tokyo_mirage

東京在住・在勤、40代、男。
孤独に慣れ、馴れ、熟れながらも、まあまあ人生を楽しむの記。

1本1000円の洗剤「風呂職人」を使ってみた

2014-04-16 23:00:00 | 今日の出来事
アンケートモニターのポイントや何やかやで、アマゾンのポイントが溜まった。
その使い道でいいのが思いついた。前から気になっていたこれ。「風呂職人」



何かの番組で「掃除好き芸人」が「汚部屋女優」の家の風呂を掃除するのに使っていたので知った。
東急ハンズで現物を見つけたが、500mlのスプレーボトルが1000円。
これはお高い。通常の風呂用洗剤の5倍はするのではないか。
その場では買うのが躊躇われたが、
もともとあってもなくてもいいようなポイントで稼いだ1000円なら、使うのに躊躇しない。
ちなみに、アマゾンなら、送料込み・税込みで999円。

パッケージには、
「比べてください!会議室で作られた他社洗剤と、現場で汚れを落とす為に職人が作った洗剤」
などと、なかなか挑発的なフレーズが躍っている。

僕が落としたかった汚れはこれ。洗い場の床(INAXの「サーモフロア」。取扱説明書によると表面の材質は「アクリルウレタン」)。ちょうどイスと洗面器をいつも置いて使っているあたりが黒く汚れている。普通の風呂用洗剤や重曹、クリームクレンザーを使ってタワシでゴシゴシ…では落ちず、困っていた。床全体に水を撒いて充分に湿らせた後、まんべんなくスプレー。そして数分置き、タワシでゴシゴシ。

正直、期待したほど劇的には汚れは消えない。タワシで擦るそばからあれよあれよ…と白くなるかと思ったけど、そんなことは起きない。それでも擦り続けるうちに、徐々に白くなっていくような気がする。この汚れはいったいなんなの?と、爪で引っ掻いてみると、汚れがこそげ落ちる。もともと爪で引っ掻けば落ちるような汚れだったのか?それとも、これこそがこの洗剤の効果で、汚れが溶けて浮かび上がってきたのか?ちょっとわからない。しかし、この広い面を全部爪で引っ掻いていくわけにもいかず、ほどほどで打ち切りにする。20分以上はゴシゴシやっていただろうか。汚れはまだ目立つが、それでも、このビフォーアフターの写真でも、だいぶ綺麗になったのがわかる。この洗剤の効果なのか、いつもより念入りにゴシゴシやった効果なのかは不明だが、近年になく綺麗になったことは間違いない。

<後日追記>
ゴシゴシたわしを動かしていた最中は、文字通り「近視眼的」になっていたので、
まだまだ汚れが残ってるじゃないか」と不満に思ったものだが、
日が経って、ふと浴室の床に目をやった時など、「あっ、やっぱり綺麗になってるな」と思う。
今までにない「白さ」を呈している。
この洗剤、金額だけのことはあると認めよう。

ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 一人暮らしへ

『やこうれっしゃ』だ!

2014-04-16 22:59:00 | 今日の出来事
地元の図書館で本を借り、ふと「リサイクル本」コーナー
(古くなって登録抹消された所蔵本が「ご自由にお持ちください」と置かれているコーナー)
を見たら、なんとそこに『やこうれっしゃ』が!

子どもの頃読んだ絵本で、記憶に残っている1冊だ。
夜行列車が冬の夜の上野駅を出発し、ページをめくるごとに断面図で各車両の様子が描かれながら、
夜更け・明け方と時間が経過していき、翌朝の金沢駅到着とともに、先頭の機関車の絵に達し、
1冊が終わる。文章はひとつもない。

絵本としてのアイデアが秀逸だし、絵のタッチも素朴で精緻で好ましい。
鉄道全盛期の夜汽車の活気も伝わってくる。

この列車はおそらく急行「能登」号だと思うが、
僕はこの車両を、機関車から客車・荷物車まで、Nゲージで1編成持っている。
単に模型を持っているだけでは面白くない。そこに「物語」があると楽しみが広がる。
その「物語」こそ、まさにこの絵本だ。

もちろん、頂いてきました。


ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 一人暮らしへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 30代の生き方へ にほんブログ村 ライフスタイルブログ おひとりさまへ

