@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

フラッシュバッカー

2021年07月27日 | Life

オリンピックが熱いですね。
色々ありましたが、開催されてよかったです。
僕は大反対してましたしやるなら無観客で!!って言ってました。でも、大のスポーツイベント好きとしては始まってしまったら最高ってなってしまいますね。

さてさて。

オリンピックやW杯みたいな楽しくも熱い感動的な思い出を思い出すのは良いのですが、世の中そんなに良い事ばかりではないですね。

フラッシュバックってやつです。

トラウマ的なものや嫌な記憶、アル中の人のお酒を飲む体験などを急に鮮明に思い出してしまうっていうアレです。
これ、かなり厄介で解決した問題だったり乗り越えた事柄だったり、もう忘れたつもりの事であっても突然なんの前触れもなく鮮明に思い出してしまうのです。

人間の忘れるっていう現象は心を守る防衛機制です。

嫌なことや悲しいことを忘れることができるから人間は心を平静に保って前向きに生きることができるのです。

僕はこの忘れるってことが苦手です。
以前も話したことがありますが、英単語とか勉強に関わることは全然覚えられないしすぐに忘れてしまうのに、人と人の関わりみたいなのはなかなか忘れることができません。なので小学校や中学校の同級生と久しぶりにあって思い出話をすると、「そんなこと覚えてないな〜。よく覚えてるね〜」となるだけで話が弾みません。なんなら僕だけが取り残された気分になるだけ。

「そんな余計なことよく覚えてるね」

家族や友人によく言われた言葉ですね。
最近は加齢で随分と忘れてしまうようになりましたが、それでも人より記憶が残っているように思います。

 

良い思い出なら少し寂しい思いをすれば終わりだし、たまにはそういう誰も覚えてない懐かしいことを喜ばれたりもします。

でも、嫌な思い出もしっかりと残っていますし、フラッシュバック的に唐突に思い出されることもしっかりとあります。

僕の場合は○年前のあの人とのトラブル、1○年前のあの人の嘘・・・

これらが強くフラッシュバックします。
忘れよう、考えないようにしよう。。。そんなふうにしててもことあるごとに思い出されて不安になり、未来が見えなくなり、全てが嫌になり何もかも投げ出したくなることもあります。

どうしたらなくなるのか?

これはとても難しいと思います。
僕の場合は慣れっこになりつつあります。記憶を消去しにくいのでさっきあげた2つだけじゃなく色んなことを突然思い出してしまうので。それでもなかなか厳しいのがさっきの2つであるわけで。

まずはその問題などを解決する。

これが第一歩だと思います。対人でのトラブルなら互いにわだかまりがないように解決するってのが理想ですがなかなか難しいです。なのでこれ以上トラブルが拡大しないように解決という形をとり、その人と縁を完全に切ることが必要だと思います。僕の場合1つは自然と関係が切れました。でも恋愛に関することや基本的な人間関係に関することで裏切られた感じがあったので、生きていく中の人間関係のベースとしてどうしても思い出してしまいます。もう1つはほぼ関係を切っているのですが、どうしても切れない部分があってこれがとてもきつくて、トラブル当時のことやその人との嫌な思い出をフラッシュバックしてしまいます。

解決が無理だったら対処療法!

風邪をひいたら熱を冷まそうとするし、咳や鼻水などを止めようとしますよね。それと同じです。嫌な思いを緩和しようと、飲み込まれないようにしようってする行為・行動を取ることです。例えば楽しいことをするのですが何をやっても楽しくないってなるので、何かに集中するってのが良いかもしれません。漢字の書き取りとか塗り絵とか単純なことを必死にやる。眠れない時に羊を数えるのに似てるかもしれませんね。
もう1つは誰か信頼できる人にフラッシュバックの内容を話して「聞いてもらう」。この場合の「聞いてもらう」のは全てを受け入れてもらうということです。いちいち反論したり自論を展開する人に話してはいけません。それは討論や議論であって「聞いてもらう」行為とは違うからです。
フラッシュバックみたいなものは良いも悪いも、正しいことも間違ったこともないのです。ただただそれが嫌なのです。だから嫌なんだってことを理解して受け止めてくれる人に話して吐き出してしまうっていう行為なんですね。受け止めずに自論を展開されたらトラウマはより深くなります。その考えが正しい正しくない関係ないです。それはその人の考えであって、「私」の考えではないからです。
なので1度でも信頼関係を壊すような発言をする人に聞いてもらうのは難しいかもしれません。

「あー、そう言うと思ったよ」

そんな風に感じてしまってがっかりするからです。

話を「聞いてもらった」ら、ハグをしてもらう。

受け入れる、受け止めるってのはこういうことかなって思います。
大丈夫だよとハグをしてもらったり、頭を撫でてもらったり。簡単なことですがなかなかできることじゃないし、そういう風にしてくれる人もなかなかいません。もちろんここでも、ただ単純にハグをすれば良いわけじゃないです。心から信頼できる人、互いの人間関係の中で疑われたことがない人ですね。

 

ちなみにこれは僕の感覚的なことで、心理学的な話はほぼ含まれてませんのでご了承ください。

 

でも、話を聞いてくれる人がとても大切です。逆に肝心な所で信頼を壊すような事をする人言う人はよろしくないです。受け止めてくれない人自論を展開してその人を認めず自分が常に正しいという態度の人とかもよろしくないですね。

 

人の記憶は面白いです。
ただただ良い思い出だけを蓄積していければ良いのですが、そうじゃないから面白いのです。
すいも甘いも受け止めろ!って神様が与えたものなのかもしれません。悪い記憶は次に失敗しないために生かされますもんね。そうやって人間は少しずつ成長して上手に生きることができるのかもしれません。

