我が家はm小文間の長男の友人の農家からコメを直接購入している。
25㌔7000円が、8000円となったが、5㌔1600円。
家人の友人たちにも分けているのであるが、「ありがたい」と感謝されている。
韓国では5㌔3000円ほど。
我が家はm小文間の長男の友人の農家からコメを直接購入している。
25㌔7000円が、8000円となったが、5㌔1600円。
家人の友人たちにも分けているのであるが、「ありがたい」と感謝されている。
韓国では5㌔3000円ほど。
F1 熊本競輪 おトクにPLAYオッズパーク杯
初日(4月21日)
9レース
並び予想 1-3-5 7-2-4 6(単騎)
3-1 3-2 3-7の3連単で勝負したが・・・
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
× | 1 | 2 | 志村 太賀 | 11.3 | 差 | |||
注 | 2 | 7 | 原田 亮太 | 1/4車輪 | 11.6 | 逃 | B | |
○ | 3 | 1 | 藤井 栄二 | 3/4車身 | 11.4 | S | ||
◎ | 4 | 3 | 西村 光太 | 微差 | 11.3 | |||
△ | 5 | 5 | 小堺 浩二 | 3/4車身 | 11.2 | |||
6 | 6 | 伊藤 奎 | 5車身 | 11.6 | ||||
7 | 4 | 小沼 良 | 1車身1/2 | 11.9 |
2 枠 連 |
複 |
|
2 車 連 |
複 |
|
3 連 勝 |
複 |
|
ワ イ ド |
|
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
単 |
|
単 |
|
単 |
|
並び予想 1-4-6 5-2 3-7
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 4 | 成田 和也 | 10.9 | 差 | ||||
× | 2 | 1 | 新田 祐大 | 3/4車身 | 11.2 | 逃 | B | |
3 | 6 | 大槻 寛徳 | 1/2車輪 | 10.9 | ||||
△ | 4 | 2 | 小川 勇介 | 1車身1/2 | 10.8 | |||
注 | 5 | 5 | 河端 朋之 | 1/2車輪 | 10.5 | |||
◎ | 6 | 3 | 吉田 拓矢 | 1車身1/2 | 11.0 | |||
○ | 7 | 7 | 雨谷 一樹 | 1/2車身 | 10.9 | S |
2 枠 連 |
複 |
|
2 車 連 |
複 |
|
3 連 勝 |
複 |
|
ワ イ ド |
|
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
単 |
|
単 |
|
単 |
|
1960年、自民党岸信介内閣によって進められた日米安保条約の改訂。日米軍事同盟強化に反対する運動(安保闘争)が起こったが、強行採決され、6月に成立。岸内閣は退陣し、池田内閣に交代した。
新安保条約の内容
以下に主な内容を挙げる(数字は条)。日米地位協定
日米安保条約の第6条にもとづくアメリカ軍(在日米軍)への基地提供および使用に関する細則を定めたもの。現在の沖縄普天間基地など具体的にはこの協定で運用されている。
1960年の日米安保条約の改定に際して高揚した軍事同盟反対の国民運動。戦後最大の大衆政治運動となったが、国会で批准され6月に成立した。
安保改定反対運動「60年安保」
1960年5月20日、日米安保条約改定の批准に反対する社会党・共産党を、岸信介自民党内閣は強行採決で押し切った。▼「断絶というものは絶対ない」松下幸之助
「断絶」という言葉を<悪い方面に用いて、断絶をさらに深めようとしている。そこから生まれるものは、背反と闘争しかない。不信感しか生まれない>
大切なのは、分断の目を摘み協調の道を見いだすことだ。
▼立ち上がれ、そして断固たる心で戦うのだーロマン・ロラン
