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さむらい小平次のしっくりこない話

世の中いつも、頭のいい人たちが正反対の事を言い合っている。
どっちが正しいか。自らの感性で感じてみよう!

光る君へ 大河ドラマを久々見てます

2024-01-30 | 歴史



こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

今年のNHK大河ドラマ

『光る君へ』

まだ3話くらいでしたかね、今のところ続けて見ています

小平次はNHKの大河ドラマって、本当につまらない、というかイライラしてしまうのでほとんど見ません

描かれる時代も、戦国時代か、幕末から明治にかけての時代が大半で、辟易しているって感じなんです

この時代しか視聴率を獲れない、という観る側の問題もあるのかとも思いますが、NHKなんですからそのあたりは気にせず、どんどん他の時代もやって欲しいと思うのです

まあ、そうは言っても他の時代をやると大体不評になるようです

小平次が戦国時代や幕末の大河ドラマを見てつまらない、と思うのは、脚本家の妄想力、想像力が根本的に欠如していて、とても陳腐な物語になってしまっている、と感じるからです

例えば戦国時代、群雄割拠する武将たちが、天下統一を目指し競い合うわけですけど、そもそも何で自分が天下統一をしなくてはならないのか、その理由が判然としません

少しでも自分の領地を広げるために戦をしていた、かのような設定も見られますが、ではどうしてそのような状況が国内に生まれたのか、などなど、設定が不明なんです

『ワシが天下人になるのじゃああ!』

くらいのセリフも飛び出したりしますが、なぜ天下人にならなくてはならないの?

領地などに対する物欲?、名声欲? 権力欲?

その理由が不明なんです

本来、その理由を考えるのであれば、少なくとも応仁の乱くらいまで遡る必要があると思いますし、後述しますが、時の世界情勢も無視できません

そういうことを全く無視して

『ワシが天下人になるのじゃああ!』

という、昔の不良マンガ

『おれが日本の番長を束ねてやる!!』

みたいなノリ、面白いはずがありません

もう一つつまらないと思う理由は、殆どのこの時代のドラマでの晩年の豊臣秀吉の描き方、例外なく、と言ってもいいほど、秀吉が権力欲の権化となり、伴天連追放、宣教師や信徒の処刑、朝鮮半島への出兵、トチ狂ったような人物に描かれているのもうんざりです

以前やっていて途中まで見ていた大河ドラマ

『黒田官兵衛』

このドラマでも、竹中直人さん演じる晩年の秀吉が、伴天連追放を黒田官兵衛に諫めれると

『この日の本に王は一人でよいのじゃあああああ!』

と叫びます

これは、唯一絶対の神を崇めるキリスト教に対し、崇める王は自分一人で良い、という意味で出た言葉です

陳腐、あまりにも陳腐です

そもそも秀吉は天皇、朝廷から官位を受けているわけで、その時点でこんなセリフはおかしいのです

この時代を描くにあたり、時の世界情勢が全く以て無視されていることが、あまりにも無理があると感じるのです

当時は、かの、フェリペ2世の治世下にあったスペインが隆盛を極め、キリスト教の大義のもと、世界中を残虐に侵略しまくっていた時代です

異教徒は殺してもよい、土地や物も奪ってもよい、旧約聖書には、唯一絶対の神の言葉としてそう書かれています

今の感覚では、布教の邪魔をする者は『ポア』しろ、って言ってた宗教と同レベルの感覚です

それがスペインを筆頭に、ポルトガル、イギリス、オランダ、次々と宣教師を送り込み、神社仏閣の破壊、同時に商人が日本人を誘拐し奴隷として売り飛ばす、この悪行を知った秀吉が、侵略を目的とするキリスト教の布教を禁じるのは、時の為政者として当然の事であり

『この日の本に王は一人でよいのじゃあああああ!』

などというマンガにもならないような陳腐な話よりは、西洋白人キリスト教国家の横暴、侵略から日本を護るためのことだった、と考える方がよほどつじつまが合うわけです

大河ドラマ、『黒田官兵衛』では、秀吉はさらにこんなことを言っています

『明をワシのものにするのじゃあああああ!』

これまたマンガにもならない陳腐さです

『太陽の沈まぬ国』 『スペインが動けば世界が震える』

秀吉は、そのスペインの絶対的な王、フェリペ2世に宛てた、脅しともとれる非常に高圧的な書簡をマニラ総督に送っています

その文書は、確かにもはや自身が世界の王のような夢想家のような文言も見られますが、現実的に秀吉がフィリピンまで派兵し、スペインと一戦交えることが、決して非現実的なことではない、とスペイン側は理解していたと思われ、それはまさに抑止力を働かせたと言えると思います

朝鮮出兵のやや稚拙な戦略を見ると、秀吉は本気で朝鮮、明を侵略しようと考えていたのではなく、日本優位の形で明と和平を結び、横暴な白人キリスト教国に対し、アジアの結束、すでにこの時大東亜共栄圏の構築を考えていたのではないか、と小平次は妄想しています

あわせて、日本の陸軍力の強さを見せつけることで、横暴白人国家に対し、先の書簡の内容のようなことがより現実的な強い抑止力として働き、白人国家に日本侵略は困難であることを知らしめたのではないでしょうか

実際には本人に聞くこともできず、聞けたとしてもあれほどの天才軍事戦略家、為政者としての類まれな才能も持っていたであろう日本史のスーパースターのその考えを、今の歴史学者や陳腐な脚本家では理解できないでしょう

もちろん小平次の考えも妄想の域を出ませんが

『明をワシのものにするのじゃあああああ!』

というトチ狂ったかのような陳腐な理由で大陸に軍を送った、と考えるよりは、はるかに面白いドラマが作れると思うのです

次に幕末から明治、この時代が舞台となる大河ドラマにも同じようなことが言えます

確実に、秀吉の時代よりは鮮明に脅威であったはずの、欧米諸国の乱暴な外交、脅し、そういったものについてあまり触れられず、単純に国内の争い事のように描かれているのがまず気に入りません

また、描かれる主人公は全て、薩摩、長州のいわゆる憂国の志士のような人たちばかりで、幕臣側の人は軽んじられているのもなんだかな、って感じなんです

一度徳川慶喜を主人公にしたのがあったかな?あ、あと新撰組もあったな

それでも圧倒的に薩長側の人たちの話ばかりです

小平次は、幕臣側に情があるので、たまにはそちらの視点からのドラマがあってもいいのではないか、と思うのです

『小栗上野介』

小平次が最も尊敬する幕末の人です

鳥羽伏見の戦い後、江戸城に帰還した徳川慶喜に徹底抗戦を主張し、もはや薩長には武士道のかけらもなく、このような者たちに日本の未来を託せない、そんな想いで

『新政府軍が箱根に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、分断。箱根の敵軍を孤立させて殲滅する』

という作戦を進言しましたが、聞き入れられず、結果、慶喜に疎まれ、隠居の身になります

『新政府に内紛などが起こり、それに乗じて外国に乗っ取られるような事態になれば自分の出番もあろうけれど、そうでないのであれば静かに余生を過ごす』

そう言っていた小栗を、新政府は処刑してしまいます

よほど恐ろしかったのでしょう

後に、先の作戦を小栗が考えていたことを知った大村益次郎は

『もし、その策が実行に移されていたら、今頃、我々の首は胴から離れていただろう』

と言った、と言われています

また、かの東郷平八郎は、自宅に小栗の子孫を招き

『日本海軍が勝利できたのは、小栗さんが横須賀造船所を建設してくれていたおかげ』

と言ったそうです

さて、今回はこんな歴史の話を中途半端に長々とするつもりではなかったのですが、『信号が青だったら進め』的な、記号のように一方的な視点からの限られた時代の物語しか、見る側が面白いと感じられない、作る側もそれで視聴率が獲れるのであれば、と挑戦しない、だからつまんないのかな、と思うんです

そう言う意味で今回の『光る君へ』、紫式部を主人公にした中世の物語、紫式部自身の資料が、戦国や幕末に比べるとずっと少ないでしょうから、今回の物語は最初から妄想が大半だろうと思うのです

却って資料の多い時代の物語は、史実がはっきりしていて、何度も繰り返し同じような時代の同じような物語を観せられても、やっぱり辟易としてしまうのかもしれません

資料の少ない時代の、世界最古の小説を書いた女流作家の物語

歌など、その作品を通じて描く妄想の物語

単純に『時代劇』として、純粋に楽しめるかな、と思って見ています

まあ、それでも、週一回、一年間は長すぎて、途中で飽きちゃうと思いますが。。。



小平次としては、ぜひ、神功皇后の物語を作ってもらいたいと思うのです

日本書紀の記述からだけでも相当に妄想を膨らませることができます

外国の三国志などを何度もやるのであれば、よほど神功皇后記、雄々しく男装し、海を越え新羅討伐を果たした美しき女帝の物語、十分一大スペクタクルストーリーが作れそうですが、だれかやってくれないですかね

そう思って自分で書いてみようと妄想を膨らませ書き始めたのですが、空翔ける鳥人、羽白熊鷲との対決、の伏線、のようなところで止まったままずいぶん経ってしまいました




御免!




