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Peace to the pacifism world

10月10日、今日は何の日?

2008年10月10日 15時00分02秒 | 歴史の証言
今日は 10月の10日ですね、皆様は「10月10日」と聞いて何を思い出しますでしょうか?
地域により、それぞれ思い出が違うのでしょうが、年齢層に寄っても違うようです。
沖縄県内のお年寄りに「10月10日」は何の日ですか?とお尋ねをすると、ほぼ100%「10・10空襲」とお答えになります。
そうです、60年も前の大空襲ですね、今は平和な時代ですが(世界では今も戦争で苦しんで居られる地域もありますが)過去の歴史を思い出し反省するのも、平和運動の一つでは無いでしょうか。
今日は、1944年10月10日の沖縄の空襲の歴史を振り返って見ました。
皆様もご一緒に「平和」について考えて頂けると嬉しいです。

「波状爆撃で那覇焼減する。」

 昭和19年(1944年)10月10日、沖縄は初めて米軍の艦載機による空襲を早朝から受けた。
最初の空襲は午前7時頃、約200機の艦載機が飛来、主に小禄、牧港、嘉手納、読谷、伊江島の狙い撃ち攻撃をされた。次いで午前9時頃から10時頃まで、約200機が来襲し洋上の船舶と飛行場が攻撃を受けた。3回目は午後2時前後那覇港や与那原,泡瀬、名護、渡久地、運天港等の港湾施設が猛爆を受けた。
 那覇市が集中爆撃を受けたのは午後1時から3時頃までの4~5回目の猛爆時であった。延べ約300機が来襲、機銃掃射、爆弾投下、ロケット弾の集中攻撃を繰り返し受け、市内のいたる所の家屋が炎上、黒煙と火の海で焦土地獄と化した。
 住民はバケツリレーで消化に当たったが焼け石に水で、巨大な火柱が立ち、ドス黒い煙は翌朝方まで続き、燃えるだけ燃えた後は実に那覇市の90%以上で、約1万軒5万人が焼け出された。

 軍部は何をしていたのか?

前夜は飲めや踊れやの大酒盛りを波上通りの、沖縄ホテルの大広間で何の警戒も無しに盛大に行われた。
長参謀長は酒の勢いに任せて、「敵が攻撃して来たら、せん滅あるのみ」と豪語していたのである。
酒宴は深夜まで続けられてた。将兵の多くは酒気を帯びたまま不覚の朝を迎えていた。

10月10日の大空襲は、軍首脳部の二日酔いかげんの頭上を襲った。
宴会の首謀者、長参謀長は後日進退伺いを出したが受理されなかった。

那覇では、前夜は防空演習が行われ、住民は演習の疲れから深い眠りの中に有った。
朝の静けさを破る騒音を気にしつつも、朝から演習をしていると勘違いをしていたのである。

 其の内にけたたましく鳴るサイレンの音、初めて聞く高射砲の音、地響きと共に聞こえる爆弾の炸裂音で、慌てて飛び起き、空を見上げると、友軍機ではなく、敵の飛行機が那覇の空を飛びまわり、爆弾投下や機銃攻撃が行われているさなかで、初めて本物の空襲と知ったのである。

 10月10日の沖縄初空襲は、軍首脳は全く予測出来ない訳では無かった。
事実、軍首脳は米機動部隊がフイリッピン方面を北上、台湾、沖縄方面に向かっている情報を掴んでいた。
軍参謀長の意向は10月10日に兵棋演習を計画していた。

 「大編隊沖縄の東南方数十キロを進行中」の情報を入手した、現地軍首脳部の驚きは大きかった。

電波感知器(レーダー)に敵機来襲らしいものが感知された時には時すでに遅く、敵機で島の上空は覆い始め、攻撃の第一波は始まった。

米軍は,沖縄戦をアイスバーグ作戦と名づけ,約1,500隻の軍艦と,戦闘部隊と補給部隊を合わせて54万8,000人もの兵員を動員して沖縄戦略を展開する。

 その一環として,1944年(昭和19年)年10月10日,B-29爆撃機など米軍による延べ900機により9時間にわたる激しい空襲(10・10-じゅうじゅう-空襲)が那覇・首里をはじめ宮古島,石垣島,大東島などに敢行された。

