取手・医科歯科通信 山本 嗣信 (やまもと つぐのぶ)

医学情報社編集顧問
フリージャーナリスト

眠れない患者たち

2018年09月24日 06時27分00秒 | 創作欄
末期の患者の心は揺れる。
「死にたい」は、「さびしい」や「怖い」と同じ意味かもしれない。
患者の一人は、「自殺したい」と言っていた。
その人の病室を覗くと声を荒げてイライラした気持ちを看護師にぶつけていた。
面会に来た奥さんはおろおろしている。
「あなた、看護師さんに良くしてもらっているのよ」
「お前は黙っていろ、俺のことなんだ。何度も何度も呼んでいたんだぞ。なぜ、すぐに来ないんだ。痛くて、痛くて、苦しいんだ」
「ごめんなさいね。悪かったね。先生が直ぐに来ますからね」看護師2年目のその看護師は私の担当看護師でもあった
塗装業をしていたというその人は、取手の我が家の近くにも仕事に来たと言っていた。
消灯は午後9時、眠れない患者たちは、ナースステーション前の談話室に集まって来た。
私は皆さんの聞き役に徹していた。
聞いてもらうことで、気持ちがホットするのだろう。
「あなたは、元気そうで良いわね」という70代後半と思われる女性が言う。
がんで3度目の入院と言っていた。
「娘が気遣って一人部屋にしてくれたけど、前のように4部屋がいい。さびしいの」
「私は、6人部屋ですが、深夜なのに看護師が15分起きに来るので、眠れません。一人部屋が羨ましいです」
相手に笑みが浮かんだ。
今でも、談話室で多くの入院患者と言葉を交わしたことが思い出される。
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徹の遅れた青春

2018年09月17日 03時37分58秒 | 創作欄
「浪江を誘惑しないでね。わたしの片腕で、とても大切な人なのだから・・・」
徹は、崇拝する国府田麻耶から釘を刺された。
それがとても心外であった。
徹は麻耶を密かに恋していたのだから、その言葉に複雑な気持ちとなる。
浪江はとびきりの美人であり、性格は控えめ、日本女性の美的要素を湛える魅惑的な女性であったが、麻耶の人間的魅力に比べると少し見劣りがした。
麻耶には、何よりも大物感が漂っていた。
徹は麻耶に理想的な女性のリーダー像を重ね、その活躍に期待していた。
でも、不思議なもので、徹の心は段々と浪江に傾斜していく。
そして、追えば逃げるという例えが現実のものとなる。
麻耶はやがて結婚し、浪江は完全に仕事人間のようにっていく。
麻耶も浪江も何か、徹にとっては手が置かないような高嶺の人となってゆく。


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創作欄 芳子の青春 4

2018年09月16日 06時03分19秒 | 創作欄
芳子は、就職先を世話してくれた恩師の辻村玲子にも手紙を書いた。
<芳子の手紙>
辻村玲子先生、新学期を迎え如何お過ごしでしょうか?
就職先をお世話いただき、先生には感謝しても感謝しきれません。
上京し早くも10日間が経過しましたが、沼田もそろそろ桜が咲く季節になりましたね。
高校1年の時に先生と夜桜を見に行ったことが思い出されます。
先生は大学を卒業したばかりで、母校に先生として赴任されて来られたのですが、先生というより私たち学生たちには優しいお姉さんのように想われました。
先生は、生徒たちに「視野を広げなさい」と言っていましたね。
母は、「沼田市内で職を見つけなさい」と言っていたのですが、私はいずれ沼田に戻ることがあったとしても、1度は外の世界を見てからと思っていたのです。
ですから、先生からお手伝いさんのお仕事を紹介された時は、「このチャンスを絶対に逃すまい」と思ったのです。
母は、「お前にとって花嫁修業になるかしら? お手伝いの仕事もいわね」と背中を押してくれました。
先生は、「お手伝いの仕事に留まらず、自分がやりたいことを見つけなさい。自立した女性の生き方が必要な時代になります」と言われました。
私はあの時の先生の助言を肝に銘じて励みに頑張りたいと思っています。
何卒 今後ともご教示ください。
小金井芳子

芳子は手紙をポストに投函してから、犬の散歩へ行く。
神学院の木立に隣接して、西側に通称「東條山」があった。
芳子は高校の受験勉強をしているお嬢さんの江梨子から、「東條山は、戦犯の東條英機の屋敷があるところなの」と教えられた。
芳子の父は戦死している。
戦争を遂行した責任者の一人が東條英機であことから、敵愾心も湧いてきた。
芳子はメスの柴犬のハナコを連れ、東條山へ足を踏み入れた。
その日は、日曜日で大野太郎教授宅は午前8時であったが、みんながまだ寝ていた。
普段は午前5時起きの芳子も午前7時まで寝ていた。
東條山に足を踏み入れながら、芳子は人の気配を感じていた。
木立の間を見回す。
すると大きな欅の木を背に、ロングスカートの女性が立ち、神父服を着た長身の男性が女性を抱き寄せていた。
それはまるで映画の中の光景のように映じた。
女性は上目遣いになり、身を寄せながら自ら激しく男性の唇を求めていた。
芳子は見ていけないことを見た感情となり、山を駆け下りた。
犬のハナコは思わぬ方向転換に、戸惑いながら首輪を振って抵抗するように立ちあがった。
それから3日後、芳子はハナコの散歩で再び東條山へ行った。
東條英機は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で死刑判決を受け、同年12月23日午前零時1分、東京都豊島区にあった巣鴨プリズンで絞首刑となった。
享年65歳。
昭和36年、もし東條英機が生きていれば78歳である。
芳子は好奇心から東條英機の屋敷の様子を窺った。
東條邸は何時もひっそりしていたがその日は、洗濯物を庭先で干している和服姿の人がいた。
東條英機夫人のかつ子さんであったかもしれない。
芳子は何か切ない感情が込み上げてきた。
浄土真宗の信仰が深かったとされる東條英機の未亡人かつ子さんのことを芳子は後年知った。
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兄のこと、許してください

2018年08月24日 00時21分26秒 | 創作欄
一度、記したのでこの内容は重複する。
元記者には何度も会う。
読売新聞の自称元記者の川上良治さん。
朝日新聞の自称元記者の横川次郎さん実は元産経新聞記者だった。
日本経済新聞の自称元記者澤田幸吉さんは、芥川龍之介研究家で、競馬研究家を名乗っていた。
「君の記事は、シャープだね。とてもいいよ。日経の後輩の松田記者も注目していたよ」と当方を持ち上げる。
「いい、ネタがあったら買うよ。製薬企業のお偉いさんに頼まれているんだ。高給クラブに接待され、お金ももらえるよ」と神田駅前の酒場でのこと。
当方は当時、年収の安さに不満であり、澤田さんにネタを横流しにした。
「君は、私が見込んだように、さすがだね!メーカーのお偉いさんが、とても喜んでいたよ。また、ネタ頼むよ」
それから、5度も澤田さんにネタを横流しにしたが、一銭にもならかった。
彼は結局、競馬依存症でサラ金に500万円余の借金を残して首をつり死ね。
「兄のこと、許してください」妹さんの治子さんに詫びられた。
両親はすでに亡くなっていて、姉妹3人、親戚5人だけの寂しいん葬儀であった。
治子さんの腰に一度、偶然のように手が触れたら、彼女は電気でも通電したように後方に50㎝ほど跳んだ。
あの異常なまでの体感の敏感さは何であったのだろうか?
28歳の当方は想ってみた。
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アルバイトのバトンタッチ

2018年08月23日 23時23分01秒 | 創作欄
仕事で地方へ主張する機会が多かった。
大阪へはある時期、毎月のように行く。
医薬品現金卸の市場調査のためであった。
もう、友人の奈良岡仁も亡くなっているので時効、そのまま記す。
この仕事は、奈良岡がはじめは引き受け、その後、当方がバトンタッチした。
「大阪まで、毎月行くのは大変だろう」と東京の医薬現金卸のトップが言う。
「新幹線代もかかります」
「そうだろう。わたしが大阪の卸仲間にデータを送ってもらうようにしてやるよ」と思わぬ方向となる。
調査の依頼主からは年間、100万円の調査費をいただいていた。
依頼主も今は亡くなっているので、記すが元大手新聞記者で、出版業者であり、中央競馬の馬主でもった。
日本薬業新聞社は、大阪が本社なので支社の人間が大阪の平野町界隈をウロチョロしていたら、まずかったのだ。
本社の誰かと出会ったら、「お前、大阪で何をしておるんや?」ととがめれるのは目に見えていた。
実は全国自治体病院協議会の傘下病院は、正規の医薬品の販売ルートの他、東京の神田や大阪平野町の現金卸の販売ルートからも医薬品を納入していた。
当然、医薬品製造メーカーは「闇の販売ルート」に目を光らせていた。
医薬品の販売価格が値崩れすれば、2年に1回の薬価調査にも影響を及ぼす。
医薬品製造メーカーにとって、売上げに影響を及ぼす億円単位の問題でもある。
ある大手メーカーが奈良岡に接触してきた。
「当社の売れ筋の医薬品の現金卸価格を、何とか高くしてもらえないでしょうか。これはわが社の上層部の意向なのです」
確かに、一部上場企業として当然の申し入れであった。
調査の依頼主からは年間、120万円の調査費をいただいている。
「依頼主を裏切るのは、どうだろか?」と当方は腰が引けた。
「一度、相手先に会ってから、決論を出せばいいのでは」と奈良岡は言う。
彼からバトンタッチした調査であったので、奈良岡の顔も立てて、銀座のクラブで会うこととなる。
27歳の当方が初めて、銀座の高給クラブに接待されたのだ。
相手は、大阪の本社からやってきた常務取締役と営業本部長であった。
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輪子の競輪日記

2018年08月23日 07時34分23秒 | 創作欄
輪子は、競輪好きだった父親の本棚にあった阿佐田哲也の「ジャンブル人生論」を読んだことがある。
「地方の競輪場で東京の知人に出会うと相擁したいような気持になる」と記されていた。
取手競輪場でしばらく姿を見かけなくなっていた玉恵さんと、何と新潟の弥彦競輪場で偶然、出会ったのである。
「玉恵さんなぜ、新潟へ?」と輪子は驚いて聞く。
「母が新潟生まれで、母の墓へ行ってきたの」
玉恵の母親の博子は、取手市内で当時、一番と言ってよいほどの人気のスナック「セブン」のママであった。
それなのに、「セブン」は突然、閉店された。
「どうしたん」
「何があったんだ」
常連客たちは疑心暗鬼となった。
セブンがあったビルには4店のスナックがあったが、次々に閉店していく。
最後に閉店したのが「セブン」だった。
色々と憶測を呼んだが、真相は分かっていない。
新潟県内の実家に戻った「セブン」のママ洋子は、新潟市内にスナック「エイト」を開店した。
これは20年以上前のことだ。
玉恵は母親と離婚した父親と取手で生活を共にしていた。
「母のことは、良く知らなうけど。父も何も話さないの」玉恵は寂しげな表情を浮かべた。
「輪子さんは、なぜ、新潟へ?」
「難病看護学会学術集会」が新潟で開かれていたので、ついでに競輪。
でも、輪子はそれがはばかれて、「夏季休暇で来たの」とウソをつく。
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創作欄 徹の青春 8

2018年08月15日 10時46分40秒 | 創作欄
2012年3 月14日 (水曜日)

「おぎょん」と呼ばれている沼田の祇園祭は、徹と加奈子に大きな黒い影を落とした。
お囃子が聞こえてくると胸が深く痛んだ。
あの日の夜、「2人が熱くなっている。お兄ちゃん私、消えてやろうか?」
徹と加奈子に何か気配を察したのだろうか、君江が悪戯っぽく笑みを浮かべて突然言う。
「この金魚、死んでは困るから、私、先に家へ帰る」と金魚すくいで捕った金魚2匹が入ったにニール袋を2人の目の前に掲げた。
「気をつけて帰りな」
徹の心配は口先だけで、内心ほくそ笑んでいた。
君江は浴衣姿の裾を肌蹴るようにして、駆け出していく。
「1人で帰って、大丈夫かしら?」
加奈子は人影に隠れて行く君江の行方を危惧していた。
「大丈夫さ、人が一杯居るじゃないか」
徹は大胆になって加奈子の腰に手を回していた。
祭は徹の血をたぎらせていた。
浴衣姿の加奈子は16歳であったが、思いのほか豊かな腰をしていた。
「私、嫌な予感がするの。私たちも帰りましょう」
加奈子は徹の手を押しのけるようにした。
御輿の還御を待って繰り広げられる最後の夜の各町の「まんどう」の優雅に奏でるお沼田祇園囃子の競演が見ものであった。
徹が住む材木町の山車、加奈子が住む上之町の山車、原新町の山車、下之町の山車、西倉内町の山車、東倉内町の山車、清水町山車、馬喰町の山車、鍛冶町の山車などが集合してきた。
午後10時から須賀神社境内で行われるみこしと祭囃子の競演では、人の波と熱気につつまれ、祭は最高潮に達する。
「まんどうの祭り囃子の競演を少し見てから帰ろうか?」
徹は懇願するように、加奈子の手を握り締めた。
「それなら、少しだけね」
加奈子は念を入れるように徹の手を握り返した。
「徹さんの手熱い。熱でもあるようね」
加奈子は徹の顔に目を注いだ。
徹は加奈子のきらきら輝くような瞳を見つめて、「この子と結婚することになるのだろうな」と想ってた。
それは予感のようなものであった。
徹の従姉の香苗は中学校を卒業し、15歳で川場村の親戚の農家に嫁いだ。
相手の勝雄は20歳で、父が戦死していたので、沼田農業高校を卒業して農家を継いでいた。
徹は母の実家が川場村にあるので、子どものころから勝雄を知っていた。
勝雄の家系は、美男美女を輩出しており近隣でも知られていた。
顔立ちに気品もあった。
蔵が4つもある村では一番の資産家であったが、農地解放で多くの田畑、山林などを失っていた。
徹の父、加奈子の父も戦死していたので、勝雄の存在は気になっていた。
従姉の香苗は16歳で男の子を産んだ。
加奈子の年で母親になったのだ。
香苗のことを思うと加奈子と徹が結婚しても不思議ではない。
だが、運命の悪戯で徹と加奈子に別れがやってきた。
あの夜、先に帰ったはずの君江は帰宅していなかった。
徹の母は川場村の実家へ帰っていた。
義父は農協の旅行で新潟県の湯沢温泉に行っていた。
両親が家に居なかったので、徹の気持ちは解放された気分になっていたので、加奈子を自宅に誘ったのである。
だが家の電灯は1つも灯っていなかった。
「私、胸騒ぎがする。警察に届けましょう」
加奈子は悪い想念を払うようにポニーテールの頭を振って、両手で豊かな胸を押さえた。
「イヤ、君江は友だちに出会っているんじゃないか?」
徹は最悪な事態など少しも考えずに楽観していた。
「徹さん!心配じゃないの! 私、交番へ行く」
加奈子は下駄音を高鳴らせて駆け出して行った。
「加奈子の取り越し苦労だ」
徹は縁側にしゃがみ込み、苦笑を浮かべながら月空を仰いでいた。

2012年3 月15日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 9
検事調書によると、藤沢勝海は昭和11年、東京・大田区蒲田に生まれた。
父は中国の満州へ軍属として行っていたが、行方不明となった。
多分、戦死したのであろうが、確かなことは分かっていない。
昭和20年、戦争が本土空襲に及んだことから日本政府は「縁故者への疎開」を奨励したが、学校毎の集団疎開(学校疎開)も多く行われた。
勝海たちは山梨県の甲府へ学校疎開した。
1945年(昭和20年)3月10日に行われた大空襲で、母との兄、弟、妹3人のを失った。
終戦後、国民学校の先生の配慮で、勝海は母の妹一家に育てられ孤児にならずにすんだ。
だが、群馬県の北部月夜野の学校ではイジメにあった。
孤独な勝海は1人で何時も川で遊んでいた。
北には遠く谷川連峰が見えており、魅せられるように仰ぎ見ていた。
近くには大峰山、三峯山が迫るように見えており、何時か登りたいと思っていた。
そして月夜野は清流である利根川と赤谷川の合流に囲まれた山紫水明の地であった。
きれいな澄んだ水と緑が濃い森林に勝海は心を和ませられていた。
学校疎開で住んだ山梨県の甲府とは違った趣が月夜野にはあった。
作家・石原慎太郎の短編小説『太陽の季節』が芥川賞を受賞し話題となり、この小説をもとに、1956年に映画化され人気を博した。
さらに石原慎太郎原作の『処刑の部屋』(1956年)、『狂った果実』(1956年)が公開され、「太陽族映画」と称していた。
勝海はそれらの映画を観て強い衝撃を受けた。
事実、この時代の背景として「太陽族映画」を観て影響を受けたとして、青少年が強姦や暴行、不純異性行為など様々な事件を起こし社会問題化した。
中学を卒業した勝海は、大工となっていた。
そして、仕事が休みの日は、太陽族のような派手な服装をして沼田の繁華街をうろうろしていた。
「女なんかな、顔を二発、三発は叩いてから、やるもんだ。女はな、初めは抵抗するさ。でもな、女だって気持いいこと知っているから、すぐに抵抗しなくなる。中にはな、ヨガってしがみついて、俺の体を離さない女もいるぜ」
勝海は遊び仲間に自慢気に強姦を吹聴していた。
勝海は強姦されたことを警察に訴える女性が1人もいなかったので、すでに8人の女性たちを強姦してきた。
何時も単独で犯行を重ねてきていた。
おぎょんの日、15歳の君江は勝海たちの不良仲間3人に強姦されたのだ。
君江は男たちに犯されながら、母が熱心にしていた宗教の題目を涙声で唱えていた。
その声は初めは男たちには聞こえていなかった。
だが、男の1人が気づいたのである。
「こいつ、何か唱えていやがる、成仏させれやるか」
男の1人が君江を犯しながら首を絞めたのである。
「ああ、殺されるんだな」
やせ細り非力な君江は抵抗を諦め、覚悟を決め題目を唱えた。
だが、男は突然、激しい腹痛に苦しみだしたのである。
急性虫垂炎であった。
「殺すことないよ!」と17歳の少年が背後で男を制した。
君江の首を絞めた男は19歳であった。