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日本の歴史教科書と戦争

2022-03-01 | 歴史



こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

中学校の歴史教科書のシェア、50%以上を誇る出版社

『東京書籍出版』

の歴史教科書を見てみます

以前も、小平次はこの教科書について触れていたのですが、引用箇所が殆ど丸々になってしまい、著作権の問題から止めていたんです

ふと、そのころ、他のブロガーさんがやはりこの教科書を取り上げていた記事を思い出し、探したんですが見つからず、改めて娘が中学生の頃(7年前)に使っていたのを引っ張り出し、その記事にあった内容を実際にみてみました

で、ここ30年程の間、日本の歴史教科書界は、その記述を巡って様々な論争、対立があり、現在も続いています

そもそも歴史は、一つの史実に対し、向き合う人の見方や立場で大きく解釈が異なるものですので、本来教科書の執筆者はできる限り自身の思想信条などは排除し、また、日本の子供たちのための教育、ということを意識すべきですが、どうも歴史教科書のシェアの半分を占めるほどのこの出版社の教科書の記述を見ますと、かなり偏向しているように見えてなりません

以前、紹介されていたものの一例を示します



101ページからの引用になります(これは平成25年度版で、10年近くが経っていますが、新版も記述内容にそう変化はありません)

豊臣秀吉の朝鮮出兵の記述ですが、まあ、ウソが書いてある、とまでは言いませんが、随分と一方的な解釈だなあと思いますし、小平次的には突っ込みどころも多々ありますが、それは別の稿に譲ります

注目したいのは、本文の中ほど、朝鮮の将軍『李舜臣(イ・スンシン)』について触れています

李舜臣は、実際日本でもそれなりに評価の高い将軍で、この時日本軍が苦戦を強いられたのは事実ですし、教科書として載せること自体に問題があるとは思いませんが、豊臣秀吉の大陸進出の本来の目的の論考などは無いにもかかわらず、外国の英雄である李舜臣については、欄外にもその銅像や亀甲船の写真などを載せ、詳しく紹介し、一体日本の子供たちに何を教えたいのか意味不明です

それでも、百歩譲り、それも已む無しとしても、例えば165ページ、日露戦争の記述



日露戦争における日本海海戦、まさに歴史的な勝利であり、世界中に大変な衝撃を与えた大勝利でした

それまでロシアの膨張に悩まされていたトルコや北欧諸国は歓喜し、白人に虐げられていた有色人種にも勇気を与えたその決戦を指揮した東郷平八郎、と言えば、もはや日本のみならず世界的な英雄でもありますが、教科書にはその肖像も無く、紹介も教科書本文ではなく、欄外の扱いです

李舜臣、英雄とは言っても、外国の英雄であり、当時の日本から見れば敵将でもあります、その敵将については本文と欄外を使い詳細に紹介しながら、日本が世界に誇る英雄は欄外…、一体どこの国の教科書なんでしょ?

こんな教科書ですから、あらためて別の機会にできればご紹介しますが、いわゆる第二次世界大戦時の日本の軍事行動についても、一方的に日本の侵略に対し、韓国を中心としたアジアの人々の抵抗などに主眼が置かれた記述になっています

先の戦争に対して、小平次が考える日本の立場は

『完全なる自衛のための戦争であり、その過程において、侵略的な側面が無かったとまでは言えないが、それまで白人キリスト教国の横暴に苦しんでいた国々の独立の一助となったのは事実、そしてその上で、君を頂点に戴く日本の国体は、敗戦国となりながらもかろうじて護り切った』

というものです

『日本が戦争に突入した理由』

は、日本の歴史を縄文時代まで遡り、その連続性と世界情勢を考えなければわかるはずもありません

今の一時点、過去の一時点、それだけを見て、戦争の責任、誰かを、どこかの国を、一方的に悪者にしたところで戦争の無い平和な世界なんか築けるはずもない、と常日頃、思っています

現に先の戦争において、無茶苦茶な裁判で日本を悪者にしましたが、その後戦争が無くなったりはしていません

今回のロシアの軍事行動、世界的にはロシアに対する批判が大半です

世界の嫌われ者扱いです

空爆などにより、民間人に死者が出ている、ようなことが事実であれば、ロシアが非難されるのもやむを得ない、とは思いますが、そもそもロシアがこのような行動に出た理由は何なのか

ロシアにはロシアの言い分は無いのか

NATO軍の駐留や、ウクライナのEU加盟に対し、ロシアが軍事的な脅威の排除に動いた、というロシア寄りの論調も見えますが、ごく一部です

小平次には、ソ連時代、いやその前からの欧州の国々とロシアとの関係性や、アメリカとの関係性、そういったことの歴史的な経緯をふまえ、NATO軍の駐留やウクライナのEU加盟などといったことは、ウクライナを利用した欧州の強国の利害と、大資本の傀儡にしか見えないバイデンアメリカの利害から来る挑発行動が誘因になっている、ように見え、その目的は憶測の域を出ませんが、見えている事実からだけでも、少なくともその側面は否定できない、と思っています

いずれにしても、過去、日本が戦争に突入した理由、今、ロシアが軍事行動を起こした理由、それを考えずして、先にご紹介した東京書籍出版社の歴史観や、今回のロシアの行動に対するような一方的な解釈は、誰かを悪者に仕立て上げるだけのものであり、それが本物の悪党が誰であるのか、どこにいるのか、を見誤らせ、それに群がる連中が普段どんなことを言い、何をしようとしているかについての思考を停止させるように思います

そして、その本物の悪党と戦おうとしている人達を、洗脳だか何だかわかりませんが、メディアなどが徹底的にたたき排除する、そんな世の中に見えています

さて、一方的な解釈しかしない教科書で学んだ子供たちは不幸です

幸い、あの教科書を使いながらも、娘の当時の担任の先生は、多角的に物を見る視点を教え、戦後の昭和天皇とマッカーサーの会談の内容まで話してくれたそうです

当時の中学生、それを聞いて

『昭和天皇、かっけー!』

と言っていたそうです

娘は、大学で西洋史を専攻し、社会科教師を目指していましたが、学べば学ぶほどイギリスの非道ぶりがわかり、解釈の違いを知りながら納得のできない教科書で教師になるのが嫌だと言い、音楽教師を目指し転科しました

意外かもしれませんが、小平次は娘に、聞かれない限りあまり歴史や社会の事は話しません、考えを押し付けたくないからです

そんな娘が転科試験に合格した時、小平次に言いました

『歴史上非道なことばかりしてきたイギリスと、ほとんどその逆だった日本との決定的な違いは、日本には天皇がいたことだと思う』

これを聞いた小平次は、中学から大学の先生方には感謝しかありません

ここに至った意味はとても深く、頑張って歴史を勉強したんだなぁ、とちょっと親バカぶりが出てしまいます


御免!
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広島へ行って

2019-12-08 | 歴史


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こんにちは 少し長い投稿になるかもしれませんが、最後までお読みいただければ幸いに存じます


先日、仕事で広島へ行ってまいりました

ちょっと時間ができたので、平和記念公園、平和記念資料館に立ち寄りました

高校の修学旅行以来、随分と久しぶりに訪れました

心なしかその時より原爆ドームの壁が少しばかり色あせたよう見えます

資料館の展示を見学しますと、きっと高校生の時もそうだったと思いますが、やはり言葉を失います

そして思います

これは、人道上の、と言うより、人類に対する歴史上最大級の犯罪であると

いくら戦争だからと言っても、これはやりすぎです
人の所業ではありません

ところが、その犯罪を犯したアメリカを非難したり、裁こうと言った声はほとんど聞くことはありません

それどころか、むしろ被爆国であるはずの日本が悪かったから原爆を落とされたのだ

これ以上戦争が長引けばより多くの犠牲者が出るところだったのを原爆投下によって戦争終結を早めたのだ

などと言った声が主流のように思います

日本は戦争加害国なのだから仕方なかった…

などと言って、過去の残虐な日本軍の蛮行を訴え、日本を裁き続け、原爆を投下したアメリカの罪などに対しては全く声をあげてもいない主張を大変多く見かけます

『戦争加害国』

という言葉の意味はよくわかりませんが、もし、日本が戦争加害国であるならば、原爆を投下したアメリカはもちろん、世界中の国や地域を侵略し、支配し、時に虐殺などを繰り返していたイギリスを始めとする西洋諸国も戦争加害国でしょう

ソ連や中共も同罪であるはずですが、ドイツナチスを除き、彼らを非難したり裁こうという声はやはり聞こえてきません

そのようなことで、本当に世界に平和は訪れるのでしょうか

現に、他の戦争加害国、特にアメリカ、ロシア(ソ連)、中国共産党は核兵器を保有し、他国に干渉しいまだに自己都合による戦争や紛争、それに至る直前の緊張を生み出し続け、北朝鮮などが核兵器を持つに至るまで野放しにもしてきました

平和なんか訪れていないのです

こういうことを申しますと、決まって

『他国がやっていたからと言って、日本もやっていいと言うことにはならない』

などという反論を言う人がいます

私の父もそうでした

よしんばそれが正論であったとしても論点がずれており、他の戦争加害国が免罪になっていいということとは別問題です

例えて言うならば、ある村に10人組の犯罪集団がいて、多くの村人を殺したりしていた、やがてその集団は仲間割れを起こし、そのうちの一人を警察へ突出し、残りの9人は、さも自分たちが村を殺人鬼から救ったかのような主張をして、見事に罪を逃れ、その後も村でのうのうと暮らしている、そればかりか相変わらず殺人や殺人未遂を繰り返している…

この村が平和だと言えるでしょうか

ましてその捕まった一人は冤罪の可能性もあり、裁判においては残りの9人の息がかかった裁判官が裁判を進めている、唯一息のかかっていない中立な裁判官がその一人の無罪を主張していたとしたら、なおのこと、この村の平和は脅かされ続けるでしょう

日本戦争加害国論者の方々に聞きたいことがあります

もし日本が戦争加害国だったとして、ではなぜ日本は戦争加害国となったのか、というその理由です

当たり前のことですが、一殺人事件であっても、その動機の解明は重要です

動機がわからなければ裁きの下しようもなく、その後の犯罪抑止にもつなげられません

なぜ日本は戦争加害国となったのか

その動機について、日本戦争加害国論者の方々からの明確な論を聞いたことがありません

せいぜい

『明治以降、富国強兵を打ち出し、日清、日露戦争に勝利し、一流国になったと慢心し、領土的な野心をもって外国を侵略した』

などという、陳腐な理由にもならないことくらいしか聞きません

戦争をするためには莫大な費用がかかりますし、多数の犠牲もともないます、まして日本が戦った相手は強大な国々であり、戦争という選択をするのにはリスクが高すぎます

『一流国になったと慢心し…、』

一部にはそういう人もいたのかもしれませんが、そろいもそろって当時の軍人や政治家がそこまで愚か者ばかりであった、などとは到底考えられません

ポツダム宣言にこうあります

『日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ…』

本気で連合国側がそう考えていたかはわかりませんが、ポツダム宣言時において、少なくとも公式的には、日本が戦争にうって出た理由を『世界征服』のため、としています(なぜ世界征服を企んだかが抜けておりますが)

