さむらい小平次のしっくりこない話

世の中いつも、頭のいい人たちが正反対の事を言い合っている。
どっちが正しいか。自らの感性で感じてみよう!

渡来人とはナニモノだ? 小平次の妄想的歴史探訪 

2016-03-30 | 歴史
こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

小平次の妄想的歴史探訪

今回は

「渡来人とはナニモンだ?」

と題して妄想をお送りいたします


中学校の歴史教科書なんかを見てみますと

「紀元前4世紀頃、主に朝鮮半島から移り住んだ人たちによって稲作が伝えられ…」

などと書かれており、事実、遣唐使の廃止のころまでになるのでしょうか

百済や新羅、高句麗、歴代支那王朝から仏法の指導者であるとか、建築の技術者などなどの来日、帰化の記録が残っております

ではそのような文献的記録のない時代、弥生時代と言われるその時代、大陸から移り住んだ人たち、いわゆる

「渡来人」

ってな人たちはいったい「ナニモン」だったのでしょうか

小平次が子供のころ、歴史の授業でこの事を学んだ時のイメージとしては、何だか「石斧担いでゴゴーンゴーン♪」みたいな原始人が「ウッホ、ウッホ」と唸り声を上げていたような未開の野蛮な島であった日本に、それはそれは優しく手取り足取り、朝鮮半島からやってきたススンだ人達が文化文明、技術などを伝えたというような、そんな感じでしたよ

今でもそんなイメージを持っている人たちも多いんじゃないでしょうか

少なくともお隣の国ではそんな風に思っているようですし、教育もされているようなのであります


「主に朝鮮半島から移り住んだ人たちによって文化や技術が伝えられ…」

教科書なんかには実にさらりと書かれておりますが、小平次としては大変素朴な疑問があるのです


その人たちは一体何の得があって海を渡り、わざわざ日本に文化文明、技術を伝えにやって来たのだろうかということに対しての疑問です

少なくともこの時代、日本と大陸、双方で海を渡り行き来をしていたことは間違いないでしょう

航海技術も後世で考えているよりもずっと優れていた可能性もあります

半島の南端から九州までは、決して遠い距離ではないかもしれません

しかしながら、青森と函館の決して遠くはない距離を結んでいた青函連絡船「洞爺丸」の事故は昭和の出来事です

多数の犠牲者を出したセウォル号の転覆事故や、イタリアの大型客船コスタ・コンコルディアの座礁事故なんてつい最近のできごとです

現代の最新技術を持った船でさえ、自然条件、人的ミス、その他によって、多大な犠牲を払う事故を起こしているのです

漁船やその他の船の事故も含めれば、世界中で今も海難事故はしょっちゅう起きているのです



それが2千年以上前の航海、いかにその技術が優れていた可能性もあり、北九州と半島南端の距離は、今でこそ近いと言えたとしても、当時は命懸けの航海であったことに間違いはないでしょう


「主に朝鮮半島から移り住んだ人たちによって文化や技術が伝えられ…」


命を懸けてまで日本にやってきて文化や技術を伝える理由はなんでしょうか

そもそもが、何の見返りもないのに「文化や技術」、その他「何か」を伝える事だけを目的に命を懸ける人たちなんているんでしょうか

「命懸けで何かを伝える」

小平次には例えば後の「鑑真和上」のような強い信仰心を持った「宗教者」くらいしか思いつきません(鑑真和上も朝廷の招聘ですので見返りがなかったわけではないでしょうが…)



