さむらい小平次のしっくりこない話

世の中いつも、頭のいい人たちが正反対の事を言い合っている。
どっちが正しいか。自らの感性で感じてみよう!

卑弥呼ではない!日御子様です!ぱーと2

2016-07-20 | 歴史



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こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

本日は

「卑弥呼ではない!日御子様です!パート2」

をお送りいたします



で、ちょっとパート1の妄想のおさらい


パート1では

「卑弥呼」という当て字はもうやめにしようということ

当時漢字を常用国語文字として使用していたのであれば

「邪馬台国の卑弥呼」ではなく「大和国の日御子」

であったのではないかということ

「日御子」擁立の過程と、即位後の長期政権の事実から「日御子」は神聖なオーラとカリスマ性を備え、そして誰も文句のつけようない正当な血筋の人であったのではないかと考えられること

そしてそのような血筋は、日本には、いや世界でも一つしかない、つまりは「皇統」ではないかということ

そうであればもはや「日御子様」とお呼びしなくてはならないのでは、ということ

また「皇統」のどなたかであらせられたのであれば、古事記、日本書紀にその事績が記されているはずであるということ

日本書紀の神功皇后紀に、あくまでも魏志の引用である、と、ことわりを入れた上で「卑弥呼」について触れられており、日本書紀編纂者たちは「日御子様」を「神功皇后」に比定しようとしていたこと

では日御子様は「神功皇后」であらせられたのか

というところまででした



では早速妄想の続きをすすめましょう

そもそも日本書紀の編纂者たちは、そのことについてあくまでも魏志からの引用しか記載していません

日本書紀では、一つの事績に対し他に異説や別な伝承があればそれを載せています

しかし、神功皇后三十九年条他の記事は、あくまでもこの魏志の引用だけが記されています

つまりこれは自分たちが調べた範囲の中に「神功皇后が魏に使節を送った」ということについて、魏志の他、そのような事実が見当たらなかったという事だろうと思います

それでも大陸の史書に登場する海外にまで名を馳せた女王の記述を無視もできない

また、細かい話はいずれ「日本書紀」について触れる機会があれば述べさせて頂きますが、まずは神武天皇の即位を紀元前659年(660年)に定めたこと(これについてはまたあらためて)により、当然のことながらその後「倭国」を束ねていた日御子様の治世は、大和国の治世でならなくてはなりません

公孫氏の滅亡に素早く反応し、使節を送り、半島南進を目論む高句麗、国内にて大和に従わない狗奴国を牽制すると同時に自らを「倭国王」として国際的に認知させた、そんな華麗な外交をやってのけた古代女王

まさに自ら雄々しく男装し、海を越え三韓征討を果たした神功皇后をおいて他にいらっしゃるまい



そう考えたのでありましょう

この日御子様を神功皇后に比定したことは、日本書紀の編纂の根幹に関わる重要な事でありました

そこには日本書紀編纂者たちの実に緻密なカラクリがあるのですがそれもまたあらためて…


さて、日本書紀編纂者たちは、日御子様を神功皇后に比定しようとしたわけですが、そもそも日御子様の治世と、神功皇后の執政の時代は一致すると考えていたのでしょうか

日本書紀の成立した8世紀初頭からそれ以前、それまで支那地域から輸入されていた「暦」は、特に天武天皇の治世下ころよりかなり精緻なものとして研究されて精度の高いものになっていました



つまり編纂者たちは、少なくとも、魏志倭人伝にはっきりと年代の記されていた日御子様の治世が3世紀初頭頃であったことは確実にわかっていたと考えられます

ならばそれが神功皇后の執政期間と一致すると導き出していたのでしょうか


その件につき、決定的とも思えることを述べている方がいらっしゃいます


歴史学者の「倉西裕子さん」です

その著書「日本書紀の真実 その紀年論を解く」

によれば

「東国通鑑」(1484年成立)と「三国史記」(1145年?成立)の「百済本紀」、この二つの朝鮮半島の史書が百済王である「辰斯王の薨去」と「阿花王の即位」について、いずれも西暦換算において「392年」の事と記しています

この記事に呼応する記事が、実は日本書紀にもあるのです

「応神天皇紀3年条」

に、辰斯王の薨去と阿花王の即位が詳細に記されております

この事実の一致は応神天皇のご即位が

「390年」

であったことを物語っています

さらに「東国通鑑」と「百済本紀」は「百済の腆支王」が即位前に倭国に人質に出された年代を西暦で「397年」の事として記しています

これに呼応する記事が日本書紀では

「応神天皇紀8年条」

にあり、同じように逆算して求められる応神天皇のご即位は

「390年」

となります

さらにさらに、「百済本紀」の伝える阿花王の薨去は「405年」

日本書紀では

「応神天皇紀16年条」

にその記述があり求められる応神天皇のご即位は、やはり

「390年」

となります

さてさて、歴史、特に古代史などは文献的資料が少ないこともあり、一つの説に異論反論、数多ありますが、上記の応神天皇のご即位については、外国の史書と日本の史書において、複数の事件でその一致を見ることができるわけでして、異論反論もあるのでしょうが、素直に西暦「390年」と考え、古代史のひも解き、謎解きの一つの「起点」として、そこからの考察をすすめても良いように思えます

そうであれば、応神天皇のご即位が「390年」であるという「事実」は、応神天皇の母君であらせられた「神功皇后」の執政期間が、当然その直前となることを物語るわけで、日御子様の崩年は248年(?)ですから、日御子様の治世と神功皇后の執政期間には150年近い開きがあることとなります


「150年…」

うーーーーん…

日御子様=神功皇后

とするにはあまりに時代が違いすぎます

先の応神天皇のご即位の年代特定ばかりではなく、神功皇后の執政期間が4世紀中葉から末にかけてというのは(後日また)他の理由からもほぼ間違いないだろうと考えられます


となりますと結論としては日御子様と神功皇后は同一の方ではあらせられなかった…

ということです


では日御子様はどなたであらせられたのか

そもそも皇統の方ではないのではないか?

そのように言う人も大勢います

しかしパート1でも申し上げましたが、王位の継承争いをしていた者たちが、その即位によって一斉に武器を置き、その後最低でも40年以上(小平次は60年以上と思っています)の長きにわたり「倭国」を束ねた女王

だれもが認める正当なる血筋を持ち、神性とカリスマ性を兼ね備え、古代の我が国を治めていた女王は、やはり皇統のどなたかであらせられた、小平次にはそう感じられるのです


では一体…  


それはまた次回ということで




御免!
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