@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

トイレットペーパーの値段

2022年06月30日 | Life

今日はボーナスの支給らしいですね。
ちっとも関係ありませんが。

今日は朝から作業していました。
パソコンでぱちぱちと。順調に作業してるつもりでも思うように進まない。そういう時はあるんですよ。なんの作業をしてるのかはここでは書きませんが、ものによって差があるというか、同じようなことをやっててもこっちは簡単、こっちは難しいみたいな。

それに加えてちょっと難しい話というか問題というか。
僕は直接的には関係ないのですが、ちょっとというか、かなりというか、重い話が僕の周辺であって、その話を少し考える時間があって、ぐっとダウンな感じになりました。

なんとなーく気付いてる方もいらっしゃると思いますが、僕はこれまで生きてた中で経験してこなったような鬱にあります。

あー、これまでのってファッション鬱だったんだな~って思うくらい、今は辛いです。

少しだけ心理学を学んでいるので自分の心の状態把握はある程度できてるのですが、自分ではどうにもならない事だったり、失ってしまったものだったり、過去10年に渡る長期的なものに関わる話だったり、色々有り過ぎてどうにもならないんですよね。

特にこの2年間の家族とのトラブルや愛犬と親父の他界は大きいです。
そしてもう1つ、こちらも喪失感的な内容のものなのですが、心にぽっかり穴が空くくらいならいいのに、なんていうのか空いた穴をぐいぐいと広げようとされたり、空いてしまって傷ついてる箇所をぐりぐりとえぐられるような思いに苛まれています。

 

と、ここまではいつものブログの前置き。

 

前置きが長いことはよくあるのですが重いことは珍しいかもですね。

 

先日の話です。

おおそよ11か月ぶりにトイレットペーパーを買いました。

僕は主に主夫をやっています。
結婚してなくて配偶者がいないのだから「主夫」とは認められないらしいのですが、やっていることは主夫です。19年前に実家に戻ってからは主に母のサポートだったのですが、家事をやることも多々ありました。母が闘病に入ってからは、食事を作ることもあったし、洗濯・掃除をすることもありました。それなりの頻度で。

しかし、母が他界した後は完全に主夫でした。

一緒に住んでる家族は兄貴と親父。
家の掃除から洗濯、炊事まで全て僕がやっていました。

なので、生活必需品の買い出しも僕の仕事になります。

トイレットペーパーもその買い出しの中に当然含まれるのですが、我が家は少しだけ一般的というか平均的な家庭と事情が違いました。

 

ここで質問なのですが、3~5人家族として月にトイレットペーパー何ロール使いますか?

 

我が家では母が他界した後は18ロール入りのトイレットペーパーパックを月に1パック確実に買っていました。多い時は2パック買ってました。

恐ろしいですよね。
僕が1人暮らししてた時は年に2パックも買ってなかったと思います。しかも12ロール入りだったような。僕の下宿先というか住んでたアパートはボロかったので、ウォッシュレットなんてものはありませんでした。だからまあまあ使うはずですよね。
今住んでる家はトイレが2つあるけど、当然ウォッシュレットがついており大きい方をしてもトイレットペーパーはワンカット分で済みます。それで間に合わなくてもそんなに使いませんよね。

しかし、昨年他界した親父がやばかったんです。

これはアルツハイマー型認知症の影響もあったのだと思うのですが、兎に角、大量に使うんです。大きい方もおしっこの時も。介助するときもあったので親父のトイレでの行動の一部始終を見たこともあるのですが、トイレに入ってまずかなり多めのトイレットペーパーを取り、畳んで手にもちます。用を足した後はその畳んだのの他に使い、手を洗って手を拭くためにまた使う(タオルあるのに)。その後、便座などの掃除をする・・・トイレットペーパーで。

トイレ掃除は最近は適当だけど、親父が居た頃はしっかりやってました。
親父にも、もし汚したら言ってね、掃除をするからって伝えてあったし。でも、ダメなんですよね~。じゃ、親父の後はトイレが綺麗になってるかというとそんなことはなくて、トイレットペーパーは強度的には弱いので、ペーパーカスがポロポロおちてしまうんですよね。だから、隙間にカスが入ってたりとかえって掃除が大変になるくらいで。

親父の介護はそこまで手がかかるものではありませんでした。
もちろん、母1人では難しいことがあったり、僕1人でも手に負えないことが多々あり、簡単に評価できな部分でありますが、これはまた別の話で。

手がかからないのだけど、ストレスは半端なくて、特に母が他界してからはヤバかったです。
で、そのストレスの5割以上はこのトイレットペーパーに関するものでした。1日1ロールを日課にしてるの?って思うくらいに、1日1ロールから2ロール使ってました。これは5年半1人で介護してる間に2度ほどしかありませんでしたが、3ロールってのもありました。

親父の介護がきつかったから、ショートステイに月に10日は行ってもらってたんですね。

そして、1階のトイレは親父が汚すので僕も兄貴もほぼ使ってませんでした。
なので親父1人で1ロール使いきったのもわかるし、月に確実に18ロール入りワンパックを使い切るってのも把握できてました。

お願いだからやめてくれ・・・

親父に土下座してお願いしたこともあります。
でもやめないんですよね。認知症なのでやむを得ないのですが。

母もこのトイレットペーパー問題には大いに頭を抱えてました。

トイレットペーパーは高いものではありませんので家計に大きく響くってことはないです。でも、全部トイレに流すわけじゃないので、トイレに設置したゴミ箱に毎日大量に捨てられるトイレットペーパーゴミを見てると頭がおかしくなっていきます。

母は困り切ってノイローゼっぽくなってたように感じました。

「今日、セールだからトイレットペーパー買いに連れて行って」

母に月に2回言われたセリフです。
近所のドラックストアで月に2回トイレットペーパーが安くなるのです。安くなるといっても40円程度なのですが、それでも大きいと。こういうセール品はお1人様1点までってしばりがあるじゃないですか、だから僕も1つ買って欲しいと。あとは大物商品になるので、車で運んで欲しいと。

毎月そんな感じで買っていたので、我が家にはトイレットペーパーをストックする場所に4パック、玄関に2パック、僕の車のトランクに2パック・・・みたいな感じで大量にストックされていました。

「お母さん、たくさんあるから買わなくていいんじゃない?」

って言ったことがありました。

「でもね、たくさん買っておかないと落ち着かないの。みるみる減っていくでしょ?たくさんあればある程度、気持ち的に落ち着くのよ」

と。母はこのトイレットペーパー大量買いの他にも、溜まったトイレットペーパーゴミをどう処理していいかわからなくなって、右往左往するなんてこともありました。

 

まー、大変でした。

 

なかなか共感してもらいにくい話だと思いますが、思い出しただけでも気が沈むくらいにきつかったです。

 