2012年3 月15日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 10
「友だちの妹が、おぎょんから先に帰ったのに、家に居ないんです。
探してください」
加奈子は肩で息をしながら、交番の前に立つ40代と思われる警官に訴えた。
「友だちの妹、いくつだ?」
「15歳です。中学3年生です。何かがあったのかもしれません」
「15歳だな。遊び盛りだ。まだ、おぎょんは終わっていない。どこかで祭を見物しているんだろう」
「とても心配でなりません。探してください」
警官は威圧するように鋭い目を加奈子に注いだ。
「まだ、事件が起こったわけではないんだろう。探せだとふざけるな!」
警官は左手で帽子のつばを押さえ、右手で警棒を握りながら、胸を突き出し仁王立ちのようになると、左手で加奈子を追い払うような仕草をした。
「こうなったら、徹さんと二人で君江さんを探すほかない」
加奈子は踵を返して、駆け出して行く。
胸騒ぎが高まるなかで、涙が込み上げてきた。
だが、信じがかいことに、徹はそ知らぬ顔をして居間で萩原朔太郎の詩集を読んでいた。
「徹さんは、心配ではないの。きっと、君江さんに何かがあったのよ。探しに行きましょう」
やれやれという表情を浮かべると徹は、さも面倒くさそうに詩集を閉じた。
「この人を何故、恋したのだろう?」
加奈子は、無神経な徹の態度に呆れ返った。
そして、いっぺんに恋心が覚めてゆくのを感じはめていた。
17歳の徹はまったく新聞を読んでいない。
いわゆる新聞の3面記事を読んだ記憶がなかったのだ。
読むのは詩や短歌、俳句、小説であり、世間の動きにはまったく疎かった。
ある意味で純粋でもあるが、厳密に言えば無知蒙昧である。
徹は強姦という犯罪があることすら知らなかった。
彼が読んでいた文字のなかに、強姦という文字は一度も出てこなかったのである。

2012年3 月16日 (金曜日)
創作欄 徹の青春 11
藤沢勝海は昭和11年生まれであるので、君江を強姦した時は24歳だった。
検事調書によると、最初に強姦をしたのは16歳の時であったが、14歳の被害者は警察に届けていない。
性癖としては、幼児に興味をもっており、小学校の6年生の時には5歳の女の子を赤谷川に連れて行き性器に小石を詰める悪戯をしている。
また、幼児の男の子の性器を扱いてみたりしていた。
学校でイジメにあっていたため、同年代の子どもたちとはほとんど遊んでいない。
何故か義母は勝海を実の子ども以上に溺愛していてた。
義母は勝海が学校でイジメにあっていることを知ってから不憫に思い、度々担任教師に訴えていたが、「その事実が把握できない」と取り合ってもらえなかった。
中学1年生の時に、義母と義父が性行為をしているを目撃してから、自慰を繰り返すようになる。
中学を卒業すると、月夜野の家を出て建築業を営んでいた沼田の義父の家へ住み込み大工見習いとなった。
そして翌年、14歳の中学生学の女の子を麦畑へ連れ込み最初の強姦をしたのである。
勝海は君江を強姦した翌月も17歳の女子高生を強姦している。
「お前の顔は確り、覚えておくからな。警察に届けたら殺すぞ。分かったな!」
強姦に及んだ後の勝海の常套文句であった。
だが、その女子高生が警察に被害を届けたことから勝海は連続強姦犯として逮捕されのだ。
勝海を溺愛していた義母は、マスコミの取材攻勢に堪えられなくなり、勝海が逮捕された2週間後に農薬を飲んで自殺してしまった。
徹はそれまで新聞をまったく読まなかったが、早朝に新聞が届くと食い入るように読んでいた。
徹は犯罪者である藤沢勝海を殺してやりたいくらい激しく憎んだが、一方ではどのような人間であるのかと興味をもった。
検事調書によると君江は勝海に3回犯され、19歳の男に2回、17歳の少年にも2回犯されていた。
強姦された場所は自宅に近い寺の墓地の中だった。
君江を探しあぐねていた徹と加奈子は午前4時ころ、寺の墓地に倒れていた君江の泣き声に気づいたのである。
それまで沼田公園や学校の校庭、近隣の林、桑畑や麦畑などを探し回っていた。
「私、死にたい」
うつ伏せになって、君江は慟哭していた。
「誰にやられたんだ!」」
状況が初めて飲み込めて、徹は怒り狂った。
それは自分に対する怒りでもあった。
「俺は、甘かったんだ!」
徹は怒りを爆発させて拳骨で墓石を叩いた。
さらに、墓石を蹴りつけた。
「ダメ、墓石に当たって、どうするの」
加奈子が制止したが、徹の怒りは収まらない。
加奈子は裸同然の君江を抱き起こして、浴衣を整えていた。
「私たちが悪かったのね。可哀想なことをさせてしまった」
加奈子は君江を抱きしめて泣き出した。
その嗚咽は徹の耳に深く記憶をとどめた。
君江も加奈子の胸に顔を埋めて泣き続けていた。

2012年3 月17日 (土曜日)
創作欄 徹の青春 12
徹が17歳の時に、浅沼稲次郎暗殺事件(1960年10月12日)が起きた。
東京都千代田区にある日比谷公会堂で、演説中の日本社会党委員長・浅沼稲次郎が、17歳の右翼少年・山口二矢に暗殺されたテロ事件である。
徹は妹の君江を強姦した男たちに制裁を加えるために群馬県沼田の街中を探し回っていた。
家の古い桐箪笥の中に、江戸時代から伝わる脇差や小柄が収められていた。
脇差は、刃長 一尺八寸二分五厘(55・3㎝)である。
小柄は刃長11・5cmだった。
それを剣道の竹刀袋に納めて徹は沼田の街中を歩き回っていた。
徹は君江の強姦事件を契機に高校を中退してしまった。
父親は怒り、「家を出ていけ!」と怒り、徹を何度も殴りつけた。
徹はその痛みを3人の男たちへの報復の導火線とした。
「徹さん、怖い目をしている。嫌い!」
徹は常軌を逸して、血走った異様な形相をしていた。
加奈子は徹からやがて離れていく。
そのような時期に、浅沼稲次郎暗殺事件が起きた。
しかも、右翼少年・山口二矢は奇しくも徹と同じ17歳であった。
社会の世情に疎く、考え方が甘かった自分への憤りも日々つのってきた。
「兄貴として、15歳の君江の身を守ってやれなかった。俺が悪かった。おれはダメな人間なんだ。一生この十字架を俺は背負っていく」
徹は悔やんでも悔やみきれないかった。
君江は、「私が強姦されたことを警察に訴えたら、私は死ぬからね」と泣いて訴えた。
加奈子は風呂を沸かして、3人の男たちによって蹂躙され君江の体を丁寧に洗ってやった。、
実の姉のよに優しい気持ちを込めて洗ってやった。
「私たちが、悪かったの。許してとは言えないけれど。死ぬことだけは思いとどまってね。君江さんが死んだら、私も後を追って死ぬ。本当よ。いいわね」
加奈子は3人の男の精液で汚された君江の膣を念入りに洗浄してやった。
「妊娠するかもしれない」
加奈子は産婦人科へ連れて行こうとしたが、君江はそれを頑なに拒絶した。
あの日(8月5日)外出していた父にも母にも君江が強姦されたことは知らせることが出来なかった。
君江を溺愛していた父親は当然、愛娘が強姦の被害を受けたことを警察に届けるだろう。
その結果、君江は自ら命を絶つかもしれない。
徹は頭が混乱して、頭を掻きむしった。

2012年3 月18日 (日曜日)
創作欄 徹の青春 13
稲穂が豊かに実る田圃の先にはテーブル状の珍しい山容の三峰山が見えていた。
右には戸神山の尖った山容が望まれた。
市街地の田圃では秋の深まりの中で稲刈りが始まっていた。
沼田城址のシンボルである「御殿桜」は樹高約17㍍の巨木であり、紅葉していた。
春には200余の桜が市民の目を楽しませていた。
4月の上旬に御殿桜は満開となり、ソメイヨシノは4月中旬満開となる。
どれも大きな桜である。
徹は加奈子と夜桜見物に来たことを思い出していた。
そして徹から離れていった加奈子への未練が断ちがたく、紅葉した桜を見あげて涙ぐんだ。
徹は高校を中退してまで、妹の君江を強姦した男たちを探し回っていた。
「何処かで出会うはずだ」
沼田公園の突端の約70㍍もの崖から真下に清流の薄根川が青い水を湛えて流れていた。
小学生の頃、徹は従兄弟たちと夏にはその川で泳いだり、魚釣りをして遊んでいた。
薄根川の木橋を渡ると町田町の観音堂への道に至る。
その観音堂の裏で藤沢勝海は、17歳の女子高生を強姦した。
だが勝海の悪運が尽きる日が来た。
君江を強姦した3人の1人の17歳の少年が、「自慢げに強姦は面白い」と遊び仲間に吹聴したのである。
「やってみるか?」と少年が誘うと2人が興味を示して応じた。
彼らはたまたま通りかかった小学生6年生の女の子に声をかけた。
大柄な子どもであり、胸も膨らんでいたので、中学生に見えたのである。
3人は強引に女の子の体を押さえつけて、桑畑にを引きずり込んだのであるが、女の子は恐怖心から金切り声を発して助けを求めた。
16歳の少年の1人が慌て女の子の口を封じたが、偶然、道を自転車で通りりかかった2人の警察官の耳に届いていた。
2人は逃げたが、君江を強姦した17歳の少年が逃げ遅れて取り捕らえられ、強姦未遂で現行犯逮捕された。
そして少年の自供で藤沢勝海も逮捕された。
徹が男たちに報復を加える前であった。
徹は毎日、男たちを探し回っていたが、その日は徹が通っていた高校の国語の教師の佐田稲次郎に路で出会った。
「徹から少し話を聞きたい。いいな」
佐田は徹を喫茶店へ誘った。
徹はコーヒーが飲めないのミルクにした。
佐田はコーヒーを美味しそうに飲んだ。
「徹はコーヒーが苦手か?」
徹が黙って肯くと佐田は微笑みを浮かべた。
徹は喫茶店へ入ったのは初めてであったので店内を見回した。
レジの傍にはジュークボックスが置かれていた。
レジ係りとウエイトレスを兼ねている若い女性は、赤く髪を染め厚い化粧をしていた。
壁にはルノアール画・イレーヌ・カーンダンベルス嬢の肖像の複製画が飾られていた。
徹はポニーテールの加奈子の横顔をそれの絵に重ね見た。
「徹にどのような事情があったかは聞かないが、学校を途中で辞めるのは惜しいな。徹には徹でなければ、果たせない使命があるはずだ」
「使命?」
徹は胸の中で、報復が使命なのかと思ってみた。
「自分を大切にすることだ。惜しい。もったいない。できれば、徹には大学へ行ってもらいたいんだ」
佐田は高校の教師のなかで、徹にとって一番好感が持てる教師であった。
大学を出て2年目の新米教師であるが、生徒への接し方に熱いものが感じられたのである。
「人に会う約束があるんで、今日は時間がない。今度、会った時はじっくり語りあいたい。徹には良いものがある。立ち直るんだ。いいね」
佐田が握手を求めてきた。
柔らかい温かい手の感触が徹の手に伝わってきた。

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創作欄 芳子の青春 11

2018年08月14日 09時11分37秒 | 創作欄
2012年6 月16日 (土曜日)

人生の途次、どのような『色』に染まるかである。
人間は縁など様々ものに影響を受ける存在。
まさに君子危うきに近寄らず
君子危うきに近寄らずとは、学識、教養があり徳がある者は、自分の行動を慎むものだから、危険なところには近づかないということ。
故事ことわざ 格言 座右の銘などは生きる知恵ともなる。
行動の規範でもある。
人の出会いも検証される必要がある。
例えば、夫、愛人、恋人が麻薬常習者であったなら。
あるいは、アルコールやギャンブル依存であったならば、生活は破綻するだろう。
その上、男の理不尽な暴力を伴えば2重苦、3重苦の生活に陥る。
破滅的な人生は、破滅的な人間だけの個人の問題には留まらない。
周囲の人間をも巻き込んでしまうものだ。
芳子の人生の狂いもそのような道を辿って行く。
警察に逮捕された芳子は窃盗罪を、警察官の誘導尋問で認めさせてしまった。
警察が取調べの段階で暴力を振るうこともあるこが、とても信じられなかった。
警察に対する不信感は検察に対する不信感のみならず、裁判所に対する不信感にまで連鎖していく。
「裁判官なら、分かってくれるはず」
芳子は最後の望みを裁判に託していた。
だが、有罪の判決が下ったのだ。
「世の中に『正義』などあるのだろうか?」
芳子は15万円が自分の金だと主張したが、信じてもらえなかった。
芳子が中学を卒業して、定時制高校を卒業するまで働いて貯めた金であった。
それを芳子が働いていた群馬県沼田の郵便局に確認すれば明らかになることであった。
警察は、予断からその確認を怠っていた。
芳子は絶望するとともに、理不尽さを呪った。
初犯であれば執行猶予も付くが、犯行を認めない態度が裏目に出た。
反省しない人間を懲らしめる必要があったのだ。

2012年5 月25日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 10
芳子は警察の取調室で小学校5年生の出来事を突然、脳裏に浮かべた。
芳子は女子生徒の中ではトップの成績であった。
男子生徒の成績トップは片岡勝雄君であり、運動会ではリレーの選手のアンカーを務めて運動会の花型。
貴公子然とした顔立ちで、芳子は密かに憧れを抱いていた。
その片岡の財布がランドセルの中から盗まれたので、教室は騒ぎとなった。
昼休みの時間帯、多くの生徒は校庭で遊んでいて、教室に残っていたのは数人だった。
片岡君は芳子と視線を合わせた瞬間、何を想ったのか芳子の座席の前に足早にやってきた。
「芳子、鞄の中を見させてもらうよ」
芳子はその強引な態度に唖然として言葉を失った。
そして、片岡君に対する憧れの気持ちがいっぺんに萎えていくのを覚えた。
「ひぇー!ぼろっちい、鞄!」
鞄は近所の人から芳子の母親が貰い受けた古い鞄であり、内側にはかなりの綻びがあった。
「片岡君は、こんな男の子だったのだ」
芳子は屈辱に堪えた。
「オイ! 芳子、何を考えているのだ!」
刑事は机を平手でバシッと叩いた。
脇に立っている若い警官は、冷笑を浮かべていた。
「15万円は、お前が盗んだのだろう」
「いいえ、私のお金です」
「 オイ、コラ、ふざけるな素直に白状しろよ。煩わすな!」
芳子は刑事から机越しに足の脛を蹴られた。
「お前、いい女だな」若い警官は、脇から芳子の顔を覗き込むようにして繁々と見た。
「余計なこと言うな!」
年配の刑事は若い警官を叱りつけた。
警察署では、「何でもありかもしれない」芳子は警察不信に陥った。
昭和36年、まだ戦前の警察権力の残滓が残っているように思われた。

2012年5 月24日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 9
人生の途上、何が起こるか分からない。
考え方によっては、それは定めかもしれない。
自分の命は今日、一日かもしれない。
幸運もあれば、悲運もあるのが人生。
芳子は眠れぬ夜、自分は何処へ向かうのかを想った。
東京教育大学の教授である大野源太郎家でのお手伝いの仕事は単調に流れていた。
隣の部屋では、源太郎の娘の江梨子が眠っていた。
江梨子は高校の受験勉強をしている。
時々、廊下を隔てて、襖の向かい側から寝ごとが聞こえてきた。
楽しい夢でも見ているのだろう、クスクスと笑い声も聞こえてきた。
自分も同じように寝ごとを言うのだろうか?
寝ごとなど他人には聞かれたくないと芳子は思いながら、布団を引き寄せ顔を覆った。
芳子が渋谷の料理教室に通った日、大野源太郎家に空き巣が入った。
盗られたのは、源太郎の妻伸江の部屋の桐の箪笥に仕舞われていた15万円だった。
昭和36年の15万円は、現在の10倍くらいの価値がある。
警察官が4人来て、他に盗まれたものはないかを綿密に確認した。
不思議と盗まれたものは、現金15万円のみであった。
念のためにと、芳子の部屋も捜索された。
芳子は自分に嫌疑がかけられるはずはないと思いながら、捜索に立ち会った。
そして、芳子の部屋から15万円が出てきたのだ。
その現金は、芳子が中学を卒業してから群馬県の沼田の郵便局で働いて貯めた金だった。
だが、芳子の主張は受け入れられず、その場で窃盗容疑で逮捕されてしまったのだ。
「裏切られた」と病院の小児医師である伸江は怒りを露わにした。
弁解がまるで通用しない状態に陥った。
芳子は手錠をかけられ、白と黒のパトロールカーで警察署に連行された。
警察までの間、道行く人たちが、警官に挟まれて後部座席に座る芳子に好奇の視線を注いだ。
信号でパトカーが停車すると、路上から車内を覗き込む人もいた。
その屈辱に芳子は、地獄に突き落とされる思いがした。
2012年4 月27日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 8
江梨子の部屋から、「川は流れる」が聞こえてきた。
歌っているのは沖縄出身の歌手・仲宗根美樹である。
その歌を聞きながら芳子は沼田の利根川の流れを想った。
病葉(わくらば)という表現がとても斬新に聞こえた。
病葉は病気や虫のために変色した葉。
特に、夏の青葉の中にまじって、赤や黄色に色づいている葉である。
わくら葉のしんぼうづよくはなかりけり  小林一茶
病葉や大地に何の病ある 高浜虚子

「川は流れる」
病葉を 今日も浮かべて
街の谷 川は流れる
ささやかな 望み破れて
哀しみに 染まる瞳に
たそがれの 水のまぶしさ

江梨子は繰り返し聞いていた。
錆ついた 夢の数々
ある人は 心冷たく
ある人は 好きで別れて
人の世の 塵にまみれて
なお生きる 水をみつめて
嘆くまい 明日は明るく

