@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

いつの間にか父の日が終わってた

2022年06月20日 | TwitLonger

暑いです。

暑いのはいやだな~。汗かいても全然平気な感じで遊ぶときは暑いにこしたことはないんだけどさ。でも、もう何年も遊んでないな~って思う。遊ぶってことがなんなのかすら忘れてしまったような。

父の人生を思い返そうって思ってブログ更新のページを開いたんだけど、その前に自分の事書こうかな。

19年前の8月に実家に戻って最初の数年はよかったんだよ。

やる事があったし、目標もあった。

当時は通信制大学の勉強をしていて、両親の世話をしていた期間…半年くらいかな、それを取り戻すのに必死だったのと、通信とはいえ関東圏に住んでいるのと、地方に住んでいるのでは勝手が少し違ったり、余裕がなくなったから無理にカリキュラムを詰め込むことができなくなったりで、まだ2年生だったのに1年留年になるかな~って感じだった。臨床心理士資格を取ろうとしてたから、毎週東京に通わなくちゃならない授業があったり、卒業試験で卒業資格を得られれば楽なところを卒論を選択したり、まー、あの時に勤勉さってのを全部使い果たしたってくらいに使いまくったかな。

臨床心理士資格についてはまったくもって手が届きませんでした。

1つは僕の学力不足。
心理学系はかなり自信がありました。統計学についてもしっかりできていたし、教育学部の心理コースだったので分野的にもう少し心理学を掘り下げて勉強したいってのはあったけど。問題になったのは英語力。臨床心理士の資格試験を受けるためには大学院の臨床心理コースの卒業が必須。心理学っていうのはアメリカ発祥の学問なのでレポートや論文のほとんどが英語なんだよね。だから大学院受験にも英語が必須。
僕は社会人経験がなかったから、社会人枠での入試っていうのも無理だったし、とある事情で卒業した大学の大学院への進学も諦めていたので、別大学の受験。言い訳がましくこうやって書いたけど、結局は学力不足でハードルがかなり高かった。

2つ目は資金面。
僕にも我が家にも、もうお金は残ってなかったんだ。
そもそも僕は専門学校在学中は実家の両親に頼っていたし、卒業してからも生活するのがギリギリくらいしか稼げなくて、目標としていた写真の個展を開く方法を見失うほどだったし、本当に情けない状態。親の方はそもそも年金生活に入っていたし、タイミング的に実家の建て替えってのがあった。兄貴がローンを組んでやったとはいえ、両親もお金を出したんだよね。これに僕が反対する理由はまったくなく、兄貴が重い腰を上げてくれたチャンスでもあったので、一生懸命後押しした。ちょうど大学院受験をした年にハウスメーカーと打ち合わせがあった感じ。両親に新しい家に住んで欲しかったし、なんといってもあの東日本大震災を乗り切れたのは家が新しかったってのもあって、これは間違いじゃなかったって思う。

それでも簡単には諦めたくなかったから、上にも書いたけど1度だけ受験はしました。
京都にあるとある大学。関西なんて縁も何もないのだけど、学費が比較的安かったのと地元の大学の大学院は少しレベルが低かったのもあって、一人暮らしは避けられなかったのでどうせなら遠くもいいかな~なんて考えてた。受験内容は英語と面接。英語の試験はボロボロだったけど、面接はそれなりにうまく「こなせた」と思う。グループ面接で学生同士のディスカッション。テーマはモンスターペアレンツ。ディスカッションがスタートしても誰も話し始めないから、みなさんより年上だと思うので~って子どもを持つ同級生がすでにいるというところから話し始めて・・・

ま、不合格でしたけどw

ま、ま、どちらにしても地元以外に僕が一人暮らしして大学院で勉強するっていうのは無理でした。
万が一に受かってしまったらなんとかなるかな~っては思ったけど、親父の面倒を見なくちゃならなかったしね。

ここからだと思う、何もかもうまくいかなくなったのは。

通信制の大学で得たものは大卒資格だけでした。認定心理士っていう役立たずの資格を取る資格もあったのだけど、役立たずなので資格取得料5万円が惜しくて取らず終いw
結局はなんの役にもたたない勉強だった感じもしますが、

「あなたはちゃんと最後まで勉強しなさい!あなたのような人がしっかりとやり遂げて世の中の役に立つようにならないと本当じゃない」

在学中に出会った年配の方にこんな言葉をかけてもらいました。
それまでずっと褒めてもらえなかった人生だったので、凄く嬉しかった。

あ、写真の専門学校の時にもこういう体験があったな。担当の先生に写真にハナマルをもらえたこと。これも自信につなかった。
誰がなんといおうが、この体験だけでも無駄じゃなかったって思えたし、これまでの人生で生きてるって感じたのはこの時だけだったと思う。これがなかったらって思うと自分の人生がかわいそうなくらい。

でも、何も得られなかったのは事実としてあって、父親の体調や認知もどんどん悪くなっていって、この19年間で何度か家を出ることを試みたこともあったし、あらたに何か始めようとしたこともあったけど、そのたびに親父が入院したり、体調が悪くなったり、問題行動を起こしたり・・・

こんな僕でも何者かになりたかったな~、もうちょっと写真続けたかったな~、せめて1度でいいから個展をやりたかったな~、好きな人と一緒にいたかったな~、結婚っていうものもしてみたかったし、子供はかわいいんだろうな~とか、そんな風にも思うのです。
でも、自分を過信して高望みばかりしてしまったのがダメだったし、なんといっても怠惰だったと思う。だからうまくいかなかった。

 

自分の事はここまでで、ここからは少しになるけど親父の話。

親父は病院で働いてる人だった。医者ではなく臨床検査技師。地元の高校を卒業して、今、僕が住んでるとこの専門学校に入りそのまま就職。当時の人としては遅い30歳で母と結婚して、3人の子供を授かる。60歳の定年までしっかりと勤め上げ、そののちに2,3年嘱託で仕事をして隠居。

何も横道にずれてない真っすぐな真面目な人生だったと思う。浮気もしなかったし、外で遊ぶみたいなこともしなかったしね。いつも仕事が終わると真っすぐ家に帰ってくる人だったよ。

親父は大学に行きたかったって話してた。
地元の大学の英文科に行きたかったと。親父は8人か9人兄弟の末っ子だったのだけど、男兄弟は親父含めて3人しかいなくて長男は戦後くらいに体調を崩して他界、もう一人のお兄さんは60台半ばくらいで他界するまでは立派に働いてた人だった。
でも、母親・・・僕からしたらおばあちゃんにあたる人だけど、母親の面倒を見なくちゃならなかったみたい。おじさんは自由気ままにやってた部分があったし、あとはみんな嫁いでしまっていたので、自然と親父が面倒をみなきゃならなかったみたい。
だから、専門学校時代は1時間半くらい電車で毎日通学してたんだそうだ。

他に親父に夢はなかったのかな~って思うのだけど、そういう話はしたことなかったな。

就職してからもしばらくは電車通勤していて、おじさんが実家に戻って結婚してからかな、親父は家を出て職場の近くで一人暮らしを始めたらしい。30までふらふらしてて、母ちゃんと結婚。結婚が決まったときに、看護師さんの彼女がいたんだよ~と母が言ってたけど、それ以降は浮気はしなかったと思う。

母ちゃんになんで親父と結婚したのか聞いたことがある。

「お父さんは、お母さんの家に遊びに来てた人達の中の1人なの。あなたのおじいちゃんがね若い人を世話するのが好きで、うちに飲みに来る人がたくさんいたんだよ。その中にお父さんもいたんだけど、ある時、来なくなったのね、お父さん。別に好きとかじゃなかったんだけど、いざ来なくなるとあの情けないというか寂しそうな後ろ姿を思い出してね~」

母ちゃんは多分美人さんな方だったと思う、親父は若い時はブスだったからなんで結婚したのかわからんかったのだけど、なんとなくこれで理解したw

何度もこのブログで書いてるけど、親父はお酒に負けた人間でした。いわゆるアル中です。

親父は兄貴達とは色々遊んでたみたい。
例えばキャッチボールをしたり、釣りを教えたり。高校野球の試合を見に、兄貴を自転車の後ろにのせて見に行ったなんてこともあった。従兄弟から聞いた話でも、

「おじちゃんはね、遊び人だよ。悪い意味での遊び人じゃなくて、釣りもそうだし、麻雀も得意だったし。俺も色々教えてもらった」

なのです。

でも、僕から見た親父はまったく子供と遊んでくれない人だったかな~。
もう歳をとったからっても言ってたけど、僕が物心ついたころにはそういうのがめんどうくさくなってたんだろうね。前にも書いたからはしょるけど、僕が親父に遊んでもらったって思える記憶は2つだけだもの。