 この空襲で,548人が死亡し,家屋1万1,451戸を焼失,那覇の市街地の90%が焦土と化した上,県民の1月分の食糧を意味する30万の米俵を失ったばかりか,貴重な歴史的遺産も数多く焼失した。

  10・10空襲の後,第32軍から最精鋭の第9師団(武部隊)が,台湾防備の強化戦略のため台湾へ移動させられた。

 沖縄守備軍の兵力不足は深刻さを増した、そのため日本軍は1945(昭和20)年の2月から3月にかけて法的根拠もないまま,16歳から45歳までの沖縄県民を司令官命令で招集し,陣地構築や飛行場の建設等に動員するばかりか,戦場にもかりだした。

 (今政府が目論んでいる「憲法9条改憲」で、今度は「日本国民」が同じ運命になるやも知れない。)

 米軍は,1945年3月9日夜から10日にかけてサイパン,グァム,テニアンの各基地から飛び立った300機を超えるBー29で東京を夜間に大空襲,この東京大空襲の焼夷弾投下で東京の下町一帯は火の海となり,江東地区は全滅,約23万戸が全焼し,100万以上の人が家を失い,12万人以上の死傷者を出す大惨事となった。

 焼け跡には「この仇必ず討つ」といったビラが張り出されたが,このころより本土空襲が激化,11日には名古屋14日には大阪(13万戸が焼失),18日から20日にかけては九州各地,つづいて四国,呉が空襲された。高度1万メートルからの爆撃では地上の高射砲は全く役立たず,迎撃用の日本の戦闘機は既になく,国民はただ逃げ惑うことしかなすすべがなかったのです。

 米軍は1945年3月26日に,沖縄西方25キロの慶良間(けらま)諸島に上陸した。

慶良間諸島は大小約20の島々からなるが激しい戦闘が展開される。
住民の多くが住んでいたのが渡嘉敷(とかしき)島と座間見(ざまみ)島であった。

(集団自決問題で教科書検定問題となり、未だ史実が曲げられたままである。)

 米軍の慶良間諸島上陸は,水上機基地・補給基地としての戦略的価値を重視したニミッツ元帥の戦術であった。

 艦船からの猛砲撃後の米軍の上陸で島の住民たちは窮地のたち追い詰められた。
日本軍は海岸地帯に食糧を保管していたため,米軍の上陸でそのすべてを失ってしまった。
 それゆえ日本軍は,住民から食糧を強制的に供出させ,米軍の攻撃に備えて日本軍は壕の中に陣取った。

すでに壕に避難していた住民を追い出してである。そのため住民は裸同前で米兵の前に放り出されることとなった。
 米軍との持久戦を想定した日本軍にとって,住民は足手まといになるばかりか,食糧不足の要因にもなる。
そこで軍は,住民に集団自決を強いるところとなる。

 東条陸軍大臣名で出された「戦陣訓」である、

「生きて虜囚の辱(はずかし)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」という一節に凝縮されている。

 そしてそれは、戦中の多くの「玉砕」、民間人の集団自決などの悲劇を生み出す精神的要因となった。
その結果,700余人が自決する。悲惨(残酷)極まりない地獄絵図が描かれてしまった。
 
 一般的には、戦争や内乱で敵に捕らえられ、その権力(支配)下に置かれた軍人や民兵などの組織的武装集団の構成員(傭兵・スパイを除く)を捕虜という。

戦前の日本では公式的には俘虜(ふりょ)と呼ばれた。

 近代以前、捕虜は殺害、奴隷などの非人道的扱いを受けていたが、その後、人権思想に基づき人道的配慮がなされるようになった。
日本でも明治維新以降、近代国家としての国際的地位の向上を目指す観点から、国際法と欧米での戦争慣習の受けいれに努め、敵国捕虜の人道的保護政策積極的に説いた。

