@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

母の病気

2021年01月19日 | Life

朝起きてすぐの僕のルーティンにはだいたい17分かかる。

 
夜にセットしておいたコーヒーメーカーのスイッチを入れて、仏壇と犬の遺骨・遺影に備えるお茶の用意をして、親父の1日分の麦茶を入れて…
 
昨年あった我が家の危機からこれを続けてる。それ以前はもうちょっと楽してたし、適当であった。
 
「お母さんおはよう、レオおはよう」
 
気が付けば声を出して挨拶している。
 
 
母が亡くなって今度の4月で丸5年になる。
 
長くて短くて、我ながらおかしな日々を送ってるなーと感じる。人生の早送りって自分では言ってるけど、とにかく早く次の日に、早く翌週に、早く翌月に、早く、早く…そんな風に毎日送っているのだ。
昨年愛犬のレオを亡くしてからそれはさらに加速してる。あっという間に月日がたって欲しい、あっという間に歳を取りたい、あっという間に…
 
これ以上言うと母に泣かれるかな。
 
 
両親の相次ぐトラブルと体調不良で実家に戻ってから10年以上が過ぎた年明け間もない日に、母に、
 
「相談があるんだけど…」
 
自分にしては珍しくそんな風に回りくどく話を持ち出した。
父の介護というよりは、父の介護をしている母の手伝いを10年以上続け、その間無職だった僕は、色々と立ち行かなくなっていた。それでもフルタイムで働く事も、アルバイトを定期的にするのも難しい状態だったので、家でやっていた小遣い稼ぎを強化したいのと、滞っていた年金の支払いとかどうしていくかの相談だった。
母にだいたいの事を伝えると逆に母が話し始めた。
 
「実はね、お母さん、大きな病気かもしれないの。左胸のここの所に大きなしこりがあるのよ。」
 
 
あきらかな乳癌でした。
 
すぐにかかりつけの病院に行き、総合病院の紹介状を作ってもらった。
近くの総合病院ではできない検査(PET CT)が必要とのことで、少し離れた病院で検査予約をした。
 
でも、検査日は2週間以上後。
その間に病状が悪化しないのか不安でしかたがなかった。
 
検査が終わりさらに1週間後に近くの総合病院で診察。イライラというか焦りというか、とにかく平静ではいられなかった。母を不安にさせてはいけないからと、普段ののんびりな雰囲気を出してはいたけど。
 
検査の結果はステージ4の乳癌。リンパに多数と、腰椎、頭蓋骨に転移していた。さらには右胸にも乳癌があった(これは後に転移ではなく、別の癌であることがわかった)。原発の左胸の癌はかなり大きくなっていて、皮膚が赤く炎症を起こしている所まで確認できて、医者の話では後1、2ミリで皮膚を突き破るとの話だった。
 
母はC型肝炎持ちで、これから治療を進めていく中で肝炎が暴れたら治療をストップして肝炎の治療をしなければならない。肝炎が暴れなければ治療は続行できるが、いかんせん癌が大き過ぎるので、手術までもっていけるかどうか微妙なラインであると。
話の感じでは綱渡りみたいな状態で治療を進めていく、そんな感じだった。
 
方針としては、乳癌治療ならガイドラインに従って、抗癌剤を効き具合を見ながら3種(だったはず)使っていき、癌が手術できるまで小さくなったら手術。手術の後は放射線治療やホルモン剤などを使っていく…
 
 
しかし、治療開始までさらに2週間以上待つ事に。
 
 
もうさっさと癌をとっちゃってよ!
 
 
最初の検査から思っていた事である。
さっさと取ってしまわないとどんどん悪さをする。体のあちこちに癌が広がっていく。理屈じゃない、理論じゃない、体に悪魔を入れたままでどうするんだ!!
 