でも、フラッシュバックはそれとは違います。

確実に心を蝕んでいきます。
僕はハグをしてくれる人も話を聞いてくれる人もいません。だから自分1人で戦ってなんとか乗り越えようとずっと挑戦してますが、なかなかにうまくいきませんw
だから、なんとかハグをしてくれる人を探し当ててください。それが難しかったら話を聞いてくれる人を探してください。それでもダメだったらもっともっと楽しい記憶を積み重ねてください。

生きることは大変だけど必ず何かしら解決の糸口はあるはずです。意地を張らずに心穏やかに生きてください。自分だけじゃなく相手のトラウマやフラッシュバックを受け止める余裕を持って生きてください。

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情報の目的と方向性

2021年07月26日 | TwitLonger

僕の大好きなアニメ「銀河英雄伝説」に出てくるバグダッシュさんの名言。

「世の中に飛び交っている情報ってものには必ずベクトルがかかっているんだ。つまり、誘導しようとしていたり、願望が含まれていたり、その情報の発信者の利益を図る方向性が付加されている。それを差し引いてみれば本当の事実関係に近いものが見えてくる」

これに対してユリアンが、

「でもその発信者が見えない時はどうするんですか?」

再びバグダッシュ。

「よく言うだろ。犯罪が行われた時、その犯罪によって利益を受けるものが真犯人だって。それと一緒さ。」

 

突然、なんやこいつって思われそうですが、まだ若いユリアンが遥彼方の地球に旅立つ時に手向けとしてバグダッシュより渡された言葉です。SNS社会、情報化社会って言われるようになって随分たちますが、その辺に散らばってる情報にはいろんな種類のものがあって、それぞれにベクトル(方向性)があって、思惑がある・・・

そんな風に考えた方がいいよ、受け止めた方がいいよって思うことがあって、このバグダッシュの言葉を思い出したのでした。

例えば、

「あのパン屋さんのカレーパンがすごくおいしいよ!」

と噂を聞いたのだけど、Aさんは、

「いやいや、それほどじゃないって聞いてるよ」

Aさんはその話をBさんから聞いたと。
Bさんはカレーパン好きで有名。信用できる人だからこの情報は間違いないとAさんは信じたのです。でも、巷の噂とは逆の評価。いったいこれはどういうことだろうと、私は実際に買って食べてみることに。

すごくおいしかった!

じゃ、AさんがBさんから聞いた話は嘘だったのか?
Aさんが嘘をついてる?Bさんが嘘をついてる?

実はこのカレーパンは数量限定でした。
だから、カレーパンが大好きでとにかく毎日食べたいBさんは、美味しいと評判過ぎると自分の分が確保できないかもしれないと考え、嘘の噂を流していたのです。

この場合、得するのはBさんで損をするのはAさんとAさんから話を聞いた私。それからパン屋さん。

中々良い例えが思いつかなくてこんな話にしましたが、単純でわかりやすい場合だとこんな風になります。私はAさんの言葉を半分信じたし、AさんはBさんの言葉を信じたわけです。ここには人間関係っていうものも関わってくるかもしれませんね。
私にとってはAさんは友人だけどBさんは友人の友人。情報の信頼度や重みが半分くらいになっててもおかしくないです。でも、それに対してAさんにとってBさんは友人なので信用すべき情報だし、信用しないと人間関係が怪しくなる可能性が出てくるわけです。

今回はBさんがカレーパンを確実に手に入れるためについた嘘情報だったわけですが、こういう可能性も出てきます。

Bさん「実はこの情報はCさんから聞いたのだけど・・・」

Cさんはとても頭が切れる人間です。CさんはBさんが大好きで独占したいと常に思っています。でもBさんはAさんと仲が良くていつも一緒にいます。Cさんはそれが悔しいし、なんとかAさんとBさんを仲違いしたいと思っています。

Bさんは無類のカレーパン好きですがそのパン屋さんのものはまだ食べたことがなかったのです。

なんで食べていなかったか?
それはBさんが信用するCさんが、あのパン屋さんのカレーパンは美味しくないと言っていたからです。

Bさんはその情報をAさんに伝えます。
Aさんはさらにその情報を私に伝えてきました。

私はあのカレーパンは美味しいと判断し、その情報元のBさんを怪しいと感じます。

実は私はCさんとは仲良し。私はCさんとカレーパンの話になり、CさんはBさんをこんな風に話します。

「あのBさんって人は自分がなんとしてもカレーパンを独占したいから美味しくないって言ったみたいだよ」

私はBさんとは面識がないからCさんの情報を鵜呑みにします。そしてそれをAさんに伝えます。

AさんはBさんをどんな風に思うでしょう。

 

たかがカレーパンなので大喧嘩には発展しませんが、AさんはBさんを信用しきっているわけです。
それなのに嘘をつかれた。Bさんを疑い始めますよね。そうなると自然とBさんと距離を取るようになるかもしれません。AさんははっきりとBさんに「なんで嘘をついたの?」と言えば良いのですが、人間ってそんな簡単じゃないです。関係が悪化するのを恐れたり、嘘の理由が怖くて聞くことが難しいのです。そうなると私から聞いたCさんの情報がBさんに伝わる可能性はかなり低いと考えられます。

結果としてBさんはAさんとの距離感が少し遠くなり、Bさんのことが大好きなCさんはBさんに急接近するわけで。

 

他にも様々なパターンがあるし、関わる人が多ければ多いほど、その人間関係が複雑なら複雑なほどに情報っていうのは迷走してしまうものなのかもしれませんね。伝言ゲームは参加する人が多ければ多いほど、伝言する内容が複雑なら複雑なほどに正確に伝わっていかなくなりますよね。それと同じです。