しかし弥生時代初期、そのような宗教者が大挙してやって来たような痕跡はもちろんありませんので

「何の見返りもないのに「文化や技術」、その他「何か」を伝える事だけを目的に命をかける人たち」

は、初期の「渡来人」からは外して良いように思います

ではどんな人たちであったのか

妄想してみましょう

初期の渡来人が

「何の見返りもないのに「文化や技術」、その他「何か」を伝える事だけを目的に命をかける人たち」

ではなかったのであれば

「命を懸けてでも日本に渡るしか生き残る道がなかった人たち」



「命を懸けてでも日本に渡れば大きな利益があると考えた人たち」

大別するとこんな感じですかね

どちらにしても「命懸け」の航海をして、ということは忘れてはなりません

まずは「命を懸けてでも日本に渡るしか生き残る道がなかった人たち」について妄想してみます

この時代、朝鮮半島にはまだまだ「国」と呼べるような集団もなく、日本に文化や技術を伝えることができるような状態ではなかったでしょう

そうなれば、当然その人たちは支那地域、大陸内部からやって来た人たちでしょう

弥生時代初期、支那地域はいわゆる「春秋戦国時代」、戦乱によって大変に乱れていた時代でありました





「長平の戦い」などにおける何十万人を生き埋め、なんて数字は大袈裟にしても、大陸や半島での戦乱において、残忍な虐殺や強姦などが常態であったことは否定できません

長い戦乱によって征服された国々の民や支配階級の人たちの一部は、おそらく命からがら朝鮮半島方面に逃げ込んだのかもしれません

特に身分の高い支配階級の人たちは、反逆の芽を摘むという意味で、一族郎党、地の果てまで追い詰められたかもしれません

最終的に逃げ場のなくなった人たちが、ついには海を越えて安全な日本に逃げ込んだ

言わば「難民」ですね

「難民」と言ってもこの時代、日本へ渡ることのできる船を手に入れることは、そう容易なことではなかったでしょう

さらにはそれを操船し、日本までの航海ができる技術者を雇うとなれば一層困難なことであったでしょう

そうなりますと、以前の「ボートピープル」のように、一か八か大海に乗り出し、運よく日本に辿り着いたような人たちもいたかもしれませんが、基本的には一般の戦乱難民には無理な話であったでしょう

「日本に渡ることのできる船と操船者」

それを手に入れることのできる難民、それは捕まれば確実に地獄が待っているであろう被征服地域のそれなりの身分の人たち、財力や人脈を兼ね備えた言わば

「高貴な難民」

が、「命を懸けてでも日本に渡る他、生きる道のなかった人たち」の中心であったのではないでしょうか

この人たちは、日本での生活も考え、自分たちの一族の他、領民のうち技術者なども引き連れ、それなりの船団を組んで脱出したのかもしれません

朝鮮半島南部に、この後日本の影響が色濃く残る痕跡が見つかっておりますが、すでにこの時代(小平次はもっと古くからと思っておりますが)多くの日本人が住んでいたかもしれません

そうなりますと、古代版杉浦千畝のような人が半島南部にいて、追っ手からかくまい、日本に逃がしていたなんて事があったりして…、まっ、妄想しすぎですね!

さて、次へ行きましょう

「命を懸けてでも日本に渡れば大きな利益があると考えた人たち」

とはどんな人たちだったのでしょうか

真っ先に思いつくのは「交易商人」のような人たち

長き戦乱の時代も終わり、秦の始皇帝によって支那地域が大規模に統一されます

その安定とともに、交易も活発化していったことでしょう

日本ブランドの翡翠の加工品や、漆の装飾品などは、ひょっとすれば高値で支那マーケットで取引され、それを求め行き来する人たちがいたのかもしれません

いずれにせよこの「命を懸けてでも日本に渡る他、生きる道のなかった人たち」や「命を懸けてでも日本に渡れば大きな利益があると考えた人たち」は、小平次の妄想のような難民や商人ではなかったかもしれませんが、文化や技術を伝えること自体を目的に海を渡ってきたわけではなく、双方の往来の中で、文化や技術が日本へ自然と伝わっていったのでしょう

さて、もう一つ考えてみたいと思います

「何の見返りもなく」

文化や技術を伝える事自体を目的に命懸けで海を渡って来た人などはいなかった、と先に申し上げましたが

「それなりの見返り」

があるからこそ、文化や技術を伝える事自体を目的に命懸けで海を渡って来た人たちはいたのではないかと思うのです

それは最初にも述べましたが、ずっと時代を下り、大和朝廷の時代になりますと、百済や新羅、高句麗や支那の王朝地域から多くの仏教の指導者やその他の技術者を招聘していることが記録に残っております