必死の一人が突破口を開く。
▼「挑戦」と「不安」は表裏一体ともいえる。
人が「元来、挑戦したい生き物」
だが、日本人は性質的に楽しさより先に不安を感じてしなう傾向にある。
脳科学者の枝川義邦さんは指摘している。
▼不安が募ると、人は孤独を感じやすい。
そんな時、誰かが話を聞いてくれるだけで、心が軽くなることもある。
▼逃がしてならない「時」がある。
今、励ましが必要な人がいる。悩みを聞いて寄り添い、共に前進の歩みを重ねたい。
▼壁を破ってこそ<先駆>である。
観光地として人気の伊江島では、かつて沖縄戦で多くの住民の命が奪われました。この島で宿を営みながら戦争体験を語る木村浩子さんは、脳性小児麻痺の影響で体に障害があります。戦時中、障害者は“生きる価値のないモノ”と扱われた事実を社会に訴え続けている浩子さん。「この体で何ができるか」 浩子さんが沖縄で紡ぐ平和への思いとは。
沖縄本島からフェリーで30分。沖縄本島北西に浮かぶ伊江島は、豊かな自然に恵まれた人気の観光地です。
しかし、今から70年前、ここは沖縄戦の激戦地でした。 当時東洋一と言われた日本軍の飛行場を狙い、アメリカ軍が上陸。住民を巻き込んだ激しい地上戦は6日間にも及び、島民の半数に近い1,500人以上が命を奪われました。
周囲およそ22キロ、車なら1時間ほどで1周できる小さな島は、今もなお、その土地の3分の1が米軍基地で占められており、3年前からは新型輸送機・オスプレイの訓練も行われています。
そんな伊江島の地へと33年前に移り住み、この島で平和を訴え続けているのが、木村浩子さんです。脳性小児麻痺で体に障害がある浩子さん。わずかに動かせる左の足先だけが頼りです。
77歳になった今でも、浩子さんは全国各地へ出かけて戦争体験や沖縄の“いま”を伝えています。 今年2月、京都にある福祉施設を訪れた浩子さんは、次のように語りました。
「私は沖縄が大好きで、この32年間を見てきました。この32年間、曲がりなりにも、戦争はじかに起こっていません。それは憲法があったからだと思います。」(浩子さん)
浩子さんは、移住してから小さな宿を運営してきました。 浩子さんのアイデアが活かされ、誰もが快適に過ごせるよう全館バリアフリーになっています。
この日、沖縄市から1組の家族がやってきました。宿を訪れるのは3度目というこの一家の双子の次男・陽太くんは、脳性小児麻痺のため手足が自由に動かせません。
「子どもたちに生きる力を感じて欲しい。浩子さんの生き方を、人生の道しるべにしてもらえたらいいかなと思って今日は泊まりに来ました。」(陽太くんの母)
この宿の名前は「土の宿」。
「『人は土から生まれ土に還る』という言葉があるんです。土がなければ人間は機械になってしまうような気がしてならないし人間は自分らしく生きることはできないと思っています」(浩子さん)
浩子さんの活動の原点は、障害を理由に日本兵に殺されかけたことにあります。
1937年、浩子さんは満州に生まれました。まもなく軍人の父が戦死し、山口県に引き上げた浩子さんと母・喜美子さんのもとに、日本兵がやってきたのです。
「ここに障害者の子どもがいるだろう、有事の時は邪魔になるから親の手で殺せって青酸カリという薬を持ってきて」(浩子さん)
それはちょうど、戦況が厳しくなってきた頃のこと。母・喜美子さんは7歳の浩子さんを背負って山の中へと逃げこみました。人目を盗んで暮らすこと3か月。ようやく終戦を迎え、生き延びることができました。
こうした体験が浩子さんの原点となっているのです。
「障害者も健常者も平和でなくっちゃ何も考えられない。この体で何ができるか」(浩子さん)
その後、母を病気で失ってから画家として自立した浩子さん。出産にも挑み、子育てする姿が注目されました。
「障害者である前に、1人の生きてる人間として何を目指して生きるかってことをずっと考えてきたんです。」(浩子さん)
そんな浩子さんが、初めて沖縄を訪れたのは40歳の頃。沖縄の歴史と現状を肌で感じ、平和のために何かできないかと考え始めます。