そこに悪意などが加わっていると、こんなに怖い話はないわけです。
もしかしたら命や財産を奪おうとしている、友人関係や恋愛関係などを壊そうとしている・・・そういう悪意が付加されてる可能性があるわけですから。

 

僕はオカルトが大好きだし、占いみたいなスピリチュアルなことも大好きです。

でも、ある程度の距離感を必ず持つようにしています。自己啓発的なことにはもっともっと距離感をもちますし、宗教的なことに関しては学問的に触れたり、知識的に触れることはありますがそれ以上は近寄らないです。

例えば陰謀論みたいな話。

これ、紐解いていくと嘘くさい事ばかりなのですが、たまーに真実だったりもします。9割嘘で1割真実・・・そういうのってやたらと面白いじゃないですか。だから耳を傾けるんです。面白い「ネタ」として。だって、世界のあれこれはエヴァのゼーレみたいな人たちにコントロールされている!!なんて話、ワクワクするじゃないですかw

その程度に楽しむのなら良いのですが、本気で信じてしまう人たちがいるから情報は怖いのです。

 

どんなに怪しい情報でも信じてしまう場合はたくさんあります。

 

・例えば心を完全に許している家族や友人が伝えてきた情報。
これは先程の例え話での私、Aさん、Bさん、Cさんの人間関係の話ですね。Bさんを信じきってるAさんは情報を完全に信用しますが、Bさんを知らない私は少し疑います。CさんはBさんに嘘の情報を信じ込ませています。こんな関係ですね。
距離や関係が近ければ近いほど、長ければ長いほどに情報の信頼性は増していくわけです。

・その情報を誰が信じているか。
自分が大好きな芸能人が信じてる情報だったらどうだろう?尊敬しているスポーツ選手、同じく尊敬している先生など。自分が叶わないと思っている優秀な人。大人気の文化人・・・ステマ事件ってブログの全盛期にありましたね。芸能人の方が普段使いとして使っている化粧品やサプリなどをさらっと紹介してたけど実は企業からの案件だったってやつ。この人が使ってるのだから間違いない!!そんな心理を利用されたものでした。これと同じで自分が好きだったり尊敬してたり、信じてる人たちが信じていたり、そういう人からもたらされた情報ってのは無条件に信じちゃったりしますよね。そこに悪意が込められたり、全くの嘘情報fあったりすると色々とめんどくさいです。好きじゃないけど、偉人的な人みたいなのも当てはまりますね。

・情報の専門性
全ての分野に精通した・・・例えば元2ちゃん管理人のひろゆきみたいな人ってのは稀です。彼もわからないことはググっていると言っているくらいで。法律、医学・・・あとは何があるかな〜。そういった身近だけど専門性の高い知識っていうのは厄介です。わからないのですから、テレビや雑誌、SNSで拡散されてる情報源は高明な専門家さんですってなったら、信用するのは当たり前です。でも、すでに古い情報であったり、そもそも間違っている情報っていう可能性もあるのです。もしかしたら、悪意をのせて発信しているかもしれないし、その専門家の名前を使って嘘の情報が流されてるかもしれない。そもそもその専門家が儲けようと企んで情報を発信してるかもしれない・・・しっかりと判断したいところですが、かなり難しいですね。

 

他にも色々あるのですが、とりあえずはこのくらいで。
僕も10何年前の話ですが、大好きだった女性に嘘をつかれて酷く落ち込んだことがあります。僕がその人を好きっていうのを利用されたわけですね。完全に信じ込んでしまって、裏切られた感が半端なかったです。
僕と友人2人してとある人に騙されたってこともありました。その人は嘘をつかないだろう、そんな大前提が僕と友人にはあったのかもしれません。でも、あっさりと嘘をつかれました。嘘ばかりでした。

例えに出したカレーパンの話、カレーパンくらいだし、敵意というよりは好きがこうじてしまってのCさんの嘘なのでこの人達の人間関係は修復可能って思うし、もしかしたら笑い話になっているかもしれないです。でも、情報の取り扱いを間違うと命や財産に関わることになってしまいます。
特に今みたいな全世界的に大混乱している時代、飛び交う情報の精査って難しいですよ。悪意をのせる人たちも自然と多くなるし、なんとかして儲けよう、なんとかして有名になろう・・・そんなものを情報にのせている人なんていくらでもいます。誰を信用して、誰を信用しないかってのも難しいし、人間関係にひびが入りかねないことですから。

情報を紐解くとき、1方向からだけじゃなく、多方向からじっくりと見て、調べて、聞いてから信用するかしないかを見定めてみてください。時間や労力があなたを確実に救ってくれると思います。

 

 

・・・っていう、このブログ記事が本当かどうかもしっかりと調べてくださいね。

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昔話。

2021年07月20日 | Life

昨夜、とある経緯でピアノのコンクールの動画を見ていました。

コンクールはのだめカンタービレでくらいしか知らない世界で、思わず見入ってしまいました。
ピアノなのでそれこそ3歳とかから休む暇もないくらいに努力して、そういう猛者達が集まる中で選抜されてやっと出場。1位になるにはさらに、さらに・・・途方もないことだよね。

ピアノには詳しくないし、クラシックになるとさらに詳しくないのだけど、昔から1番好きな音色はピアノの音だし、ピアノソロっていうのも好きなんですね。あーいいな〜って聞いてるその音色は弛まぬ努力の成果なんだと思うと敬服するのでした。

で、自分がやってた写真の事を少し思い出したので、趣味としてもシャッターを切ることがなくなった僕の昔話でもしようかなと。

 

 

この写真、先日部屋掃除をしていた時に出てきたものです。

ネガもプリントもほとんど処分してしまったし、残してあるものも押し入れの奥の方にしまってあって出そうと思うと1日仕事になる始末。

手元に残してあったのだからこの写真はすごいお気に入りなんです!!

