@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

2000年3月

2020年06月30日 | Life
今さっき、日本テレビの世界仰天ニュースで日比谷線脱線事故のことをやっていた。

2000年3月8日に中目黒駅で起こった事故のこと。
テレビでは事故で亡くなった麻布高校の男子生徒と女子高生の話が20年後の今年4月につながったというエピソードだった。

当時僕は専門学生で(年齢はまあまあいっていたので夜間だったけど)、田舎から出て東横線沿線の日吉に住んでいた。
上野に週1くらいで行っていたので日比谷線をよく使っていた。ただ、事故の時間帯に乗ることはほとんどなく、自分がニアミスしたとか、何かしら運命が違っていたら事故に遭っていたなんて話は万に一つもない。

その日もうわーすごい事故が起こったなーって家のテレビで見ていたように思う。

今日もテレビを見ながら、とても印象深い事故で、自分の生活圏で起こっていたのに他人事のように感じるのが不思議なくらいだったなー。

どうしてそんなに他人事みたいに感じるんだろうって考えていたのだけど、1つ思い当たることがあった。

その年の3月23日に恩師が亡くなったんです。

恩師と言っても前の年に専門学校で3ヶ月間だけ教えてもらった先生です。
夏休み前の最後の授業は個人面談でした。後期はどんな風にしていくか、先生と話をするそれだけでした。

「あなたはわかってるじゃん。ちゃんとできてるし。今の話もそのままで大丈夫。後期はその通りに行こう!」

僕の面談はこんな風に終わりでした。
いつも先生は「あなたはわかってる」ってニコニコと笑って僕に言うだけだったなー。なんだったのだろうw

その面談が終わった後、そのまま家に帰るのがなんか嫌で学校のロビーでボーッとテレビを見てたら、学生全員の面談を終えた先生が数人の学生を連れてロビーに降りて来て、

「おっ!やっぱりいたね!!これからみんなで飲みに行くからついて来なさい」

早々に帰宅してしまった他の学生には申し訳ない気持ちだったけど、僕を含めた7、8人くらいの学生と先生で前期の打ち上げをした。
2件回ったかな〜。いろんな話をニコニコとしてくれた。でも、先生の顔を見たのはそれが最後だった。

夏休みがあけると助手の先生から夏休み期間中の仕事の最中に先生が倒れたことが告げられた。

先生の授業はそのまま助手の先生が引き継いでその年度は終わった。


そして、3月24日だったと思う。
家で蕎麦の乾麺を茹でてお昼を食べていた時に友人から電話が来た。先生が亡くなったと。



たった3ヶ月だったけど、いまだに自分の思考の中心にいるのが先生だと思う。
もうその分野からは離れてしまったけど、何か迷った時には先生のことを思い出すし、自分に自信がなくて落ち込んだ時なんかにも先生の笑顔をなぜか思い出します。
先生の死を世界は羅針盤を失ったと表現した人がいたけど、確かに失ってはしまったけど、まだまだ僕の中にはしっかりと残っているように感じます。


今、世界はコロナ禍で、我が家では兄貴と親父の病気、そして愛犬の死・・・なんていうのか、生きることと死ぬことは物凄い近いところにあって、でも、意識しないとその存在も距離感も忘れがちなわけで。人間は死ぬために生きているはずなのだけど、いつも死から逃げようとばかりしてる。それが正しいことなんだけど、生きるためには死を意識しなくちゃならないってことなんだよなーって、漠然と考えています。

2000年3月、久しぶりに意識しました。この期間も生きることと死ぬことが身近にあったんだ。

日比谷線の事故の中であった、1つのお話。
彼女と彼のご遺族と関係者が思い出すのは彼の生き様や悲しさなのかなー。僕がいつも2000年3月について思い出すのは、先生の葬儀の後に友人2人と歩いた坂道とやたらと真っ青な晴れ空だけです。


残された人間は常に最善を尽くして死ぬために生きていかねばならないんだよね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日常への道のり

2020年06月10日 | Life
天気がとても良いです!