駄々っ子のようにしか考えが及ばなかった。冷静でいられるわけがない。
でも、普段通りに朝寝坊をし、あれ食べたいこれ食べたいとご飯ではわがままを言い、テレビを見ては笑って過ごした。
 
晩ご飯を食べ終えると自室に行くのがいつも通りだったのでそれも続けた。
 
でも、寝ようとしてベッドに入ると母がいなくなってしまう…という事で頭がいっぱいになりどうにもならなくなった。
 
リリーフランキーさんの「東京タワー」の中の一節にもあったと思うけど、子どもの頃にお母さんが死んでしまうっていう事実に悲しくなり泣いてしまうけど、大人になれば割り切れる・・・そんなことはない。大人になっても変わらない子供の時のまんまだってやつ、本当にそのまんまだった。
 
 
結末を言うと母は1年と少しの闘病の末に亡くなる。
 
 
僕は母が死んだ時も、母がら火葬された時も泣かなかった。闘病の手伝いをやり切ったというのもあるけど、最初の検査から治療が始まるまでの間、夜な夜な眠れずに泣いてばかりだったからかなーって思う。泣いて、泣いて、泣きまくってなんとか覚悟を決めたんだと思う。
 
母がいよいよダメってなった時におばさん(母の姉)に報告に行き、
 
「お母さんが死んじゃうと、話し相手がいなくなってしまう」
 
と、自分で言った言葉に涙が出てきたけど、この闘病開始の時期に思っていたのはまさにその事だったのかもしれない。
実家に戻ってからやりたい事も出来ずに腐っていた時や、失恋した時(失恋したーとは言わなかったけど)、ネットで大好きな人を見つけた時、常に話し相手になってたのは母だった。母のことを考えずに自分勝手な理由だけど、親父の介護っていう自由の効かない生活の中で、なんでも話ができた母親っていう存在はとても大きかったのだと今になって思い知らされているし。
 
マザコンとかそういうのではなく、ある程度年齢がいってから、カッコつけたりせずになんでも話ができるようになっていた。これも自分の成長(加齢?)のひとつだと思っている。
 
 
家と地元が嫌いでなんとか家を出ようとばかり考えていた自分にとって、こんな風に母と縁が強くなるとは思ってもいなかった。
 
その母がいなくなる…
 
 
これはとても大きな事だった。
もちろん、父や子供のことばかりでろくすっぽ旅行も好きな事も出来ないまま死んでいく母がかわいそうでしょうがなかったし、これから何をしてあげられるのか、そんな時間はあるのか、なかったらどうしよう…そんな事ばかり考えては泣いていた。
 
 
話は闘病開始にもどって・・・
 
母は幸いにも抗癌剤の副作用が強く出るタイプではなかった。
抗癌剤を入れた日はだるくなってこさ起き上がれな感じだったけど、翌日には少しだるいくらいで日常生活にも支障がないくらいだった。
でも、髪の毛はどんどん抜け落ちていった。美容室で整えてもらい、帽子を買い、近所の人や友人に内緒にしたままではいられないなーと、
 
「乳癌になっちゃったのー。でもね、とっても良い先生に診てもらってるから、少しずつよくなってるんだー」
 
母はそんな風に話をしていた。
 
事実、抗癌剤は効果を見せて癌はどんどん小さくなっていった。
それでも余命宣告こそされていなかったけど、何ヶ月もつのかっていう状態だったわけで、手術までたどり着けても完治には程遠かった。
 
母は犬と一緒にリビングの小上がりの和室で寝ていたのだが、ある日、もう寝てるかなーと思いつつ飲み物を取りにリビングに行ったら、ソファに座ってぼーっとテレビを見てる母の姿があって、その姿がやたらさびしそうに見えて、自分は母がこんな状態なのに何やってんのかなー自分の時間なんてどうでもいいじゃないか…と、後悔と反省をし、それからは母が寝るまでリビングで一緒にいる事にした。
 
