テレビとうさん

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「共産主義」 と 「革命」

2021年04月12日 | 主義・体制
 「社会主義」は統治手法の一つで、「共産主義」は経済手法の一つです。「民主主義・自由主義」社会では、この「主義」を「思想」として持つことも可能ですが、国家体制として実践された場合は「思想性」は失われ、統治手法として排他的に固定化されます。

 ソビエト連邦は、理念として「ソビエト国家の最高の目的は、社会的共産主義的自治が発達している、無階級の共産主義社会の建設である。」を掲げ、手段と目的を同列に扱った事が、ソ連崩壊の必然性を示しています。

 簡単に言うと、例えば「人間社会の目的は、人間社会的人間的自治が発達している、平等の人間社会を作る事」と云う事で、何が人間・人間的なのかは不明です。

 「資本主義」や「共産主義」は、経済行為の手段に過ぎず、「自由主義」や「社会主義」も統治行為の一手段なので、国家の到達目標には成り得ません。「経世済民(世を治め、民を救う)」は、手段と目的を表現していますが、これは到達目標ではありません。

 手段を目的にする事は宗教に似ていて、真理を悟る為に修行を積みますが、悟る事自体は「何かになる・何かをする」為の手段に過ぎません。しかし多くの宗教は「悟る事」を目的にしています。悟った後の結果が重要であるにも拘らず、その結果を「宗教」は示していません。

 悟ったとされる人は「開祖」と言われ、絶対的な信仰の対象になります。「開祖」は自ら悟っているのだから、自分を「開祖」として崇拝される事を望む(=欲望)はずもないのですが、その意思に反して信者が増えます。

 理由は兎も角、「教祖」が元々自分の信者を増やす事を目的にしているのなら納得できます。但し、その「教祖」は欲望を捨てていないので「悟り」の域に達してはいません。単に「悟った」と思わせているだけで、騙される対象がいない限り、単なる変人に過ぎません。

 マルクスやレーニンなど、多くの「社会主義」「共産主義」を主張する人々が誕生しましたが、「主義」だけならば「自由主義」とは共存できます。「自由主義」の場合、宗教も共産主義も受け入れ可能ですが、「共産主義」や「一神教」に「自由主義」を持ち込むことは出来ません。信じない自由は認められないからです。

 この事から考えても「神道」は宗教で無い事は当然として、思想でも主義でもありません。信仰してもしなくても、「無知な人以外」は誰も何も文句は言いません。

 ここで問題になるのが「革命」です。自由主義の場合は「IT革命」でも「固定電話」は残り、「流通革命」でも「移動販売」は残り、既存の手法を排除しませんが、「共産主義革命」は確実に「自由主義」を排除します。

 また、「宗教革命」の言葉には自己矛盾を含んでいます。「宗教」は、それを信じる人には絶対性が有るからこそ「宗教」と言えるのであって、革命が可能な「宗教」が有るとすると、それは元々「宗教」ではありません。また、同じ「宗教」に宗派や分派が有ると云う事自体が「宗教」を否定していると言えます。
 
 この、非対称で不可逆な「共産主義」は、「革命」でしか「革命」を起こすことが出来ません。

 「共産主義国家」や「独裁国家」は、「自由主義革命」が起これば体制は終わるのですが、「革命」によって成立する国家は「革命」を是とした結果であり、「革命」の定義である「過去の否定」を肯定することから自己崩壊を自明とします。




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