そして親父が他界して・・・というより、去年の2月半ばから家にいなかったんですね。病院と施設を行ったり来たりしてて。親父が家からいなくなって16ヵ月程経過したわけですが、そしたらトイレットペーパーが減らない減らない。ちょっと無駄遣いしたかなーって思っても減らないです。年に1パックで済むとまではいきませんが、2パックで確実に済みます。

週に2回ある可燃ゴミについても、親父が居た時は45リットルのゴミ袋が毎回パンパンになってました。多い時は2袋だすことも。それも今となってはゴミ袋半分以下です。週に1度で十分何じゃないかって量です。

それもそのはずで、トイレットペーパーだけじゃなくティッシュも大量に使っていたんですよね。
もちろん、親父のリハビリパンツなどのゴミもありましたしね。

 

で、約11か月ぶりにトイレットペーパーを買ったら、最後に買った時は税込み398円だったのに、同じものが税込み440円になってたんですよね・・・

 

って、これだけを話したいブログだったのに、何故か盛り上がってしまいました。
介護の苦労って実際にやった人じゃないとわからないし、ケースバイケースで各家庭、各要介護者によって違うので難しい問題ですよね。

僕は疲れ切ってしまいました。


どうせなら止り木的な人間になりたいって思ったのだけど

2022年06月26日 | Life

新しいブログを作ったのですが、まったくもって稼働することができていません。
しかも課金ブログです。お金のないなか新しい策の1つとして始めようとしたのですが、どうしていいかわからないっていう。
で、ここでちょっと慣らし的に書こうかなって感じです。

でも、書くことが本当にないのです。

なので繰り返し同じことを書いてるかもしれませんが、ご了承ください。


僕は正直、全然もてません。
顔が悪い、スタイルが悪い、頭が悪い、お金がない・・・いったいどんだけネガティブ要素があるんだって話な人間なのでしゃーないです。
そんなんだから自己評価も恐ろしく低く、それがばれないために偉そうに振る舞うため、性格も悪くうつるんじゃないかなっておもいます。はっきりいって最悪ですよ、物件としてはw

それでもたま~に僕なんかを頼ってくれる人もいます。

でも、ケンカしたわけじゃないのにいつの間にか疎遠になってしまうんですよね。
それは同姓でもそうだし、異性でもそうでした。中にはなんでこんなに僕みたいなのを相手してくれるんだろう?なんて人もいたのですが、やはりいつの間にかどこかに行ってしまいます。

で、ある時気づいたのが、疲れてる人や、本来の友人や恋人とうまくいってない人が、休憩的に寄っていく感じなんじゃないか?ってこと

上で散々に自分を蔑みましたが、一緒にいて嫌な思いをさせることはない・・・っては思っています。

だから疲れた~とか、ちょっとさびしいけど当たり障りのない人がいいな~とかそんな時の選択肢の1つが僕だったのかな~と

ある人は本来の目的を思い出して、ある人はもっと楽しいドキドキワクワクする友人が見つかって、ある人は彼氏ができて、ある人は元カレとよりをもどして・・・またある人は少し元気に前向きになって。

みんな僕のとこから旅立っていきました。

それでもいいかな~って思いました。
でもやはり寂しいです、僕でも。

19年間家に縛られた生活をしてると、止り木的に僕のとこに寄り道をしていく人達以外のずっと昔からの友人との関係も怪しくなっていきました。東京に住んでて帰省する度に会いに来てくれた友人は、僕の母の闘病が始まった頃から1度も会いに来てくれなくなりました。ある時誘われた東京での忘年会にも、父の世話があったので行くことができませんでしたし、それ以来連絡が途絶えました。

SNSなどでつながった友人も同年代だし今後うまくつきあっていけるかな~って思っていても、それもうまくいかなかったですね~

気が付いたら友達はほんの少ししかいなくなったし、自分から声をかけたり、誘ったりできる人はほぼゼロになってしまいました。

 

先日、アニメ「ダンまち」シリーズをネトフリで見直してたのですが、ロキファミリアが遠征から帰ってきて「豊穣の女主人」で打ち上げをするシーンがあるのですが(ヴェートのトマト野郎発言がないやつ)、あんなふうにわいわい楽しそうにしてるのが凄くうらやましく感じました。

あー、僕もあんなふうにお酒をみんなと楽しんだ時があったな~って。専門学校時代が最後かな~っては思いますが。

そうそう、お酒も辞めてしまったんですよ。
大好きだったし、お酒で誰かに迷惑をかけたこともなかったのですが、すっぱりとやめました。今年の11月1日でやめて丸9年です。

いつかそのやめた理由が解決したらまた飲もうって思ってはいたのですが、気が付けばもう解決するのは無理な状態で。
上げた拳の下げどころがわからなくなったみたいな感じで、多分、このまま一生飲むことはないでしょうね。

そうなると、お酒を一緒に飲みたいという人からのお誘いもなくなります。
全部一人でやっているので、打ち上げみたいなこともありません。

そもそも、お酒が好きな人はお酒を飲まない人と一緒に遊びたいとは思わないものですしね。

 

あとは人との縁がなくなるのが寂しいし怖いので、自分から誰かに声をかけることも友達を増やそうとすることもなくなりました。

 

友達がいなくなる理由って、自分次第って思います。

自分のスペック的なものだけではなく、自然と人を避けるようになっていくんですよね。

僕は小さい時から結婚願望が凄く強かったです。
その反面でおばさんの離婚のゴタゴタを小学1年の時に見ていて、怖いっていう感覚もありました。記憶力がやたらいいのと、マセてたのかなんかしらないけど、おばさんが離婚にあたって泣き泣きうちの親父に相談をしてるのを覚えてるんですよね。生々しい話はなかったけど、離婚ってこんな感じなんだってのは強烈に覚えてて。

それでも自分は家族を作るんだって気持ちはあって。

でも、そういうのもさ、自分の能力を勘違いしてたから強く思えただけであって、大学受験を失敗したあたりから結婚というものが遠い存在で諦めてたかもしれないです。そのうち、写真やったり、心理学やったりでやることがたくさんあって、そういう結婚に対する気持ちもどうでもよくなってはいたのですが、両親が相次いで倒れるというトラブルで実家に戻って、実家に縛り付けられるようになってから、また、ふつふつと結婚願望が出てきてもいました。

これはどうしてそうなったか理由はわかってます。
環境を変えたかったのが1つ。絶対に無理だろうっていう大前提のもとで10数年ぶりに好きになった人ができたのが1つです。