親父はお酒を飲む量が増えて体調を崩したり、母ちゃんを泣かせることもあったかな。

僕が小6の時には結核になって、半年入院もした。
あの時は母ちゃんが不安で泣いてる姿とかを記憶してるので、あまり思い出したくないけどしっかりと記憶に残ってるから厄介だな。

結核を気にタバコもお酒もやめたのだけど、1年もしないうちにあっという間に元に戻った。

度々、お酒で体を壊しては入院してた。
それでも毎日仕事に行かなくちゃならなかったので、セーブできてた部分もあったのだろうけど、退職して隠居してからはダメになっていく一方だった。

横浜で一人暮らしをしてた僕の所に母からよくこんな電話があった

「お父さん、お酒を昼間から飲んでてね~。飲む量も増えてるんだ。心配で・・・」

そして、それから数年後に母が骨折して入院、お酒に歯止めが効かなくなってた親父は隠れて大量に毎日お酒を飲んで、母の退院が見えてきたころに倒れてしまい、両足の麻痺と記憶障害を負ってしまった。そして僕が実家に本格的に戻ることになって、間もなく親父のあれこれは悪化。アルツハイマー型認知症と診断された感じ。

癌だったので、一概に心労とは言えないけど、高血圧くらいしか病気がなかった母親があっという間に他界。僕が1人で親父の面倒を見るようになったけど、母の死から5年半後に肺炎で他界。

 

親父の人生ってなんだったのかな~って思うんです、最近は。

その前は母ちゃんの人生って・・・と考えていたのですが。

今の時代は違うかもですが、やはり家庭での父親の立場って微妙です。子供たちは母親になつきます。これは心理学的にも説明がつく話で、赤ちゃんの時に形成される愛着は柔らかい母親の抱っこだったりするのですよね。親父が酒に逃げてしまったのは、弱い部分が大きいとは思いますが、寂しい気持ちもあったのかな~って、今は理解ができるのです。

親父の介護は大変で、僕は一生分の大きな声・怒り声をだしたように思います。

こんなに早く逝ってしまうのならもっと優しくしてあげればよかった、そういう記憶だけを残せるように親父に接してこればよかったと後悔するんですよ。

 

最近はこんな風に思います。

子供が先に死ぬのは親不孝かもしれないけど、未来のない僕がこんな風に残るのだったら、母よりも、愛犬よりも、親父よりもずっと先に死んでたら楽だったろうにな~って。

 

ここで紹介するかはわかりませんが、こんど新しいブログを立ち上げようと思ってます。
ここと違って少し本気でやってみようと思います。僕の最後の挑戦かもな~って思っていますが、少しだけ頑張ろうかと。


パリピ孔明

2022年05月23日 | TwitLonger

なんとなーく連日更新。

今日は家のあれこれ済ませてから、ほぼ1日中寝てました。
逆流性食道炎かなーって思います。寝る前にラーメン食べたり、やけ食いしたりしてその症状が出たことはあるんだけど、そういうの一切なしで出ました。で、1ヵ月半前くらいから軽い咳が出ることがあって、それと合わせておえっときたのでなかなかに苦しくて、そのまま眠れなくなったのでした。で、朝、買い物にいって晩御飯の1品を仕込んで、乾燥が終わった洗濯物をたたんでるところでダウン。ほんとはダウンなんてしてる暇ないんだけどね。でも、ちょっと休ませてもらいました。

で、表題のパリピ孔明ですよ。

来季の夏アニメが、オーバーロード、ダンまち、はたらく魔王さま!などなど大物ぞろいなせいか、今期はちょっと小物感があるんですよ。キングダムなんかかなり良いけどね。そんな中で、1話見た時点で今期の覇権やって思ったのがこのパリピ孔明でした。

設定の面白さや、舞台となるクラブ、BBラウンジのオーナーのキャラの良さとか全部おもしろい。

もちろん、現代にしっかりとはまってる孔明とヒロインEIKOのかわいらしさと前向きさが素晴らしくよく、EIKOの歌唱をしている96猫さんもはまってる。基本はギャグアニメだとは思うのだけど、EIKOが孔明という最強軍師を得て立身出世していくサクセスストーリーであり、最終回の驚きのラスト(って、アニメの宣伝で言ってる)に向けてそれぞれに夢などを持った仲間が集まっていく、群像ものでもあるかなーと。

他にもラッパーとして登場する赤兎馬カンフーは呂布カルマさんから名前とってるよなーとか、あくまでも想像だけど、なんでKABE太人なんて名前なんだろうって考えたところ、ライバルの赤兎馬の赤とKABE(壁)を合わせて赤壁の戦いなのかなーとか、小ネタもおもしろいんですよね。(※原作は読んでないのでアニメのみでの想像です)

 

で、何よりもこのアニメに一気に引き込まれたのは1話で孔明がEIKOの歌声を聞いて一気に引き込まれるところ。

なんとなく、映画「スタア誕生」みたいなのを思い出しました。新しいのではレディーガガさんがヒロインでリメイクされてますよね。
あの映画は悲劇で終わるのですが、パリピ孔明の場合はそんな終わり方はしないよなーっていう安心感もありますね。ポテンシャルはあるものの、まだ誰でもない歌姫がスター街道を駆け登っていくってのはとんでもないカタルシスをえられるよなーって思うのです。それがEIKOのような嫌な部分が1つもないヒロインが登り詰めていく姿はなかなかによいのです。

この体験は何気に僕にもあったことってのも大きいかも。

もちろん、スタア誕生のあの人や孔明みたいに後ろ盾になってなんてことはなく、単なるいちファンでしかなくて、見てるだけだったんですが。

ある日、ネットで物凄い歌唱力の女性を見つけたんです。
ほんとうに1話の孔明みたいに、ズバーー-ンって何かが走り抜けるみたいな衝撃を受けて、即、友達に凄い凄いって連絡をとったことをついこの間のことのように覚えています。
その人もどんどんスター街道を駆け登っていって、あっという間に手の届かない所まで駆け上がりました。フォロワーも1000倍にまで増え、3000万人以上の会場を埋めるくらいに。

音楽の事はあまりわからないけど、EIKOとは違って逆に洗練され過ぎていて、それが弱点かなーって思っていたのだけど、泥臭さも手に入れてより心に届く歌声になっていって、もう弱点なんてなに1つないなーってなったのでした。

僕は孔明でもなんでもなく、最初から最後まで遠くで見ているだけだったけど、おおよそ10年に渡る物語はなかなかに良いものでしたよ。

 

パリピ孔明も異世界転生ものというか、タイムスリップものというか、今流行りのあれではありますが、かなり楽しめると思うので今からでも見るべきです!


夢の中にでてきた夢のような日々

2022年03月27日 | TwitLonger

一昨日かな?
一昨日のお昼くらいから右側の肩から首にかけて、割と広範囲に痛みがありました。痛みの種類からして寝違えた感じかなーって。でもちょっとおかしいのは、寝違えなら起きたときから気づくんじゃねーのか?ってとこ。
ま、いいかとその日は過ごしたのですが、昨日になって悪化。腕は上がらなくなるし、首はほぼ動かない。首を上に上げられないもんだから、缶コーヒーを飲み干せずにストローを使う感じ。かろうじてパソコンのキーボードとマウスを操作できてたんだけど、午後になってそれすらもつらい状態に。ロキソニンを飲んでもよくならず。寝ても起きても座っても痛くてどうにもならなかった。
これはヤバいかなーって思ってた所で車屋さんから電話。夕方車を取りに行きますってことだった。地震とか色々あって少し伸びてしまったけど、一昨年の10月に購入したSUVを売却したのでした。夕方になって車屋さんが来て、2時間くらいあれこれ愚痴を聞いてもらったりして、車はドナドナと旅立って行ったのですが、そこでふと気づくのです。

「あれ?痛くない」

ほんの少し違和感は残ってるものの、肩をぐるぐる回しても全然平気に。
あれはなんだったんだろうな~って。車屋さんは気が付けば付き合いが15年以上。僕より少し年下の友達って感じです。ここんとこずーっと家に閉じこもってパソコン作業をしてたので、久々に対面で人と話をして愚痴を聞いてもらってすっきりしたことで治ったのかも。あと、車ですね。一昨年、家のごたごたが解決してきたなーって時に買った車です。僕は完全にオーバーワークシンドロームのような状態で、しっかり思考もできなくて、ただただ憧れのSUVを買ったわけです。
その後、兄貴から維持費問題で手放せって言われたり、知り合いにそれは残しておくべきって言われたり、僕自身も残しておきたいけどガソリン代が・・・自動車税が・・・と重荷に感じる部分があったり。
結局、親父の入院費や施設費で自動車税と車検分(今年の10月にあります)で残しておいた貯金が全てすっ飛び、10月に親父が他界し車の維持がさらに難しくなって売却を決めたのですが、売却を決めた後も買い取るって言った親戚にドタキャンされたり色々あった車なのです。夢の、憧れのSUVではあったけど、重荷になってたのかなー。それですっきりしたってのもあるのかも。

