さむらい小平次のしっくりこない話

世の中いつも、頭のいい人たちが正反対の事を言い合っている。
どっちが正しいか。自らの感性で感じてみよう!

弥生時代 「漢字流入を阻止せよ」 小平次の妄想的歴史探訪  日本の歴史は国防の歴史編

2016-05-19 | 歴史




こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

本日は

妄想的歴史探訪

「漢字流入を阻止せよ!」

と大仰なタイトルでお送りいたします



さて

「漢字」

ですが、ご存知の通り我が国の常用国語文字であります

そしてこの「漢字」、これまたご承知の通り古く支那地域にて発明され、周辺地域、民族に広まり、我が国にも伝播したものですね

中学生の歴史教科書などを見てみますと、漢字が日本に「伝えられた」のは5世紀頃だそうです

「伝えられた」

というその言い回しからしますと「伝えられる」それ以前は、日本人は漢字、文字を知らなかった、と受け止められるわけです

さて、そうなりますと小平次には非常に素朴な疑問が湧いてくるのです

そしてその疑問はやがて妄想となっていくわけです


その疑問とは?

前回の記事「渡来人とはナニモノだ」で述べたことですが、いわゆる「弥生時代」と言われるB・C4世紀頃から、急速に大陸と我が国との人的な往来が盛んになっていったような痕跡があるわけです

その中で日本には大陸から多くの文化や技術が伝えられ、その積極的な文化や技術の受け入れは、ずーっと後の遣唐使の廃止のころまで続いていたわけですね


だとすると

おかしいじゃないですか…

しっくりきません


多くの文化や技術が伝えられ、積極的に受け入れ、大陸からの帰化人もそれなりにいたであろうに

なぜ、「漢字」という便利なはずの「道具」は、積極的な往来が始まって以来およそ千年もの間「伝えられなかった」のでしょうか

大変不自然に思えます


「漢字という文字の有用性を理解できるほどの文化文明が発達していなかったのでは?」


とはいかにも戦後の主流である一方に偏った歴史学者が唱えそうな言葉ですが、そんなことはあるはずもないだろうと思うのです

すでに縄文期からヒスイの加工など高度な技術を持ち、大陸との往来もあったわけですし、1世紀中葉には支那王朝から、あの有名な

「漢委奴国王」





との金印を受けるような、戦略的な外交も行っていたわけです


この意味は重要だと思うのです

「朝貢し金印を受ける」

つまり中華の秩序における冊封体制に入るというのは、いずれまた述べさせて頂きますが、言わば安全保障上の要請に基づいていたと考えられるわけです

海を越え交易をし、金印を受け倭王としての冊封を受けるというような外交上の成功をやってのけていた人たちが、漢字と言う「文字」の有用性も理解できなかったなどということはありえないでしょう

それどころか、漢字を使用しなければ、大陸との交易はもちろん、支那王朝相手に戦略的な外交をするなんて無理な話だと思うのです

そうなりますと、この時代の先人たちは、漢字を「5世紀頃に伝えられる」まで知らなかったわけではなく、知っていたけれども常用の国語文字として使用はしていなかった

ということになるのではないでしょうか

それはなぜなのでしょうか


安全保障上の要請から東アジアの冊封体制下に入り、大陸の文化や技術を受け入れてきた先人たち

当時の世界共通文字とも言える漢字を常用文字として使えば、外交上、交易上だけでなく、国内の交易、行政上等においても大変便利であったはずです

そもそも日本人は、その歴史を通して大変好奇心の強い民族です

優れているものは、必要であれば素直に受け入れ、自分たちに合うように変化させたり、独自に発展させその分野において世界のトップクラスになってしまう、そんな民族です


日本刀などは世界一強靭な刀でしょうし、仏教なども伝来以降さまざまな宗派に分岐し、日本人に合うように教義を変化させています

鉄砲も偶然伝わったかと思えば、たちまち国産として量産してしまいます

明治以降も、鉄道、飛行機、電気機器、アニメ、説明するまでもありません



そんな日本人が、様々な大陸文化や技術と接し、受け入れていく中、なぜ「漢字」、つまり「文字」は外交上、交易上では使用しながらも、自国の文字として受け入れることをしなかったのでしょう

前回の記事で「無償で文化や技術を伝えに来た渡来人などはいなかった」が、有償、もしくは様々な事情により大陸から日本に移り住んだ人たちはいたであろうと申し上げました

そんな人たちは日本に移り住んだ後、同じ地域の同族や民族などで、集団を形成したりはしなかったのでしょうか

集団を形成したのであれば、それまで自分たちが使っていた便利な「道具」である「漢字」つまりは「文字」を常用として使用したりはしなかったのでしょうか

使用していたのであれば、そこから周辺に広まったりはしなかったのでしょうか

民間レベルでなくとも、地域や「クニ」レベルで常用としてはいなかったのでしょうか


それらの痕跡はほぼ見つかってはいません


今年の3月、弥生時代後期のものと思われる硯の欠片が見つかったというニュースがありまして、見つかった場所が福岡ということで、大陸への玄関口として、外交文書を作成していたのでは?

http://www.asahi.com/articles/ASJ2Y5R8KJ2YTLZU001.html

などとちょっと騒がれたわけです

このような発見は、先ほど来申し上げている通り、外交や交易の場においては漢字は使用されていたことを裏付けるものだと思います

であれば、やはりなおのこと、民間レベルはともかく、他の文化や技術を受け入れ発達させたのと同様に、有益な「道具」として国内での行政や交易に漢字を使用していたとしてもなんら不思議はないのです

「魏志倭人伝」には、民が税を納めていたことや、犯罪に対する刑の軽重などなど、がすでに定められていたことが記されていますし、そういった決まり事を徹底させるにも文字は有用な「道具」であったはずです

それでもヒミコの時代以降、有名な倭の五王「武」の上表文など、外交文書の記録はあっても、国内で常用していたような確たる痕跡はありません(日本の土が酸性土であるために、そういった記録は残りにくいということの考慮はまた別な視点として必要だと思いますが)



しかしながら

「文字の使用の必要性がない文化文明の発達程度であった」

などという理由はもはや通用しないでしょう


これまでのことを整理してみます

弥生時代期の日本では、おそらく外交、交易の必要上間違いなく漢字を使用していた、そして日本に移り住む前、漢字を常用していた多くの帰化人がいたであろうし、その人たちは集団を形成したでしょう

しかしながらそこから常用文字として広まってもいないし常用されてもいない

しかも千年以上もの長き時間を経ながらも…


これはですね

もう「受け入れなかった」というような話ではなく

「強く拒否」

していた

いやそれでも足りません 外交文書、及び一部交易商人以外での漢字の常用、流布を

「禁じていた」

下手をすれば

「取り締まっていた」

くらいの話のように思えます

まさに

「漢字流入を阻止せよ」

ってな感じです



簡単に考えても、大陸からの「渡来人」「帰化人」が大勢いたと言われているのに、その人たちですら漢字を常用していた痕跡がないのです

しかも千年以上もの間…

これはあたかも、後年、白人キリスト教国家がその価値観を世界中に押し付け、従わない民族や国々があれば、虐殺し奪い取っていたような時代に、その大義であったキリスト教の布教や信仰を徹底的に取り締まっていた江戸幕府のようにも見えます

なにゆえそこまで頑なに…

その理由は何でしょうか

それついては「文字」そのものの役割について考えなくてはなりません

「文字の役割」 

最も単純に考えれば、それは「意思の伝達手段の一つ」でありましょう

「意思の伝達…」

しかしそれは、極端な話、不便さを考えなければ「口頭」で事が足りるのです


今、私たちの生活からEmailが無くなったら大変な混乱が起きるでしょうが、元々文字を使っていない人たちであれば、まあ不便さなんて感じてはいなかったかもしれません

口頭ばかりでなく、文字に代わる何か合図でも代替が利くかもしれません

家の前に石が三つ置いてあったら畑に出て留守にしているよ~、というしるしだとか…

いずれにせよ「意思の伝達」ということに限れば、文字は無くとも何とかなるわけです


「意思の伝達以外」の文字の重要な役割…

それは、人に約束を守らせるための

「証拠能力」

であろうと思うわけです

最もわかりやすい例として「契約書」なんかがありますね

契約者同士が、約束事を文字に起こし書面にして、割り印なんかを押して同じものを一部ずつ双方で持ち合うことで、何かあっても

「契約書に書いてあるではないか!」

もし約束を違えれば「損害賠償」などについても決め事をしておき、互いに約束を守るよう「義務」を課し、それを証拠として残しているわけです


これはですね

小平次が思うところ、つきつめて考えてみますと

「約束とは破られるもの」

という考え、価値観が前提になっていると思うのです

大袈裟に言えば、「文字」とは

「約束とは破られるものである」

ということを前提とした

「相互不信社会の象徴である」

と思うのです

翻って「文字」を必要としない社会はその真逆

「約束とは守られるもの」

という考え、価値観が前提になっている

「高度に信頼し合う社会」

である、と思うわけです

しかし、いくら「約束とは守られるもの」という前提に立った社会であっても、時に勘違いや早とちり、約束を破る気はなくてもやむなく約束を反古にしてしまった、なんてこともあったでしょう

そのような時には争いも起きたかもしれません

しかしそれでも最終的には互いに譲歩し、許容し、受け入れ合う、そういう価値観でなくては「約束とは守られるもの」を前提とした「高度に信頼し合う社会」は成り立たないでしょう

このように考えて来ますと、なにか少しわかったような気がします

私たちの先人たちが「漢字の流入を阻止」してきた理由

「約束とは破られるもの」を前提とした「相互不信社会」の価値観を、「約束とは守られるもの」を前提とした「高度に信頼し合う社会」としてその流入を阻止していた、禁じていた、取り締まってもいた

そんな風に見えるのです


その昔、不安遺伝子を抱えた臆病で恥ずかしがりの人たちがこの列島付近に移り住み、やがて縄文の奇跡をも呼べる長き平和な時を過ごしていた

そこへ、支那付近の戦乱と大規模な統一と時を同じくするように、大陸から人とともに「弱肉強食」の価値観が持ち込まれ、我が先人たちはそれと戦い、相互不信社会の象徴であるところの「漢字」の流入を阻止した

魏志倭人伝には、弥生時代後期の日本の様子とともに、日本人の特徴が書かれています

「風俗はみだらではない」

「盗みをせず争い事は少ない」

脈々と、そのような感性と価値観が受け継がれ、歴史が連続していることを感じることができるのです


「漢字流入を阻止せよ」


まさにこれも「国防」そのものです



御免!
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渡来人とはナニモノだ? 小平次の妄想的歴史探訪 

2016-03-30 | 歴史
こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

小平次の妄想的歴史探訪

今回は

「渡来人とはナニモンだ?」

と題して妄想をお送りいたします


中学校の歴史教科書なんかを見てみますと

「紀元前4世紀頃、主に朝鮮半島から移り住んだ人たちによって稲作が伝えられ…」

などと書かれており、事実、遣唐使の廃止のころまでになるのでしょうか

百済や新羅、高句麗、歴代支那王朝から仏法の指導者であるとか、建築の技術者などなどの来日、帰化の記録が残っております

ではそのような文献的記録のない時代、弥生時代と言われるその時代、大陸から移り住んだ人たち、いわゆる

「渡来人」

ってな人たちはいったい「ナニモン」だったのでしょうか

小平次が子供のころ、歴史の授業でこの事を学んだ時のイメージとしては、何だか「石斧担いでゴゴーンゴーン♪」みたいな原始人が「ウッホ、ウッホ」と唸り声を上げていたような未開の野蛮な島であった日本に、それはそれは優しく手取り足取り、朝鮮半島からやってきたススンだ人達が文化文明、技術などを伝えたというような、そんな感じでしたよ

今でもそんなイメージを持っている人たちも多いんじゃないでしょうか

少なくともお隣の国ではそんな風に思っているようですし、教育もされているようなのであります


「主に朝鮮半島から移り住んだ人たちによって文化や技術が伝えられ…」

教科書なんかには実にさらりと書かれておりますが、小平次としては大変素朴な疑問があるのです


その人たちは一体何の得があって海を渡り、わざわざ日本に文化文明、技術を伝えにやって来たのだろうかということに対しての疑問です

少なくともこの時代、日本と大陸、双方で海を渡り行き来をしていたことは間違いないでしょう

航海技術も後世で考えているよりもずっと優れていた可能性もあります

半島の南端から九州までは、決して遠い距離ではないかもしれません

しかしながら、青森と函館の決して遠くはない距離を結んでいた青函連絡船「洞爺丸」の事故は昭和の出来事です

多数の犠牲者を出したセウォル号の転覆事故や、イタリアの大型客船コスタ・コンコルディアの座礁事故なんてつい最近のできごとです

現代の最新技術を持った船でさえ、自然条件、人的ミス、その他によって、多大な犠牲を払う事故を起こしているのです

漁船やその他の船の事故も含めれば、世界中で今も海難事故はしょっちゅう起きているのです



それが2千年以上前の航海、いかにその技術が優れていた可能性もあり、北九州と半島南端の距離は、今でこそ近いと言えたとしても、当時は命懸けの航海であったことに間違いはないでしょう


「主に朝鮮半島から移り住んだ人たちによって文化や技術が伝えられ…」


命を懸けてまで日本にやってきて文化や技術を伝える理由はなんでしょうか

そもそもが、何の見返りもないのに「文化や技術」、その他「何か」を伝える事だけを目的に命を懸ける人たちなんているんでしょうか

「命懸けで何かを伝える」

小平次には例えば後の「鑑真和上」のような強い信仰心を持った「宗教者」くらいしか思いつきません(鑑真和上も朝廷の招聘ですので見返りがなかったわけではないでしょうが…)