実家でどうにもならない日々を過ごしてて、こんなんで人生終わるの嫌だなーって強く思っていましたからね。

親父の面倒を見るのは楽なようで凄く大変で。
僕が自由になるのは難しいなと、母が生きてる時も思ってました。
母が他界したあとは、父がショートステイで施設にいるときだけ自由になりましたが、それですら2,3泊で必ず親父は帰ってくるので自由なようで、普段できない掃除などで終わってしまうのがほとんどでした。

親父が生きている限りは自由はないな~って。それじゃ気持ちとしてキツイので、断固として施設に入ることを拒否していた親父にこんな風に話をしていました

「父ちゃんさ、もしね、僕がここから通えない所からお仕事の良い話をもらった時と、相手もいなし万が一もないけど結婚することになったらさ、親父には申し訳ないけど施設に入ってもらうことになると思うけど、それは許してくれる?」

親父は記憶障害があったので覚えていなかっただろうけど、この話をするたびに、

「そういう時はしょうがないな」

って優しく話してくれてました。
そういう万が一がなかったらやっていけない、親父の死以外の終わりがなければやっていけないって思ってのことで可能性はなったんですけどね。
これに似た話がもう1つあって、母が生前まだ元気な時・・・病気の気配すらなかったことに、やはり何度かこんな話をしていました。

「もしね私(母)がお父さんより先に死んじゃったらさ、あなたが1人でお父さんの面倒を見なくちゃならなくなるね。お母さん元気だからそういうことはないと思うけど、万が一、そうなったらあなたには迷惑ばかりかけるね。しかも、お父さんが死んだあとはもしかすると長男の世話をしなくちゃならなくなるってのもあるもんね」

それから2,3年後に母は乳がんと診断されて、1年の闘病の末に他界してます。
そして兄は2年前に大きな病気をして死にかけてますし、父は昨年の秋に他界しました。

母の話が予言みたいになってしまってますが、それが僕の運命だったのかな~って。
気が付けば実家に戻る前は20代だったのに、40代過ぎて随分たってしまってますからね。結婚は諦めるしかないのが現状です。

なんていうのか、ステージに立つ前に終わってたみたいな。

これから新たに恋愛をしてというか、誰かを好きになって結婚までってなると、あまりにも気が遠くなってしまって。
自分が生きれるかどうかしか甲斐性がないのに、誰かを養うことは想像できませんしね。

 

と、だらだらと書きましたが、友人がいなくなるのも、結婚できないのも、なんもかも自分の選択と責任って感じって思います。
両親をほったらかしにして自分の人生を生きるっていう選択肢もありましたからね。ま、そんな自分を一生許さなかったと思いますが。

止り木的に僕のとこで休憩していってくれる人も今後は現れないでしょう。

さびしいけど生きなければならないので、全て受け入れるしかないですね。


写真偶像

2022年06月22日 | Life

体調の悪さがヤバめなので先週くらいから作業量を減らしてます。
作業といってもなんの成果も出てないものなのですが、諦めたくないというか、1つくらいはやり遂げたいというか、ちょっと意固地になってる部分もありながら、頑張ってます。

空いた時間はアニメを見たり、少しだけ料理をしたり。

で、今日はちょっとだけ昔やってた写真の事を思い出したので通っていた学校の現在を調べてみました。

古い学校だったのですが、ちょうど僕が卒業する頃に改革があったりして、がらっと様相が変わったような変わらなかったような。在学当時から昔ながらのやり方に賛否があったりもしたのですが、僕的には愚直なまでに一貫してた「モノ」が心地よくもあり、厳しくもあり、あのままでいてほしいな~みたいな。

似たような話で通信制の大学でも、当時からレポートはネット提出がメインストリームになりつつあったのに、ボールペンで手書きでした、僕の大学は。レポート作成はパソコンでやって、手書きで清書する・・・なんとも無駄な過程なのですが、それにも意味があるなーって。卒業してからは手書きで文書作成なんてこはしなくなったので、その分、文書理解能力が落ちていったようにも思いますし。

話は戻して、専門学校の話です。

僕がお世話になった先生の1人は僕が在学中に他界されました。
今思うと、僕自身にとってもとても大きな出来事だったのですが、当時は必死だったので先生の他界をいつまでも引きずるわけにはいかない!!とばかりに考えないようにしていたと思います。でも、意気地無しの僕が卒業まで頑張れたのはこの先生のおかげだったと思っています。

正直、学校に入学して1週間もしないうちに、付いて行けない・・・辞めるようになるかなって思っていたのですね。

実習や試験などパスしなければならないものはたくさんありましたが、そこまで厳しくはありませんでした。

しかし、甘くもなくて、自分が思い描いたボーダーラインを超えて提出物を作成する、レポートを作成するっていうのはとても大変だったと思います。つまりはその学生次第なんですよね。適当に済ませようと思えば適当に済ませることもできる、どこまでも妥協を許さずに高めようと思うとどこまでも高められる。

自分が許せなくなるんですよ、そこそこで満足して提出してしまうと

そんな学校だったので途中リタイアする人もたくさんいました。
実力はあっても学校や先生の方針に従えなくてって人もいたし、途中で写真関連の就職が決まって辞めていく人もいたし、卒業3か月前に先生に強くダメ出しされて辞めた人もいました。

僕が1週間で辞めてしまっても全然おかしくない、普通のことだったかもしれません。
ま、実際、入学からしばらく仲良くしていた人が3,4人いたのですがその人たちは全員卒業前に辞めました。その後仲良くなった人達は卒業まで一緒に切磋琢磨しましたが。

亡くなった先生は、僕と同じ最寄り駅だったからか、出身が同じだったからかはわからないのですが、少しだけ僕を気にかけてくれてたように思います。

僕は写真が下手くそでした。
卒業までずっと下手くそだったと思います。多少、現像とプリントには自信がありましたが「写真」っていうものを卒業からしばらくして、写真をほぼ辞めてた頃にようやく理解したみたいな感じだったので、必死なだけで下手くそでした。

「昨日の夜さ、君の事を駅前で見かけたんだよ~。なんか下を向いて歩いてるから声をかけようかと思ったんだけど、今日の授業のためのプリントをこれからするんだろうなって思って声をかけるのやめたんだ」

とある授業の時に先生に言われた言葉です。
いやいや、声かけてくれよ~、迷ってんだから・・・これが僕が思った気持ちです。

当時、クラスで同じテーマで写真を撮ってました。テーマというほどではないのですが、生涯これを作品として高めていく人もいるので、テーマといえばテーマなのでしょう。トレーニングや同級生・先生と共通言語としての写真を持つためにはとても優れているトレーニングだったと思います。
写真をずっとやってた人も、専門学校に入ってから本格的に始めた人も、ほぼ同列に先生は見てくれたし、最初の1ヵ月程度では良し悪しも学生レベルじゃなかなかわからない。でも、写真を撮って、どれがいいか選んで、プリントして学校に持っていく・・・これを繰り返すんです。