原鉄道模型博物館

2014-04-14 23:00:00 | 今日の出来事
仕事で横浜に行く用事があったので、中華街で昼食をとった後
(会社の近所の中華料理屋と変わらない味だった)、寄ってみた。原鉄道模型博物館
開館してもう2年近くになるのか。平日ならそんなに混んでないだろう。
みなとみらい線を新高島で下り、地上に出ると開発途上の原っぱがあり、
その向かいに建っている立派なオフィスビルの中にそれはあった。

この原さんという人(現在、御年95歳!)は「鉄道マニアの祖」とでも言うべき人のようで、
どういう資格があってかわからないがドイツの特急電車を自ら運転してしまったり、
東海道新幹線の開業一番列車の切符「0001」番を求めて窓口に泊りがけで並んで
当時のマスコミに報じられたりと、かなりの「筋金入り」だ。
模型も5歳から作り始めたというから恐れ入る。
陳列されている模型車両も国内より海外のものの方が多い。
そのあたりが並みの鉄道マニアとはだいぶ違う。だいぶ「やんごとない」感じがする。

1/32スケールの列車が走るレイアウトが展示の一番の山場だ。大きめの車両が走るのは確かに迫力があるが、「ミニチュアならではの精巧さ」からは少しかけ離れてしまう気もする。「大味」と言ったら言い過ぎだろうが、この同じ大きさのレイアウトで、より精緻なNゲージの車両が走っていたら壮観だったろうな、とも思う。開館時にはいろいろな番組でこのレイアウトが報じられていたが、正直、その映像で見ていたもの以上の発見はあまりなかった。照明の変化で朝・昼・晩の時の移ろいを表現する趣向は悪くないが、薄暗い「夜」の時間が少し長すぎる。それはもうひとつのレイアウト「横浜ジオラマ」についても言える。1000円という入館料もちょっと高いかな。


ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 一人暮らしへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 30代の生き方へ にほんブログ村 ライフスタイルブログ おひとりさまへ

東久留米七福神を歩く

2014-04-12 23:00:00 | 旅と散歩と山登り
昨年は春の同じこの時期までに、茨城の散歩群馬の旅静岡の旅をこなしていた。それに比べると、今年は動きが鈍い。旅も散歩も“昨年比2割増”くらいでやりたいものだ。
12:00 西武池袋線・東久留米駅西口に下り立つ。駅舎の屋根の上は「富士見テラス」と名付けられていたが、そこから富士山は見えなかった。しかし天気は良い。この季節に吹きがちな強い風もなく、穏やか。ここを起点に「東久留米七福神」をめぐろうと思う。

まだ何も植えつけられておらず、土がむき出しになった畑がある。菜の花の畝がある。その向こうを菜の花と同じ色の西武線が行く。あたり一帯にコーヒーの香りが漂っているなと思ったら、そばにコーヒー豆の挽き売りの店があった。

川を渡る。黒目川。黒目≒久留米で、東久留米の市名の語源だそう。

12:14 大圓寺(恵比寿・福禄寿・寿老人)。この寺に七福神の3つの神様がまとまっているため、今日回る寺は全部で5ヶ寺ということになる。

山門の中には七福神すべてが安置されている。つまり、これから歩き回らなくても、ここだけで七福神めぐりができてしまうというわけ。

その山門を振り返る。様々な花木が彩りを添えている。山門の脇には、無縁墓だろうか、墓石がびっしり集められていて、塚をなしていた。

再び黒目川に出る。沿って歩く。

水が綺麗なのだ。鯉がいる。川底までくっきり見通せる。

落馬橋(「おちうまばし」でも「らくばばし」でもなく、「おちばばし」。「湯桶読み」って言うのかな、音訓ばらばらでしっくりこない)で左折、黒目川を離れ、高校(東久留米総合高校)の脇を通る。体育館の外でトレーニングウェア姿の女子たちが弁当を食べている。楽しそうな食事だな。この高校の制服は真っ黒なブレザーで、見た目がとても重苦しく、この季節には合わない。

ゴミ回収ボックス。東京の市部ではよく見かける。住民同士でどのような合意を取りつけたのか、アパートなどの共同住宅ではない戸建て住宅でも、敷地の一部が切欠きされて、これを置くスペースがきちんと確保されている。