 

と、ここまでが前置きというか挨拶的なもので、すでに1000文字超えているんですが、夢のSUVってことで、夢つながりの今日見た夢のお話が本題です。

4時ごろにトイレに起きて、その後、8時過ぎまで寝てたのですが、その4時間の間にだけ見てた夢なのか、それ以前から途中中断を経て長く見た夢なのかどっちかはわからないのですが、兎に角、ながーい夢をみました。

舞台は20年ほど前まで住んでいた横浜の僕のアパートでした。

時代的には、多分僕が住んでた20年前くらいだと思われます。僕は専門学生ではなく、大学入学とともに上京したてで、でも年齢は20代半ばくらい。
普通に大学に通っているんだけど、大学にはまだ友達がいない感じでただただボロアパートと大学の往復をしてる感じ。そしたら住んでいたのか同じく引っ越してきた、お母さんと娘さんの親子に挨拶される。お母さんは全盛期の藤谷美和子さんみたいな人で明るくて凄い美人で。娘さんの方は二十歳くらいで、控えめでかわいらしいかんじだったのだけど、あまり印象にのこってなくて。

で、その親子とずっと仲良くしてたのだけど、ボロアパートが取り壊されるって話になって、徐々に端から順番に取り壊されていって、部屋を追い出された人たちが僕の部屋に集まってくるの。まずはその親子がきて、俺もいいですかってイケメン(印象がすごく薄い)がきて、中年の夫婦がきて・・・

僕の部屋は荷物が少なくて広いからいいよーって。

そしてその人達とわーわー楽しくしてて。

僕はその親子の娘さんが好きなのだけど、イケメンに負けるよなーって思いつつも、そのイケメンより仲良くしてて。でも、最終的にはイケメンに負けるんだよな~って。

その親子と一緒に買い物に行ったり、娘さんの方も同じ大学で一緒に行ったり、取り壊されてる最中のアパートを見たり・・・

 

っていう、たわいもない夢なんだけど、やたらとリアリティーがあって。

僕が横浜の時に住んでたアパートってわりと広かったんです。
写真学校だったので暗室を作らなくちゃならなくて、横浜に行ったときに住んでたアパートじゃ手狭だからって学校が斡旋してる不動産屋さんで紹介してもらったアパート。あの学校の生徒が使うからって、広めでボロくて安いアパートばかりだったんですよねラインナップがw間取りでいうと6畳間があって、本来なら4畳半で仕切ってある部屋とキッチンをつないで、かなり広いキッチンダイニング(そんな綺麗なもんじゃなかったけどw)、風呂トイレ別だったし。夢に出てきた部屋はもう少し広くかんじたけど、友達を10人呼んで忘年会をしたりした部屋だったので、夢の話みたいなことが起こってもあり得なくもないなーって。アパートが取り壊されるってのも、実家に戻ってから3,4年くらいたったところで、Googleストリートビューで確認したら新しく建て替えられていたので、僕が引っ越してからすぐに取り壊されたんだろうね。

そして美人親子ですよw
これは藤谷美和子さんではあったけど、好きな映画でもある「容疑者Xの献身」の松雪泰子さん、金澤美穂さん親子のイメージなのかなーと。藤谷美和子さんだったってのは、ファンだったわけじゃないけど、当時の言葉でいうと「プッツン」のイメージを抜きにしても、いつもニコニコしてるやわらかい感じの美人で優しそうでってところが、今の自分が求めてる女性像なのかなーって感じたのでした。

夢の中では20代半ばだったけど、僕の実年齢は40代半ば(過ぎという噂も)なので、実際に好きになるのは30代半ば過ぎの女性になると思われるので、お母さんの藤谷美和子さんの方が印象が強かったのでしょう。

でもその反面、娘の方と仲良くしてて、イケメンに取られそう!っていうのも、なーんかリアリティーがあるんだよなーw

専門学校の時に好きな子が2人ほどいました。
どちらも彼氏持ちだったし、どちらも僕にはもったいないような美人で。で、どちらとも仲良かったんです。彼女たちは僕を男として見てなかったんでしょうねw
1人は途中で学校やめちゃって、それでも親友みたいな付き合いができるなーって思ってた感じ。もう1人はある時期・・・3,4か月続いたかな、僕のアパートに週に3日は遊びに来てました。1人で来た時もあったけど、多くは他の女友達と一緒に。この子の事はどうにもならないくらい好きっていうよりは、わりと現実的にナチュラルに一緒にいるのが楽しいなー、自然だなーみたいな。
でも、この子、彼氏がいたし、何よりも僕の友達のセフレだった時期があってね。わりとそういう関係に潔癖だった当時の僕は、なんかただただ悲しくなってたの。で、最後にこの子がアパートに来た時に学校のレポート作成を手伝ってあげたんだけど、レポートを作り終わり、2人で歩いて学校に行ってレポートを提出して、また歩いて帰ってきて、その子がご飯を作ってくれて一緒に食べて、色々お話してたんだけど、その子が寝てしまって。
寝てる間、僕はどうしていいかわからなくて。普通だったら手を出したかもしれないのだけど、あいつのセフレなんだよなーって想いがいっぱいになって、ここで手を出したらあいつと同じだよな、この子は僕に対してそういう関係を求めて来てるわけじゃないよな・・・って。で、その子が寝てる間にパソコン作業してしまってね。

その日を最後にその子はうちに遊びに来ることはなかったんだよね。
学校も卒業制作のばたばたした時期に入って、時々顔を合わせては挨拶してたり、卒業式の時に一緒に写真をとったりはしたけど、なんか友人関係としてもあっさり終わってしまったのでした。で、結局、写真をどう続けていいかわからなくなって路頭に迷って、学校の友人達に顔を合わせるのがきつい時期にはいって、もう一人の好きだった子とも疎遠になって、やがて僕は実家に戻ることになって、完全に関係は途絶えてしまったんだよね。多分、今でも専門学校の仲間たちは定期的に会ってると思う。僕も1度誘われたことがあったけど、母が亡くなった年の年末でどうにも身動きがとれなかったのもあって断ってしまったんだよね。東京まで行くお金もなかったし。その後連絡がなくなったんだよね。

今日見た夢の色んな人が集まってドタバタみたいなのは、ベースはめぞん一刻にあるとおもう。

これも先日、高橋留美子さんのインタビュー動画をYouTubeで見たから。一番好きな漫画がめぞん一刻だから。
それにプラスして、どんどん人間関係が少なくなっていって孤独になっていく自分が求めているのが、横浜時代のアパートにたくさんの友人が集まってた時のことや、その好きだった子が遊びに来てた日々が懐かしくてたまらなくて、今現在、とことん求めているからなんだろうな~と。

心理学の勉強してたときに、臨床心理の講義で先生が言ってたのが、

「夢は心の状態が現れるよー」

ってこと。自分の精神状態を見る時に判断材料になるわけです。
でも、夢は荒唐無稽なものが多いし、多くは忘れてしまうわけですね。夢のメモを取るなんてことはやらない方がいいし、夢に囚われるのもよくないし。ま、ただ、今の僕は色んな事に自由に挑戦して、友人とあーだこーだ話し合ってて、誰かを好きになってたあの頃を求めているんでしょうね。
この1年、色々な事があって、自分自身も変わらなくちゃならなくて・・・潮時だなって思った事もあったし、これからますます頑張ろうって思ったこともあったし。中年になって、おっさんになって、それでも若い時の気持ちを忘れてない自分はすげーなーって思うけど、そろそろいい加減に過去に囚われずに生きて行けよってもおもうのでした。

 


三寒四温

2022年03月24日 | TwitLonger

春分の日が過ぎて、なのに雪降ったり
しかもまた大きな地震が起こって。東北に住んでいるのでなんとも落ち着かない日々を過ごしています。

ちょっとまたまた陰気な話になりますが、僕はあと数か月くらいに人生のあれこれを決めなくちゃなりません。

このまま実家で兄と暮らすのか、仕事はどうするのか・・・そういう色々。

僕ができることって凄い限られてるんですよね。
っていうのも、なーんも特技があるわけでもないのですよ。凡人もいいとこ。
それでも何かしらできないかって足掻いて足掻いて挑戦してたのが、20年前くらいのはなし。
家に戻ってきてからも、あれこれ挑戦してきたし考えてもきたのだけど、やはり何にもできないんですよねw