「伊江島は戦争の激戦地でもあって。沖縄問題を縮小したような島です。それをじかに触れたいと思っていたし。痛みとか悲しみとか忘れてはいけない。」(浩子さん)
そうして出会ったのが伊江島の農家だった阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)さんです。
戦後、伊江島では多くの農家が長年耕してきた土地を米軍に強制収容され、最大で島の土地の3分の2が取りあげられました。
「人が生きるためには土地が必要だ」と訴え続け、土地の返還を求めて先頭に立っていたのが阿波根さんでした。
その阿波根さんが、浩子さんの思いを支援するため、自らの土地を譲ってくれました。それが、この宿の出発点となりました。
宿の建設が始まったのは1983年。当時取材を受けた浩子さんは次のように語っています。
「福祉とはとか平和とかを考えていくところにしたいと思います」(浩子さん)
翌年完成した「土の宿」の評判は口コミで広がり、国内外から多くの客が訪れました。 障害のあるなし、立場や考え方の異なる人たちが、平和や福祉について語り合う場となったのです。
今、浩子さんは宿の近くで1人暮らしをしています。ここ数年、体力が落ちてからは1日4回ヘルパーを頼んでいます。できることもだいぶ限られてきました。唯一自由に動かせていた左の足先も、今は携帯で文字を打つのがやっとです。
「きついからね毎日。足はしびれる手はしびれる。頭だけはまだしびれていない(笑)。」(浩子さん)
この日、島に暮らす玉城キクさん(86)がやってきました。浩子さんとは本音で話し合える、気心知れた友人です。
キクさんは、新聞の切り抜きを嬉しそうに持ってきて見せてくれました。新聞記事には、去年浩子さんが中央アメリカのコスタリカを訪問した時のことが記されています。
コスタリカは平和憲法の下、軍隊を持ちません。どう平和を保ってきたのかどうしても知りたいと、浩子さんは準備に2年をかけてコスタリカ行きを実現させたのです。
キクさんと浩子さんもまた、平和について語り合います。
「戦争の話とかね、日本はどうなるんでしょうね、浩子さん、私、気にしているよとか、いろんな話あるけどね、こんな話したかったの。」(キクさん)
10代で戦争に巻き込まれたキクさん。島での激しい戦いで父を亡くしたキクさんは、母と共に幼い妹や祖父母を抱えて壕(ごう)から壕へと逃げ惑い、なんとか命をつなぎました。この戦争体験を数十年にわたり語り部として伝えてきたキクさんですが、ここ数年、自分の平和への思いが伝わっているのか不安を感じています。
キクさん「70年にもなってね、今からどーしたどうしたって言っても自分のためにもならんし国のためにもならんしね。」 浩子さん「国のためにも自分のためにもなんないけど子どもたちのためになる。」 キクさん「そう思うけどね話してもね。」 浩子さん「これからが大変です。」 キクさん「そうですよ浩子さん、私総理大臣になりたい。」
浩子さん77歳、キクさん86歳。2人はまた会う約束をしました。
宿には今も時折、浩子さんと思いを共にする仲間が集まってきます。その中の1人、島袋ひとみさんは、21年前に宿で働いたことをきっかけに岐阜県から移住してきました。
浩子さんの平和への思いを身近に感じてきたひとみさん。今、浩子さんから受け継いだ思いを自らも伝えていきたいと考えています。
その取り組みの1つが「民泊」です。島の外の学生を家庭に受け入れています。
ひとみさんが必ず子どもたちを連れて行くのが、伊江島に今も残る戦争の傷跡です。 この日は、滋賀県から中学3年生5人を迎えました。ひとみさんはまず、5人を飛行場へと案内しました。
ひとみさん「ここがね米軍補助飛行場と言って、70年前はねアジア1の飛行場で今でも米軍の基地に伊江島はなっていて、そんなのも聞いたことある?分からなかった?」 中学生たち「(うなずく)」 ひとみさん「覚えておいてね」
子どもたちを連れて戦跡を一つ一つ巡ります。ひとみさんは壕へと子どもたちを案内しました。
