日本語が分からないことに乗じ、それはデタラメで品物は昨日運び込み、議員らが帰れば片付けられるといったところ、苦笑したといい、また、炊事場を視察した戸叶里子衆議院議員は調理場の鍋にあったカーシャを味見して思わず「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と炊事係に小声で聞いたとする[75]。ただし、両名自身はこのような話をしておらず、稲垣はその点を彼らは異なったトーンの話をしていると批判しているのだが、ではいったい誰がこのような現場を見てこの話をしたというのか、稲垣の話では全く不明である。

収容者らは訪問団にタバコの空き箱まで利用してあり合わせの紙に家族らへの手紙を書いて渡し、その数は9百数十通あった。その中には、過酷な状況で労働を強いられていた収容者らがその現状を家族以外の者へ訴える手紙もあった。団長の野溝勝らは日本に帰国したとき、「"戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている。食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった[76]」と自身の印象を語り、それが報じられた。

ハバロフスク収容者の預かり手紙と栄養状態をめぐる問題
同年12月収容者の一部が帰国し、同月衆院の引揚委員会で証言を行った。そこで、証言者より、未帰還の者数名から「新聞に掲載するなりして我々のために交渉を誤らないよう国民大衆に自分らの祖国愛の精神を伝えて欲しいとの思いで手紙を議員団に渡した」「くれぐれもそれが伝わっているか確認して欲しい」と頼まれたとの発言があった。これらの手紙は(日本代議士殿、議員各位殿、日本青年といった)一般的な宛名であったという。その結果、それらの手紙はどこへ行き、発表はどうなったのか、野溝らは都合の良いことだけを発表し、不都合な手紙を握り潰したのではないかとの声も上がり、自由民主党の木村文男、臼井莊一は、海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で同年12月以降、視察団団長の野溝勝や社会党関係者らにたびたびこの点を質した[73][77]。野溝らによれば、手紙・遺品等は帰国したとき押寄せた家族らに名簿と照合しながらその場で渡し、また、家族以外の者への手紙は5~6通ほどあったといい、社会党関係者らによれば『日本週報』で報告したり、赤十字で読み上げてもいる、その後、残った手紙は(家族らが受取に来られるように)野溝の事務所で記者も含め自由に閲覧できるようにしていた、受取人の出て来ないものは最終的に引揚局や関係機関に渡したとする。自由民主党の議員は、ガリ版印刷してでも全議員と三大新聞くらいには渡すべきであったと主張した。結局、委員長の下へは6通の手紙と1通の死亡者リストが集められたが、その中には、第5次引揚者が出した報告によれば、渡したはずとされた「日本代議士殿」を宛名とする手紙がなかった。両者の最終的な主張は、それぞれ以下の通り[77][78]。

野溝勝:①別にそれらの手紙のことを隠したわけではない。手紙のことは他の議員にも新聞記者にも話している。②取材は雑踏(正確には、特別待合室。ただし、収容者家族が押しかけ、議員団は一時モミクチャになる状態だった。)の中で、中国との賠償問題、貿易問題、領土問題、漁業問題等を新聞記者と多岐にわたって話したもので、手紙についても一括して語っている。③隠したのではない証拠に、現に週報で手紙について載せ、問題となっている事項についても触れたものがある。④家族に渡せなかった手紙は援護局や引揚者関係者に、その他の預かった各種書類については政府に渡している。⑤栄養状態が良かったというのは、「思ったよりは」という意味で言ったものだ。

木村文男、臼井莊一:①手紙は、収容者が血の叫びで日本国民に知らせてくれという思いで渡したものべきだ。であれば、内容をそれなりの方法で自分ら(引揚委員会委員)に知らせるなり、国会で報告するなりすべきだった。単に、自身の演説で公表した、関係者に渡した・政府に渡したということで済ませてよいものではない。②収容者の栄養状態は良かったようだというが、同時に自身で、ソ連で起こりがちなことであるが冬は生野菜の不足が起こりがちだと報告している。実際に、帰還者らの健康診断では野菜不足からのビタミンB不足によると思われる高血圧・中風等の血管系の症状が多い。これは栄養状態が良いという事にはならない。

読売新聞は、同社へ投書があったため上記国会経緯について調査を行ったとして、1956年3月その結果を報じた[79]。読売新聞は、野溝が発表のしかたが悪かったことを陳謝したとも聞こえる発言をしたことで、この問題は国会ではケリがついたとしながらも、委員会に提出されていないと思われる手紙がまだ一通あり、その点に釈然としていない自民党議員がいるとして、その手紙内容を紙面で紹介した[79]。これは自民党議員がある雑誌に載っていたとして委員会で紹介した文面である[77]。この手紙は本当に渡されていたのか、存在したとしても、本当に発表されたような文面だったのか、紛失しただけなのか、意図的に握り潰されたのか、あるいは、存在自体が捏造され訪問議員らが陥れられたのか、決着はつかないまま終わった。