「君はわかっててやってるんだよね、水増しって感じもするけど、この量の写真をちゃんと整えて最初にもってくるのは大変だったでしょう」

これがクラスで初めて写真を先生に見てもらった時の先生の言葉でした。
最初の授業では自己紹介と週末の浅草での撮影実習の説明と先生の作家としての来歴を聞くみたいな授業。その週末には浅草寺に集合して、とにかく10本フィルムを使う(20だったかな~)ことを目標にスナップショットを自由に撮ってみてと。
そして週明けの最初の授業でこの時の写真を、フィルム現像して印画紙に焼いて、台紙に貼って先生に見てもらう。現像もプリントも実習を1度経験した程度だったので、なかなかに大変だったんです。

10枚程度しか写真を持ってこなかった生徒もいたのに対して、僕は30枚程もっていきました。たぶん、クラスで一番多いくらいだったでしょう。

先生は水増しと言ったのだけど、実は全然そんなことなくて、どの写真がいいのかさっぱりわからなくて選びきれなかったってのが事実なのです、情けないことに。

「この構図は不思議だね~。あー、これはもったいなかったね。撮影場所が暗いところだったでしょ?これ、写ってるのはとてもいいのだけど、露出がダメだから写真ができてない。」

先生の講評はこんな感じだったと思います。

その浅草での演習と写真講評の後に、さきほど少し説明したトレーニング的なテーマを与えられて(これを言っちゃうとどこの学校のどの世代か即バレしそうなので伏せ時ますw)、平日、週末に関係なく撮影し、現像、プリント、台紙貼り、先生に見てもらうってのを繰り返しました。3か月間、何度も。

僕は最初の方に先生にハナマルをもらったんです。
先生は良い写真には〇、◎、そしてハナマルをくれました。さりげな~くくれるので、最初はぴんとこないのですが何気にレアだったんです、ハナマル。そしてその日の良かった写真を授業の終わりに全員に見せる。その日は僕の写真が選ばれたし、その後も何度も選ばれました。

ただ、駅前で先生が声をかけようか迷ったって時期は、完全に何をどうやって撮ればいいのかわからない状態だったのですねw下手くそなくせに生意気にもスランプに陥っていたのです。

「かっし~くん、スランプだぁ~」

って、同期の仲の良かったかわいい子に指摘されて気付いたのでした。
ハナマルをもらった後に、その写真しか見えなくなってしまったんです。こういう写真を撮るにはどうすればいいんだろう、同じものは撮れないよな・・・?、じゃ、違う感じで同レベルの写真ってどんな写真なんだろう?

他の学生よりも写真を持っていく量が多かった僕だったのですが、スランプになったらさらに多くなっていました。

「いいの上がってこないね~。でも、君はわかってるんだよね」

そんな風に先生には言われました。
僕は自分が下手くそであるってことを思い出し、あれこれ工夫して狙って撮ろうとしてもうまくいかないだろう。とにかく、撮って撮って撮りまくって、そのあとに必死に選んでみよう・・・そんなスタンスに切り替えました。
後に同級生にベタ焼き(コンタクトプリント、インデックスみたいなものだね)を見せたら、

「君が撮っとるのは、俺にはよーわからん。変な感じがする」

って言われたのでした。
それもそのはず、狙ってないのですから。特にその同級生はしっかりイメージを作って狙って撮るタイプの写真の上手い人だったので、僕のベタを見てもそうなると思われますw

そして、またハナマルを何度ももらえるくらいに成果がでてきました。
僕的にはまだまだ良し悪しがよくわかってなかったのですが、先生にはほめてもらいました。

「君はわかってやってるから」

いつも笑顔で先生にはそういわれました。
面白い学校で、生徒のやる気というか本気度みたいなのが自然とできあがっていくみたいな、そんな授業の進め方でしたね。
最初は学生が一斉に壁に写真を張り付けて、それを順番に先生に見てもらう方式だったのですが、途中からテーブルの上に個々に並べて見てもらう方式に変更されました。先生に見てもらった人から帰ってもいいよとなっていたのですが、用事があるから、家が遠いからと帰る人はいましたが、ほとんどの学生が最後まで残って他の学生の写真を見て、先生の言葉を聞いていました。
これが長いんですよ。夜間の学校ではあったのですが18時から始まって、終電ギリギリまで終わらないなんてのはざらです。だから最初は学生全員のを写真を食い入るように見ているのですが、徐々に、この人のは見るけど、この人のは見る必要はない・・・みたいな空気が出来上がっていき、面白い写真を撮る人、先生がほめる頻度が高い人の写真の時はテーブルを囲むように学生が大勢集まるのですが、そうじゃない人にはパラパラとしか集まらないみたいな。ちょっと残酷ですよね (^^;)

僕の時はまあまあ人が多く集まってくれていたと思います。本当にありがたいことに。

恥ずかしがりやなので、みんな見ないでーっと毎回なっていたのですが、嬉しいことだと理解して、ほんとうに同期の皆さんには感謝してました。そして僕的にはつまらない写真は無いっていう思いもあったので、学生全員の写真を必ずテーブルの近くで最後まで見ていました。

「後期はどんな写真を撮るの?」

夏休み前の最後の授業は先生との面談でした。
先生は僕にこう尋ねました。ま、みんなにそうだったのだと思いますが。

「僕はこのまま同じ写真を続けようと思っています。秋や冬になれば景色も人が着ている服も変わるだろうし、何より天候による撮影条件も変わりますから。あと、まだこの写真をわかってないので」

普段なら自分を守るために何重にも武装したりするんです、面談とかでは、僕は。弱い人間だし、何をやってても自信がないので。でも、先生には全部見透かされると思って全て正直に話しました。
最後の授業の前にあった他のクラスとの合同の合評会でも、他の先生に散々に言われたし、上に書いた同級生と同じように変だって言われたし。そういうことを先生に全部言いました。

「君はわかってるんだよ。この写真を続けるべきってこともわかってるし、隣のクラスの先生に言われたこともわかってる。だから大丈夫。後期も頑張りなさい」

こんな言葉だったと思う。
優しい先生だったけど、写真に関しては厳しかったし、写真に対して真面目になりきれてない学生を怒るときはとても怖かった。でも、先生はいつも僕には優しかったんだよね、不思議と。僕が弱虫だから心が折れないように優しくしてくれたのかなって、いまだに思ってはいるけど・・・まだ、わからないかな、先生の真意は。

その後、面談が終わった僕はなんとなーく名残惜しくて、学校のホールでぼけーっとパンフレットとかを見てた。そしたら、全員の面談が終わった先生が降りてきて、

「お、いたいた!よし、君も行くよ!!」

そう言って、最後まで残っていた学生数人と飲みに行った。二次会までいったのかな。ずーっとニコニコと笑って楽しそうにしてる先生を囲んで、本当に、本当に楽しい飲み会だった。