しかしながら、有名な1951年のアメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会において、かのマッカーサーが、日本の戦争目的について次のように証言しております

『Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.』

『by security.』

つまり安全保障上の要請、であると

このsecurityの訳については、いくつか議論があるようですが、少なくとも実際に日本軍と戦い、その後長年日本を占領していた敵国の総大将ですら『一流国になったと慢心し、領土的野心をもって侵略に及んだ』とは考えていないことがうかがえます
(このマッカーサーの公聴会での証言は、ネトウヨ連中によって意訳とも到底呼べない捏造訳が数多くネット上には出回っていますので注意が必要です)

あらためて、日本は戦争加害国である、として、多くの捏造証拠を含んでいることが明らかな過去の日本軍の蛮行を『平和のため』として主張し続ける方々に聞きたい

なぜ日本は戦争加害国となったのか

本気で平和を願うならば、その動機の解明は大変重要であると考えます

それを考えるためには、その時の事象だけ見ていてもわかるはずがありません

少なくともペリー来航、いや、大航海時代からその後、スペインとポルトガルが身勝手にも世界を二分割し、全てを領有すると、本気で世界侵略に乗り出した時代まで遡らなければ、日本が世界と戦争をした理由などわかるはずもありません、歴史は連続しているのですから

そもそも、日本はその歴史を縄文時代まで遡り、現代までの1万数千年間のうち、

『外国と戦争をする』 『外国を侵略する』 『外国を支配する』

などということにかかわっていた歴史的な時間はほんの数十年間です

1万数千年にも渡り、外国とのかかわりで言えば、ほぼ『平和を常態』としていた国であると言えます

こう申しますと

『それは日本が島国であったからだ』

ということを言う人が数多くいますが、同じ島国であるイギリスは、その年表を見れば、その歴史全体を通し絶えず外国と戦争をし、外国を侵略、支配し、時に虐殺などを繰り返しており、ほぼ『戦争と侵略を常態』としていたことからも、島国であることが、日本が概ね平和を常態としていた理由にはなりません

なぜ日本は戦争加害国となったのか

世界の歴史を遡るばかりではなく、日本がどのような歴史を刻み、日本人の感性がどのように育まれ、その上でなぜ外国との戦争に踏み切ったのかを考える必要があると思います


縄文時代と呼ばれる時代、道具や武器、受傷人骨などの研究から、この時代は一対一、もしくは一対複数の戦闘行為の痕跡はあるものの、集団対集団の戦闘、戦争行為の痕跡をほぼ見つけることができません

これは、1万年以上に渡り、平和な世界を築き上げていたことを意味します

戦争に至るほどの文化や文明が発達していなかった、などという人もいるようですが、大規模な集落跡、高度な土器、ヒスイの加工や漆塗りの技術、それなりの文化文明が発達していたことは明らかであり、また、より動物的な本能の方が、縄張り争いなど、戦闘行為に及ぶ可能性が高いことからも、縄文時代は奇跡の時代、と言って過言ではないと思います

時代を下り、弥生時代

魏志倭人伝に、日本人の特徴が次のように書かれております

『其風俗不淫』

その風俗は淫らではない

『不盗竊少諍訟』

窃盗をせず、争い事は少ない

ささいなことですが、大陸からの移住者も増え、直前には『倭国大乱』などがありながらも、縄文のときより1万年以上の時間を経ながらもなお、その平和に対する感性が引き継がれているように思えます

少し時代を下り、歴史上、数少ない日本の外国への出兵の一つ、神功皇后の三韓征討

神功皇后は新羅出兵の直前、大勢の兵士たちを前にして檄をとばされています

『其敵少而勿輕 敵強而無屈 則姧暴勿聽 自服勿殺』

『敵が少なくとも侮ってはならぬ!、敵が多くてもくじけてはならぬ!暴力を振るい婦女を犯すようなことを許してはならぬ!自分から降伏する者を殺してはならぬ!…』

たとえ戦時であろうとも、このような道徳観、倫理観を持ち、戦に臨んでいたことがわかります

これは神話だから、という人もいますが、たとえ神話であろうとも、日本の正史にこのような言葉が記録されている意味は重いと思います(私は西暦364年(363年?)の『倭軍が大挙してやってきた』という朝鮮の史書、新羅本紀に記されるこの事件こそが神功皇后の新羅出兵であると確信しております)

そして、このような道徳観、倫理観はずっと後の世まで受け継がれていたように思います

江戸時代、農村などでも、相互扶助がすすみ、みなが助け合い平和を護っていたことが様々な資料からうかがえます

明治初頭、まだ徳川時代の名残を残す日本を旅したイギリス人女性、イザベラ・バードは、その日本紀行の中で、時に日本人をさげすむような物言いも見られますが、日本ほど女性が一人で旅をしても、侮辱されることもなく、安全で、安心できる国はない、と言ったようなことを述べています

少なくともこのころまでは縄文時代から続く、平和的な日本と日本人の営みが連綿と続いていたことを感じることができます

戦後においても、先進国の中では犯罪も少なく、一昔前までは、夜、鍵をかけずに寝ても、さほどの心配もない国でした


東日本震災、あれほどの大災害に見舞われながらも、被災者の方々は譲り合い、助け合われていました

やはり、縄文の時代からの日本人の感性が受け継がれているように思います

で、あらためて日本戦争加害国を言い続ける人たちに問いたい

おおむねその全歴史を通じ、平和を常態とし、戦時においても、道徳と倫理を保ってきた日本と日本人が、なぜ、大東亜戦争の一時期のみ、突然発狂したかのように

妊婦の腹を裂き、銃剣で胎児を突き刺し狂喜したり、布袋に人を詰め、手榴弾を詰め込み川へ投げ込み、水柱が上がるのを見て笑いあったり、背中の皮を剥ぎ天日で干したり、人を殺して脳みそを食べたり、泣き叫ぶ少女を誘拐し性奴隷にしたり、そのようなおよそ人が想像すらしえない行為をする日本軍と日本人が現れたのでしょうか

それまでの日本の歴史にはほぼ見つけることのできない狂ったような日本人が、大陸において数十万人もの人々を上記のような残虐な方法で殺した、と言われております

なぜ、どうして、そのような日本人が突然歴史の1ページに現れたのでしょう

この疑問にぜひ答えて頂きたい

『戦争という狂気がそうさせたのだ』

などという人がいます

一部にはその狂気に飲み込まれた人もいたかもしれません

ですが、そのような狂気に飲み込まれるような精神力で、特攻機に乗るなんてことができるはずもありません


私は、戦時において、局地的に理不尽にも日本軍の軍事行動によって犠牲になった民間人がいたことまでを否定するものではありません

作戦遂行上、不幸にも巻き込まれた民間人もいたでしょう

上記のように狂気に飲み込まれ、暴走した兵士もいたでしょう

それはそれで歴史として受け止めなくてはならないでしょう

しかしながら、日本が戦争加害国というのならばなぜそうなったのか

概ね平和を常態としていた日本が、なぜ戦争に加わったのかを考えずに、その時代の空気も緊張感もわからぬ現代人が、まるで他人事のように平和のためにと、物言えぬ過去の人に代わって謝罪だ、反省だなどと言い続けたとしても、本当の平和など訪れるはずもない、と考えております


資料館の展示のような光景が、この世界のどこにおいても二度と起きることのないように

そのために、一方で本当にあったかもわからないような日本軍の蛮行を他人事のように言い続け、一方で核爆弾を投下するといった蛮行を放置しているのではなく


なぜ、日本は先の大戦争に加わったのか

その理由を学び、考え、問い、自分の身の丈でかまわないから、行動していかなければならない、そう思っております











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戦争と平和

2019-08-10 | 歴史



こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です


『戦争と平和』


大仰なタイトルです

上記の絵は、東京大空襲、炎に包まれた言問橋に、炎に包まれた人々が集まっているところです

本所側から火の海を逃げて浅草側に逃げようとした人々と、浅草側から本所側に逃げようとした人々が橋の上で逃げ道を失い、焼かれている、という絵です

なぜ両側から火の海が押し寄せたのか、と言えば、米軍がその地域の人々を逃がさないようにするため、まずは周囲を焼き、退路を塞いだ上で中心に焼夷弾の雨を降らせたからです



小平次の母は、昭和20年3月10日未明、空襲警報の音で飛び起きました

まだ小学生程度だった母は、外に出て空を見上げます

真っ赤に染まる空

降り注ぐ焼夷弾を見て

『花火みたいできれいだ…』

と、思ったそうです

そんなのんきなことを言っていたのもつかの間

すぐに炎が押し寄せてきます

母の母、つまり小平次の祖母は母の手を引き、母より少し年長だった母の姉をつれ、炎から逃げようと走り出します

しかし、周りは火の海

どこへ逃げれば良いのか

偶然たどり着いた耐火性の強そうな倉庫群

そのうちの一つの倉庫に逃げ込みます

そこには多くの人がすでに逃げ込んでいました

しかし、建物自体は焼けずとも、周りの炎で中の空気がどんどん熱せられていきます

母たちは、その倉庫を出て、次の倉庫へ逃げ込みます

そこもすぐに熱くなり、息すらできないほどになります

そしてまた次の倉庫

母の記憶はこのあたりでいったん途絶えます

どこをどう逃げたのかわかりません

途中、姉ともはぐれました

母の次の記憶は、あたり一面の焼野原

夥しい数の黒焦げの動かぬ人々の山

川にはおぼれ死んだ人々と、水でも消えない炎と水とで膨れ上がり半焦げになった多くの多くの人々が浮かんでいる


母は祖母と黒焦げになった人々を乗り越えながら、自分の家のあった方へ向かいます

母の姉は一人、どこをどう逃げたのか、顔を真っ黒にしながらも、どうにか生き延び家のあったあたりで再開したそうです


小平次の子供のころは、まだまだ母のような戦争体験者、実際に軍に入り戦地へ赴き帰還した人たちがたくさんいました

子供のころからどれだけ戦争が悲惨で醜いものかを聞かされて育ちました

前にも書きましたが、小平次は以前クリスチャンでした

そのような戦争体験を聞いた小平次は、教会に行き祈ります、二度と戦争などが起きないように、決して起こさないように

若い頃からバンドなどをやっていましたので、時にギター片手に反戦、反核集会などで皆で歌ったりもしていました

署名活動なんかもやりました

今はキリスト教とは決別いたしましたが、戦争など二度と起こしてはならない、という想いは今も全く変わりはありません


ですが、小平次は現行憲法を破棄し、自主憲法持つべきだ、と考えている人間ですので、護憲派の方々からは

『戦争をする国にしたいのか!』

と、罵られる部類の人間です

『戦争など二度と起こしてはならない』

という想いは同じであるのに、そこに至るまでの考え方が異なる、ということです

逆に言えば、そこに至る方法論としての考え方が異なるだけで、想いは同じである、ということです

想いが同じであれば、互いに互いの考え、気持ち、そういったものを尊重し、協調しあうことはできないのでしょうか

そのためには、対立を煽り利益を得ているような人たちとは一線を画し、おかしな情報に踊らされたりしないように気をつけていなければならないと思います

戦時中の歴史については、様々な正反対の論が出回っておりますが、戦争について、少なくとも今わかっている事実を共有する、ということは互いに協調しあうためにおいて重要なことと考えます