「ここですね。4月の22日に、150人の尊い命が奪われた集団自決の場所であります。」(ひとみさん)
ひとみさんは、子どもたちがじかに見て感じることが大切だと考えています。伊江島に残る戦争の傷跡を巡った中学生たちにも、感じるところがあったようです。
「沖縄っていうイメージは基地あるくらいは知っているけど、観光場所って言うイメージしかなくて」(中学生)
そんな中学生たちにひとみさんは次のように思いを伝えました。
「ここに来て、戦争というものに触れたことによって、ちょっとニュースとか見た時に、そういやひとみさんこんなこと言ってたなとか、どっかでひっかってくれたらいいな。うん。」(ひとみさん)
「沖縄の土になりたい」と伊江島にやってきて33年。浩子さんは今日も、島に暮らしています。
「この宿を通していろんな人と出会いがあり、いろんなことを学んできました。私たちは1人しかいない素敵な『個』を持っているんだから大事にしなきゃいけない。それがないと平和も沖縄もすべて考えられないんじゃないですか。『個』は命あっての『個』なんです。その命を脅かすものとか考え方とか絶対にやめなければいけない」(浩子さん)
平和への思いを次の世代へつなげるために何ができるのか。戦後70年を経た今、私たちが考え続けていかなければならない課題です。
※この記事は2015年06月23日(火)放送のハートネットTV「シリーズ戦後70年 人が好き土が好きそして私が好き~沖縄で紡ぐ言葉~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。
この宿の名前は「土の宿」。
「『人は土から生まれ土に還る』という言葉があるんです。土がなければ人間は機械になってしまうような気がしてならないし人間は自分らしく生きることはできないと思っています。」(木村浩子)
普段、土に触れることがない私達は「心」を耕したいと思います。
学業や
この宿の名前は「土の宿」。
「『人は土から生まれ土に還る』という言葉があるんです。土がなければ人間は機械になってしまうような気がしてならないし人間は自分らしく生きることはできないと思っています。」(木村浩子)
普段、土に触れることがない私達は「心」を耕したいと思います。
学業や仕事・家事子育てなどで疲れ固まった心はたまに休めてすべてリセットし初心に戻ってみてはいかがでしょうか?
非日常的な「土の宿」で、新しい自分を見つけてみてはどうでしょうか?
心を耕して明日の活力にしてください!!!
仕事・家事子育てなどで疲れ固まった心はたまに休めてすべてリセットし初心に戻ってみてはいかがでしょうか?
非日常的な「土の宿」で、新しい自分を見つけてみてはどうでしょうか?
心を耕して明日の活力にしてください!!!
沖縄県の伊江島(伊江村)にある民宿「土の宿」を開設した木村浩子さん(87)は、重度障害者の尊厳が守られ、安心して暮らせる社会を目指し奔走してきた。歌人、画家として自然や生命の尊さを描き、各地で個展を開いた。
重度障害者が施設へ入所する動きが広まりつつあった1960年。脳性まひの木村さんも施設で暮らす覚悟を決めた。入所した広島市立の救護院では、生活困窮者や障害者が混在していた。寝たきりの高齢者の腰は床ずれでただれ、ウジ虫がわいていた。
「現世の地獄だ」。耐えきれず、半年で施設を出た。
前後編の後編です。
前編・「親の手で殺せ」と兵士は告げた 脳性まひの芸術家
次に向かったのは、大分県別府市の国立保養所だった。立派な施設と聞き、期待を胸に門をくぐった。しかし、所定の時間に用便するよう求められるなど、制約ばかり。部屋にはのぞき窓があり、常に監視されているようだった。「まるで囚人だった」。施設職員に「あんたみたいな身障者は、ここでなければ生きられない」と冷たく告げられた。
3年が過ぎた頃、あるうわさが駆け巡った。入所者の傷痍(しょうい)軍人が服毒自殺したという。
家人には常に言われれいる。
「あんたは、自分で歌がうまいと思っているけど、うまくないよ!