帰国
1947年(昭和22年)から日ソ国交回復する1956年にかけて、抑留されていた者が合計47万3千人の日本への帰国が行われた[要出典]。

1949年(昭和24年)5月20日、ソ連政府は本年5月から11月まで全員引き揚げるだろうと発表。その数を9万5千人とした。この時点で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と日本政府が把握していた抑留者数は、約40万8700人としており食い違いが生じた[80]。 発表後の同年6月27日、約2000人を引揚者を乗せた「高砂丸」が舞鶴港に入港。引揚者は歓迎を受けたが、同年7月2日には引揚者約240人が日本共産党に入党したほか後続船の引揚者による上陸拒否、警察官との間で騒擾を起こすなどの行動が見られるようになった。同年8月11日には引揚者の秩序保持に関する政令が公布された[81]。

1950年頃から読売新聞記者の取材[82]やハバロフスクの『日本新聞』初代編集長であった小針延二郎の公表[83]をもとに、シベリア抑留帰還者らの中には、ソ連に忠誠を誓わされスパイ活動をすることを約して日本に帰還した者が「幻兵団」として潜んでいて、その数は数千とも数万ともつかないとのキャンペーンが読売新聞によって行われた[注釈 4][注釈 5]。結局、確定的といえるほどの証拠や証言が出てくることもなく、そのまま尻すぼみに終わっている。

→「民主運動 (日本)」も参照
その後、ソ連のために諜報活動を行ったとして、鹿地事件において三橋正雄が自首(三橋事件)、ラストボロフ事件において志位正二がそれぞれ自首、それぞれ早く帰国したいためソ連当局者に誓約書を書いたと告白し、読売新聞はこれを「幻兵団」の一環として報じている。しかし、三橋によれば、「幻兵団」とは日本人が勝手に脅えているだけで自身はソ連に従う義理は感じていなかった、自分のような無線連絡役であれば五人といないだろう[84]とし、志位によれば、帰国して寧ろ残留者の引揚促進活動に取組むつもりだったが、引揚げた舞鶴港で米軍の民間情報部の者が帰国者の主だった者を集めて暴行し情報をとろうとしているところを目撃する等、米軍のやり方に疑問を感じスパイになることにした[85]と、語っている。

1950年(昭和25年)には、一部の引揚者の帰国が遅れたのは日本共産党書記長徳田球一が要請したからだとして、国会で問われた徳田要請問題が起こった。

1956年12月12日ソ共同宣言の発効により、イワノボ、ハバロフスクの戦犯捕虜収容所に残っていた抑留者も刑期未了の者も含めて帰国。個別事情によるものを除いて、一応の帰国事業が完了したとみられる[72]。

帰国した抑留者は差別されることもあり、抑留者であったことを隠し体験を語らなかった者もいる[48]。

中華人民共和国への移管
→「撫順戦犯管理所」を参照
最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した〈念書組〉と呼ばれる者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など満洲国の要人らと共に1950年代に戦犯とみられた者は中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所などに収容される者もおり、そこでは認罪と呼ばれる戦争犯罪の自白を迫られる活動が行われ、これを一種の洗脳と見る者も多い[86][87]。

ソ連への残留
→「日系ロシア人」を参照
また、ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係したり、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかったり、現地の人間と恋仲になったり[注釈 6]などして帰国せずにソ連に残留して帰化した例もある(川越史郎など[89])。また、ソ連側から帰国を認められなかった例もある(蜂谷彌三郎[90])。ソ連に留まった総数は約1千人とみられ、2017年(平成29年)時点でもロシア北西部レニングラード州に、満洲国軍元軍曹で北海道出身の田中明男が存命であることが明らかになった。田中の回想によると、1950年代に入って抑留者の日本帰国が本格化すると、収容所幹部が「末端の兵士以外は、帰国すれば裏切り者として迫害(抑圧)される」と残留を勧めるようになり、信じて残留を決めた者もいたという[91][92]。

犠牲者数
ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[8]。従来、多く語られる場合の死者数は約6万人とされている。もともと関東軍の兵員が南方に移送されて大幅に減少し、それを満洲在留の民間邦人を召集して穴埋めしていったことが問題を分かりにくくしている。但し、アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという[93][要ページ番号](ただし、この数は単なる満洲引揚途上あるいは引揚待ちの死者らとの区別が不明である。)。これに対し、旧ソ連の資料では抑留者60万人、死亡者6万人との数字、近年の調査ではソ連軍捕虜となった日本軍軍人だけで61万1千人余である[9]。実際の処、冷戦により半世紀旧ソ連側の協力が得られなかったため全貌は不明である[9]。

シベリア抑留中にソ連の軍事法廷で日本人144人が銃殺刑の判決を受けたことが判明しており、うち33人への執行が確認されている(79人のその後は不明)[94][95]。