と言いたい所なんだけど、これは大失敗作。
写真自体が面白くないのは言うまでもなく、撮影条件、露出、現像、プリント・・・写真の要素全てにおいて失敗してるんですよwしかも写真のしゃの字もわかってない、理解していないから当時は何がダメなのかすぐに理解できず、頭を悩ましたこともあって、お気に入りというより、大失敗の戒めとして学生の時に近くにおいてあったんですよ。で、引っ越すときにそのままになったと。

何がダメなのか解説していきます。

まず被写体が壊滅的にダメです。
一見、少し昔風に商店街の日常的な風景で情緒的で良さげって思わなくもないのですが、それがダメなんです。情緒的って言うのがとても大きなポイントで、自分の主観的な感情が大きく盛り込まれてるわけですね。あー、この商店街好きだな〜、おばちゃんが買い物してる姿っていいよな〜とか(この写真からはそれすら感じられないけどw)。これって僕自身の主観であって、誰かに見せる作品として考えた時に単なる感情の押し付けでしかないんですね。
著名人の気持ちや感覚だったら価値があるものですが、単なる一個人の感情なんて面白くもなんともないんです。しかもそれをなんかしらのテーマやタイトルで括って押し付けようとしているわけだからタチが悪い。

これはスナップで撮っていますし人物も写っていますが、風景として撮っています。

つまりは人間が行ける範囲、写真を撮れる範囲の中の一部を切り取って作品としようとしているわけです。
世界はとても広くて面白いことがたくさんあります。写真を撮影する上で個性や個人、個人の主観、情緒とは切っても切り離せないのですが、そんなつまらないものを全面に出すよりも世界それ自体が持ってる可能性っていうのはとても大きいんです。広くて大きくて深い・・・それこそちっぽけな人間と比較した無限大に広がっているのが世界なんです。
そんな世界を見ず知らずの個人の範疇で収めてしまうことってつまらなくないですか?

感情を乗せる、自分の主観や情緒を乗せる・・・それこそがテーマだ!俺の写真だ!

これがくだらないんですよね。つまらない、もはやうんこレベルです。
まだ学校に入って2ヶ月の僕にはそれが理解できず、例え、暗室実習用に撮ったものであっても(この写真はまさにそれでした)、うんこはうんこなんです。カメラマン、写真家は黒子です。主役は被写体であり、出来上がった写真なんです。この辺の感覚がどうしても難しいのですが・・・個性が必要ないとは言ってないのです。

次に技術的な話。
露出はまあまあいいとこいってると思います。カメラ任せですから当然ですw
でも、

青く囲まれた部分は白飛びしてます。
赤く囲まれた部分はさらに酷いです。

調子を整える。

一言で言うとこれなんですが、その意味がわかってなかった僕でした。
逆光で撮影、コントラストが高過ぎる被写体・・・この2つだけで撮影条件が非常に厳しいです。そういった場所を被写体として選んだ時点で1つ失敗してます。次に露出を取る際にどこを基準とするかに失敗してます(オートにしてマルチ測光だとしても調整は必要です)。

建物の影響で日陰になってる手前。しかも画面の多くを占領してますね。
なので、この写真はかなり暗い所で撮影されてるんです。それに対して奥の部分は思いっきり晴れていて明るい。コントラスが高い写真はモノクロの場合は黒と白が極端に出てしまいダメな写真となります。
良い写真は真っ黒に近い黒から真っ白に近い白までがあって、その間のグレーの階調性が豊かにあるものです。この写真は間がないのです。後で説明しますが、パース(パースペクティブ。遠近感)が出てしまってるのもこの写真のつまらない部分なのですが、その奥行き部分が白くなってしまってます。そして手前の赤丸の発泡スチロールです。真っ白です。

この写真は先生に注意と指導をされて何度か焼き直しています。

その際に奥の青丸の部分は焼き込みってのをしています。
焼き込みとは、印画紙に露光する際に、1度全体をあたりをつけた時間で露光した後に焼きが足りない部分を追加して焼く技術です。追加露光したくない部分には当たらないように露光します。逆に黒くつぶれてしまって露光したくない場所を覆うのを覆い焼きと言います。焼き込みは最初にやってからやる場合と後からの場合、どちらかでできると言えばできますが後からやったほうがコントロールはしやすいですね。逆に焼き込みをすべきところに露出を合わせて、他のノーマルな部分を覆い焼きするって方法もあって、覆い焼きと焼き込みは背中合わせみたいなもんなんですよね。

焼き込みをやっているからギリグレーで出てくれてますね。でもまだまだ明るすぎて、階調性の乏しさ、コントラストの高さの原因になってます。

より酷いのは赤丸の発泡スチロールです。

これは先生にこの部分が白すぎるから焼き込みをしろって言われたのです、青丸の部分と同じで。
でも、これが僕には理解できませんでした。

青丸の部分は実際は日が照っているとはいえ、実際はもっと色が濃い風景でした。だから焼き込みが必要なのが理解できました。

でも、発泡スチロールは真新しいもので、真っ白でした。なんならこの写真よりもずっと真っ白でした。実物がそうだからこのままでよくて焼き込みしてグレーにする必要がない!!そんな風に思ったのです。