 日露戦争や第1次世界大戦(対独戦)に際しては、日本軍は1899年(明治32年)の「ハーグ陸戦規則」などの国際条約を遵守して、交戦国の捕虜を人道的に取扱った。

しかしその一方で、日本陸海軍の中には捕虜になることは恥辱であるという思想が根強く存在した。

1929(昭和4)年7月、捕虜の人道的待遇を細部にわたって定めた「俘虜の待遇に関するジュ一ネーブ条約」に調印した日本政府に軍部が、「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざる」ものとの理由で反対、結局、批准することが出来なかった。

 こうした軍部の価値観はその後ますます昂揚し、1932年2月、第1次上海事変の際、中国軍の捕虜になった空閑(くが)昇少佐が、停戦後に自決した事件を、「帝国軍人の鑑(かがみ)」と称え、美談として大々的に宣伝され、以後、日本軍の中に捕虜になるよりも死を選ぶことを美徳とする思想が急速に拡大していった。

 その総決算が、41年1月に東条陸軍大臣名で出された「戦陣訓」であるが、

その思想は「生きて虜囚の辱(はずかし)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」という一節に凝縮されている。

 そしてそれは、先の大戦中の多くの「玉砕」、民間人の集団自決などの悲劇を生み出す精神的要因となったのです。

 軍部によるジュネーブ条約の批准阻止から明らかなように、軍隊内でも捕虜の取扱いに関する教育は全く行なわれにばかりか、満州事変以降、捕虜になった中国兵をゲリラあるいは「匪賊」(ひぞく)として現地指揮官の独断で処断することが日常茶飯事となっていた。
 
 731部隊による人体実験はその終着駅といえよう。

 当然太平洋戦争でも、日本政府がジュネーブ条約の「準用」を約束したにもかかわらず、軍部はこれを無視、連合軍捕虜に対する取扱いも極めて過酷なものとなった。

 戦争中、日本軍の捕虜となった連合軍将兵は約35万人、うち英米人捕虜22万人余のうち3万5,000人以上が虐待行為や食糧・医療品の不足から死亡したとされている。

  「鬼 畜 米 英」→戦時標語の一つである。

 敗戦が濃厚になった1944(昭和19)年ごろ国民の間にもようやく厭戦(えんせんー戦争を嫌うこと)気分が出てきだした。

 そこで政府は戦争継続体制維持のために米英に対する敵愾心(てきがいしんー相手に対する憤りや闘争心)を国民に喚起し、戦争に奮い立たせる方策の一環として、かようなスローガンが意図的に広めたのである。

 1944年8月3日マリアナ諸島のサイパン・テニアン島は陥落(守備隊玉砕)したが、翌日の新聞各紙は、米兵が戦死した日本兵の頭蓋骨を子供の玩具にしていると報じるとともに、米英にケモノヘンを付けてと表現した。

 このほか、敗戦直前には本土決戦方針に基づいて「一億玉砕」「神州不滅」などの悲壮にして無意味で残酷なスローガンが作られ広められ、軍は住民に集団自決を強いる事となった。

 米軍は翌年の1945年3月29日までに,慶良間諸島を制圧し,米国海軍軍政府布告第1号・「南西諸島における日本のすべての行政権,司法権を停止し,最高行政の責任は占領軍司令官の権能に帰属させる」を公布(ニミッツ布告)した。

 米軍は本土空襲を続けながら,1945年4月1日午前8時36分,第24陸軍と第3海兵隊を主力とする米太平洋艦隊司令官兼太平洋方面部隊指揮官チェスタール・W・ニミッツ大将配下の,サイモン・B・バックナー中将の率いる将兵18万2,000人を擁した第10軍が沖縄本島中部西海岸(読谷・嘉手納)に上陸作戦を敢行する。

 迎え撃つ日本の沖縄守備軍・第32軍は,第24師団(山部隊),第62師団(石部隊),独立混成第44旅団(球部隊)のほか,いくつかの砲兵部隊を主力とする陸軍8万7,000人・海軍1万人,それに沖縄県民義勇隊2万2,000人(米軍兵力の約4分の1)に過ぎなかった。