あー、しにたいって気持ちはこういうことなんだ。
あー、こういう時に決断してしまう人はしてしまうんだ・・・

そんな日々を過ごしています。情けないのですが。

友達と話したり、大好きな人から連絡が来たり、温かくなる時もあるのですが、家で1人で無意味な作業をしているとどうにもならなくなるタイミングもありますね。

気候だけじゃないんすよ、三寒四温。

三寒四温はそもそもは春先の気候を指す言葉じゃないらしいのですが、三寒四温を繰り返して、やがて暖かくなって、春がくるっていうのが僕のイメージです。

うーん、人間の心の三寒四温にもやがて春が来ればいいのですが。それはなかなかに難しいことかもしれませんね。


情報の目的と方向性

2021年07月26日 | TwitLonger

僕の大好きなアニメ「銀河英雄伝説」に出てくるバグダッシュさんの名言。

「世の中に飛び交っている情報ってものには必ずベクトルがかかっているんだ。つまり、誘導しようとしていたり、願望が含まれていたり、その情報の発信者の利益を図る方向性が付加されている。それを差し引いてみれば本当の事実関係に近いものが見えてくる」

これに対してユリアンが、

「でもその発信者が見えない時はどうするんですか?」

再びバグダッシュ。

「よく言うだろ。犯罪が行われた時、その犯罪によって利益を受けるものが真犯人だって。それと一緒さ。」

 

突然、なんやこいつって思われそうですが、まだ若いユリアンが遥彼方の地球に旅立つ時に手向けとしてバグダッシュより渡された言葉です。SNS社会、情報化社会って言われるようになって随分たちますが、その辺に散らばってる情報にはいろんな種類のものがあって、それぞれにベクトル(方向性)があって、思惑がある・・・

そんな風に考えた方がいいよ、受け止めた方がいいよって思うことがあって、このバグダッシュの言葉を思い出したのでした。

例えば、

「あのパン屋さんのカレーパンがすごくおいしいよ!」

と噂を聞いたのだけど、Aさんは、

「いやいや、それほどじゃないって聞いてるよ」

Aさんはその話をBさんから聞いたと。
Bさんはカレーパン好きで有名。信用できる人だからこの情報は間違いないとAさんは信じたのです。でも、巷の噂とは逆の評価。いったいこれはどういうことだろうと、私は実際に買って食べてみることに。

すごくおいしかった!

じゃ、AさんがBさんから聞いた話は嘘だったのか?
Aさんが嘘をついてる?Bさんが嘘をついてる?

実はこのカレーパンは数量限定でした。
だから、カレーパンが大好きでとにかく毎日食べたいBさんは、美味しいと評判過ぎると自分の分が確保できないかもしれないと考え、嘘の噂を流していたのです。

この場合、得するのはBさんで損をするのはAさんとAさんから話を聞いた私。それからパン屋さん。

中々良い例えが思いつかなくてこんな話にしましたが、単純でわかりやすい場合だとこんな風になります。私はAさんの言葉を半分信じたし、AさんはBさんの言葉を信じたわけです。ここには人間関係っていうものも関わってくるかもしれませんね。
私にとってはAさんは友人だけどBさんは友人の友人。情報の信頼度や重みが半分くらいになっててもおかしくないです。でも、それに対してAさんにとってBさんは友人なので信用すべき情報だし、信用しないと人間関係が怪しくなる可能性が出てくるわけです。

今回はBさんがカレーパンを確実に手に入れるためについた嘘情報だったわけですが、こういう可能性も出てきます。

Bさん「実はこの情報はCさんから聞いたのだけど・・・」

Cさんはとても頭が切れる人間です。CさんはBさんが大好きで独占したいと常に思っています。でもBさんはAさんと仲が良くていつも一緒にいます。Cさんはそれが悔しいし、なんとかAさんとBさんを仲違いしたいと思っています。

Bさんは無類のカレーパン好きですがそのパン屋さんのものはまだ食べたことがなかったのです。

なんで食べていなかったか?
それはBさんが信用するCさんが、あのパン屋さんのカレーパンは美味しくないと言っていたからです。

Bさんはその情報をAさんに伝えます。
Aさんはさらにその情報を私に伝えてきました。

私はあのカレーパンは美味しいと判断し、その情報元のBさんを怪しいと感じます。

実は私はCさんとは仲良し。私はCさんとカレーパンの話になり、CさんはBさんをこんな風に話します。

「あのBさんって人は自分がなんとしてもカレーパンを独占したいから美味しくないって言ったみたいだよ」

私はBさんとは面識がないからCさんの情報を鵜呑みにします。そしてそれをAさんに伝えます。

AさんはBさんをどんな風に思うでしょう。

 

たかがカレーパンなので大喧嘩には発展しませんが、AさんはBさんを信用しきっているわけです。
それなのに嘘をつかれた。Bさんを疑い始めますよね。そうなると自然とBさんと距離を取るようになるかもしれません。AさんははっきりとBさんに「なんで嘘をついたの?」と言えば良いのですが、人間ってそんな簡単じゃないです。関係が悪化するのを恐れたり、嘘の理由が怖くて聞くことが難しいのです。そうなると私から聞いたCさんの情報がBさんに伝わる可能性はかなり低いと考えられます。

結果としてBさんはAさんとの距離感が少し遠くなり、Bさんのことが大好きなCさんはBさんに急接近するわけで。

 

他にも様々なパターンがあるし、関わる人が多ければ多いほど、その人間関係が複雑なら複雑なほどに情報っていうのは迷走してしまうものなのかもしれませんね。伝言ゲームは参加する人が多ければ多いほど、伝言する内容が複雑なら複雑なほどに正確に伝わっていかなくなりますよね。それと同じです。

そこに悪意などが加わっていると、こんなに怖い話はないわけです。
もしかしたら命や財産を奪おうとしている、友人関係や恋愛関係などを壊そうとしている・・・そういう悪意が付加されてる可能性があるわけですから。

 

僕はオカルトが大好きだし、占いみたいなスピリチュアルなことも大好きです。

でも、ある程度の距離感を必ず持つようにしています。自己啓発的なことにはもっともっと距離感をもちますし、宗教的なことに関しては学問的に触れたり、知識的に触れることはありますがそれ以上は近寄らないです。

例えば陰謀論みたいな話。

これ、紐解いていくと嘘くさい事ばかりなのですが、たまーに真実だったりもします。9割嘘で1割真実・・・そういうのってやたらと面白いじゃないですか。だから耳を傾けるんです。面白い「ネタ」として。だって、世界のあれこれはエヴァのゼーレみたいな人たちにコントロールされている!!なんて話、ワクワクするじゃないですかw

その程度に楽しむのなら良いのですが、本気で信じてしまう人たちがいるから情報は怖いのです。

 

どんなに怪しい情報でも信じてしまう場合はたくさんあります。

 

・例えば心を完全に許している家族や友人が伝えてきた情報。
これは先程の例え話での私、Aさん、Bさん、Cさんの人間関係の話ですね。Bさんを信じきってるAさんは情報を完全に信用しますが、Bさんを知らない私は少し疑います。CさんはBさんに嘘の情報を信じ込ませています。こんな関係ですね。
距離や関係が近ければ近いほど、長ければ長いほどに情報の信頼性は増していくわけです。

・その情報を誰が信じているか。
自分が大好きな芸能人が信じてる情報だったらどうだろう?尊敬しているスポーツ選手、同じく尊敬している先生など。自分が叶わないと思っている優秀な人。大人気の文化人・・・ステマ事件ってブログの全盛期にありましたね。芸能人の方が普段使いとして使っている化粧品やサプリなどをさらっと紹介してたけど実は企業からの案件だったってやつ。この人が使ってるのだから間違いない!!そんな心理を利用されたものでした。これと同じで自分が好きだったり尊敬してたり、信じてる人たちが信じていたり、そういう人からもたらされた情報ってのは無条件に信じちゃったりしますよね。そこに悪意が込められたり、全くの嘘情報fあったりすると色々とめんどくさいです。好きじゃないけど、偉人的な人みたいなのも当てはまりますね。

・情報の専門性
全ての分野に精通した・・・例えば元2ちゃん管理人のひろゆきみたいな人ってのは稀です。彼もわからないことはググっていると言っているくらいで。法律、医学・・・あとは何があるかな〜。そういった身近だけど専門性の高い知識っていうのは厄介です。わからないのですから、テレビや雑誌、SNSで拡散されてる情報源は高明な専門家さんですってなったら、信用するのは当たり前です。でも、すでに古い情報であったり、そもそも間違っている情報っていう可能性もあるのです。もしかしたら、悪意をのせて発信しているかもしれないし、その専門家の名前を使って嘘の情報が流されてるかもしれない。そもそもその専門家が儲けようと企んで情報を発信してるかもしれない・・・しっかりと判断したいところですが、かなり難しいですね。

 

他にも色々あるのですが、とりあえずはこのくらいで。
僕も10何年前の話ですが、大好きだった女性に嘘をつかれて酷く落ち込んだことがあります。僕がその人を好きっていうのを利用されたわけですね。完全に信じ込んでしまって、裏切られた感が半端なかったです。
僕と友人2人してとある人に騙されたってこともありました。その人は嘘をつかないだろう、そんな大前提が僕と友人にはあったのかもしれません。でも、あっさりと嘘をつかれました。嘘ばかりでした。

例えに出したカレーパンの話、カレーパンくらいだし、敵意というよりは好きがこうじてしまってのCさんの嘘なのでこの人達の人間関係は修復可能って思うし、もしかしたら笑い話になっているかもしれないです。でも、情報の取り扱いを間違うと命や財産に関わることになってしまいます。
特に今みたいな全世界的に大混乱している時代、飛び交う情報の精査って難しいですよ。悪意をのせる人たちも自然と多くなるし、なんとかして儲けよう、なんとかして有名になろう・・・そんなものを情報にのせている人なんていくらでもいます。誰を信用して、誰を信用しないかってのも難しいし、人間関係にひびが入りかねないことですから。

情報を紐解くとき、1方向からだけじゃなく、多方向からじっくりと見て、調べて、聞いてから信用するかしないかを見定めてみてください。時間や労力があなたを確実に救ってくれると思います。

 

 

・・・っていう、このブログ記事が本当かどうかもしっかりと調べてくださいね。


2021年03月22日 | TwitLonger

恥の多い生涯を送って来ました。

 

・・・人間失格を読んで最初に浮かぶ感想ってどんなんだろう?