しかし写真は現実を写しているけど、そのまま現実であることが正しいわけではないんですよね。

あくまでも画面の中の階調性がよくなければならないのです。
この写真の場合、青丸部分と赤丸の発泡スチロールのせいでコントラストが高くなってるし、発泡スチロールに至っては写真の全てをぶち壊すくらいに明るすぎるのです。よーく見ると発泡スチロールのディテールも見えますが、こんなん見えるとはいえないです。
焼き込んで周囲と合わせたグレーにまで濃度を濃くして、さらには発泡スチロールのディテールが見えるようにするのが正解なんです。

ただ、ここまで明るいとディテールが残ってるかどうかが怪しいです。
白飛びし過ぎて消えちゃってる場合があります。このネガがどこにあるかもわからないし、改めてプリントするのも現状では難しいので確認はできませんが、ディテールはわずかに残ってる程度でしょう。

つまりは、露出、撮影条件の段階、つまりはシャッターを押す段階で失敗してるのです。

撮影条件と露出が悪いから現像で調整するってのもありますが、そこまで激変するほどには助けることはできません。そんなネガなので、プリントで焼き込みや覆い焼きをしても助けるのは難しい・・・

プリンがうまくいかない

ネガのせい

ネガが悪いのは撮影のせい

この3つ。
シャッターを押す時が1番大切ってのがわかります。
シャッターを押す時の露出、フィルム選び、撮影場所(人なども含めて)の撮影条件(天気、時間、屋根など諸条件)・・・これら全てが揃ってようやく、良いネガができる条件が揃い。良いネガを作るための良い現像をしてこそ、ファインプリントの第一歩なわけです。

 

こういうのを理解してなかった専門学校1年の前期の自分が恐ろしく怖いですよw

300本以上のフィルムを無駄にしてたわけですから。もちろん、この先も撮影と現像・プリントの奥深さに翻弄され続け答えなんて見つからないままに学校を卒業し写真をやめる現在に至っているわけです。

 

写真の面白さってなんだろう?

趣味や日常なら面白いと思うもの、楽しいって思うもの、美しいって思うもの、懐かしいって思うもの、感動的って思うものなんでもいいです。良いって感じたのが良い写真です。撮ってて楽しいってのが良い写真活動です。
でも、作家としてやっていくためにはそれじゃダメなんです。

これはもう写真をやめてしまった僕には言葉にできませんので省きますが、時には普遍的であったり、時にはその時代のものであったり、時にはセンセーショナルなものだったり・・・作品には幅がありますのでいつか出会うかもしれない何かが写真作品になるのだと思います。

少し話を戻して、青丸の部分が奥行きが出過ぎててダメってありましたが、この辺は作品作りの1つの手法だと思います。遠近感って写真的なんですよね。手前の物から消失点まであるってなると肉眼で見えたものをそのまま押さえる写真がより写真的になってしまう。奥行きは当たり前にあることなんだけど、写真の小さな世界に閉じ込めるとそれが際立っちゃうというか。ま、つまらない写真になってしまうんです。

そういうので最近気になるのは被写界深度を利用した写真ですね。

花の写真やなんかによくある、手前にピントを合わせて奥をぼかすアレです。
もう一般常識になってると思うので詳しい解説は省きますが、スマホで撮れるようになったし、なんと言ってもレンズが交換できる一眼レフやミラーレスが普及した結果、よく使われる、よく見る写真になりました。

これも写真らし過ぎるので作品を作るときの遠近感と同じ扱いにしちゃっても良いんじゃないかな〜って思うことがあります。

昔はそんな簡単ではなかったし、大型カメラでやるとより綺麗にボケるとかそういう世界の話だったのですがワンタッチで誰にでもできるようになったし、何よりその仕組みを知らなくてもできるようになった。そして、簡単綺麗にできるようになったので、より写真らしい写真になっちゃったんやないかな〜って思います。

もちろん、大前提として個展や写真集のように作品にする場合の話ですよ。

商業的な写真・・・例えば雑誌のグラビアなんかはどんどん使った方がいいでしょう。主役のアイドルを際立たせるためには最高だし、なんなら背景が鬱陶しい場合もありますので。
趣味などで綺麗な写真を撮りたい場合も最高のツールになりますね!僕も庭の桜を撮るときや、今は亡き愛犬を撮る場合、映えない手料理を撮る場合によく使います。つか、気持ち良いですからね、後ろのボケが。

 

僕はあくまでも作家を目指してやってたので、あれこれ難しい話が出てくるんです。

でも、写真を楽しむためにはなんでもありです。楽しいって思う気持ちが1番大切ですから。

 

僕は何度も書きますが、作家を目指してました。
だからこめんどくさいルール的なものや、これは有り、これは無しみたいな良い写真の条件的な部分など理解できることも、全然理解できてないことも含めて、全て作品作りの要素として、条件として写真に埋め込んで撮影し現像してきました。それが楽しかったし、将来を考えてワクワクもしたし、何より何百カットに出るか出ないかの1枚の作品になる写真を作る喜びの中でやっていました。
ある時迷って悩んで、手遅れになってしまって、写真からは離れましたが。

 

本当は写真の賞の話もしたかったのですが、それはここまで。
というか、もうその話をすることもないかもwしたとしても思いつきとか気分とかでしょうね。

真剣にやる、何かを手に入れるため、何かに辿り着くために惜しみなく努力をするっていう事は最高に楽しい事だったなって今となっては思います。当時は辛い部分もたくさんありましたから。
いろんな問題を無視してでも続ける価値があった事だったな〜っても思います。

 

生きるためにはこういうものって大事なんだなって。そんな昔話です。

 