例えば、南京大虐殺と言われる事件について

日本軍が南京占領後、30万人もの南京市民を、それこそ人が想像し得ないような残虐な方法で虐殺した、と言われております

妊婦のお腹を裂き、胎児を銃剣で突き刺し空にかざしたとか…

それに対して、当時20万人の人口の南京で、『どうやって30万人もの人を殺すのだ』、南京大虐殺などなかった、という反論があります

さらにその反論として、『30万人は誇張かもしれないが、数は問題ではない、1万人でも虐殺は虐殺だ』という人がいます

虐殺そのものが事実であれば、1万人だろうがその通りだと思いますが、数は問題ではない、はずがありません

現在、30万人もの南京市民を、それこそ人が想像し得ないような残虐な方法で虐殺した、と多くの中国人は信じているのでしょうから、本当に虐殺があったかなかったか以前に、30万人がウソであるとわかっていながら話し合いが出発することになります

ウソを横に置いたままでは、事実にたどり着くことができません

それでは互いに尊重し、協調し合えるような話し合いにはなりえません


事実の確認を怠ったままでは、感情的で不毛な議論となり、前へ進めません

これまで戦時の歴史論争なんていうものはいつもそうでした


以前のことですが、小平次の知人の韓国人男性が言いました

『日本人は20万人もの韓国人女性をトラックに乗せ連れ去り、性奴隷にした』

小平次は反論しませんでした

『それが本当だとして、あなたは今日本にどうして欲しいのですか』

『事実を認め、心から謝って欲しい』

『歴代首相の何人かが謝罪し、条約によってすべてを精算する約束でお金も払っています』

でも彼からすれば、そういう理屈は関係ないようでした

理屈は関係ない…、その気持ちはわからなくもないのです

『日本人は20万人もの女性をトラックに乗せ連れ去り、性奴隷にした』

そのように教えられ、そう信じているのですから、許せない、という純粋な気持ちなのです
(ちなみに彼は日本が大好きでした もはや会うことはかなわないのですが…)

だからこそ、『証言』とかだけではない、客観的な事実を導き出すために冷静に話し合い、その事実を共有することが、戦争を振り返り、二度と起こさないために重要である、と考えます(せめてまず日本人同士で)


最後に、日中韓の歴史認識について思うとき

もし、南京などでの凄惨な虐殺を、日本軍が軍の方針で行ったということが客観的な証拠から事実だと認められれば、それはそれで受け入れ、日本人として向き合わなければなりません

しかし、もはや戻ることのできない過ぎ去った歴史について、当時の世界情勢、それが生み出していた空気、緊張感、当時の価値観、道徳感、倫理観、そういったものを肌で感じることのできない現代人が、反論したくともかなわない故人に代わって謝罪するという行為は、歴史に対して大変傲慢な向き合い方だと常々思っております

そしてそのような行為は、何度かご紹介した韓国人研究者のイ・ウヨン博士のおっしゃる通り、日本が

『不必要な同情心で謝罪することが、むしろ韓日関係を深刻化させている』

と、思います



御免!

PS ちなみに小平次は、反韓、嫌韓を叫ぶネトウヨ連中は大嫌いであります
小平次がこれまでの人生で最も辛く苦しい思いをしていたとき、心温まる励ましをして下さったのは在日韓国人のある女性でした(彼女とかじゃありませんよ!ずっと年配の方でしたから)


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韓国歴史ドラマと北朝鮮

2017-05-09 | 歴史



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こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

以前も書いたことがあるのですが、みなさん韓国の歴史ドラマって見たことありますか

韓国歴史ドラマの基本は

『陰謀、謀略、裏切り、復讐、少し恋愛』

の連鎖繰り返しで、一応史実に沿いながらも、そのような人間模様、フィクション部分が大半です

さて、小平次は韓国の歴史ドラマをよく見てるってわけではありませんが、先日何気なく見ていたものがなかなかに面白く、つい最終回まで見てしまいました

『華政(ファジョン)』

というドラマで、李氏朝鮮の第15代王『光海君(クァンヘグン)』の腹違いの妹『貞明公主(チョンミョンコンジュ』という王女を主人公にしたドラマでありました

今回お話ししたいのは主人公の公主ではなく兄の『光海君(クァンヘグン)』


この『光海君』という王様

韓国ドラマに詳しい人に聞くと、以前は『暴君』として描かれることが多かったそうですが、最近少し変わりつつあるそうです(学問的にも以前はそういう評価が多かったみたいです)

実際どんな王様だったのでしょう

(ドラマではこの方が光海君、なかなかに見ごたえある演技で引き込まれました)

『光海君』は若き日に、父王とともに、豊臣秀吉の対明戦争における朝鮮侵攻の対応にあたっていますが、その時の経験が後の王としての政策に影響します

ドラマの中で『光海君』が言います(セリフは正確ではないと思いますが)

『明と倭国の戦においても、我が国の国土がふみにじられた、朝鮮は大国同士の身勝手な思惑に振り回されてきた、そうならぬためには我が国が自分たちの力で国を護れるようもっと強くならねばならん』

『倭国』を『大国』として認めているのにもこれまでの韓国を思えばちょっと驚かされます

それはさておき、その言葉通り『光海君』は、それまで鉄砲の製造や火薬類の取り扱いを担当していた『鳥銃庁』を『火器都監(ファギトガム)』に格上げし、より一層の軍事力の増強をはかります(この辺は史実…?)

外交面では、豊臣秀吉の侵攻以来、冷え切っていたであろう日本との国交も、徳川幕府と和議を結び復活させます

また、すでに衰退の兆しを見せていたはずの『明』との関係を、貿易上の利権などから重視する朝廷重臣が多い中、その『明』と、のちに大陸の覇者となる北方の『後金(清)』との狭間で、双方の力を見極めつつ中立外交を目指します

しかし、明と後金との武力衝突が起こると、朝廷内の、対明貿易で私腹を肥やしていた『明重視派』、『化外の蛮族の言うことなど聞けるか!』という重臣たちの圧力も大きく、明からの出兵要請に応じざるを得なくなり、軍を出兵させ後金軍に徹底的に叩きのめされてしまいます

ドラマでは、この時に『光海君』が『後金(清)』に通じていたという謀略を明重視派の重臣たちに仕組まれ、次王『綾陽君(ヌンヤングン(仁祖))』によって廃位に追い込まれていきます


この他にも、『光海君』は内政面においては、中間搾取などの弊害の大きかったそれまでの税制改革に着手し、実質的な民への税負担の軽減に努めたりもしていたようです


さてどうでしょう

大国の争いや思惑に翻弄されたり、侵略されたりされることのない真の独立国家となるため、国力の増強に努め、日本はじめ周辺諸国との和議、中立を目指し、民の税負担の軽減にもつとめる

ドラマのみならず史実からも垣間見える『光海君』は、『暴君』どころか朝鮮史上稀に見る『名君』であったように思えます

さて、翻って現在の我が国、自国を自国の意志で防衛することもかなわず、その上アメリカ、中国、ロシアといった大国の思惑に翻弄され続けています

一方

『北朝鮮』

狡猾な外交戦略を展開し、いつの間にか核開発にも成功、一部では米軍の空爆、斬首作戦、などがささやかれておりますが、『核保有国』となった北朝鮮、その報復による、韓国や、我が国で起こりうる甚大な被害を考えれば、いまやアメリカも簡単には手を出せなくなりました

また、永きにわたり主従の関係にあったともいえる歴代支那王朝

現代の支那王朝とも言える中国ですら翻弄されております


『光海君』

『稀代の名君』がその情熱をもって目指した国

『大国の身勝手な思惑に翻弄されたり、侵略されたりしない強い国づくり』

が400年後、良いか悪いかは別として、これまた『稀代の暴君』



『金 正恩』

によって、実現しつつあるというのは何とも皮肉なものであります



御免!






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韓国歴史ドラマと古代日本

2016-11-08 | 歴史


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こんにちは!

小野派一刀流免許皆伝小平次です


さて、皆さん、韓国の歴史ドラマって見たことありますか?

小平次はですね

女房殿が見ていたのをちょっと一緒に見てみたら、何だか結構面白くてハマってしまったのですよ


ただですね、あまりにそのシリーズの回数が多い!