あー、自分のことにあてはまる。なんか共感できる、自分もこんな感じだよ。

 

僕は何気に人間失格を読んだことがないw

もうこれ自体が人間失格なんじゃないかとさえ思われますね。はい。
なんとなく、人間失格という言葉に引っ張られた感想を持っちゃうようにも感じます。名著所以の素晴らしさかな・・・なんて思ったりもします。太宰は天才ですしね。

で、ですよ。

僕は長年このブログをやってきて(長年休んでもいたしほとんどうが非公開ですが)、ほぼ全てをパソコンで書いています。もちろん昔はパソコンしか書く術がなかったわけですが、今はスマホのアプリなんかもあるわけです。

昨夜書いたブログはスマホで書いています。

普段と雰囲気が違うのは思いを込めたからってのもありますが、スマホで書いたことが大きいでしょう。感覚が違いますよ。だからなのか、

「心の音が聞こえたから今夜はおやすみなさい」

なんて自分らしからぬ「良き」なタイトル!

福山雅治さんの曲名を合わせただけなんですけどねw

 

でも、スマホで書く感覚の違いは大きいと思ったのでした。

 

そして本日も少し実験。

今日のブログのタイトルは「報」です。

 

いつも・・・というか7割は文章を書いた後にタイトルを決めています。昨夜はタイトルからでしたが。

今日はタイトルから決めています。じゃ、この「報」はどんな意味でしょうか。答えは最後に。

 

ここまでの流れに関係のない話ですが、エンディングノートを少しずつ書いていこうって思っています。

 

エンディングノートの構想は数年前からあります。
具体的にいうと母が亡くなった後の8月です。おばさんとの話の中で、自分が死んだ時に遺書ほど強くはないけどある程度の方針を示すことができるからいいと思うよっていう僕の提案ですね。おばさんはまだまだ元気ですが80を過ぎています。そして、家族のことで少し悩みを持っていました。そもそもおばさんのとこは仲良し家族なので必要ないと思うのですが、悩みが全くないわけもなく、どうやって角が立たないように家族にそれを知らせるかを考えていたわけです。

自分が死んだ時に伝われば十分。

この言葉ですね。角は立たないはずです。
エンディングノートを少しずつでいいから書いていくと良いはずですよね。伝えたかったけどなかなか伝えられないこと。良いことならほんのりと素敵じゃないですか。良くないことでも工夫をすれば優しく伝わるかもしれない。

死者の特権。

そんなものがあればいいのかなと。
もちろんおばさんにはそこまでは伝えなかったですが。

 

僕バージョンのエンディングノートはどんなだろう?

 

2年くらいずっと考えましたが、実務的なことばかり出てきます。

自分が親父より早く死んだ場合
保険などの支払いをどの口座にいくら入れればいいか。

自分が兄より早く死んだ場合
支払いのあれこれ(保険はほとんどない)

共通
車の処分について。
荷物(遺品)の処分について。
デジタル荷物の処分について(パスワードなど)。
友人への連絡について。
葬儀の仕方について。
兄が1人でやるための家事について。

ざっとあげるとこんな感じかな。


母は突然に意識がなくなり突然に亡くなった。
なので大切なものを大切にしてあげられなかったかもしれないって思いが強かったから、自分は・・・って思うのだけど、なんとなくその大切なものってのがなんなのか思いつかなかったかな。

棺に一緒に入れるものを、

「あいつはこれが好きだったから」

と、えらい勘違いなものを入れられるのは困るなーとか考えると少しおかしくもなってくるw

 

うん。

 

大切なもの、それはなんだろう。

思い浮かぶのは大切な友人、大切な人。

でも僕はそういった大切に関わる思い出の品がなかったりもする。

 

大切なものは、必要以上に覚えてる僕の頭の中の記憶なのかも

 

そんな風に思い始めると、エンディングノートに何を残すべきなのかぼんやりと浮かんでくる。

 

小学校の時に楽しかったこと悔しかったこと

少し大人になってやりたかったこと、好きだったこと、好きになった人

自分の道が見えてきて、本当にやりたかったこと、行きたかった場所、一緒にいたかった人

挫折をしてぼーっと生きていた頃に、悔しかったこと、嬉しかったこと、泣きたかったこと・・・

 

ほんの少しでもいいから本当の自分を知って欲しかったのかなーと、まだ元気にピンピンしてる自分を俯瞰して見始めることができた。

 

恥の多い人生だったぜ!

 

これじゃしっくりこないよねw

 

恥の多い生涯を送ってきました・・・

 

この出だしって本当にしっくりくるんですよ。自分の人生・・・いや、多くの人が人生を振り返るときに。

自分の人生を振り返るとき、やり残したことの多さ、後悔の多さ、人に知られたくないことの多さ・・・

でも、そういうのも知ってもらえたら浮かばれるのかなーっても思うんですね。

 

僕は明るい人間だと思いますよ。

だから少し自分の失敗ばかりの恥の多い人生を見てもらって、笑ってもらえたら嬉しいんじゃないかなと思うのです。

 

高校と大学の受験失敗。
その後の2、3年のダラダラ生活。

 

僕の後悔の多くはここに凝縮されてます。
怠惰だったんです、単純に。この時間に怠惰だったからその後どんなに頑張ってもうまくいかないんだってずーっと思っているわけですね。

でも、その後は人並み以上に努力しました。

でも、実を結びませんでした。

そしてまた怠惰な時間が流れ、後悔を蓄積させていきます。母が亡くなり、家の問題が全て自分の元に。

でも、自分の能力以上に頑張ったよ!

でも、必死になんとかしようとしてきたよ!諦めなかったよ!

 

でも、怠惰な時間があったからそれが大きくのしかかってくるんですよ。他人からも自分自身からもお前はダメだって言われるしかないのですな。

 

こう終わってしまったら、エンディングノートで笑ってもらえないよねw

 

エンデイングを迎えるまでに時間はたくさんあるんです。だからこそ書くエンディングノートなわけですね。

 

僕は怠惰な時間を取り戻すくらいには頑張ったって思います。家のこともそうじゃないところでも。だから、

 

報われたい

 

そんな風に思います。もっと自分らしく生きたいですね。

 

なので、エンディングノートで笑ってもらえるようにこれからのテーマは「報われる」「報われたい」です。

 

エンディングノートの面白いところは完結させるのが難しいってことかもですね。
元気なうちにある程度を書く。若いうちから書いていくと、テーマが変わってくる。テーマが変わってくると結末が変わってくる、結末が変わってくると、また新しいテーマが思い浮かぶ・・・その繰り返しになるかなーって思います。40代には40代の時に伝えたいことがあって、60代には60代の、80代には80代の。そして死ぬ間際には死ぬ間際の。

だから完結させることができない。

エンディングノートは前向きでもあるんですね。

 

もちろん、僕の場合ですがw


心の音が聞こえたから今夜はおやすみなさい

2021年03月22日 | TwitLonger
福山雅治さんの「心音」とても好きな曲です。

ドラマは見る事ができなかったのですが、ある時、アルバムで聞いて心にじんわりと響きました。
なんだろうあの感覚。なんとなく、元気のなかった時だったり、自分の気持ちに寄り添ってくれたり。

高校1年だったか、中3だったかは忘れてしまったけど、その頃からずーっと福山雅治さんが大好き。
でも、アルバムを全部買ったわけじゃないし、ライブにも行った事がない。今日やってた配信も見れなかったなー。

高校の時は学校に馴染めず体調壊し、予備校の時は途中で諦めちゃったけど友達作りを手伝ってくれたり、写真学校の時は表現に行き詰まった時にテンションを上げてくれたり、寄り添ってくれたり。

そのあと、自分の人生、ずーっと真っ暗で、離れてしまったり。

でも、時々聞こえてくるんですよ、ドラマの主題歌で、CMで。

俺、元気ないけど、福山さん頑張ってる!