しかし弥生時代初期、そのような宗教者が大挙してやって来たような痕跡はもちろんありませんので

「何の見返りもないのに「文化や技術」、その他「何か」を伝える事だけを目的に命をかける人たち」

は、初期の「渡来人」からは外して良いように思います

ではどんな人たちであったのか

妄想してみましょう

初期の渡来人が

「何の見返りもないのに「文化や技術」、その他「何か」を伝える事だけを目的に命をかける人たち」

ではなかったのであれば

「命を懸けてでも日本に渡るしか生き残る道がなかった人たち」



「命を懸けてでも日本に渡れば大きな利益があると考えた人たち」

大別するとこんな感じですかね

どちらにしても「命懸け」の航海をして、ということは忘れてはなりません

まずは「命を懸けてでも日本に渡るしか生き残る道がなかった人たち」について妄想してみます

この時代、朝鮮半島にはまだまだ「国」と呼べるような集団もなく、日本に文化や技術を伝えることができるような状態ではなかったでしょう

そうなれば、当然その人たちは支那地域、大陸内部からやって来た人たちでしょう

弥生時代初期、支那地域はいわゆる「春秋戦国時代」、戦乱によって大変に乱れていた時代でありました





「長平の戦い」などにおける何十万人を生き埋め、なんて数字は大袈裟にしても、大陸や半島での戦乱において、残忍な虐殺や強姦などが常態であったことは否定できません

長い戦乱によって征服された国々の民や支配階級の人たちの一部は、おそらく命からがら朝鮮半島方面に逃げ込んだのかもしれません

特に身分の高い支配階級の人たちは、反逆の芽を摘むという意味で、一族郎党、地の果てまで追い詰められたかもしれません

最終的に逃げ場のなくなった人たちが、ついには海を越えて安全な日本に逃げ込んだ

言わば「難民」ですね

「難民」と言ってもこの時代、日本へ渡ることのできる船を手に入れることは、そう容易なことではなかったでしょう

さらにはそれを操船し、日本までの航海ができる技術者を雇うとなれば一層困難なことであったでしょう

そうなりますと、以前の「ボートピープル」のように、一か八か大海に乗り出し、運よく日本に辿り着いたような人たちもいたかもしれませんが、基本的には一般の戦乱難民には無理な話であったでしょう

「日本に渡ることのできる船と操船者」

それを手に入れることのできる難民、それは捕まれば確実に地獄が待っているであろう被征服地域のそれなりの身分の人たち、財力や人脈を兼ね備えた言わば

「高貴な難民」

が、「命を懸けてでも日本に渡る他、生きる道のなかった人たち」の中心であったのではないでしょうか

この人たちは、日本での生活も考え、自分たちの一族の他、領民のうち技術者なども引き連れ、それなりの船団を組んで脱出したのかもしれません

朝鮮半島南部に、この後日本の影響が色濃く残る痕跡が見つかっておりますが、すでにこの時代(小平次はもっと古くからと思っておりますが)多くの日本人が住んでいたかもしれません

そうなりますと、古代版杉浦千畝のような人が半島南部にいて、追っ手からかくまい、日本に逃がしていたなんて事があったりして…、まっ、妄想しすぎですね!

さて、次へ行きましょう

「命を懸けてでも日本に渡れば大きな利益があると考えた人たち」

とはどんな人たちだったのでしょうか

真っ先に思いつくのは「交易商人」のような人たち

長き戦乱の時代も終わり、秦の始皇帝によって支那地域が大規模に統一されます

その安定とともに、交易も活発化していったことでしょう

日本ブランドの翡翠の加工品や、漆の装飾品などは、ひょっとすれば高値で支那マーケットで取引され、それを求め行き来する人たちがいたのかもしれません

いずれにせよこの「命を懸けてでも日本に渡る他、生きる道のなかった人たち」や「命を懸けてでも日本に渡れば大きな利益があると考えた人たち」は、小平次の妄想のような難民や商人ではなかったかもしれませんが、文化や技術を伝えること自体を目的に海を渡ってきたわけではなく、双方の往来の中で、文化や技術が日本へ自然と伝わっていったのでしょう

さて、もう一つ考えてみたいと思います

「何の見返りもなく」

文化や技術を伝える事自体を目的に命懸けで海を渡って来た人などはいなかった、と先に申し上げましたが

「それなりの見返り」

があるからこそ、文化や技術を伝える事自体を目的に命懸けで海を渡って来た人たちはいたのではないかと思うのです

それは最初にも述べましたが、ずっと時代を下り、大和朝廷の時代になりますと、百済や新羅、高句麗や支那の王朝地域から多くの仏教の指導者やその他の技術者を招聘していることが記録に残っております

それに対しては当然「対価」が支払われたことでしょう

そしてこのことは、明治のころの日本によく似ております

西洋的近代化を急いだ明治政府は、多くの西洋人技術者や教師、学者などを「対価」をもって招聘し、学んだわけです

そしてある程度学び、あとは自分たちでやれるとなれば母国へお帰りいただいたわけですね

小平次は案外このようなことは、実は文献的資料のない時代、つまり弥生時代のある程度早い段階から起きていたのではないかと思うのです

そのためにはある程度の統一された集団(クニ)の存在があったのでは、ということが前提にはなると思いますが


さて

「渡来人とはナニモンだ?」

小平次の妄想的現時点での結論はですね

結局どんな理由にせよ、双方の往来があり、その中で自然と文化や技術が日本に伝わってきたのであろう、ということでして

とりたてて「渡来人」なる特別な一団が存在していたわけではないのかなと思うのです

明らかな「渡来人」というのは、日本側から「対価」をもって招聘した一部の人たち、ということなのではないでしょうか

しかしながら、伝わったのは文化や技術だけではなく、やがて住み着いた渡来系の人たちの大陸的価値観

つまりは、征服して支配する、という弱肉強食の価値観も持ち込まれてきたのでありましょう

それが前回申し上げたこと

戦闘方法が徐々に縄文期の「一人対数人」の形式から「集団対集団」の形式に変わっていったこと、この事実がまさにこの文化や技術の流入と時を同じくしていることはそれを物語っているのではないでしょうか

それまでの縄文期の「平和的に融合」する価値観と、大陸的、いや、日本以外の世界共通の価値観、「弱肉強食」の価値観との戦いがついに始まってしまったのです

「日本の歴史は国防の歴史」

私たちの先人の国防の戦いは、まさにここから始まったのであります




御免!


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縄文の奇跡 小平次の妄想的歴史探訪 

2016-03-14 | 歴史

    
意外とお洒落だった痕跡いっぱいの縄文時代


こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

小平次の妄想的歴史探訪

 「縄文の奇跡」

と題してお送りいたします


前回私たちのご先祖様たちは、おそらくは現在のアフリカ大陸付近から十数万年もの月日をかけこの日本列島付近に辿り着いた、不安遺伝子を抱えた究極の争いごと嫌いの臆病な人たちの集団であった

のようなことを申し上げました

それがおよそ3万年前くらいではないかといわれております(もっと以前の痕跡もあり)

そしてその後、今からおよそ1万6千年前ころには世界最古、もしくは最古級と言える土器を造り始めているのです



ここから諸説あるもののおよそ2千3、4百年前くらいまでが「縄文時代」と言われる時代なのですね

さて、この縄文時代

平和な時代であったとよく言われております

小平次自身も以前からこの平和な時代を

「縄文の奇跡」

と呼んできたわけです

しかしながら、主に左側の人たちからの主張をみますと

「縄文時代は平和で争いもなく、身分の差などのない平等な社会であった。しかしその後支配者階級が現れ、身分の差ができるようになった…」

だそうで…

うーーん…

「身分の差などのない…」

こんな風に言われると何だかちょっと気色悪くなってしまいます

ヒネクレモンの小平次としては、ついつい反対のことを考えたくなってしまいます


「縄文時代」

はなぜ平和な時代であった、と言われるのでしょうか

それは、主に発掘調査などから、武器らしい武器などがあまり見つからないということがまず一つ

しかしそれは、基本的に対人向けに作られた武器ではないということであって、狩猟用の石斧や石鏃などは多数見つかっているのです

考えてみればわかることですが、猪や熊を仕とめられる道具であれば、その気になれば当然対人用としても有効であったはずです

また、人を殺す手段は武器を使用しなくとも他にもあるわけです

首を絞めるとか、崖から突き落とすとか、素手で殴り殺すとか…

対人向けの殺傷能力の高い武器などが見つからないからと言って、それだけでは平和な時代であった、とは言えないわけです

そしてもう一つ

武器だけではなく、殺傷痕のある人骨が発見されない、もしくは少ない

というのも、縄文時代が平和な時代であったという推測を後押しています

これに関しては面白い研究データがありまして

「受傷人骨からみた縄文の争い」

他人からの攻撃による傷を負ったことが明らかな縄文時代の人骨についての研究論文であります


いやあ、いろんな研究をしている人たちがいるものですね!

勉強することはまだまだたくさんあります

さてこの論文の中身をざっと申し上げますと、結論から言えば、縄文時代にも「戦闘らしきもの」は起きていた、ということです

まあ当たり前のことですね

縄文期の受傷人骨は、少ないとは言っても、縄文時代にも争い事が起きていた可能性を示しており、そこには明確な殺意が存在していたのであります


縄文時代は「争いのない平和な時代」ではなかったのか!


上記の論文、大変興味深い研究結果を報告してくれております

その戦闘スタイルは、弥生時代中期以降

「 集団 対 集団 」

に徐々に変わっていったようですが、少なくとも縄文晩期ころまでの戦闘スタイルは

「 一人 対 数人(少人数)」

であったことが窺えるそうです

また、弥生時代中期以降は、殺傷能力の高い金属器による接近戦が増えているのに対し、縄文期のそれは、主に高所(樹上等)から弓による攻撃を仕掛けるパターンが多かったようです

縄文期の弓は殺傷能力も低いため、高所(樹上等)から攻撃し、相手の動きを鈍らせて複数人で襲い頭部への石斧等での攻撃によって致命傷を負わせる戦法が多かったようです


「 一人 対 複数 」

だとか

「高所(樹上等)からの攻撃」

とか、なかなかに妄想膨らむような研究結果です

(山賊のような連中による襲撃であるとか、集落にやってきた招かれざる客の撃退であるとか…etc)

なんにせよ、縄文期のそれも、人を殺そうという意志の下で起きた「事件」の一つであるのは間違いありません

しかしそれが「戦闘」と呼べるレベルなのか、ましてや「戦乱」や「戦争」と呼べるレベルのものなのか

そう考えると「争いのない」というのは言い過ぎとしても、少なくとも「戦争」や「戦乱」と呼べるような集団対集団の規模の争い事は「起きていなかった」と言えるかもしれません(現時点での発掘調査や研究においては)

「規模の大きな戦乱になるまでの集団が構成されていなかっただけだ」

との主張もあるようですが、少なからず三内丸山遺跡などに代表されるそれなりの規模を持った集落もあった上、「交易」とは呼べないという説もありますが、少なくとも全国規模で「交流」があったことは発掘調査でわかっております

とすれば、当然「集団対集団」の接触もあったことになると思うのですが、それが「集団対集団」の戦闘に発展することまでには、至らなかったということになるでしょう

それでも「規模の小さな集団がほとんどであった」との見方は可能かもしれませんが、それはそれで、前回申しあげたことですが、群れを大きくする必要性というのは、より安定した食料の確保のためであると同時に、外敵からの攻撃、その逆に対する安全保障上の要請でもあるわけでして、その要請に応えることの必要性も大きくはなかったとも言えるのではないでしょうか

それも1万年以上…

動物的本能、そして世界の歴史を見てくれば、1万年以上の長き時間、必要以上に群れを大きくする必要がなかったこと自体奇跡と言えるかもしれません



この時代の集団の形成が、自然条件によって大きく左右され不安定であったことは想像に難くありませんが、それでも1万年以上もの長き時間、集団同士の接触を持ちながらも戦闘にまでは至らなかったのは、弱肉強食の動物的本能に支配されてきた世界の歴史からすれば、やはりすごいことなのではないでしょうか

また、芸術的文様を施した土器であるとか、思想的な想いのこめられたような土偶であるとか、高度な技術を要するヒスイの加工品であるとか、漆塗りの装飾品であるとか、そういった品々の痕跡は、なかなかの文化文明の発達度を物語っています

江戸時代、優れた文化が発達したのは、安定した平和な時代が長く続いたからこそであって、この縄文期にも似たような事が言えるのではないでしょうか

しかも1万年以上…

こうしてみますと、ヒネクレモンとして反対の事を取り上げたつもりが、結局は「縄文時代は平和な時代」を後押しする結果となってしまいました

そうです

やはり縄文時代は「奇跡の時代」と呼んで全く差支えない、概ね平和な時代であったのではないでしょうか

まあ「身分の差もなく」などというのは、後の階級闘争史観から見た話で言い過ぎであるとは思いますが(階級差があったと思われる痕跡もあり)


さて、このように概ね平和な時代であったとも思われる縄文時代もやがて終焉を迎えます

中学校の教科書などにみられる

「主に朝鮮半島から移り住んだ人たちによって文化や技術が伝えられ…」

といったころと時を同じくするようにして、徐々にではありますが「集団対集団」の戦闘の痕跡も見られるようになってまいります

これはいったい何を意味するのでしょう


2005年国立科学博物館企画展示のポスター


その妄想はまた次回に



御免!