12:40 本堂より先にまずこの巨木が目を奪う。米津寺(布袋尊)。

広い境内には誰もおらず静か。

畑と住宅が混在する、典型的な郊外の風景の中を行く。

民家の庭の桜を塀越しに望む。ソメイヨシノでなければ、今が見頃という桜はまだまだある。

13:03 多聞寺(毘沙門天)。「七福神めぐり」というと、山里や路地裏の小さなお堂・お社ばかりだったりすることもあるのだが(それはそれで味があるのだが)、今日めぐっている寺は、どれもとても規模が大きい。檀信徒向けの大きな会館も併設されていたりする。この後訪ねた寺も含め、5ヶ寺すべてが立派な構えだった。

本堂の正面、参道の竹の使い方が洒落ている。

再び川にぶつかる。今度は落合川。都内で唯一、環境省の「平成の名水百選」に選ばれたそうで、こちらの水も綺麗。

水際が近いのだ。子どもたちが水の中に入って遊んでいる。これが大事だと思う。コンクリート護岸にして、柵を張りめぐらして囲って、水面を遠ざければ遠ざけるほど、その川への愛着はなくなり、汚すことに抵抗がなくなるのではないか。「親水」とはよく言ったもので、水への距離が縮まって親しみが増すほど、その川を大切にしようという思いも強くなるのではないか。

13:27 落合川から少し離れ、竹林公園。武蔵野の面影を残すために、1974年に公園として整備したそう。3600㎡というから、だいたい60m四方ということか。竹林の脇からは水が湧き出ていた。ここから生まれた流れも、家々の裏を通って、落合川に注ぐ。

再び落合川沿いを行く。西武池袋線をくぐる。この交差ポイントは、後で線路沿いに歩いた時にもう一度通った。

落合川にも鯉の群れがいる。鴨も水中に首を突っ込んで水底をつついている。お尻を水面に突き出した姿が可愛い。

流れにそよぐ水草の緑色も鮮やか。

不動明王が祀られた祠がたもとにある不動橋で落合川を離れる。
13:57 浄牧院(大黒天)。この寺の境内も広々としている。樹齢400年という大ケヤキもある。大黒天は本堂ではなく寺務所に安置されているようなのだが、民家のようなサッシ戸を開くのがためらわれて、拝まずに済ませてしまった。

広場の遊具がどこか懐かしい感じのする団地の中を行く。

14:14 最後の寺、宝泉寺(弁財天)。毎朝6時に勤行を行っていると貼紙がしてあった。きちんとした宗教家のいる寺なんだな。

また黒目川沿いを行く。流れの中に鷺が立っている。ズバリ、今日の七福神めぐりの裏テーマは「都内ではなかなか得難い、清らかな流れに親しむ散歩」である。

14:34 なぜかオペラ調の「桃太郎」がスピーカーから流れている商店街を抜け、東久留米駅東口に戻る。歩いたのはここまででおよそ9km。駅前の日高屋のショーケースを見ていたら、無性に中華そばが食べたくなり、動けなくなった。ラーメンを食べたくなることなど滅多にないのに。390円と安いし、夕食を脅かすほどのボリュームでもないので、食べていくことにする。

ラーメンも食べたし、もう少し歩こうと思う。線路沿いを行く。この背後にはインターナショナルスクールがあり、外国人の生徒がバスケットボールに興じている。

瓦屋根の家々が建ち並ぶ落ち着いた住宅街を行く。どこか昭和末期の懐かしい感じもする。都下の住宅は、23区の住宅と違い、建ぺい率が低めで、ゆったり建っている。あの、壁同士がくっついた息苦しさがない。

15:23 ひばりヶ丘駅。ままごとのようなネーミングだけど、使われ出してから年数が経つと、これでしっくりきてしまうのだから不思議だ。

車が来ない路地裏の暗渠を行く。人間サイズの横幅が落ち着く。地面を緑一色に塗りたくるのはどうかと思うけど。

電車を撮ってくれと言わんばかりの視界の開けたカーブにある踏切。ちょうど特急電車が来た。

16:02 保谷駅の車両基地。歩道橋で越える。

保谷からは東に向かう西武池袋線を離れ、南に進路を取る。「いなげや」でペットボトルのミルクコーヒーを買う。レジ袋を断ると2円引きになる。消費増税分を取り戻した気になる。道沿いにはいい面構えの銭湯が。