なんてことを思ったり、聞きたくなくなったり。


昨年は僕の人生の中でも大変な時間でした。母の闘病や死というもの以上ではなかったけど、家族のトラブルってこんなに大変なんだって。
母の時はほぼ自分一人で手伝ったけど、何にもできなくて。でも、去年のは自分でなんとかしなくちゃならない部分がたくさんあってね。

やっと落ち着いた時に聞こえてきたのが、「心音」でした。


でも、どこか悲しい曲で。

この主人公の気持ちはどんななのかなーってずーっと考えて考えて。


ある時、気づいたんです。


いや、自分で作ったw


1997年リリースの福山さんの当時のヒット曲、「good night」です。僕が完全に福山さんにはまった曲。


あれ?


この曲の主人公が将来「心音」の主人公なんじゃないか?


と。


good nightの主人公ダメなやつなんですよw

必死に女の子の気を引こうとしてるけど、全然ダメ。で、やってることも全然ダメでさ。そんなんじゃふられるよーって。大人になってみないとわからなかったけどさw当時はこの主人公が大好きだったわけで。

で、23年たって大人になってのが心音の主人公!


と、解釈しました。

ダメダメなあいつ、すげー大人になった!

なんかそんな風に感じられて、福山さんを好きでよかったなーって。鬱っぽかったんだけど、元気でたんだよね。


ま、成長してもふられそうだけどねw


興味ある方は、心音とgoodnightの歌詞みてくださいね!おやすみー


写真作家になる方法

2020年11月25日 | TwitLonger
気軽に読んで欲しいです。

何度かあちらこちらで書いてきた内容ではありますが、少し自分の気持ちとしても昔はこうだったっていうことも整理してみたいと思ってキーボードをパチパチしています。

僕が通っていた専門学校はいわゆるカメラマンを養成するための学校ではありませんでした。

全く技術的なことを学ばないってわけではないですが、基本的に学ぶ技術的なことはモノクロフィルムの現像とモノクロ写真のプリント。これを入学と同時にみっちりと仕込まれます。僕は夜間部だったのですが、最初の2ヶ月くらいの暗室実習はまだ生徒の数も多いこともあるのだけど(辞める人がまあまあいますので)、濃密な授業内容になってて東横線の終電ギリギリまで授業が行われました。本来ならば夕方6時から9時までのはずなので、なかなかですよね。

暗室実習で学べる現像技術は基本プラスアルファになります。

とにかくベーシックな暗室技術を早く獲得することで、より作品作りに時間をかけられるということと、よりファインプリントに近づける時間を作ることができるっていう考えがあったんだと、後々に気付きました。

他にもスタジオ実習みたいなのもあるのですが、こちらはゼミの方はスタジオでの作品作りやアプローチの他にライティング技術を学びます。実習の場合は物撮りの基本など作品作りというよりはスタジオ技術を学ぶ感じ。
ゼミは別ですが実習でスタジオを履修した学生のほとんどはこの授業を「息抜き」と呼んでいました。座学以外のゼミなどがかなりきつかったから、色々な機材を使えたり、グループであれこれやるのが楽しかったのであくまでも息抜き扱いで何かを学ぼうとはしてなかったです。先生には申し訳なかったけど。

つまりはカメラマン養成学校ではなく、写真家、写真作家養成学校だったんですね。

創設者のおっさんは写真家ではなく写真評論家でした。

「批評家精神を身につける」

これが学校のスローガンだったはずです。正確な言葉は忘れましたが。

そんな校風は講師たちがあれこれ言わなくてもしっかりと学生にも浸透しており、一部を除いてはあっという間にみんな一端の作家・評論家となり日常的に熱く写真論を闘わせたものです。鬱陶しいくらいに。

そんな学校なのでもちろん繰上和美さんのようにカメラマンという仕事をしっかりやりながら最上の作家として活躍するような超有名な卒業生もいるし、僕の最初の先生のように知る人ぞ知るような純粋な作家さんもいます。経歴では隠してるの忘れてるのか書いていませんが、篠山紀信も研究科に在籍していたそうです。

僕はデジタルカメラ(30万画素時代)が面白くて、また、父が仕事柄カメラを扱うことが多く、家にごろごろとカメラが転がっていたこともあり、写真自体は撮ってなかったけどカメラっていう機材が好きで入学した感じでした。
なので将来写真でどうするのか全く決まっておらず、入学の面接で将来は?と問われて困ったことを思い出したりもします。

そんなあやふやな理由で入学した僕ですが、先生の力強さ、先生の写真の奥深さと情緒的な心に刺さる表現、そしてなんといっても先生の授業の素晴らしさにどんどんのめり込んでいって、写真家・写真作家を志すようになりました。
プライベートではデジタルで遊んでもいましたが、モノクロのスナップ写真、自分の作品と胸を張っていえるファインプリントを目指し日々精進していました。

僕はまあまあ他の人より器用な部分があったのか、現像のタイムスケジュールを正確に再現し続ける変な能力があったのかはわかりませんが、現像についてはすぐに基本を身につけ、他の学生より頭一つ抜きん出るくらいにはなりました。フィルム現像が安定していると、撮影条件などが揃っていればプリントはぽんぽんできてしまうんです。もちろん、あくまでも基本のプリントであってファインプリントには程遠いものでしたが。
そんな風に器用だった僕は1年時のクラス実習で先生にやたらと褒められるようになりました。褒められ始めると、僕の写真が先生に批評される順番になると他の学生が集まってきます。人見知りで恥ずかしがり屋な僕にとってはなかなかにきつい時間でしたが、それが続くとちょっとした優越感に変わっていったように思います。
でも、そんなのはあっという間に終わります。ま、すぐに行き詰まるわけです。当時、好きだったクラスメイトのリカちゃんに(途中で学校辞めちゃうけどすげー才能に溢れる子だった)、

「あー、行き詰まってる〜。顔に出てるよー」

なんて言われながら、あれこれ考えてはドツボにハマり、また考えて実践しては抜け出したりを繰り返しました。

そんな学生生活を送り、1年の時はキヤノンのEOS5という一眼レフを使っていたのだけど2年になるとマミヤ7っていうフィルムが少し大きいカメラを使うようになります。

技術的なことをさっぱり学ばない良い例として、僕がやってたランドスケープの撮影方法はピント合わせは基本置きピンです。

置きピンというのはピントを常に一定にしていちいちヘリコイドを動かしてピント調整しません。ピントの位置は無限遠(∞)の一つ手前。無限遠っていうのはどこにもピントがあってるように見えるけどどこにもピントがあってないので、そのひとつ手前に持ってくるわけです。

露出もほぼ固定です。
基本的には絞りを優先して決定して、ブレないシャッタースピードで適性露出をみます。完全に固定してしまうと黒潰れ白飛びが起こるので、日が照っているアスファルトに向けてシャッターを半押しして露出を測るってことをしてましたね。露出計を最初は持ち歩きましたがそんなのは鬱陶しいだけだったのですぐに辞めました。
どうしてアスファルトか?となるのですが、写真の露出の基本は18%のグレーになります。これは話が長くなるので端折らせてもらいますが。

撮影時はこんな風にざっくりとした感じで撮るわけですが(大型カメラは変わってきます)、現像はそれぞれのスケジュールが出来上がってるとして、プリントにはものすごく時間をかけます。写真のベタ選び、プリント後の選択や組写真作りなんかにもかなり時間をかけます。もちろん、撮影にもかなり足を運ぶしフィルムもアホほど消費します。1年時は35ミリフィルムを3ヶ月で250本消費しました。後期はもっと使っています。2年時はフィルムがブローニーになりましたが500とか700とか使ってたはずです。
でも、こんなのまだまだ序の口で2年時のゼミの先生は年間ブローニーフィルムを少なくとも3000本以上消費すると言ってました。先生は3000本(ブローニーの場合は約3万カット)の中から10枚これだってのが出たら最高だなって言ってました。もうずいぶん前の話なので正確な数字は忘れましたが。

印画紙は最初はRCペーパーっていういわゆる写真的な物を使いますが、ファインプリントを目指すとバライタ紙というより紙っぽく光沢が少ないものを使うようになります。RCペーパーよりグレーの階調が豊かなのです。バライタ紙は扱いが難しい上に(乾燥も放置せずにプレス機が必要なので学校でしかちゃんとできなかった)、高価で、しかも現像するための薬品も高価になっていきます。フィルムはコダックのTri-Xかフジのネオパンっていうのを使っていたので、これはそんなに変化ないですが。

ま、ま、前置き部分が長くなってしまいましたが、こんな風に撮影、現像、プリント、選択(自分で)、批評・評価(ゼミなどで)というのを延々と繰り返して写真を学び、作っていったのが僕の写真学校生活でした。