それは、屈辱と言うよりも心外である。
家人がどれほどの、歌に対する評価基準を有しているかの問題に帰着するのだが・・・
確かに、最高でも89点のコンピュータ評価。
一方の家人は92点なのだ。
先日は、新取手のカラオケ「恵」では、元看護師の鈴木さんからは「相当、高い授業料を払っているのね」と言われた。
そうなのだ、新宿歌舞伎町のキャバレーをはじめ、赤阪、六本木、銀座のクラブで客として歌ってきた。
浅草橋のスナックでは、「店で、10人の上手さに入る」とママさんに評価された。
自分としては、それも不満で「店で3人、5人の上手さに入る」と言って欲しかったのだが・・・・
2025年4月20日17時~
取手福祉会館小ホールで開催
F1 玉野競輪 西日本Cシン・ガッツ玉ちゃん杯
最終日
11レース
10レースが3-4なので、3-7の本命ではなく、3-5の3連単を買う。
並び予想 5-1 2-6 3-7 4(単騎)
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
◎ | 1 | 3 | 森本 桂太郎 | 11.1 | 捲 | |||
○ | 2 | 7 | 大西 祐 | 3車身 | 11.2 | 捲 | S | |
△ | 3 | 2 | 山本 巨樹 | 1/2車身 | 11.6 | |||
4 | 4 | 高木 和仁 | 1/2車身 | 11.6 | ||||
▲ | 5 | 6 | 吉堂 将規 | 3/4車輪 | 11.8 | B | ||
注 | 6 | 1 | 立花 成泰 | 3/4車輪 | 11.5 | |||
× | 7 | 5 | 米嶋 恵介 | 1車身1/2 | 11.9 |
2 枠 連 |
複 |
|
2 車 連 |
複 |
|
3 連 勝 |
複 |
|
ワ イ ド |
|
---|
12レース
並び予想 1-6 2-5 7-3 4(単騎)
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
◎ | 1 | 2 | 松浦 悠士 | 11.1 | 差 | |||
× | 2 | 7 | 石原 颯 | 1/2車身 | 11.2 | 捲 | B | |
3 | 6 | 田中 誠 | 3/4車輪 | 11.0 | ||||
○ | 4 | 3 | 小倉 竜二 | 1車身 | 11.0 | |||
注 | 5 | 4 | 皿屋 豊 | 1車身1/2 | 11.0 | |||
△ | 6 | 5 | 三宅 達也 | 1/2車輪 | 11.3 | |||
▲ | 7 | 1 | 北津留 翼 | 大差 | 13.1 | S |
2 枠 連 |
複 |
|
2 車 連 |
複 |
|
3 連 勝 |
複 |
|
ワ イ ド |
|
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
単 |
|
単 |
|
単 |
|
|
11月27日 | 「公明政治連盟」結成。 |
---|---|---|
1962年(昭和37年) | 4月2日 | 機関紙「公明新聞」創刊。 |
9月13日 | 公明政治連盟 第1回全国大会を開催。 | |
1964年(昭和39年) | 11月17日 | 「公明党」結成大会開催。 |
1965年(昭和40年) | 6月14日 | 東京都政浄化の主張が実り、都議会リコール解散。 |
7月4日 | 第7回参院選で11人当選。 | |
7月24日 | 都議選で23人全員当選。 | |
1967年(昭和42年) | 1月29日 | 第31回衆院選で25人当選(衆議院に初進出)。 |
5月 | イタイイタイ病を初めて国会で取り上げる。 | |
1969年(昭和44年) | 3月8日 | 「児童手当法案」を発表し、国会へ提出。 |
12月28日 | 第32回衆院選で47議席となり、第3党に。 | |
|
5月21日 | 公明党の主張で政府が提出した「児童手当法案」が成立。 |
6月15日 | 党第1次訪中団出発、中日友好協会代表団との共同声明に調印。 | |
1975年(昭和50年) | 4月28日 | 統一地方選の結果、地方議員3千300人に。 |
1976年(昭和51年) | 12月14日 | 衆議院での院内名称を「公明党・国民会議」と改称。 |
1979年(昭和54年) | 10月7日 | 衆院選で58議席(国民会議含む)獲得。 |
|
6月22日 | 衆・参同日選挙。衆院34議席に後退。 |