芳子の耳に歌詞は浸み込むようであった。
「芳子さん 『川は流れる』はいい歌でしょ。この間、お友だちと新宿のライブハウスのアシベで聞いたの。そしたら突然、お店が停電になってマイクが使えなくなったのに、仲宗根美樹がそのまま歌ったの。
ロウソクの灯りが燈されてね。素敵だったな」
芳子の部屋へやってきた江梨子は瞳をうっとりさせた。
思春期の少女の心情を揺り動かす調べであった。
「江梨子さんは、恋をしているの?」
「恋? あれは恋といえたのかな」
江梨子は肩をすくめた。
そして性の体験を躊躇うことなく話した。
「あれは、痛いだけで、ちっともよくなかった」
14歳の江梨子は、まさに都会の少女であった。
当時の世相としては、青少年愚連隊が横行し、犯罪を重ねていた。
また、東京の浅草、上野など、東京下町をうろつく少年少女の間に、睡眠薬を飲んで酔っぱらう遊びが流行した。
昭和35年の夏あたりからはやりだしたもので、睡眠薬を飲むとファッとした気分になり、少年少女たちを虜にしていた。
なかには薬の量を競争し、たくさん飲んだのを自慢しあったりもした。
浅草では倒れ、2日間も意識不明だった少女(15)は、自殺をはかったと思われていたが実は、睡眠薬遊びで薬を飲みすぎたものとわかった。
 ふつうコーヒーで2錠ほど飲むと、酒に酔ったのとまったく同じ気分になった。
10錠、20錠と飲むと目がドロッとして、ろれつが回らなくなり、フラフラする。
この状態を「らりっている」と呼ぶ新語まで生れた。
裕福な家庭の少年、少女までが放任主義から不良行為に走っていた。
芳子は21歳であり、世代間の大きな落差を感じていた。

2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 7
今日、女性が働きながら子育てをすることが一般的になってきたが、昭和36年のころはまだ少数派であった。
芳子は、小児科医として病院で働いている大野夫人の伸江のような女性の生き方を目指したいと思いはじめていた。
また、東京教育大学の教授である大野源太郎の教養の幅広さに感嘆していた。
書斎の掃除をしながら、洋書を含めて多くの蔵書に目を奪われた。
旧制の高等学校の学生たちは戦前社会のエリート層である。
旧制高等学校は、社会のエリート揺籃の場として機能したとされる。
教養主義的な伝統のなかで、道徳、倫理学、歴史学、地理学、哲学、心理学、論理学、哲学概論、経済学、法制学、数学、自然科学、などを学んできた。
また、語学は国語漢文、英語、独語も学んだ。
文学的教養も身につけており、議論好きなエリート集団であった。
なお、大野源太郎の父親は、帝国大学医学部を出た医師で宮内庁病院に勤めていたが、昭和19年に亡くなっている。
大野夫人の部屋には、大野源太郎の父が遺した医学専門書があった。
大野家の息子は二人で、24歳の長男の信一は大学の経済学部を卒業し、東京・大手町の銀行に勤務していた。
また、次男の隆司は大学法学部の3年生で司法試験を目指し勉強をしていた。
芳子は息子たちとはほとんど会話を交わしたことがなかった。
息子たちの部屋の掃除をしていると、常に息子たちは黙って部屋を出て行った。
そして、娘の江利子は芳子の隣の部屋に居たので、自分の方から部屋へ入ってきた。
「芳子さん、部屋に入っていい?」
廊下か襖越し声をかける。
「どうぞ」と芳子は向かえ入れた。
「芳子さんは学校の勉強ができたそうね。お父さんから聞いたわ」
江利子は畳の上の座布団にきちんと座って、「勉強教えてください」と言う。
「私がですか? 私にはお嬢さんを教えるほどの学力がありません」
芳子は正直な気持ちを吐露した。
「だめなのね? 残念だな」
江利子は無理強いしないので、あっさりした性格のようであった。
江利子はしばらく黙っていたが、何を思ったのか真剣な顔で言った。
「芳子さん、性生活の知恵 読んだ?」
1960年(昭和35年)に「性生活の知恵」は発刊されると本の題名も影響したのだろう大ベストセラーになった。
だが、男から強姦されことがある芳子には、見向きもしたくない本である。
性生活についての話題が開放的ではなかった時代、この「性生活の知恵」という本は核家族になりがちだった都会の夫婦にとって性生活について指南してくれるありがたい指南書の役割を果たしていたようだ。
内容は、著者が医師であったこともあり、いたってまじめなものであった。

2012年4 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 6
<徹の手紙>
芳子さんの先日の手紙を読み、図書館で東條英機について調べてみました。
東條英機は、天皇陛下の信任がとれも篤かった人物のようでした。
天皇陛下はアメリカとの戦争を何とか回避しようとしていたので、東條英機もその意に沿うように考えていたのですが、その流れを止められなかった。
僕も芳子さんも父親を戦争で亡くして、戦争を遂行した人たちには、良い感情を抱いていませんね。
でも、戦争責任は、軍隊の偉い人たちや政治家たちだけの責任なのかどうか、よくわからない。
新聞社や文化人とされた人たちや小説家だって戦争に協力していますよね。
歌人の斎藤茂吉だってその1人ですよね。
芳子さんが偶然、東條英機の奥さんを見かけたことを手紙に書いたので驚きました。
僕にとってそれが大きな刺激となり、図書館で色々調べてみました。
東京へ行くことがあったら、東條山へ是非行ってみたいです。
それから、芳子さんが住んでいる用賀から多摩川方面へ行くと、岡本太郎のお母さんの岡本かな子の生家があるようです。
追伸
芳子さんは、東京・渋谷の料理学校へ通っているそうですね。
ですが、芳子さん沼田一番の美人ですから、「誘惑」されないかと心配です。

<芳子の手紙>
徹さん、私は美人ですか?
母は「女は美しいことが器量じゃないよ。女は心が大切だよ」と言ってました。
先日、用賀から桜丘方面へ、犬の散歩へ行っていた時に、テレビ映画の撮影をしていました。
私はテレビ局の人に呼びとめられ、「エキストラになってほしい」と突然言われたのです。
私は断ったのですが、名刺を渡されて「局に是非訪ねて来てほしい」と言われました。
それから、料理学校の校長がフランスから戻ってきたのですが、テレビの料理番組を依頼されていて、私をアシスタント使いたいと言っています。
断っているのですが、断れ切れない感じもしています。
徹さん私はどうしたらいいの?
芳子
2012年4 月19日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 5
岩戸景気は、1958年(昭和33年)7月~1961年(昭和36年)12月まで42か月間続いた高度経済成長時代の好景気である。
岩戸景気では、三種の神器は洗濯機・冷蔵庫・掃除機であった。
戦後の食糧難は続くものの、ようやく復興の兆しが見え始めていた。
昭和33年(1958)に、厚生省による国民栄養調査で4人に1人は栄養欠陥であると発表、昭和30年代の課題は「日本人の体位向上」とも言われた。
この年には栄養士と調理師の資格が制定された。
また、テレビに料理番組が登場し、色々なレシピ、材料、調味料をそろえたセットの数々が大評判となった。
欧米の料理も紹介され、テレビを見る日本の主婦たちの、ちょっとした「夢」であり、「あこがれ」を反映した番組となった。
「こんな料理をつくってみたい」「こんなめずらしい食材があるのか」「聞いたことのない料理だわ」。
主婦たちはそんなことを思いながら番組やテキストをじっと見ていたのである。

幸い35年はお米が空前の大豊作で、戦後、ようやく"腹いっぱい"お米が食べられるようになる。
それまでは、白米に麦が混ざっていた。
あるいはご飯に雑穀類を混ぜて炊きそれを食べていた。
すでに自動電気炊飯器が発売されていて、米の豊作を機に段々と普及していく。
「芳子さん、料理学校へ行きなさい。お金の心配はいりませんから」
ある夜、台所で芳子が米をといでいる時、大野夫人の伸江から言われた。
「私は病院の小児医師としてこれまで歩んできて、3人の子育てもしてきたのよ。毎日が診療に追うわれるばかりの生活のなかで、お料理を学ぶ機会がなかったのよ。ですから芳子さんお願いね」
伸江は両手を合わせるような仕草をした。
「奥様分かりました。私でよければ料理学校へ行かせていただきます」
料理を習わしていただけるのだから、ありがたいことだった。
芳子は率直な気持ちで伸江の申し出に応じた。
結局、芳子は用賀から渋谷の料理学校へ通学することとなった。
1週間に1回6か月の家庭コースであった。
芳子は基礎から学ぶことができた。
ごはんの炊き方、汁だしの取り方。
味噌汁、とろろ昆布汁、野菜の切り方、魚のおろし方。
魚の照り焼き、鯵フライ、かれいの唐揚げ、いわしの香煮。
じゃがいもコロッケ、サラダ、 肉じゃが、豚汁、オムレツ、天丼、かつ丼、春キャベツの香り漬け、いり豆腐、れんこんつみれ汁、筑前煮、 ドーナッツなど。
それらが、大野邸の食卓に並び、家族たちを喜ばせた。
2012年4 月18日 (水曜日)
創作欄 芳子の青春 4
芳子は、就職先を世話してくれた恩師の辻村玲子にも手紙を書いた。
<芳子の手紙>
辻村玲子先生、新学期を迎え如何お過ごしでしょうか?
就職先をお世話いただき、先生には感謝しても感謝しきれません。
上京し早くも10日間が経過しましたが、沼田もそろそろ桜が咲く季節になりましたね。
高校1年の時に先生と夜桜を見に行ったことが思い出されます。
先生は大学を卒業したばかりで、母校に先生として赴任されて来られたのですが、先生というより私たち学生たちには優しいお姉さんのように想われました。
先生は、生徒たちに「視野を広げなさい」と言っていましたね。
母は、「沼田市内で職を見つけなさい」と言っていたのですが、私はいずれは沼田に戻ることがあったとしても、1度は外の世界を見てからと思っていたのです。
ですから、先生からお手伝いさんのお仕事を紹介された時は、「このチャンスを絶対に逃すまい」と思ったのです。
母は、「お前にとって花嫁修業になるかしら? お手伝いの仕事もいわね」と背中を押してくれました。
先生は、「お手伝いの仕事に留まらず、自分がやりたいことを見つけなさい。自立した女性の生き方が必要な時代になります」と言われました。
私はあの時の先生の助言を肝に銘じて励みに頑張りたいと思っています。
何卒 今後ともご教示ください。
小金井芳子

芳子は手紙をポストに投函してから、犬の散歩へ行く。
神学院の木立に隣接して、西側に通称「東條山」があった。
芳子は高校の受験勉強をしているお嬢さんの江梨子から、「東條山は、戦犯の東條英機の屋敷があるところなの」と教えられた。
芳子の父は戦死している。
戦争を遂行した責任者の一人が東條英機であったことから、敵愾心も湧いてきた。
芳子はメスの柴犬のハナコを連れ、東條山へ足を踏み入れた。
その日は、日曜日で大野太郎教授宅は午前8時であったが、みんながまだ寝ていた。
普段は午前5時起きの芳子も午前7時まで寝ていた。
東條山に足を踏み入れながら、芳子は人の気配を感じていた。
木立の間を見回す。
すると大きな欅の木を背に、ロングスカートの女性が立ち、神父服を着た長身の男性が女性を抱き寄せていた。
それはまるで映画の中の光景のように映じた。
女性は上目遣いになり、身を寄せながら自ら激しく男性の唇を求めていた。
芳子は見ていけないことを見た感情となり、山を駆け下りた。
犬のハナコは思わぬ方向転換に、戸惑いながら首輪を振って抵抗するように立ちあがった。
それから3日後、芳子はハナコの散歩で再び東條山へ行った。
東條英機は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で死刑判決を受け、同年12月23日午前零時1分、東京都豊島区にあった巣鴨プリズンで絞首刑となった。
享年65歳。
昭和36年、もし東條英機が生きていれば78歳である。
芳子は好奇心から東條英機の屋敷の様子を窺った。
東條邸は何時もひっそりしていたがその日は、洗濯物を庭先で干している和服姿の人がいた。
東條英機夫人のかつ子さんであったかもしれない。
芳子は何か切ない感情が込み上げてきた。
浄土真宗の信仰が深かったとされる東條英機の未亡人かつ子さんのことを芳子は後年知った。

2012年4 月16日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 3
渋谷駅で降りた芳子は、玉電(東急玉川電車)に乗り換えた。
緑色の2両編成の小さな車体は路面をガタゴトと音を立て走っていた。
電車が坂を上り、そして下って行く光景を見て、芳子は東京の街は起伏が多い土地柄だ思った。
玉電の窓から見える光景は、意外と緑の木立も多かった。
用賀停留所に降り立った時、芳子はようやく辿りついたのだと胸をなでおろした.
東京・世田谷区用賀町は、まだ畑が多く残っており、丘の斜面では土地の造成が進んでいた。
用賀は江戸時代以前、大山街道の宿場町であり、眞福寺の門前町であった。
畑の間には小川が流れており長閑な感じがした。
芳子が働く、大学の教授宅は緑の木立に囲まれた神学院の南側にあった。
神学院の北側は桜丘であり、武蔵野台地の南端部に位置する
用賀地内には複数の湧水があり、旧品川用水の吸水の跡を源に、中町を経由し水は等々力渓谷を流れていた。
この渓谷には多量の湧水がみられ、世田谷区野毛付近で丸子川(六郷用水)と交差し、世田谷区堤で多摩川に合流する。
この日は休みであったので、大野源太郎教授宅には家族全員が居た。
大野は芳子の高校の教師であった辻村玲子の恩師である。
大野は居間に和服姿でくつろいでいて、新聞を卓に置きパイプをふかしていた。
大野は白髪頭であるが、まだ52歳であった。
「君のことは、辻村君から聞いているよ、君は数学ができるそうだね」
芳子は数学がそれほど得意でなかったので戸惑った。
お茶を運んで来た大野夫人の伸江は48歳で、病院に勤務する小児科医であった。
和服姿で割烹着を着ていた。
「あなたは、料理はどうなの」
伸江は手伝いの芳子に期待をしていたので確認をした。
芳子はお手伝いとして働くので、母には料理を習ってきたが所詮は群馬県の田舎料理である。
「何とかできると思います」
芳子は控えめに答えたが、次の日に伸江から早速、「あなたの料理はダメ、味付けが塩辛いわ」と指摘さてしまった。
芳子は前途多難だと心細くなった。
そして、その夜に徹に手紙を書いた。
<芳子の手紙>
今、東京の世田谷区用賀の仕事先の部屋でこの手紙を書いています。
私の仕事は詳しくは話さなかったけれど、お手伝いの仕事です。
旦那様は大学の先生で、奥様は病院の小児科のお医者さんです。
家族は旦那様のお母さん、息子さん2人、そして娘さん1人の家族構成です。
大きな母屋があり、私は庭の外れの離れの部屋に住んでいます。
隣の部屋には高校の受験を控えている娘さんが居ます。
私の部屋は4畳半でこじんまりしていて、気持ちが落ち着ける部屋です。
部屋の小さな机に置かれたスタンドの下でこの手紙を書いています。
庭には大きな桜の木が5本もあり、今が満開でとても綺麗です。
沼田公園の御殿桜を徹さんと観たことが、昨日のように思い出されます。
朝は日課の犬の散歩があります。
柴犬でハナコと呼ばれたメスの犬です。
朝は5時起きなの、近況は次の手紙に書きます。
徹さんのお手紙を心待ちにしています。
芳子
2012年4 月13日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 2
芳子は故郷の山々を脳裏に焼き付けるように車窓のガラスに額を当てて眺めていた。
群馬県の最北端側から見てきた山波が裏側とすれば、汽車が走行するにつれて山波は表側の姿を表していく。
子持山、十二ケ岳、小野子山、赤城山、榛名山、妙義山などであり、渋川駅を過ぎると徐々に山並みは遠去かっていった。
そして汽車が高崎駅を過ぎると関東平野が広がっていった。
岩本駅を午前7時過ぎに乗った汽車が上野駅に着いた時には、12時を回っていた。
「うえ~の~ うえ~の~ うえ~の~」
駅のホームのスピーカーから流れる独特の抑揚のついた場内放送を聞きながら、芳子は東京にやってきたことを実感した。
人波に押し流されるようにホームを歩きながら、メモ用紙を手にして乗り換えるホームを探した。
昭和30年代、上野駅周辺には家出少女を目敏く探し出し、口車に乗せて騙して何処かへ連れていく男たちがたむろしていた。
実際、そんな男たちの一人に芳子は声をかけられた。
「ねいちゃん、行くところあるのかい?」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると相手は親しみを込めて微笑んでいる。
30代か40代の年齢と思われ、黒い長シャツの胸を肌けており、細いズボンを穿き得体のしれない雰囲気を醸している。
「人と待ち合わせをしています」
芳子は毅然とした態度で言う。
「そうかい。どこから来たの」
相手はまとわり着こうとしている様子だ。
芳子は黙って足早に歩き出した。
だが、初めて来た上野駅であり、男から見抜かれていた。
「何処で、待ち合わせているんだい。案内してやるよ」
男は芳子の脇に並んで着いてくる。
「重そうなボストンバックだね。持ってやろうか」
「結構です。急ぎますから、失礼!」
芳子は走り出した。
背後で男が舌打ちをしていた。
「東京は昼間なのに油断がならない」
芳子は階段を駈け上がった。
芳子の様子見ている女性が居て、階段の中ごろで声をかけられた。
「ああいう、男たちには関わらない方がいいわ。ボストンバックを奪う男もいるんだから」
相手を見ると芳子の母親と同世代の女性であった。
芳子はホット胸をなでおろした。
「東京、初めてなのね?」
ボストンバックを下げ、地味な濃紺のスーツ姿の芳子は、如何にも都会慣れしていない様相であった。
「東京の世田谷区用賀へ行くのですが、渋谷駅は何番線でしょうか?」
芳子はメモを見ながら相手にたずねた。
「私は目黒まで行くので、方角が同じね」
女性は芳子に微笑みかけると先に立ってキビキビとした足取りで歩き出した。
芳子は高校の数学の教師の辻村玲子から就職先を世話された。
辻村玲子の大学の恩師である大学教授宅のお手伝いとして雇われたのだ。
メモ用紙には、用賀駅からの地図も記されていた。
芳子はお手伝いをしながら、看護婦(当時)を目指すことにしていた。
ところで、昭和36年当時、国鉄の初乗りは10円、私鉄は15円であった。