大体一つのドラマが50話とか60話、もっと長いものもあります

まあ、NHKの大河ドラマも50話くらいですからね、ありなのかもしれませんが、まあ長い長い…

あんまり長いもんですから、おっ、もう最終回かなって思うくらいのクライマックス的な話が何度もあります

韓国ドラマの基本は

「陰謀、謀略、裏切り、復讐、少し恋愛」

の連鎖、繰り返しです

主人公が謀略にはまり、濡れ衣を着せられピンチになり、幾人かの家族などが殺され、やがて復讐を遂げる

こんな感じの事が一つのシリーズで何度か繰り返されるって感じなんですが、まあ人の心を突くというか、こういう連鎖によってついつい続きを見たくなってしまうようにできているわけです

史実とかよりもそういった視点に力点が置かれており、特に時代を問わずどの歴史ドラマもそんな感じですので、1、2本見たら小平次としては飽きちゃいましたね

「歴史ドラマ」というよりは「時代劇」

日本で言えば「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のような感覚で見ていれば、まあ面白く見られます

日本の歴史ドラマの代表格

「大河ドラマ」

もですね、基本的には幕末か戦国時代、少し忠臣蔵、くらいしかやらず、特に戦国時代なんかは豊臣秀吉が晩年、悪の権化のようにトチ狂ってしまう、みたいのばっかりで、とても陳腐で飽き飽きしていますが…

そういう意味では韓国の「ファンタジー歴史ドラマ」を「時代劇」感覚で見る方が面白かったりするかもしれません

そんな中、小平次が見て、ハマったのが、古代「新羅」に実在した「善徳女王」の生涯を描いた作品と

「善徳女王」

高麗時代、蒙古が攻めてきた時代のお話で、から武人の執権まで昇りつめた「金絢」という人の生涯を描いた作品の二つでした

「武神」

二つとも結構面白かったんですが、先にも言った通り、基本的に「陰謀、謀略、裏切り、復讐、少し恋愛」の連鎖、繰り返しですので、なかなかに疲れます

「善徳女王」の主演、イ・ヨヲンさんは大変美しい方で、小平次は結構好きで、年甲斐もなく一時期「LINE」のホーム画像につかってたりしたこともあります(恥!)



「武神」の方は崔氏政権の二代目、崔瑀(チェ・ウ)役のこの方




実に存在感あふれる演技をする方で、この方も小平次は好きですね(もちろんホーム画面には使いませんが)


で、今回ちょっと触れてみたいのは古代「新羅」の歴史について

小平次が見た「善徳女王」の時代は、西暦で言うところ、7世紀の前半から中頃、日本では中大兄皇子の「大化の改新」があったころであります

「善徳女王」の甥に「金春秋」という人がいて、ドラマにも出てまいりました

この金春秋こそ後の武烈王であり、新羅による朝鮮半島統一の礎を築いた朝鮮史における英雄のお一人でしょう

日本書紀にはこの金春秋が来日したことが記されておりまして、後の、白村江の戦いを含む「唐・新羅連合軍VS大和・百済連合軍の大戦争」に向かう流れの中での来日、妄想ふくらむお話です

日本書紀によれば、金春秋は、たいそうなイケメンであったそうで、大和の朝廷内でも結構な人気者だったようです

さて、これは韓国の歴史ドラマ、時代劇に限ったことではなく、日本の歴史ドラマなどにおいても言えることなのですが、その描いている時代時代での「国際情勢」「外交関係」といったものが、ほぼほぼ無視されているように思うのです

それでも韓国ドラマの方は、すぐ近くに絶えず支那王朝が存在していたこともあり、あり得ないような話が多々あるものの、少しは支那王朝との外交面に触れることもあります

そういう意味では日本の歴史ドラマや教科書の方が、「国際情勢」「外交関係」を無視していると言えるかもしれません

現代社会を見ても、アメリカ、中国、ロシア、EUなどとの関係は日本の国策に大きな影響を与えます

韓国や北朝鮮などの近隣国の状況もまたしかり

フィリピンなどの小国であっても、時の大統領の行動ひとつで大国が手玉にとられております

「古代」においては、大国の直接的な武力侵攻などもあったわけですから、今よりももっと国際情勢は緊迫したものであったことは想像に難くなく、近隣諸国、大国の情勢はそれぞれの国の国政、国策におおいに影響を及ぼしたはずです


「三国史記」

という、古代朝鮮半島に存在した「高句麗」「百済」「新羅」、の三国の歴史を記した朝鮮の史書、その中の「新羅本紀」をちょっと見てみますと、その記事の中に「倭国」、つまり大和、日本に関連した記事を大変数多く見つけることができます

「倭国から使者が来た」

というような外交上のものから

「倭軍が侵入し、金城を包囲した」

などというまるで戦争が起きていたかのような記述まで、たくさんあるのです

「金城」というのは当時の新羅の王都であり、新羅本紀には、この「王都」まで倭軍が侵攻して来たとの記事が、実に八回もあるのです(その他領海に侵入などの記事も多数あり)

「王都」まで外国の軍隊が侵攻して来るって、結構大変な出来事だと思うわけです

しかしながら、韓国の歴史学者はもちろん、戦後の日本の歴史学者もこのことについて触れることはあまりありません

当然のことながら教科書などにも出ておりません

「三国史記」の歴史的資料としての信憑性については、当然すべてを鵜呑みにはできません

そもそもの「新羅建国」が紀元前57年となっておりますが、支那の史書等から考えてもこれはあり得そうになく、実際は4世紀中ごろ、というのが定説であります

しかしながら、「日本書紀」もそうですが、その紀年等に疑義があるといっても、それで全てがウソということにはならないでしょう

そうして排除してしまったら、歴史研究なんて今の日本の学界のように、止まったままになってしまいます

先の「倭軍侵攻」については、例えば「高句麗」の第十九代「広開土王」の事績を、後を継いだ「長寿王」が父王の偉業を顕彰するために建立したと言われる、大変に歴史的価値の高い有名な石碑があります

この碑文中にも「倭軍」が新羅国内に満ち満ちている様子が記されていたりするわけです

その他にも碑文には、「倭軍」の侵攻を受けた「新羅」が高句麗に救援を求めていることや

「百済、新羅は古くから高句麗の属民である」

こと、にも関わらず百済が裏切り

「倭と通じた」

として軍を南下させたりしたことが記されており、半島三国の軍事的な優位性なども想像することができます


「高句麗」はこの後、大国「隋」と度々戦火を交え、互角以上の戦いをしている「軍事大国」です

碑文にはそのような状況の中、「倭軍」と度々戦火を交え、大規模な戦争をしていた様子も記されております

碑文中では「高句麗」の圧勝のように記されておりますが(実はそうでもなかったと思える記事が日本書紀にはある)、少なくとも当時、「百済・新羅」が「属民」扱いされている中、「大和軍(日本軍)」は海を渡り、強大な軍事大国「高句麗」と大規模な戦争をするだけの軍事力を持っていたことは間違いないように思われます

この「大和VS高句麗」は15年以上に渡っており、この時の天皇はどなたでいらしたか、とか、なにゆえこんなにも「新羅侵攻」を繰り返したのか、など大変妄想ふくらむお話ですが、それまた別の機会で


また「倭の五王」の時代、度々支那王朝に日本から使節が送られ、大和が支那王朝から「新羅」に対する「軍事統括権」を認められていたりすることや、新羅から大和に王子を人質として出しているこなどからも、大和と新羅の軍事的、政治的優位性がどうであったかは、想像できるのではないかと思うのです

少なくとも「新羅」は、海の向こうの「大和」を脅威に感じていたでしょうし、その国政、国策において「大和」を無視はできなかったでしょう

ドラマ「善徳女王」の時代は、この「大和VS高句麗」15年戦争よりもだいぶ後の事ですが、少なくともこのすぐあとに起こる白村江の戦いを含む「唐・新羅連合軍VS大和・百済連合軍の大戦争」の一連の流れの中で考えれば、やはり「大和」、日本を無視してはドラマは成り立たないのではと思うわけです

この時代の日本が「新羅」より優位にあったなどありえん!

という視点が先に立ってしまっているわけですが、「新羅」に関して言えば、さんざん「大和」から辛酸をなめさせられたかのようですが、最終的には唐と連合して「大和」の勢力を、ほぼ半島から排除することに成功しているわけですから、それまでの大和の優位性を認めたとしても、溜飲も下がるってもんでしょう

先にも申しました通り、このようなことは韓国側に限ったことではなく、日本においても同じことが言え、古代なんてドラマにもなりゃしないどころか、教科書にも載るべきことが載っていないと思うのです

神功皇后の事績なんて、映画にすれば絶対に面白いのに…

さて、このようなことから思うこと

日韓双方の学者さんも脚本家さんも、どっちが優れてたとかそういうことではなく、認めるところは認め、互いに影響し合いながら歴史を刻んできたという視点から物語や教科書を作って欲しいなあと思うのです




御免!

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卑弥呼ではない!日御子様です!パート4 小平次の妄想的歴史探訪 再編集

2016-09-26 | 歴史


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こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です


本日は「卑弥呼ではない!日御子さまです!」

パート4をお送りいたします

もっともっと色々と書きたいこともあったり、書いているうちに新たに妄想が浮かんだり

古代史は本当に魅惑的ですが、一応今回を一旦完結編にしたいと思います

では簡単にパート3までのおさらい、といきたいところですが、おさらいだけで長くなってしまいますので、よろしければパート1からお読みいただければ幸いです

パート3のポイントは、神武天皇のご即位が「西暦250年ころ」と推定できるということ

そうなりますと、日御子さまが「皇統」のどなたかでいらしたのであれば、もはや日御子さまは「神代」の時代の方になってしまうということ

でした 

さて、おさらいをかねて、今一度日御子さまの実像について妄想してみたいと思います

日御子さまのご即位直前まで、我が国は大変に乱れていた状態であったようです

内戦状態が長く続いていたとも考えられます

それが、日御子さまのご即位によって治まったという事実から、その争いはおそらくは王位、皇位の継承争いであったのでしょう

また、この弥生時代後期には、以前の記事「渡来人とはナニモノだ?」でも述べましたが、この頃には海を渡り帰化した大陸人もそれなりの世代を経て、政治的にもある程度の勢力になっていたかもしれません

そうなりますと、この内戦はある意味、それまでの平和的価値観を育んできた古来日本人、その後に聖徳太子によって集大成される「和を以て貴しと為す」を国是として歩んでいく日本の礎の時代でもあり、その日本的価値観と、大陸的弱肉強食の価値観との衝突でもあったかもしれません

現代の新自由主義との戦いとよく似ております

そんな時に、古来日本的価値観を重んずる勢力は、今、自分たちが争い合っていては国が滅ぶと、その時に考えうる最も正当な血筋を持つ日御子さまを擁立したのではないでしょうか

そしてそれは、単なる血筋の問題だけではなく、その後の60年という長き治世からも、日御子さまご自身に人を惹きつけるオーラとカリスマ性が十分すぎるほどにあったことが想像できます