母とは特に話をする事もなかったけど、あーだこーだとずーっとテレビを見ながら話しかけていた。
こういう時、ペットがいるのはとても良く、レオは母の近くにいてくれた。
 
ネットも見れない、アニメも見れない、ゲームもできない日々だったけど、この時間がなかったらもっと後悔してたかもしれないなーって思う。
 
話が前後してしまって申し訳ないです。
 
 
母はなんとか手術まで辿り着くことができた。
体に大きな傷が残ってしまったけど、体に巣食う悪魔の親玉を排除できたという安心感はこの上なかった。
 
 
「なんか頭がブヨブヨする感じがする。この辺りを触ってみて」
 
 
手術が終わり退院したのが11月の頭。年明けには放射線治療が始まるっていう、12月の末頃の話。
母が寝る前に自分の頭を触りながら僕に言った言葉がこれ。言われるがままに触ってみる。
 
 
「うーん・・・別に普通じゃないかな?」
 
 
母の頭のある部分がほんの少しブヨブヨするように感じた。でも、ほんの少しだったし気にするようなことじゃないよなーって思った。これが間違いだとわかるのはもう少し先の話。
 
 
その年が開けてすぐに僕が大好きな人がボーカルをやっているバンドのライブが武道館であった。
 
でも、そのライブの翌々日には最初の放射線治療の日になる。体調を整えるためにも母に無理をさせるわけにはいかなかったので、武道館に遊びに行くのは諦めるとずっと言っていた。
 
 
「次はいつ行けるかわからないでしょ。大好きなYさんの晴れ舞台、しっかり見て来なさい。」
 
 
母の言葉に甘えて武道館に遊びに行くことに。
日帰りではあったけど久しぶりに友人とその娘さんに会うことができたし、とてもとても素晴らしいライブで心が晴れやかになったのを覚えてます。家では明るく努めていたけど、やはりどこか無理はあるし、夜になれば初期の頃ほどではなかったけど、母がいなくなるっていう思いに囚われてしまいどうにもならなくなっていたし、こういうほんの少しでも現実から離れることができる時間が作れたのはよかったと思う。
 
「次はいつ行けるかわからないでしょ」
 
なんとなく、色々な思いがあったんだろうなー、このフレーズには。
 
 
放射線治療は過酷だった。母にとっても僕にとっても。
放射線治療には多分の矛盾が含んでいるとも感じたけど、それは別の話なので置いといて、とにかく、土日以外毎日やらなければならないという治療だった。
 
放射線を1度当てたら癌が少し減る・・・

そういうものではなくて、放射線を当てた総量によって癌に効果が出るということらしい。
なので、毎日少しずつ放射線を当て続けることが重要で、母は1月8日から2月の第1週が終わるくらいまで通ったと思う。
 
時期的に雪が積もる日もあったし、毎日、毎日、朝一番で用意をして留守番することになる父が不自由なく過ごせるように準備したり、天候に合わせて準備をする時間を早めたり・・・まー、大変ってイメージしかなかった。
 
 
「こんなのが続いたらかえって具合悪くなるね〜」
 
 
まさにその通り。僕はなんだかんだで少し昼寝したりすればなんとかなったけど、病気を抱えている上に治療を受ける母にとっては命を削ってるんじゃないかっていう日々だった。
 
 
・・・ここから先はお世話になった先生に対する不満や愚痴、治療してもらった病院に対する不満ばかりになってしまうので多くをはしょります。
 
 
 