2012年4 月12日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 1
小金井芳子が上京する日、母と妹たちが上越線の岩本駅まで見送りに来た。
夫を戦争で亡くした母は戦後、苦労をして5人の子どもたちを育ててきた。
芳子の2人の兄は中学を出ると家を出た。
1人の兄は、戦死した父親の弟に呼ばれて神奈川県の横須賀に働きに出た。
叔父の魚屋で働いて、「将来は自分の店を持ちたい」と手紙に書いて寄こした。
もう一人の兄は、埼玉県の桶川にある精密機械の工場で働いていた。
岩本駅舎は小さく、何の変哲のない寂しい感じのする駅の佇まいだった。
この駅は昭和61年から無人駅となっている。
利根川が東側に流れていて、西側は東京電力の水力発電所になっている。
沼田市岩本町は子持山の麓の町であり、山と川に挟まれ細長く南北に広がって土地である。
南東方面は赤城山の麓につながっている。
徹とは前日、沼田城址公園で会って別れを告げていた。
徹は別れ際に、「後で読んでください」と白い封筒を芳子に手渡した。
「体に気をつけるんだよ。何か困ったことがあったら手紙に書いて送ってきてね」
母はそれだけ言うとハンカチで目頭を押さえた。
妹たちは2人は「東京に遊びに行ってもいい」と目を輝かせていた。
別れの悲しさを感じていないようであり、芳子は2人の妹を胸に抱き寄せ頭を優しく撫でた。
母は戦後、再婚したが夫は昭和27年、出稼ぎ先の群馬県高崎の建設工事現場の事故で亡くなってしまった。
母と義父の間に生まれた妹は、12歳と13歳になっていた。
蒸気汽車は故郷の駅に余韻を残すように汽笛を鳴らした。
妹たちがホームを駆けながら追ってきた。
母はホームの中ほどに立ち止まって、白いハンカチを振っていた。
ゆっくりと汽車がホームを走行していく。
芳子は汽車のデッキに佇み3人の姿が見えるまで見送った。
涙がとめどなく頬を伝わってきた。
客車内の4人がけ席は空いていたので、脇にボストンバックを置く。
そして芳子は徹に昨日渡された封筒をボストンバックから取り出した。
<徹の手紙>
芳子さんの旅立ちに同行できなく、とても残念です。
逢える日が、なるべく早く訪れることを念じています。
「東京へ出て受験勉強をしたい」と父に相談したら、「沼田で勉強しろ」と義父に反対されて上京できなくなったことは、先日、芳子さんに告げましたが、自分にも義父を説得できるだけの具体的な計画がありませんでした。
まずは、大学に合格することです。
頑張ります。
落ち着いたら手紙をください。
手紙を心待ちにしています。
お元気で! 
何卒ご自愛ください。


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創作欄 「宿業の人」 3

2018年08月13日 10時02分25秒 | 創作欄
2012年8 月17日 (金曜日)

それは高校2年の夏の出来事であった。
佐々木勉は1年生の時から街のボクシングジムに通い日増しに腕力に自信を深めていた。
瘠せてはいたが身長は175㎝になっており、父親の禿げ頭を見降ろしていた。
「勉、テメイ、親をなめるんか!」
晩酌の日本酒が進んでいた父親はほとんど鬼の形相となり、茶ぶ台を両手でひっくり返した。
卓上の物が畳の上に散乱し、心優しい母親は言葉を失いおろおろするばかりであった。
勉は冷笑を浮かべ、楊枝を口にくわえたまま父親を三白眼で睨み据えていた。
「勉よ、その態度はええ、何なんだよ!」
父親は100㌔を超えた巨体で飛びかかってきた。
勉のシャツのボタンが二つ千切れ飛び、シャツは引き破られそうに張り、襟首が勉の頸動脈に食い込んできた。
勉の右のパンチが父親の鼻頭に炸裂し、鼻骨が崩れるような感触が拳骨に残った。
左のパンチは父親の耳の上を完全にヒットした。
夥しい鼻からの出血に、父親は驚愕し言葉を発することなく、倒れた茶ぶ台の上に覆いかぶさるように身を崩した。
過去のドス黒い鬱屈した憤りが堰を切った状態となり、勉は倒れ込んだ父親の後頭部に左右のパンチを更に加えた。
その時になって、優しい母親が勉に小柄な体を武者ぶるようにしてしnがみ着いてきた。
それはほとんど子どものように非力で軽い衝撃でしかなかった。
母親は身長150㎝足らずで、しかも長崎に投下された原爆の後遺症で体調不良が続いており痩せ細った身であった。
「これ以上、やめてな、お父さん死ぬよ」
母親は咽ぶような泣き声で哀惜の感情を勉にぶつけた。
「殺してやる」
叫んでいた勉は、母親の声を耳にするといっぺんに力が萎えてしまった。
肩で大きな呼吸を繰り返しながら、白髪頭の母親を見下ろしていた。
勉はその夜から家には二度と戻らず、高校を中退して無頼の徒となった。
やがて勉は長崎から大阪へ出て、キャバレー勤めをする中で、広域暴力団の下部組織の組員となった。
佐々木組長は、松田健三に肩を揉ませながら過去の同じ場面を何時ものように回顧していた。
これまでの無頼の徒の身には何でもありであった。
「お前さん 東京にも居たそうだな」
松田はギョッとした。
その驚きは指圧の指先にも敏感に反映した。
「何を驚いているんや。わいは千里眼やないで、情報やて。わいらの凌ぎは、後手に回ったら勝てん。常に先手先手に必勝やで、お前さん、うちの若い衆(もん)にならんか。いい体しとるし、胆力がある。わいには分かるんや。だが、自惚れたら困るぜよ。ひとかどの者におさまるには胆力やてのう」
佐々木組長は何時になく上機嫌であった。
松田は大分の別府ごときで、埋もれるつもりはさらさらなかった。
「今は緊急避難の身だ。否(いや)、将来の飛翔に備えての充電期間だ」
松田は指先に力を加えながら心の中で叫んでいた。
「お前さんには見込みがある。別格扱いにしてやるで。これは糊塗(こと)ではないで」
「こと(糊塗)ではない?」
「そや、この場の誤魔化しではないちゅうことや」
佐々木組長のその一言に心が動いた。
松田は組に一時、厄介になる腹づもりとなった。
それも経験の1つで、将来、大きな組織の頂点二立った時に何らかの役に立っかと思った。
佐々木組は、西日本一、二の増渕組傘下の武闘集団で、220名余の組員で構成されていた。
若衆兼組長専属の指圧師松田健三は一年近く、佐々木組長の側近にあって、人の動かし方、懐柔策、そして恫喝、資金の運用にまで身近で垣間見る結果となった。
2012年8 月16日 (木曜日)
創作欄 「宿業の男」 2
「わたしは、ある種のパワーを得まして、不思議なんですよね。今までと、どこがどう違うのかって、明確に言えませんが、この指の先からエネルギーが出ているんですよ」
それは指圧師として、まだ半人前であることをカバーするために松田健三が思いついた単なるハッタリであった。
だが、多くの人々は、それを容易(たや)くし信じてしまった。
いわゆる、不定愁訴は厄介であり苦しんでいる人は藁にもつかまりたい気持ちでいた。
「成せばなる」
松田健三はそれを座右の銘にしたと思った。
ハッタリから出た彼のハンドパワーは、噂が噂を読んだ形となり、全国的広域暴力団の支部組織の組長の耳にも届く結果となった。
九州大分県別府市は、国体が開かれるのを機にクリーンな街づくりに努め、それが功を奏した時期もあったが、M組が関西から本格的に進出してから、新しい街づくりを嘲笑するように、暴力団排斥運動はなし崩しになってしまった。
佐々木組佐々木勉組長は、ひどい肩凝り症であった。
それは頚椎の歪みに起因していたが、佐々木組長は指圧やハリ治療でそれを何とか凌ごうとしていた。
それがどれほどの効果があったのかというと否定的で、指圧師や鍼灸師の出入りの多さが物語っていた。
そんな折りである、松田健三の指圧の腕の評判は狭い別府の街なので佐々木組長の耳にも届いた。
「花菱の旦那さん、評判の指圧師に出会ってから、すっかり腰痛が治ったそうですよ。その指圧師まだ、24歳か25歳らしですよ」
「その按摩、凄腕なのに、そんなに若いんか!」
佐々木組長は女房の君江に肩を揉ませながら、振り向いた。
左目の脇から頬にかけて10cmほどの刀傷があった。
「あんさん、一度、試してみますか」
別府市内に3店のパチンコ屋を経営している花菱豪は在日2世であり、松田健三とは幼馴染であった。
君江は30分以上、肩を揉まされ続けていたので、いい加減うんざりしているところであった。
寝室の柱時計に目をやると午前2時を回っていた。
佐々木組長は君江と性交行為に及んだ後であり、身には何も着けていなかった。
君江は肩から腰までの彫り物の夜叉の黄色い角の部分を赤いマニキュアの指で撫で上げた。
「あんさんは、何故、そんなに肩が凝るんでしょうね」
「親父もひどい肩凝り症でな。遺伝と違うか」
佐々木組長は中学まで、その親父に殴られ続けてきた。
彼は身長が175cmになっていたが痩躯であった。
中学一で中三の番長の座を脅かすほどの胆力があったが、親父には簡単に捻られていた。
彼の父親は168cmほどの身長であったが、体重は100㌔を超えていて、体力で何事も押し切ろうとしていた。
しかも、癇症であり1日中何かに当たり散らしていた。
「いつか殺してやる」
佐々木は父親に対して、憎悪の炎を燃やし続けていた。
2012年8 月 9日 (木曜日)
創作欄 「宿業の男」 1
不覚にも警察に逮捕されたのは、薬事法違反の容疑であった。
あの時は上昇機運であり、勘も冴えて良い方へ向かいつつあったのだから、拘置された身は甚く(いた)屈辱的な体験であった。
「俺は、将来の国家元首であるべき人間だ」
捜査官の執拗な取調の中、松田健三は予備校時代の猛勉強の日々を回顧していた。
「1日15時間、これだけ勉強したのだから、東京大学の試験に受かるだろう」
確信して臨んだが、3年目も不合格となった。
松田は帰りに、赤門の太い柱を握り拳で「クソ! クソ! クソ!」と吼えながら叩いた。
その時の拳の痛さと衝撃の音が忘れられない。
「松田! コラ!今日は絶対に黙秘は許さんぞ!」
捜査官が机を拳で「ドン、ドン、ドン」と3回叩いた。
松田は薄めを開けながら不敵な笑みを漏らした。
松田は「フン」と呟き、眼蓋を閉ざした。
「この野郎!」
捜査官は青筋を浮かべて松田を睨み据えた。
松田は視力が弱かったため、幼いことから苛めにあってきた。
「コラ!松田!眼を開けろ! ふざけるな!」
低音だが響く怒り声が、狭い部屋の重苦しい空気を振るわせた。
この時、松田は薄めを開けて捜査官を見た。
過去の多くの苛めっ子の眼をそこに重ね見る重いがして、松田は歯軋りをした。
「警察のおっさん、お前に、俺の辛さが分かるか。お前の眼は鋭い光を放ち良く見えそうだな。俺の片目には磨りガラスがはまっているんだ。もう片方の目だって、ほとんど遠くは見えず、全てがぼやけて見える。失明の危機に怯え続ける中で、俺は俺なりに、この世に生を受けてきたことの意味を問い続けてきたんだ」
松田は言いたいことを飲み込んだ。
そして、松田は重かった口を開いた。
「おまわりさん、あんたは幸せかね」
松田は太太しい笑みをもらした。
「コラ!松田!お前、余計な口きくな!」
怒鳴り声が再び響き渡った。
松田は相好を崩すと薄気味悪い大きな顔に、親しみと愛嬌が湧く。
それがこの男の特徴の一つで、他人はそこに心を許し油断をした。
彼は誇大妄想狂であり、詐欺師だった。
その片鱗は九州の大分時代の指圧師の仕事でも遺憾なく発揮された。
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創作欄 続・芳子の青春 4)

2018年08月13日 09時48分49秒 | 創作欄
2012年9 月 8日 (土曜日)

芳子は人から美しいと賞賛されていた。
戦死した父の遺影をみて、芳子の父親はいわゆる希に見る美男子と想われた。
そして、母親も人から綺麗な人だと言われてきた。
芳子は両親のそれぞれ良いところを受け継いでいた。
だが、それはもって生まれたものであり、才能ではない。
アパートの隣には、東京・新宿歌舞伎町のナイトクラブで働くホステスの佐々木淑子が居た。
淑子は色白で典型的な秋田美人であった。
秋田県を含む日本海側の女性は肌が白いので美人に見えるという説がある。
淑子は仙北市角館の出身であった。
角館には武家屋敷等の建造物が数多く残されており、年間約200万人が訪れる東北でも有数の観光地として知られ、「みちのくの小京都」とも呼ばれている。
淑子とは神田川に近い銭湯で度々、顔を合わせていた。
「芳子さん、学校で何を勉強しているの?」と問われた。
「社会学です」と芳子は答えながら、淑子の漆黒の大きな瞳を見詰めた。
「社会学? 芳子さんは意外と難しそうな勉強をしていなのね。文学でも学んでいるのかな、と想っていたの」
微笑を浮かべた淑子の浴衣姿は、大正ロマンを想わせた
芳子は卒論に「明治・大正の社会風俗と女性」を取り上げようとしていた。
近代女性の系譜を辿る意義を芳子は感じていた。
かつては一部高等子弟にだけ許された教育。
いわゆるエリートの男性中心の集団が社会を形成しを日本のあらゆる方面で指導的役割を担ってきた。
だが徐々に一般庶民へも教育は拡大した。
また、《青鞜社》は明治44年(1911年)、当時の男尊女卑の象徴でもある、家父長制度から女性を解放するという思想であった。
女性の近代的自我の確立を目指し、平塚雷鳥の呼び掛けによって賛同した女流文学者たちが集まり、平塚雷鳥を中心にして女性だけによる文学的思想を持つ文芸結社となった。
文芸機関誌『青鞜』の発刊第1巻第1号に、平塚雷鳥が著した「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」が創刊の辞として発表されて有名になった。
そして、明治から大正となると個人の自由や自我の拡大も叫ばれる。
進取の気風と称して明治の文明開化以来の西洋先進文化の摂取が尊ばれてきた。
新しい教育の影響も受け、伝統的な枠組にとらわれないモダニズム(近代化推進)の感覚をもった青年男女らの新風俗が、近代的様相を帯びつつある都市を闊歩し脚光を浴びるようになった。
「私、教養がないけれど、大正ロマンはいいなと想うの」淑子は芳子を羨むように見詰めた。
「コーヒー、ご馳走するので、私の部屋に来てね」
淑子は親しみを込めて誘った。
芳子は黙って肯いた。
2012年9 月 6日 (木曜日)
創作欄 続・芳子の青春 3)
再び桜の季節が巡ってきた。
23歳で早稲田大学の二部に入学した芳子にとって、これまでの大学3年間は長かったようで、短かったとも思われた。
昼休み芳子は芳野教授に誘われ、戸山公園へ行った。
芳子にとっては、桜は故郷の沼田城址公園の桜と重なった。
芳子は不本意にも刑務所へ入って依頼、母親とも徹とも沼田高校の恩師とも連絡を絶っていた。
母親には一度だけ、「元気にやっています」とだけ記した葉書を書いている。
故郷との断絶、芳子の心は頑なになっていた。
「先生は再婚なさらないのですか?」
噴水の前に来た時に、芳子は唐突に問いかけた。
芳野教授は無言で芳子の瞳を見詰めた。
「失礼なことをうかがい、申し訳ありませんでした」
芳子は自分の思慮のなさを恥、目を伏せた。
突然、風が渦を巻き桜の花びらが夥しく舞い散る。
芳野教授は花びらが散るのを原爆で死んだ娘と重ね合わせて見詰めていた。
「もしも、娘が生きて居たら・・」思えば涙が込み上げてきた。
芳子は目を伏せていたので、芳野教授の涙に気がついていない。
「再婚は考えていませんが、養女になる人が居ればいいと思っています」
それは芳子への問いかけだった。
だが、芳野は思惑を断ち切るように「芳子さん、専門分野をもちなさい。10年続ければ専門家になります。20年間続ければ大家です」と諭すように言った。
芳子は社会学を学びながら、サークル活動では街に出て聞き取り調査をグループで実践していた。
「机上の空論に終わらないのが、社会学」先輩たちは後輩に街に出て、社会の実相に触れることを奨励していた。
2012年9 月 5日 (水曜日)
創作欄 続・芳子の青春 2)
夜半の雨はジェット機の轟音のような遠雷をともない激しさを増していた。
芳子は東京・中野区中央のアパートの部屋で勉強をしていた。
1964年(昭和39年)に23歳になっていたが、奨学金を得て早稲田大学戸山キャンパスの第二文学部の社会科で学んでいた。
第二学部は1949年に早稲田大学が新制大学として再出発した時、各学部に夜間で学ぼうとする人たちに門戸を開き設置された。
その精神と歴史を忠実に守り伝えているのが第二文学部であった。
“どうしても早稲田で学びたい”という強い意欲をもった学生が集うため、学部は、もっとも早稲田らしさの残る学部といわれていた。
作家、俳優、映画監督、タレント、ジャーナリスト、シンガーソングライター、アナウンサーなど各分野に多彩な人材を輩出した。
講義は、第一文学部との合併科目が設置されている5限および6限と7限に行われるため、開講時間は、5限=16時20分〜17時50分、6限=18時〜19時30分、7限=19時40〜21時10分。
当時の学部長はフランス文学者である新庄嘉章教授、アンドレ・ジッドなどを研究、数多くのフランス文学の翻訳を行っていた。
芳子は学友の一人として大川直樹と親しくなった。
直樹は留年して7年目であった。
芳子は千葉まで帰る直樹と大久保駅まで一緒に歩いて帰ることが多かった。
通称居酒屋講義に参加する学生もいたが、芳子は酒が飲めないし、居酒屋の喧騒に馴染めなかったので、寄り道はしない。
直樹は年中「金がない」とぼやいていた。
それでいてアルバイをしない。
「まあ、物臭と妹は言うが、俺はのんびりしたいんだ」
「なぜ、卒業しないのですか?」
芳子は不躾だと思ったが聞いてみた。
「働きたくないこともあるが、大学の雰囲気に何時までも馴染んでいたい」
芳子は可笑しさが込み上げてきた。
芳子は本を閉じて、駅で別れた直樹のことを想ってみた。
不思議な感じがする男であった。
「芳子さん、俺が映画監督になったら、主演女優に起用してあげよう」
「映画監督志望なのですか?」
「まあ、今のところは、そのうち化けることもある」「化ける?」「そう、人間は時に化ける」
直樹は幼児のような表情をした。
「子どもに好かれるので、児童映画をやりたいな」
人を警戒させない雰囲気があり、お地蔵さんのような円満な表情を浮かべた。
2012年9 月 1日 (土曜日)
創作欄 続・芳子の青春 1)
芳子は広島から帰ってから、大学の図書館へ足を運ぶようになった。
あるいは、早稲田通りにある古本屋へ足を向けることもあった。
「なぜ、日本は戦争をしたのだろうか?」
そして、原爆の投下へ至った経緯を知りたいと思った。
同時に、未だアメリカの軍政下にある沖縄についても関心を深めていった。
アメリカに対する理解も深めていきたいと考えていた。
「パパは何でも知っている」 は人気テレビ番組の一つだった。 
芳子は父が戦死しているので、父親を知るらない。それだけに、テレビで見た父親像に憧れを抱いた。
テレビ映画で知ったアメリカは、生活がとても豊かで魅惑的な憧れの国のようにも映じていた。
そのようなテレビの世界を嘲るように、事態は大きく転換した。
第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・フィッツジェラルド "ジャック" ケネディが、1963年11月22日、遊説先のテキサス州ダラスで暗殺された。
その衝撃的な映像が日本のテレビでも放映され、芳子は驚愕を覚えた。
「アメリカは、どのような国なのだろう?」
銃を規制できないアメリカ。
ある意味でそれは宿命的であり、アメリカには深い闇が横たわっていて、暗殺の謎は深まるばかりであった。
芳子は文学もいいが、社会学を学びたいと考えはじめていた。
社会は、政治、経済、科学技術、文化など様々な面で世界との結びつきがある。
人間社会においては様々な利害が重なり複雑に絡み合っている。
「多くの問題を解くカギは社会学にあるのではないだろうか?」
芳子は大学の食堂で出会った大学院生の梅村早苗から、共産党への入党を勧められた。
「共産党が、日本の社会を大きく変えるのよ」確信に満ちているように早苗が語る。
いつも微笑みを絶やさない早苗は、いわゆる「好い人」と思われた。
1963年、早稲田大学には社会科学部はまだなかった。
社会科学系専門分野は当時、政治経済学部、法学部、商学部といった学部に分科された形で教育が行われていた。
早苗は政治経済学部の大学院生だった。
芳子は早苗の話を聞きながら、実社会で学ぶべきか大学で学ぶべきかを考え始めた。
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<参考>
パパは何でも知っている(原題:Father Knows Best)は1949年4月25日から1954年3月25日までアメリカのNBCラジオで、同年10月3日から1960年9月17日までNBC(テレビ)とCBSで全203話が放送され、人気を博したロバート・ヤング主演のテレビドラマ。
シチュエーション・コメディ。