それに対しては当然「対価」が支払われたことでしょう

そしてこのことは、明治のころの日本によく似ております

西洋的近代化を急いだ明治政府は、多くの西洋人技術者や教師、学者などを「対価」をもって招聘し、学んだわけです

そしてある程度学び、あとは自分たちでやれるとなれば母国へお帰りいただいたわけですね

小平次は案外このようなことは、実は文献的資料のない時代、つまり弥生時代のある程度早い段階から起きていたのではないかと思うのです

そのためにはある程度の統一された集団(クニ)の存在があったのでは、ということが前提にはなると思いますが


さて

「渡来人とはナニモンだ?」

小平次の妄想的現時点での結論はですね

結局どんな理由にせよ、双方の往来があり、その中で自然と文化や技術が日本に伝わってきたのであろう、ということでして

とりたてて「渡来人」なる特別な一団が存在していたわけではないのかなと思うのです

明らかな「渡来人」というのは、日本側から「対価」をもって招聘した一部の人たち、ということなのではないでしょうか

しかしながら、伝わったのは文化や技術だけではなく、やがて住み着いた渡来系の人たちの大陸的価値観

つまりは、征服して支配する、という弱肉強食の価値観も持ち込まれてきたのでありましょう

それが前回申し上げたこと

戦闘方法が徐々に縄文期の「一人対数人」の形式から「集団対集団」の形式に変わっていったこと、この事実がまさにこの文化や技術の流入と時を同じくしていることはそれを物語っているのではないでしょうか

それまでの縄文期の「平和的に融合」する価値観と、大陸的、いや、日本以外の世界共通の価値観、「弱肉強食」の価値観との戦いがついに始まってしまったのです

「日本の歴史は国防の歴史」

私たちの先人の国防の戦いは、まさにここから始まったのであります




御免!


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縄文の奇跡 小平次の妄想的歴史探訪 

2016-03-14 | 歴史

    
意外とお洒落だった痕跡いっぱいの縄文時代


こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です

小平次の妄想的歴史探訪

 「縄文の奇跡」

と題してお送りいたします


前回私たちのご先祖様たちは、おそらくは現在のアフリカ大陸付近から十数万年もの月日をかけこの日本列島付近に辿り着いた、不安遺伝子を抱えた究極の争いごと嫌いの臆病な人たちの集団であった

のようなことを申し上げました

それがおよそ3万年前くらいではないかといわれております(もっと以前の痕跡もあり)

そしてその後、今からおよそ1万6千年前ころには世界最古、もしくは最古級と言える土器を造り始めているのです



ここから諸説あるもののおよそ2千3、4百年前くらいまでが「縄文時代」と言われる時代なのですね

さて、この縄文時代

平和な時代であったとよく言われております

小平次自身も以前からこの平和な時代を

「縄文の奇跡」

と呼んできたわけです

しかしながら、主に左側の人たちからの主張をみますと

「縄文時代は平和で争いもなく、身分の差などのない平等な社会であった。しかしその後支配者階級が現れ、身分の差ができるようになった…」

だそうで…

うーーん…

「身分の差などのない…」

こんな風に言われると何だかちょっと気色悪くなってしまいます

ヒネクレモンの小平次としては、ついつい反対のことを考えたくなってしまいます


「縄文時代」

はなぜ平和な時代であった、と言われるのでしょうか

それは、主に発掘調査などから、武器らしい武器などがあまり見つからないということがまず一つ

しかしそれは、基本的に対人向けに作られた武器ではないということであって、狩猟用の石斧や石鏃などは多数見つかっているのです

考えてみればわかることですが、猪や熊を仕とめられる道具であれば、その気になれば当然対人用としても有効であったはずです

また、人を殺す手段は武器を使用しなくとも他にもあるわけです

首を絞めるとか、崖から突き落とすとか、素手で殴り殺すとか…

対人向けの殺傷能力の高い武器などが見つからないからと言って、それだけでは平和な時代であった、とは言えないわけです

そしてもう一つ

武器だけではなく、殺傷痕のある人骨が発見されない、もしくは少ない

というのも、縄文時代が平和な時代であったという推測を後押しています

これに関しては面白い研究データがありまして

「受傷人骨からみた縄文の争い」

他人からの攻撃による傷を負ったことが明らかな縄文時代の人骨についての研究論文であります


いやあ、いろんな研究をしている人たちがいるものですね!