西武池袋線を離れたのは、練馬区石神井台にある巨大園芸店「オザキフラワーパーク」に立ち寄りたかったから。しかし、事前の自宅での地図の確認が甘く、あてずっぽうに歩いていたら、どうも辿り着く気配がない。ガソリンスタンドのお兄さんに尋ねると、まったく違う方向であることが判明する。簡単に道案内してもらえるような距離でもないので、「あっちの方」というだいたいの方角だけ聞いて、そちらに向かう。自然と早足になる。そうしてようやく店に着き、いろいろ見て回るが、さすがに歩き疲れたのと、大きい・重い商品は特に、持ち帰りに難があるので、あまり深く品定めはできなかった。
17:30 店を出て、石神井川沿いを歩く。八重の桜が咲いている。日が傾いてきた。「夕焼け小焼け」のチャイムが鳴る。

ドサまわりの歌手がこれで地方を巡業するんだろうか。住宅街の駐車場に停められた大型バス。旅芸人の暮らしに少しだけ思いを馳せる。この車のナンバーが、意外な地方のものだったが、どこだったか忘れてしまった。

17:44 西武新宿線・上井草駅が見えてきた。そこでゴールとする。今日歩いたのは全部でおよそ20km。

※今回の七福神歩きで参考にした本は『東京ありがた七福神めぐり』。地図がとてもわかりやすく、道々の様々なポイントの写真も載っていて、「歩いて巡る」ことについてよく考えられて作られている。

ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 一人暮らしへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 30代の生き方へ にほんブログ村 ライフスタイルブログ おひとりさまへ

吉田潮の「いいともフィナーレ」批判はなぜ的外れなのか

2014-04-06 12:11:07 | 物申す
「『いいとも』フィナーレ、壮大な内輪ウケのうんざり感と、沈む大きな船には乗らないタモリ」
(吉田潮/ライター・イラストレーター)

主要なテレビ番組はほぼすべて視聴し、「週刊新潮」などに連載を持つライター・イラストレーターの吉田潮氏が、忙しいビジネスパーソンのために、観るべきテレビ番組とその“楽しみ方”をお伝えします。

壮大な内輪ウケの1週間がようやく終わった。「タモリさん、おつかれさまでした」の言葉とは裏腹に、タモリをさしおいて自分たちの感情論と世界観を広げようと躍起になるタレントやB級アイドル、芸人たち。それがまた時代遅れというか、オワコン感もたっぷり。ホント、こういうのは打ち上げで居酒屋とかでやってくれよ、という内容だった。何がって、『笑っていいとも!グランドフィナーレ』(フジテレビ系/3月31日放送)である。

先週から最終回までの通常放送でも、記念写真撮るわ、出演者の思い入れだけで構成するわ、やりたい放題好き放題。視聴者は完全に置いてけぼり。それでも許されるのは「32年間単独司会者」「生放送8054回」という偉業があるからこそ。視聴者はこの数字によって、心のハードルを下げて、ちょっと優しい気持ちで見守るだけの余裕があったのかもしれない。好意的な目で観る人も多かったようだが、個人的にはなんかちょっと違和感。

そもそもこれだけ盛り上がるくらいなら、視聴率も取れていたはず。裏番組の『ひるおび!』(TBS系)に流れたり、『ヒルナンデス!』(日本テレビ系)派になった人が、急に「いいとも!終了」に乗じて、感動するフリをしているのだから。たぶんこういう人たちが佐村河内守のCD買ったんだろうな。

生ぬる~く見守ってきたこの1週間だが、胸のすく瞬間はあった。

まず、『いいとも!』派閥に属さないビートたけしの「猛毒表彰状」。これは外様だからこそ言えることであり、たけしだからこそ言えることでもあった。ぬるい温度でダラダラと内輪ウケしている流れに、ひと盛りの毒。かなり効果的だったと思う。

同日のテレフォンショッキングでは、たけしとタモリで、先輩・大橋巨泉に罵詈雑言。テレビ局の玄関先でやたらと先輩風を吹かせて、売れている後輩に営業する巨泉のことを「玄関先で仕事するなんて、田舎のニワトリのようだ」と評したタモリ。しみじみ。タモリのこういう表現力がハッとさせるんだよなぁ。こはぜがのどを駆け巡る瞬間、である。