1982年(昭和57年) | 6月10日 | 核兵器廃絶を求める1000万人の署名を国連事務総長に提出。 |
1983年(昭和58年) | 12月18日 | 衆院選で結党以来最高の59議席(国民会議含む)獲得。 |
1986年(昭和61年) | 7月 | 衆・参同日選挙。衆院57議席、参院選比例代表で743万票獲得。 |
|
7月 | 参院選で6選挙区全員当選、比例区8人当選。比例区では641万票を獲得。 |
1993年(平成5年) | 7月18日 | 第40回衆院選で52名当選。 |
8月9日 | 細川連立内閣が正式に発足、公明党から4人が入閣。 | |
1994年(平成6年) | 4月28日 | 羽田新内閣が発足。公明党から6人が入閣。 |
6月25日 | 羽田内閣総辞職。 | |
11月5日 | 第33回党全国大会。 | |
12月5日 | 「分党・二段階」方式で、「新進党」へ参加の方針を決定。 地方議員中心の「公明」を結成。 |
|
12月10日 | 「新進党」結党大会。 | |
1997年(平成9年) | 7月6日 | 東京都議選 21選挙区で24人全員当選。 |
12月27日 | 新進党 両院議員総会で解党宣言。 | |
1998年(平成10年) | 11月7日 | 「公明」と「新党平和」が合流、公明党を再結成。 |
1999年(平成11年) | 10月5日 | 自民、自由、公明の「自自公」連立内閣が発足。 |
|
4月5日 | 森内閣が発足。新たな「自公保」連立政権がスタート。 |
6月25日 | 第42回衆院選。31議席、比例票では過去最高776万票。 | |
2001年(平成13年) | 4月26日 | 第1次小泉内閣発足。「自公保」連立政権継続。 |
2003年(平成15年) | 11月19日 | 第2次小泉内閣において「自公」連立政権となる。 |
2005年(平成17年) | 9月11日 | 第44回衆院選、比例区で過去最高得票の898万票を獲得。小選挙区で8、比例区で23、計31議席を確保。 |
2006年(平成18年) | 9月26日 | 安倍内閣発足。「自公」連立政権継続。 |
9月30日 | 第6回公明党全国大会で「新宣言」を発表。 | |
2007年(平成19年) | 9月26日 | 福田内閣発足。「自公」連立政権継続。 |
2008年(平成20年) | 9月24日 | 麻生内閣発足。「自公」連立政権継続。 |
2009年(平成21年) | 8月30日 | 第45回衆院選で21議席に後退。比例票は805万票。 |
9月8日 | 臨時全国代表者会議で山口那津男新代表を選出。 | |
|
7月11日 | 第22回参院選で選挙区3議席、比例6議席を獲得。比例票では763万票。 |
2011年(平成23年) | 4月10日 | 第17回統一地方選挙前半戦で331人(推薦1を含む)が出馬し、329人(同)が当選。 |
4月24日 | 第17回統一地方選挙後半戦で1263人全員当選(うち30人が無投票当選)。 | |
2012年(平成24年) | 12月16日 | 第46回衆議院総選挙。擁立した9選挙区で結党以来初となる「選挙区完勝」。比例区でも22議席、合計31議席を獲得し、前回比10議席増の躍進。比例票では711万票を獲得。 |
12月25日 | 自民党との連立政権樹立を合意。3年3カ月ぶり。 | |
12月26日 | 自公連立政権による第2次安倍内閣が発足。 | |
2013年(平成25年) | 6月23日 | 東京都議会議員選挙。23人全員当選し都議会第2党となった。都議選の完勝は1993年以来6回連続。 |
7月21日 | 第23回参議院議員選挙。埼玉、東京、神奈川、大阪の4選挙区で完勝、比例区でも7議席を獲得し、改選10議席を上回る11人が当選。比例で756万8080票を獲得し、初めて比例区で第2党の座に就いた。参院で与党が少数の“ねじれ”が解消。 | |
2014年(平成26年) | 9月21日 | 第10回公明党全国大会を開催。 |
12月14日 | 第47回衆議院総選挙。9小選挙区で完全勝利し、比例区でも全国11ブロックで4増の26人が当選。小選挙区比例代表並立制で最多となる計35議席を獲得。比例区では731万票を獲得。 | |
12月24日 | 自公連立政権による第3次安倍内閣が発足。 | |
2015年(平成27年) | 4月12日 | 第18回統一地方選挙前半戦で345人(推薦1を含む)を擁立し、344人(無投票当選の8人を含む)が当選。 |