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日本の歴史は国防の歴史編 はじまりのご先祖様たち 小平次の妄想的歴史探訪 

2016-03-09 | 歴史


こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です


さて、本日は妄想的歴史探訪

「はじまりのご先祖様たち」

と題しましてお送りいたします



以前小平次の子供のころは、よく上の絵のような人類の進化の過程の図を見たことがあるのですが、最近のミトコンドリアDNAの研究では、とりあえず現生人類共通の、直接の祖先として辿れるのは、およそ16万年前前後である、と言われておるようです

そして、今まで人類の祖先と言われていた原人や猿人のいくつかの種は直接現生人類と関係している確かな証拠もないようです

以前の記事にて、小平次はこの件、勉強不足でやや勘違いして書いていた部分がありましたので訂正いたしました。

申し訳ございませんm(_ _)m

さて、この件ですが、色々勉強していくと中々に複雑で、今回の申し上げたい事とも少々かけ離れてしまいますので、やや乱暴ですが簡単に申し上げたいと思います

「現時点の研究では、およそ16万年前の時点では、現生人類の共通の祖先は現在のアフリカ大陸にいた可能性が高い」

と言える、ということで合っているでしょうか

これまでの人類アフリカ起源説からみても、このミトコンドリアDNAの研究はそのことを後押しいていると言えるわけです

このことが事実だとすれば、現在のアフリカ付近で誕生した人類は、長い年月をかけ世界に広がっていったとも考えられるわけですが、およそ動物が群れを作りその行動範囲を広げていく理由とはなんでしょうか

動物のもっとも基本的な本能は、その種を残すこと、つまりは子孫の繁栄であろうと思います

そのために生き残ろうとする、生き残るために食う、食料を確保するということですね

群れを大きくする、ということは、より効率的な食料の確保のためであり、また外敵などの襲来、その逆、そのための安全保障上の要請でもあるのでしょう

小平次はたまにスカパーのアニマルプラネットなどが好きで見ているのですが、ライオンなんかすごいんですね

一頭の雄ライオンがある群れのリーダーであった雄ライオンと闘い打ち負かす、そして新たにその群れのリーダーにおさまる

そうするとですね、新リーダーはまず、前リーダーの子孫であるまだ幼い子ライオンを皆殺しにしてしまうんだそうです

他の遺伝子を持つ子を殺し、自分の遺伝子を少しでも多く残すためにその芽を摘むわけです

いやあ恐ろしいほどの徹底ぶりです

こんな野生動物の世界を見ていますと、なんだか人類もやはり動物なのだと思うのです…




先にも述べた通り、動物が群れを大きくしたり、移動したり、その理由はやはり食料の確保のためでしょう

より優秀な子孫を残すために強いリーダーを求め、その元で群れを大きくしていく、群れが大きくなればより多くの食料が必要になる、そのため活動範囲(ナワバリ)を広げる、活動範囲が広がれば他の群れとの接触の機会が増える、接触の機会が増えれば襲い襲われ勝者の群れが大きくなる

こんな繰り返しが延々脈々と現代まで続いているのです

そのような中で私たちのご先祖様たちが、流れ流れて今の日本列島付近にやってきたのがおよそ3万年前くらいではないかと言われております(もっと以前のものと思える痕跡もあり)

先のミトコンドリアDNAでいうところのおよそ16万年前からすれば十数万年の途方もない時間をかけてやってきたことになります

わたしたちのご先祖様たちの移動も、他の動物たちと同じように食料を求め、ナワバリの拡大、襲い襲われの連鎖に組み込まれた結果なのでしょうか


小平次は妄想します

私たち、現代日本人のほぼすべてが、恐怖やストレスに対する耐性が弱い、不安遺伝子なるものを抱えているそうです

香川靖雄さん 女子栄養短期大学副学長の論文1
香川靖雄さん 女子栄養短期大学副学長の論文2


詳しくはよく知りませんし、まだ仮説段階の論も多いので、細かい話はしませんが、日本人に対人恐怖症の人が多いことなども無関係ではないかもしれません

またいつごろからそのような特徴を兼ね備えたかはわかりませんし、いわゆる不安遺伝子の型が実生活に影響するかはどうかは別のことであるとの説もあります

ですからあくまでも「妄想」でありますが、もしそのような性質がご先祖様の移動や拡大に影響していたのだとすれば、私たちのご先祖様たちは、他の種がしたような「襲い襲われ」を極力避けようとしながら、同じような感性を持つ種と合流し、群れを広げていったのではないでしょうか

ある程度安定した食料を確保できるような地に辿り着けば定住する、そこが外敵に襲われたりすればまた移動する、定住し群れが大きくなっていくと、外敵ばかりでなく、内部にも食料を独占しようなんて者が現れたりしたかもしれません

臆病で争いごとの嫌いな群れが、流れ流れる中でさらに選りすぐられ、究極の争いごと嫌いの人たちが現在の日本列島付近にやってきた

それは一遍にではなく、似たような人たちが流れ着いてくるような、動物の行動パターンのようなものがあったのかもしれません

不安になりやすい性質、恥ずかしがりな性質、それは決して負の面だけではなく、互いの信頼感を強めるとか、知能を高めるなどの研究データもあるようです

ですが、そんな研究データや論文を待つまでもなく、その後の日本の歴史を見ていけば、前回のプロローグでも申し上げた通り、我が国日本は

「概ね平和であった」

事がわかるわけです

人類が分化していく中でのこのような性質は、特にこの初期段階においては、その後の日本の礎となるものであったかもしれません


この後訪れる縄文時代が概ね平和な時代であったことが窺えることや、時代を下り大陸の史書「魏志倭人伝」に伝えられる

「風俗はみだらではない」

「盗みをせず争い事は少ない」

といった日本人の特徴にも合致し、繋がっていることがわかります



さて、最後に申し上げます

このような妄想がある程度事実であったとして、その本来的な性質が日本という国が創り上げられていく原始段階においては影響を及ぼしたかもしれません

しかしながら、小平次は思うのです

「日本人であること」

とは、その遺伝子やDNAがどうとかいう話ではありません

最近この遺伝子やDNAが韓国人とは違うとか違わないとか騒いでいる人たちもみかけますが

そんなことはどうでもいいのです

私たちのはじまりのご先祖様たちがこの地に辿り着いてから長き時を経ますと

やがて争いごとや戦乱が起きるようになっていきます

そのような中においても、私たちの先人たちは少しでもそれを避けようと国を創ってまいりました

「一君と万民」

君は民を想い、民は君を敬う

世界に類のない国の在り方を護り通してまいりました

「和を以て貴しと為す」

を国是として歩んできた国です

遺伝子もDNAも関係ありません

そのような価値観を創り上げてくださった先人を敬い、その価値観を共有しようとする者が日本人なのであります



御免!







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小平次の妄想的歴史探訪 日本の歴史は国防の歴史編 プロローグ

2016-02-03 | 歴史


こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

久々の歴史記事の投稿です

表題の

「小平次の妄想的歴史探訪」

なるシリーズを今回から始めてみたいと思います

これまで、当ブログでは

「東京書籍歴史教科書で行く歴史探訪」

と題しまして、東京書籍出版社の中学歴史教科書をご紹介しながら、それに合わせて小平次の妄想的な歴史を述べさせていただいておりましたが、この「東京書籍で行く…」を始めたのが去年の3月、更新ぺースの遅い小平次であるとは言え、すでに1年近くが経っております

その間、進んだのが教科書の旧石器時代から大化の改新まで、わずか5ページ…

そして、その5ページに費やした文字数がなんと!

「73,911字」

もちろん画像文字や、改行による空白を含んでますので実際はもっと少ないのですが、普通の新書で言えば100ページを超えます



たった5ページの教科書の記述の引用に対し、1年がかりで100ページ

どれだけ小平次の歴史妄想ばかりを書いてきたのかってことでして

うーん…

とまあそういうことで、今回から小平次の妄想と教科書の引用は別にしてやっていこうというわけであります


さて

その「妄想的歴史探訪 日本の歴史は国防の歴史編」

今回はそのプロローグをお送りさせて頂きます


さて「歴史」とは

学問として見た場合、その性格は物理学や数学のような理系の学問とは大きく異なるわけです

例えば、世間を賑わせた「STAP細胞」など、その後の実験で小保方さんの言う通りの結果が誰がやっても出たのであれば、誰も彼女に文句を言うことなどはできなかったわけです(これに関しては裏で陰謀や謀略が働いているとの説もあるようですが)

つまり理系の学問において、1+1=2という結果は否定しようがなく、実験結果や物的証拠が全てなわけです

しかしながら歴史は

「西暦何年に何々があった」

という「事実」は揺るぎないものであったとしても、その「事実」は見る視点によって大きく「解釈」が異なってしまう学問です

そもそも学問と言えるかどうかもわかりません


例えば、後々述べようと思っていることですが

「邪馬台国」の「卑弥呼」

と、支那王朝の表現通りに受けとめ「解釈」を進めるか


(邪馬台国の卑弥呼?)


「大和国」の「日御子」

として支那王朝の当て字を推測した上で「解釈」を進めるか



(大和大国の日御子?)

その歴史事実に対する解釈のアプローチは大きく変わってくるでしょう

現在の日本において主流として「解釈」されている歴史、かつて学校等で私たちが教わり、今の子供たちが教わっている歴史とは、概ね西洋と東洋、及び中東における

「国家、民族の盛衰史」

とでも言えるのでしょうか

西洋におけるそれは、ここ数百年間はイギリスを中心として、そのイギリスが打ち倒し、滅ぼし、侵略し植民地として支配をした「盛衰」の「盛」側、勝者イギリスの「戦争と侵略と支配」の歴史であり、さらにはイギリスから分化し「盛」の側となった国々の歴史観によって書かれた歴史、ではないでしょうか

東洋においては、現在の支那王朝であり「盛」の側である中華人民共和国の支配の正当性が、それまでと同じように「王朝交代史」を中心に語られているように思います

そんな中で、私たちの国「日本」は戦後、勝者側である西洋白人国家の価値観による「世界史」を正義として、その価値観をもとに歴史を受けとめ、考えてきたわけです

そして、自国の歴史、日本史もその西洋的価値観による「盛衰史」と、時に支那王朝の「王朝交代史」に辻褄を合わせるように「解釈」してきたように思います

その「辻褄合わせの歴史」こそが過去に私たちが学び、今現在子供たちが学んでいる歴史、であるように思うのです

さて、先に例にあげた西洋史において、戦後までその主役であったイギリスですが、その歴史をざっと見てみますと、その昔ローマに支配された時代を経た後、多々の民族が興亡を繰り返し、国の体をなしてからも多民族の侵略により王朝が交代したり、ひっきりなしに海を挟んでフランスなどと戦争をしながら、スペインを打ち倒した17世紀以降は領土の拡大を目指し世界中を侵略、多くの国々、民族を植民地として支配した国であります

つまるところ、絶えずどこかの国や民族と戦争しているか、侵略し植民地として支配しているか

「国家盛衰史」

で言うならば

「戦争と侵略」

それにともなう

「虐殺や支配」

が、まさに

「常態」

であった国であります

イギリスに限らず、世界の国々の歴史は支那王朝も含め、さほどの差はありません

イギリスから分化したとも言える、現代白人国家の「雄」

「アメリカ」

はどうでしょうか

イギリス人を中心にした、宗教上の争いに敗れた者たちや刑務所にいたならず者たちが大陸に乗り込み、先住民を虐殺しながら荒地に追いやり、自分たち自身も土地を奪い合いながら、独立を目指し本国イギリスと戦争

その後は移住者同士での南北戦争や、周辺の白人移民等(米墨戦争、米西戦争など)との戦争を繰り返し

「フロンティア精神」

が余りあまって太平洋に乗り出し島嶼諸国を侵略、日本やアジア諸国での利権を求めてやってきたわけですね

いわゆる「第二次世界大戦」後のこの70年間においても、朝鮮戦争、ベトナム戦争、その他イスラム諸国周辺への干渉を繰り返し、湾岸戦争、イラク戦争、今は自身で種を蒔いたイスラムテロと戦争をしています

建国以来現代まで、内外問わず絶えず戦争をしている国です

つまり世界は、絶えず動物と同じように

「弱肉強食」

「群れ」の繁栄のために滅ぼし滅ぼされ、殺し殺され、そこに宗教上の争いも加わり

「戦争、侵略、滅亡、繁栄、虐殺、支配」

の連鎖を

「常態」

として歴史を刻んできたのです



(アヘン戦争・人類史上最も醜い戦争の一つではないでしょうか)

翻って我が国

「日本」

の歴史はどうでしょうか

他国や他民族との間での「戦争、侵略、滅亡、虐殺、支配の連鎖」との関わりで言えば



古くは

「神功皇后の新羅討伐」
「広開土王碑に記されている対高句麗戦争(神功皇后の新羅討伐の一貫上との説も多々あり)」
「白村江の戦いを含む対唐、新羅連合軍との戦争

少し下り

「刀伊の入寇(おそらくは女真族系の海賊集団が壱岐、対馬から九州地域を襲い藤原隆家が撃退した事件)」
 (このような海賊集団の襲来は度々あったようですが、規模も大きく、朝鮮の高麗との外交上の問題にまで発展しかねなかったということで一応入れておきます)

そして

「元寇」

さらに少し下り

「豊臣秀吉の対明戦争」


あとはずっと下り明治以降(幕末の薩英戦争、下関戦争などもありますが)

日清戦争、日露戦争、それから大東亜戦争


大きく考えればこれぐらいになるのではないでしょうか

我が国日本が上記の対外戦争など他国や他民族との間で

「戦争、侵略、滅亡、虐殺、支配の連鎖」

と関わった歴史的時間は、解釈によって多少は異なるかもしれませんが、上記を多く見積もって全て足したとしても、およそ40年間前後でしょう

韓国併合以降の朝鮮半島の統治を「侵略による支配」であるという見方をして加えたとしても6、70年程度ではないでしょうか

戦後70年、事あるごとに8月15日などには大東亜戦争の悲惨な映像や悲しい話がテレビを始めメディアで報じられ、何より、戦争に直接加わった方も少なくなったとは言えご存命でおられるということもあり、大東亜戦争は比較的現代日本人にも生々しくイメージされているところもあるかもしれません