日本では1958年8月3日から1964年3月29日まで日本テレビ系列で日本語吹替版で放映された。
アメリカ中西部の架空の街、スプリングフィールドのメープル通り南607番に住む中流家庭、アンダーソン一家(ゼネラル保険会社の部長で営業マンのパパと賢明なママ、3人の子供達:ベティ、バド、キャシー)に巻き起こる事柄を描いた、1話:25分のホームドラマ。
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創作欄  キンモクセイ(金木犀)が咲く季節

2018年08月13日 09時36分52秒 | 創作欄
2012年10 月25日 (木曜日)
キンモクセイ(金木犀)が咲く季節になると、遠い過去が思い出される
キンモクセイは中国南部が原産で江戸時代に渡来したそうだ。
キンモクセイは東京・大田区田園本町の桜坂の下の、幼馴染の洋ちゃん(清水君)の家の庭にもが2本あり、秋になると芳香を放ち小さいオレンジ色の花を無数に咲かせた。
洋ちゃんの家は近隣でも大きく、屋敷と形容した方がいいだろう。
その広い敷地は貝塚がある小高い台地まで続いていた。
屋敷の離れの部屋には、洋ちゃんのお姉さん(12歳前後であっただろうか?)が結核で寝ていた。
そのころ結核は死の病で、洋ちゃんのお姉さんの自宅での療養生活は世間から隔離されているような状態であった。
「あの部屋には近づかないようにね」と洋ちゃんのお婆ちゃんが言う。
洋ちゃんの父親は大東亜戦争・支那事変(日中戦争)で亡くなっていた。
洋ちゃんの家のとなりが駐在所で、そこのお巡りさんが進駐軍のジープに撥ねられ亡くなったのも秋であった。
洋ちゃんの母親は、どこかに働きに出ていて、お婆ちゃんが家事はじめ近所付き合いをしていた。

「小学校へ入学しても、洋ちゃんと遊んでね」とお婆ちゃんに言われていたが、自分はその後、洋ちゃんを避けるようになった。
なぜ、避けたのか?
いつも鼻を汁を垂らしている洋ちゃんが疎ましくなっていた。
そして、内科医の娘であった奈々子ちゃんと通学するこことなった。
秋になると中学を卒業して直ぐに、大田区役所の支所で働きだした清水君のことが思い出される。
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創作欄  「屈辱」

2018年08月13日 09時31分44秒 | 創作欄
2012年10 月30日 (火曜日)
 
「存在することに意義がある」
奈々瀬幸雄は、その言葉を拠り所に今日まで生きてきた。
左の目の視力を失い片目となった時は忌々しい思いに苛まれた。
慣れない間は駅のホームの柱に頭をぶつかったこともあった。
毎日のように人ともぶつかった。
それで、苛立ちをぶつけ人と喧嘩にもなった。
肩が触れたという些細なことに過ぎなかったが、傷害事件にも発展した。
その日は、大事な営業の話で取引先へ急いでいた。
東京・丸の内の新築ビルの窓枠の製作を請け負う交渉であった。
相見積り(提案書と見積書の提出)を依頼されたのだ。
だが、殴った相手は何時ものように反撃してこなかった。
「あれ、どうしたんだ?!」幸雄は改めて右目を相手の眼前に据えた。
「傷害罪、現行犯逮捕する」その体格のいい男は毅然とした声を発した。
信じ難かったが、殴った相手は唇の脇に少し傷ができた私服警官だった。
警察署に連行される間に幸雄は、「これで仕事を失うな。何て運が悪いんだ」と歯ぎしりをしていた。
「オイ、お前、何時までも黙っていて、済むと思うなよ」
2人の若い警官に尋問された。
20代の後半と想われる1人の警官は、定期券を取り上げ中を調べていた。
「この女は、誰だ!」
定期券から愛人の優子の写真が出され、幸雄の鼻の先に突き付けられた。
幸雄は黙って冷笑を浮かべた。
「ウン、女(愛人)か」警官は冷笑を浮かべた。
それは屈辱であった。
もう1人の30代前半と想われる警官は、バックの中を探っていた。
「オイ、お前は47歳だな。分別もあるだろう。理由もなく人を殴るんじゃないよ」
「悪かったです」
幸雄は苦笑した。
「人を殴っておいて、薄ら笑いか。オイ、ふざけるな!」
バックを探っていた警官が怒声を発した。
「前科はあるのか?」若い警官は幸雄の顔色の変化を探るように聞きながら睨み据えた。
「ありません」
「オイ、嘘をついても、分かるんだからな」
バックの中身を全部机の上に出しながら、警官は鋭く言い放った。
前の会社でリストラされた幸雄は、今の企業に勤めてまだ1年余であった。
前職では部長で年収は約800万円あったが、今はその半分以下となっていた。
「こんな若造の警官になめられる身か。口も利きたくない。情けない」
一刻も早く解放されたいと思ったが、甘くはない。
調書を取られ、指紋も採られ、会写真も撮られ、幸雄は形式のとおりに傷害罪で送検された。



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創作欄 美登里の青春

2018年08月10日 08時31分12秒 | 創作欄
2012年2 月 7日 (火曜日)

「私が休みの日に、何をしているのか、あなたには分からないだろうな?」
北の丸公園の安田門への道、外堀に目を転じ美登里は呟くように言った。
怪訝な想いで徹は美登里の横顔を見詰めた。
徹を見詰め返す美登里の目に涙が浮かんでいた。
「私が何時までも、陰でいていいの?」
責めるような口調であった。
区役所の職員である36歳の徹は、妻子のいる身であった。
「別れよう。このままずるずる、とはいかない」
美登里は決意しようとしていたが、気持ちが揺らいでいた。