4月26日 | 第18回統一地方選挙後半戦で1248人を擁立、1245人が当選。 | |
2016年(平成28年) | 7月10日 | 第24回参議院議員選挙。選挙区7議席、比例7議席を獲得。比例票で757万票を獲得し、過去最高と並ぶ合計14議席。改選9議席を大きく上回り、非改選と合わせた25議席は参院で1割を占める勢力となった。 |
9月17日 | 第11回公明党全国大会を開催。 | |
2017年(平成29年) | 7月2日 | 東京都議会議員選挙。23人全員当選し都議会第2党の座を守った。都議選の完勝は1993年以来7回連続。 |
10月22日 | 第48回衆議院総選挙。選挙区8議席、比例21議席を獲得。比例区の総定数が前回衆院選から4議席減り、し烈な選挙戦の中、5議席減となった。 | |
2018年(平成30年) | 9月30日 | 第12回公明党全国大会を開催。 |
2019年(令和元年) | 4月7日 | 第19回統一地方選挙前半戦で340人(推薦1を含む、うち19人は無投票当選)を擁立。道府県議選で167人が全員当選。政令市議選では173人のうち171人当選。2名惜敗。 |
4月21日 | 第19回統一地方選挙後半戦で1222人全員当選(無投票当選40人を含む)。 | |
7月21日 | 第25回参議院議員選挙。選挙区7議席、比例7議席を獲得。合計で改選11から3増の14議席を獲得し過去最多に並ぶ28議席となった。 | |
|
9月16日 | 菅内閣発足。「自公」連立政権継続。 |
9月27日 | 第13回公明党全国大会を開催。 | |
2021年(令和3年) | 7月4日 | 東京都議会議員選挙。23人全員当選。都議選の完勝は1993年以来8回連続。 |
10月4日 | 岸田内閣発足。「自公」連立政権継続。 | |
10月31日 | 第49回衆議院総選挙。9小選挙区で全員当選し、比例区では全国11ブロックで23人が当選。3議席増の32議席。比例区では711万票を獲得した。 | |
2022年(令和4年) | 7月10日 | 第26回参議院議員選挙。選挙区7議席、比例6議席を獲得。合計で改選14から1減の13議席を獲得した。選挙区での7議席獲得は3回連続。 |
8月10日 | 自公連立政権による第2次岸田改造内閣が発足。 | |
9月25日 | 第14回公明党全国大会を開催。 | |
2023年(令和5年) | 4月9日 | 第20回統一地方選挙前半戦で342人を擁立し、340人当選(無投票当選14人を含む)。2人惜敗。前回2019年から2議席増。 |
4月23日 | 第20回統一地方選挙後半戦で1213人を擁立し、1203人当選(無投票当選50人を含む)。10人惜敗。町村議選では6回連続で全員当選。 | |
2024年(令和6年) | 9月28日 | 第15回公明党全国大会を開催。石井啓一新代表を選出。 |
10月1日 | 石破内閣発足。「自公」連立政権継続。 | |
10月27日 | 第50回衆議院総選挙。11小選挙区で4人が激戦を突破したが、7人が惜敗した。比例区は全国11ブロックで20人が当選。目標の23議席以上には及ばず、公示前から3議席減らした。比例区では596万票を獲得した。 | |
11月9日 | 臨時全国大会で斉藤鉄夫新代表、竹谷とし子代表代行を選出。 |
サイバー攻撃を未然に防ぐ「能動的サイバー防御」導入法案が参院本会議で審議入りし、答弁する石破茂首相=18日午前、国会内
サイバー攻撃を未然に防ぐ「能動的サイバー防御」導入法案は、18日の参院本会議で石破茂首相も出席して趣旨説明と質疑が行われ、審議入りした。政府がインターネット上の通信を平時から監視し、重大な攻撃の兆候があれば相手サーバーに侵入、無害化を可能にする内容。厳格な運用を担保するため、独立の監督機関も設置する。
首相は「欧米主要国で既に導入されている制度を踏まえたものだ。国民の安全な暮らし、わが国の平和と安全、国益を守り抜くために必要不可欠だ」と訴えた。自民党の山本啓介氏への答弁。
法案は、憲法21条が保障する「通信の秘密」の尊重規定や、監督機関による国会報告の具体的項目を追加する修正を行い、自民、公明、立憲民主、日本維新の会、国民民主各党などの賛成多数で衆院を通過した。
児童虐待の防止や保育士の人材確保策を盛り込んだ改正児童福祉法などが18日の参院本会議で成立した。保育所や認定こども園の職員らによる虐待を見つけた場合の通報を10月に義務化する。虐待防止や早期発見につなげる。