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前にある楽しみ、後ろにある後悔。

2021年07月17日 | Life

特に書くことがないのですが、キーボードの練習ってことで。
完全に自己流で覚えてしまった事が悪かったのか、キーボードが変わってしまうとブラインドタッチできなかったり、キーの場所がずれてしまったりうまく書けなくなってしまいます。この5年はMacBookAirを使うことが多く、完全にそれになれちゃってしまってますね。
今はとある事情でウィンドウズのノートを使わなければならなくて、まずそのノートのキーボードに慣れるのは諦めました。
別個でキーボードを購入し(かなり迷った)、それに慣れようとしてるわけです。

書くことがないのでこのままだらだらとキーボードについて書いてもいいかな~って思ったのですがそれもつまらないなーと。

とあるニコニコ生放送の生主さんが昨年余命宣告をうけたそうです。
状況はとても良くない感じでその余命を全うできるのかどうか、そんな状況でした。

その方は余命以上に生きるってことと、やり残したことをやっていくみたいなことをおっしゃってました。

やり残しというか思い残しの1つにエヴァンゲリオンの完結を見たいってことがあったそうです。
そして、この春にエヴァは見事に完結を迎え、その方もほっと胸をなでおろしたようでした。余命宣告の時間を過ぎた今も生きてらっしゃいます。

 

で、このエピソードを聞いて自分にはそういうことってあるかな~って考えました。

たくさんたくさん考えるのですが見つかりません。

少し前だったら、

ドラクエの続編楽しみだな~とか、
あのアニメはどんな風に完結を迎えるのだろうとか、
来年はあの映画の続編やるんだよな~楽しみ!

などなど、いくらでもありました。
むしろ人より多いくらい。それが今は今週の続きを楽しみに来週のアニメやドラマの放送を待つことはないし、1度見逃したらまーいいか~ってなるし。漫画に至っては最新巻を買っても読まずに1年放置とか余裕であります。CDを買っても聞かずにそのままってのも。

食べ物にしても、できる限り自分が好きなものを食べれるときは食べるようにしてるけど、特に食べたいものがないです。
少し前だったらラーメン二郎食べたいとか、500グラムのステーキ食べたいとか、おいしいナポリタン食べたいとか、どこどこの名産食べたいとか、回らないお寿司食べてみたいとかとか、強欲の権化みたいな感じだったのだけど、食べたいもの特にないです。夜中にハンバーガー食べたいなんてツイートしてみたりするけど、実際は食べたいわけではないし。

誰かに会いたいってのもなくなったな~。

 

どうしちゃったんだろうねw

僕は能力もセンスもないのに、常に何かやりたい、こういうことやりたい、こうなりたい!みたいに目指すものがあって、すぐに諦めちゃったりしたものもたくさんあったけど、目標というか夢というか、そういうのを追いかけるためだけに生きてきた感じがありました。絵が下手で諦めた漫画家っていうのから始まり、写真家、カウンセラー・・・で叶わずに終わるまで挑戦もしたし、脳内完結して終わったのもあるし。なかなかうまくいかない人生だったけど、自分で想い、自分で挑戦し、諦め、また挑戦し・・・結果的に実家にがんじがらめになって何もできなくなったけど、どれも自分の責任で夢を追うことの結末みたいなのも受け入れてたので楽しかったし、笑顔でいられたんだけどね。

イメージはわくのです。

やりたいことや欲しい物、食べたい物や楽しみな続き。

でも、ぜーんぶ、どうでもいいやwま、いいかwみたいになってしまう。
その時はそれでいいのだけど、気が付いたら空っぽになってて、どうにもならなくなる。

 

車に荷物をたくさん積んで3週間とかかけてゆっくり北海道を1周したいな~とか。
アラスカに行ってオーロラをみたいな~とか。
結婚しなくてもいいから大好きな人と一緒に暮らしたいな~とか。

昔から思っていた実現したいものもいくつかあります。
でも、諦めなくちゃならないかな~って。

アラスカに行くのはもう無理です。
北海道1周のために車を選びました。維持費が大変で手放そうと何度もしたけど(買って1年なのにw)キープしてました。でもそれもそろそろ限界です。
結婚どころか彼女を作るってこと、これから誰か好きな人に出会うってことを諦めました。

う~ん。

何をモチベーションに生きていけばいいんだろうねw

 

それでも親父が旅立つまでは面倒みなくちゃならないし、生きていかなくちゃならないのですよね。

ずーっと心にひっかかってる問題を解決すれば少し前向きに何かを楽しみに生きられるかな~っても思うのですが、解決するためには身を引き裂くような思いをしなくちゃっても感じてるし、その解決のために今月はずーっと考えてたくらいなのだけど、方法が見つからなかったしね。今となっては後悔しかないのですよね。

生きるための生き方を見つけなくちゃならないな~って感じる今日この頃なのでした。

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いなくなった友達の話。

2021年07月14日 | Life

気がつけばこのブログの開設から6000日突破してました。
今、この記事を書いてる時で6020日でしょうか。何年になるの?16年?