でも、これが僕が生前の先生を見た最後だった。

先生は夏休み期間に海外取材に行っていて、その途中で倒れた。
そのまま入院し、1度は退院するものの、翌年の3月に他界したのだった。学生の中には入院中の先生のお見舞いに行った人たちもいたのだけど、僕はなぜか行かなかった。先生にあれこれ質問をしたい、今やってる写真は正しいのかどうか聞きたいって思いもあったのだけど、自分でなんとかしなくちゃっても思ったし、なんとなく顔を合わせずらいってのもあった。そしたらあっという間に・・・

その後、2年になって、少しだけ写真がわかったけど、まだまだわからなくて。
でも、卒業まで必死に頑張ったし、まだまだだとは思ったけど、自分なりによくできたと思える写真も少し撮れた。学校の賞にはかすりもしなかったけど、卒展はそれなりの満足感があったし、ここまで辿り着けたことが何よりもうれしかった。

なにせ、1週間でついて行けないって思ってやめようとしてたのだからね。

そのあと、学校内のクーデターに軽く巻き込まれ、大学院的なのに進学していたのだけど3か月もしないうちに辞めた。

「退学届けなんてださないで、気が向いたときに来きてもいいのに」

と先生には言われたけど、しっかりと区切りをつけたいと思った。
写真をやめようって思って(どうせ下手くそだったし)、撮影をやめたけど、なんとなーく心残りが。
自分に足りないものはなんだったんだろうって考える日々を過ごした。

そんな時に友人が自殺をほのめかすようなブログを更新。
気になってメールしてみて、たわいもない会話をメールで交わした。次の友人のブログには「助けてもらった感じがする」と。それは僕の事ではないと思うのだけど、こういう時に助ける術ってなんだろうって考えて、臨床心理士を目指すために通信制大学にいくことに。

やめようって思ってた写真だったけど、心理学を勉強することで自分の中になにかしら一本の芯を作ったら、また写真ができるかもしれないし、何よりこれまでわからなかったことがわかるようになってくるかもって思ったのです。

でも、うまくいかなかった。
実家に戻ることになり、写真ができる環境が失われていったし、試してみても地元は好き過ぎてよい写真が全然撮れなかったり。そもそも、実家に戻って親の面倒を見て、大学の方もなんとか元に戻してっていうまでに時間がかかりすぎてた。ただでさえ下手くそだったのに、もっと下手くそになっててね。他にもたくさん理由があるけど、僕から写真ってものが失われてしまってた。

「君はわかってるから」

何度も何度も先生にかけてもらった言葉。
今でもたまに、

「先生、僕は全然わかってないよ。何もわからないよ、先生教えてよ!」

そんな言葉が思い浮かんできます。
たった三か月しか先生には教えてもらえなかったけど、人生で一番の恩師です。
1週間で辞めようと思ってた僕を励ましてくれたし、この先生にずっとついて行きたいって思ったし。でも、なんで先生死んじゃうかな~。あれからずいぶんたったけど、写真やめちゃったけど、また迷子になったし、全て辞めてしまいたくなってるよ。また励ましてよ、ハナマルをつけてよ・・・

でも、学校の事を久しぶりに調べて知ったことで、同級生というか友人だった彼がまだ頑張ってるってこと。

あれから展覧会の数ではなく、展覧会のタイトル・・・つまりは作品数でいうと15回。大きな賞を受賞してないけど、受賞歴もしっかりある。っていうか、当時と変わらず続けていることが嬉しかった。連絡を取って話をしたいっても思ったけど、僕のことなんか忘れてるだろうし、相変わらず情けない僕の姿を見せたくないし。でも、本当にうれしかったな~。ちゃんと写真を変わらず続けて、しっかりと個展を開いている君の姿は最高ですよ。

 

これからの人生、何ができるかわからないけど、あの時志したようなことを1つは成し遂げたい。写真では無理でも、当時の思いを1つは叶えたい・・・そんな風に思ったのでした。ずいぶんと心も体も年取ってしまったけどね。


いつの間にか父の日が終わってた

2022年06月20日 | TwitLonger

暑いです。

暑いのはいやだな~。汗かいても全然平気な感じで遊ぶときは暑いにこしたことはないんだけどさ。でも、もう何年も遊んでないな~って思う。遊ぶってことがなんなのかすら忘れてしまったような。

父の人生を思い返そうって思ってブログ更新のページを開いたんだけど、その前に自分の事書こうかな。

19年前の8月に実家に戻って最初の数年はよかったんだよ。

やる事があったし、目標もあった。

当時は通信制大学の勉強をしていて、両親の世話をしていた期間…半年くらいかな、それを取り戻すのに必死だったのと、通信とはいえ関東圏に住んでいるのと、地方に住んでいるのでは勝手が少し違ったり、余裕がなくなったから無理にカリキュラムを詰め込むことができなくなったりで、まだ2年生だったのに1年留年になるかな~って感じだった。臨床心理士資格を取ろうとしてたから、毎週東京に通わなくちゃならない授業があったり、卒業試験で卒業資格を得られれば楽なところを卒論を選択したり、まー、あの時に勤勉さってのを全部使い果たしたってくらいに使いまくったかな。

臨床心理士資格についてはまったくもって手が届きませんでした。

1つは僕の学力不足。
心理学系はかなり自信がありました。統計学についてもしっかりできていたし、教育学部の心理コースだったので分野的にもう少し心理学を掘り下げて勉強したいってのはあったけど。問題になったのは英語力。臨床心理士の資格試験を受けるためには大学院の臨床心理コースの卒業が必須。心理学っていうのはアメリカ発祥の学問なのでレポートや論文のほとんどが英語なんだよね。だから大学院受験にも英語が必須。
僕は社会人経験がなかったから、社会人枠での入試っていうのも無理だったし、とある事情で卒業した大学の大学院への進学も諦めていたので、別大学の受験。言い訳がましくこうやって書いたけど、結局は学力不足でハードルがかなり高かった。

2つ目は資金面。
僕にも我が家にも、もうお金は残ってなかったんだ。
そもそも僕は専門学校在学中は実家の両親に頼っていたし、卒業してからも生活するのがギリギリくらいしか稼げなくて、目標としていた写真の個展を開く方法を見失うほどだったし、本当に情けない状態。親の方はそもそも年金生活に入っていたし、タイミング的に実家の建て替えってのがあった。兄貴がローンを組んでやったとはいえ、両親もお金を出したんだよね。これに僕が反対する理由はまったくなく、兄貴が重い腰を上げてくれたチャンスでもあったので、一生懸命後押しした。ちょうど大学院受験をした年にハウスメーカーと打ち合わせがあった感じ。両親に新しい家に住んで欲しかったし、なんといってもあの東日本大震災を乗り切れたのは家が新しかったってのもあって、これは間違いじゃなかったって思う。