だから何とはなく漠然と

「日本は戦争ばかりをしていた」

ような印象を持っている人も多いように思います



ですが先にも示した通り、日本が外国と「戦争、侵略、滅亡、繁栄、虐殺、支配の連鎖」と関わった歴史的時間は、古代文献に「倭国」と示されてからの「有史」2000年の歴史の中で70年間ほどなのです(もちろんそう単純に割り切れない問題もあることは承知しております)

イギリスやアメリカ、支那王朝などの諸外国、及び民族がほぼその歴史を通じ

「戦争、侵略、滅亡、繁栄、虐殺、支配の連鎖」



「常態」



としていたことと比較すれば、日本はその歴史を「有史2000年」として見たとしても、その時間のほとんどである1900年以上、およそ95%の時間は

「戦争、侵略、滅亡、繁栄、虐殺、支配の連鎖」

の埒外にあったと言えるのではないでしょうか

つまり、我が国日本は

概ね

「平和」

こそが

「常態」

であったと言えるのではないでしょうか


戦国時代に代表されるような言わば「内戦」も幾度かありましたが、それでも、はっきりと言えるこの1500年間、一つの皇統によって君を戴き

ただの一度の

「滅亡」



「王朝の交代」

もすることなく歴史を歩んできた、世界的に見ても稀有な国であるのではないでしょうか

誤解のないように申し上げたいのですが、今回始めた「妄想的歴史探訪」において小平次は、諸外国が「戦争、侵略、滅亡、繁栄、虐殺、支配の連鎖」を「常態」としていたのに対し、わが国日本が一度も「民族的滅亡」もすることもなく「平和」を「常態」としていた国であったからと言って

「イギリスやアメリカ、中国は酷い国だ、それに対して日本は素晴らしい国だ」

などというお国自慢だけをしたいわけではありません

今回の探訪で皆様と考え、感じてまいりたいのは


「何故、日本は概ね平和であることを常態として歩んでこられたのか」


ということであります

そしてもう一つ、基本的には

「戦争、侵略、滅亡、繁栄、虐殺、支配の連鎖」

の埒外にあり続け、また数百年以上、現在も続く

「宗教上の対立による殺し合い」

の経験もほぼ無いに等しく、そんな歴史を歩んできた日本と日本人として

西洋的価値観や支那王朝的価値観をもとにした

「辻褄合わせの歴史」

ではなく、そろそろ、少なくとも自国の歴史は

「平和こそが常態」

として歩んできた日本人の視点から

「解釈」

しても良いのではないか

その日本人の視点から「世界史」を「解釈」しても良いのではないか

と言うより、一度も滅亡することもなく、永きに渡り一つの皇統によって君を戴き、平和を常態として歩んできた国として、それを世界に向け発信していくべき時が来ているのではないか

「戦争、侵略、滅亡、繁栄、虐殺、支配の連鎖」

の埒外にあり続け

「宗教上の対立による殺し合い」

などとは無縁であった日本と日本人だからこそ、公正公平な目で世界史を俯瞰できるのではないでしょうか


さて小平次ごときではありますが

「一君を戴き平和を常態として来た日本と日本人」

その日本人としてのアイデンティティを、この「探訪」を通じて少しでも多くの方と共に感じて行くことができればと願っております


昨今のニュースや日常を見ておりますと、特にそんなことを感じている次第なのであります



御免!
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漠然と昔日本は悪いことをしたと思っている人たち

2015-03-15 | 歴史
小野派一刀流免許皆伝小平次です

さて、今回は少々この小平次の事についてお話したいと思います

実はこの小平次、今までも当ブログの中で何度か申し上げて参りましたが、20年ほど前までそれなりに熱心なキリスト教の信者だったのです
どれくらいそれなりに熱心だったかと申しますと、毎週日曜日には欠かさず礼拝に行き、割と大きな教会でしたので、学生の頃は日曜学校で小学生のクラスを一つ受け持ち、子供たちに聖書の言葉を教えたりもしておりました
またその他にも、例えば高校生会や学生会などの分会では役員をやり、伝道集会などのイベント事の企画を立てたりなど積極的に活動をしていたのでありました

こうしてみますと「それなりに」と言うよりは「結構熱心な」信者であったようです
日本におけるキリスト教の信者数は人口の1%にも満たないものでありますから、当時の小平次はまあ日本人としてはかなり特異な部類の人間であったわけでもあります

およそなにがしかの信仰を持つという事は、少なからず何かの使命を持つ事になるという事でもあります
例えばキリスト教であれば、イエスの愛を信じ、実践し、その愛を人々に伝える事、それは神から与えられた絶対的な使命であります
そのために自分は神から命を与えられ、生かされている、そう考えるわけであります
ですから信仰を持つという事は、まさにその者にとってライフワークそのものであり、自我、つまりアイデンティティそのものでもあるのです
当時の小平次もまさにそう感じて唯一絶対の神によって「生かされて」いたのであります


さて突然話は変わりますが、少し小平次の父についてお話します
父は戦前の生まれでありますが、あと少し戦争が長引けば予科練に入隊できる年齢、という頃に終戦を迎えました
まさに多感な思春期に終戦を迎え、いきなりそれまで信じていたことが「悪」だとされ、価値観をひっくり返されたわけであります
予科練に入隊できなかった負い目のような感情の影響もあったかも知れません。
父はそのひっくり返された価値観を受け入れるしか無かったのでありましょう

そんな父の元に生を授かった小平次でありました
小平次が生まれてから、一貫して我が家でとっていた新聞は朝日新聞、共産党の機関紙「赤旗」も届いておりました

「日本人は好戦的な民族なのだ」「日本は昔中国大陸で極悪非道な事をしたのだ」

小平次は幼い頃から父にそんな話を聞かされて育ったわけであります

学校の歴史教育においても、明治以前の日本は支配者による圧政のもと、民は搾取をされ続け、時に一揆を起こし抵抗する、そんな遅れた封建国家であった
江戸時代には「士農工商」の身分制度が確立し、時に支配者である武士は、刀の切れ味を試すだけのために町人を切り殺しても

「切り捨て御免」

で罪にも問われない酷い時代であった、そう教わっていたわけであります
小平次は子供ながらに思います

「ああ、江戸時代ってなんて恐ろしい時代だったのだろう、こんな時代に生まれなくて本当に良かった」と


「中国は素晴らしい国だ」


と言ってはばからない父のもと、学校でもそんな歴史教育を受けて育ち、なおかつキリスト教信者
小平次はいかなる人間に育っていったのでありましょうか

かつての日本軍の大陸での蛮行、それを日本人として真摯に見つめ後世に伝える、そしてイエスの愛によって真の平和を目指す
それは神から与えられた使命であり、まさにライフワークであり、自我そのもの、そんな青年に成長していったのでありました

いくつかのバンドに所属しギターを弾いていた小平次は、時折「反戦、反核」を訴える集会などにギターを持ち込み、「War is over~♪~」なんてみんなで合唱したりしていたのであります

時折政治家が「日本は侵略国家などではない!」などと不用意な発言をし、中国や韓国から猛烈な抗議を受けるなどということが当時はよくありましたが、その度に小平次は「なぜ、いまだにこうして歴史を捻じ曲げようとする人がいるのか」と悲しみ、中国や韓国の人たちに申し訳ない気持ちになり神に祈ったものでした

さて、それから二十数年、今の小平次はと申しますと

「日本人とは世界で最も争いごとが嫌いで、世界で最もそれを避けるための術を知っている民族である。そしてその術とは、天皇陛下を頂点に戴き、民が一つとなる、その国体こそが平和のための最善の形なのである」

「明治以前の日本は、決して暗黒国家などではなく素晴しい文化文明を育んだ国であり、それ以降は、白人の人種差別による支配と敢然と戦い、アジアの解放の一助をなし、自らの国体を守り切った」

「そして、そのような歴史を創りあげてきたわが先人たちは、まさに英霊であり、心から敬うべき存在である」

と、そんな風に思っている人間なのです


いやあ!
どうなんでしょうこの変わりよう!
なにがどうなればこんな正反対の変わり方をするのでしょうか

かつて日本は暗黒のような国であり、近代においては近隣諸国を侵略した極悪国家であった、という認識と、それを伝えるという事が小平次のライフワークでありアイデンティティであったわけですから、ある時、何かをきっかけに突然変われるようなものではもちろんなく、時間をかけ、まさに自我の崩壊を招きながら変質を遂げていったわけなのであります

それでもきっかけがなかったわけではありません

「放送禁止用語」

こんな言葉をお聞きになったことがあるかと思います
古いテレビの再放送なんかを見ておりますと、突然台詞が「ブツッ!」と切れてしまう
その切られた所にまさに「放送禁止用語」が使われていたわけです

まあ最近は放送の前や終了後に「当時の時代背景や原作者の意図を考慮し当時のまま放送しております」などのテロップが流れ、そのまま放送される事も多くなりましたが、それこそ30年近く前ともなりますと、「おまえは…ブツッ!」「それは…ブツッ!」と台詞がブッタ切られ、もうストーリーを追うことすらままならないこともしばしばでありました

有名なところではあの「巨人の星」のワンシーン
主人公の星飛雄馬が高校入学の面接(だったかな?)で面接官から父親の職業を聞かれるシーン
星飛雄馬は、父、星一徹の職業が日雇い労働者であることに恥ずかしい思いもあり、答える事に少しばかり躊躇しますが、意を決して立ち上がり、胸を張って言います

「父は…、父は!…、父は日本一の(ブツッ!)です!」

その日の放送回で最も重要なシーンで容赦なく台詞がぶった切られています
原作では父は日本一の「日雇い人夫」です、という台詞であったそうですが、この「日雇い人夫」と言うのが差別的表現であると判断されたようなのでした

この「放送禁止用語」と言うのは、猥褻的な表現はもちろんですが、それ以外に差別的な表現というものが対象となっているようでして、そして、文字通りのテレビ、ラジオと言った放送媒体だけでなく、新聞、雑誌、小説、漫画、およそ人々に何かを伝えたり表現するもの全てで使ってはならない言葉がある、と言うことなのであります

二十数年前のある日、テレビのバラエティー番組を見ておりましたら、その終了後、局のアナウンサーが神妙な面持ちで画面に出てきて言うのであります

「ただいまの番組において、放送上不適切な表現があり、関係者の皆様を傷つけ、不快な思いをさせた事を深くお詫び申し上げます」

……、

いやあ何だかしっくりきません!

今の放送中、一体どんな言葉によって、どこの誰が「関係者」として傷ついたっていうのか
小平次には何が何だかさっぱりわかりません!

それがわからない事には、ひょっとすれば普段、何の意識も無くその言葉を使い、自分の預り知らぬところでその「関係者」の皆様を傷つけている事があるかもしれないではないか

それを明らかにしないで謝ったところで、意味などあるのだろうか
そもそもどんな言葉が「差別的である」として使ってはいけない言葉なのだろうか

また、もしそれを一般人が日常で使ってしまったらどうなるのか
法律上の罰則でもあるのだろうか

なんだかふつふつと興味が湧いてきたのでありました

「ちょっと調べてみよう!」

調べると言っても当時はインターネットなどありません
何かを調べるのであれば当然書物によります
しかしながら当時小平次が住んでいた田舎の書店にはそんな事についての専門書など置いておりませんでしたので、住んでいた町から一番近い都会であった横浜まで電車に乗って繰り出したのでありました
そこでお目当ての本を探し、分厚い本を何冊か買い求め、さらに図書館にも寄り、関係しそうなものを数冊借りて帰ったのであります

さて、一通りそれらの書物を読み終えた小平次は、この問題に隠されていた大変な事実を知る事になったのです
それについて詳しい事には今回は触れませんが、「差別用語」なるものを調べていく内、本来真実を伝えるべきメディアというものが、時に事なかれ主義によって真実を覆い隠し、時に意図的に真実をねじ曲げて伝えている、そんな事を知るに至り衝撃を受けたのでありました

「マスコミなんて嘘ばっかり言っている、信用なんかできない!」

今でこそそんな事は当たり前のように言われておりますが、インターネットなども無い時代、世の中の事を知るには新聞、雑誌、テレビにラジオ以外にはなかったわけで、ましてやクリスチャンで人を疑うような事もほとんど無かった小平次には、そのようなメディア、大手マスコミが嘘を言う事もあるのだという事を知ったのは、なかなかにショックな事だったわけであります

その頃小平次は「ボディースナッチャー」というB級アメリカ映画をたまたまビデオで見まして、それは、ある日突然宇宙から降ってきたヘチマのような植物型の宇宙生命体が、夜、人々が寝ている間に寄生しコピー人間を作り出してしまうという映画でした

コピーされた人間は消滅し、いつの間にか主人公の周りの人間が感情のないコピー人間に入れ替わってしまっている、一見いつもと同じような日常でありながら、何かが違う、何だかそんな感じに似た恐怖感、自分の知らぬところで巨大な力が蠢き、世の中を動かしている、人々を洗脳しようとしている、そんないやな違和感を覚えずにはいられなかったのであります



さて、時を同じくしてその頃、小平次はある日知人の女性にお誘いを受け、東京は東銀座、歌舞伎座まで歌舞伎を見に行く機会がありまして
好奇心は強い方でしたので「是非見てみたい!」と思ったのですが、なにせ上演時間が4時間以上、台詞すら理解できないかも知れないような芝居を、そんな長い時間見ていられるのだろうか、ちょっと不安な気持ちもあったのでした
しかし、いざ始まってみれば、そんな心配は一辺に吹き飛んでしまいます
多少物語を追えないところはあったものの、役者さんの圧倒的迫力の演技にもう釘づけ、あっという間に時間は過ぎてしまいました