勉強することはまだまだたくさんあります

さてこの論文の中身をざっと申し上げますと、結論から言えば、縄文時代にも「戦闘らしきもの」は起きていた、ということです

まあ当たり前のことですね

縄文期の受傷人骨は、少ないとは言っても、縄文時代にも争い事が起きていた可能性を示しており、そこには明確な殺意が存在していたのであります


縄文時代は「争いのない平和な時代」ではなかったのか!


上記の論文、大変興味深い研究結果を報告してくれております

その戦闘スタイルは、弥生時代中期以降

「 集団 対 集団 」

に徐々に変わっていったようですが、少なくとも縄文晩期ころまでの戦闘スタイルは

「 一人 対 数人(少人数)」

であったことが窺えるそうです

また、弥生時代中期以降は、殺傷能力の高い金属器による接近戦が増えているのに対し、縄文期のそれは、主に高所(樹上等)から弓による攻撃を仕掛けるパターンが多かったようです

縄文期の弓は殺傷能力も低いため、高所(樹上等)から攻撃し、相手の動きを鈍らせて複数人で襲い頭部への石斧等での攻撃によって致命傷を負わせる戦法が多かったようです


「 一人 対 複数 」

だとか

「高所(樹上等)からの攻撃」

とか、なかなかに妄想膨らむような研究結果です

(山賊のような連中による襲撃であるとか、集落にやってきた招かれざる客の撃退であるとか…etc)

なんにせよ、縄文期のそれも、人を殺そうという意志の下で起きた「事件」の一つであるのは間違いありません

しかしそれが「戦闘」と呼べるレベルなのか、ましてや「戦乱」や「戦争」と呼べるレベルのものなのか

そう考えると「争いのない」というのは言い過ぎとしても、少なくとも「戦争」や「戦乱」と呼べるような集団対集団の規模の争い事は「起きていなかった」と言えるかもしれません(現時点での発掘調査や研究においては)

「規模の大きな戦乱になるまでの集団が構成されていなかっただけだ」

との主張もあるようですが、少なからず三内丸山遺跡などに代表されるそれなりの規模を持った集落もあった上、「交易」とは呼べないという説もありますが、少なくとも全国規模で「交流」があったことは発掘調査でわかっております

とすれば、当然「集団対集団」の接触もあったことになると思うのですが、それが「集団対集団」の戦闘に発展することまでには、至らなかったということになるでしょう

それでも「規模の小さな集団がほとんどであった」との見方は可能かもしれませんが、それはそれで、前回申しあげたことですが、群れを大きくする必要性というのは、より安定した食料の確保のためであると同時に、外敵からの攻撃、その逆に対する安全保障上の要請でもあるわけでして、その要請に応えることの必要性も大きくはなかったとも言えるのではないでしょうか

それも1万年以上…

動物的本能、そして世界の歴史を見てくれば、1万年以上の長き時間、必要以上に群れを大きくする必要がなかったこと自体奇跡と言えるかもしれません



この時代の集団の形成が、自然条件によって大きく左右され不安定であったことは想像に難くありませんが、それでも1万年以上もの長き時間、集団同士の接触を持ちながらも戦闘にまでは至らなかったのは、弱肉強食の動物的本能に支配されてきた世界の歴史からすれば、やはりすごいことなのではないでしょうか

また、芸術的文様を施した土器であるとか、思想的な想いのこめられたような土偶であるとか、高度な技術を要するヒスイの加工品であるとか、漆塗りの装飾品であるとか、そういった品々の痕跡は、なかなかの文化文明の発達度を物語っています