放射線治療の途中から腰の痛みを訴えていた母は、放射線治療が終わってしばらくたったところで整形外科で見てもらうことになった。
 
 
「ここに転移してますね。これが痛みの原因でしょう」
 
 
MRIの画像には僕でもわかるほどの影が写っていた。
母はため息を一つついただけで、わかりましたと覚悟を決めたような雰囲気があった。
 
翌日の夕方に主治医の診察があった。
 
 
「あのね、ドラマのワンシーンみたいだったよー。本当にこういうことが現実にあるんだなって」
 
 
これは僕がアシスタントのバイトをしていたカメラマンさんの言葉。
カメラマンさんは奥さんを癌で亡くしていたんだ。癌を告知された時、余命を言い渡された時、本当にドラマみたいなんだ〜。現実的に感じられなかったし・・・僕はその言葉はよくわからなかった。たくさんイメージしてみたけど、当人でなければわからないことかなって感じた。というのも病気で大切な人を亡くすということはどれだけの悲しみなのかっていうことを理解するのは難しいって感じたからだ。
 
通常の診察が終わり、受付、売店、検査棟などの電気が消されて、診察室の扉は閉められて、わずかな灯りだけの薄暗い廊下のベンチで呼ばれるの待つ時間・・・少し離れたベンチには4、5人の家族。ほんの少し深刻な雰囲気があり、車椅子でおばあちゃんが来ると深刻な雰囲気から一点笑顔に変わって。
 
「じゃ、おばあちゃん、今日からまた入院だねー。大変だけど頑張ろうね!」
 
お嫁さんらしき人の言葉。その家族は病室へと上がっていった。
 
「あ、そういうことか・・・」
 
僕は何かを察するわけです。次は僕とお母さんが呼ばれる番だな。
 
 
 
しっかりと病状や今後の方針を把握しなければならないのが付き添いできてる僕の役目。でも、頭に入らなかった。何言ってんだこの医者は。抗癌剤は癌を小さくしたんだろ、手術はうまくいったんだろ、放射線だってやり遂げたのに。なんでこんな風になってるの?おかしいよね?
 
 
「先生、私、頑張ります。お父さんの面倒みなくちゃならないんです。お父さんより先に私が死ぬわけには行かないから、頑張ります。よろしくお願いします」
 
 
医者との話が終わった後に母が医者に言ったこの言葉だけ、はっきりと今でも覚えてる。一生忘れないだろう。
医療ドラマが大好きだった母は常々、
 
「私が病気になったらあんまり頑張って治療はしない。痛かったり苦しかったりしないようにだけして。」
 
こんな風に言ってた。でも、今はそんな母が頑張りますって言ってる。最後の最後まで頑張る、そんな決意を忘れるわけがないのだ。
 
 
病院からの帰り道、僕が大好きなハンバーグレストランを通り過ぎて少したったところで、
 
 
「戻ってご飯食べていこう」
 
 
そう言ってレストランに行った。
レストランに入る前に翌日からの入院に備えてレストランの隣にある靴屋さんでサンダルを買った。レストランに入り、僕はいつものメニューを注文。残すどころかいつもなら母の分も食べるくらいだったのに、全然食べられなかった。
 
家に帰り入院の準備をする。書類を書いて、荷物をまとめて。
 
 
「お風呂に入れてくれるかな?」

 
母の腰痛は車椅子じゃないと歩けないし、ベッドに横になるにも手伝ってあげないとできないくらいまで悪化してた。
なので僕が介助をしてお風呂に入れなければならない。抗癌剤の影響からようやく解放されてなんとか帽子がいらないかな〜くらいまで生えてきた髪の毛は真っ白になっていた。70歳になっていたので3割くらいは白髪だったけど、抜け落ちた後に生えてきた髪の毛は白髪だけだった。そんな白髪の髪の毛をシャンプーしてあげている時にようやく気がついた。
 
母の頭は赤く炎症を起こしていたのだ。
 
 
「お母さん、あまり驚かないで聞いてね。頭のこの部分があかーくなってるんだ。明日、先生の診察の時にちゃんと伝えてね。多分大丈夫だと思うけど体の変化は報告しないとさ。ね。」
 
 
母は最初の検査で頭蓋骨への転移があると言われていた。さほど大きくないのでまずは原発の乳癌とリンパへの転移をなんとかしなければ・・・そんな話だったと思う。でも、病魔はどんどん大きくなってたんだね。年末に頭がブヨブヨするってのを軽く捉えてしまったことを激しく後悔した。
 