これまでも児童養護施設などでの虐待には通報義務があった。保育所や認定こども園、幼稚園には法律上の規定がなかった。不適切な保育が問題となったことをふまえ、虐待を見つけた人に地方自治体への通報義務を課す。
保育士の人手不足に対応するため、国家戦略特区で認めていた「地域限定保育士」は全国に広げる。通常の保育士試験と違い、実技試験を講習などで代替できる。保育士不足がとくに深刻な地域での活用を可能にする。
神奈川県や大阪府といった一部の地域で導入していた。登録後3年が経過し、一定の勤務経験があれば、通常の保育士として登録できるようにする。
19人以下の子どもを預かる「小規模保育事業」は3〜5歳児だけを預かる施設の設置を新たに認める。これまでは原則として0〜2歳児が対象だった。需要に柔軟に対応できるようにする。
児童相談所が一時保護した子どもについては虐待の「疑い」の段階でも保護者との面会を制限できるようにする。児童虐待防止法を改正し、児相の権限を明確にする。
NHK
ホストクラブの女性客が高額な料金を請求されて、借金を背負わされるケースが相次いでいる問題を受けて、政府は恋愛感情につけ込んで高額な飲食をさせるいわゆる「色恋営業」を禁止することなどを盛り込んだ風俗営業法の改正案を決定しました。
ホストクラブをめぐっては、女性客が高額な料金を請求されて借金を背負わされ、その返済のために売春などを強要されるケースが相次いでいて、去年1年間に全国の警察に寄せられたホストクラブに関する相談は2776件に上っています。
こうした状況を受けて、政府は、新たな規制や罰則の強化を盛り込んだ風俗営業法の改正案を7日の閣議で決定しました。
それによりますと、「売り上げトップになれなかったら、もう会えなくなる」などと恋愛感情につけ込んで客を困惑させ、飲食をさせるいわゆる「色恋営業」を禁止し、違反した場合は営業停止などの行政処分の対象とします。
また、「売掛金」などと呼ばれる未払いの飲食代を支払わせる目的で、客を脅したり困惑させたりして売春や性風俗店で働くことを求める行為や、性風俗店が女性の紹介を受ける見返りに、ホストやスカウトに報酬を支払う「スカウトバック」を禁止し、違反した場合は6か月以下の拘禁刑もしくは100万円以下の罰金が科されます。
さらに無許可営業に対する罰金の額が見直され、個人は1000万円以下、法人は3億円以下と、現在の200万円から大幅に引き上げられます。
そのほか店が営業許可の取り消し処分を受けた場合、系列店など密接に関係する店も営業が認められなくなります。
政府は今の国会でこの改正案の成立を目指す方針です。
坂井 国家公安委員長は7日の閣議後の会見で「悪質ホストクラブをめぐってはホストクラブ、スカウトグループ、それに性風俗店が女性を徹底的に搾取する卑劣なビジネスモデルがあり、背後には、『匿名・流動型犯罪グループ』、トクリュウの関与もうかがわれることから、対策は急務となっている。国会で速やかに法案の審議がなされ、早期に可決、成立することをお願いしたい」と述べました。
「程よい加減」で生きることが、最も自分らしいということである。
本書を上梓するのは、未だ「旅の途中」とはいえ、これまでの人生を「生きた」「悩んだ」「出会った」という三つの言葉で要約し、「生きる証し」としたかったからである。
子どものころに実の父親から繰り返し性的虐待を受け、後遺症に苦しんでいるとして広島市の40代の女性が父親に賠償を求めた裁判で、最高裁判所は18日までに女性の上告を退ける決定をし、裁判を起こすのが遅かったことを理由に訴えを退けた判決が確定しました。
広島市の40代の女性は、保育園のころから中学2年になるまで実の父親から性的虐待を繰り返し受け、当時の記憶を思い出す「フラッシュバック」などの後遺症に苦しんでいるとして、賠償を求める訴えを起こしました。
裁判では、不法行為を受けてから20年が過ぎると賠償を求める権利がなくなるという「除斥期間」がどの時期から適用されるかなどが争点となっていました。
2審の広島高等裁判所は「極めて悪質、卑劣な行為で、女性の精神的苦痛は察するにあまりある」とした一方、「遅くとも20歳になって以降、訴えを起こすことは可能で、そこから20年が経過した時点で、賠償を求める権利は消滅したと言わざるをえない」として、1審に続いて訴えを退けました。
女性側が上告していましたが、最高裁判所第3小法廷の平木正洋 裁判長は18日までに退ける決定をし、裁判を起こすのが遅かったことを理由に女性の敗訴とした判決が確定しました。