江戸時代、優れた文化が発達したのは、安定した平和な時代が長く続いたからこそであって、この縄文期にも似たような事が言えるのではないでしょうか

しかも1万年以上…

こうしてみますと、ヒネクレモンとして反対の事を取り上げたつもりが、結局は「縄文時代は平和な時代」を後押しする結果となってしまいました

そうです

やはり縄文時代は「奇跡の時代」と呼んで全く差支えない、概ね平和な時代であったのではないでしょうか

まあ「身分の差もなく」などというのは、後の階級闘争史観から見た話で言い過ぎであるとは思いますが(階級差があったと思われる痕跡もあり)


さて、このように概ね平和な時代であったとも思われる縄文時代もやがて終焉を迎えます

中学校の教科書などにみられる

「主に朝鮮半島から移り住んだ人たちによって文化や技術が伝えられ…」

といったころと時を同じくするようにして、徐々にではありますが「集団対集団」の戦闘の痕跡も見られるようになってまいります

これはいったい何を意味するのでしょう


2005年国立科学博物館企画展示のポスター


その妄想はまた次回に



御免!

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日本の歴史は国防の歴史編 はじまりのご先祖様たち 小平次の妄想的歴史探訪 

2016-03-09 | 歴史


こんにちは

小野派一刀流免許皆伝小平次です


さて、本日は妄想的歴史探訪

「はじまりのご先祖様たち」

と題しましてお送りいたします



以前小平次の子供のころは、よく上の絵のような人類の進化の過程の図を見たことがあるのですが、最近のミトコンドリアDNAの研究では、とりあえず現生人類共通の、直接の祖先として辿れるのは、およそ16万年前前後である、と言われておるようです

そして、今まで人類の祖先と言われていた原人や猿人のいくつかの種は直接現生人類と関係している確かな証拠もないようです

以前の記事にて、小平次はこの件、勉強不足でやや勘違いして書いていた部分がありましたので訂正いたしました。

申し訳ございませんm(_ _)m

さて、この件ですが、色々勉強していくと中々に複雑で、今回の申し上げたい事とも少々かけ離れてしまいますので、やや乱暴ですが簡単に申し上げたいと思います

「現時点の研究では、およそ16万年前の時点では、現生人類の共通の祖先は現在のアフリカ大陸にいた可能性が高い」

と言える、ということで合っているでしょうか

これまでの人類アフリカ起源説からみても、このミトコンドリアDNAの研究はそのことを後押しいていると言えるわけです

このことが事実だとすれば、現在のアフリカ付近で誕生した人類は、長い年月をかけ世界に広がっていったとも考えられるわけですが、およそ動物が群れを作りその行動範囲を広げていく理由とはなんでしょうか

動物のもっとも基本的な本能は、その種を残すこと、つまりは子孫の繁栄であろうと思います

そのために生き残ろうとする、生き残るために食う、食料を確保するということですね

群れを大きくする、ということは、より効率的な食料の確保のためであり、また外敵などの襲来、その逆、そのための安全保障上の要請でもあるのでしょう

小平次はたまにスカパーのアニマルプラネットなどが好きで見ているのですが、ライオンなんかすごいんですね

一頭の雄ライオンがある群れのリーダーであった雄ライオンと闘い打ち負かす、そして新たにその群れのリーダーにおさまる

そうするとですね、新リーダーはまず、前リーダーの子孫であるまだ幼い子ライオンを皆殺しにしてしまうんだそうです

他の遺伝子を持つ子を殺し、自分の遺伝子を少しでも多く残すためにその芽を摘むわけです

いやあ恐ろしいほどの徹底ぶりです

こんな野生動物の世界を見ていますと、なんだか人類もやはり動物なのだと思うのです…




先にも述べた通り、動物が群れを大きくしたり、移動したり、その理由はやはり食料の確保のためでしょう

より優秀な子孫を残すために強いリーダーを求め、その元で群れを大きくしていく、群れが大きくなればより多くの食料が必要になる、そのため活動範囲(ナワバリ)を広げる、活動範囲が広がれば他の群れとの接触の機会が増える、接触の機会が増えれば襲い襲われ勝者の群れが大きくなる