ひょっとすれば渡来帰化勢力は、それまで「男王が治めていた」ことなどを理由に日御子さまのご即位に従わない姿勢を見せたかもしれません

しかしながら、そうなればもはや逆賊、朝敵であり、古来からの、その後の、和を以て貴しと為すという価値観のもと、日御子さまを擁立し、争いを止めるために日御子さまをお護りしようと一つにまとまった勢力が、最終的には勝利したのでありましょう

そしてその後我が国は、魏志倭人伝の記述にもある通り、風俗も正しく、犯罪も争い事も少ない平和な時代が日御子さまの治世によって築かれていった、もしくは取り戻されていったわけです

そして圧巻は外交面

この時代、朝鮮半島南部、南端部は「日本」であったと考えられます

「韓(三韓)は帯方の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している:魏書東夷伝」

といった記述は、半島中南部に位置していた三韓地域が南は倭と接している、と言っているわけで、素直に読めば半島南部が倭国の一部であったと、大陸では認識していたようにも考えられます(もちろん異説反論多々あり)

この地域は、特にその後長きにわたり宿敵となる高句麗の半島南進に対し、韓地域をはさみ緩衝地帯としながらも、軍事上の重要な防衛拠点であったでしょうし、交易上の要衝でもあったでしょう

また、韓伝などにある、この地域で「倭人が鉄を採取している」というような記述から、資源確保のための重要な地域であったことも伺えます

しかし、遼東地方で強大な勢力を持っていた公孫氏が魏によって滅ぼされたことにより、大和VS高句麗の半島における軍事バランスは非常に不安定なものになったことでしょう

日御子さまはこの機に、実に素早く行動を起こし、魏に使節を送り「親魏倭王」の金印を受け、自らが「倭国王」あることを国際的に認知させました

これは半島南部を含めての「倭国王」ということであり、半島南進をもくろむ高句麗への十分な牽制となったでしょうし、国内においても狗奴国や、他の渡来勢力に対して、安全保障上重要な意味があったでしょう

さらに、ご存知の通り、大陸はこの時代有名な「三国志」の時代です




数は少ないのですが、日御子さまの治世の時代と一致する紀年の入った「魏」の敵である「呉」の銅鏡が日本国内で見つかっております

呉の「孫権」は、魏を牽制するため、再三にわたり公孫氏に使節を送っています

同じように、その人口数などからも決して小国ではなかった、むしろ大国と言って過言でなかった倭国、「大和」に使節を送り、同じように魏への牽制を狙っていたのかも知れません

日御子さまは、支那三国の状況、戦況を把握しつつ、曹操、劉備、孫権と言った三国志の英雄相手に自国防衛のための、一歩間違えれば大変危険とも思われる多面外交を繰り広げていたのです

皇位の継承、弱肉強食の価値観、それらの、内戦とも言える争いを、正当な血筋と輝くようなオーラで治め、全てを融和し、長きにわたる平和な時代と、それまでの、そしてその後の和を以て貴しと為すという我が国の歩むべき道の礎を築き、華麗な外交で国を護った古代女王


まさに超スーパースターです

その卓越した「女性」は、いにしえの人々の記憶に強く強く刻まれたことでしょう

そしてその「女性」にまつわる様々な事跡は、長き年月とともに人々に語り継がれ、やがて神話となり日本中の人々から敬い崇められるようになります



皇祖神

「天照大神様」

として



おおお、日御子さまは天照大神様であらせられたのか!

と、驚いて見せましたが、実はこのような説は結構昔から論じている方々もいらっしゃいまして、決して目新しい説というわけでもありません

小平次自身、過去に日本史を自分なりにひも解き直し始めたころ、最初に思った妄想なのです

しかしながら、その妄想をしっくりとこさせてくれるような論にはなかなか出会えなかったのですが、近年になって、この古代史の世界にご登場なされた「大平裕」さん

その著書「日本古代史正解」シリーズ他、との出会いによって、その妄想に確信を持つに至っている次第なのであります

前回ご紹介した安本美典さんの「古代天皇一代平均在位年数約十年説」ですが、もちろんこれはあくまで平均ですので、在位期間の短かった天皇も長かった天皇もいらしたでしょうし、完全に一致するわけではないでしょう

それを承知の上で大変おおざっぱではありますが、「日御子さま」=「天照大神様」を確認してみたいと思うのです

パート3で申しあげたように、神武天皇のご即位は西暦「250年頃」と推定できます

つまり日御子さまの治世は神武天皇のご即位より「前」となり、日御子さまが「皇統」のどなたがでいらしたのであれば、もはや日御子さまは「神代」の時代の方になってしまうということは前回述べました。

日御子様は当時としてはかなり例外的にその在位期間が長く、ご即位が180年から185年くらいの間で、崩年が248年、60年以上に渡っております

「日御子さま」=「天照大神様」

として、神武天皇にその「血筋」が継承されたとすれば、「古代天皇一代平均在位年数約十年説」から本来の平均的在位期間から考えれば、最低でも5代から6代くらいの皇位継承があっても良かった年数になります

つまり、神武天皇の「5代前」に天照大神様がいらっしゃるということもまた、日御子さまの治世期間と一致するわけです

大平さんはこのあたりの事も多角的に論証なさっていますので、興味のある方は是非お読みになってはいかがでしょう

さて

「日御子さま」=「天照大神様」

そうなりますと、例えば「出雲の国譲り」も「天孫降臨」も、日御子さまの事績ということになります

奈良、纏向の地にいらした日御子様が、「出雲の国譲り」神話などからもわかるように、支那や西洋的な「隷属させ支配する国」ではなく、君御自ら無私となり民の心を知り「君民共に治める国」「君民一体の国」として日本の統一を目指していたという事になります



細かく言えば、魏志倭人伝の記述などからすれば、日御子さまは大祭司、最高位の神官であらせられ、政(まつりごと)には直接関与されていなかったようにも想像できますが、それはそれでまた、我が国の「天皇」「為政者」「民」という国の形がすでにできていたとも思えるわけで、なおさら

「日御子さま」=「天照大神様」

であったようにも感じます


さて、最後になりますが

「日御子さま」=「天照大神様」説にもいくつか問題はあります

魏志倭人伝には、日御子様の崩御後「男王」が立ち再び国が乱れ、その後また女性の「台与(?)」が立ち国が治まった、とあります

その「男王」とはだれか

「台与(?)」とはだれか(これが「日御子さま」=「天照大神様」説最大の難所?)

また、日御子さまが纏向の地にいらしたのであれば神武天皇の「東征」とはいかなる経緯であったのか等々

そういったことを妄想していくのもまた楽しいものです

また、神武天皇のご即位を西暦250年ころとするならば

「皇紀」

はどうなるのだ!今年は皇紀2676年ではないのか!

さて、小平次は神武天皇のご即位を西暦250年ころと確信しながらも、今年は皇紀2676年であると受け止めております

さらに、小平次は微力ながら地元神社の役員をさせて頂きつつ、週に1度は参拝をさせて頂いております

その神社の祭神は「天照大神様」です

「日御子さま」=「天照大神様」

であった、と妄想しつつも、小平次が参拝させて頂くのは間違いなく「天照大神様」であります

つまり、信仰や信心、と科学は別物でよかろうということです

「高名な宇宙物理学者」で「敬虔なクリスチャン」

なんて人も欧米にはいらっしゃるでしょう

その方がビッグバンからの宇宙の歴史と、46億年前の地球誕生について科学的に研究しながら、かつ、聖書の天地創造と人類創生は信仰の対象として受け止めていることでしょう


さて、今回書ききれなかったことや、あらたな妄想についてはまた別の機会で…


最後までお読みいただきありがとうございました



御免!


※当記事は、主に大平裕さんの「日本古代史正解」他著作を参照にしながらあくまでも私的な妄想で述べさせて頂いていることをご承知おきください

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卑弥呼ではない!日御子様です!ぱーと3

2016-08-28 | 歴史


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こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

本日は

小平次の妄想的歴史探訪

「卑弥呼ではない!日御子さまです!パート3」

をお送りいたします


では、まずはぱーと1、2のおさらい


パート1、2では

「卑弥呼」という当て字はもうやめにしようということ

当時漢字を常用国語文字として使用していたのであれば

「邪馬台国の卑弥呼」ではなく「大和国の日御子」

であったのではないかということ

「日御子」擁立の過程と、即位後の長期政権の事実から「日御子」は神聖なオーラとカリスマ性を備え、そして誰も文句のつけようない正当な血筋の人であったのではないかと考えられること

そしてそのような血筋は、日本には、いや世界でも一つしかない、つまりは「皇統」ではないかということ

そうであればもはや「日御子さま」とお呼びしなくてはならないのでは、ということ

また「皇統」のどなたかであらせられたのであれば、古事記、日本書紀にその事績が記されているはずであるということ

日本書紀の神功皇后紀に、あくまでも魏志の引用である、としながらも魏への使節派遣について触れられており、日本書紀編纂者たちは「日御子様」を「神功皇后」に比定しようとしていたこと

では日御子様は「神功皇后」であらせられたのか

それについて、百済本記等、大陸の史書と日本書紀の複数の事件でその年代の一致が見られ、神功皇后の皇太子であらせられた応神天皇のご即位が西暦390年であると考えられること

そうなると雄々しく男装し海を越え、新羅討伐を果たした神功皇后こそ海外にまで名を馳せた日御子さまにふさわしいと思われましたが、その治世に150年ほどの開きがあり、この開きは残念ながらいかんともしがたく、日御子さまと神功皇后は同一人物ではあらせられなかった…

では一体…

というところまででした


さて、ここまでの妄想というのは、あくまでも日御子さまが皇統の中のどなたかでいらした、ということが前提です

「皇統の方ではなかった」

そういう人も大勢います

しかしながら、パート1でも申し上げましたが、日御子さまのご即位の直前まで国内は大変乱れていたわけですが、それらの争い合っていた者たち皆が日御子さまの皇位継承に納得し、武器を置いたのです

「争い合っていた者たち皆が武器をおいた」

これは大変なことです

大東亜戦争の終結、それは昭和天皇の玉音によってでした

世界中の軍隊から、世界で最も規律正しく勇敢な軍隊と評されることもあった日本兵が、天皇のおことばだけで武器を置いたのです

また、日御子さまの治世がおそらくは約60年と長期にわたり、かつ、魏志倭人伝に見られる

「風俗は淫らではない」

「盗みをせず争い事はすくない」

といった日本人の特徴から、その治世下は穏やかで日本らしい時代を創られていたと想像できます

神性とカリスマ性、だれもが武器を置く血筋の正当性、長き平和な時代の治世、絶妙なタイミングでの魏への使節派遣

卓越した古代女王は、やはり皇統のどなたかであらせられた、と小平次は妄想するわけです


そもそも日御子さまの治世はいつからいつまでなのでしょうか

その崩年は、魏志倭人伝などの記述から、西暦で言うところ「248年」とわかっています

ではご即位は?