●壮大な内輪ウケ感を醸し出す人々

そして、『グランドフィナーレ』で延々と同じことをしゃべる明石家さんまには辟易した。ここ10年ほど、さんまを面白いと思ったことが一度もないし、タモリをねぎらうどころか「笑いの指導」までし始める始末。タモリもそんな昔のボケ作法など覚えているはずもないし、それを強要するとは。イライラ&うんざりが頂点に達し、チャンネルを替えようかと思ったその瞬間、ダウンタウンが出てきて鋭くツッコミ。この時ほど、胸がすいたことはなかった。ありがとう、浜ちゃん!! すっきりしたわ~。この時点でたぶん多くの視聴者の溜飲が下がったと思われる。その後、爆笑問題やらとんねるずが出てきて、またうんざりが上昇しはじめたのだが。

吉永小百合が中継で出ようが、SMAPが微妙な歌声を披露しようが、特別感も感慨もなかった。涙腺もほぼ刺激されず。歴代レギュラーのスピーチも延々やることかどうか疑問。

この壮大な内輪ウケ感を醸し出した人々は、ちょっぴり終焉の信号が点滅中でもある。沈みゆく船に乗っている人々。視聴者はうすうす気づいているけれど、この船に実はタモリは乗っていない。タモリは最初っから大きな船には無関心で、無頼派。タモリだけは初めから手漕ぎの小さな救命ボートに乗って、大海に浮いているのだから。

しかし、関根勤の「芸能界的顔面オーバーリアクション愛想笑い」は職人技の域だよね。(Business Journal)



僕はあの「フィナーレ」を見ていて、しみじみ心を動かされた。
いまだに不意に「ウキウキWATCHING」が頭の中に鳴り響いてしまうことがあるくらいだ。
(YouTubeに上がっている「ウキウキWATCHING」の再生回数が、ここ何日かで激増している。
 僕と同じような喪失感を抱えている人は多いのだろう)
でも、あれに感動できなかった人に対して、「感動しないのはおかしい」などと言うつもりはない。
番組への思い入れの「個人差」の問題だからだ。
長寿番組の終焉だからって、無条件に称賛したり、感情移入したりする必要はない。
僕だって、たとえばNHKの超長寿番組『のど自慢』が終わるとしても、何の感慨ももたないだろう。
思い入れがないからだ。
だから、あの「フィナーレ」を楽しめない人だっているだろうとは思う。
何を感じるか、何を言うかは自由である。

しかし、この吉田潮のコラムについては、「的外れ」という批判が浴びせられるべきだと思う。
なにしろこのコラムは、不遜にも、「観るべきテレビ番組とその“楽しみ方”をお伝えします」
などと謳って憚らないからだ。その書き手、ましてプロの書き手ならば、
当然テレビに対する慧眼を持ち合わせていなければならないのに、
このコラムにはそれがまったく見受けられない。
ただただ、度し難い「認識のズレっぷり」への違和感が込み上げてくるのみ。

言ってみれば、このライターは、たとえば『水戸黄門』というドラマに対して、
「悪人に最初から印籠を突き付ければ簡単に解決するのに、
 終盤になるまで出さないので、無駄に1時間を過ごした」
と批判してみせたり、あるいは、プロレスに対して、
「相手にコーナートップに上がられたら避ければいいのに、その場に立ち尽くしているから、
 ミサイルキックを浴びる羽目になる。実にわざとらしい」
などと批判をしてみせ、その自分の指摘の安上がりな“正論ぶり”に酔い痴れて、悦に入っている。
そんな空気を感じるのだ。

多分このライターは、その世界ごとにある「文脈」とか「様式美」というものを理解できないのだろう。
半径数メートルにしか届かない自分のアンテナで検知できることが、自分のすべて。
これが、ズブの素人や、異文化圏から来たヨソ者の発言なら、「素朴で正直なツッコミだね」で済む話だが、
TVウォッチャーを自認してこのコラムを書いているのなら、「見識が低い」と言わざるを得ない。