 日本軍が水際作戦を放棄したことと,米第2海兵師団が南部から上陸しようとみせかける陽動作戦に,日本軍が完全にはまり中部戦線が手薄になって,わずか1時間内で1万6,000人の兵士が沖縄本島中部西海岸(読谷・嘉手納)から無血上陸に成功した。

 米軍はまさに「ピクニック気分」で上陸作戦を完了できたのである。

 しかしその後の戦闘は雨季とかさなり,悲惨を極めることとなる。

そしてそれ以後3カ月間にわたり,戦略的に何の意味もない絶望的な戦いが展開された。

 米軍の沖縄(当時の沖縄の人口は約45万人弱)本島上陸の目的は,日本の一部を占領するといった事実を日本帝国に突きつけるという決定的な意義とともに,沖縄を基地化することにより米軍が完全に南西諸島の制海空権を確保し,日本本土の攻略に備えるという戦略的な意義があった。

 やすやすと米軍の上陸を許した戦力的に劣勢の日本軍は,持久戦に備え,守備軍司令部のある首里を防衛するため,主力部隊を首里近郊の地下陣地などに集結させるため,読谷の北飛行場,嘉手納の中飛行場(現在の嘉手納空軍基地)を放棄せざるを得なかった。

 その結果米軍は,上陸日の午前中には両飛行場を占領するともに,東海岸沿い進撃し,1945年4月3日には沖縄本島を南北に分断することに成功する。

 南北に分断したあと,北部に向かった米軍は,4月13日には北端の辺戸まで進撃,17日までに北部地区守備隊として配置されていた国頭支隊の本拠地八重岳を制圧し,20日ごろには本島の北部全域を占領する。

 1945年4月16日からは,伊江島で飛行場をめぐって日米軍の激しい戦闘が始まった。

 当時伊江島には約2,700人の日本軍が駐屯していたが,この正規軍だけでは兵員不足は明らかであった。

そのため住民の中から防衛隊,青年義勇隊,女子協力隊など称して,1,200人を動員するところとなる。いわゆる「根こそぎ動員」である。(憲法9条を変えさせると同じ運命が待ち受けるかも)

 攻防戦は実に1週間に及んだが圧倒的武器・兵員の前に日本軍は全滅し,防衛隊員や女子協力隊員も爆雷や手榴弾を持って体ごと米軍の戦車に突撃していった。

 伊江島での日本人の犠牲(戦死)は4,706人に達した(米軍も日本軍や住民の予想外の抵抗で,1,120人の死傷者がでた)が,そのうち約1,500人は地元住民であった。
 そのうえ,島の壕(アハシャガマ)では100人余の住民の「集団自決」も起こった。

 北部戦線で敗走した日本軍の敗残兵は国頭の山中を転々と逃げ延びていたが,各地で住民から食糧を強奪,その上,住民をスパイよばわりして虐殺したりと盗賊まがいの行動をするものまで出た。

 上陸後,沖縄本島を南下した米軍は,4月7日に牧港・嘉数・我如古・和宇慶を結ぶ日本軍陣地前面に到達したが,ここで初めて日本軍の猛烈な反攻に遭遇するところとなった。

 日本軍は体に爆雷をかついで米軍戦車に体当たりしたり,闇夜にまぎれて米軍陣地に切り込む等の玉砕戦術で米軍に抵抗した。

(イスラム戦線の自爆テロと同じ方法?)

 特に首里北方の嘉数高地と前田では40日余り一進一退の激闘が続いた。

 1945年5月3日以降,日本軍は2度の総攻撃を行ったが,米軍の圧倒的な近代兵器と物量の前で苦戦。この時点で,日本軍は主力部隊3個師団の約85%に相当する6万4,000人の戦死者を出し,大部分の兵員を失った。

 完全敗北は火を見るより明らかであったが,捨石戦である沖縄戦,絶望的な戦いは1945年5月中旬から下旬にかけても続くこととなる。

 日本軍の玉砕戦術で米軍の被害も甚大で,米第6海兵師団は那覇市安里の北側丘陵地での9日間「シュガーローフ」(現在の那覇新都心天久の水タンク付近)の戦いで2,600人を超える戦死者と1,300余人の戦闘恐怖症による精神障害者をだした。