小平次はこの歌舞伎鑑賞をきっかけに「江戸文化」というものに大変興味を持つようになります
そして例よって横浜の大型書店に繰り出し、江戸文化にまつわる本や、他にも庶民の生活ぶりだの、蕎麦の歴史だの、果ては飯屋の品書きまで、まあ興味をそそられる本を買い求め、更に図書館でも借りて片っ端から読みまくったのでありました

特に小平次が興味をそそられたのが「黄表紙」と呼ばれる言わば江戸時代の漫画本でした
その内容は多岐にわたり、江戸庶民の日常、色恋もの、社会風刺、さらには現代の漫画「美味しんぼ」さながらの、料理人の料理対決の話まであります
また、黄表紙作家の代表格、山東京伝の作品等は実にシュール!
当時小平次が好きだった4コマ漫画家のいがらしみきおさんや、吉田戦車さんなどを彷彿させるのでした





「200年以上も前にこんなシュールで愉快な「漫画」があったなんて!」

小平次には驚きの連続だったのであります

そうして「江戸文化」をあらためて学んだ小平次の頭には、実に生き生きとした江戸時代の人々の姿がリアルに浮かんできます

江戸時代の日本人
粋で明るく、元気で、のんきで、基本的には争い事が嫌いで、決して裕福ではなくてもそれを悲観するでもなく、お金がないならないなりに、質素な弁当を持って郊外にピクニックに行ったりと前向きで、武士も安月給で生活は苦しくとも、凛として高潔な精神を失わない、そして何より感性豊かで、世界中で絶賛される素晴しい庶民の文化を創り上げた江戸時代人、尊敬すべき日本人がそこにいたのです

当時音楽をやっていた小平次は思います

「江戸時代ってなんてファンキーな時代だったんだ!」

「こんな時代に生まれて見たかった!」



……




「あれっ?」


……


まさにこの時

「あれっ?」

なのでした
子どもの頃、学校の歴史の授業で教わった江戸時代は、厳しい身分制度のもと、庶民は圧政による重税にあえぎ、時に切り捨て御免とやたらに切り殺されたりと、町も怖くて歩けないような、そんな暗黒のような時代であったはずではなかったか?

「こんな時代に生まれなくて本当によかった」

そう思ったのではなかったか?
しかし、これまで自分なりに学んだ江戸時代からは、そのような暗い殺伐とした暗黒時代のような様子は微塵も感じられない
その頃の、世界の文化は主に宮廷など高貴な人たち向けの文化が中心であったのに比べ、江戸の文化はまさしく生き生きとした明るい庶民の文化だ
なぜ殺伐とした暗黒時代にこんなにも明るく平和な文化が生まれているのだ

小平次は考えてみます

「あまりに過酷な生活であったがゆえに、せめて明るく夢と希望を見られるように…」

虐げられていた人たちがかえってそのような思いからこうした文化を作り上げたのかも知れない

「……!」

いやあ!あり得ない!あり得ない!
重税にあえぎながらいつ切り殺されるかもわからないような殺伐とした世の中に、こんなにも明るく陽気で、時にシュールで馬鹿げていて、時に繊細で芸術的で、、そんな庶民の文化、庶民の日常、いやああり得ない!
むしろ現代同様「平和ボケ」してる感すらある
どう考えてもこのような文化や営みを生んだ時代は、平和で、それなりに人々の心にゆとりがあった、そうとしか思えない!

では子供の頃に教わった歴史はウソなのか?

ひょっとすると小平次が子供の頃から十数年の間に、新たな歴史的発見があり、最近は江戸時代の見方も変わったのかも知れない
そんな風に考え、当時近くに住んでいた中学生の教科書を借り、江戸時代の章を見てみます

「立ち上がる農民」「一揆の時代」「身分制度の確立」

「士農工商、もっと低い身分の人たち」

……

小平次の子供の頃とまったく変わっていません
いやむしろもっと「暗黒国家」のよう書かれています

それは、明らかにあの華やかな江戸文化が花開いた時代を「意図的に」暗く遅れた封建国家であったかのようにしようとしている
そう感じずにはいられないのでした
小平次の心に、差別用語を調べていた時に感じたあのいやな違和感がよみがえります


さて、それでもその時は、さしてそれを深く気にすることもなく、自分なりに学びなおした日本の歴史に魅せられ、江戸以前の歴史からもっと知りたいと横浜に繰り出しては本を買い、図書館に行っては本を借り、読みあさったのでありました

そうして日本史を学びなおしてみると、小平次は実に当たり前の事に気付きます
それは、歴史とは、日本の歴史とは、太古の昔より、それこそ石器、縄文の昔より、同じこの日本で、同じ日本人が連綿と築き上げてきたその営みと結果である
という事だったのです

小平次が愛したファンキーな江戸人は、ある日突然宇宙から舞い降りたわけではなく、それまでの日本人の連続した営みから生まれてきた事に他ならないのです
そんな事は全く当たり前の事なのですが、これまで学校などで学んできた歴史は、実のところかなり断片的で連続性がない
「鎌倉時代」とか「室町時代」などという時代区分がより思考を断片的にさせてしまいます

さらには広がりもない
だからそれぞれの時代の世界情勢、世界の中の日本という観点が全く欠如している

たとえば江戸時代は「鎖国」をして門戸を閉ざし、世界の情報が入らなくなり遅れた国になっていったかのように思われがちですが、実際には渡航と貿易に制限をかけていただけであり、この時期海外との貿易量はそれまでよりも増えているのです
ではなぜ海外との交流を制限する必要があったのか
そういった事ついて多くの人は、おそらく学校の授業では学んでいないでしょう

歴史は連続している、そして、世界と繋がっている

この当たり前の事を感じる事ができなければ、本当の歴史の真実は見えてこない
小平次はそんな風に思ったのでありました


そんな中であらためて知った日本の歴史、そして日本人
それまで信じてきた歴史とはずいぶんと違うものに見えました

「日本人は好戦的な民族」

いやいや、まったくそんな事はない
むしろ逆で、争いを好まず、それを避けるためにはどうすれば良いかにいつの時代も腐心し、やがて世界に類を見ない天皇陛下を頂点とする君民一体の国体を築き上げる
それが平和のために最も優れた国体である
少なくとも江戸時代まではそうであったと、小平次は思わずにはいられないのでありました

では明治以降はどうであったか
この頃小平次は新渡戸稲造の「武士道」を読みます
五千円札の肖像になってから数年が経っていたかと思いますが、それまで何の関心も無くどんな人物であるかもよく知らなかったのです
ある時、新渡戸稲造がキリスト教信者であった事を知り、興味を持ったわけです
簡単に内容を申しますと、世界の多くの国々はおよそ何某かの宗教によって、神という外から与えられた観念によって秩序と道徳を作り上げているが、日本はその宗教がない
日本人は宗教ではなく長い歴史の中で育まれた「武士道」という、内からの、人間そのものの精神によって秩序と道徳を作り上げている
そしてその精神は決して博愛のキリスト教にもひけをとらない崇高な精神である
といった感じでしょうか

武士道とは、弱きを助け強きをくじく

「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に相応しき徳として…」

まあ詳しくは実際に読んでみて頂くのが一番でありますが、その精神は、時の世界の多くの国においても称賛されたのです
新渡戸稲造はその中で、明治以降、「それを生みかつ育てた社会状態は消えうせて既に久しい」と言いながらも「しかし今はなき遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている」とも述べています
そして、それは今後も日本人の心を照らしていくだろうとも述べています

明治に入り、いよいよ日本は世界との戦争に突入していきます
それでも、日露戦争などにおいて、敵兵の墓まで建てながら進軍した日本人に、それまで連綿と続いてきた同じ日本人の息吹を感じます

あの関東大震災直後、フランス駐日大使の言葉で、あれほどの大災害に見舞われながら、日本人は秩序を守り、助け合い、なおかつ「笑顔」であったとの記録があります
江戸時代、信じられないような大火事で町が壊滅状態になっても、人々はやはり「笑顔」で「燃えちまったならまた建てりゃあいいんだ」と前を向いて復興に力を注いだ姿と重なります

そして戦後、空襲によって焦土と化した日本は、すぐにまた復興を果たし、数年後には江戸時代の黄表紙さながらのナンセンスで馬鹿げた喜劇映画が何本も撮られています

決して悲しくなかったわけがありません
それでも皆後ろを向いていても仕方ない、前を見て進もう
そんな日本人の姿は現代にも通じています
この当時の事ではありませんが、あの3・11の大災害
やはり被災直後、家族を亡くしながらも秩序を守り、他の人の心配をしている人たちの姿は世界中から称賛されました
確実に、太古の昔からそんな日本と日本人の歴史が続いていると感じるのでした

しかし、このように感じるようになると、小平次はある大変な疑問にぶつからざるを得なくなります
そんな日本人と全く相いれない日本人が、連綿と続いていた歴史をぷっつりと切ってしまう日本人が、ほんの十数年間突如として現れているからです
それはまさにあの大東亜戦争時、大陸にて蛮行を働いた日本軍であります
小平次が幼いころから聞かされていた日本軍の蛮行とは


何の罪もない大陸の人々を、それこそ人間が到底し得る事のできないような残虐な方法で虐殺した
妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き刺し、高々と空に掲げ笑い合う日本兵
占領した町の人を布袋に詰め、ガソリンをかけ火をつけ、火だるまになり蠢く袋に手榴弾を入れ川に投げ込み、爆発させ水柱が上がるのを見て喜ぶ日本兵
川原に捕虜を並ばせ、次々に日本刀で首を刎ねる競争をした日本兵

そして、小平次が日本史を学びなおした数年前には、朝日新聞によるあの従軍慰安婦の強制連行の報道があったわけです
泣き叫ぶ少女を誘拐、拉致し、性奴隷にした



そんな話を数多く聞かされて小平次は育っていたのでありました
しかし、あらためて学んだ日本の歴史から、このような事をする日本人は長い数千年の、いや縄文時代まで遡ったとしても、この日本のどの時代にも地域にも見つける事はできません

戦後においてもやはり新渡戸稲造の言う「武士道」精神は少なからずこの国の人々の心にもはや本能のレベルで染み付いているように見えます

あの江戸文化を作り上げた日本人と、その過去における日本人は同じ日本人である

その後の明治、大正、そして現代の日本人も変質したところはあるかもしれませんが、その根っこにおいて同じ日本人であると感じる事ができます

ほんの十数年間、なぜ突如としてこのような、それまでの日本人ともその後の日本人とも全く一致しない日本人が登場したのでしょうか

冒頭で申し上げた通り、クリスチャンであった小平次にとっては、過去の日本の犯した戦争犯罪を日本人として真摯に受け止め、反省し、近隣諸国に謝罪し、その歴史を今の世に、後世に伝える
これはライフワークであり自我そのものであったわけです

日本史を自分なりに学び直し随分と認識は変わったものの、この大東亜戦争時の日本軍の蛮行については、それがまさか嘘だなどとは夢にも思っていなかったわけです
ですから、小平次の疑問というのは、本当にそんな事があったのか、と言うより、なぜ、あの江戸文化を作り上げたような日本人が、突然このように狂い豹変したのか、そういう疑問だったわけです

「戦争という狂気がそうさせたのだ」

などと考えてみました

いやいや、あの日露戦争時、凄惨を極めたであろう旅順の要塞戦などを経験しながらも日本人は決して狂う事などなく、むしろ武士道の精神を忘れたりはしませんでした

「日露戦争の時とは比べ物にならない高性能の近代兵器による戦闘の恐怖が、一層の狂気を生みだしたのだ」

いやいや、日本兵が蛮行を働いたとされる南京などは、占領後のことであって比較的落ち着いた状況ではなかったか、少女を誘拐拉致した朝鮮半島は日本の統治下にあったのだからもっと落ち着いた状況であったはずではないか
だとすれば、狂気により日本人が豹変したとは思えない

では、なぜ… 

「元々の日本人の根底にそのような残虐性があったのか」

いやいや、それこそ最もあり得ない
日本史を学びなおした小平次はそう思うのであります
もしそうだとしたら、それまでの長い歴史の中にもっとそうした事例が、残虐な文化が、数多く残っているはずです
しかし、見つけられるのはあの戦国の世においても、一般の民を巻きまないように配慮していた事や、できる限り田畑を荒らさないようにしていた、そんな記録ばかりです
このような事は世界史の中でもそうは見つけられません


小平次はこのような疑念を払拭すべく、またまた横浜の書店と図書館へ向かったのでありました


この頃になると、そもそも日本軍は大陸で蛮行など働いていない、などと主張するような本も目立つようになっておりました
あの「南京大虐殺」ですらなかったなどという主張まであり、小平次を驚かせます

それまでもそのような事をいう人はあったのでしょうが、小平次自身、そんな主張をするのは極端な国粋主義者であると思っておりましたので、手に取って見るような事はなかったわけであります
しかしながらそうは言っておられません


何せライフワークで、アイデンティティそのものの否定に関わる事なのですから


いくつかの、日本軍の蛮行などは「なかった」とする主張を読んでみます
全くそのような事に対する知識が無ければ、何の疑いも無くそれを信じてしまいそうなほどにそれらは理論的に、科学的に、物理的に良く書かれております
多少の知識を持っていた小平次でもうっかり信じてしまいそうなほどでありました

その後、このような日本軍の、南京大虐殺などに代表される蛮行につき「あった」「なかった」などと言うような事が、さらにもう少し時代を過ぎると、インターネットなども徐々に普及し始め、より大っぴらに、論争にまで発展していくようになります