それで、ではどうやって写真家になるのか?
ようやく本題です。

基本は先程の撮影から選択、批評に変わりはありません。ただ、独り立ちすると写真を自分で洗濯したのちに世の中に出してから批評されるという形になります。学生は写真を世に出すのはゼミ展(僕のゼミはなかった)や卒展でしか写真を世に出さないのですが、世に出す前提で先生からの批評を受けます。批評を受けてから写真を世に出すのでちょっとした安心感はあるようなのですが、あくまでもこれは前提の話であり、実際は卒展なんかでも先生を無視して自分で出しちゃったりもします(作風やテーマは変えませんが)。

写真家見習いみたいになったら、とにかく、撮影しまくり、写真プリントしまくりって感じで写真をどんどん作っていきます。ある程度作品となる写真が集まったら個展を開くのです。うまく世の中の目に止まれば何かしらの反応があります(批評してもらったり)、でも1度個展をやったからといってうまく行くわけではないです。

作品作りのルーティンを続けたら、今度は写真発表のルーティンを繰り返していきます。

年にできれば2、3度個展を開くということを繰り返していきます。何かしら賞レースみたいな公募があったらそれに出すのも悪くはありません。とにかく写真は写真を撮って写真を世に出すってことを繰り返すことでしか成り立たないのです。

そのうちお声がかかってお仕事をもらえるパターンもあるでしょう。
そのうちお声がかかって写真雑誌に掲載されるパターンもあるでしょう。
そのうちお声がかかって著名な写真家とグループ展をやるパターンもあるでしょう。
そのうちお声がかかって海外で個展をやることもあるでしょう。
そのうちお声がかかってパトロンが現れてお抱えのギャラリーができることもあるでしょう。
そのうちお声がかかって写真集を出版することもあるでしょう。


で、いつか何かしらの賞を受賞したら写真界で名を知られて自分が思うように作品作りして古典をして、写真集を出せるようになるかもしれない・・・

これが写真作家の生き方です。

学校を卒業した僕は学校の研究科に在籍しつつ(すぐに辞めます)、作家になる方法を模索し始めます。

とにかく個展を開こう!

これが第一目標です。

個展開くにはいくつか方法があるのですが、基本はこの2つになります。

・ギャラリーに作品を持ち込みオッケーだったら全て自費で個展を開く。
・メーカー系(ニコン、キヤノン、コダックあたり)ギャラリーに持ち込み審査をしっかり受けて、ギャラリー代金はメーカー持ちで個展を開く。

こだわりがある人はメーカー系ギャラリー(サロン)は度外視で自分で自分の本拠地となるギャラリーを探してそこで作品を発表し続けるってパターンもありますが、メーカー系ギャラリーで個展をやるってことは箔が付く意味もあるし、年度賞みたいな賞もあるし、写真雑誌に掲載されやすいってのもあるのでこちらを目指すのが近道かなーって思ったりもします。
ただし、メーカー系ギャラリーでってなると厳しい審査をパスしなくちゃならないので才能とセンスと実力がないと難しいでしょう。友人3人が卒業まもなくやりましたが、学校でも指折りの実力者ばかりです。1人は年度賞みたいなのをとって卒業から20年以上経過する今でも写真作家として生きています。

じゃ、写真展を開くには何が必要になってくるのだろう。

1つは作品、1つはやる気、1つはお金でしょう。

作品作りは日常的にやっているので問題なしです。個展をやろうとしてるのだから作品の内容はしっかりした物でしょう。
やる気も問題ないはずです。モチベーションを保つことは難しいですが、写真作家を目指した以上やる気がなければ始まりません。

問題になるのはお金です。はい。

前提として、この文章は基本としてモノクロ写真での作品作りで書いています。

まず、モノクロ写真で個展をやる場合は最低でも30万円、カラー写真で個展をやる場合は最低でも50万円と言われていました。

ギャラリー代は1週間の開催が基本となり、12万円〜20万円とか(当然、ギャラリーの立地や格式によって異なります)。その他がフレームのレンタル料金や、写真のプリント代金などになります。

カラーが高いのはプリントが基本外注だからです。
僕の友人なんかはカラープリントも自分でやっていましたが、モノクロの薬品と違い有毒なんですカラーの薬品は。だからプリントもでっかいバットを並べてやれば良いってわけじゃなく、密閉式の自動現像機なんかを使います。小さいサイズ(4つ切り程度かな)なら40万くらいで手に入るのでなんとかなるのですが、大きいサイズになると70万とかする上に大全紙などの個展で使いたいサイズに対応してないんです。対応しているものもあるでしょうが輸入品などになったり、もっと原始的なシステムになったり扱いが難しすぎたりするわけです。その上、薬品の始末は業者を依頼しなくちゃならなかったり、引き伸ばし機のヘッドがやたらと高かったり、とにかくハードルが高いのです。
なのでカラーは外注します。だからお金がかかります。外注するにしても良いプリンターに巡り合ったらラッキーですし、長年同じ人、同じラボにやってもらって自分の作品の色を出してもらわなければならないです。それまでは一発でオッケーとなるのは難しいので何度か焼いてもらうことをするはずです(やったことがない)。なのでますますお金がかかります。

モノクロの話に戻りますが、あくまでも基本は30万円からです。
とてもじゃないけど30万では収まりません。写真が仕上がっていれば、ギャラリー代の他にフレーム代、マット代にマット加工代、搬入代(レンタカーなど)がかかります。フレームレンタルをしてるところにはマットの加工までしてさらに搬入までやってくれるところがありますがもちろん有料です。これら全てで30万で収まれば良い方でしょう。

でも、忘れてならないのがあります。作品作り代です。

カメラやレンズなどの機材の代金は置いといて、フィルム代と印画紙代、薬品代がかかってきます。

薬品代は些細なものなので置いといて、フィルムは年間僕のスタイルなら800から1000本消費したと思います(思いますって表現なのは後述します)。フィルムを現像したらコンタクトプリント(ベタ焼き)をそれぞれ一本に対して1枚作ります。なので印画紙が800枚〜1000枚必要になります。作品作りはいちいちRCペーパーに焼くことはありません。バライタ紙で焼いて調子を見ていきます。
個展に出すとなれば、選択した写真(ギャラリーの規模や作風にもよるけど30枚〜50枚くらいがよくある展示。ファインプリントをとことん目指した作風の場合は20枚以下の場合も)を個展に合わせたサイズで焼いていきます。もちろんここまできたら妥協はできないです。卒展の時は出展作品を一度焼いた後に全部焼き直しなんてこともありました。僕はプリントが得意だったので(ファインプリントには少し遠かったけど)、2、3度の焼き直しや調子見でしたが人によっては1枚の写真を何枚も焼いてベターを模索したりもするので、すっごい大変です。

個展のための写真は1年、2年かけて撮り溜めるのはザラな話なので(そうなると年に2度個展するのはどうすればいいのか問題などもありますがw)、作品作りに何十万消費するかわかったもんじゃないのです。フィルムも印画紙も湯水の如く使うので価格や年間いくら使っていたかなんて忘れてしまいましたw

ま、少なくとも50万円くらいはかかると思った方がいいですかね、モノクロの個展1度あたり。モノクロの場合も外注に出すこともあるので、作風によって全然違ってきますし。うちの先生なんてフレームに入れずに展示してたし。でも100枚とか展示したりもしてたのでその分お金もかかってくるでしょう。

僕は学校を卒業後すぐにバイトをはじめました。
中目黒にある道路建設設計会社でもバイトです(交通費なし時給1000円)。バイトの面接ってほとんど落ちたことがなかったのですが、その時は学芸大学にあった文房具屋さんのバイトを落ちてました。この文房具屋さん特殊で写真加工などの仕事もあったんです。バイト1つ落ちて落ち込んでるところに友人から電話があり、自分が辞めるからその代わりにやらないかと勧められたのがその中目黒の会社でした(後日談として、バイトが決まった翌日に落ちた文房具店から電話があり時間帯の問題で断ったけど人柄がとてもよかったのでうちてやってほしいと言われました)。

その他にも在学中からはじめたカメラマンのアシスタントのバイトが不定期であって、中目黒の会社が休みなどのかなり融通が効いたので、その2つで続けました。夜は学校の研究科にも3ヶ月ほど通っていました。

中目黒の会社はかなり気楽だったし、カメラマンのアシスタントも良いおじさんだったので楽しかったし勉強にもなりました。でも忙しくなってしまって作品作りが疎かになりつつあって、写真を撮れない日々が続いたのがかなり焦りました。