「後漢書倭伝」

に、日御子さまの記述があることから、そのご即位は最低でも後漢朝の滅亡220年よりも前、ということになりましょう

さらに後漢書倭伝の記述

「桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼」

から、後漢の垣帝と霊帝の時代において、倭国は大いに乱れ互いに戦い、何年も主無き有様のなかで「卑弥呼」を共立したと記されております

垣帝の治世が146年から167年、霊帝の治世が168年から189年

倭国大乱から日御子さまのご即位が、支那の二人の皇帝の治世、全期間(146年から189年)にまたがっての出来ごとということはないでしょうから、まったくの想像になりますが、日御子さまの崩年から逆算し、現実的な宝算(天皇の年齢・寿命)を考え、おそらくは垣帝の末期から霊帝の中期後期にかけてではないかと思うわけです

年代にすると、160年頃から、185年頃までの間、この期間に倭国大乱から日御子さまのご即位があったと考えるのが小平次としてはもっともしっくりきます

そこから日御子さまのご即位は180年から185年くらいの間と考え、おそらくはさほどの差はないのではないかと思います

二十歳前後でご即位になられていれば、宝算は83歳から88歳、当時としては長寿でありますが、あり得ないというほどではありません

では180年ころから248年の間

この時代に在位なされていた天皇はどなたであらせられたのでしょうか

日本書紀は一部において、その紀年を120年、60年周期である干支を二順させていることがわかっております(他にもカラクリがありますが)

神功皇后の皇太子であらせられた応神天皇のご即位は、日本書紀では西暦換算で270年、実際のご即位が390年、ぴたりと干支が二順、120年遡っております

日本書紀の中には、このような例を他にもいくつかみつけることができます

応神天皇

このことは、精緻な暦を駆使し、編纂者達が応神天皇のご即位を正確に390年と理解していた上で、わざわざ120年繰り上げていると思えます

それはとりもなおさず、どうしても日御子さまを神功皇后に比定しなくてはならない「事情」があったと小平次は思っているのです

その事情とはなんでしょうか(それはいずれまた)

日本書紀がこんなですので、日御子さまの時代、どなたが天皇であらせられたか

別な視点から考えなければなりません

「安本美典さん」

という古代史の研究者がいらっしゃいます

この方は基本的に「ヤマタイ国」北九州説をご主張なさっていて、小平次が今最も熱い古代史研究者として尊敬している「大平 裕さん」はその著書の中で度々安本さんの論に反論、批判をなさっております

それでも大平さんは、戦後の古代史学者が日本書紀を史書として認めず無視してきた中で、安本さんが丁寧に向き合っていらっしゃることを高く評価もなさっています

また、安本さんは、

「古代天皇一代平均在位年数約十年説」

を展開なさっていまして、大平さんもご自身の論の補強に利用なさっています

「古代天皇一代平均在位年数約十年説」

とは、即位、退位の時期などを歴史的事実として信頼できると言われている、第三十一代用明天皇から大正天皇にいたる九十八天皇の在位期間を算出し、時代を5~8世紀、9~12世紀、13~16世紀、17~20世紀の四つにわけ、おのおのの時代にご即位された天皇の平均在位年数を求めたものです(下記図)



これによれば、5世紀から8世紀の間の天皇の在位期間は平均約10.88年となるわけです

天皇の在位期間が、時代を遡れば遡るほど短くなるのは当然のことであり、支那王朝の皇帝や、西洋の王の在位期間も概ね似通ったものになるそうです

また、安本さんは、兄弟間で皇位の継承が行われた場合、これも当然のことですが、その在位期間はより短くなり、古代においては平均6.75年という数字も導き出しています

では、さらに遡り、1世紀から4世紀までの天皇の平均在位期間はどのくらいであったのでしょうか

おそらくは10年から10年弱、となるのではないでしょうか

そうなりますと、応神天皇のご即位が390年、ここから初代神武天皇のご即位を、おおよそで推定することはできないでしょうか



応神天皇は第十五代天皇であらせられます

つまり、過去十四代、140年遡れば良いようにも思えますが、母君であらせられた神功皇后の執政期間を含めますれば、十五代遡る必要があるでしょう

単純に一代十年とすれば150年、240年頃となるわけですが、この間に大平さんの論によれば、第十代崇神天皇までの間に、兄弟継承が4度あった可能性があるとのことで、そうしますと単純に、3.25年(10年-6.75年)×4=13年

150年から13年引いてやりますと137年、神武天皇のご即位は応神天皇の390年のご即位から推定しますと、253年頃、となるわけです(皇紀についてはまたあらためて)

神武天皇

さて、もちろん大平さんの論や、安本さんの在位10年説にも異説、反論数多あります

10年前後の在位期間と言うのもあくでも平均でありますし、正確でない部分もあるでしょう

それでもただ小平次の妄想にもっともしっくりくるということですすめさせて頂いているわけですが、この神武天皇のご即位が250年頃、というのはさほどに間違いではないように思います(大平さんは10年説だけではなく、多角的にそれを論証されています)

違っていたとしても、数十年単位、百年単位の違いはないように思います

そうしますと、それを前提にして確実に言えるのは、日御子さまの治世は神武天皇のご即位よりも「前」ということになってしまいます

つまりそれはもはや「神代」の時代に入ってしまうという事です




いやいや、妄想とは言え大変なことになってきました


続きはパート4で



御免!


※当記事は、主に大平裕さんの「日本古代史正解」他著作を参照にしながらあくまでも私的な妄想で述べさせて頂いていることをご承知おきください
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卑弥呼ではない!日御子様です!ぱーと2

2016-07-20 | 歴史



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こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

本日は

「卑弥呼ではない!日御子様です!パート2」

をお送りいたします



で、ちょっとパート1の妄想のおさらい


パート1では

「卑弥呼」という当て字はもうやめにしようということ

当時漢字を常用国語文字として使用していたのであれば

「邪馬台国の卑弥呼」ではなく「大和国の日御子」

であったのではないかということ

「日御子」擁立の過程と、即位後の長期政権の事実から「日御子」は神聖なオーラとカリスマ性を備え、そして誰も文句のつけようない正当な血筋の人であったのではないかと考えられること

そしてそのような血筋は、日本には、いや世界でも一つしかない、つまりは「皇統」ではないかということ

そうであればもはや「日御子様」とお呼びしなくてはならないのでは、ということ

また「皇統」のどなたかであらせられたのであれば、古事記、日本書紀にその事績が記されているはずであるということ

日本書紀の神功皇后紀に、あくまでも魏志の引用である、と、ことわりを入れた上で「卑弥呼」について触れられており、日本書紀編纂者たちは「日御子様」を「神功皇后」に比定しようとしていたこと

では日御子様は「神功皇后」であらせられたのか

というところまででした



では早速妄想の続きをすすめましょう

そもそも日本書紀の編纂者たちは、そのことについてあくまでも魏志からの引用しか記載していません

日本書紀では、一つの事績に対し他に異説や別な伝承があればそれを載せています

しかし、神功皇后三十九年条他の記事は、あくまでもこの魏志の引用だけが記されています

つまりこれは自分たちが調べた範囲の中に「神功皇后が魏に使節を送った」ということについて、魏志の他、そのような事実が見当たらなかったという事だろうと思います

それでも大陸の史書に登場する海外にまで名を馳せた女王の記述を無視もできない

また、細かい話はいずれ「日本書紀」について触れる機会があれば述べさせて頂きますが、まずは神武天皇の即位を紀元前659年(660年)に定めたこと(これについてはまたあらためて)により、当然のことながらその後「倭国」を束ねていた日御子様の治世は、大和国の治世でならなくてはなりません

公孫氏の滅亡に素早く反応し、使節を送り、半島南進を目論む高句麗、国内にて大和に従わない狗奴国を牽制すると同時に自らを「倭国王」として国際的に認知させた、そんな華麗な外交をやってのけた古代女王

まさに自ら雄々しく男装し、海を越え三韓征討を果たした神功皇后をおいて他にいらっしゃるまい



そう考えたのでありましょう

この日御子様を神功皇后に比定したことは、日本書紀の編纂の根幹に関わる重要な事でありました

そこには日本書紀編纂者たちの実に緻密なカラクリがあるのですがそれもまたあらためて…


さて、日本書紀編纂者たちは、日御子様を神功皇后に比定しようとしたわけですが、そもそも日御子様の治世と、神功皇后の執政の時代は一致すると考えていたのでしょうか

日本書紀の成立した8世紀初頭からそれ以前、それまで支那地域から輸入されていた「暦」は、特に天武天皇の治世下ころよりかなり精緻なものとして研究されて精度の高いものになっていました



つまり編纂者たちは、少なくとも、魏志倭人伝にはっきりと年代の記されていた日御子様の治世が3世紀初頭頃であったことは確実にわかっていたと考えられます

ならばそれが神功皇后の執政期間と一致すると導き出していたのでしょうか


その件につき、決定的とも思えることを述べている方がいらっしゃいます


歴史学者の「倉西裕子さん」です

その著書「日本書紀の真実 その紀年論を解く」

によれば

「東国通鑑」(1484年成立)と「三国史記」(1145年?成立)の「百済本紀」、この二つの朝鮮半島の史書が百済王である「辰斯王の薨去」と「阿花王の即位」について、いずれも西暦換算において「392年」の事と記しています