僕が横浜から実家に戻って今年の8月で18年になるのでそんなもんでしょう。

時が過ぎるのはあっという間です。ほんとそんな風に感じます。

 

うーん・・・
夢を見たのかな?夢を見てそのまま忘れてしまったけど、心に少し残っていたからかな。

2011年に事故で亡くなった友人のことを久しぶりに思い出しました。

 

2011年の9月のことです。日曜の夜だったかな〜。
中学の同級生で友人のFから電話がかかってきました。東京に住んでたFとはたまに連絡も取ってたし、帰ってきた時にはあって飲みに行ったり(当時は酒飲んでた)遊びに行ったりっていう仲。最近は数年もの間連絡取れてないけど。

F:「あのさ、うちの母ちゃんから変な電話かかってきたんだよ。」

僕:「何?」

F:「Kが死んだって。」

僕:「は?」

こうやって書くとドラマのワンシーンみたいだけど、事実は小説より奇なりってはよく言ったもので、うちの母の癌の告知などもそうだったけど、これ、ドラマなの?って変な感じになります。

F:「うん。バイクで事故ったらしいんだ。」

僕:「新聞持ってくる!」

普段新聞を読まないので気づかななったけど、確かに死亡欄に友人Kの名前があった。
Fとは今後のことを少し話して電話を切った。

Kは紅葉の名所でもある山中の橋から50m下に落ちて死んだそうだ。
夕方帰宅して、バイクを少し乗ってくるって家を出てそのまま連絡が途絶えた。30過ぎた大人なので家族(Kは未婚だったのでご両親とお兄様)は大して心配してなかったのだけど、警察からの電話で呼び出されたそうだ。
橋の上にKのバイクが放置されているところを、バイク仲間が偶然に見つけて只事じゃないと感じ警察に連絡。Kの捜索となったそうだ。

橋の欄干にバイクが激突してそのまま体が放り出されて転落した事故だろうっていうことだった。

Fをはじめとした友人たちが地元に帰ってきて、Kの通夜と葬儀に参列。Kを偲んで飲んだりしてそれぞれの場所に友人たちは戻っていった。

 

Kは高校を卒業して関東のとあるところで就職。
勤め先が倒産して1度転職をしたが、ずーっと同じ環境で仕事をしていた。僕が横浜に住んでた頃には比較的近くにいるってことで、何度かあったりもした。
僕が両親のトラブルで実家に戻ることになり、数年がたった2008年くらいだったかな〜。もう少し後だったか、Kは突然会社をやめて地元に帰ってきた。

どうしたの?

と、聞いたら、

K:「なんかね、働くの疲れちゃった。これまでずっと働いてたから少し自由にしたい」

みたいなことを言ってたように思う。
それから葬儀に参列した友人の結婚式で2度ほどKとは会った。1度は東京での結婚式、1度は隣の県での結婚式。

隣の県での友人の結婚式の時は僕の車にKを乗せて行った。
ガソリン代、高速代、駐車場代。まあまあかかるんです。僕もKも友人のお母さんに御足代としていくらかもらったので、それで十分かなーっては思ったのだけど、僕もケチだから、

僕:「あの、Kさ。1000円でいいから今日の足代ってことにしない」

って。でもKは、

K:「勘弁してくれよー」

と。Kとの会話はそれが最後になった。
なんとなくお互いに気持ちの悪いまま、何も連絡を取ることもなく、Kの死を知ったのだ。

 

もしかしたらこの件で連絡しにくくなったかな〜っても思った。僕はいつも自分から連絡をすることはなく受け身なので。

Kが亡くなったという喪失感とモヤモヤを抱えた感じがあって、母を連れて事故現場に線香をあげに行きました。
地元の名所とはいえ行くのは初めてです。

車でまず現場を通過しました。



なんとなく違和感を覚えました。
橋を渡ったところには車を止めるところがなかったので、Uターンして戻り橋の手前に止めました。

少し歩いて事故現場に行きました。
現場はすぐにわかりました。タイヤの跡が残っていたので。

そこでまた違和感を感じました。

「これ、どんなに飛ばしててもそんな事故になるかな?」

ってことです。

 

橋の前にカーブがありました。
確かに先が見えにくい感じではあったけど、山中とはいえ道路には十分な広さがあったしカーブもスピードが出ていても曲がりきれないようなものではなかったです。

橋の欄干も十分な高さがあるように感じました。

Kは自殺だったんじゃないか?

そんな風に感じました。

 

Kの親御さんに聞いたのですが、Kは長らく家でぼーっとしてたそうです。ゲームをしたりネットをしたりで。
友人の結婚式に出た時がまさにその時期だったと思います。そんな生活も長くは続けられないので、自身がそれまでに築いたキャリアを使って友人の手伝いをし、その後に親父さんの紹介で親父さんの職場に就職したそうです。順調だったかどうかはわからないけど、その年の4月には部署移動。手を動かす技術屋だった彼が、派遣社員を管理するところに移動したそうです。

元々人間関係が苦手だった彼はもしかしたらストレスを抱えていたのかもしれないし、その日、仕事でうまくいかなくてイライラしたまま鬱憤晴らしにバイクで出かけたのかもしれない。居眠りか何かで欄干に激突した彼はどうでも良くなって、身を投げたんじゃないかな〜って。

 

誰も真相はわからないことです。

自殺であってほしいとは思わないし、事故であってよかったとも思えない。
死んでほしくなかったし、嫌なことがあったら連絡をしてくれればって思った。僕がなんとかしてあげられたとは思えないけど、愚痴を聞くくらいならできたし、一緒にお酒を飲みに行くくらいもできた。

たかだか千円で僕は友人を失ったのかもしれない・・・

 

いつだったか人の話は聞いてあげようみたいなことをここで書きました。

元気そうであっても話したがってる人の言葉を遮るようなことをしちゃダメだし、話したがってるのであったら用事があっても時間を作るべきって思う。誰かにほんの少しでもいいから話を聞いてもらったのと、そうじゃないのでは心の在り方は全然違うもんなんだよね。