 
翌日、母は入院した。
 
 
母は入院してからは笑顔だった。
 
 
「ねーちゃん(僕のおばさん)と○○ちゃん(僕の従兄弟)にはさっさと報告しないとねー。あと、携帯電話を忘れちゃったから持ってきて。友達には自分で言うから」
 
 
腰の痛みがひどいとのことで、モルヒネを処方するようになった。
それから母は日に日にぼんやりするようになって、やがてご飯を食べてる最中に眠ってしまうようになった。母のお見舞いは毎日続けて可能な限り近くにいた。母の病室にいながら病院から電話がかかってくることもあった。母に気づかれないようにごまかすのが大変だった。新たな放射線治療も開始したがすぐに中断。
 
 
「脳の髄液の中に癌細胞が浮遊しているような感じかなー。」
 
 
医者の説明は全てが呪詛にしか感じなかった。
 
 
「お前がそう言うから母の病状が悪化するんだ、大丈夫だと言え!目が覚めると言え!治ると言え!」
 
 
物事の順序が逆なのもわかりつつ、僕は頭の中でそんなことを言っていた。
母は入院から1週間もたたないくらいで意識を失った。意識がなくなってから2週間後に最後の決断を迫られた。
 
 
「ちょっと無茶な治療法もあります。でも効果が出るかどうかはわからないです・・・どうしますか?」
 
 
「母を・・・母にこれ以上苦しんで欲しくないです。」
 
 
なんで僕が最後の答えを言わなくちゃならないのか。
優柔不断だし、家族の中では一番年下だし・・・でも、僕しか決断する人はいなかった。
 
 
母はそれから2週間と少しくらいの後に意識のないまま息を引き取った。
 
 
「私ね、思うんだ。今は冬でしょ?これから春になって夏になる。暖かくなっていくんだよ。これがさ逆だったら嫌だなーって。どんどん寒くなってきて、外は暗くなるのが早くなっていく・・・冬に向かう時期に治療が始まるんじゃなくてさ、春に向かう季節から治療が始まる。それなら気持ちも楽じゃない、治療頑張れるじゃない?」
 
 
 
母が亡くなる前日、母の病院の近くの桜が満開だった。
 
 
 
 
自分にとっての母親ってはなんだろう?

ずーっと考えている。
でも答えは見つからない。彼女もいない、結婚もできない自分にとっては最愛の人?
そんな感じもするけど、ちと違う。
 
僕は三人兄弟の末っ子。
僕を妊娠した時に、母は出産は命懸けになるかもしれないと医者に言われていたそうだ。
 
「もう2人もいるんだし、いいんじゃない?」
 
そんな風にも言われたらしい。
でも、産むという選択をしてくれた。
 
 
僕は上の2人と違い出来損ないだった。
運動もできない、勉強もできない、学校ではいじめられるし、登校拒否の傾向にあったし。
そのくせ真面目に勉強もしない、努力もしない。
 
でも最後まで母だけが僕のことを期待しててくれた。
 
 
「ずーっと大変だったけど、あなたがね、横浜で専門学校に行ってる時、ずーっとキラキラしてたの。それを奪ってしまってごめんね。でもあなたは大丈夫だからね」
 
 
世の中でこんな風に声をかけてくれたのは母だけだった。
 
多分、僕は話し相手を失ったのではなく、唯一の理解者を失ったのだろう。
 
 
今でも情けないことに母がいない現実が辛くてしょうがない。
弱音しか吐かないし、前向きになれない。。。でも、いつか母が期待してた自分になれるように頑張らなくちゃならない、そんな風に思う。
 
 
1年間闘病に付き添ったからやれることはやったと思う。

でも、あとほんの少しでいいから生きてて欲しかったなー。無事に自分の人生を歩けるところを見せたかった。

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