こんな繰り返しが延々脈々と現代まで続いているのです

そのような中で私たちのご先祖様たちが、流れ流れて今の日本列島付近にやってきたのがおよそ3万年前くらいではないかと言われております(もっと以前のものと思える痕跡もあり)

先のミトコンドリアDNAでいうところのおよそ16万年前からすれば十数万年の途方もない時間をかけてやってきたことになります

わたしたちのご先祖様たちの移動も、他の動物たちと同じように食料を求め、ナワバリの拡大、襲い襲われの連鎖に組み込まれた結果なのでしょうか


小平次は妄想します

私たち、現代日本人のほぼすべてが、恐怖やストレスに対する耐性が弱い、不安遺伝子なるものを抱えているそうです

香川靖雄さん 女子栄養短期大学副学長の論文1
香川靖雄さん 女子栄養短期大学副学長の論文2


詳しくはよく知りませんし、まだ仮説段階の論も多いので、細かい話はしませんが、日本人に対人恐怖症の人が多いことなども無関係ではないかもしれません

またいつごろからそのような特徴を兼ね備えたかはわかりませんし、いわゆる不安遺伝子の型が実生活に影響するかはどうかは別のことであるとの説もあります

ですからあくまでも「妄想」でありますが、もしそのような性質がご先祖様の移動や拡大に影響していたのだとすれば、私たちのご先祖様たちは、他の種がしたような「襲い襲われ」を極力避けようとしながら、同じような感性を持つ種と合流し、群れを広げていったのではないでしょうか

ある程度安定した食料を確保できるような地に辿り着けば定住する、そこが外敵に襲われたりすればまた移動する、定住し群れが大きくなっていくと、外敵ばかりでなく、内部にも食料を独占しようなんて者が現れたりしたかもしれません

臆病で争いごとの嫌いな群れが、流れ流れる中でさらに選りすぐられ、究極の争いごと嫌いの人たちが現在の日本列島付近にやってきた

それは一遍にではなく、似たような人たちが流れ着いてくるような、動物の行動パターンのようなものがあったのかもしれません

不安になりやすい性質、恥ずかしがりな性質、それは決して負の面だけではなく、互いの信頼感を強めるとか、知能を高めるなどの研究データもあるようです

ですが、そんな研究データや論文を待つまでもなく、その後の日本の歴史を見ていけば、前回のプロローグでも申し上げた通り、我が国日本は

「概ね平和であった」

事がわかるわけです

人類が分化していく中でのこのような性質は、特にこの初期段階においては、その後の日本の礎となるものであったかもしれません


この後訪れる縄文時代が概ね平和な時代であったことが窺えることや、時代を下り大陸の史書「魏志倭人伝」に伝えられる

「風俗はみだらではない」

「盗みをせず争い事は少ない」

といった日本人の特徴にも合致し、繋がっていることがわかります



さて、最後に申し上げます

このような妄想がある程度事実であったとして、その本来的な性質が日本という国が創り上げられていく原始段階においては影響を及ぼしたかもしれません

しかしながら、小平次は思うのです

「日本人であること」

とは、その遺伝子やDNAがどうとかいう話ではありません

最近この遺伝子やDNAが韓国人とは違うとか違わないとか騒いでいる人たちもみかけますが

そんなことはどうでもいいのです

私たちのはじまりのご先祖様たちがこの地に辿り着いてから長き時を経ますと

やがて争いごとや戦乱が起きるようになっていきます

そのような中においても、私たちの先人たちは少しでもそれを避けようと国を創ってまいりました

「一君と万民」

君は民を想い、民は君を敬う

世界に類のない国の在り方を護り通してまいりました

「和を以て貴しと為す」

を国是として歩んできた国です

遺伝子もDNAも関係ありません

そのような価値観を創り上げてくださった先人を敬い、その価値観を共有しようとする者が日本人なのであります



御免!







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