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Peace to the pacifism world

学童疎開船「対馬丸」撃沈

2007年08月22日 22時59分29秒 | My投稿
今日8月22日は学童疎開「対馬丸」が撃沈され多くの学童が海のもくずと消えた日である。
その、学童疎開「対馬丸」とは、状況を簡単に説明すると、
1944年にサイパン島が玉砕陥落したことにより、米軍は同島から爆撃機B-29を出撃させることで、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになった。
これを受けて、政府より沖縄県知事に宛て本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女・児童計10万人を本土または台湾への疎開させよとの命令が通達され、疎開が行われる事になった。
対馬丸を含む船団は他に和浦丸・暁空丸が居たが対馬丸は他2隻よりも大きな船で、おまけに一番古く大正時代に竣工した老朽船のため、性能は他の船に比べかなり落ち、全速でも13ノットしか出なかった。
疎開に当たり、児童の親などからは軍艦をと要請する声もあったが、日本海軍には既にこれに当てる戦力余裕など無く、民間船舶に頼らざるを得なかったのである。
1944年8月20日、台風による激しい風雨の中5隻は長崎へ向け那覇港を出航した。
乗客の多くは上り下りが出来る階段一つと緊急の縄梯子があるだけの船倉に割り当てられた。また配られた救命胴衣も子供には大きすぎたことなども犠牲者の数を大きくした原因となった様だ。
1944年8月22日、戦闘準備中の沖縄県より疎開のため一般・学童合わせて1788名(対馬丸資料館調べ)を載せ長崎へ向けて航海中、鹿児島県トカラ列島悪石島沖でアメリカ海軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
乗員乗客合わせ1418名(資料館発表、氏名判明者のみ)が死亡した。
22日午後10時、アメリカ海軍の潜水艦ボーフィンは対馬丸に対して魚雷攻撃を行った。
1発目はしのいだが、2発目と3発目が続けざまに右舷に命中した。
魚雷命中により海水が流入、縄梯子は流され、階段へいち早く登った者や暑さに耐えかね甲板に上がっていた者は船倉からは脱出できた。
だがその階段もすぐに海水につかり使えなくなった。
また脱出した者も、舷側が高く恐怖から海に飛び降りることができなかった人が大勢いた。
胴衣をうまく使いこなせず溺れた人もいた。
魚雷命中から11分後、対馬丸は大爆発を起こし沈没。
船の爆風で救命ボートが転覆し、生存者は台風襲来の荒海で漂流しながら救出を待つことになった。
生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍から連絡を受けた奄美大島や鹿児島県揖宿郡山川町(現:指宿市山川町)などの漁船に救出された。
一番長い人は10日間も漂流して救助された者も居た。
犠牲者の亡骸の多くは奄美大島・大島郡宇検村などに流れ着いた。現地には慰霊碑が建立されている。
他の船は爆雷を投下しながら全速力で潜水艦の攻撃をかわした。
船団は漂流者を救助せずその場を去った。
数日後、船団は目的地・長崎港に着いた。
対馬丸が撃沈されたことは、閑古令が布かれた、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。
このため一時は疎開に対する反発などがあったが1944年10月10日の那覇市への空襲があってからは疎開者が相次いだ。
沖縄からの疎開船178隻中、アメリカ海軍潜水艦の犠牲になったのは対馬丸のみであるが、目的は別として、実際は湖南丸(大阪商船船籍。1943年12月21日沈没、乗客の多くが少年兵志願者。乗客・乗員死者684名、生存者5人)、大阪(神戸)~沖縄間の定期旅客船だった嘉義丸(1943年5月26日沈没。大阪商船船籍・乗客500人、死者321名)など沖縄・奄美近海に眠る船は27隻ある。また生き残った暁空丸もこの任務により1945年撃沈された。
和浦丸もまた同年7月20日、釜山港で機雷に触れ座礁した。
疎開した民間人の多くは疎開先の本土(主に九州、鹿児島県や熊本県・宮崎県)や台湾で終戦を迎えた。
戦後も日本政府は永年対馬丸沈没の事実を隠し通していた。
近年ようやく、対馬丸の沈没を認めている。
何故対馬丸遭難を隠す必要が有るのか疑問が残る。
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