親からの仕送りは止めてもらうつもりだったのだけど、それでもまだ少し足りなくて情けないことにその時点でもまだ続いていました。


で、そんな頃に学校でクーデーターが起きますw

ちょっと内容は忘れてしまったのですが、派閥争い権力争いみたいなのを学生を巻き込んで盛大におっ始めたのです。僕も陰ながら巻き込まれてしまいましたw

僕がやってたのは当事者の先生(後に校長になる)に、2ちゃんねると先生が立ち上げた意見をぶつけ合う掲示板の荒らし対策のアドバイスをするっていうもの。なので表にこそ出ませんでしたが色々と内情を知ってしまいました。バイトでアシをしてたカメラマンさんもこの先生の同級だったのでその人からも話を聞いたりしてね。

で、学校に嫌気がさしました。
先生たちがやってること、裏事情、その他もろもろ。僕の恩師1人はすでに他界していて、もう1人はそういうのは我関せずだったのが救いでした。自分も作家を目指す以上、将来的にはこの学校で講師もしたいとか思ってたので、余計にがっかりしたというか。

ちなみに2ちゃんねるの方は学校とは関係な友人に依頼して散々に荒らして論争とかどうでも良い状態に持ち込みました。


そこで僕は色々考えはじめました。

自分が作家になるためには。

それはこれまで述べてきた作品作りのスタンスと、個展をするためのあれこれになります。


とにかくお金が足りませんでした。早い話が。

当時、バイトと学校で作品作りの時間がとれないと感じてもいたのですが、それ以上にお金がありませんでした。親の支援は偉大だなーって痛感しました。それでも親の仕送りはそんなに多くなかったのですけどね。やりくりを覚えたのはその頃だったわけだし。節約上手ですよ。

でも、お金がない。

フィルム代、印画紙代金ですら捻出が難しくなっていました。
その上、個展なんて遠い話です。現実的ではなく、遠い夢物語に感じるようになりました。

自分の生活費にプラスして個展代金を年間100万、どうやって捻出すればいいんだろう・・・


僕は手に職はありませんでした。
パソコンのスキルは当時としてはなかなかだったとは思いますがそれを役立たせる仕事がわかりませんでした(今は下の上くらいのスキルしかないです)。

じゃ、バイトを増やすかもっと条件の良いバイトを探すか。

それでもたかが知れてるし、バイトを増やしたらまた撮影の時間が減る。


うーん、どうしたものか。


そうこうしているうちに体調を崩してしまいました。
そこで2ヶ月ほど実家に戻ります。実家で療養して、また横浜に戻りましたが実家でぼーっとしているうちに色んな本やネットを見て自分の身の振り方を考えるんです。

正直、お金がないっていう圧倒的な現実問題があったのですが、それ以上に作品を作るスタンスにも疑問を感じました。そうです、僕には真になる理論などがなかったんです。そこで当時、友人が自殺未遂を仄めかす書き込みをしていたり、精神や心理に関わるあらゆる疑問や問題が立ちはだかりました。
そして、僕が好きな写真集「東京日和」みたいなものをいつかやりたいという思いも強くなり、人の心をもっと知ろうってことで心理学を学ぶことを決めたのです。

そして、その過程の中で実家でトラブルが起こり、横浜の家を引き払い実家に戻り今に至ります。17年経過しました。


お金の問題はとても大きかったです。どうにもならないし、借金して失敗したらという怖さもありました。僕が写真を撮っていたのはたかだか4、5年です。実家に戻ってからは全く撮れなくなりました。これが僕の写真人生です。大したことありません。

でも、写真を学ぶ・作る中で学んだことはとてつもなく大きいです。
出会った先生の偉大さ、懐の深さ、優しさ、情熱、どれも僕の人生において宝物となりましたし、考え方の基準となりました。作品を作るということに向き合う楽しさ、辛さ、これらはどれをとってもかけがえのない経験となりました。僕の人生から写真は欠かせなくなりました、撮影をしなくなった今でも。

お金、確かに大きな問題です。
でも、そんなお金に負けた自分が悔しかったです。今でも個展を1度はしたいっていう希望はあります。でも、銀塩からデジタルに完全に移行してしまった今、どんなふうにアプローチして行けばいいかわからなかったりもします。

それとずっとランドスケープ(スナップ的に)を撮ってきた僕ですが、やはり撮りたいのは人間です。人間を撮ることはとても難しいですアプローチもだし実践するのも。
先程出した東京日和の他にデジタルキッチンという少しマイナーなシリーズがあります。東京日和は天才アラーキーの作品、デジタルキッチンは習ったことはない学校の先生の作品。どちらもパートナーとの日常を撮ったものです。東京日和はさらに奥さんとのコラボになります。そう、撮りたくても僕にはパートナーがいないし、現状ではパートナーができる要素もないのです。無理!とまで断言したくはないですが、かなり難しいですね。やむを得ません。

個展をやることはやはり憧れです。夢です。
これを失うことは希望を失うことに等しいです。僕にとっては。でも、僕はもう写真をやることは難しいでしょう。

お金のことなど色々書いてきましたが、写真家になる方法、これは単に写真を撮り続けることです。

僕にはこれすら難しかったということになります。


母が生前に僕に言った言葉を思い出します。

「あなたがね家に戻ってきてくれて手伝ってくれるのはとても嬉しいの。でもね、写真学校の時にいつもキラキラした良い顔してたんだ。今はそれがなくて・・・ごめんね」

いや、僕には写真学校の2年間があったから生きてられるんです、写真を好きになったから生きようって思うんです。

これにてお終い?

2020年05月02日 | TwitLonger
このブログを復活させたのは、朝の無駄な時間を潰すため。

とりあえず、現在、腰痛で酷いことになってます。
普段はパソコンで更新してるのですが、パソコンに正面に向えない。なので慣れないアプリからの更新です。

とりあえず、本日、兄貴が退院します。
全く会えてないのでどんな状態で戻ってくるのかわからないからなんとも言えませんが、朝、どうしても早起きさせられてしまう現環境とさようならの可能性もあるので、このブログの更新も再びお休みになるかもです。

ま、また更新されてたら現状が続行されたと。

2年おきの楽しみ

2020年05月01日 | TwitLonger
今日はいつもより少しゆっくり眠れた。
とは言っても4時半ではなく5時起きってだけだけどw

明日、兄貴が退院してくるわけだけど、コロナウイルスの影響で入院後は1度も会っていない。
最初に着替えを持って行った時にリハビリ担当の方から状況を少し説明されたけど、医者からの説明はゼロなのでどんな状態で帰ってくるのか、これからどんな風に生活していくのか、職場復帰はいつなのか、そういうのもさっぱりわからないのです。兄貴は兄貴でメールで連絡をよこすのですが、面倒臭いのか一言しかこないからこれまた状況が掴めない・・・

なるようにはなると思うのですが、親父の面倒を見るだけでも大変なのに、お犬様はここのところ不調らしく手が余計にかかるようになってるし、このじじい1人と1匹に加えて、兄貴のことが加わるわけで、僕はますます自由がなくなるわけで。


そんな僕の楽しみなんてのは数少ないわけですが、自分の運動神経が悪いからか、やたらと大型のスポーツイベントが大好きなのです。

オリンピック、冬季オリンピック、ワールドカップ・・・

2018年にW杯と冬季五輪があり、本来ならば今年2020年に東京オリンピック。

2019年はなくて。

つまりは、オリンピック、何もない年、冬季オリンピック、W杯がある年。何もない年、オリンピック・・・

そんな風に2年に一度はもっとも大きなイベントがあるわけです。
もちろん世界陸上や各スポーツにも毎年大きな大会があるわけですが、やはりオリンピックとワールドカップは別物で。

今年はそのオリンピックが延期になり、今後の見通しが立たない雰囲気もあり・・・

一応、来年の予定になっていますが、仮に日本は大丈夫だったとしても世界的にどうなっているのかは予想が建てられないし、想像もできない。
来年の7月8月に東京オリンピックが実施されずに、再来年に延期となった場合には、

2月に冬季オリンピック
7月・8月に夏季オリンピック
11月・12月にワールドカップ(通常は6月、7月に開催されるが、カタールで開催されるため暑い夏を避けての開催となる):

なんてスケジュールになる。
これ、大型スポーツイベントファンにとっては激アツな感じにはなるけど、実際はかなり厳しいことになるだろう。
そうなると、東京オリンピックは中止となるのがほぼほぼ見えてくる。

東京オリンピックは過去に1940年開催が決定しながら日中戦争の影響で中止になっている。同じく、1940年に札幌オリンピックも中止に。

その後、1964年に開催しているが何かとオリンピックに縁がないように感じる。
というのも、過去に中止になったオリンピックは5大会あり、その内2大会が日本での中止になっているからだ。

で、今回の東京・・・

思い返せばロゴ問題、国立競技場問題と何かとトラブルがついて回った大会だったので、そういう縁の無さが強く出てきてしまったのかなーって思ったりもします。


今年は春のセンバツが中止になり、インターハイが中止になり、このまま行けば夏の甲子園も中止になる予感。
とにかく、早く新型コロナウイルスに打ち勝って、普通の世の中になって、蟠りなくスポーツ観戦を楽しみたいですね。