それでも簡単には諦めたくなかったから、上にも書いたけど1度だけ受験はしました。
京都にあるとある大学。関西なんて縁も何もないのだけど、学費が比較的安かったのと地元の大学の大学院は少しレベルが低かったのもあって、一人暮らしは避けられなかったのでどうせなら遠くもいいかな~なんて考えてた。受験内容は英語と面接。英語の試験はボロボロだったけど、面接はそれなりにうまく「こなせた」と思う。グループ面接で学生同士のディスカッション。テーマはモンスターペアレンツ。ディスカッションがスタートしても誰も話し始めないから、みなさんより年上だと思うので~って子どもを持つ同級生がすでにいるというところから話し始めて・・・

ま、不合格でしたけどw

ま、ま、どちらにしても地元以外に僕が一人暮らしして大学院で勉強するっていうのは無理でした。
万が一に受かってしまったらなんとかなるかな~っては思ったけど、親父の面倒を見なくちゃならなかったしね。

ここからだと思う、何もかもうまくいかなくなったのは。

通信制の大学で得たものは大卒資格だけでした。認定心理士っていう役立たずの資格を取る資格もあったのだけど、役立たずなので資格取得料5万円が惜しくて取らず終いw
結局はなんの役にもたたない勉強だった感じもしますが、

「あなたはちゃんと最後まで勉強しなさい!あなたのような人がしっかりとやり遂げて世の中の役に立つようにならないと本当じゃない」

在学中に出会った年配の方にこんな言葉をかけてもらいました。
それまでずっと褒めてもらえなかった人生だったので、凄く嬉しかった。

あ、写真の専門学校の時にもこういう体験があったな。担当の先生に写真にハナマルをもらえたこと。これも自信につなかった。
誰がなんといおうが、この体験だけでも無駄じゃなかったって思えたし、これまでの人生で生きてるって感じたのはこの時だけだったと思う。これがなかったらって思うと自分の人生がかわいそうなくらい。

でも、何も得られなかったのは事実としてあって、父親の体調や認知もどんどん悪くなっていって、この19年間で何度か家を出ることを試みたこともあったし、あらたに何か始めようとしたこともあったけど、そのたびに親父が入院したり、体調が悪くなったり、問題行動を起こしたり・・・

こんな僕でも何者かになりたかったな~、もうちょっと写真続けたかったな~、せめて1度でいいから個展をやりたかったな~、好きな人と一緒にいたかったな~、結婚っていうものもしてみたかったし、子供はかわいいんだろうな~とか、そんな風にも思うのです。
でも、自分を過信して高望みばかりしてしまったのがダメだったし、なんといっても怠惰だったと思う。だからうまくいかなかった。

 

自分の事はここまでで、ここからは少しになるけど親父の話。

親父は病院で働いてる人だった。医者ではなく臨床検査技師。地元の高校を卒業して、今、僕が住んでるとこの専門学校に入りそのまま就職。当時の人としては遅い30歳で母と結婚して、3人の子供を授かる。60歳の定年までしっかりと勤め上げ、そののちに2,3年嘱託で仕事をして隠居。

何も横道にずれてない真っすぐな真面目な人生だったと思う。浮気もしなかったし、外で遊ぶみたいなこともしなかったしね。いつも仕事が終わると真っすぐ家に帰ってくる人だったよ。

親父は大学に行きたかったって話してた。
地元の大学の英文科に行きたかったと。親父は8人か9人兄弟の末っ子だったのだけど、男兄弟は親父含めて3人しかいなくて長男は戦後くらいに体調を崩して他界、もう一人のお兄さんは60台半ばくらいで他界するまでは立派に働いてた人だった。
でも、母親・・・僕からしたらおばあちゃんにあたる人だけど、母親の面倒を見なくちゃならなかったみたい。おじさんは自由気ままにやってた部分があったし、あとはみんな嫁いでしまっていたので、自然と親父が面倒をみなきゃならなかったみたい。
だから、専門学校時代は1時間半くらい電車で毎日通学してたんだそうだ。

他に親父に夢はなかったのかな~って思うのだけど、そういう話はしたことなかったな。

就職してからもしばらくは電車通勤していて、おじさんが実家に戻って結婚してからかな、親父は家を出て職場の近くで一人暮らしを始めたらしい。30までふらふらしてて、母ちゃんと結婚。結婚が決まったときに、看護師さんの彼女がいたんだよ~と母が言ってたけど、それ以降は浮気はしなかったと思う。

母ちゃんになんで親父と結婚したのか聞いたことがある。

「お父さんは、お母さんの家に遊びに来てた人達の中の1人なの。あなたのおじいちゃんがね若い人を世話するのが好きで、うちに飲みに来る人がたくさんいたんだよ。その中にお父さんもいたんだけど、ある時、来なくなったのね、お父さん。別に好きとかじゃなかったんだけど、いざ来なくなるとあの情けないというか寂しそうな後ろ姿を思い出してね~」

母ちゃんは多分美人さんな方だったと思う、親父は若い時はブスだったからなんで結婚したのかわからんかったのだけど、なんとなくこれで理解したw

何度もこのブログで書いてるけど、親父はお酒に負けた人間でした。いわゆるアル中です。

親父は兄貴達とは色々遊んでたみたい。
例えばキャッチボールをしたり、釣りを教えたり。高校野球の試合を見に、兄貴を自転車の後ろにのせて見に行ったなんてこともあった。従兄弟から聞いた話でも、

「おじちゃんはね、遊び人だよ。悪い意味での遊び人じゃなくて、釣りもそうだし、麻雀も得意だったし。俺も色々教えてもらった」

なのです。

でも、僕から見た親父はまったく子供と遊んでくれない人だったかな~。
もう歳をとったからっても言ってたけど、僕が物心ついたころにはそういうのがめんどうくさくなってたんだろうね。前にも書いたからはしょるけど、僕が親父に遊んでもらったって思える記憶は2つだけだもの。

親父はお酒を飲む量が増えて体調を崩したり、母ちゃんを泣かせることもあったかな。

僕が小6の時には結核になって、半年入院もした。
あの時は母ちゃんが不安で泣いてる姿とかを記憶してるので、あまり思い出したくないけどしっかりと記憶に残ってるから厄介だな。

結核を気にタバコもお酒もやめたのだけど、1年もしないうちにあっという間に元に戻った。

度々、お酒で体を壊しては入院してた。
それでも毎日仕事に行かなくちゃならなかったので、セーブできてた部分もあったのだろうけど、退職して隠居してからはダメになっていく一方だった。

