@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

いつの間にか父の日が終わってた

2022年06月20日 | TwitLonger

暑いです。

暑いのはいやだな~。汗かいても全然平気な感じで遊ぶときは暑いにこしたことはないんだけどさ。でも、もう何年も遊んでないな~って思う。遊ぶってことがなんなのかすら忘れてしまったような。

父の人生を思い返そうって思ってブログ更新のページを開いたんだけど、その前に自分の事書こうかな。

19年前の8月に実家に戻って最初の数年はよかったんだよ。

やる事があったし、目標もあった。

当時は通信制大学の勉強をしていて、両親の世話をしていた期間…半年くらいかな、それを取り戻すのに必死だったのと、通信とはいえ関東圏に住んでいるのと、地方に住んでいるのでは勝手が少し違ったり、余裕がなくなったから無理にカリキュラムを詰め込むことができなくなったりで、まだ2年生だったのに1年留年になるかな~って感じだった。臨床心理士資格を取ろうとしてたから、毎週東京に通わなくちゃならない授業があったり、卒業試験で卒業資格を得られれば楽なところを卒論を選択したり、まー、あの時に勤勉さってのを全部使い果たしたってくらいに使いまくったかな。

臨床心理士資格についてはまったくもって手が届きませんでした。

1つは僕の学力不足。
心理学系はかなり自信がありました。統計学についてもしっかりできていたし、教育学部の心理コースだったので分野的にもう少し心理学を掘り下げて勉強したいってのはあったけど。問題になったのは英語力。臨床心理士の資格試験を受けるためには大学院の臨床心理コースの卒業が必須。心理学っていうのはアメリカ発祥の学問なのでレポートや論文のほとんどが英語なんだよね。だから大学院受験にも英語が必須。
僕は社会人経験がなかったから、社会人枠での入試っていうのも無理だったし、とある事情で卒業した大学の大学院への進学も諦めていたので、別大学の受験。言い訳がましくこうやって書いたけど、結局は学力不足でハードルがかなり高かった。

2つ目は資金面。
僕にも我が家にも、もうお金は残ってなかったんだ。
そもそも僕は専門学校在学中は実家の両親に頼っていたし、卒業してからも生活するのがギリギリくらいしか稼げなくて、目標としていた写真の個展を開く方法を見失うほどだったし、本当に情けない状態。親の方はそもそも年金生活に入っていたし、タイミング的に実家の建て替えってのがあった。兄貴がローンを組んでやったとはいえ、両親もお金を出したんだよね。これに僕が反対する理由はまったくなく、兄貴が重い腰を上げてくれたチャンスでもあったので、一生懸命後押しした。ちょうど大学院受験をした年にハウスメーカーと打ち合わせがあった感じ。両親に新しい家に住んで欲しかったし、なんといってもあの東日本大震災を乗り切れたのは家が新しかったってのもあって、これは間違いじゃなかったって思う。

それでも簡単には諦めたくなかったから、上にも書いたけど1度だけ受験はしました。
京都にあるとある大学。関西なんて縁も何もないのだけど、学費が比較的安かったのと地元の大学の大学院は少しレベルが低かったのもあって、一人暮らしは避けられなかったのでどうせなら遠くもいいかな~なんて考えてた。受験内容は英語と面接。英語の試験はボロボロだったけど、面接はそれなりにうまく「こなせた」と思う。グループ面接で学生同士のディスカッション。テーマはモンスターペアレンツ。ディスカッションがスタートしても誰も話し始めないから、みなさんより年上だと思うので~って子どもを持つ同級生がすでにいるというところから話し始めて・・・

ま、不合格でしたけどw

ま、ま、どちらにしても地元以外に僕が一人暮らしして大学院で勉強するっていうのは無理でした。
万が一に受かってしまったらなんとかなるかな~っては思ったけど、親父の面倒を見なくちゃならなかったしね。

ここからだと思う、何もかもうまくいかなくなったのは。

通信制の大学で得たものは大卒資格だけでした。認定心理士っていう役立たずの資格を取る資格もあったのだけど、役立たずなので資格取得料5万円が惜しくて取らず終いw
結局はなんの役にもたたない勉強だった感じもしますが、

「あなたはちゃんと最後まで勉強しなさい!あなたのような人がしっかりとやり遂げて世の中の役に立つようにならないと本当じゃない」

在学中に出会った年配の方にこんな言葉をかけてもらいました。
それまでずっと褒めてもらえなかった人生だったので、凄く嬉しかった。

あ、写真の専門学校の時にもこういう体験があったな。担当の先生に写真にハナマルをもらえたこと。これも自信につなかった。
誰がなんといおうが、この体験だけでも無駄じゃなかったって思えたし、これまでの人生で生きてるって感じたのはこの時だけだったと思う。これがなかったらって思うと自分の人生がかわいそうなくらい。

でも、何も得られなかったのは事実としてあって、父親の体調や認知もどんどん悪くなっていって、この19年間で何度か家を出ることを試みたこともあったし、あらたに何か始めようとしたこともあったけど、そのたびに親父が入院したり、体調が悪くなったり、問題行動を起こしたり・・・

こんな僕でも何者かになりたかったな~、もうちょっと写真続けたかったな~、せめて1度でいいから個展をやりたかったな~、好きな人と一緒にいたかったな~、結婚っていうものもしてみたかったし、子供はかわいいんだろうな~とか、そんな風にも思うのです。
でも、自分を過信して高望みばかりしてしまったのがダメだったし、なんといっても怠惰だったと思う。だからうまくいかなかった。

 