「あった」と言う事に確信を持ちたい小平次はそのような論争にも目を向けます

日本軍の蛮行を世に、後世に伝えることこそ平和への道と信じていたがゆえに、その「あった」という事にいささかの曇りがあってはならなかったのです

本来小平次は「あった」派に肩入れをしたいわけですが、曇りがあってはならぬゆえ、逆に「あった」派の主張に厳しい目を向けていたかと思います
しかし、そのような事を差し引いても小平次から見てこれらの論争は「あった」派の方が不利なように思えました

それは、そもそもこのような論争においてどちらが正しいかという以前に、大体において「あった」派の方がヒステリックになりがちに見えた事が一つ

また、昨年朝日新聞が謝罪した「従軍慰安婦問題」などを見てもわかるように「なかった」派の反証に対し、説明がつかなくなると、少しずつ「あった」派の論点がズレて行くように感じたからです

「なかった」派の「これこれこういう理由でこのような事は無かった」という反証に対する回答は、数多の蛮行が事実であったと確信したい小平次としても何としても聞きたい事であったわけですが、納得いくような回答どころか、別な話にすり替わっていく感がどうしても否めなかったのであります




この写真は南京にて女性たちを性奴隷にするために連行しているところだとして割と大きく世に出回った写真でありますが、実は全く事実は違うもので、日本兵と地元住民が、ともに野良仕事をした帰りの写真なのだそうです
確かによく見てみれば笑顔の人もいます

日本軍の蛮行の証拠として出回った写真には、このような「実は違った」というものが数多く使われていたのですが、その事については「あった派」も認めており、認めた上で「一部の写真がニセモノだったからと言って日本軍の蛮行がなかったと言うことにはならない」と主張をしていたわけです

確かに写真がニセモノだったからと言って全てがウソと言うことにはならないでしょう
しかし、小平次はもっと根本的な疑問を抱かざるを得ません
それは、そもそも何故ニセモノの写真まで使って日本軍の蛮行を広めなくてはならなかった人たちがいるのでしょうか
その理由は何でしょうか

「何かしらの意図を持って、何かしらの目的のためにあえてニセモノとわかって使用した」
「全くの誤用で使ってしまった」

意図的にニセモノとわかっていて、と言うのは話になりませんが、とりあえず未だに「あった派」の人たちが言うのは「誤用」であったと言う事です

しかしそれにしても南京事件などについては東京裁判において死刑判決まで出ているのです
そしてそれは執行されているのです

先の写真のように大っぴらに公開しておいて「間違いでした」とは全く持ってお粗末ですし、さらにはそれに対して大した反省もないと言うのは、死刑まで執行されている事を考えれば、人としてどうかを問われても仕方ないレベルです

また、自ら「意図的にやった」と言う人はもちろんいないでしょうが、その「誤用」の多さからしても「意図的」と考えてられても仕方ないほどです

小平次は何かまたいやな違和感を覚えざるを得ないのでありました

それでも小平次は、やはり簡単には日本軍の、人とは思えぬような蛮行が「なかった」などと言うことを認めることはできません
かつての戦争中に起きたことについて、それまで信じてきた事、平和のためにと語ってきた事、行動してきた事、それら全てが根底から覆ってしまうわけですから

引き続きそのような論争を注視しつつ、自分なりにも調べたりしていたわけでありました
しかし、結局のところ、自分なりに調べると言っても限度がありますし、また、大学教授やその道の研究者が「あった」「なかった」と正反対の事を言い合っているわけですから、小平次のような一般人にとって、それらの論争から真実を導き出すという事にも自ずと無理があるわけで、最終的にはどちらの言っている事が信じるに値するか、しっくりくるのか、自分なりに結論を出す以外にはないのであります


もっとも納得のいく、しっくりとくる結論…


しかしある日突然それは訪れます

南京事件、いわゆる南京大虐殺についての論争を見ていた時の事
この南京大虐殺についての「あった」「なかった」論争について、その論点として必ず上がるのが、その大虐殺の犠牲者の数はどれほどだったのか、というものがあります

当初その被害者は約30万人(一部では40万人等の主張あり)と言われていましたが、それに対して「なかった派」は「そもそも当時の南京の人口が約20万人だと言うのにどうやって30万人もの人を殺すのだ、また占領前、蒋介石国民党軍の非道な振る舞いによって乱れていた治安を、日本軍の占領によって治安が回復し、人口が25万人まで増えている」と反論するわけです

これに対しては「あった」派においても、比較的冷静に主張する学者さんたちは、実のところ30万人と言うのは信憑性がないだろうというのが割と多数を占め「数万人から10万人前後の規模であったろう、だが問題は数ではない、数万人でも虐殺は虐殺だ!残虐行為があったのは事実だ!」と言うわけです

「数の問題ではない」

その通りであります
しかし、やはり小平次はもっと根本的なところで大きな疑問、というか結論に達してしまったのであります

「10万人」

仮に南京での犠牲者の数が10万人といたします
この「10万人」という数、それは広島における原子爆弾投下による犠牲者の方々の数とほぼ同じです
また、東京におけるB29による計画的虐殺を目的とした空爆の犠牲者の数ともほぼ同じです
つまり、南京において

「核爆弾を投下した」

のと同じ規模の破壊力によって虐殺が行われたということになります

そもそも日本軍は慢性的に弾薬等が不足していたというのにそれを戦闘以外で無駄に使うなど考えられないし、当時の日本軍の武器によってこれほどの規模の虐殺をするなど物理的に不可能である
というのは一部なかった派の主張でありますが、小平次が感じたのはそれ以前の疑問であります

広島は一瞬にして、東京は一夜にして、南京は数週間から2か月くらいの間に渡って(この辺もあまりはっきりしていません)虐殺が行われた

時間をかけて虐殺したのだから、広島や東京と同等に扱うのはおかしく、物理的にも可能だった、とのあった派の主張もあるようですが、規模として10万人の虐殺という事に変わりはありません

想像してみてください

仮に10万人もの人が1ヶ月の間で虐殺されたとすれば、毎日3,000人以上の人たちが、嬉々とした日本兵に腹を銃剣で切り裂かれた上、赤ん坊を突き刺され、袋に詰められガソリンをかけられ火をつけられ爆殺され、並ばされて次々と刀で首を切り落とされ、その他、人が想像すらし得ないような残虐な方法で殺されたという事になります

1ヶ月もの間、このような阿鼻叫喚の地獄絵図が核爆弾並みの破壊力で繰り広げられたのです
明日は自分が、明日は自分が…、人々は恐怖のどん底であったでしょう

南京の人口が、なかった派の主張通りではないにしても、10万人の虐殺と言うのは、ほぼ首都としての南京の町が壊滅するまでそれは続いた事になりましょう


小平次はここではたと思ったのであります
もし、それが事実であるならば、もうそれが起きた時点で、広島や東京と同じく歴史に刻まれるのではないか


つまりそれは


「あった」とか「なかった」とか

写真が「ニセモノだ」とか「本物だ」とか

目撃者が「いた」とか「いない」とか

そんな次元で論じ合うようなレベルの話ではないのではないか
議論の余地すらないのではないか

一殺人事件の裁判映画のごとく、検察と弁護側がアリバイが「ある」とか「ない」だとかのレベルの話ではないのではないか

名探偵コナンの密室殺人事件の謎解きのごとく「可能だ」とか「不可能だ」とか、そんなレベルの話ではないのではないか

10万人規模の阿鼻叫喚の地獄絵図のような虐殺が事実であるならば、一切の「なかった」などと言う反論は、議論の対象にもなり得ないだろう

もっと言えば、ニセモノの写真などを使っている時点で、それを暴かれた時点で、あった派の主張の論点が少しずつズレていく時点で
新たな証拠などを次から次へと出さなければ反証に対する立証ができなくなっている時点で
そもそも「あった」「なかった」など、そんな議論が成立している時点で


これは、南京大虐殺などは事実ではないのだ

小平次は何かが自分の中で崩れ落ち、頭が急速に冷めていくのを感じました

そうした冷めた頭でもう一度日本軍の蛮行なるものに目を向けてみます

妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き刺し高々と空に掲げ笑い合う日本兵
占領した町の人を布袋に詰め、ガソリンをかけ火をつけ、火だるまになり蠢く袋に手榴弾を入れ川に投げ込み、爆発させ水柱が上がるのを見て狂喜する日本兵
川原に捕虜を並ばせ次々に日本刀で首を刎ねる競争をした日本兵
泣き叫ぶ少女を誘拐、拉致し、性奴隷にした日本兵

…、

小平次の心の奥から何かがささやきかけます


「ああ、これは作り話だ…。」


なぜそう感じるのか
それはもう本能がそう感じるのだとしか言えません

さらに小平次は、それまで手にしながら一度も目を通す事のなかった、神風特攻隊の隊員が家族に宛てた最後の手紙、言わば「遺書」を読んでみます

その手紙の書き主は、まだ未婚の若き兵士たちが多かったようで、ほとんどが両親に宛てられたものでありました

自らの死が目前に迫りながらも、決して取り乱すような事も無く

「祖国のために、自分は喜んで出撃するのでありますから、決して悲しまないで下さい。何よりもろくに親孝行もできなかった事をお許しください」

そんな言葉でつづられておりました

決して死ぬことが怖くなかったわけではないでしょう

死にたかったわけではないでしょう

しかし、そう言ってしまえば

「本当は死にたくなんかないのだ」

そう言ってしまえば

その思いが届いてしまえば

遺された両親がどれだけ悲しむだろうか

だからこそ、遺された家族が少しでも悲しまないよう

「喜んで行く」

そう言ったのでしょう

そして、それを受け取った家族は、心の底でどれだけ悲しい気持ちがあったとしても、決して息子は犬死などしたわけではなく、この日本のために、日本の将来のために、その礎となったのだ
せめてそう思うしかなかったのでしょう

それらを読み進めるうち、小平次は高潔な若き兵士たちの言葉に、涙が止まらなくなりました

白人キリスト教国家の、人種差別を基盤とした帝国主義による横暴極まりない植民地支配が続く中、多くの兵士の心情はまさに

「家族を守るために」

その思いで戦場へ向かったのでありましょう

その精神は、ずっとこの日本において太古の昔から、連綿と育まれ受け継がれてきた武士道の高潔な精神そのものであります


日本史を学びなおし、その中で感じた日本人、卑怯を嫌い、争いごとを好まず、本来穏やかでのんきで、思いやりがあり、素晴らしい文化を作り上げてきた日本人
明治以降、不器用なまでに国際ルールを守りながら世界と必死に渡り合っていた日本と日本人の歴史を突然断ち切り、突然発狂したかのように現れた大東亜戦争時の残虐極まりない日本人
そして、国を挙げて残虐行為を指示していた日本


何故、そのような日本が、日本人が、突然現れたのか
その理由を知ろうと色々と調べてきました

そしてその結論は



そんな日本も、日本人も

存在していなかったのです


特攻隊員の遺書を読み、涙が止まらなくなった小平次の中で
ようやく長い日本の歴史の断ち切れた十数年が繋がったのでありました



さて、その後の小平次でありますが、自分がそれまでの生涯信じて、ライフワークとして、自我の一つとして、自身を形成していたものが徐々に崩壊していく事となります

自我が崩壊するという事はなかなかに大変な事でありまして
少しずつ自身の変質をもたらします


ほどなくして、小平次はそれまで自分の全てと言っても良かったキリスト教と決別いたします
その理由は、決してキリスト教の教義そのものを否定したものではありません
今でも新約聖書のイエスの言葉は素晴しいものであると思っております

しかしながら、「神の言葉」として書かれたと信じていた聖書は、まごうことなく人間の知恵によって、人間の手によって書かれたものである、と確信したからであります
そしてそれは、間違いなく西洋白人社会において、時の為政者、権力者によって修正されたものであると確信したからであります

キリスト教に限らず、宗教とは、神という外部の力によって自身を律し、世の中の秩序を作るものです
世界のほとんどの国が、この宗教、もしくは社会主義のような思想といった外部からの力によって秩序を作っております


しかし日本は、数千年、いや、数万年前からの長きにわたり育まれた武士道に代表される己の内から作り上げられた精神、道徳によって秩序を守ってきた国です
そしてその精神は決して争いごとを好まず、平和のためになすべき術を包含しています

日本という国が、外国との戦争や内戦の数が、同じ島国であるイギリスとは比べようもないくらい少ない事、犯罪の発生率が世界でもトップクラスに少ない事
これらはその精神に由来するものでありましょう

その精神と道徳こそが、キリスト教を始めとして宗教では成しえなかった真の平和をもたらすものだ
そう確信したからです


とは言うものの、そういう自身の変質は、小平次から様々なもの奪っていく事となります


友人、知人、家族、その他大切なものを失い、故郷を失い、やがてはその変質に耐えられなくなり精神的に失調をきたし、精神科に通い、時に自身をコントロールできなくなり、それでも人を傷つけるわけにもいかず、自分の左腕を切り落とさんとして包丁で何度もたたきつけ、血まみれになった事もありました
それでも死ぬまでは考えなかったのは、やはりキリスト教の教えがどこかに染みついていたからかもしれません

自我の崩壊とはそんな事なのであります


それでもその後、今の妻と出会い、救われ、娘を授かり何とかささやかながら幸せに暮らしております

そして今思う事
冒頭に述べた通り


「日本人とは世界で最も争いごとが嫌いで、世界で最もそれを避けるための術を知っている民族である。そしてその術とは、天皇陛下を頂点に戴き、民が一つとなる、その国体こそが平和のための最善の形なのである」

「明治以前の日本は、決して暗黒国家などではなく素晴しい文化文明を育んだ国であり、それ以降は、白人の人種差別による支配と敢然と戦い、アジアの解放の一助をなし、自らの国体を守り切った」