 悲惨な戦いの最中,九州・台湾の日本軍は,7,800機の航空機で沖縄航空特攻作戦(「菊水作戦」)と,日本海軍のシンボルであった不沈戦艦「大和」を中心とした海上特攻作戦を敢行したが,効果なく,1945年4月7日大和は九州の南方海上で藻くずとなる。

 それは日本海軍の壊滅を意味する象徴的な出来事であった。

 日本軍の主力である第32軍司令部は,首里城の地下に堅固な陣地壕(通称「天の岩戸戦闘司令所」)を築いて,そこで牛島満司令官,長勇参謀長,八原博道高級参謀などの軍首脳部が作戦指揮にあたっていたが,1945年5月下旬,司令部は北・西・東の三方から米軍に包囲されて袋のねずみとなる。

 完全に包囲された司令部では,例によって「玉砕」か「降伏」かの論議の後5月22日,南部の喜屋武半島への撤退を決定する。

「玉砕」でも「降伏」でもない,持久戦術であったが,それは捨石戦である沖縄戦を引き伸ばす(本土決戦への単なる時間稼ぎの)ための作戦を意味した。

 1945年5月27日,日本軍首脳は司令部壕を放棄し,南部の摩文仁(まぶに)へ撤退を開始,1945年5月31日,司令部壕は米軍の手に落ちた。

 だが,小禄飛行場(現那覇空港)の大田実司令官率いる海軍部隊は撤退せず,6月6日米軍の攻撃をうけて全滅する。

 第32軍が撤退した沖縄本島の南部一帯には自然壕が多く,米軍の攻撃から見を護るため,当然のことながら沖縄住民の多くはこうした壕に避難していた。

 そこへ敗走した日本軍兵士と,軍と共に南部へ移動した多くの避難民が入ったため,喜屋武岬一帯の東西10㎞足らずの地域に,約3万人の将兵と10万人余の住民がひしめく大混乱状況をきたした。

 1945年6月初旬米軍は,海からは艦砲射撃,空からは飛行機の爆撃や機銃掃射,陸は戦車を先頭に,火炎放射機を中心とする火器を使用して掃討作戦を展開する。おびただしい犠牲がでたことはいうまでもなかった。

 そして1945年6月17日までに米軍は,摩文仁岳の日本軍司令部壕まで前進してきた。

 1945年6月18日には米軍のバクナー中将が,牛島司令官に降伏勧告状を送ったが,牛島司令官はこれを拒否し,第10方面軍宛に訣別電報を送る。

(バクナー中将も,真栄里で日本軍との砲撃戦で戦死する。)

 またこの日、第3外科配属のひめゆり部隊が伊原の壕内で最期を遂げる。

 決別の電文送信の翌19日,牛島司令官は,「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し,最後まで敢闘し,悠久の大儀に生くべし」と命令を出し,23日未明,長勇参謀長と共に,摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決をした。

 その2日前6月21日,米軍はニミッツ元帥の名で沖縄戦の勝利を宣言していた。牛島司令官自決の日6月23日は,日本軍の組織的抵抗が終了した日を意味するが、戦闘はその後も続いた。

 沖縄戦が終了したのは1945年9月7日の降伏署名で正式な戦闘終了となる。

 想像を絶する戦争の最中、命を守る為に逃げ惑う住民がたやすく自決する事は考えられない。

 足手まとい、軍の機密防衛等難癖を付けて、軍は住民に集団自決を強いた事は、容易に想像がつく、憲法改正、国民保護法等戦時体制の取れる様な法律制定の為には、有を無にする必要が有りとする、政府のあがきが見えている。

 法律が制定されて仕舞うと「反対者や異論を唱える者」は、国は弾圧出来るようになる、それから反対や反省しても遅い、行動は今しかない。

今の日本の平和は、尊い多くの命のお陰であり、二度と同じ過ちを犯さない様、国民は政府の動向を注視する必要が有りはしないだろうか、今一度皆で考えて見てください。

最後までお読み頂き有難う御座いました。
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