自分の事はここまでで、ここからは少しになるけど親父の話。

親父は病院で働いてる人だった。医者ではなく臨床検査技師。地元の高校を卒業して、今、僕が住んでるとこの専門学校に入りそのまま就職。当時の人としては遅い30歳で母と結婚して、3人の子供を授かる。60歳の定年までしっかりと勤め上げ、そののちに2,3年嘱託で仕事をして隠居。

何も横道にずれてない真っすぐな真面目な人生だったと思う。浮気もしなかったし、外で遊ぶみたいなこともしなかったしね。いつも仕事が終わると真っすぐ家に帰ってくる人だったよ。

親父は大学に行きたかったって話してた。
地元の大学の英文科に行きたかったと。親父は8人か9人兄弟の末っ子だったのだけど、男兄弟は親父含めて3人しかいなくて長男は戦後くらいに体調を崩して他界、もう一人のお兄さんは60台半ばくらいで他界するまでは立派に働いてた人だった。
でも、母親・・・僕からしたらおばあちゃんにあたる人だけど、母親の面倒を見なくちゃならなかったみたい。おじさんは自由気ままにやってた部分があったし、あとはみんな嫁いでしまっていたので、自然と親父が面倒をみなきゃならなかったみたい。
だから、専門学校時代は1時間半くらい電車で毎日通学してたんだそうだ。

他に親父に夢はなかったのかな~って思うのだけど、そういう話はしたことなかったな。

就職してからもしばらくは電車通勤していて、おじさんが実家に戻って結婚してからかな、親父は家を出て職場の近くで一人暮らしを始めたらしい。30までふらふらしてて、母ちゃんと結婚。結婚が決まったときに、看護師さんの彼女がいたんだよ~と母が言ってたけど、それ以降は浮気はしなかったと思う。

母ちゃんになんで親父と結婚したのか聞いたことがある。

「お父さんは、お母さんの家に遊びに来てた人達の中の1人なの。あなたのおじいちゃんがね若い人を世話するのが好きで、うちに飲みに来る人がたくさんいたんだよ。その中にお父さんもいたんだけど、ある時、来なくなったのね、お父さん。別に好きとかじゃなかったんだけど、いざ来なくなるとあの情けないというか寂しそうな後ろ姿を思い出してね~」

母ちゃんは多分美人さんな方だったと思う、親父は若い時はブスだったからなんで結婚したのかわからんかったのだけど、なんとなくこれで理解したw

何度もこのブログで書いてるけど、親父はお酒に負けた人間でした。いわゆるアル中です。

親父は兄貴達とは色々遊んでたみたい。
例えばキャッチボールをしたり、釣りを教えたり。高校野球の試合を見に、兄貴を自転車の後ろにのせて見に行ったなんてこともあった。従兄弟から聞いた話でも、

「おじちゃんはね、遊び人だよ。悪い意味での遊び人じゃなくて、釣りもそうだし、麻雀も得意だったし。俺も色々教えてもらった」

なのです。

でも、僕から見た親父はまったく子供と遊んでくれない人だったかな~。
もう歳をとったからっても言ってたけど、僕が物心ついたころにはそういうのがめんどうくさくなってたんだろうね。前にも書いたからはしょるけど、僕が親父に遊んでもらったって思える記憶は2つだけだもの。

親父はお酒を飲む量が増えて体調を崩したり、母ちゃんを泣かせることもあったかな。

僕が小6の時には結核になって、半年入院もした。
あの時は母ちゃんが不安で泣いてる姿とかを記憶してるので、あまり思い出したくないけどしっかりと記憶に残ってるから厄介だな。

結核を気にタバコもお酒もやめたのだけど、1年もしないうちにあっという間に元に戻った。

度々、お酒で体を壊しては入院してた。
それでも毎日仕事に行かなくちゃならなかったので、セーブできてた部分もあったのだろうけど、退職して隠居してからはダメになっていく一方だった。

横浜で一人暮らしをしてた僕の所に母からよくこんな電話があった

「お父さん、お酒を昼間から飲んでてね~。飲む量も増えてるんだ。心配で・・・」

そして、それから数年後に母が骨折して入院、お酒に歯止めが効かなくなってた親父は隠れて大量に毎日お酒を飲んで、母の退院が見えてきたころに倒れてしまい、両足の麻痺と記憶障害を負ってしまった。そして僕が実家に本格的に戻ることになって、間もなく親父のあれこれは悪化。アルツハイマー型認知症と診断された感じ。

癌だったので、一概に心労とは言えないけど、高血圧くらいしか病気がなかった母親があっという間に他界。僕が1人で親父の面倒を見るようになったけど、母の死から5年半後に肺炎で他界。

 

親父の人生ってなんだったのかな~って思うんです、最近は。

その前は母ちゃんの人生って・・・と考えていたのですが。

今の時代は違うかもですが、やはり家庭での父親の立場って微妙です。子供たちは母親になつきます。これは心理学的にも説明がつく話で、赤ちゃんの時に形成される愛着は柔らかい母親の抱っこだったりするのですよね。親父が酒に逃げてしまったのは、弱い部分が大きいとは思いますが、寂しい気持ちもあったのかな~って、今は理解ができるのです。

親父の介護は大変で、僕は一生分の大きな声・怒り声をだしたように思います。

こんなに早く逝ってしまうのならもっと優しくしてあげればよかった、そういう記憶だけを残せるように親父に接してこればよかったと後悔するんですよ。

 

最近はこんな風に思います。

子供が先に死ぬのは親不孝かもしれないけど、未来のない僕がこんな風に残るのだったら、母よりも、愛犬よりも、親父よりもずっと先に死んでたら楽だったろうにな~って。

 

ここで紹介するかはわかりませんが、こんど新しいブログを立ち上げようと思ってます。
ここと違って少し本気でやってみようと思います。僕の最後の挑戦かもな~って思っていますが、少しだけ頑張ろうかと。


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