日本の厚生労働省は2019年(令和元年)現在でも、ロシア連邦などから提供された新たな資料を基に、旧ソ連や満洲での死亡が判明した日本人の氏名等の名簿更新を続けている[96]。

収容所での待遇差・国際法
抑留初期の収容所には旧軍制度がそのまま持ち込まれた。旧軍時代の階級に基づいた待遇差差と将校特権が大手を振ってまかり通ったため、下級兵士は「兵隊地獄」と「強制労働地獄」の二重の苦しみの淵にあえぐことになった[97]。背景には、将校は国際法[98]によって、捕虜労働を免除が規定されていたことにある[97]。

シベリア抑留中の死亡率は、圧倒的に将校より下士官・兵卒が高い。元ジャーナリストの白井久也によれば「将校は旧軍時代と同様に、兵隊に対して宮城遥拝、軍人勅諭の奉唱、軍隊式の敬称・敬礼や当番兵サービスを強要、配給食料のピンハネを行い、些細なことで私的利裁の雨を降らした。揚げ句の果ては帯剣の代わりに棍棒を持って、作業現場で兵隊にノルマの超過達成を求める鬼のような現場監督と化し[97]」、そのことが下士官以下の死亡・未帰還率の高さに影響したのだと主張している。

賃金未払い問題
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが[要出典]、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた[99]。

国家賠償訴訟

ウィキニュースに関連記事があります。
シベリア抑留の国家賠償訴訟で原告側の請求棄却 - 京都地裁
シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年(平成21年)10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された[100][101]。

シベリア特措法
旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年(平成22年)5月21日に本会議で可決。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類、独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に給付金が支給される。この件は2010年(平成22年)5月20日の参院総務委員会で佐藤泰介委員長により提案された[102][103]。また、国が実態調査を行うことも明記された[9]。

慰霊・追悼その他の動き
1991年、当時のロシアのゴルバチョフ大統領が来日し、死亡者の名簿が初めて引き渡され、その後、資料提供が継続的に続いた。これにより、日本政府の調査、遺骨収集が本格化した。元抑留者の村山常雄は、政府に提供された名簿や自らシベリアに渡って墓地から書き写した名をもとに4万6,300人の氏名・死亡場所をホームページで公開、『シベリアに逝きし人々を刻す-ソ連抑留中死亡者名簿』のタイトルで出版した[9]。現在、2022年ロシアのウクライナ侵攻により日ロ関係の悪化により、ロシアからの資料提供や遺骨収集はストップしている[9]。日本国の調査もこれまでモスクワの資料ばかりで地方に及んでいない、また、元抑留者へのなぜ抑留が起こったのか、日本は何か出来ることはなかったのかといった疑問に対し、説明は行われていない[9]。


慰安所整備が日本女性を守った?!

2025年08月23日 08時04分42秒 | 社会・文化・政治・経済

戦後3日で通達された占領軍向け慰安所の設置。国策だった売春は女性を守ったのか #戦争の記憶

配信

なぜ慰安所設置を急いだのか

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取手・白山の金毘羅神社が閉鎖する

2025年08月22日 18時51分02秒 | その気になる言葉

白山の大鹿金刀比羅神社|取手市

今日、気になって、金刀比羅神社へ行ったら、更地になったいた。

信じ難い光景に唖然とする。

まさかの、展開となる。

白山の祭りが開かれないので、気になっていた。

 

目次


防衛省、過去最大の防衛費8・8兆円台を概算要求へ

2025年08月22日 10時23分54秒 | 社会・文化・政治・経済

無人機大量配備への調査費も計上

防衛省は、8月末にまとめる2026年度当初予算概算要求で、過去最大となる8兆8千億円台を計上する方向で調整に入った。防衛力の抜本的強化を掲げた整備計画の4年目に当たる。無人機を活用した攻撃や偵察能力を向上させるため、大量配備に向けた調達費を盛り込む。

政府は27年度までの5年間で防衛費を計約43兆円とする方針。これに沿って23年度当初は約6兆8千億円、24年度は7兆9千億円超と急伸した。今回の要求額は、約8兆7千億円だった25年度当初を上回る規模。

27年度に防衛費と関連経費を合わせて、22年度国内総生産(GDP)比2%とする目標も掲げており、25年度は約1・8%だっ

無人機を巡っては、防衛力強化7本柱の一つ「無人アセット防衛能力」として活用を推進。戦闘による人的被害を低減できるとしている。27年度までの5年間で約1兆円を投じる方針で、25年度までに計約4千億円を計上した。

 


利根輪太郎の競輪人間学 石井 寛子選手が期待を裏切る

2025年08月22日 09時41分43秒 | 未来予測研究会の掲示板

女子競輪は買わない方針だが、買ってしまった。

FⅠ 取手競輪 サテライトしおさい鹿島杯

初日8月20日

7レース