「そのような歴史を創りあげてきたわが先人たちは、まさに英霊であり、心から敬うべき存在である」

と言う事です

そして、家族を守るため、そのゆえに国を守るため、日本の、子孫の、その平和のための礎とならんと戦地に赴いた先人たちにきせられた汚名を晴らさんと願うばかりであります

さて、小平次が真実を感じ取ってから約二十年、いまだに南京虐殺を始め「あった」「なかった」の論争は続いております
ネットの普及により素人も参戦して舌戦を繰り広げております

真実を知ろうとそのような論争に目を向けている方がおられましたら、ぜひ小平次から申し上げておきたい事があります

学者さんや専門家の人にすらそういう人がいますが、主にネットなどで「あった」「なかった」と論じ合っているその論調、口調ををよく見て下さい
まるで罵り合いです

とくに「あった」派の主張を気をつけてみてください

もし、自分の父や祖父、または知人が、過去の大戦中先に上げた例のような蛮行に加わっていたとしたら、身内でなくても、その世代の同じ日本人がそのような蛮行に加わっていたとしたら、自分が日本人としてどんな気持ちになるでしょうか
その真実を知ったら、蛮行の証拠を自ら掴んでしまったとしたら、どんな気持ちになるでしょうか

たとえようもなく辛く、悲しい気持ちになるのではないでしょうか
それでも平和のために真実を伝えようと、その蛮行について語るとしたら、それはとても悲しく辛い行為になるでしょう

かつての日本軍の蛮行を「あった」と言う人たちの口調を見てください

「ほうら見ろ!これが証拠だ!やっぱり日本人は極悪なのだ!ざまあみろネトウヨ!」

嬉々として蛮行が「あった」事、日本軍の「残虐性」を主張しているものが非常に多くあります
口調は穏やかなものでも、同じ日本人の行為として、とても悲しく辛い気持ちを抑えてでも伝えようと言うよりも、まるで他人事のように語っているものばかりです

小平次は思います
この人たちは日本人ではないのです
もし、日本人だとしたら、何かの思想に偏り、そうする事で利益を得ている人たちか、以前の小平次のように無知であるが故、エセな平和主義に酔っているだけでしょう


漠然と「昔日本は悪い事をした」と
そう思っていながら少しでも真実に近づこうという方がおられましたら、どうか学んで下さい
様々な主張が出回っておりますが、それを自らの感性で感じ取ってみてください

それでも真実について迷うのであれば
小平次はぜひとも靖国神社に参拝する事をお勧めします

そして、靖国神社の「遊就館」を訪ねてみてください
かつて戦地に散った英霊たちのたくさんの遺書、最後の手紙を読む事ができます

「あった」「なかった」などとネットの罵り合いを聞いているよりも、それこそ、その道の専門家同士の言い合いをいつまでも聞いているよりも、その直前においてのご本人の、英霊の皆様の声を聞いてみたら良いと思います

そして、その声を聞いて、素直に感じるままに受け止めれば良いのです



歴史とは決して断片でも平面でもありません

特に我が国日本は、三万年前の古代日本人から縄文時代の遺伝子をいまだ多く引き継いでいます
これは世界でも珍しい事です

今の日本、日本人、そして私たちは、その長きの歴史の中で育まれた文化文明の国に生まれてきたのです
その文化文明を、必要以上に誇る必要もなければ必要以上に卑下する事もありません

それでも先人たちの振る舞いをみて「誇らしく」思う気持ちを抑える必要もないでしょう
そして、その振る舞いから多くの事を学ぶ事ができるでしょう

かつて小平次は、何かの試練に直面し、勇気を奮い立たせねばならぬような時

「神様が、イエス様が守って下さっている!」

そう心に言い聞かせました

今は
これから敵艦に自ら体当たりをするという直前にもかかわらず、凛とした高潔な先人たちの振る舞いを思い

「これくらいの事で挫けてどうする!」

先人たちの「その時」の心に思いを馳せれば、何と自分は恵まれている事か、そしてそれはまさにその先人たちの辛くも悲しい、それでもなお高潔な生き様があってこそなのだ
そう思わずにはいられないのであります



御免!

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大河ドラマ「軍師官兵衛」にしっくりこないぞ!

2014-11-09 | 歴史
こんにちわ!

小野派一刀流免許皆伝小平次です


今回は、あの大河ドラマ

「軍師官兵衛」

について「しっくりこない」事を書き綴ってまいりたいと思います


「軍師官兵衛」


いやあ、なかなかに面白く見させていただいておりました
近頃人生に楽しいことも少なくなり、週に一度の楽しみでありました


それなのに!


数回前の放送あたりから何だかしっくりきません(;;)しくしく…
それは、あの豊臣秀吉が天下統一し、その人生の晩年に差し掛かってきたころからです


「豊臣秀吉」


今回の「軍師官兵衛」に限らず、これまでの幾多のドラマ、映画、小説、に登場してきましたが、それらほぼ全てにおいて、その晩年は何だかトチ狂い、まるで権力に溺れた「欲望の権化」のように描かれております
ドラマ、映画、小説だけではありません


小平次の娘(中2)も、学校の歴史の授業で、「豊臣秀吉は歳をとってからおかしくなった」と教わってきたと申します

まあ実際小平次も昔そう教わったわけでありますが



うーん…

何だかしっくりきません



しっくりこない理由は2つあります

一つ目…


それは…


豊臣秀吉…


いやあ!

あの豊臣秀吉ですよ!


先ほども申しました通り、これまで大河ドラマだけでも、どれだけ主役を張ってきたでしょうか
その他、映画や小説、また、今回の官兵衛のように脇役としての登場も合わせれば、おそらく、そのドラマやら小説やらへの出演回数はダントツの1位でありましょう


それだけ私たち日本人にとっては魅力的な、言わば日本史における超スーパースターであります


その豊臣秀吉が


今回の官兵衛でもそうですが、「バテレン追放」を決めた事を官兵衛に諫められて言います

「ぐわっはっはっはっはぁ!この日の本に王は一人でよいのじゃああああ!」

つまり唯一絶対の神を信仰するキリシタンには、自分の他に従うべきものがあるわけで、それが許せんと言うわけです

さらに、朝鮮出兵を決めた秀吉が言います


「ぐわっはっはっはっはぁ!明国をワシのものにするのじゃあああああああ!」



いやあどうでしょう!

しっくりきません!しっくりきません!


あのスーパースター豊臣秀吉がそんな理由で!

「欲望の権化」

と成り果てて!


何とも陳腐なストーリーに思えてなりません!


本当に秀吉は晩年ボケてしまって「欲望の権化」と化し、そんな理由で数々の政策を行ったのでしょうか



さあ、ここで突然話は変わりますが、私小平次、今は自由業に従事しておりますが、これまでいくつかの企業でサラリーマンをした事があります
その中で、ある中小企業の関連グループで、従業員60名ほどの会社の責任者をまかされたことがあります
時は景気低迷のどん底、バブルの絶頂期のようにイケイケどんどんではありません
がんばってもがんばっても中々利益がでません


小平次は社長から言われます


「とにかく人件費を抑えろ!経費を節減しろ!」


まあ経営者であれば当たり前です
しかしながら、そんな薄い利益を出すために、従業員のみんなは本当にがんばっています
特に生活の保証の無いパートの主婦の方々、時給が10円上がるだけでも大変なことであります
小平次としては、少ない利益の中ですが、せめて気持ちだけでも時給を、給料を、上げてやりたい
そんな風に思うわけであります


しかし社長は言います
「お前は従業員の側に立ちすぎる!もっと経営者側の立場でモノを考えろ!」
「もし!情に流され、会社を潰してしまって、従業員やその家族を路頭に迷わすことがあれば、それこそ経営者として殺人を犯したに等しい!」


社長の言葉も気持ちもわかります
小平次はまさに中間管理職として板ばさみでありました (;´д`)


そんな中、小平次は昇給どころか減給をみんなに強いなければならなくなります


もう少しだけ頑張れば、利益が上がるだろう確信もあり、その手も打ち、だからこそあとほんの少しだけ辛抱してほしい
でもそれは中々従業員には伝わりません


「アイツのやり方が悪いから利益が出ないんだ!アイツがバカだからみんなが苦労するんだ!」
こんな小平次への悪口が、従業員の酒の肴であります


この時の小平次の心情を理解してくれる従業員なんてほんの一握りです


社長は言います

「トップに立つと言うことは、孤独との戦いでもあるのだ!」


それは小平次の才覚の無さ、人徳の無さでもありましょうが、中々につらいものでありました

企業にお勤めで、管理職の経験がおありになる方なら、多少はこんな思いをした事があるのではないでしょうか

「親の心子知らず」
「上司の心部下知らず」

さて、中小企業の管理職ですらこんな有様です


それが、一筋縄では行かないツワモノばかりの戦国時代、そのツワモノ達を打ち負かし、そして一つにまとめ国を束ねることになった豊臣秀吉
その秀吉の行動、言動、心持ち、それをどれだけ周囲の者が理解できたでありましょうか


ましてや、その400年後の左翼的思想におぼれた凡人歴史学者たちが、どれだけ理解することができるのか

何をかいわんやです


凡人の小さな小さなモノサシで、かのスーパースター、天才的軍事戦略家、豊臣秀吉を語るから

「ぐわっはっはっはっはぁ!明国をワシのものにするのじゃあああああああ!」

のような陳腐な話になるのではないでしょうか



さて、二つ目は


それは、一つ目の理由より少々学術的であります


あの時代を語るドラマ、映画、小説、その他物語、教科書、ほぼ全てのものに共通して言える事なのですが、当時の世界情勢、つまり「世界の中の日本」と言う視点が全くもって欠如していると言うことなのであります


「当時の世界情勢」


とはいかなるものか


それは、白人キリスト教国家が「大航海時代」を経た後、キリスト教の大義による世界征服を目指し、まさに実現しつつあった時代なのであります
この白人国家による侵略、世界地図の塗り替えがまさしく現実のものであった時代、日本だけがそのカヤの外にあったなどということがあろうはずがありません



特に!
時の超大国

「スペイン」

その国家政策の原動力でもあった「キリスト教」の性質
それを理解せずして、秀吉のとった行動の理由がわかるはずもない

小平次はそう感じるのです

キリスト教の大義無しには語れない、時の「世界情勢」そしてその中に置かれた日本の状況、それらを無視して、時の為政者である豊臣秀吉のとった行動、政策の理由付けができるはずもありません


「ぐわっはっはっはっはぁ!明国をワシのものにするのじゃあああああああ!」


まるで漫画です
日本は漫画大国だから、まあ漫画になってしまうのもやむを得ないかもしれませんが…


それならば!
いっそ漫画ついでに「 Hideyoshi Toyotomi as SuperStar!」として、小平次なりに妄想を膨らませて、かの時代を語ってみたいと思います


歴史を妄想するにあたり、実際に秀吉がああ言った、こう言ったなどの記録があったとしても、そんなものは当てにはならない、と小平次は思っております
先述したように、凡人がスーパースターのその言動、行動などそうそう理解できるとも思えないからです
(もちろん小平次も凡人中の凡人ですが)


単純に、当時の世界情勢とキリスト教、スペイン、フェリペ2世、秀吉の「バテレン追放」「朝鮮出兵」これらの事実から妄想してみます
実際秀吉の様々な政策の分析には諸説あり、小平次よりもはるかに頭の良い学者さんたちも正反対の事を言い合っていますから、小平次ごときが妄想を語ってもまあ許されるでありましょう


ではまず、当時の世界情勢なるものを感じてみましょう
それにはまず、キリスト教なる宗教を少なからず理解する必要があります
なぜなら、この宗教の「大義」が、世界を変貌せしめていたからであります

幸いにして!この小平次、前回の記事でも触れましたとおり、20数年前まで、それなりに熱心なキリスト教信者であったのです
ですから、一般の人よりは、このキリスト教への信仰心なるものを理解しているつもりです



キリスト教とは、一言で言えば「博愛」の宗教であります

キリスト教の経典「聖書」にはこう書かれています

「右の頬を打たれたなら、左の頬を出しなさい」

つまり、自分に暴力をふるう者がいたとしても、それに暴力で返すのではなく、むしろその者が自分に暴力をふるう事で満足すると言うのならば、喜んでもっと打たれなさい
と言うわけです

さらに聖書は言います

「自分を愛するがごとく、あなたの隣人を愛しなさい」

そうなのです
たとえ自分に暴力をふるう者があったとしても、その者を自分を愛するがごとく愛せよ
そう言っているわけです


そして、その「愛」は、イエスキリストの究極の「愛」に集約されます


人間とは罪深く、神に背きながら生き続けています
神は大変に怒っており、もう我慢ができぬと、全ての人間をことごとく滅ぼしてしまおうと考えています
そして神の怒りに触れてしまった人類は、死んだ後、罰として地獄の業火で永遠に焼かれ続けなければなりません


永遠に焼かれ続けるとは、つまり一度死んだ人間はもう死ぬことはなく、死にたくとも死ねないまま業火の中で焼かれ、永遠に苦しみ続けるという事であります


いやあ中々に凄惨な末路であります


しかし!そんな神の怒りに触れた人類にも救いがあったのです
それは、神の子であり、かつ神自身でもある「イエスキリスト」が、十字架に手足を釘で打ち付けられ磔となって、自らの命を持って全ての人の身代わりとなり死んだことで、永遠の業火で焼かれ続けなければならないほどの人類の罪が贖われたのです


それでも、イエスが身代わりになったからと言って、それだけで人は救われるわけではありません
そのイエスの究極の愛を信じ、自らも実践する努力をしなくてはなりません
さらに、自分だけが救われてシメシメ、ではいけません
その愛を知った者は、その愛を知らぬ者に伝えていく使命を負うことになります


イエスの愛を信じ、実践し伝える事、それがキリスト教の信仰の本質であります


さてこれらのイエスの愛とは、その経典である「聖書」の内、イエスの生涯や、言葉を弟子たちが記した「新約聖書」の中に書かれているわけですが「聖書」とは、この「新約聖書」だけで成り立っているわけではなく、神の天地創造、そしてアダムとエヴァ(イヴ)という男女から始まる人類の創生から、その子孫達の造った世界のその後、ノアの方舟や、ダビデ王とソロモン王の栄華などを経て、イエスが誕生するまでの間の、神自身の直接の言葉を中心に書かれたもう一つの聖書、つまり「旧約聖書」と一つとなって

「聖書」

を構成しているのであります

「新約」と「旧約」と言う二つの聖書、その教えには随分と違いがあります

イエスの生涯とその言葉を記した「新約聖書」は、ヨハネの黙示録などを除けば概ねイエスの愛に満ちています
しかし一方の「旧約聖書」は、神自身が直接預言者(神の言葉を預かる者で予言者とは違います)に語りかけ、それは中々に愛を伝えるキリスト教とは思えぬほどの怖い言葉が随所に出てきます

神は言います

「私は嫉妬深い神である」

意味としては、他の神々を信じるな!、偶像崇拝、人間の手によって作られた仏像や銅像など神ではない、そんな物を拝むな!
私は嫉妬深いのだから浮気はするな!