我が家は昨年の10月に東側に家が建ちました。今の家は10年ちょいになるのですが、建て替えが終わって2年ほどで南側に家が建ちました。
南と東が遮られて、日光が入りにくくなりましたが、正直、この時期は少し快適になりました。

32℃とかあってもピークに達する前まではエアコンなしで窓を開けてるだけでかなり快適です。

冬もそこまで寒くならなかったし、建築についての考え方は日本の気候の変化と共に少し変化しても良いのかもって感じてます。
日本の真夏はほんと大変になりましたから。


さて。

我が家を襲った多重トラブルはまだまだ終わっていません。

親父が入院してようやく病名も分かったのですが、治療のスピードは上がってなく様子見が続いています。
様子見と言ってしまうのは少し違うのですが、手術が必要な病気なようです。投薬でも治る可能性はあるのですが、病気の度合いがまあまあ重く投薬でどこまで効果が期待できるのかがわからない感じです。
それに加えて高齢だし発熱の期間も長く、栄養状態もよくなくて体力が落ちているために手術ができないのだそうです。つまり、手術に耐えうる体力がないという話ですね。

家族としてはコロナ禍のために面会もできず様子もわからないので、入院してしまったことによって手がかからなくなったものの心配・不安な日々がつづいているので、家にいてたくさん世話をしなくちゃならない時よりも疲労感を強く感じています。


また、愛犬のレオをロスしてしまったことは自分が想像していた以上に重くのしかかっています。

14歳くらいになった頃から、必ず来る別れのことを考えるようにはなっていたのですがそれでも全然ダメです。
家のあちこちにレオの影がたくさんあって、それに触れる度に胸がずきっとします。
ボーッとしていると、いつも僕の死角からふらっとレオが様子を伺いに来るような気がしてならないし、風に乗ってどこからかふわ〜っとレオの匂いが漂って来ると泣きそうになるし、本当だったその匂いの元を掃除しなければならないのだけど、いつまでも消えないで欲しいって感じるし、タオルなどレオが使っていたものも処分できないでいます。

レオとお別れしてから数日後にお世話になっていた動物病院に挨拶に行ったのですが、レオが大好きだった女先生に、

「存在感があった・・・うーん、特徴的な子だったもんね。だからいなくなると大きいなーって思います」

と言ってもらえました。
家にきた翌日からかかっていた病院だったのだけど、そんな風に感じてもらえていた、覚えていてくれたことが嬉しかった。
僕にとっては存在感が大きいどころの騒ぎじゃないのだけど、誰かにそんな風に思ってもらえるって、やっぱり最高の犬だったなって思う。

ペットロスによる喪の期間はいつまで続くかわからないけど、しっかりと自分が元気にならなくちゃレオも成仏できないっても思うのです。


まずは親父の回復、それから兄貴の職場復帰。
そして我が家の通常回帰・・・まだまだ道のりは長いですが、なんとか踏ん張っていかねばならないですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛犬とさよならしました。

2020年06月03日 | Life
先日、僕の愛犬が永眠しました。

兄が退院して間も無く、ずっと食べていたドライフードを食べなくなりました。
16歳っていう年齢だったので加齢の影響はあったものの他は変わらず元気だったので、とりあえず予備で買ってあった別のフードを与えるとしっかり食べてくれた。数日後、今度はその予備のフードを食べなくなったので、別のフードを買ってきて与えた。これもしっかりと食べてくれた。でも、またしばらくすると食べなくなった。この頃からか、嘔吐と下痢をたまにするようになった。フードを食べてくれないから、チュールをかけたりあの手この手をしたせいで食べ過ぎになったかなーくらいに思っていたのだけど、大好きだったチュールがかかっていても食べなくなった。

この頃から少し元気がなくなっていく。
ちょうど我が家が親父のコロナ疑惑の頃で、兄貴と親父の隔離、消毒などでバタバタしてた頃です。

大根は食べられるかなー、冷凍庫に胸肉があったな。人参、キャベツも・・・

ワンちゃんが食べやすいようにしっかりと煮て柔らかくして、16年飼っていて初めてご飯を作ってあげることにしました。
普段のおやつがキャベツや人参を茹でたものだったり、きゅうりだったりはしたのだけどご飯は初めてです。

食べてくれました。

かなりホッとしたのを覚えています。

それが先週の日曜日の夜のことです。
月曜日になって親父のPCR検査があり、親父が以前よりも歩きづらくなっているのを気づいたのでこの日の夕方に車椅子を業者さんに届けてもらいました。
ワンちゃんはぐっすりと寝ていたので、そのままにして業者さんと長話をしていたんです。そしたら、