桜が開花する時節であったが、2人の間に重い空気が流れていた。
乳母車の母子の姿を徹は見詰めた。
母親のロングスカートを握って歩いている少年は徹の長男と同じような年ごろである。
「私は、何時までも陰でいたくないの」
徹の視線の先を辿りながら美登里は強い口調となった。
徹は無表情であった。都合が悪いことに、男は沈黙するのだ。
北の丸公園を歩きながら、美登里は昨日のことを思い浮かべていた。
九段下の喫茶店2階から、向かい側に九段会館が見えていた。
美登里は徹と初めて出会った九段会館を苦い思いで見詰めていた。
美登里は思い詰めていたので、友人の紀子に相談したら、紀子の方がより深刻な事態に陥っていた。
「私はあの人の子どもを産もうと思うの。美登里どう思う?」
美登里はまさか紀子から相談を持ち掛けれるとは思いもしなかった。
「え! 紀子、妊娠しているの?」
紀子は黙って頷きながら、コーヒーカップの中をスプーンでかきまぜる仕草をしたが、コーヒーではなく粘着性のある液体を混ぜているいうな印象であった。
「美登里には、悩みがなくて良いわね」
紀子は煙草をバックから取り出しながら、微笑んだ。
「私しより、深刻なんだ」美登里は微笑み返して、心の中で呟いた。 
結局、美登里は紀子の前で徹のことを切り出すことができなかった。
2012年2 月 8日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春
「あの夏の日がなかったら・・・」
美登里はラジオから流れているその歌に涙を浮かべた。
歌を聞いて泣けたことは初めてであり、気持ちが高ぶるなかで手紙を書き始めていた。
「なぜ、あなたを愛してしまっただろう。冷静に考えてみようとしているの。あなたは遊びのつもりでも、私の愛は真剣なの。でも、陰でいることに耐えられない。18歳から21歳までの私の青春が、あなたが全てだったなんて、もう嫌なの」
そこまで書いたら、涙で文字が滲んできた。
美登里は便せんをつかむと二つに割いた。
泣いて手紙を書いていることを、徹に覚らせたくはなかった。
美登里は日曜日、信仰している宗教の会合に出た。
そして会合が終わり、みんなが帰ったあと1人残った。
先輩の大崎静香の指導を受けるためだ。
「美登里さん、私に何か相談があるのね。元気がないわね。会合の間にあなたを見ていたの」
指導者的立場の大崎は、説法をしながら壇上から時々美登里に視線を向けていたこを美登里も感じていた。
美登里と6歳年上の大崎は、性格が明るく生命力が漲り、常に笑顔を絶やさない人だ。
そして何よりも人を包み込むような温かさがあった。
人間的な器が大きいのだと美登里は尊敬していた。
「この人のように、私もなれたら」美登里は目標を定めていたが、現実を考えると落差が大きかった。
大崎は美登里の話を、大きく肯きながら聞いていた。
「それで、別れることはできないのね」
大崎が美登里の心を確かめるように見詰めた。
「そうなの」
美登里は涙を流した。
「それなら美登里さん、日本一の愛人になるのね」
美登里はハンカチを握りしめながら、大崎の顔を怪訝そうに見詰めた。
「日本一の愛人?!」心外な指導であった。
大崎は当然、美登里に対して、「相手は、妻子のある男なのだから、別れなさい」と指導すると思っていた。
改めて、美登里は尊敬する大崎の包容力の大きさを感じた。
そして、美登里は決意した。
「私は、日本一の愛人にはなれない。徹さんと別れよう」
2012年2 月12日 (日曜日)
創作欄 鼻血が止まらず救急車で搬送された徹
「大往生したけりゃ医療とかかわるな」
死ぬのは「がん」に限る。
ただし、治療はせずに。
著者の中村仁二さんは医師だ。
医師が医療を否定する。
それは、どのようなことなのか?
徹は新聞広告を見て、本屋へ向かった。
1昨年のことであるが、真夏にボランティアである施設へ行き、庭の草むしりをした。
炎天下、1時間ほど雑草と格闘した。
流れる汗とともに、鼻水も垂れてきたと思って、ハンカチで鼻を拭ったら、紺色のハンカチが黒く変色した。
それは鼻水ではなく、血であった。
その日の前日も、夜中に目覚めたら枕に髪が絡み着いた感じがした。
部屋の蛍光灯をつけて確認したら、枕に血溜まりができていて髪の毛に固まった血がベッタリと付着していた。
1週間ほど鼻血が出ていて、深酒をした日にはドクドクと鼻血は喉に流れ込む。
吐き出しても口に鼻血はたちまち溢れてきた。
「これでは出血多量で死ぬな」と徹は慌てた。
徹は妻子と離婚して5年余、一人身である。
救急車を呼ぼうかと思ったが、午前3時である。
マンションの住民たちに迷惑になると思い、我慢した。
死の恐怖を感じながら、何とか鼻血を止めようとした。
初めはティッシュペーパで対応したが、見る見る血で染まってきて、それではらちがあかない。
そこで脱脂綿を鼻奥に詰め込んだ。
しばらくして、鼻血は止まった。
徹の母親は56歳の時、早朝に鼻血が止まらなく、救急車を呼んだ。
国立相模原病院に搬送されたが、血圧が200以上あった。
徹は自分の現在の状況と重ねて、20代の頃を思い浮かべた。
結局、母親は生涯、血圧降下剤を飲み続ける。
母子は遺伝子的に同じ宿命を辿ると徹は思い込んでいた。
宿命は変えられない。
だが、意志で運命は変えられる。
徹はそのように考えた。
炎天下の草むしりのあと、昼食を食べに松戸駅前のラーメン店へ行く。
「ビールでも飲むか」とボランティア仲間の渥美さんが言う。
徹は日本酒にした。
3本目を飲みだしたら、また、鼻血が出てきた。
口と鼻を押さえながら、慌てふためいてトイレに駆け込む。
鼻血でたちまち便器は染まっていく。
「これは、尋常ではない」と覚悟を決めた。
結局、乗りたくはない救急車を呼んでもらった。
5分もかかわず、救急車のサイレンが聞こえてきた。
近くに病院もあり、7分くらいで病院に搬送されたが、血圧を測定したら210もあった。
救急車で血圧を測定した時は180であった。
注射をして様子をみることになる。
10分後に血圧を測定したら、まだ、200を超えていた。
「まだ、ダメね」と看護師は首をひねる。
そこで、胸に貼り薬を試した。
「動き回らず、寝ているのよ」と看護師にたしなめられた。
徹は携帯電話を持たないので、心配しているボランティア仲間の渥美さんに待合室の公衆電話で、様子を伝えたのだ。
「あんたは、鉄の肝臓を持っている男だ。鼻血くらいでは死なないよ」とボランティア仲間の渥美さんは笑った。
徹の血圧は、胸に貼り薬のおかげで、140にまでいっきょに低下していた。
「月曜日、来て下さい。鼻の粘膜の切れやすい箇所をレーザーで焼きますから、耳鼻咽喉科へ必ず来て下さい」と看護師が言う。
徹はあれから1年6か月余経過したが、その病院へ2度と行っていない。
血圧降下剤も飲んでいない。
鼻の粘膜は、レーザーで焼かなくともその後、破れていない。
2012年2 月13日 (月曜日)
創作欄 鼻息だけは強かった専門紙の同僚の真田
「心の中に何か抑圧があるのでしょ。でもそれが、どんな形で作品に表われるのか自分ではわからない」
田中慎弥さんが読売新聞の「顔」の取材で述べていた。
芥川賞受賞作が20万部に達し反響を呼んでいる。
徹は記事を読んで、昔の専門誌時代の同僚の真田次郎を思い出した。
真田は小説を書いていた。
だが、作品をどこにも発表していないと思われた。
「この程度の作品で芥川賞なんか、来年はわしが賞を取ったる」
真田は鼻息だけは強い。
「谷崎の文体、三島の文体、志賀の文体、川端の文体どれでも書ける。今週の病院長インタビューは、三島の文体でいくか」
文学好きの事務の渋谷峰子はペンを止めて、真田に微笑みながら視線を送った。
徹は峰子が真田に恋心を抱いていることを感じた。
現代流に言うと真田はイケメンで、知的な風貌をしていた。
そして、声は良く響くバスバリトンで、声優にもなれるだろうと思われた。
特に電話の声には圧倒された。
徹は学生時代を含め、真田のような美声に出会ったことがない。
声優の若山弦蔵の声にそっくりなのだ。
真田は憎らしいほど女性にもてる男で、夕方になると女性から会社に電話がかかってきた。
「真田、たくさんの女と付き合って、名前を間違えることないいんか?」と編集長の大木信二がやっかみ半分「で言う。
「ありませんね」真田は白い歯を見せながら、朗らかに笑った。
「お前さんは、その笑顔で女をたらしておるんだな。俺に1人女を回さんか」
冗談ではなく、大木の本気の気持ちである。
真田は大木を侮蔑していた。
「大木さんは新宿2丁目あたりで、夜の女を相手に性の処理をしておる。不潔なやっちゃ。金で女を買う奴はゲスやな。徹は性はどうしておるんや」
露骨に聞いてきた。
真田はそれから3年間、どこの文学賞も取らなかった。
そして、反動のように女性関係をますます広げていった。
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<参考>
若山 弦蔵(わかやま げんぞう、1932年9月27日 - )は、日本の男性声優、俳優、 ナレーター、ディスクジョッキー。
フリー。 ... 1973年より1995年までTBSラジオ『若山弦 蔵の東京ダイヤル954』(当初は『おつかれさま5時です』)のパーソナリティーを務めた。
2012年2 月14日 (火曜日)
2012年2 月22日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 1
「人はなぜ、狂うのか?」
美登里は考えを巡らせたが、答えが見つかる分けではなかった。
「心も風邪をひく」そのように想ってみた。
中学生のころ、夜中にうなされて目を覚ましたら、父が枕もとに座っていたのだ。
頭に手をやると冷蔵庫で冷やした手拭いが額に乗っている。
「39度もあった熱が、37度に下がったよ」と父親が微笑んだ。
「何も覚えていない」
心がとても優しい父親は寝ずにずっと枕もとに座って、1人娘である美登里を看病していたのだ。
嬉しさが広がり、美登里は深い眠りについた。
母親は美登里が小学生の頃、美登里の担任の教師と深い関係となり、噂が広がったことから狭い土地に居られず家を出た。
妻子が居た教師は学校を辞め、千葉の勝浦の実家へ帰った。
母親は2年後、家に戻ってきたが再び姿を消すように居なくなる。
美登里は子ども心に、母親が何か精神を病んでいるようにも見えた。
母親は化粧も濃く相変わらず派手な姿であったが、深く憎んでいたその姿が美登里にはとても哀れに想われたのだ。
美登里は性格が父親似で穏やかであり、ほとんど人と喧嘩をした記憶がない。
高校卒業後の進路をどうするか?
地元で働くか都会へ出るか迷っていたが、会社勤めに何か抵抗があった。
組織に馴染めないと思われたのであるが、結局、美登里は高校を卒業すると、東京へ出ることにした。
父親の弟が、東京の神保町で美術専門の古本屋を営んでいたので、美術に興味があった美登里は叔父の勧めるままに、その店で働くことにした。
19歳の時、美登里は区役所で働いていた徹と出会ったのである。
九段会館の屋上のビアホールで夏だけアルバイトをしていた。
徹は客として区役所の同僚たち3人とビールを飲みに来ていた。
ある夜、美登里は帰りの電車の中で偶然、徹と隣合わせに座っていたのだ。
美登里の視線を感じた徹が、本から目を美登里に転じた。
「ああ、偶然だね。君は九段会館で働いていたよね?」
「ハイ」
美登里は相手の爽やかな笑顔に戸惑い、恥じらいで頬を赤らめた。
それまで男性と交際した経験がなかったのだ。
「ここで、偶然会ったのも何かの縁。今度の日曜日、上野の二科展へ行かない? 僕の友だちが作品を出展しているのだ」
「二科展ですか?」
想わぬ誘いであった。
「行こうよ。今度の日曜日午後1時、東京都美術館の入り口で待ち合わせよう。待っているからね」
下北沢駅で電車が停車したので徹は立ちあがった。
人波に押し流されるように徹は降りて行く。
2012年2 月22日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 2
宗教とは、何であるのか?
美登里は、ある日突然、同じアパートに住むその人の訪問を受けた。
何時もその人は爽やかな親しみを込めた笑顔で、元気な張りのある明るい声で挨拶をしていた。
美登里はどのような人なのか、と気にもしていた。
「私は、佐々木敏子です。よろしお願いします」と丁寧に頭を下げるので、美登里も挨拶を返した。
その人とは、毎日のように顔を合わせていたが、訪問を受けるとは思っていなかったので、戸惑いを隠せなかった。
「お部屋にあがらせていただいて、いいかしら?」
その申し出に、嫌とも言えない雰囲気であった。
部屋は幸い片付いていた。
「部屋を綺麗にしているのね」相手は部屋を見回して、笑顔を見せた。
美登里はお茶でも出そうかと台所へ向かおうとしたが、その気配を感じて相手は、「突然で、迷惑でしょ。構わないでください」と制するように言う。
美登里は1枚しかない座布団を出した。
相手はその座布団に座りながら、「お仕事は、どうですか?」と聞く。
「まあまあです」としか答えようがなかった。
「あなたは、幸せですか?」真顔で聞かれたので戸惑いを覚えた。
沈黙するしかない。
美登里は、自分が幸せかどうかを真剣に考えてたことがなかった。
「幸せとは、何だろう?」沈黙しながら、美登里は頭を巡らせた。
気押されるような沈黙の時間が流れた。
相手は美登里をじっと見つめていたのだ。
「私たちと一緒に、美登里さん幸せになりませんか?」
佐々木敏子は結論を言えば、宗教の勧誘のために訪問してきたのだ。
「明日の日曜日、どうでしょうか? 時間があればお誘いします。私たちの集まりに出ませんか?」
美登里は、徹から「二科展へ行かないか」と誘われていた。
「明日は、用事があります」と断った。
「残念ね。それではまた、お誘いするわ。是非、集まりに来てくださいね」
その時の敏子はあっさりした性格のように想われた。
そして、小冊子を2冊置いて行く。
小冊子を開くと聖書の言葉が随所に記されていた。
2012年2 月23日 (木曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 3
人の才能は、千差万別である。
運動能力であったり、学問の分野であったり、芸術の分野であったり。
美登里は、自分にはどのような能力があるのだろうかと想ってみた。
父親は地元の農業高校を出て農協の職員となった。
母親は? 美登里は母についてどういう経歴なのかほとんど知らない。
イメージとしては、厚化粧で派手な服装で、地元でも浮き上がっているような異質な雰囲気をもった女性であった。
だが、声は優しい響きで甘い感じがした。
体はやせ形の父とは対照的に豊満である。
歌が上手であり、よく歌ってくれた子守唄は今でも美登里の記憶に残っていた。
美登里は美術に興味があったが、絵が描けるわけではなかった。
美登里が勤める美術専門の古本店には、美術愛好家や美術専門家などが来店していたが、特別な出会いがあったわけではない。
美登里は午後1時に東京都美術館の前で待ち合わせをしたので、15分前に着いた。
すでに多くの人たちが来ていた。
二科会はその趣旨によると「新しい価値の創造」に向かって不断の発展を期す会である。
つまり、常に新傾向の作家を吸収し、多くの誇るべき芸術家を輩出してきたのだ。
絵画部、彫刻部、デザイン部、写真部からなる。
概要によると、「春には造形上の実験的創造にいどんで春期展を行い、秋には熟成度の高い制作発表の場とする二科展を開催しようとするものであります」とある。
美登里が、徹と行ったのは秋期展だった。
徹は美登里より、5分後にやってきた。
スニーカーを履き、上下ジーンズ姿である。
「晴れてよかったね」と徹は笑顔で言う。
美登里は徹の歯並びがいいことに気づく。
夜半から降っていた秋雨は午前10時ごろ上がり、青空が広がってきてきた。
上野公園の銀杏は、鮮やかな黄色に染まっていた。
2人は初めに徹の友人の作品が展示されている彫刻展を見た。
裸体像のなかに、バレリーナ―の彫刻がった。
「これだ」と徹は立ち止まった。
その彫刻は等身大と思われた。
つま先立ちであるから、細く長い足が強調されていた。
乳房はお椀のように丸く突き出ている。
手は大きく広げられていて躍動感を感じさせた。
「いいんじない」と徹は美登里を振り返った。
美登里は頬えみ肯いた。
2012年2 月25日 (土曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 4
徹は二科展をじっくり見たわけではない。
60点ほどの彫刻展を見てから絵画展を見た。
それからデザイン展と写真展は流すような足取りで見て回った。
東京都美術館を出ると秋の日差しはまだ高かった。
「不忍池でボートに乗ろうか?」と徹が言う。
「ボートですか?」美登里はボートに乗った経験がなかった。
東叡山寛永寺弁天堂方面へ向かう。
細い参道の両側には、露天商の店が並んでいた。
「何か食べる?」と問いかけながら徹は店を覗く。
西洋人の観光客と思われる若い男女が笑いあいながら綿菓子を食べていた。
小学生の頃、美登里は夏祭りで父と綿菓子を食べたことを思い出した。
徹は美登利を振り返り、「綿菓子も懐かしい味がしそうだね」と微笑む。
夏には大きな緑の葉の間に鮮やかなピンクの花さかせる池の蓮は枯れかけていた。
ボート場には、ローボート、サイクルボート、スワンボートがあった。
「どれに乗る?」と徹は振り返った。
一番、ボートらしいローボートを美登里は選んだ。
美登里はこの日、緑色のジーパンを履いていた。
ボートが転覆することないと思ったが、まさかの時を思ってスカートでなくてよかったとボートが池を滑り出すと思った。
徹がロールを器用に漕ぐので、大きな水しぶきは飛び散らない。
ピンク色のスワンボートとすれ違った。
高校生らしい男女が横に並んで足で笑い合いながらボートを漕いでいた。
美登里は県立の女子高校だったので、男性と交際する機会がなかった。
「楽しそうだね」徹は微笑んだ。
美登里は振り返りながら肯いた。
「タバコ吸っていいかな?」
美登里は黙って肯いた。
「実は大学の卒論は、森鴎外だったんだ。小説『雁』読んだことある?」
「ありません」
美登里は青森県人なので太宰治が好きであった。
それから同じ東北人として宮沢賢治の本も読んでいた。
高校生の時、短歌もやっていたので石川啄木にも惹かれていた。
そして、東北人として最も身近に感じたのが寺山修司だった。
美登里にとって羨ましいほどの多彩な人であった。
「僕の職業は寺山修司です」
「そんなことが言えるんだ」 美登里はかっこいい男だと惚れ込んだ。
徹は暫く、思いを巡らせているように沈黙しながらタバコを吸っていた。
「小説の雁のなかに、この不忍池が出てくる。話は遠い明治の昔のことだけどね」
徹はタバコの煙を池の岸の方へ吹き出した。
タバコの煙が輪になって池に漂った。
ボートを降りると徹は、無縁坂へ美登里を案内した。
「ここが三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の岩崎邸だった。この坂の左側に、昔は小説の中に出てくるような格子戸の古風な民家が並んでいたんだ」
徹が学生時代にはそれらの家々がまだ残されていた。
高い煉瓦造りの塀を背にして、徹は手振り身振りで説明した。
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<小説の雁の概要>
1880年(明治13年)高利貸しの妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱くも、結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。
女性のはかない心理描写を描いた作品である。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
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<参考>
寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日~1983年5月4日)は、日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。
2012年2 月27日 (月曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 5
人生の途上、何が起こるか分からない。
叔母が東京大学病院に入院した。
本人には「胃潰瘍だ」と告げていたが、スキル性胃がんであった。
胃がんの中で、特別な進み方をする悪性度の高いがんであり、余命は半年~1年と診断されていた。
叔父は美登里に涙を浮かべてそれを告げた。
医師の診断書を手にした叔父の手が小刻みに震えていた。
美登里はその診断書を叔父から手渡されたので読んだ。
美登里も思わず涙を浮かべた。
冬の陽射しは、長い影を落としていた。
徹と訪れたことがある三四郎池の木立が叔母が入院している病棟から見えた。
小太りの叔母は45歳であったが、年より若く見えた。
叔母は24歳の時に子宮筋腫となり、子どもを産めない身となっていた。
叔母は負い目から夫に、「愛人を作ってもいい」と言っていた。
叔母は薄々感じていたが、叔父には愛人が実際に居たのである。
だが、その愛人に若い男との関係ができて、現在は叔父は寂しい身となっていた。
「美登里ちゃん、あの人は何もできない人なのよ。お願い、私が退院するまで、叔父さんの面倒をみてほしいのだけれど、どうかしら」
叔母は美登里の手を握り締めた。
手には福与かな温もりがあった。
美登里は叔母に懇願されて、東京・文京区駒込の叔父の家へ行った。
八百屋お七の墓がある円乗寺の裏に叔父の家があった。
その夜、美登里は風呂に入った。
脱衣場は風呂場にはないので、廊下で着替えてた。
美登里は襖の間に人の気配を感じた。
叔父が美登里の襖の僅かな間から、美登里の裸体を覗き見ていたのだ。
美登里は多少は不愉快であったが、馬鹿な叔父の行為に一歩引いて冷笑を浮かべた。
大好きな父親によく似ていた叔父に、好感を抱いていたので気持ちは許せたのだ。
そして、美登里はその夜、夕食の時に叔父から聞かされた八百屋お七のことを思った。
お七は天和2年(1683年)の天和の大火で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎)と恋仲となった。
翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。
愛する男に会いたいために、放火をする16歳の女の子の浅知恵である。
だが、その激しい情念に美登里は気持ちが突き動かされた。
2012年2 月28日 (火曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 6
叔父の家は昭和10年代に建てられた古い木造屋で、東京大空襲でも運が良く焼失をまぬがれた。
叔父は働いていた古本の美術専店の主人に子ども居なかったことから、養子に迎え入れられた。
義母は52歳の時に突然、クモ膜下出血で亡くなってしまった。
主人の19歳の姪が山梨県甲府から家事手伝いにやってきた。
叔父は29歳の時に、21歳となった主人の姪と結婚した。
70歳で亡くなった義父は東京都文京区本駒込の吉祥寺に眠っている。
寺の境内には江戸時代の農政家・二宮尊徳の墓碑があった。
また、山門には漢学研究の中心であった「旃檀林」の額が掲げられている。
「旃檀林」は駒澤大学の前身のひとつで、仏教の研究と漢学の振興とそれらの人材供給を目的とした学寮だった。
毎月の9日は義父の月命日であり、叔父は墓前に花を添えていた。
だから、その春の9日は美登里にとっても忘れられない日となった。
叔父の家に家事手伝いに来てから3日目の夜中である。
体に異変を感じて目覚めたら、叔父が美登里の布団に入り込んでいたのだ。
驚愕して身を跳ねのけたが、叔父に抑え込まれた。
荒い叔父の息遣いが酒臭かった。
「叔父さん、何するの!」と美登里は叫んだ。
「美登里、男、知っているんだろう?」
叔父は唇を寄せてきた。
美登里はその唇を避けながら、「嫌、ダメ」と叫んだ。
叔父の体から突然、力が抜けた。
「お前は、処女か?!」
美登里は肯いて、声を上げて泣きだした。
「悪かった。許してくれ、俺は魔が差したんだ」
叔父は乱れた浴衣を整えると、畳の上へ両手を突き土下座をした。
叔父は何度も畳に額を擦り付けて謝罪した。
美登里は泣きながら、両手で顔を覆っていた。
豆電球の灯りさえ、美登里には明るく映じた。
美登里は人と争った経験がほとんどない。
温厚な父は子どもころ美登里に言っていた。
「美登里も怒ることはあるよね。でも、ゆっくり10数えてごらん。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、それでも怒りが収まらなければ、怒っていい。でもね、怒ると損をするよ」
美登里は眠れないまま、ゆっくり10数を数えた。
そして美登里は、叔父の行為を許すことにした。
「夢の中の出来事」のように想えばいいと自身に言い聞かせた。
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<参考>
作家・島崎藤村は、姪のこま子との近親相姦に苦しんだ。
文学史上最大の告白小説とされる「新生」。
こま子は19歳の春、産後の病で妻を失った藤村宅に移り住んで3人の子育てや家事を手伝うことになった。
だが、藤村とただならぬ関係となり妊娠。
藤村は悩み抜いた 末、翌年には逃げるように渡仏した。


2012年2 月29日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 7
6月9日は、美登里の誕生日であリ20歳となった。
「私も大人になったのね」 美登里は19歳の1年を振り返った。
不本意にも“愛してしまった”妻子ある徹との出会い。
叔母の死、母親との再会。
そして、何よりも大きな変化は信仰に導かれたことだった。
叔母の死がなければ、信仰はしなかっただろう。
元気な叔母が、46歳の誕生日を迎える10日前に逝った。
スキル性の胃癌で余命6か月から1年と医師から言われていたのに、5か月で逝ってしまった。
3か月で一旦は東京大学付属病院を退院した。
叔母は元気な大きな声で話す人であったが、信じられないほどか細い声になっていた。
そして小太りであったが、10㌔も痩せて頬骨が出て年より老けて見えた。
白髪も増えていた。
その叔母がある日、「富士山が見たい」と言った。
山梨県甲府で生まれ19歳までその地で育った叔母は、山梨県側から見た富士山を仰いできた。
「静岡側から富士山を見てみたい」
叔母が懇願するように言うので、叔父が西伊豆へ1日、自動車に乗せて連れて行った。
車椅子に乗った叔母が見た静岡側の富士山は、叔母を甚く感嘆させた。
「富士山は、何処から見ても素敵ね」
叔母は微笑みながら溢れる涙を流した。
車の窓越しに見る伊豆の山桜が満開であった。
万感想うこともあったのだろう桜を見て叔母は涙を流した。
叔母が再び入院したのは死の7日前であった。
すでに叔母の意識はなくなっていた。
意識がなる前日、美登里が病室に入ると、起き上がろうした。
何度も叔母は試みたが、「もう、ダメなのね」と言って、布団に両手を投げ出すようにした。
美登里はその細った手を握りしめた。
肉太であった叔母の手は、皺が目立ち太い血管が浮き出ていた。
「美登里が泊ってくれると元気だ出るわ」
叔母が言うので、美登里はベットの脇の簡易ベットで付添い寝を何度かした。
だが、意識が亡くなった叔母は、眠り続けるばかりで、付添婦が何度も痰の吸引をしていた。
酸素マスクも付けていた。
叔母の死の3日前、その付添婦が、「臭いな。寝られない」とイライラしたように言った。
そして、面倒臭そうに叔母の下の世話をした。
付添婦は叔母と同年代に見えた。
そして叔母の日の前日、付添婦は叔母の酸素を勝手に止めた。
病室に入ってきた看護婦(当時)がそれを見咎めた。
「あはた!何をするの!」看護婦は付添婦を睨み据えた。
そして、美登里を廊下に呼び出して、「あの人を辞めさせなさい。私の立場からは言えないの」
怒りが収まらない様子であった。
「怒る時には、10数をゆっくり数えるんだ。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10とね。それでも怒りたければ怒る。でも怒ると損をするよ」 そのように父に諭されていた。
美登里は想った。
人間は、死期が迫っても、誰かと必ず出会う。
「出会いも、まさに宿命。良い人にも出会う。悪い人にも出会う。それも定めではないのか?」