この記事に呼応する記事が、実は日本書紀にもあるのです

「応神天皇紀3年条」

に、辰斯王の薨去と阿花王の即位が詳細に記されております

この事実の一致は応神天皇のご即位が

「390年」

であったことを物語っています

さらに「東国通鑑」と「百済本紀」は「百済の腆支王」が即位前に倭国に人質に出された年代を西暦で「397年」の事として記しています

これに呼応する記事が日本書紀では

「応神天皇紀8年条」

にあり、同じように逆算して求められる応神天皇のご即位は

「390年」

となります

さらにさらに、「百済本紀」の伝える阿花王の薨去は「405年」

日本書紀では

「応神天皇紀16年条」

にその記述があり求められる応神天皇のご即位は、やはり

「390年」

となります

さてさて、歴史、特に古代史などは文献的資料が少ないこともあり、一つの説に異論反論、数多ありますが、上記の応神天皇のご即位については、外国の史書と日本の史書において、複数の事件でその一致を見ることができるわけでして、異論反論もあるのでしょうが、素直に西暦「390年」と考え、古代史のひも解き、謎解きの一つの「起点」として、そこからの考察をすすめても良いように思えます

そうであれば、応神天皇のご即位が「390年」であるという「事実」は、応神天皇の母君であらせられた「神功皇后」の執政期間が、当然その直前となることを物語るわけで、日御子様の崩年は248年(?)ですから、日御子様の治世と神功皇后の執政期間には150年近い開きがあることとなります


「150年…」

うーーーーん…

日御子様=神功皇后

とするにはあまりに時代が違いすぎます

先の応神天皇のご即位の年代特定ばかりではなく、神功皇后の執政期間が4世紀中葉から末にかけてというのは(後日また)他の理由からもほぼ間違いないだろうと考えられます


となりますと結論としては日御子様と神功皇后は同一の方ではあらせられなかった…

ということです


では日御子様はどなたであらせられたのか

そもそも皇統の方ではないのではないか?

そのように言う人も大勢います

しかしパート1でも申し上げましたが、王位の継承争いをしていた者たちが、その即位によって一斉に武器を置き、その後最低でも40年以上(小平次は60年以上と思っています)の長きにわたり「倭国」を束ねた女王

だれもが認める正当なる血筋を持ち、神性とカリスマ性を兼ね備え、古代の我が国を治めていた女王は、やはり皇統のどなたかであらせられた、小平次にはそう感じられるのです


では一体…  


それはまた次回ということで




御免!
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卑弥呼ではない 日御子様です!  小平次の妄想的歴史探訪(再編集) 

2016-06-24 | 歴史
こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

本日はあの!

日本史における超有名人

「邪馬台(臺)国の卑弥呼」

について妄想を進めて参りたいと思います


さて

「卑弥呼」

初めて学校で歴史を習うとき、その最初に学ぶ人として小学生でも知っている我が国の歴史上の超有名人ですね


しかし!

表題でも述べた通り

「卑弥呼」

なんて、自分たち以外は「蛮族」だと居丈高に振舞っていた大陸の国の史書の記述通りに「私たち日本人が」、その古代の女王に対し「卑しい」なんて当て字をそのまんま使ってていいものでしょうか

少なくとも学校の教科書なんかではこんな汚らしい字面で我が国の古代の女王を表現してほしくないと思いますよ

もし、このころ我が国の先人たちが「漢字」を常用していたらこんな字を当てたでしょうか

前回の記事「漢字流入を阻止せよ」でも述べましたが、この時代、先人たちは間違いなく外交文書や交易などで漢字を使用していたはずです

としますと、古代人たちは自らの女王様にどのような「字」が適切てあるかをわかっていたのではないでしょうか

少なくとも「卑弥呼」は、公孫氏の滅亡に素早く反応し、魏に絶妙なタイミングで使節を送り「親魏倭王」の金印を受け、自らが「倭王」であることを国際的に認知させ、その後長きにわたり宿敵となる半島南進を目論む高句麗や、国内で対立していた狗奴国などの牽制に成功しています

そんな戦略的外交を展開していた「ヒミコ」であります

その時の外交文書などはへりくだって自らを表記したかもしれませんが、公孫氏や高句麗などとの外交文書においてはひょっとすればその「適切な漢字表記」で記していたかもしれません

さて、ではどのような「字」が我が国の古代女王様にふさわしいでしょうか


小平次は断然

「日御子」

であったと考えています


そして

「邪馬台(臺)国」



「大和国」

であろうと思っております

つまり

「大和国の日御子」

です


「邪馬台(臺)国の卑弥呼」だと


(こんな感じ)


「大和国の日御子」だと


(こんな感じ)

どうでしょう

まったくイメージが変わってくるではありませんか!


「邪馬台(臺)国の卑弥呼」

だと、どうにもなんだか悪魔崇拝の呪術師のような感じになってしまいますね

その政治も鹿の骨をばら撒いて吉凶を占ってやっていたような…

その字面からついつい魏志倭人伝の

「名曰卑彌呼事鬼道能惑衆」

鬼道につかえ、よく衆をまどわす。」

といったような記述に目が行きがちになり、一層おどろおどろしい感じになってしまいます



さて、そんなわけで当ブログにおいては今後、あくまでも

「大和国の日御子」

としてその実像を妄想して参りたいと思います

「大和国の日御子」

としてアプローチしてみますと、日御子(ひのみこ)はその名の通り、太陽を中心とした万物に感謝するための「神事」を司る「神官」であり、大変清々しく美しいイメージへと変わってまいります


また「大和国の日御子」であるならば、魏志倭人伝の記述についても、注目すべき視点が変わってきます



「大和国の日御子」を妄想する上で、小平次が最も注目する魏志倭人伝の記述は

「鬼道能惑衆」

の前

「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王」

「その国は、もともと男子をもって王としていた。七、八十年前倭国は乱れ、互いに攻撃し合い年を歴た。そこで共に一女子をたてて王とした…」

この「住七八十年」の解釈については、魏志倭人伝の成立から七、八十年前とか、日御子即位の直前の七、八十年間とか諸説あるのですが、当ブログではその辺あまり深く考えず、いずれにせよ日御子の即位直前まで国が乱れていた、と簡単に解釈していきます

「共立」

とありますので、それまで争い合っていた有力者たちが、何とか争いを止めるために共に話し合い、日御子を女王として擁立したということなのでしょう

さて、ここで素朴な疑問です

なぜ日御子を女王とすることで争いが治まったのでしょうか

ちょっと極端な例で考えてみます

例えば、日露戦争の真っただ中に、敵国のロシア皇帝ニコライ2世が退位し、皇女の一人であったアナスタシアが新たに女王となったとします

しかしながらその皇位の交代は、日本にとってなんら武器を置く理由にはならないわけです


では、日御子が女王となり王位の交代が行われたことによってそれまで争い合っていた者たちが武器を置いたのはなぜなのでしょうか

それは、争いの理由が王位の継承に他ならなかったからでしょう

ニコライ2世の退位とアナスタシアの即位は、日本には何の関係もないことですから日本が武器を置く理由にはなりません


しかし日御子の即位はそれが王位の継承争いであり、皆が関係者であったから武器を置いたのでありましょう

「共立」

ですから、武器を置くために「日御子」をたてた、とも考えられるわけです

いずれにせよ、当然のことながら「日御子」はそれまでの王の系統の血筋の人であり、争い合っていた人たちも皆多かれ少なかれその血筋の人、もしくはそれを推挙しようとしていた有力者、ということになるのではないでしょうか

それにしてもその血筋の中から日御子が選ばれた理由はなんでしょうか


「血筋そのものはそこそこであるが、争い合っていた有力者の誰とも利害がからまず当たり障りのない人物であったから」

逆に

「争い合っていた者たちの誰もが文句のつけようのない正当な血筋であったから」

どうなんでしょうか

小平次の思うところ「日御子」の治世は即位後、約60年と長期にわたっています

もし、単に血筋もそこそこ、政治的能力よりも「当たり障りのないこと」が選ばれた理由だとしたら、このように長期にわたり治世を担うということは考えにくい事のように思えます

「誰もが文句のつけようのない血筋」であり、なおかつ先の外交戦略などを見ても、政治的能力も長けていた

さらに、神秘的なオーラやカリスマ性を兼ね備えていたのではないでしょうか


日御子の治世が長期にわたっていることについて、当時の平均寿命からすると考えられない、という人もいるようですが、小平次はあり得ないというほどのことではないように思います

平均寿命が現代よりもはるかに短かったことは間違いないでしょうが、それこそ現代のような残留農薬、化学薬品をふんだんに使った加工食品なんてない時代です

自然の恵みをいただく、それこそすべてが今流行りのスローフードです

大きな病気にかからなければ、現代人よりも長く生きた人もそれなりにいた可能性は十分にあります


さて、神聖なオーラとカリスマ性を十分すぎるほどに兼ねそなえ、なおかつ誰も文句のつけようのない正当な血筋

唯一障害があったとすれば、それまで「男王」が治めていた、とありますように、「女王」の誕生には賛否があったかしれませんが、それでも皆が武器を置き、争いを止めるほどの正当な納得できる血筋の後継者…

「日御子」

をおいて他になかったのでしょう


神性とカリスマ性、そしてだれもが認める正当な血筋…

このような血筋は我が国日本にはたった一つしかありません


「皇統」


です


ええええええええーーーーーーーーっ!


「日御子」は皇統の中のどなたかであらせられたのでしょうか!

もしそうであれば、もはや「日御子」などと呼び捨てにするわけにはいきません

今後当ブログでは「日御子様」と呼ばせて頂きます


さて、そうなりますと当然、古事記や日本書紀に「日御子様」の事績が記されていなくてはなりません

そんなことがあるんでしょうか

実は日本書紀の「神功皇后紀」には、あくまでも断定することなく、さりげない形で魏志倭人伝の卑弥呼の記述が「引用」されているのです

少なくとも日本書紀編纂者たちは、海外にまで名をはせた女王を、その事績から考えても神功皇后の他なく、そう比定しようとした風に思われます




さて、日御子様は神功皇后であらせられたのか

その辺の妄想はまた次回に



御免!


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