ちゃっちゃっちゃちゃ・・・

と廊下をワンちゃんが歩く音がゆっくり、ゆっくりと聞こえてきました。業者さんも気づいたらしく、

「あれ?何か聞こえますね?」

と。
後ろを振り返るとワンちゃんが僕の方に元気なさげに近づいていました。なんか、その姿がとても愛らしくて数歩迎えに行って抱き上げてギュッとしました。

その日の夜もなんとか食べてくれました。
でも、嘔吐が続いたせいか口がとても臭うようになっていたんです。ワンちゃんが横になってるタオルケットなども。

火曜日、この日はPCR検査の結果待ち。
ワンちゃんは朝目が覚めると嘔吐しました。あまり消化してないようでした。
午後に親父の検査結果の連絡がきて陰性とわかり、発熱の原因を突き止めるために病院に行きました。病院は2時間ほどかかり、帰宅したのは夕方5時です。
翌日は総合病院での全身検査が決まっていたので、このタイミングしかないとワンちゃんを動物病院に連れて行きました。

動物病院には予約なしに行ったので、1時間ほど車で待つことに。
ワンちゃんはその間ずっと眠っていました。時々目を覚ましては不安そうにしてたので、頭を撫でてやったり体をさすってやったり。

1時間後の受診では、採血と注射を2本、点滴というよりは圧縮して500CC ほどの薬液を流し込むやつを1つ。

血液検査の結果が出るまでまた車で1時間ほど待ちました。

「よくない結果ですね・・・」

とても優しい男の獣医さんの口から出た言葉はとても残酷でした。
ワンちゃんは重度の腎不全で腎臓がすでに5%も機能していないということでした。

選択肢は2つ。

ひとつは入院して積極的に点滴を打っていく

もうひとつは、自宅で薬を飲みながら通院してこの日と同じ注射などをする

というもの。
ただし、入院した場合は病院で大事に至る場合があるということでした。迷わずに自宅に帰る方を選びました。

帰りの会計で薬とサプリの飲み方を教えてもらい、支払いをし、

「すいません、次回の予約は?」

「あ、えーと。」

「薬がなくなったらですか?」

「あ、そうですね。それと具合が悪くなったら連れてきてください」

先生は通院しながらと言ったのに予約がなかったんです・・・


帰宅すると注射の影響でぐっすりと眠ってしまいました。

ワンちゃんは夜中の2時にゴソゴソと起き上がりました。
僕も疲れていたので、どうしても起き上がれなくて20分くらいだと思うけどそのままにさせてしまいました。
なんとか起き上がって見てみると、ワンちゃんは部屋の隅っこでどこかを見つめてじっとしていました。

抱っこしたり、横にさせたり。

何をしても眠りそうになかったので、僕も着替えてそのまま付き合うことに。

この日は水曜日。
僕はそのまま眠らずに親父を総合病院に連れて行きました。
親父の診察は6時間以上かかり、帰宅したのは午後4時過ぎでした。しかも親父はそのまま入院となりました。
ワンちゃんを見ていてくれた兄貴に様子を聞くと、

「なんかな、ずっとうろうろしてたんだ。少し眠ったけど、またすぐ目を覚ましてうろうろしては止まってじーっとしてた」

その日の夜、ワンちゃんはほんの少し眠ったけどやはり夜中に目を覚まして部屋の片隅でじっとしていました。
やはり昨夜と同じく、抱っこしたり、横にしたり、撫でてあげたりで時間を過ごしました。

しばらくして外が少し明るくなったので、抱っこしてまだ肌寒い外へ連れて行きました。朝焼けがやたらと綺麗で、ぐったりしてるワンちゃんに頬擦りしたりしながらしばらく外で空を見ていました。

兄貴が起きてきたので、変わってもらい僕は部屋で30分ほど眠りました。
起きた後は親父の入院のあれこれや、支払いや買い物など用足しと共に、どうしてもご飯を食べてくれないワンちゃんのために、柔らかくて食べやすいもの、普段は与えないような高カロリーなもの、水もほとんど飲んでなかったので水分補給ができるものをあれこれ買ってきました。

午後2時半くらいに帰宅するとワンちゃんの様子は変わらずでした。
前日の病院と連日の寝不足もあったので、兄にもう1度お願いをして自室で眠りました。5時過ぎくらいに目を覚ましてリビングに戻ると、兄がソファに座ってワンちゃんを抱っこしてました。

「どうしたの?」

って聞くと、

「こうやって抱っこすると眠ってくれるみたいなんだ。だからお前が上に行ってから間も無くこうやって抱っこしてる。2時間くらいになるかな?」

ワンちゃんが僕の姿を見て動きたいようだったので、兄が下におろそうとしたら、ふらふらとしてこてっと自分のタオルケットの上に倒れ込んでしまいました。もう一度起き上がらせようとしても同じだったので、僕はそのまま抱っこすることに。