と言うわけです

旧約聖書の中では、神は中々に厳しく、唯一絶対の神である自分を信じない者は滅ぼしてしまえ!異教徒を駆逐せよ!
と言っています

神は、その滅ぼした国々からの略奪も許しています
その略奪品の分配方法までもが神の言葉によって定められています

さらに、その略奪品は物品だけでなく、女子供も自分の物して良いと、唯一絶対の神の言葉として記されています


どうでしょう

「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」

と説いたイエスの教えとは随分違います

現代キリスト教徒が(以前の小平次もそうですが)、信仰しているのはもちろん愛に満ちた「新約聖書」のイエスの教えです
しかしながら、ローマ帝国がキリスト教を国教として以降、少なくともイギリスがスペインに打ち勝ち、布教よりも国益のために世界侵略の急先鋒となる頃までは、十字軍しかり、スペインの世界征服しかり、嫉妬深い神の言葉が、愛の宗教を伝える大義として、白人キリスト教国家の行動規範の一つとなっていた事は、残念ですが疑いようもありません

今現在、キリスト教を信仰している人たちにとっても、この愛に満ちた新約聖書と、残虐な侵略行為までをも命じる旧約聖書の教義の矛盾は、信仰上の葛藤を生み出しているようであります

事実、小平次自身、自分の通っていた教会の牧師に尋ねた事があります

「なぜ、イエス様はこんなにも慈しみと愛を説いておられるのに、旧約聖書の中で神は人殺しまでをも許容するのでしょうか」

牧師の答えは次のようでありました

「それは、私達人間には計り知れない、神様の壮大なご計画の一貫なのです」

この答えに小平次は、まあ釈然とはしませんでしたが、ひとまず納得しました
ちなみに小平次がキリスト教から離れた訳はこの事が原因ではありません
その辺の事はまたおいおいに


さて

「神様の壮大なご計画」

の元、人殺しまでもが許容されるのであれば、キリスト教はその当時、キリスト教を信仰したくない人達からすれば、恐るべき宗教であったでしょう


「オウム真理教」


教祖の麻原彰晃は言いました

「我々の計画を邪魔する者はポアしてしまえ!」

信者達は、麻原のその「壮大な計画」を信じて、人を殺し、地下鉄で毒ガスを撒き散らしたのです


オウムと現代キリスト教を同列に扱うのは失礼でありましょうが「信仰」の本質、その根っこは同じです


15世紀、コロンブスやマゼランらの大航海時代を経て、世界の全貌が明らかになっていきます
その大航海時代をリードしたポルトガルとスペイン

両国は、次々に新しく見つけた地で

「十字架か剣か!」

「キリスト教を信じるかそれとも剣を取って我々と戦うか!」と押し迫り、世界を侵略していきます
そしてついには世界地図を二分割し、その全てはポルトガルとスペインのものであるとして、本気で世界征服に乗り出します


やがて、ポルトガルと一つになったスペインは、それにより世界中のポルトガル領土を併せ持ち、かのフェリペ2世の治世下、世界最大の絶対主義帝国となるわけであります

「スペインが動けば世界が震える」

と言われ

その領土が世界全域にまたがったがゆえに

「太陽の沈まぬ国」

とうたわれたスペイン

それはスペイン以外の世界にとって、まさしく脅威そのものであったでしょう




小平次は学生時代、ヨーロッパを一人旅して、スペインマドリードのプラド美術館を訪れ、このフェリペ2世の肖像画を見たことがあります
いやあ、見入ってしまいしたね
これが16世紀末から、世界を震わすほどに恐れられた男なのかと




フェリペ2世は、良くも悪くも、世界史におけるスーパースターの一人でしょう
世界征服をまさに現実のものとして実践したアレクサンダー大王、チンギスハーン、そしてフェリペ2世


そんな世界史のスーパースターに、日本のスーパースター豊臣秀吉はどのように対峙したのでありましょうか


当初、貿易上の国益の重視から、キリスト教の布教を容認していた秀吉ですが、ご承知の通りある時からそれを禁じます
それは、キリスト教の本質を見抜き、白人国家がそれを大義に世界侵略に乗り出している事に危機感を持ったからでしょう


スペインはじめ、列強諸国は、征服しようとする国が軍事的に非力だと判断すれば武力によってたちまち制圧します
しかし、相手が軍事的に侮れないと判断すれば、武力ではなく、宣教師を送り込み、その布教によって内部からのキリスト教化を企てます


フェリペ2世は敬虔なカトリック信者であったと伝えられています
フェリペ2世にとっては、結果的に征服対象国がキリスト教化すれば、その手段はなんでも良かったのかもしれません
征服対象国がキリスト教化すれば、ローマ教皇の支配化に入るわけで、結局はその教皇からお墨付きをもらっていたフェリペ2世の支配下に入ると言う事です


国のキリスト教化、それはある意味武力による侵略よりも恐ろしいことかもしれません
日本はこの時、すでに、1000年以上の長きに渡り、天皇を頂点に戴き、文化文明を育んできた国です
唯一絶対の神は天皇をも否定します


それはもう別な国になる、つまり国の根底からの消滅を意味します


時の為政者として、国を根底から覆しかねない宗教が自国に蔓延し始め、なおかつその宗教の大義は殺戮による征服をも辞さないものであり、現実に世界の多くの地域がその支配下に入っている世界情勢の中、時の為政者として秀吉はいかなる政策をとるべきであったのか


「バテレン追放」


これは自国の防衛のために、時の為政者として当然にとるべき道、まさしく「英断」と言って良いのではないでしょうか


そしてこの「英断」は、秀吉にとっては相当な覚悟を持って下されたと推察されます


なぜなら、世界征服を目論んでいたスペインは、いやスペインに限らず、当時の白人列強諸国は、キリスト教の大義に基づきそれを行っていたわけですから、その宣教師を追い出し布教を禁じると言うことは、まさしく白人列強諸国に宣戦布告をしたに等しいと言うことなのであります

国防のため、このような英断を相当な覚悟をもって下した秀吉が


「ぐわっはっはっはっはぁ!この日の本に王は一人でよいのじゃああああ!」


のような漫画的理由でそれをしたとは思えません
いやむしろ、このような英断をする秀吉だからこそ、晩年トチ狂って欲望の権化と化していたとは到底思えないと言うことなのであります


秀吉は軽々しく宣戦布告をしたわけではないでしょう
あらゆる状況を想定し「バテレン追放」を決断したのでありましょう


これによりもし、スペインと一戦交えるような事になるとしたら、それはどのような状況なのか


「無敵艦隊」とうたわれ、世界が震えるほどの強力な海軍力を持っていたスペインでありますが、それでも、その海軍力に物を言わせようと遠路はるばる日本にやって来て一戦交えるのは現実的ではありません
それは秀吉も十分理解していたでしょう
少なくとも、この時点で日本側から見れば、好き好んで世界侵略に乗り出す必要も無いわけですから、一戦交えると言っても、迎撃、最終的には陸上戦による本土決戦に備えれば良いのです


海軍力では到底スペインに及ばないと言っても、こと陸上戦においては、意外に知られていない事でありますが、当時日本の鉄砲保有数は世界一であり群を抜いておりました
その鉄砲と、鍛えられた武士集団の弓の技術による遠距離戦、また元寇の際の高麗軍の記録にも「倭刀恐るべし」とあるように、「切る」事に関して驚異的な威力を見せた日本刀による接近戦、兵士の数、全てにおいて間違いなく陸軍力は世界最強であったでしょう



ですから、本土防衛のみを考えるのであれば、いかにスペインが無敵艦隊で日本に襲来する事が可能であったとしても、単独で遠路はるばるやって来るのであればさほどの脅威ではなかったでしょう


では、押し迫る白人キリスト教国家との一戦、秀吉がその可能性として最も案じたことは何でしょうか


それは、この日本が、ヒミコの、いやもっと以前の太古の昔から、外敵からの防衛として最も悩ましい存在であったのが朝鮮半島なのです
先にも申しました通り、侵略国家が遠路はるばる海を渡ってやって来るのならば、少なくともこの時代までは脅威ではなかったでしょう
しかし、目と鼻の先の朝鮮半島を南下し、日本に攻め入る事を可能にする国があった場合、それはたちまち日本の存亡に関わる脅威に変わるのです


決してこの時点では可能性としては高いものではないとしても、スペインが、白人列強諸国が東アジアの覇者である大明帝国を何らかの形で懐柔する事に成功し、共同戦線を張るようなことになったら、日本は大変な脅威にさらされます
古代から、我が国の先人達は、この朝鮮半島を南下してくる勢力にどれほど心をくだいていたか(この辺のことはまた別の機会にいたします)
スーパースター豊臣秀吉が最も警戒したシナリオはこれでしょう


また、隆盛を極めた永楽帝の治世以降、衰退の一途を辿っていた明は、北方からの脅威にもさらされ、白人列強諸国の手に落ちる可能性がゼロではなかったでしょう


事実その後の400年間、日本が有色人種として白人キリスト教国家に立ち向かい抵抗し敗戦に至るまでの間、世界は人種差別を基盤とした白人キリスト教国家の植民地争奪戦の時代になるわけですから


さて
その晩年の政策で、最も秀吉が「欲望の権化扱い」される政策

「朝鮮出兵」

小平次は、ここまでの様々な要因をもって妄想します


スーパースター豊臣秀吉は、この時点で、白人列強諸国の猛威を知り、日本防衛のため、いや日本防衛のみならず、白人国家の横暴に対抗するべく、この時すでに「大東亜共栄圏構想」を描いていたのではないでしょうか

この時からおよそ300年後
日本は同じ悩みを抱え大陸に進出します
散々議論を重ね、西郷隆盛や伊藤博文を失い、莫大な国費をかけ朝鮮半島の近代化をはかりました


秀吉はどうであったでしょうか
かの大陸の国々に対話を求め、白人列強諸国に対抗するための共栄圏を構築するという提案をもちかける事などは、それがまったく無駄なことであると重々承知していたのでありましょう


朝鮮に簡単な書簡を送りつけ、一気に攻め上ります

 
さて、秀吉が大東亜共栄圏の構想を持っていたとして、一旦戦争に踏み切ってしまった以上その着地点を考えなくてはなりません
おそらく秀吉は、電撃的に攻め上り、ある程度の戦果を挙げた時点で明と和平を結ぶ(事実そうしようとしていたわけでありますが)日本に優位な形で和平を結び、日本主導による共栄圏の構築に入るつもりであったのではないでしょうか
そこまでに至らなくとも、最悪陸上戦における日本の軍事力を誇示する事ができれば、諸外国に対し抑止力を働かせることができます
事実その後の約300年間、ペリー黒船艦隊が日本を襲うまで、現実的に日本を侵略しようとする白人国家はありませんでした



秀吉の朝鮮出兵は、あの天才的軍事戦略家の作戦とは思えないお粗末な計画であったと、後年指摘されています
それが、晩年秀吉が欲望の権化と化しトチ狂っていたと思われる要因の一つなのでありますが、実はそうではなく、秀吉にしてみれば、元々明も朝鮮も支配するつもりなどなかったのでありましょう
その着地点はあくまで、日本主導の共栄圏の構築ならびに抑止力の誇示であったわけで、そのためのある程度の勝利が治められれば良かったのです


残念ながら道半ばで秀吉はこの世を去りますが、もし、この秀吉の大東亜共栄圏構想が実現していたならば、その後400年に渡る人種差別を基盤とした白人列強諸国の植民地争奪戦に楔を打っていたかも知れません
そうすれば、国際法をも無視した、我が国への数十万人の民間人を焼き殺す絨毯爆撃も、人体実験をかねた恐るべき核兵器の使用も、未然に防げていたかもしれません


以上は小平次の妄想であります
妄想ではありますが


「ぐわっはっはっはっはぁ!明国をワシのものにするのじゃあああああああ!」


などと言う漫画のような「秀吉晩年欲望の権化説」よりはしっくりくる妄想ではないかと思っております



と、ここまで書いたところで先ほど、小平次の娘(中2)が、「学校の歴史の授業で教わったんだけど、満州事変って何?」と言ってノートを見せに来ました


娘のノートには

「日本が中国を悪者にし、中国のせいにして戦争をおこした」

と書かれておりました



はあ…、

私達もまだ道半ばです

ささやかながら戦いに向かわなければなりません


御免!


コメント (4)
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