横浜で一人暮らしをしてた僕の所に母からよくこんな電話があった

「お父さん、お酒を昼間から飲んでてね~。飲む量も増えてるんだ。心配で・・・」

そして、それから数年後に母が骨折して入院、お酒に歯止めが効かなくなってた親父は隠れて大量に毎日お酒を飲んで、母の退院が見えてきたころに倒れてしまい、両足の麻痺と記憶障害を負ってしまった。そして僕が実家に本格的に戻ることになって、間もなく親父のあれこれは悪化。アルツハイマー型認知症と診断された感じ。

癌だったので、一概に心労とは言えないけど、高血圧くらいしか病気がなかった母親があっという間に他界。僕が1人で親父の面倒を見るようになったけど、母の死から5年半後に肺炎で他界。

 

親父の人生ってなんだったのかな~って思うんです、最近は。

その前は母ちゃんの人生って・・・と考えていたのですが。

今の時代は違うかもですが、やはり家庭での父親の立場って微妙です。子供たちは母親になつきます。これは心理学的にも説明がつく話で、赤ちゃんの時に形成される愛着は柔らかい母親の抱っこだったりするのですよね。親父が酒に逃げてしまったのは、弱い部分が大きいとは思いますが、寂しい気持ちもあったのかな~って、今は理解ができるのです。

親父の介護は大変で、僕は一生分の大きな声・怒り声をだしたように思います。

こんなに早く逝ってしまうのならもっと優しくしてあげればよかった、そういう記憶だけを残せるように親父に接してこればよかったと後悔するんですよ。

 

最近はこんな風に思います。

子供が先に死ぬのは親不孝かもしれないけど、未来のない僕がこんな風に残るのだったら、母よりも、愛犬よりも、親父よりもずっと先に死んでたら楽だったろうにな~って。

 

ここで紹介するかはわかりませんが、こんど新しいブログを立ち上げようと思ってます。
ここと違って少し本気でやってみようと思います。僕の最後の挑戦かもな~って思っていますが、少しだけ頑張ろうかと。


少し休憩中

2022年06月16日 | Life

日本、大丈夫なんすかね?
経済のことも、政治のこともなーんも知らんけど、なんとなーく漠然とした不安がより強くなってると感じる今日この頃です。
上島竜兵さんのことがあったり、色々ありますもんね。コロナで変わった世界観なのかもしれません。

って、世間のことを心配するよりも自分のことをなんとなしなきゃならない感じの私です。

2月の半ばだったかな〜。
そのくらいから準備を始めるもなかなか一歩を踏み出せず。3月の半ば前くらいに自分の生活のためにあれこれ始めました。3ヶ月とりあえず頑張ってみようってことで。

何をやってたかはとりあえず伏せさせてください。

で、3ヶ月、法事などの止むを得ない日以外は土日も休まずに作業を続けましたが、結果的にいうとほぼ成果なしでしたw

この「ほぼ」ってのがポイントで、着手してから2、3週間経過したところでお仕事に関するとても良い話をいただいたことがありました。条件を聞くところまではいかなかったのですが、僕ごときを雇ってくれるというだけでもありがたいわけです。

でも、タイミングがとても悪かったです。

お誘いを受けた1ヶ月前なら何もやってなかったわけで喜んで飛びついたと思います、1ヶ月後だったら現在頑張ってることが思うようにいってなかったのでやはり飛びついたと思います。

お誘いを受けた時、2、3週間なんの動きもなったのに、動きがあったんですよね。しっかりとした成果があったわけじゃなくて、ほんのちょっと動きがあった感じで。だから「ほぼ」成果がないというわけです。動きがあった時の感触としてはこのまま上がり続けるんじゃないかっていう雰囲気がありました。しかし、動きがあったのはその瞬間だけで、先方様にお断りを入れた途端に動きは止まりました。

こんなもんかなーと、また頑張りました。

作業量を倍にしたり、工夫をしたり、あれこれ頑張っても成果なし。

もうやめようって思い始めたら、また動きが・・・

山あり谷ありならまだしも、時々山があるだけであとは動きがなくなる

気がつけば始めてから3ヶ月が経過してて、辞める決断も続ける決断もできないままに疲れてしまった感じです。
そこでこの間の土日は休もうって決めて。今週に入って色々調べたりしながら、少し作業をしては休んで。新たに何かをやろうと手をつけては休んで。昨日は思い切って丸1日休んで。

まー、休んでも何かしらはやるし、気になって色々考えるし、うまくいくにはどうすればいいのか考えるし、そもそも家事は普通にあるのでそれはやらなきゃならないしで、休んでるの休んでないのかわからなくて、成果が出てないのに休むことに罪悪感が出てきたりとw

悪循環そのものですね、何もかもが

朝、8時半には部屋に行って作業を始めて、2時間くらいしたら食材などの買い出しをして。
晩御飯用に1品何かを作るか下拵えをして、自分のお昼を作って食べて。片付けをしたら部屋に戻って作業して・・・

作業もうまくいく時はいいのだけど、思うように行かない時は時間との戦いだったり、自分のモチベーションや体力との戦いだったり、全然お金にならないことを続けることの大変さだったり、その繰り返しだったのですが簡単なことではなかったです。あまちゃんな僕にはなかなかのプレッシャーでしたし。

少々疲れたかなーって。

バイトをしたり、僕でもできるような仕事をさせていただくことが嫌なわけじゃないんですよね。
19年間、ほぼ家に閉じ込められてて、自由になったのだから何かに挑戦したいし、もう少し自分の時間を持ちたいし、19年を取り戻すことはできなくても残り少なくなってきた自分の人生を少しでも自分らしく生きたいかなーと。

年齢が年齢なので、ここから先、冒険をすることはできないです。できることは限られていて、行ける場所も、買えるものも限られています。恋愛ももうできないでしょう、家族を持つこともできないでしょう、それでもほんの少しでいいから生きてるって実感を得たいし、自分が望むことを少しでいいから叶えたいって思うわけです。

少し休んで、また頑張ろう、そんなふうに思う今週1週間なのでした。


こっちはダメで、こっちはOKなのは何故?

2022年06月03日 | Life

3月の末くらいから、時折咳が出るんすよね~
なんのタイミングかはわからないけど、軽い喘息みたいな感じ。これが3日前くらいから少しひどくなって、おとといの夜には近所のドラックストアに行って薬を購入。今日はちょっと効いてる感じがあったけど、寝不足も重なってかなり眠い1日でした。

 

 

女子中学生を15歳未満と知りながら働かせた疑い コンカフェ店長ら逮捕 東京・秋葉原(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース

 13歳の女子中学生を15歳未満だと知りながら東京・秋葉原のコンセプトカフェで違法に働かせたとして、店長の男らが逮捕された。 東京・秋葉原のコンセプトカフェ「ぶら...