抱っこし始めて30分くらいしたところで、

「ワン、ワン」

と、2回鳴きました。

それからしばらく体を震わせ力なく息を続けました。病院に連れて行こうか?とも兄と話しましたが、嫌いな病院に連れていくよりはこのまま・・・ということになり、僕が抱っこを続けました。

しばらくした失禁をしました。

抱っこし始めてから1時間30分くらいたったところで、僕の顔を見るように顔をあげました。
僕はiPhoneを取り出し、少しだけ撮影をしました。

そして、ワンちゃんは息を数回、ふー、ふー、ふーとし、ゆっくり、ゆっくりと旅立ちました。

いつも使っていた寝具を整えて、体をドライシャンプーで綺麗に拭いてあげて、ハーネスとリードを外して、もうずっと着ていなかったけど、昔、お気に入りだった服を着せて。そっと横にして。

氷とお花を急いで買いに行き、体を冷やして、花を飾り・・・

ペット葬祭に連絡をし翌々日の30日の午前中に火葬の予約を取りました。

翌日は1日一緒にいました。

何度か氷を交換するために冷たくなってしまった体を抱き上げたのですが、硬く冷たく動かなくなった以外は全く変わらないんですよ。許されるならこのままずっとそばに置いておきたいくらいでした。

そして火葬の日、火葬の場所は少し離れていて、1時間ほどの最後のドライブをしました。

少し離れた所に住んでいるもう一人の兄貴家族と合流し、火葬をしました。

最後に抱き上げて火葬する所へ移したのですが、とてもとても愛おしくてたまらなかったです。

火葬後に骨を拾い、お別れをしました。


享年16歳と10ヶ月、大往生だと思います。
僕的にはあの時に病院にしっかり連れて行けば、あの時にしっかりと検査してもらっておけば、あの時に・・・と後悔が残りましたが、運命はそこまで大きく変わらなかったでしょう。どちらにしても年齢と共に体を蝕んでいったんだと思います。最後はあっという間だったので、苦しい時間は短くてすんだし、入院中の親父には会えなかったけど、ずっと抱っこしてあげられたし、何よりも遺体の顔がとても穏やかで綺麗で可愛いかったんです。まるで普段眠っているような。

さようなら、レオ。またいつか会う日まで。



本来なら記事を2つにわけてと思ったのですが、ここから先は僕の戯言だったり、レオの生い立ちだったり思い出だったりなので、読まなくても大丈夫です。これまでSNSなどを通してレオを少しでも知ってくれてありがとうございました。とてもとても幸せな犬だったと信じたいです。それでは、箇条書き的に淡々とになってしまいましたが、レオの最後を読んでいただきありがとうございました。













レオは2003年の9月15日頃(正確な日付は覚えていません)に我が家にやってきました。
その年の8月に母が膝を複雑骨折し入院。当時横浜で一人暮らししていた僕は、家のことと母の面倒を見るために実家に戻っていました。
母が長期入院となっており、なんとなく家が暗い感じになっていたり、みんな疲れていて元気がなくなっていた所でもあったんですよね。

家事などに追われて疲れていた僕は気晴らしにパチンコをしていたと思います(当時は実家に戻るとたまにやってました。今は全くやらないです)。今も一緒に住んでいる兄貴から電話がありました。

「あのさ、いつものペットショップで犬のバーゲンみたいなのやってるんだ。一緒に見に行かない?」

兄と合流しペットショップに見に行きました。
兄はポメラニアンが気に入ったようだったのですが忘れてしまいましたが何か理由でそれはやめました。次に気に入ったのが、犬種は忘れたけど中型犬くらいの大きさの犬で、これにしたいとほぼ決めていたようでした。

ですが、僕はペットショップに到着するなり一目惚れした犬がいました。

それがレオでした。

ブラックタンのミニチュアダックスフンド。
ダックスフンドには興味があったけど、レッドやチョコのカラーが可愛いなーって当時は思っていました。でも、その黒い子から目が離せませんでした。

兄にそれを伝えると、とりあえず他のお店も見に行こうってことになり、見に行きました。
次のお店には僕が理想的だと前々から思っていたような、レッドのダックスがいました。とても上品で可愛らしい。でも、あの黒い子がどうしても忘れられないんです。兄にその旨を伝えると、

「うーん。俺はもうちょっと大きい子がよかったんだけどなー。とりあえずオカンに飼っていいかどうか確認にいくか」

入院中の母に確認をとり、どのワンちゃんにするかどうかは別として、この機会に3代目になる愛犬を我が家に迎え入れようってことが決まりました。
家に戻り、少しだけ話し合いをし、もう1人の兄貴とも合流して、夕方改めて最初に行ったペットショップに行きました。