「内輪受け」と彼女は批判する。

その言葉の裏には、「視聴者たる自分は、彼ら出演者とは無関係の、外側の人間である。仲間ではない」
という認識があることが前提になるわけだが、『いいとも』の32年間という放送年月、
ひとりの人間が生まれて・成長して・成熟していくに充分なほどの長い長い年月を考えれば、
自分たちもその「内輪」の同士である、という思いに駆られる視聴者が数多くいたっておかしくない。
あの「フィナーレ」にあったのは、
「あなた(出演者)は面白いショーを見せてくれる人 / 私(視聴者)はそれを享受する人」
という分断の関係ではなく、自分たちもその場の「参加者」であるかのように思えたほど、
共感の渦で渾然一体となった関係だったのだ。
それは視聴者側だけの意識ではなく、出演者側についても言える。
彼らの多くが、出演者である以前に、この番組の視聴者である時期があったはずだから。
視聴者は出演者の意識を共有でき、出演者は視聴者の意識を共有できていたのだ。

つまり『いいとも』というのは、「出演者/視聴者」「内輪/外野」という区分けが意味をなさなくなるほど、
数多くの人々の記憶に、生活に、もっと言ってしまえば「人生に」沁みわたってきた、
実に稀有な存在の番組だったのだ。
「フィナーレ」で起きていたことの表層だけを見て取れば「内輪受け」と見えてしまうことが、
「内輪受けだって別に構わないじゃないか。そもそも俺たち視聴者も、まるで『内輪』の中にいるようだし」
と温かく許容されてしまうほどの。

その「内輪」に入れず疎外感を覚えるのは勝手だが、だからと言って、
物を知らずに外野から内輪を批判してみせるのは「野暮」というものだ。
このコラムは、そのおのれの「野暮」さに気づけていない。そこがなんともイタい。
番組の32年間・8054回の連綿たる軌跡への感動と、佐村河内のチープで笑止な自己演出への感動を
同一視してみせるような粗雑な筆致にも呆れてしまう。

登場したお笑い芸人たちに対する認識も首を傾げる。

彼らはまさしく「芸人」であって、あの場で演じていることは「芸」であるのに、
どうやらこのライターはそれを「真に受けている」らしいのだ。

たけしの表彰状を「外様だからこそ言える、たけしだからこそ言える」と評している。
あのスピーチがあたかも、たけしの「純然たる本音」であるかのように見ているようだが、
たけしは表彰状を読み上げる冒頭でこう煙に巻いていたではないか。
「これはゴーストライターが書きました」と。
たけしは、「本音のスピーチをしに」あそこに来たのではない。
たけしという「役割を果たしに」、あの「芸を披露しに」あそこに来たのだ。
それが、芸人の「同士」であるタモリに対する、彼なりのはなむけである、と理解したうえで。
(もちろん、本音の垣間見えない芸が人の心を打つことはないから、
 一服の本音があのスピーチに含まれていることは間違いないが)

さんまに対する、「タモリをねぎらうどころか『笑いの指導』までし始める始末」という理解も、
見当はずれも甚だしい。
確かに、さんまが神妙に言葉を選びながら真顔でタモリをねぎらう姿も見てみたくはあるが、
それは彼のキャラクターではないし、彼に求められる芸でもない。
そのかわりにさんまは、番組の往年の名コーナーのノリをそこに再現してみせ、
ともすれば「タモリ礼賛」に転んで“こそばゆく”なりがちなあの場の空気を、
制限時間も無視したオーバーなハイテンション芸で振り払ってみせた。
それはさんまの芸の真骨頂とでも言うべきものだし、
タモリとともに「お笑いBIG3」の一翼を担う彼のポジションだからこそできたことだろう。
台本どおりの尺に整然とトークをおさめ、ADのカンペに従ってさばさばとステージを去っていくさんまを、
誰が見たいだろうか?
過剰すぎるくらいが彼の持ち味なのであって、その持ち味をここで披露しないで、
同士・タモリに対する一世一代のはなむけになろうはずもない。
(さんまのこの溢れんばかりの“サービスてんこ盛り”精神は、後に登場する松本の
 「昨日は『パッとやって、パッと帰るから』と言ってたくせに、嘘ばっか!」
 というツッコミで、さらに裏打ちされることになる)

さんまのトークに乱入した浜田のツッコミも、「ボケ」あってのツッコミ、
「ボケ」を引き立てるためのツッコミなのであって、さんまの「延々と終わらないトーク」というフリ、
客席の清水ミチコのモノマネの不発(マイクが付いていなかったから仕方がない)を見極めての
絶妙なタイミングでの登場、これらは、芸人たちのチームワークが織り成す「一連の芸」なのに、
このライターはそれを見て、ただ「イライラ」としか感じられなかったわけだ。
どうやら浜田に対して、本気で、「さんまを止めてくれてありがとう」と思っているみたい。
なんたる浅はかさか。