2012年2 月29日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 8
叔母の葬儀は、東京・文京区本駒込の吉祥寺で執り行われた。
叔母の父母と兄弟、姉妹たち6人が、山梨県からやってきた。
叔母は6番目に生まれた娘であった。
「こんなに、若くして亡くなるなんて・・・」と死に顔を見てみんなが泣いていた。
美登里は、父と1年ぶり会ったが、父の背後に居る人を見て目を見張った。
息が詰まり、声も出なかった。
52歳となった母親が美登里の前に姿を見せたのだ。
美登里が10歳の時に母親に若い男ができて、悶着の末に家を出て行ってしまった母親とは9年ぶりの再会であったが、とても複雑な想いがした。
父親は行く場所がなくなり困り果た末に、仕方なく自分の許へ戻ってきた妻を許し受け入れたのだ。
狭い田舎の土地であり、母親のことは暫く噂も立っていた。
気まずい思いをしたはずの母親が厚顔にも、父の許に戻って来るとは、どう考えても美登里には理解できないことであった。
美登里は知らなかったが、母親は温泉芸者であった。
美登里の父の幸吉は、勤めている農協の旅行で美登里の母の五月と出会った。
どのような経緯があったのか、五月は幸吉の押しかけ女房となった。
実は五月には連れ子の男の子がいたが、2歳の時に近所の川に落ちて死んでしまった。
村人たちは、幼子から目を離した母親の軽率さに非難の目を向けていた。
だが、勝気な五月は、相手を見返すように振舞っていた。
「まったく厚顔無恥、何処の馬の骨か分からん女だ」
村人たちは烙印を押すように五月を蔑んだ。
父の幸吉は5人兄弟、姉妹の家族の二男で、実家の農家を長男が受け継いだ。
幸吉の母は48歳の時に結核で亡くなっている。
そして、幸吉の父親は52歳で脳出血で逝った。
和服の喪服を着ている美登里の母親は、52歳になったが、葬儀の中でも浮いたような存在に映じた。
豊かにアップに結った髪型で厚化粧であり、どこから見ても平凡な家庭の主婦のようには想われない。
何処か水商売の女のような雰囲気を漂わせているのだ。
「美登里、その髪型素敵だよ!綺麗な女になったね。私似じゃないね。やっぱり性格もそうだけど、お前さんは、お父さん似だね」
葬儀が終わると母親の五月が美登里の前にやってきて、美登里の手を取った。
母親には、娘を棄てて家を突然出て行った時の謝罪の言葉は最後までなかった。
2012年3 月 2日 (金曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 9
その宗教の話は、美登里の心に綿が水を吸うように浸み込んできた。
多くの参加者が、何の飾りもなく自分の過去を語っていた。
そして、信心をしたことで、「宿命を転換できた」と言っていた。
美登里を会合に誘った敏子も赤裸々に過去を語った。
敏子は教育大学を出て、小学校の教師となったばかりの年の夏休みの臨海学校で、生徒の水死事故に遭遇した。
亡くなった1年生の男子生徒の担任の女性教師は42歳、泳げなかったので深みはまった生徒を目撃したのに、自ら助けに行けなかったのだ。
生徒を引率してきた教師たちは、それぞれのクラスの生徒を監視していた。
敏子は1年目の新米教師であるのに、5年生のクラスを担当していた。
行くへ不明となった生徒の担任の女性教師は、取り乱して初めに敏子に助けを求めに飛んで来た。
ところが、敏子も泳げなかったのだ。
結局、50㍍くらい離れたところに居た男性の教師に助けを求めた。
さらに緊急の事態を知って、6人の男性教師たちが海へ向かった。
海で遊んでいた生徒たち全員が岸に集められた。
緊急事態に20代と思われる海の監視員も2人駆けつけてきた。
だが、行方不明となった生徒は、みんなが必死に探した関わらず何時までも見つけられなかった。
そして、虚しくも海に沈んでいたことが約1時間後に発見され、蘇生術を施されたが息を吹き返すことはなかった。
救急車で房総の市民病院に運ばれ生徒の死が確認された。
責任を感じた担任の女性教師は2日後、自宅の部屋で首を吊って自殺をした。
「若い自分が泳げなかった。教師失格ね」
生徒の水死で敏子自身も非常に責任を感じていた。
その年の秋に、敏子は同じ大学出身の先輩である男性教師に導かれて信心を始めたのだった。
「私はこの信心で、宿命を転換することができまいた」
敏子の体験を聞いたみんなが「良かった」と肯いていた。
明るく快活に見えた敏子には、悲惨な過去の体験があったことに美登里は心が動かされた。
「私にも宿命は必ずあるはず、それを断ち切ることができるのなら、信心をするほかないかもしれない。私も敏子さんのような凛とした女性になりたい」
その日、美登里の心は大きく傾き信心をする決意をした。
「美登里さん、私たちと一緒に幸福になりましょね」
会合に参加した全員から祝福された。
「良かったね」
「本当の幸せをつかもうね」
「宿命を転換できるからね」
誰彼無しに声をかけられて、美登里は肯くながら感極まって泣いた。
2012年3 月 2日 (金曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 9
その宗教の話は、美登里の心に綿が水を吸うように浸み込んできた。
多くの参加者が、何の飾りもなく自分の過去を語っていた。
そして、信心をしたことで、「宿命を転換できた」と言っていた。
美登里を会合に誘った敏子も赤裸々に過去を語った。
敏子は教育大学を出て、小学校の教師となったばかりの年の夏休みの臨海学校で、生徒の水死事故に遭遇した。
亡くなった1年生の男子生徒の担任の女性教師は42歳、泳げなかったので深みはまった生徒を目撃したのに、自ら助けに行けなかったのだ。
生徒を引率してきた教師たちは、それぞれのクラスの生徒を監視していた。
敏子は1年目の新米教師であるのに、5年生のクラスを担当していた。
行くへ不明となった生徒の担任の女性教師は、取り乱して初めに敏子に助けを求めに飛んで来た。
ところが、敏子も泳げなかったのだ。
結局、50㍍くらい離れたところに居た男性の教師に助けを求めた。
さらに緊急の事態を知って、6人の男性教師たちが海へ向かった。
海で遊んでいた生徒たち全員が岸に集められた。
緊急事態に20代と思われる海の監視員も2人駆けつけてきた。
だが、行方不明となった生徒は、みんなが必死に探した関わらず何時までも見つけられなかった。
そして、虚しくも海に沈んでいたことが約1時間後に発見され、蘇生術を施されたが息を吹き返すことはなかった。
救急車で房総の市民病院に運ばれ生徒の死が確認された。
責任を感じた担任の女性教師は2日後、自宅の部屋で首を吊って自殺をした。
「若い自分が泳げなかった。教師失格ね」
生徒の水死で敏子自身も非常に責任を感じていた。
その年の秋に、敏子は同じ大学出身の先輩である男性教師に導かれて信心を始めたのだった。
「私はこの信心で、宿命を転換することができまいた」
敏子の体験を聞いたみんなが「良かった」と肯いていた。
明るく快活に見えた敏子には、悲惨な過去の体験があったことに美登里は心が動かされた。
「私にも宿命は必ずあるはず、それを断ち切ることができるのなら、信心をするほかないかもしれない。私も敏子さんのような凛とした女性になりたい」
その日、美登里の心は大きく傾き信心をする決意をした。
「美登里さん、私たちと一緒に幸福になりましょうね」
会合に参加した全員から祝福された。
「良かったね」
「本当の幸せをつかもうね」
「宿命を転換できるからね」
誰彼無しに声をかけられて、美登里は肯きながら感極まって泣いた。
コメント

創作欄 徹の青春 20

2018年08月10日 08時23分07秒 | 創作欄
2012年3 月23日 (金曜日)

加奈子は徹との気持ちが離れていくなかで悲嘆に暮れていた。
徹の妹の君江を強姦したと思われる犯人の3人が逮捕されたことを新聞で知ってから、心の動揺を抑え難くなっていた。
君江は、「被害を警察に届けたら私は死ぬ」と泣きじゃくっていた。
「私はどうしたらいいの」
眠れない夜が続いていた。
16歳の乙女心は日々沈黙に堪え難くなっていた。
誰にも話すことができない、それはとても辛いことであった。
まさかと思ったが、8月5日に自分が交番を訪れたことを、あの時の警察官が覚えていたのだ。
高校からの下校途中に警官から呼びとめられて、交番に連れて来られた。
「あんたに協力してもらいたいんだ。頼むよ」
横柄に思われた警官が、帽子を脱ぎ汗を拭うと真摯な眼差しを加奈子に向けた。
加奈子がしばらく迷いながら沈黙をしていると、街の巡回から50代と思われる警官が自転車で戻ってきた。
「この子がどうかしたのか?」
戻ってきた警官は、交番の丸椅子に座る加奈子に視線を向けた。
加奈子はこの警官は信頼が置けると思った。
いぶし銀のような雰囲気であり、懐の深さを感じさせたのだ。
その警官は定年を間近に迎えていた。
「実はね、私は長年沼田で警察官をやってきたが、今度の事件のような犯人は初めてなんだよ」
交番の奥から加奈子のためにお茶を運んできて老警官は、しみじみとした口調で言うのだ。
逮捕された勝海は、24歳であったが強姦常習犯であり、実にふてぶてしい態度をとり続けていた。
だが、逮捕されて2週間後に義母が農薬を飲んで自殺をしたことを取り調べの中で聞かされると、それまでの態度を一変させた。
心に非常な衝撃を受けたのだ。
子どものころにイジメられていた勝海を、義母は不憫だと実の子ども以上に溺愛していた。
東京大空襲で戦災孤児となった姉の子である勝海を、母性本能から哀れに思い引き取り育ててきたのだ。
ところがまさかであった、勝海は強姦常習犯として逮捕されてしまった。
「私の育て方が悪かったのだ」
義母は自分を責め抜いて、挙句の果てに自死の道を選んだ。
狭い月夜野の土地の目とマスコミの取材攻勢にも堪え切れなかったのだ。
「おい、勝海よく聞け! お前のおふくろがだな。農薬を飲んで自殺をしたんだ。そろそろ、洗いざらい話すんだ」
取調官は鋭い視線を勝海に向けて促した。
勝海はそれを聞かされると突然、取調室の机にうつ伏せとなり声を張り上げて泣いた。
そして9件の強姦の全てを、さらけ出すように自白した。
だが、強姦の被害届は3件のみであった。




2012年3 月23日 (金曜日)
創作欄 徹の青春 21
老警官は加奈子の心を解きほぐすように、帽子を脱ぐと穏やかな口調で語りかけてきた。
「言いたくない事情があるんだね。分かるよ」
加奈子は老警官の五分に刈り上げたゴマ塩頭を見つめた。
老警官はその頭を左手で撫で回すようにして、微笑んだ。
「帽子をとると、お爺さんのように見えるかい? 私は実は年内で引退だ。お茶が冷めるよ」
加奈子は勧められるままにお茶を啜った。
40代の警官は、黙って加奈子を見つめていた。
加奈子の心を読みとるような鋭い目の光を放っていた。
「8月5日の夜のことを詳しく話してもらえないだろうか?」
加奈子はお茶を二口、三口飲んだ。
そしてあの夜のことを語り始めた。
「君江さんを1人で家に帰した私たち2人が悪かったんです」
加奈子は涙がこみ上げてきて、両手で顔を覆った。
2人の警官は無言で加奈子を見つめていた。
突然、突風が吹いて交番の窓ガラスが揺らいだ。
西に傾いた秋きの陽射しに、冬の気配が感じられる時節となっていた。
老警官が加奈子に問いかけ、40代の警官が鉛筆を手に加奈子の話を筆記していた。
話し終えると加奈子はそれまで背負ってきたものが、いくらか軽くなったような想いがしてきた。
「ご苦労さん、家まで送って行きたいが世間の目もあるからね」
老警官は加奈子を交番の外に送る出しながら微笑みかけた。
加奈子は疎遠になってしまった徹に無性に逢いたくなった。
高校を中退してしまった徹は、相変わらず街中を彷徨していた。
だが皮肉であった。
徹は報復の炎に燃えていたのであるが、君江を強姦した3人の強姦犯人たちは警察に逮捕されていた。
加奈子は徹の報復を、「愚かな行為だ」と何度か思い留めるように諭してきた。
竹刀袋に江戸時代から家に伝わる脇差を隠し持って、徹は沼田の街中を彷徨っていたのだ。
「もう、徹さんにはついていけない」
16歳の加奈子が常軌を逸した17歳の徹から離れていったのは当然なことであった。
「でも、君江さんのことを警察に話してしまった以上は、直ぐに徹さんに会わなければならない」
加奈子は急ぎ足で徹の家へ向かった。
2012年3 月24日 (土曜日)
創作欄 徹の青春 23
沼田公園のある崖上の台地に最初に沼田城を築いたのは、鎌倉時代以来この地方の有力者であった沼田氏の12代万鬼斎顕泰である。
天文元年(1532)の頃であるとされている。
沼田城は倉内城とも呼ばれていた。
そして時代が経て、2万7千石の真田氏初代沼田城主となった真田信幸は、近世的な城郭の整備にとりかかり、二の丸、三の丸、堀、土塁、大門等の普請の後、慶長2(1597)年(一説には12年)には天守が完成したと言われている。
だが、天和元年(1681)11月、5代真田信利は江戸両国橋用材の伐出し遅延と失政の名目で城地は没収、改易となった。
沼田城は幕府に明け渡され、翌2年に城はすべて破却されて堀も埋められしまった。
大正5年(1916)、旧沼田藩士の子である久米民之助は、城地の荒廃を惜しみ私財を投じて購入して公園として整備し、大正15年(1926)に沼田町に寄付した。
断崖に面した本丸西櫓台の石垣や城址公園入り口の駐車場脇に残る三ノ丸土塁、わずかに残る本丸堀、西櫓台石垣、堀跡の一部などに城址としての名残をとどめているに過ぎない。
徹と加奈子は子持山が見える沼田城址の断崖の上に立っていた。
眼前に見える子持山を2人は見つめていた。
小学生の頃、学校の遠足で登った山だった。
「加奈子との別れの予感がするんだ」
徹はセーラー姿の加奈子の姿を目に焼き付けるように見つめた。
加奈子は恋心が既に覚めていたが、思わず徹の手を握り締めた。
密着した加奈子の豊かな腰の温もりが徹に伝わってきた。
「徹さん、高校に戻ってね。そのまま高校を中退してはダメ。実は私は音大を目ざしているの」
「音大?」
加奈子はしばらく沈黙して子持山を見つめていた。
徹は加奈子の瞳を見つめ、次の言葉を待った。
加奈子は子持山を見つめながら、母のことを想っていた。
子持山を見つめながらその山容に母と自分を重ね見た。
高い峰が母の姿であり、小さい脇の峰が自分の姿である。
昭和20年、東京は空襲の戦火に見舞われていた。
加奈子の母親の時子は、1歳の加奈子を連れて沼田の実家に疎開した。
「母はね、東京音楽専門学校を出ているの」
加奈子の母親の時子は、高校の音楽教師である。
徹は、「それがどうしたのか」と思いながら加奈子の話を聞いていた。
加奈子の母の時子は、声楽家を目ざしていた。
だが、戦争がその夢を打ち砕いたのだ。
時子は東京音楽専門学校のピアノ講師と恋愛関係となり結婚した。
東京の根津で新婚生活を送っていたのであるが、夫は昭和20年軍隊に招集され戦地へ赴いたのだ。
そして太平洋上で戦死している。
南方へ向かっていた戦艦が、アメリカ軍の航空編隊の空爆で撃沈されたのだ。
加奈子は話終えると目を輝かせるようにして、進路について明かした。
「母の果たせなかった夢を、私がかなえようと思っているの。私、必ず声楽家になるわ」
徹は高校を卒業する加奈子を待って、結婚したいと願っていた。
徹には格別、将来に果たすべき夢があるはずではなかった。
2012年3 月24日 (土曜日)
創作欄 徹の青春 24
歌が音痴で苦手な人はいる。
だが、歌を聴くことが嫌いな人はいるのだろか?
歌は人の心を感動させるものだ。
歌が希望の光ともなるはずだ。
徹は歌が好きであったが、残念ながら音痴であった。
加奈子が尾瀬沼で「夏の思い出」を歌ったことが、徹の頭に蘇ってきた。
その美しい声に徹の心は改めて魅せられた。
徹は加奈子とこれからも、ともに歩んでいきたいと願っていた。
だが、加奈子の態度はそれまでとは違ったものとなっていた。
恋心が突然覚めてしまうことは、男女の仲ではままあることだ。
それは仕方のないことであった。
人の心は移ろいでいくものなのだ。
相手の心変わりを咎めても、元に戻ることはまずないであろう。
だが、諦めきれずに未練を引きずる場合が大半である。
作家、音楽家、芸術家たちは、作品に悔やむ思いや悲嘆を昇華するすべをもっている。
「加奈子、歌を聞かせてほしいんだ」
徹は子持山に背を向けて立つ加奈子に懇願するように言った。
加奈子との別離の予感し、心がしんみりとしていた。
「何にしようかな?」
加奈子は徹を見つめて、その時の思いを口にした。
「徹さんは、とてもハンサムなのね」
「今更、気づいたの?」
徹は苦笑いを浮かべた。
徹は死んだ父親の写真を見て、自分も大人になったら父のような美男子になれたらと思っていた。
仏間には、72歳でなくなった祖父の金蔵の写真額と47歳で胃がんで亡くなった祖母の写真額と並んで父の写真額が掲げられていた。
昭和20年、高崎連隊に入隊する3日前に、倉内町の写真観で写した軍服姿の父の写真であった。
徹は美男子であった父に容貌が段々似てきていた。
加奈子は「荒城の月」を歌った。
その澄んだ歌声に徹は深い感動を覚えた。
秋風が紅葉した桜の葉を散らしていた。
2012年3 月25日 (日曜日)
創作欄 徹の青春 25
2人の刑事が徹の家へやってきた日、義父は外出中であった。
その日は土曜日で、義父は愛人と老神温泉へ行っていた。
「沼田警察だが、話を聞きたいので、家にあがらせてもらうよ」
「娘さんの君江さんのことで、来たんだがいいかね」
「君江のことですか?」
15歳の娘に何があったのか、江利子は心外に思った。
2人は玄関で名前を名乗ったが、江利子の耳に残っていなかった。
初めは、高校を中退してから沼田の街中を歩き回っている息子の徹が、何か事件を起こしたのだと思って身構えていた。
息が詰まった母親の江利子は気を取り直し、刑事2人を座敷に招いて応対した。
刑事は徹と交際している加奈子から、交番の警官が事情聴取したことを明らかにした。
「すると、娘の君江が強姦の被害を受けたのですね?!」
驚愕して胸の動機が激しくなった。
刑事の一人は恰幅がよく、髪は7.3にきちんと整えていて、年齢は40代後半と思われた。
もう一人の刑事は20代か30代か分からない、角刈りの頭で若く見えた。
江利子は2人を等分に見つめて、次の言葉を待った。
「事件のことは、知らかなかったのかね? 今聞いてさぞ驚いただろう」
40代と思われる刑事が身を乗り出すようにして江利子の顔を凝視した。
「そんなはずはない。ウソを言っているのだろ」と刑事は胸の内で想ったようだ。
人の心を見透かすような鋭い視線であった。
「加害者の勝海は、洗いざらい自白しているのだが、裏が大半取れていない。被害届が出ているのが3件。だが、被害者は9人いるんだがね」
ベテランの刑事が語気を強めて、座敷のテーブルを両手で押さえながら、さらに身を乗り出すようにして江利子に告げた。
「9人も被害者が・・・」
江利子は言葉を失った。
「それでだ、娘さんには絶対、被害届を出してもらいたいんだ、悪いようにはしないよ」
若い刑事は終始沈黙して江利子を凝視していた。
君江はその日、部活のテニスで家には居なかった。
実はその日、徹は加奈子と沼田城址公園に居たのだった。
2012年3 月26日 (月曜日)
創作欄 徹の青春 26
徹の義父佐吉は、その年の11月頃から、毎週土日、外に出掛けることが多くなった。
後で判明したのであるが、高崎競馬へ行っていたのである。
きっかけは、農協の同僚に、「競馬は面白いぞ、行ってみないか?」と誘われたのだ。
そして、ギナーズラックと言われているが、初めての競馬で12万円余の大金を手にした。
佐吉は競馬が初めてで予想のしようもない、遊び心から6月2日生まれなので、2-6の馬券を1000円買った。
2枠の馬と6枠の馬は全く人気なかった。
7枠と8枠の馬に人気が集中していた。
佐吉が勝った2-6の馬券を見せられて、同僚の高野進は、苦笑した。
「そんな馬券を買って、馬鹿だな。来るわけないよ。次のレースは俺の教えるとおりにかいな。2-6を買うなんて金を溝に捨てるようなもんだ」
佐吉は馬券が外れても、1000円を失うの過ぎないと思っていた。
だが、レースは波乱を呼んだ。
スタートと同時に、8枠の1番人気の馬に乗った騎手がゲート内で立ち上がったために馬から振り落とされたのだ。
競馬場内が騒然となった。
だが、8枠には3番人気の馬もいて、外から勢いよく先頭に立って走っていた。
2番人気と4番人気の7枠の馬も先頭集団の位置を走っていた。
佐吉は自分が買った2番の馬と6番の馬を見ていた。
全くの人気薄の馬であったが、比較的良い位置を走っていた。
競馬ファンの大半は、7-8か7-7で決まるだろうとレースを見守っていた。
だが、ゴールまえ10メートルくらいの位置で、人気馬が失速したのである。
ゴール板を人気薄であった6番と2番の馬が1、2着で駈け抜けた時、場内に大きなどよめきが起こった。
佐吉はスローモーションの場面を見ているような思いがした。
同僚の高野進は顔面が蒼白となって、正面スタンドの座席にへたり込んでいた。
本命に畑を売って工面した50万円を投じていたのだ。
場内放送は、配当金1万2570円を告げていた。
佐吉は1000円を投じて、12万5700円を手にした。
昭和35年のことであり、農協に勤務してる佐吉にとっては、それは大金であった。
同僚の高野進はその後、破滅の道を辿っていくが、佐吉も競馬にのめり込んでいった。
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創作欄 美登里の青春 2