Yahoo!ニュース

 

 

ところで。
このニュース少し気になりました。

基本的に15歳未満ってことで労働基準法のこの1文

「使用者は、児童が満15歳に達した日以後の最初の3月31日が終了するまで、これを使用してはならない(56条1項)」

より完全にアウトになるんですよね。
そのうえ、客に対してお酒を注ぐ接客もしていたのでひどいものです。

でも、キャバクラはダメだけどガールズバーはオッケーとか法律のあれこれというか、抜け道みたいなのは他の接客や労働に関する話でありますよね。なので、この経営者はなんで私たちだけ!!みたいに言ってそうって思いました。他のお店はもっと酷いことやってるでしょーみたいな。

しかしながら先ほど挙げた労基の1文に完全に抵触してるのでアウトなのでいたしかたかないかと。

 

と、ここまでは前置き。

今日話したいのはこの事件と似てないようで似てる話。

もしかしたら最大級の闇にケンカを売るような話になるかもだから、部分部分で言葉を濁すのはご了承ください。

 

日本の古都の話です。

そこでは綺麗に着飾ったかわいらしい(おぼこいっていうのかな?)女の子たちが働いてます。
踊ったりしてね。

この子たち、すげー若いです。

とある年齢になると役職名が変わり、衣装や髪型、化粧なども変わっていきます。

 

この子達の多くは先程の労基の1文からは逃れる感じの16歳になる年齢でデビューします。

なので先ほどの年齢制限はクリアします。

その子たちの主な仕事はお客様に「踊り」を披露することです。

でも、その踊りはお酒が出る食事の場で披露されます。

 

その子たちはおしゃくをします。

そして、お客にすすめられればお酒を飲みます。

 

やがて年齢を重ね18歳になると、所属する事務所のようなものの代表のような人に男の人をあてがわれます。

そこから先は自由恋愛になるのかな?

ま、ソープランドや飛田新地にシステムは似てるかも。
もちろん、私はもちろん一般人は踏み込めない領域なので詳しくはわかりませんが、ソープランドは女性がいる特殊浴場でお風呂に入るついでにその女性と恋愛関係になれば、エッチができるみたいな。飛田新地はそれの料亭バージョンみたいな。

一緒にお食事したり、デートしたりして恋愛関係になればエッチできそうだな~って僕はその古都のシステムを聞いて思いました。

 

なんでこれが現代日本において許されてるの?

 

お酒がともなう接客に関しては労基がどういう風になっているのか、僕は知りません。
でも、日本の法律では20歳にならないとお酒を飲むことができないっていうのは知ってます。常識ですね。

それから、18歳になったからといって、所属先が男を斡旋するのって法律的にどうなの?

なんとなーくですが、管理売春みたいな感じですよね、これ。

 

もう何年も前になりますが、このことについて調べてみたことがあります。

調べるいうても古都に接点がないし、もう学生でも研究者でもないので現地取材や文献をあたるみたいなことはしませんでした。

ま、ネットで調べて、調べて、調べまくりました!

結果、

「え~・・・すげー怪しいじゃん。何これ?」

でした。

調べてみるとわかるのですが、多くが体を売るということについて否定しています。
否定していなくても(他に有名な呼び方があるのですが、その女の子達が所属するところを事務所とさせていただきます)、

「今の世の中ですから、ほぼ全ての事務所は体を売るようなことはさせません。あるとしたら質の悪い事務所です」

みたいな事が書いてありました。

怪しい・・・

本当に怪しい、なんだこれ・・・調べれば調べる程そんな風に僕はなりました。

 

で、それからしばらくたって、遠い遠い知り合いの知り合いに実態を聞くことができました。

未成年飲酒はもちろん、男をあてがうみたいな文化はしっかりと残っているという話です。

まー、たとえお金があっても普通の人はそこで遊ぶことはできないし、遊ぶためにはかなりの段階を踏んでいかねばならない。女の子をあてがってもらうためには、莫大なお金をその界隈に落とさなければならないし、社会的な信頼度もかなり高いものがなければならないわけだし。

つまりは、既得権益みたいなもので、守られて、守られて、守られつくされてるのが、その古都にある、とある界隈なのですよ。

 

ネットであれこれ書いてる人の多くは、映画や物語で知る外側からの情報だけで書いてるのかもしれませんね。

 

もちろん、僕のこの情報も遠い遠い知り合いに担がれたのかもしれません・・・(と、一応、書いておきましょうw)

 

実際、その「事務所」によっては男とそういう関係になることを選択させる場合もあるようです。

でも、拒否すればその先の役職にすすむことができないかもしれないし、その界隈で活躍することができないかもしれない。もちろん、それ以上のポテンシャルを持っている子ならば、体を売ることなく上にいけるのかもしれないけど、それでもその界隈から離れない限りは日の当たる場所を歩ける感じではないよな~、名前や出身などを隠して生きるしかないよな~って思いました。

 

僕は知識はないけど歴史が好きだし、写真を通して芸術や文化の大切さもしっかりと学びました。

でも、こんなクソみたいな歴史や文化を大切にしてる日本は終わってるな~って思いますし、それにのっかって遊んでる連中はウンコ以下だなっても思います。

日本のロリコン文化が生んで、継承し続けた最悪の文化であり歴史なんじゃないかって思っています。

歴史・文化として大切にしたいのなら、未成年飲酒や売春みたいなものを省いて綺麗なものだけ残しても十分に存在する価値があり、日本の美しい文化の一翼を担うものであるんじゃないのか?って思うんですよ。

 

でも、そうじゃなく、古い歴史の悪い部分をしっかりと残したままで現代に残るってことは、それが必要だと、そういう遊びをしたいと、それを求めてると・・・そういう人種が存在するってことですよね。しかも財力も権力もあるような人達だったりするわけですよね。最悪ですよ。

逮捕されたコンカフェの経営者は労基を守ってなかったので逮捕されて当然です。

でも、国に守られているのかなんなのかしらないけど、もっと凄いことをやってる人たちが何故か許されているってことを知らなければならないって思います。

 

仮に、僕の子供が「これ」になりたいって言ったら、絶対に反対します。
知り合いの子供がなりたいって言ったら、それも絶対に反対します。今はそれについての知識があるので。

 

今、日本はいろいろと考えなければならない時期にきてると思います。
震災などで疲弊しきってるってのもありますが、気が付いたら弱い国になっていたし、住みにくい国にもなってしまいました。お金持ちの人たちが日本を捨てて海外に移住しろみたいなことを言い始めるのも当然です。

ひとつひとつ、こういうのを無くしていかなくちゃならないんじゃないのかなーって思います。