その後の、松本の「とんねるずが出てきたらネットが荒れる」というフリ、
それに見事呼応し、「殴り込み」をかけて登場してきたとんねるずと爆笑問題、
ゆえに成立した「奇跡のステージ」。
これは間違いなく、番組の白眉のひとつであった。
TVウォッチャーでなくとも、誰のファンとか誰のアンチとかを抜きにしても、
並みの「テレビ好き」ならみな固唾を呑んだあの場面を、
このライターは、「爆笑問題やらとんねるずが出てきて、またうんざりが上昇しはじめた」と、
(どうでもいい個人的感想を)ただ1行記すのみ。
その救い難い「読解力」の欠如については、もはや、言葉もない。
果たしてこの人にテレビを語る資格はあるのだろうか?
「自分の好き嫌いを書けば批評になる」と思っている、その程度の次元で。

極めつけの勘違いは、これである。

「この壮大な内輪ウケ感を醸し出した人々は、沈みゆく船に乗っている。
 この船にタモリは乗っていない。タモリだけは初めから救命ボートに乗っている」

僕があの「フィナーレ」でいちばん胸を打たれたことは何かと言えば、
番組の後半、共演者たちのスピーチをひとりひとり聞いていたときの、あのえも言われぬ、
タモリの表情の「優しさ」だった。
僕らはタモリと言えば、クールでドライでシニカルなところが持ち味の芸人と思っていたのに、
これほど温かく、柔和で、品があって、包容力のある、優しい表情を浮かべているなんて!

共演者たちのスピーチは続く。そこでさらに、はっと気づく。

『いいとも』のオープニングでも、『Mステ』でも、まして、『タモリ倶楽部』のオープニングでさえも、
トレードマークのように常に必ずハンドマイクを握っていたタモリさんが、
今はもう、マイクを持っていない。
タモリさんはついに「マイクを置いた」のだ!
番組は終わってしまうのだ…!

…さて、その時のタモリは、まんまと逃げおおせた「救命ボート」の上から、
「沈みゆく船」に乗り合わせた人々を冷ややかに見つめている、そんな眼差しを浮かべていただろうか?

タモリの瞳はサングラスの奥に隠れていて、その真相はわからない。
真相をサングラスの裡に秘めておくことこそが、タモリの一貫して変わらないスタイルであり、美学であり、
その意味するところは、僕らの想像に委ねられる。

でもね、吉田さんよ、あなたの目は間違いなく「節穴」だと思うよ。


<追記>

実はこの吉田潮のコラムについて、僕などが長々と反論を書く必要はなかったのだ。
反論はすべて、あの「フィナーレ」の出演者の発言の中にあったのだから。

吉田が嫌悪感しか抱けなかったドタバタ、カオス状態に対しては、勝俣州和のこの言葉が。

「スタッフに常に言われてたのは、リハ通りにやったらつまらないということですから。
 今のが『いいとも』の集大成だと思います。メチャクチャにすることが『いいとも』のライブですから」


終わることが決まっている番組に対して、視聴率がどうだの、オワコンがどうだの、
「だから終わるんじゃないか」という、反論のできないトドメを刺す批評の仕方は、
批評としてとても「はしたない」と僕は思うが、
だからこそ、「終わり」を覚悟して受け入れた、SMAP中居のこの言葉が光る。

「バラエティーって非常に残酷なものだなと思います。歌の世界にはライブの最終日があって、
 ドラマにはクランクアップがあって、映画にもオールアップがあって、
 ゴールに向かって、それを糧にして進んでいくものだと思います。
 でもバラエティーは、終わらないことを目指して進むジャンルなんじゃないかなと。
 覚悟をもたないといけないジャンルなんじゃないかなと。
 バラエティーって、ゴールのないところで終わらなければならないので、
 こんなに残酷なことがあるのかなと思います」 


そして、「沈みゆく船」だの「救命ボート」だのの比喩で何事かを言い得たつもりになって、
したり顔を浮かべているのには、鶴瓶の、的確で秀逸なこの比喩が。

「タモリさんは芸人にとって、港みたいな人なんです」

ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 ライフスタイルブログへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 一人暮らしへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 30代の生き方へ にほんブログ村 ライフスタイルブログ おひとりさまへ