2018年08月10日 08時19分45秒 | 創作欄
人には、色々な出会いがあるものだ。
美登里は、徹と別れた後、思わぬところで男と出会った。
小田急線の下北沢駅のベンチに座っていると、新聞を読みながら男が脇に座った。
横顔を見て、「ハンサムだ」と思った。
ジャニーズ系の顔だ。
男は視線を感じて、美登里に目を転じた。
「こんにちわ」と男が挨拶をして、ニッコリと微笑んだ。
女の心をクスグルような爽やかな笑顔である。
「女の子にもてるんだろうな」と想いながら、美登里も挨拶をした。
「君は、競馬をやるの?」
男は新聞を裏返しながら言う。
甘い感じがする声のトーンであった。
「競馬ですか? やりません」美登里は顔を振った。
「明日はダービーがあるんだ。一緒に府中競馬場へ行かない?」
赤の他人からいきなり意外な誘いを受けた。
21歳の美登里は、妻子の居た37歳の徹が初めての男であった。
目の前に居る人物は、徹とはまったくタイプの違う20代と思われる男だ。
「あなたと初対面だし、競馬をやらないので行けません」美登里は断った。
「そうか、残念だな。もし、来る気になったら、内馬場のレストランに居るから来てね。競馬仲間とワイワイやっているから」
美登里は愛想笑いを浮かべて、うなずいた。
男が読んでいたのは、スポーツ新聞の競馬欄だった。
急行電車が来たので、それに乗る。
徹は美登里の存在を忘れたように、新聞に埋没していく。
美登里は登戸駅で降り時に、脇に立つ男に挨拶をした。
「お会いできて、光栄です」控えめな性格の美登里自身にとって、想わぬ言葉が口から出た。
「ではね」
男は爽やかに笑った。
「また、何処かで出会うことがあるだろうか?」美登里は電車を見送った。
男は新聞に目を落としたままであった。
美登里は徹との別れを苦い思いで振りかえった。
最後は痴話喧嘩となった。
徹は美登里の気持ちを逆撫でにした。
徹は妻が妊娠していることを、無神経にも美登里に告げたのだ。
「そんなこと、どういうつもりで、私に言うの」
徹はバツが悪そうに沈黙した。
「この人は、都合が悪いと黙り込むんだ」
美登里は徹が風呂に入っている間に、怒りを込めたままホテルを出た。
渋谷のネオン街全体が、美登里には忌々しく想われた。
2012年2 月15日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 3
あれから3年の歳月が流れた。
それは24歳の美登里にとって、長かったようで短かったようにも思われた。
徹と別れたが、気持ちを何時までも引きづっていたことは否めなかった。
美登里の当時の職場は、徹の職場の九段下に近い神保町。
美登里の伯父が経営する美術専門の古本店であった。
現在の職場は、東京・新宿駅の南口に近い国鉄病院(現JR病院)の医療事務である。
その日、小田急線登戸駅沿いのアパートへ帰り、ポストを確認すると茶封筒があった。
裏を返すと友だちの峰子の手紙であった。
お洒落な封筒を好む峰子が、何故、茶封筒なのだろう?
美登里は部屋の灯りの下で、着替えもせず封を切った。
「ご無沙汰で、このような手紙を書くのを許して。私は今、千葉県松戸の拘置所の中にいるの。会いに来てね。その時、何か本を差し入れてね。それから大好きなチョコレートが食べたいの。それもお願い、差し入れてね。私は3歳の娘と心中したのだけれど、娘だけが死んで私は生きてしまったの。死ねばよかったのに、何という皮肉なの。待っています。必ず会いに来てね」
美登里は息を止めたままその手紙を読んだ。
想像はどんどん拡がっていく。
情報が乏しい中で頭を巡らせながら、何度も立ったまま手紙を読み返した。
美登里は新聞を購読していない。
テレビもあまり見ない。
峰子のことは、当然、マスコミで報道されただろう。
美登里は段々頭が混乱してきた。
思えば徹との問題で峰子に相談したことがあった。
「焦ることが、一番、いけない。時間が解決すると言われているわね。今は美登里にとって冬なの。冬は必ず春となる。そうでしょ、自然の摂理でしょ」
あの時、峰子は言った。
そして、妻子のある徹との別れは、意外な展開でやってきた。

2012年2 月17日 (金曜日)
創作欄 美登里の青春 4
「頑張れ」
励ましは、確かに重荷になる場合もあるだろう。
だが、真意が伝わるのなら、その励ましは背中を押す力になるはず。
真意が伝わりにくい世の中でもある。
善意が、悪意に捉えられることもあるだろう。
人間関係の微妙さである。
美登里は、病院の勤務を休んで峰子の面会へ千葉県の松戸市内にある拘置所へ向かった。
そこは、まったく無縁な場所であり、1人で行くことに不安も覚えた。
本3冊とチョコレートを差し入れるため、前日それを買い求めた。
駅前の交番で拘置への道順を聞いた。
中年の警官が親切に教えてくれた。
椅子に座る若い警官はしげしげと美登里に視線を注いでいた。
教えられた女学校が右手に見えた。
それから公園を抜けた時、母子の姿を見た。
母親はどこか峰子に似ていた。
そして、3歳くらいの女の子を見て、峰子がどのような形で我が子を殺したのかを想ってみた。
拘置所の手前に小学校があったことは、意外だった。
受付で吉田峰子に面会に来たことを告げた。
用紙に面会する峰子の名前を書き、友人 佐々木美登里と記入、住所欄も書いた。
差し入れの包を出したら、「本は差し入れられますが、食べ物はだめです」と係りの人が言う。
「これはチョコレートなのですが、だめですか?」美登里は心外に思った。
「規則です。食べ物を差し入れたければ、所定の店で購入してください。外へ出て50メートルくらい先の右側に店はあります」と言われた。
待合室には和服を着た女性と目つき鋭い男が2人居た。
「あんた、初めて面会に来たんだね」
和服姿の女性が声をかけた。
「そうです」
美登里は改めて女性の顔を見た。
厚化粧であり、普通の女性には見えない。
髪をアップにして粋な感じがした。
30代後半の年ごろであり、顔は綺麗な感じがしたが、どこか異質である。
大きな瞳は人を圧倒するようで、押し出しの強さが漂っていた。
「三郎、案内してやりな」と女性は顎で若い男を促した。
椅子から立ち上がった男は、180cm以上背丈があった。
角刈りで高校生のようにも見えたが、目つきが鋭い。
「おねいさん、何処から来たの」
突き刺すような目とは裏腹に、声は意外に優しかった。
「川崎市の登戸からです」
「登戸? どの辺?」
美登里は男の大きなスニーカーに目を落としていた。
自分の靴の倍くらい大きい。
「小田急線の登戸駅から来ました」
「そうなんだ。遠くからきたんだな」
若者が笑うと白い歯が見えた。
歯並びがいいなとそれを見た。
店のガラス扉を男が開けてくれた。
店は2坪くらいで狭く、果物、菓子、下着を含めて日常雑貨製品が棚に収まっていた。
60代と思われる男性が店番をしていた。
チョコレートとバナナを買った。
それを店の人がケースに収めた。
ケースごと峰子宛に店から届けられる仕組みだった。
面会室は5つあった。
美登里は3番の札を渡された。
着物姿の女性と男性2人は5番。
1番、2番は面接中。
男たちは、ほとんど無言であった。
どのような人たちなのだろう?
美登里は気にした。
そして、峰子と面会したら、どのような言葉をかけようかと考えた。
「頑張って」と言うべきか?
峰子は泣くだろう、自分も泣くに違いない。
美登里はバックからハンカチを取り出した。

2012年2 月19日 (日曜日)
創作欄 美登利の青春 5
拘置所の面会室は、3人も入れば一杯といった感じであった。
美登利が席に着いたと同時に、扉が開いて女性の係官に先導されて、峰子が姿を現わした。
ガラスの窓越しに見た峰子は、一瞬、笑顔を見せたが、直ぐに涙を浮かべた。
化粧をしていない峰子の頬は青白く、目の周囲は赤く泣き腫らしたままであった。
小さな丸い穴があいたプラスチック製の窓越しに二人は相対した。
「来てくれて、ありがとう」
美登利は黙ってうなずいた。
「来週の火曜日に、初公判があるの。来られたら来てね」
「火曜日なのね?」
「午前中なの」
面会時間は約20分。
峰子の背後に座る係官が二人の会話をメモしていた。
「私のこと、驚いたでしょ」
「驚いたわ。私、新聞読んでいないの。それにテレビもあまり見ていないし、峰子のことは手紙をもらって初めて知ったの」
「そうなの。何も私のこと知らなかったの? 誰かに聞かなかったの?」
峰子は思い出したのだろう、肩を震わせて泣いた。
頭を深く垂れたので長い髪が顔を覆った。
抑えた嗚咽がいかにも悲しい。
美登利は峰子が哀れれに思われ、咽び泣いた。
そのまま、暫く時間が経過した。
あれを言おう、これを言おうと電車の中で思っていたが、美登利の頭は真っ白になった。
特に美登利は、自分が信奉している宗教の教えを峰子に伝えようとした。
係官はペンを止めて二人の姿を冷やかに見ていた。
やがて面会終了の時間が告げられた。
「頑張ってね」
扉の向こうに峰子が姿を消す瞬間、美登利は声をかけた。
峰子はラフな水色のジャージ姿であった。
美登利が3番の面会室の外へ出るとほとんど同時に、和服姿の女性たちも5番の面会室を出てきた。
「あんた、松戸駅まで行くんだろう?」と背後から声をかけられた。
「はい、そうです」
美登利は振り向いて和服姿の女性を見つめた。
「駅まで車で送って行ってあげる。遠慮はいらないよ」
強引な言い方であった。
美登利はうなずく他なかった。
「三郎、車を玄関によこしな」
「ハイ、ねいさん。直ぐに車とってきます」
三郎と呼ばれた男が駐車場へ走り出していく。
もう1人の男は、紙袋を抱え和服姿の女性の背後に立っていた。
この男も角刈り頭で三郎ほど背丈はないが、がっしりとした体形である。
「孝治 今度の公判は何時と言っていた?」
「親分の後半は、来週の火曜日、午後1時です」
「そうだったね」
和服姿の女性が玄関の外でタバコをくわえると、男が素早く脇からライタを取り出した。
間もなく、拘置所の玄関の外に黒塗りのベンツが横付けされた。
男二人が前の席に乗り、美登利は和服姿の女性の隣に座った。
「面会の相手は、誰なの?」
和服姿の女性は横目に美登利を見た。
「友だちです」
「男だね?」
「女性です」
「女? 罪は?」
前の席の男二人が背後に目を転じた。
「親子心中です。子どもは亡くなり、友だちは死ねなかったのです」
「そうかい。じゃあ、殺人罪だね」
和服姿の女性は眉をひそめた。



2012年2 月19日 (日曜日)
創作欄 美登利の青春 6
「私の名前は、米谷明美。あんたと拘置所で会うなんてね」
和服姿の女性は名乗ると頬だけで笑った。
大きな瞳は人を射るようであった。
厚化粧で隠されていたが、左頬にナイフでの切り傷があった。
「お茶、ご馳走するから、私の店へ寄っていって」
松戸駅が近くなった時、米谷明美が美登利を誘った。
深く関わりたくない人たちであるから、美登利は断ろうとしたが、言い出せなかった。
松戸駅の傍のデパートの裏側の道路に面したビルの1階にその店はあった。
男二人は店の前で米谷明美たちを降ろすと走り去って行った。
後で知ったのであるが、広域暴力団S連合箱田組の男たちであり、組事務所は新松戸駅から歩いて10分ほどの商店街沿にあった。
明美の店の名前は、「パブ新宿」。
夜の営業時間は午後7時から午前2時までであった。
午前11時から午後5時まで軽食喫茶店として営業されており、女子高校生たちの溜り場となっていた。
「私ね。高校生の頃は、東京の新宿歌舞伎町で遊んでいてね。今は流れ流れて松戸。この店ご覧のとおり、女子高生が多いでしょう。私と波長は合うのね。彼女たち私に色々相談ごとするの」
女子高校生たちを見つめる明美の瞳が優しくなった。
「窓際に居るあの声が大きい子、スケ番なの。昔の私のよう」
美登利はその女子高校生を見た。
よく動く大きな目が特長で、明美のように人を射るような輝きをしていた。
20歳で子ども産んだ明美には19歳の息子がいた。
フェザー級のプロボクサーであった。
「今度の土曜日、午後7時に後楽園ホールで試合があるの。来てね」
明美はチケットをカウンターのテーブルに置いた。
美登利はコーヒーカップを置き、そのチケットを手にした。
ボクシングの試合を見たことがなかった。
「ボクシングですか? 試合見るの、怖くありませんか?」
美登利は病院の医療事務職であるが、血を見るのは苦手である。
明美は肉弾がぶつかり、激しく打ち合う迫力に血がたぎる思いがして、試合にはいつも興奮した。
美登利は断りきれず、後楽園ホール行く約束をして明美の店を出た。

2012年2 月21日 (火曜日)
創作欄 美登里の青春 7
松戸の裁判所での初公判の光景は、美登里にとって衝撃的であった。
傍聴人は男性が2人、女性は美登里を含めて3人、地元の千葉の新聞社など報道関係者が2人であった。
表面の扉が開き裁判長らが入廷して、全員が起立した。
そして、右側の扉が開き、手錠、腰縄の姿で刑務官に先導されて峰子がうな垂れて入廷してきた。
席に着く前に、峰子の手錠、腰縄が外された。
峰子はうつむいたままで、一度も傍聴席に目を向けることはなかった。
美登里は濃紺の地味なスーツ姿であり、化粧もしていなかった。
初めに検事が詳細に罪状を述べた。
それから国選弁護人が医師の診断書に基づき峰子の弁護をした。
峰子は犯行半年前から地元松戸市内病院の精神科に通院していた。
さらに、東京・四谷に住んでいた時には、信濃町の大学病院の精神科にも通院していた。
弁護士は、犯行時に峰子が心神喪失状態であったと主張した。
裁判官3人が顔を見合せながら言葉を交わしていた。
そして、裁判官が、「次回公判は3月24日、火曜日、午前11時、それでいいですか」と弁護人に尋ねた。
弁護人は、手帳を確認してから、「結構です」と答えた。
裁判所を出て、美登里は前回と同様に本とチョコ―レートとバナナを差し入れるために、拘置所の所定の店へ行った。
その店で美登里は、暴力団員の三郎に再会した。
「親分の裁判が、午後1時にあるんだ」と三郎が言う。
美登里は罪状は何だろうと思った。
拘置所へ行くと三郎が「ねいさん」と呼ぶも米谷明美が居た。
「2週続けて、拘置所に来るなんて、あんた、偉いね」と明美は微笑んだ。
明美はこの日のは和服姿ではなく、豊か胸が大きく開いた花柄模様のワンピース姿であり、妖艶な感じがした。
明美は39歳であり、19歳の息子が居る母親の姿とは思われない。
明美は和服姿の時は髪をアップにしていたが、この日は長く髪は下ろしていたので、若く見えた。
美登里は、後楽園スタジアムでのボクシングの試合の観戦に誘われ、チケットまでもらったのに、その試合に行かなかったことを明美に謝罪した。
「いいよ。気にしなくとも。息子は判定で試合に負けた。あの子は性格が優しいから、ボクシングに向いてないかもしれない。攻めきれなかった」
美登里は、どのように言うべき分からずうなずいた。
美登里はその日、休むわけにいかず、午後から病院の勤務に向かい、その日は午後8時まで残業をした。
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