さむらい小平次のしっくりこない話

世の中いつも、頭のいい人たちが正反対の事を言い合っている。
どっちが正しいか。自らの感性で感じてみよう!

日本書紀を読んでみる 神功皇后紀10

2017-07-10 | 日本書紀を読んでみる


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こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です


本日は

『日本書紀を読んでみる 神功皇后紀10』

をおおくりいたします


前回、新羅への出兵を群臣たちに諮り

『船団を整えて、宝の国へ臨む。もし、事が成れば、群臣は共に功績があったということにる。もし事が成らなかったら、それは自分一人の罪である。すでにこの覚悟である』

と雄々しくもおっしゃった おきながたらしひめのみこと・神功皇后でした

さていよいよ新羅との開戦前夜? さっそく続きです


それまでのあらすじはプロローグからパート9までをお読みいただければ幸いです


『原文』

『秋九月庚午朔己卯 令諸國集船舶練兵甲 時軍卒難集 皇后曰 必神心焉 則立大三輪社 以奉刀矛矣 軍衆自聚 於是 使吾瓮海人烏摩呂 出於西海 令察有國耶 還曰 國不見也 又遣磯鹿海人名草而令視 數日還之曰 西北有山 帶雲横絚 蓋有國乎 爰卜吉日 而臨發有日 時皇后親執斧鉞 令三軍曰 金鼓無節 旌旗錯亂 則士卒不整 貪財多欲 懷私内顧 必爲敵所虜 其敵少而勿輕 敵強而無屈 則姧暴勿聽 自服勿殺 遂戰勝者必有賞 背走者自有罪』


『訳文』

『秋9月10日、諸国に命令して、船舶を集めて兵を精練した。そのときに軍卒が集まりにくかった。皇后はおっしゃった。

「これは神の御心なのだろう」

すぐに大三輪の神社をたて、刀、矛(たちとほこ)を奉られた。そうすると軍兵が自然と集まった。
 吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)という者を派遣し、西の海に出て、国があるかと偵察させた。吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)は帰還して言った。

「国は見えませんでした」

 又、磯鹿海人(しかのあま)で名を「草」(くさ)という者をを派遣して偵察させた。何日か経って帰ってくると

「西北に山があり、大きな雲が横たわっています、きっと国があるのだと思われます」

 そこで吉日を占ったところ、出陣のときまでまだ日があった。そのとき皇后は自ら斧鉞(おのまさかり)をとり、三軍に令して言われた。

「士気を高める鉦鼓の音が乱れ、軍旗が乱れるようならば、士卒(兵)は整わないだろう。財(たから)を貪り、物欲、私欲、自己のことばかりに心を奪われていれば、きっと敵に捕えられるだろう。敵が少なくとも侮ってはならぬ!、敵が多くてもくじけてはならぬ!暴力を振るい婦女を犯すようなことを許してはならぬ!自分から降伏する者を殺してはならぬ!戦いに勝てば、必ず賞がある。背走する者には罪がある」 』




おおお、なんとかっこいいシーンでしょうか

小平次はこのシーンが一番好きです

美しき男装のおきながたらしひめのみこと・神功皇后が、御自ら軍兵に向かい檄をとばされる

敵が多くとも…の下り、ほんとかっこいいですね

さて日本書紀ではこの新羅出兵の理由を、神々の命により宝の国を求めるため、としていますが、実際のところはどうだったのでしょう

日本書紀を読む限り、西の宝の国があるかないか等々、夫の仲哀天皇も神功皇后も、まるで海の向こうの新羅などという国を知らない感じで書かれておりますが、そんなことはあろうはずもなく、なにかしらの政治的、軍事的要請にもとづく出兵であったのでしょう

以前お話ししました、こののちの応神天皇のご即位年から神功皇后の執政期間は4世紀半ば過ぎから末にかけてと推測され、朝鮮側の史書、新羅本紀などに、この時代、たびたびの倭軍の侵攻があったことが記録されておりますので、単なる伝説、神話の世界で片づけることもできないと思います

小平次は、新羅出兵の前に征討した熊襲(くまそ)と新羅の関係等々に妄想が働いております


それはまたいずれ妄想的歴史探訪の方で

 



御免!

コメント
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