友人がこの世を去ってあと2ヶ月ほどで10年になる。

40数年も生きていれば別れもあるわけで。

僕はずっと後悔してるんだよ。友人とのこと。
そのことに拘ってしまって自分を見失うようなことはしないけど、少しでも僕を必要としてくれる人がいるのならその人のために生きていたいと思うし、いつでも話を聞きたいって思う。

 

どんな風に生きていけばいいのかわからなくなって、迷ってしまっているのも事実だけどね。

僕が必要なくなったらそれはそれで良い事っても思います。

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自己肯定感の作り方。

2021年07月05日 | Life

初っ端からタイトル回収どころか否定から始まりますが、
僕、自己肯定感が人一倍低いです。作り方もわかりません。ごめんなさい。

ここんところ体調が悪い、天候が悪い、調子が悪いの悪いのてんこ盛りでテンションが上がりません。やることがないってのも大きいのかもしれませんが、ぼーっとしてしまうとすごい後悔するんですね。昼寝も15分〜20分くらいって決めてるのですが、いかんせん、目覚ましをかけないので、たまに1時間とか寝てしまいます。すごい後悔と自己嫌悪に陥ります。

でも、夜眠れないことが多いし、わりとしっかり家事をやっているので疲労感も強いです。

あと、休みという休みがないですね。6月の頭にお出かけして家のことを一切やらなかったって日が1日あったのですが、1年以上ぶり・・・いや、2年ぶりかな。土日は家族がいるので朝寝坊できるし、ご飯を作らない日もあります。でも、掃除しなきゃ、洗濯しなきゃ、片付けしなきゃ・・・ってなるので休みではないんですよね。

自分が結婚して作った家族の元で専業主夫をやるのならそれは休みとか全然関係ないのですが、母がいなくなってやむをえず1人で親父の面倒を見て、1日中家にいなきゃならないから専業主夫になって・・・義理でやっているので、仕事感覚なんですよ。となると家のことを考えなくていい日ってのはないわけで、休みがない・・・となるわけです。

 

そんな日々を送っているもので、何やってるのかな〜俺。先々暗いな〜、また年取ったな〜・・・

と。こうやって悩むのは自分のことを多少は大切にしてるからっては思う。ただ、もっと大切にしているなら家族を捨てるってことをもっと早い段階でやってただろうし、写真続けていただろうし。こういうのも自己肯定感の低さが原因だよな〜って思うことがある。自分がどうして主夫になってしまったのか、色々考えるけど、自分が悪いっていう気持ちが1番強いです。情けなくなるし、悲しくもなるし、それに基づいて否定されるのも辛いので詳しくは書きませんが、僕が悪いんですよ。

 

史上最も闇を抱えた相談凸「『エ○バの証人』から自立したい民」【2021/01/09】

 

そんなある日見つけたゆゆうたさんの切り抜き動画。
45分の長編なのですがしっかり見させていただきました。

内容は家族のあれこれエホバの証人の信者となり、そこから大学進学によって抜け出した女の子の話。母親との別れ、父親のネグレクト。しっかりした子なんですよ。奨学金と自分の稼ぎで大学院にまで進学して教職を目指してる子。こんなことなかなかできないです。大学の勉強ってやりようではあるのですが、目指す場所があったり、真剣に吸収しよう、学ぼうってなると大変です。仕事しながら院まで行くってのは余程の覚悟があったのでしょうね。

でも、どうしても卑屈になってしまう時があるのかな。

友達や恋人に対して強くあたってしまう。でも、そんな自分をみんな受け止めてくれる。それが申し訳なくてしょうがない。こんな生い立ちの自分を受け止めてくれるのはもったいない・・・的な感じかな。

それに対するゆゆうたさんの言葉が素晴らしくよかったんですよ。

 

「あなたの恋人はあなたの生い立ちなどに同情して恋人になってるんじゃないですよ。あなたを愛してるからですよ。あなたの友達や恋人はいい人たちでしょ?それはあなたがいい人だからですよ。あなたの周りの人はあなたの鏡なんです。あなたが良い人だから良い人が集まってるんですよ!」

 

なぜか動画でちんこが映って動画を削除されたり、下ネタな曲ばかり歌ってるゆゆうたさんですが、この言葉にはとても感動しました。正確には文言が違いますが、言ってたことはこんな感じです。

僕も心理学(教育心理学、臨床心理学)を学んでいましたが、自己肯定感が高いとあらゆることが解決しますし、乗り越えられます。でも、この子のように家庭環境が複雑だったりすると、自己肯定感を持つことが難しいです。どんなに頑張っていても、努力をしていても、誰から見ても素晴らしい人間でも、本人は自分を否定するんですよね。

そんな時、他人からこんな熱い言葉をかけてもらったらどんなに心強いことか。

 

僕のように、気が付けば友達がいなくなっていた、気が付けば話をする人がいなくなっていた、気が付けば恋人を作れなくなっていた、気が付けば人を好きになることがなくなっていた。

こんな風になると自己肯定感を上げようにも上げることができません。

自分の鏡となるべき人もいません。多分、僕は良い人ではないのでしょう。僕が良くないと言ってる人は良い人なのでしょう。

 

近くにいる恋人が良い人ならば、友達が良い人ならば、職場の先輩、後輩、同僚が良い人ならば・・・
少し自分を信じてあげてもいいと思いますよ。人間は社会的な動物です。1人では生きていくことはできません。友達を作り、恋人を作り、結婚し、子供を作り・・・そうやってでしか生きていけないんですよね。もちろん仕事、学校で関わる人たちもそうです。
嫌な人もいるだろうし、どうしても合わない人もいます。でも、恋人はどんな人?親友はどんな人?そんな人たちが寄ってくるあなたはどんな人?

人に熱い言葉を言える人って中々いませんよ。

 

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