「やっぱりこの子!!」

その黒い子が入っているガラスケースの前に僕が立ったら、その子がずっと僕を見つめてガラスを手で擦るんです。こっち、こっちって招くように、ゆっくりと。
その姿がとても可愛くて、他のどんな子にもピンとこなかったのも運命かなって思いました。僕の様子を見ていた店員さんが、

「少し外に出してみますか?」

と声をかけてくれて、カウンターで少しだけ触らせてくれました。

カウンターにのせられたその黒い子は、チャカチャカと爪の音を鳴らし、尻尾を降って、とても活発に動きました。ガラスケースの中ではとてもおっとりした感じに見えたのに、とても元気に動きまわりました。このギャップにもやられたというか、それで即決しました。兄貴達の確認も取らずに、

「この子をください」

と言ってました。


家に連れて戻ると、箱から出した途端に家の中を走り回っていました。
でも、翌日には病院へ。
鼻水と咳が出ていたんです。日曜の夕方にやっている動物病院を探して診てもらうと、ケンネルカフでした。ブリーダーの犬舎など、多くのワンちゃんがいる場所で流行ってしまうというか、かかってしまう風邪みたいなものです。

母の病院とレオの病院。
しばらくはこの2箇所に通うことになりました。

元気いっぱいではあったのですが、かえってそれが治りを遅くするとのことでした。

病気だったこともあって、強い犬に育って欲しいって願いを込めて、ジャングル大帝レオから名前をとったのはこの頃だったと思います。レオと決めたのは僕で、ジャングル大帝からとったというのは言って無かったので、兄はずっとウルトラマンレオからとったと思っていたようです。

「レオに弟を連れてきたら、名前はアストラだな」

と兄が言っていたのです(ウルトラマンレオの弟はアストラと言います)。


レオが病院にかかってる時期に、親父が倒れました。

それからは親父の病院、母の病院、レオの病院と3箇所に通うことに。

でも、レオはすぐによくなり通院が終わりました。

やがて母も退院して、でも、親父の容態があまり良くなく僕は横浜の家を引き払い実家に戻ってきました。


もっとたくさん思い出はあって、しっかりと覚えているのですが、レオと僕との出会いはこんな感じです。
我が家のピンチの時に来てくれた子がレオだったのです。

僕は自分の夢や人生がなかなかうまくいってなかったのだけど、この年は少し先が見え始めてた時でした。
でも、全部を捨てて家に戻らなければならない。それが悔しかったし、辛かったし。

それからの16年と数ヶ月、ずっと一緒にいてくれて、たくさん楽しませてくれて、喧嘩もたくさんしたし、怒ったりもたくさんしたけど、僕の人生を有意義にしてくれたのがレオだったのだと思います。生きる目的であり、希望であり、意味であったと思うのです。

母が亡くなって家のことをやるようになってからは特にずっと一緒でした。

ご飯を作り始めると早く、早くと催促されたし、

洗濯物を干し始めるとずっと近くにいたし、ベランダに干しにいくのも一緒に行きたいから片手に洗濯物、もう片手にレオを抱っこして。

レオが寝ている隙にトーストを食べようとすると、もうちょっとで焼ける所で起きてきて、少しお裾分けをしたり。

座椅子に座ってYouTubeを見たりしていると座椅子の後ろからそっと近づいてきて、じーっと僕の顔を見ていたり。



今はご飯を作っていても催促されることも無くなったし、洗濯も1度にベランダに干せるようになったし、トーストを食べようとしても誰にも邪魔されなくなったし、座椅子に座っていてもこっそり近づいて来る子がいなくなったし・・・

何をやっていても楽に自分のペースでできる。
出かける時も気にしなくていいから、慌てて家に戻るようなこともしなくていい。

とても楽になったけど、全く張り合いがないんです。

家事が一手間多くなって時間制限があってもいいし、どこにも旅行できなくていい。自由におやつやご飯を食べられなくてもいい、朝早く起こされても全然構わないから、また一緒に生活したい、抱っこしたい・・・心底、そう思います。


今は忙しくてやることがたくさんあるから救われてる感じがあります。
それでもどこに行っても、何をやっていても、レオの姿を思い出すんです。でも、その姿が消えてしまったり、忘れてしまうことも辛いです。


それでも僕は生きていかねばならないです。

だから、ありがとう、レオ。ずっと忘れないよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする