@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

オワコン、俺

2022年05月30日 | Life

暑かったり寒かったりで、なんとなーく疲れてしまいますね。

 

先日、シン・ウルトラマンを見てきました!
僕はドストライクな世代ではないのですが、小さい頃から怪獣大全集を大好きで読んだり、暇があれば誰が買ったのかもわからない特撮物の主題歌が入ったレコードを一人で聞いていたりしてました。

母のせいで楽しみにしてたウルトラセブンの最終回が見れなかったときは丸々1日は大抗議してましたし。

ウルトラマンの全てのシリーズが見れたわけじゃなかったのですが(僕の地域では、僕が知る限りではウルトラマンタロウ、レオは再放送されていません。エースも少し怪しいです)、ウルトラマンが大好きだったんですよね。

シン・ウルトラマンは賛否両論あるようでしたが、しっかりと楽しめましたよ。
先入観を持たずに、リラックスして楽しもうって思う気持ちをもって見に行くことをおススメします。

 

さてさて。

庵野監督作品の話です。
昨年、とあるネット配信者の方が亡くなりました。
名前を伏せる必要もないのですが、一応。その方は病気を患って闘病の末に亡くなったのですが、

「シン・エヴァンゲリオン見れた、間に合った!」

そんな言葉が印象的でした。
心残りは他にもあるだろうけど、1つでも・・・そんな風に考えたのでしょうね。

例えば、ワンピースって何だったんだろう?
ハンターハンターはどんな形で終わるの?
スラムダンクの映画はどうなの?
シン・仮面ライダーは?
じゃ、次のシン・〇〇は何になるの?

漫画やアニメに関する心残りってたくさんあるなーって思います。

僕的にはここに挙げた例はそこまでピンとこなかったりします。

ワンピースはそもそも読んでないし、ハンターハンターも同じく。
この2つの漫画は読みたいって思ってても縁がなかったんですよね。ちょうどジャンプを読むのをやめた頃に連載が始まった漫画だったし、僕にしては珍しく忙しい時期とも重なったりで。

スラムダンクの映画とシン・仮面ライダーは気になるには気になるけど、自分の命と向き合うことになったときそこまでではないかな~と。

新しいシン・〇〇も一緒。それにまだ世に出てないものなわけだしね。

 

心残りって何かな~

 

少し心残りを考えながら文章を書いていきますね。最後に自分の心残りが思い出せて書ければ、このブログは成功かなとw

 

テレビはなんだかんだで面白いよ

これが僕のスタンスでした。
でも気が付けば、朝の連ドラ以外は欠かさず見ているものは1つもなくなりました。
もちろん、72時間とか、見たら楽しいのはたくさんあります。水曜日のダウンタウンとか、所さんの番組とか。でも、別に見れなくても平気かなってなっています。

テレビには心残りはないな~

それが今の僕ですね。テレビ好きで1日何時間もテレビに費やしていたのに。

 

これ、先日少しだけ理由が見えました。

とんねるずの石橋貴明さんがYouTubeやっているのはとてもうれしいことだし、とても楽しいんです。
でも、テレビで小学生の時から見ていた、

「とんねるずのみなさんのおかげです」
「ラスタ・とんねるず」
「とんねるずのみなさんのおかげでした」
「とんねるずの生でだらだらいかせて」

これらの番組ってもう見れないんだな~って思ったんです。
最高に面白くて、最高にドキドキしてみていました。ウッチャンナンチャンも好きでしたし、ダウンタウンだって好きだった。お笑いウルトラクイズも大好きだったし・・・

じゃ、今のバラエティってどうなの?

ってなったんです。
お笑いの方たちの技術ってのは凄く上がっていると思うんです。いちいち面白いって感じることが多々あります。

だけど、僕にとってはそこまで必死になって見るようなものじゃないんですよね。

これは僕がおっさんになって、単に感性が鈍くなっているっていうのが1番の理由です。
ずーっとそう思ってたし、今でもそれが大きな問題だなって思っています。

しかし、過去にドキドキわくわくしながら見ていたこれらのテレビ番組はもう見れないんだ、これを超えるものはもう見れないんだ、僕のドキドキわくわくはもう終わったんだ。

 

そんな風に感じたのです。
ドラマもそうですね。ネットフリックスで韓国のドラマや、新シリーズが配信された「ストレンジャーシングス」なんかも面白いけど、昔見てた、「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」「ひとつ屋根の下」「金八先生シリーズ」みたい楽しんだものはもう出てこないかな~とか。

これは母と一緒に見てたとか、家族で見てたなんていう、もう取り戻せない楽しかった時間っていうのも含まれてると思います。

 

ただ、そういう僕の感性の劣化や思い出補正などを省いたとしても、あの頃のものは超えられないって思う自分がいるっていうのが大きいのでしょうね。

ゲームなどにしてもそうですね。

 

そういうエンタメだけじゃなくて、これから未来の人類を見て楽しみなものはなんだろう?

 

って考えたときは宇宙開発なんかがあります。
でも、銀河英雄伝説みたいな時代になるまではあと何千年かかるのかな~とか。

VRの世界は違うだろ、近未来だろっても思います。メタバースの時代が到来しつつわるわけで。
でも、これも自分が生きているうちにある程度進んだとしても、ソードアートオンラインみたいなフルダイブは無理だろうな~とか。

そもそも、スマホが革命的、革新的って言われてるわけですが、これについてもザウルスとかで予測はしてたんですよ。まだ2000年になる前です。1997年とか96年とかだったと思います。ノートパソコンがアホみたいに薄く軽くなったり、ポケットに入るほどまでに小さくなったりしましたが(全部、ソニー時代のVAIOの話ですねw)、それ以上に小さいザウルス(シャープせいでしたよね)が発展していって、単独でネットにつながって、オフィスソフトくらいは簡単に使えて・・・こうなったときにパソコンは革新的なものになって、すげー便利な世の中になるよなーっては思っていました。

で、実際にスマホが出てきたわけなんですが、最初はすげーなんでもできるって思っていたし、スマホが世界を変えたとも思っているのですが、宇宙開発やVRの世界に比べるとそこまでわくわくするものではなかったんですよね。たいして使いこなせてないのに偉そうなことを言ってますがw

 

じゃ、宇宙エレベーターなどが実現していって、一般人でも海外に行くみたいな感覚で月に行けるようになったら?

これはわくわくすると思います。ここまで見てからこの世を去ることになった未練たらたらかもしれません。
でも、間違いなく自分が生きているうちに叶うものではなさそうなんですよ、どう考えても。

 

そういう大きなことは諦めることが簡単にできます。

でも、最初に戻りますが、エンタメの近い未来は未練たらたらになりそう。それが生きる活力にもなるんじゃないか??

あ、1つ思い出しました。

アニメ「無職転生」は最後まで見たいですw
原作の物語が終わっているので、あと10年も頑張って生きればこれは叶いそうです。どうしても自分の命が10年もたないのなら、原作を読んでしまえば満足はできそうですが。

 

何かを楽しみに、それをモチベーションに生きるっていうのは、今の僕には難しそうです。

 

生きる理由ってなんだろう?

 

そんなことを考えた半年くらいでした。
20年近くの間の僕の役割は母の手伝いと父の介護でした。楽しみは愛犬とじゃれることでした。

その全てを失った今、生きる理由ってなくなったなー、生きる目的ってなんだろう?
その堂々巡りで今に至ります。

 

さて、ブログの終わりが見えましたが、自分の心残りってなんだろう?

1つ明確なものがありました。

少し前のブログにも書いた、この10年間くらい大好きで聞いてる歌姫の存在です。
こんなに長い間飽きずにファンでいるっていうのは初めての経験です。たしかに福山雅治さんをずっと聞いてますが、ライブにも行ったことはないし、ファンクラブにも入ってないわけです(ライブにはいつか行きたい)。

そしたらその歌姫がこれからどんな曲を歌っていくのか?

ってのが心残りなんじゃ?

そうだね、これが僕の一番の心残りかもしれません。
でも、なんで亡くなった配信者の彼がシン・エヴァンゲリオンを見れて心残りの1つが叶ったみたいになったのか?これですよね。

シン・エヴァンゲリオンはエヴァンゲリオンのラストだったからですよね。

ラストを見ることができたから心残りが1つなくなったとなるんですよね。
もちろん、この後、エヴァまだやるよ~なんて事態が起こるかもしれません。でも、彼が存命の内は確実にエヴァは終わったわけですよね。

僕はそんなに長く生きられないって思ってます。

自ら命を絶つ勇気はありません。
でも、どんどん衰えてる自分に毎日気付かれされるんです。気力がどんどん低下していくのが、体力の衰えよりも深刻だなーってなってます。

僕の大好きな歌姫は僕よりずーっと若いのです。

最後まで見届けるのは無理なんですよね。

心残りにしたいけど、心残りにするにはあまりにも辛すぎる・・・

 

そんな風にも思うわけです。
僕には心残りがない、この先楽しみなこともない・・・ほんとオワコンだなーって思います。

同情を買うつもりでこんな論調になってるのではなく、わりと冷静に考えてここに至っています。

あの楽しかった日々に戻りたいな~
心にしこりができるあの日の前に戻りたいな~

そんな風に本気で思い始めたのだから、終わりっすよw

そうだ、最近はまってるセブンイレブンのシュークリームはあと1つくらいは食べたいですねw


星々の悲しみ

2022年05月27日 | Life

ほんとはしっかりと真剣にお仕事をやらなくちゃなんだけど、天気のせいかどうにも体も心もついてこなくて。
それでもしっかりと前向きにってなってるんだけどね~。難しいです。タイムリミットが確実に迫ってて、そんなに余裕ないのに。

それでもやらなきゃならんので、やれることをって思って音楽を聴いてました。

仕事とは少し遠いのですがまったくもって関連性がないわけでもなくて、これもありかなーって。
でね、とある小説が思い浮かんだの。雑多に曲を聞いてたのでどれにひっかかったのかわからないのだけど。
これの明確バージョンでいうと東野圭吾さんの「変身」を読み終えたタイミングで尾崎豊さんの「forget me not」が思い浮かんだってのがあったのだけど、芸術的な事はやってたけど才能が皆無な僕にとっては全く持ってよくわからない現象でw
もしかしたらこれらの作品の関連性はゼロなのに僕の脳がバグって変な風に関連付けしちゃってるんじゃないかとか、色々思うのです。

今回もなんかしらの曲に脳がバグって小説というか物語が関連付けられて想起されたわけですね。

その小説が今日のタイトルの「星々の悲しみ」です。

もう何年前になるのかなー。
今は本を全然読まなくなったのですが、たくさん読んでた時にはまった1冊です。

宮本輝さんの短編集「星々の悲しみ」の中に収録されてる短編小説になります。

20年以上前に1度読んだだけなので、ざっくりとした記憶で間違ってるところも多々あると思いますが、ご了承を。

この物語は兄妹と兄の友人達のちょっとした日常的な恋とかそういう話だったと思います。
兄が主人公で、その兄が通っていた喫茶店に飾られている油絵につけられたタイトルが「星々の悲しみ」となります。
この絵は大きな木の下で自転車を投げ捨てて、仰向けに横になり、顔に麦わら帽子をのせて、居眠りしているのかな?と思わせる様子が描かれています。夏に近いような陽光が差し込み、優しい風が吹いているのが木の葉はある方向に揺れている様子。
タイトルとともに作者の名前が書かれていて、そこには「享年20歳」と。

この油絵はどうして「星々の悲しみ」とタイトルがつけられているのだろう、妹はこの絵に描かれるこの人は亡くなってるんじゃないか?そんな風に言ったり。
この絵を盗み、返すまでが物語になります。

兄は友人の1人に猜疑心を持つけど、そのせいでトラブルが起こるわけでもなかったように思います。
でも、それは誤解だったとラスト近くに兄は知るんですね。自分が大好きだった友人の1人を信頼しきれなかったような感覚、誤解だったと知った時にはもう取り戻せない状況になっているんですよね。

 

誤解や勘違いなんてのは若者じゃなくても年をとってもたくさんあることで、でも、若い時にやってしまったそれは取り返しがつかないって強く感じてしまうものだよね。

 

「星々の悲しみ」はどんな絵だったのだろう?

 

言葉だけではわからない部分を想像しながらこの物語を読んだ記憶があります。
情緒的な部分は違っても、想像させる部分、感じ入る部分、見た目のままを見てくれっていってるような感覚。写真をやってた頃にわかりそうでわからなかったものを感じたりもするんですよね。今の自分ならこの物語から作品を作る事、向き合う事っていうものを紐解くヒントを得らえたかもな~なんてノスタルジックにもひたったりします。

読後感の爽やかさみたいなのが心地よいのだけど、主人公は後悔してるだろうなっていう気持ちも残ったり。

ずっと読んでないけど好きな物語なので、多分、すぐに出てくるだろうところにしまってあるから引っ張り出してきてまた読もうかな、そんな風に思うのでした。今日はここまで。


どうしてわかってくれないんだろう?

2022年05月25日 | Life

聴く力って本があります。

Amazonで探してみたのですが僕が持っているのは出てきませんでした。すいません。

僕が卒論で書いた題材はピアカウンセリングについてでした。
カウンセリングって一言で言ってもたくさん種類があります。心理テストを多種使ってクライアントの状態を見てあらゆる方向から何が問題になっているのかカウンセリングをすすめていき、場合によっては家族に来てもらったり、精神科医に橋渡しをして薬を処方してもらいながら治療していく場合。逆に精神科医のサポートとして心理テストやカウンセリングをやる場合。臨床心理士の仕事って多種多様に渡っていきます。活躍する場所も方法も違うと言っていいでしょう。

問題となっている部分が本人だけにとどまらず、家族、さらには先祖まで見ていくような話もあって、家族心理学なんていうのもあります。僕も大学で勉強してそれっきりなので詳しいことは言えないし、間違ったこともあるのはご了承ください。

カウンセリングでは不登校のお子さんを連れてきたお母さんを後日呼んで、お母さんをカウンセリングするなんてケースが多くなります。

お母さんの生い立ちとか色々調べていくうちにどうしてお子さんが不登校になってきたのかが見えてきたりするから不思議ですよね。それはお母さんが悪いわけではなくて、自然とそういう流れになってしまう場合があるんです。でも、僕は思いました。そうなった場合、そのお母さんは悩んでしまうんじゃないかと。子供をそんな風にしてしまったのは自分のせいだと悩んでしまうんじゃないかって。

でも、逆に言えば、カウンセリングってそういうものだよ、お子さんが良くなるだけじゃなくてお母さんも良くなるんだよって考えればいいんじゃないのか、お母さんのせいではなくて、お母さんの悩み事を聞いてくれる人がいなかったせいじゃないかな?今はお母さんの話を聞いてくれる人もいますし、私が聞きますよ・・・

そんな風に軽いものに転換できたら問題解決はスムーズに進むんじゃないか?

でも、例えばスクールカウンセラーという人がいます。
学校に配置されるカウンセラーですね。スクールカウンセラーは問題がありそうな子に話しかける場合があるし、例えばクラスの担任からいじめにあってる子や不登校の子に話しかけてもらうように依頼される場合もあります。

スクールカウンセラーというかカウンセラーは万能ではないので全てを解決することは難しいです。

それでもカウンセラーの元に来た子やカウンセラーが接した子は解決に向かう可能性が向上します。

でも、カウンセラーってちょっと胡散臭くない?

こんな風に感じる場合もあるだろうし、カウンセラーの元に通ったのことをあれこれいじり出す子供もいるんじゃないかって不安もあるなーって僕は考えました。カウンセラーには守秘義務がありますが、カウンセリングの部屋に入っていったことが誰かにバレたりする場合もあるわけです。守秘義務があってもそういうものは防ぐことはできません。

 

どうやったらカウンセリングってもっとスムーズに上手くいくんだろう?胡散臭さや怪しさを払拭できるんだろう?

 

カウンセリングってのはどういうものか理解してもらえばいい。
なんなら生徒達同士でカウンセリングできたらいい。
友達との会話の中で自然とカウンセリングができたらいい。
なんならカウンセリングなんて意識しないで、普通の会話や遊びのなかで問題解決していけばいい!!

僕がピアカウンセリングを卒論の題材にしようと思ったのはこんな経緯です。

でも、日本では子供達のピアカウンセリングってのは盛んではないしアメリカのそれとはまた違います。
僕が読んだ文献の1つには、アメリカだったと思うけど、クラスの中の特定の生徒(数人だと思う)にカウンセリングのトレーニングをして、さらにはクラスの中で起こっている問題をチェックしていき、その渦中の生徒に声をかける、先生に報告する、カウンセラーに相談をするなどを行う感じ。
これはこれで日本では難しいなーって思いましたし、そもそもそのカウンセラーがピアサポート(この場合のピアは、peer=仲間の意味です)をしっかりとできるのか?その子のケアはどこまでできるのか?ある意味この子は学校や先生のスパイと取られないか?などなど、難しいなーって感じました。

じゃあどうする?

そこで聴く力なんです。

カウンセリングの真髄はそこにあると思います。
どんなに巧みに心理テストができても、心理テストのバッテリーが組めても、クライアントの心から出てくる話を、言葉をしっかりと共感しながら理解して聴くことができるカウンセラーには及ばないように思います。

 

子供達の聴く力を養う!!

 

これこそが僕が目指した人類平和のためのカウンセリングでした(言い過ぎw)。

通信制大学での卒論ではそこまで深い入りすることはできずでしたが、僕が思う最高のカウンセリグは聴く力を持つ人を育成することだと今でも思っています。もちろん全員が全員にそれを達成することは叶いません。それぞれのパーソナリティもあるし得意不得意もありますから。
でも、相手の話をしっかりと「聴く」ことができる人が多くなればなるほど、世の中の悩みも減るし、ストレスもより多く発散されていくと思うんですよね。

 

裏にどんな背景があろうとも、その人にとっては見えているもの、耳に入るものが全てなんです。

そして抱える悩み、抱える不満、抱える猜疑心、抱えるストレス、それらもその人にとっては事実なんです。

話を聴くってことは、

「それは違うよ、事実はこうだよ」

これをやっちゃダメだと思います。
それで破綻してしまうってことはないですが、話を聴いて欲しい人はそれを求めていないのです。
間違ったこと言ってたとして、それはいずれ事実と向かい合っていかなければならないのですが、まずは話を聴くことが大事なんです。話を聴いて受け入れる、これが大事なんです。

よく疲れてるからと旦那さんが奥さんの話を聴いてくれないなんてのがあります。

例えば奥さんがお隣の奥さんの自慢話にうんざりしました。それを、ねえねえ聴いて聴いてと旦那さんに持ちかけます。旦那さんはそんなくだらない話・・・となるし、話を聴いているうちにお隣さんが悪くないとなっていきます。そして旦那さんは、

「疲れてるのにそんなくだらない話するなよ。それにそれは自慢でもなんでもないんじゃない、普通の話だよ」

なんてことを言ってしまうんですよね。
でも、奥さんからしたら、その話は旦那さんがいない間ずっと頭から離れなくてモヤモヤした大事です。それをくだらないとされるのは憤りを感じますよね。確かに隣の奥さんの話は真っ当な話かもしれないけど、あんたのせいでますますモヤモヤした!!くっそー!!!ってなるわけです。だけど、

「それは大変だったね!もっと詳しく教えてよ」

の一言で全然違うんじゃないかなーって思います。
話を聴いてもらってスッキリした奥さんは、もしかしたら翌日、

「お隣さんの話、私の勘違いかも。冷静になってそうおもったよ。昨日は聴いてくれてありがとうね!」

なんて感じで自分で解決できるかもしれません。

 

聴く事って簡単な事です。

 

カウンセラーは別として、

 

「あなたにそういう込み入った話を持ちかけてる人は、あなたを信頼しているから話をしているんだ!」

 

これが頭にあるだけで全然簡単な事なんじゃないでしょうか。
さらに続ければ、あなたに信頼を寄せてるその人はあなたにとって大事な人なんじゃないでしょうか?そうじゃなくても、あなたに対して信頼を寄せて友人関係・恋愛関係(片思いも含む)・夫婦関係・家族関係がある人なんじゃないでしょうか。

その人はいつも間違ったことを言ってますか?その人は嘘ばかりつく変な人ですか?その人のことは信頼できませんか?

そうだったら話を聴くのは難しいです。
その人もあなたに話を持ちかけることはないでしょう。

 

もう20年近く前の知識で話してるのであやふやになってますw

 

2日前くらいに書いたブログですが、心理カウンセラーの先生が自死をしたってことについてでした。
この先生は誰かに話を聴いてもらっていたのだろうか?そんな風に思うと書きました。溜まりに溜まって、ソウルジェムが濁りに濁ってどうしようもなくて飛び降りたんじゃないかなと。

ただ聴いてもらうだけでいいんですよ。

否定をしないでください、他の事実を無闇に突きつけないでください。
あなたの話し相手は、あなたに愚痴や相談を持ちかけてる人は、そういうのもわかった上で、もしかしたら自分の言ってることはもうどうにもならない、無意味だ、余計だってわかってる上で話を持ちかけて、話を聴いてほしいんじゃないでしょうか。このご時世、疲れてる人もたくさんいるし、昼間外で働いてる人は夜はさっさと寝たいのもわかります。でも、あなたが10分話をしっかりと聴いてくれるだけで人生が変わる人っているんですよ。

自殺についても少しだけ勉強しました。

自殺したいという人から連絡が来た場合どうするか?

・今やっていることを全てやめてください
・相手の言葉に耳を傾けてください
・相手を否定しないでください
・精一杯時間を稼いでください

自殺は極端な話ではあります。
でも、ほんの少し相手の話を聴くことができるだけで、命を救うことさえできるんです。

僕の兄貴は最低です。

僕が話をしても上の空だったり、他の話にすり替えたりします。そして反応が全くありません。あると聞きました。

 

「なんでいつも返事してくれないの?」

 

兄貴は、

 

「興味のない話に返事する必要あるか?」

 

と答えました。
あー、もうこの人には聴いてもらうってこては期待しないと思いました。
でも、僕は兄貴のしょうもない話もしっかり聴くようにしてます。

 

身近な人を助ける誰でもできて最強のカウンセリングが「聴く事」なんです、そして人間に必要なスキルは「聴く力」なんです。

 

いつでも話を聴くよって声をかけられるのは私も嬉しいです。

でも性格がらなかなか話しかけられないです。でも、そんな僕が思い切って話をする時もあります。あらゆるものを失う覚悟で話をする時もあります。
僕みたいな人が世の中にたくさんいると思います。身近な人がそういう人だったら、軽い世間話からでもいいので「話しかけて」見てください、そして聴いてください。もしかしたらあなたへの不満と文句かもしれませんwでも、聴いてみてください。より良い人間関係がその後待っている可能性が高いです。

 

ちょっと今日は色々あってブログたくさん更新しました。
僕がダメになった時に声をかけてくれた人には心底感謝しています。これは偽りのない思いです。ありがとうございました。


悪人であってもその人の立場で考えることは大事だとおもう。

2022年05月25日 | Life

仕事が手につかず、なんとなーくNHKを見てたらニュース速報が流れました。
アメリカでまたしても銃乱射事件です。子供が犠牲者に含まれる15人くらいの方が亡くなられたようです。

こんなことが続くのだからアメリカはさっさと銃を規制すべき!!

って思います。なんで規制できないのかっていうと、1つは経済の話。ホームセンターにすら銃が売っているアメリカです。銃に関わる産業、経済圏ってのが物凄く大きいものになってるわけですね。1つの産業が亡くなるとどれだけ多くの人が失業するのかってだけでも考えると恐ろしい事態です。
倫理的な話だけでは何ともできないところに来てしまってるんでしょうね。もう1つは自衛的な意味合いも強いんじゃないかって想像します。誰かが銃を持っているのならば、自分も持たないと安全ではない・・・ってやつですよね。これ、もっと大きな視点で見ると核兵器によって牽制しあってる国と同じ構造ですよね。銃を規制して、豊臣秀吉の刀狩のように全て放棄してもらっても、これだけ蔓延していたら自分の身を守るために1つ2つ隠し持つってのが人間だと思います。自分が隠し持つことを決断したり考えた時に、他の人も同じことをしている、考えていると思うわけです。銃社会から抜け出すことはかなり難しいんですよね。

じゃ、どうしてこういう乱射事件が起こるかって話ですね

少し前に日本で話題になった「無敵の人」の理論なのかなーって思います。
自分が何をしても、自分がいなくなっても、自分の大事な人迷惑をかけることがない、自分が死んでも悲しむ人はいない・・・だから何をやってもいい。

恐怖ですよね。

自分が限界に達したときに、一人死んでも悔しいだけ、この社会への怒り、自分を裏切った人達への怒り、自分を相手にしなかった人達への怒り・・・1つ大事にしてやろう、自分の死が単なる死にしないようにしよう、道連れにしてやろう・・・本当に怖い考え方です。自分が孤独あでるってこともその人の寂しさだし感情の1つ。道連れにされる人にだって同じような孤独を抱えてる人がいるかもしれない、それでも頑張ろうとしてる人がいるかもしれない、あなたに対して将来優しくしてくれる人がいるかもしれない。それぞれに人生があって、そのそれぞれに連なる人生があるのに無しにしようとする行為。

 

ちょっと昨日から長年の問題について深く考えて話をすることがあって、僕の心もかなり揺らめいてます。

僕はこの10年くらいで数人の人に嫌な事をしました。その人の大好きなものを奪うような、その人が居たいと思ってるところから離れさせるような。
あと、真実を話してる人達に対して、それは間違ってるふざけんなと言い続けたこともあります。僕は僕でこれが真実だと思っていたのですが、真実ではなかったです。僕が嘘をついてました。

僕はこの2つは一生忘れずに抱えていかなければならないと思ってます。

正義ってなんだろ?

幸せってなんだろう?

生きるってなんだろう?

そういう風にずっと考えてきました。
でもそれって絶対的なものと相対的なものが存在して、相対的なものを見てるときは自分が所属するコミュニティの中でうまくいくと思います。でも絶対的なものを見た時に嫉妬になったり、敵対したりするんだと思います。その絶対的なものが自らの中で自然と出来上がっていったものなら、それにプライドを持つべきって思いますが、他人に作られたものだったり、嘘や虚像から作り上げられたものならさっさと捨て去るべきです。

世の中が難しくなり生きる事が大変になりました。

 

ホワイト化されてる社会の中で真面目に生きてきた人が損をするのかもしれませんしね。
でも、テロのような行為は許してはいけないし、一人一人、それぞれに人生があり、思いがあり、生きる理由があることを忘れたら、それは人間ではなくなるのです。

僕は嫌なことがあっても、例えば、家族、愛してる人、親友の悪い話でも公平に聞いていきたいと思います。
その事で嫌な思いを抱える人が存在してしまうのが嫌なので。ただ、僕が嫌いな人からは話を一切聞かないと思いますが。

人が人として対等に関係をもっていくってことももしかしたら難しいのかもしれません。

片方は人生の成功者で、片方は生きるのもギリギリでとか友人同士でも起こり得ることですよね。
それでも対等に話しあって笑いあうのが人間だと思うし、友人だと思います。少しでも立場の違いを持ちだしたら、それは対等ではないのです。対等ではないということは、信頼関係を築くのは難しいことです。片方が嘘をつかずに相手を信じているのに、片方は嘘をついたり内緒のことが多かったらそれは、友人、恋人、夫婦、家族、兄弟であっても関係を続けるのは難しいですよね。
僕はトラブルにとことん疲れ果てたので、親父が他界してから兄貴達とトラブルが起こらないように従順に反論もしないで過ごしています。親戚のおばさんにも愚痴を聞いてもらいつつ時々顔をだしてトラブらないようにしています。このやり方はよくないです。どんどん孤独になっていきます。

親父は僕のことを好きではありませんでした。
出来の良い兄貴達と比べて何をやってもダメダメで、トラブルばかり起こしてた僕は鬱陶しかったでしょう。そんな親父はある時にお酒で体を壊し、痴呆が進む過程で僕の事だけわからなくなりました。親戚の誰々っておもっていたようです。僕は親父が好きでしたけどね。
いつも親身になってくれた母を失って、親父はそんな感じで、いよいよ本当に孤独になりました。僕の話をしっかりと聞いてくれる人は近くには誰もいなくなりました。僕の状況を心配して毎日電話をかけてくれる人くらいかも。

 

生き方を間違いました。
全て自分が悪いっておもいます。でも、僕は社会に復讐しようとは思いません。僕に嫌な思いをさせた人に復讐するつもりもありません。
でも、嫌な思いをするのももう嫌なので、これから新たに誰かと関わるようなことはしないで現状維持で生きていこうっておもいます。それが唯一、自分の心を守る方法だって思いました。

もう少しだけこういう愚痴につきあってくださいね。
そのうち面白い話が出来たらって思います。削除と再開を繰り返したこのブログが僕の社会との最後で唯一の接点になりそうなので大切にしていきたいと思います。

 


パリピ孔明

2022年05月23日 | TwitLonger

なんとなーく連日更新。

今日は家のあれこれ済ませてから、ほぼ1日中寝てました。
逆流性食道炎かなーって思います。寝る前にラーメン食べたり、やけ食いしたりしてその症状が出たことはあるんだけど、そういうの一切なしで出ました。で、1ヵ月半前くらいから軽い咳が出ることがあって、それと合わせておえっときたのでなかなかに苦しくて、そのまま眠れなくなったのでした。で、朝、買い物にいって晩御飯の1品を仕込んで、乾燥が終わった洗濯物をたたんでるところでダウン。ほんとはダウンなんてしてる暇ないんだけどね。でも、ちょっと休ませてもらいました。

で、表題のパリピ孔明ですよ。

来季の夏アニメが、オーバーロード、ダンまち、はたらく魔王さま!などなど大物ぞろいなせいか、今期はちょっと小物感があるんですよ。キングダムなんかかなり良いけどね。そんな中で、1話見た時点で今期の覇権やって思ったのがこのパリピ孔明でした。

設定の面白さや、舞台となるクラブ、BBラウンジのオーナーのキャラの良さとか全部おもしろい。

もちろん、現代にしっかりとはまってる孔明とヒロインEIKOのかわいらしさと前向きさが素晴らしくよく、EIKOの歌唱をしている96猫さんもはまってる。基本はギャグアニメだとは思うのだけど、EIKOが孔明という最強軍師を得て立身出世していくサクセスストーリーであり、最終回の驚きのラスト(って、アニメの宣伝で言ってる)に向けてそれぞれに夢などを持った仲間が集まっていく、群像ものでもあるかなーと。

他にもラッパーとして登場する赤兎馬カンフーは呂布カルマさんから名前とってるよなーとか、あくまでも想像だけど、なんでKABE太人なんて名前なんだろうって考えたところ、ライバルの赤兎馬の赤とKABE(壁)を合わせて赤壁の戦いなのかなーとか、小ネタもおもしろいんですよね。(※原作は読んでないのでアニメのみでの想像です)

 

で、何よりもこのアニメに一気に引き込まれたのは1話で孔明がEIKOの歌声を聞いて一気に引き込まれるところ。

なんとなく、映画「スタア誕生」みたいなのを思い出しました。新しいのではレディーガガさんがヒロインでリメイクされてますよね。
あの映画は悲劇で終わるのですが、パリピ孔明の場合はそんな終わり方はしないよなーっていう安心感もありますね。ポテンシャルはあるものの、まだ誰でもない歌姫がスター街道を駆け登っていくってのはとんでもないカタルシスをえられるよなーって思うのです。それがEIKOのような嫌な部分が1つもないヒロインが登り詰めていく姿はなかなかによいのです。

この体験は何気に僕にもあったことってのも大きいかも。

もちろん、スタア誕生のあの人や孔明みたいに後ろ盾になってなんてことはなく、単なるいちファンでしかなくて、見てるだけだったんですが。

ある日、ネットで物凄い歌唱力の女性を見つけたんです。
ほんとうに1話の孔明みたいに、ズバーー-ンって何かが走り抜けるみたいな衝撃を受けて、即、友達に凄い凄いって連絡をとったことをついこの間のことのように覚えています。
その人もどんどんスター街道を駆け登っていって、あっという間に手の届かない所まで駆け上がりました。フォロワーも1000倍にまで増え、3000万人以上の会場を埋めるくらいに。

音楽の事はあまりわからないけど、EIKOとは違って逆に洗練され過ぎていて、それが弱点かなーって思っていたのだけど、泥臭さも手に入れてより心に届く歌声になっていって、もう弱点なんてなに1つないなーってなったのでした。

僕は孔明でもなんでもなく、最初から最後まで遠くで見ているだけだったけど、おおよそ10年に渡る物語はなかなかに良いものでしたよ。

 

パリピ孔明も異世界転生ものというか、タイムスリップものというか、今流行りのあれではありますが、かなり楽しめると思うので今からでも見るべきです!


私の身近な〇〇〇〇〇

2022年05月22日 | Life

世の中暗いニュースというか、マイナスだったりネガティブなことばかりですね。
一昨日あんなブログを書いた僕が言うのもなんですが。なんていうのか前向きになれる要素がすくないような気がします。普通に食べて生きるだけでも大変な世の中になってますよね。どうぞ嫌な事があったら近くの人にお話しをしてください。その人が少しでも否定したら切り捨てて、全てを肯定して親身になって話をとことん聞いてくれる人を改めて探してください。否定する人は人の話を聞く準備ができてないと思ってよいと思いますよ。その人が良い人か悪い人っていうよりも、そういうパーソナリティであって他に良い所がたくさんあるはずなので、話し相手になるってことは無理でも他の良い所を探して友達関係を続けるってことが有意義だと思います。

それから最近・・・ここ1年くらいに気づいたことなんですが、例え話を多用する人には気を付けた方がいいなーってこと。
話を楽しくさせるのとかは全然問題ないのだけど、わりと真面目な話を例え話で説明するっていう一幕があって、「??」と僕自身がなったことが切っ掛けです。これも少し苦手というか嫌いなのですが、2点ポイントがあるので箇条書きで書かせてくださいね。

1.会話の相手を下に見てる(見下してる)、話を理解できないとふんでる
2.例え話にすることによって会話の相手をけむに巻こうとしている

他にもあるのかもですが僕が感じたのはこの2点です。
1については、簡単なことです。話をいくら理路整然としても相手が理解してくれないだろう、だから話を例えてわかりやすくしよう・・・っていう考え方ですね。でも、大人が子供と話す時だって、そこまで例え話って使いませんよね。狼少年の話みたいにそもそも物語が教訓になってるやつは別ですが、子供相手でも話し方次第、説明の仕方次第でいくらでも理解してもらえるってのは子供がいない僕でも経験があります。そこで安易に例え話を使うのはなんでかな~って感じるんです。
もちろん悪いことではないです。でも、例え話はあくまでも例え話であって話がずれてしまいます。しっかりと考えに考えた、その場で思いついた例え話でなければ逆に良いものになりうるのですが、会話ってのは準備するものじゃないですよね。

その場で思いついた安易な例え話を使って話の真意を相手に簡単に理解させようっていうのが働くんじゃないなかーって思うのです。

これが2にもつながっていくのですが、話の裏に何かあるんじゃないかなって思う時がありました。
伝えたい真意をしっかりとわかりやすく伝えようとしてるんじゃなくて、嘘はつけないけど話を誤魔化したい時に例え話をする場合があるんじゃないかってことです。

とある事について、ゲームで例え話をされた知り合いがいました。ちょっと怖いのでそのままの言葉を使えないのですがこんな感じでした。

 

A「あのゲーム、この場合はこうするよね?それが安全だし」

僕「うーん、それってなんか違う。僕はそれじゃつまらないからこうするよ。」

A「でもそれってゲームの話だよね?」

(ここから先は送信せずに削除しました)

僕「そうだよ、ゲームの話だよ。その人は現実をゲームに例えたんだよね?でも、この場合の正解はゲームでは違うよ。そのやり方は面白くないし、後々痛い目を見ることもあるし、点数も入らないよ。ゲームなんだよ?面白くないことする?点数入らないことする?なんでこんな例え話したんだろ?」

 

僕が言ってる事も屁理屈なので送信せずに削除したのですが、この例え話に凄い違和感を感じたのです。
あー、適当にお茶を濁そうとしてるなーってのと、物事を単純にして相手を簡単に納得させようとしてるなーってことです。

このAに対して例え話をした人はもしかしたら会話を早く切り上げたかったのかもしれないし、自分の意見をなんとしてでも納得させようとしたのかもしれないです。

ゲーム攻略に2つの方法があるっていうのをわざと利用して、「後から痛い目を見る可能性がある」「クリアはできてもスコアが上がらない」この2つを知ってたのに、わざと違う攻略ルートを教えたんじゃないか・・・ってアホな深読みをするくらいに不信感を抱きました。

 

話の本筋というか、真意というか、何かをぼかすために例え話をする人がいてもおかしくないな・・・?

 

そんな風に思ったのでした。
あくまでも僕が抱いた感想なので鵜呑みにしちゃだめだし、限られたシチュエーションでしか起こらない話な気もするので全てに当てはめてしまうと危険ですので気を付けてください。

もし、もしかしてこれは?って思ったら、その例え話と話の内容を比較してみてください。突っ込みどころがあったら指摘してみてください。

ただし、相手が過剰反応してきたら、「じょうだん、じょうだん」とかいって誤魔化すか、「あ、ごめん自分が間違ってた、理解したよー」とかって誤魔化すかするのがベストだと思います。それか、指摘する以前に、この人にこれを指摘したら反応が怖いなどの直感が働いた場合や、なんとなく普段から小さいものであっても恐怖心を相手に感じていたら指摘するのはやめましょう。

なんていうのか、思ったよりも怖い人間って身近にいるものですから。


カウンセラー、アンチカウンセラー

2022年05月18日 | Life

ブログ、書けません。
これ、誰かに読んで欲しいって思って書いてるわけじゃなく、ほとんどが自分の愚痴を漏らしたいがために書いてるブログなんです。このブログの理由が今日のメインになっていくので、また後で触れますが。なんていうのか、最近は鬱っぽさはそのままに、なんとかしよう、自分の人生をなんとか立て直そうと自らに鞭を打ってやってるのです。でも、それがうまく行かなくて。
ま、ま、単純にブログが嫌になったとか書くことがなくなったとかじゃなくて、書く余裕がないのです。

 

さてさて、渡辺裕之さん、上島竜兵さんと相次いで著名な方が自ら命を絶つというニュースが入ってきました。

僕の周りには自死された方はいません。
もしかして・・・という方は1人いますが、確証はないです。

ただ、1つだけずっと気になってる自死があります。
非公開にしてしまってますが、このブログの過去の記事には僕がカウンセラーを目指していた頃のものがあります。
ま、僕の経歴はどうでもいいのですが、少しだけ話をボカして書いていくことをお許しください。嘘は書きません。僕は嘘が嫌いなので、嘘は書きませんがボカします。この嘘が嫌いなことについても後で触れると思います。

 

話を戻しますね。

僕がカウンセラーを目指していた頃、楽しみにしていた講義(講座?授業?)がありました。
ようやくカウンセリングの本題に入るようなやつです。それを教えてくれる先生は顔も知らないし、経歴も知らない。でも、この名前の先生に習うんだ、きっと凄い方なんだって勝手に思い込んでました。
しかしその先生の講義を聞くことはありませんでした。他の先生になってました。

これについては問題ありません。
別の先生でも素晴らしい内容だったし、僕に取っては十分というよりも大満足でしたから。

でも、なんであの先生じゃなかったのかなーってのだけが疑問に残りました。

そして色々とネットで調べて知ったのが、その先生は少し前に飛び降りて亡くなったていたのでした。
センシティブな話しながらも、その界隈では少し話題になっていて、ほんの少しですが状況もわかりました。

落ち込んでいたり、悩んでいたり、そういう兆候はまったくなかった(らしい)こと、誰もいない夜とかではなく、本当に突然飛び降りたことなど。

なんとなーくですが、上島竜兵さんのそれを聞いた時にこの先生のことを思い出したのです。

 

もしかしたら状況的には似てるのかもなーと。

この先生はとても優秀な先生であるっていうことは聞いていました。
多分、講義や授業だけではなく実際にカウンセラーとしても活動していたんじゃないかなって思います。
心理学のプロ、カウンセリングのプロがなぜ自死してしまったのか?

心理カウンセラーを真剣に志していた僕には謎でした。

心理学の知識でなんとか回避できなかったのか?それとも借金などのどうにもならない事で悩んでいたのか?

とかです。

 

当時はなんとなくぼんやりとしかわからなかったのですが、僕自身の立場に置き換えて考えました。

なるほど。
愚痴をこぼせなかった、話を聞いてくれる人がいなかった、他人の悩みが重く肩にのしかかり続けた・・・

こういうことかなと。
カウンセラーが心を病むのは医者の無養生ってのより簡単な話ではないです。
医者の無養生にしても成人病のリスクは回避し続けられるかもしれないけど、癌などはそう簡単には防げないよなーっては思いますが、カウンセラーの無養生について考えると場合によっては普通の人よりも心の病にかかりやすいのでは?ってなります。

もちろん心が強い人(そんなひといるのかな)だったり、悩み事などができても心理学の知識で逸らしたりすることは多少はできて、心の病にかかりにくいって人もいるかもしれませんが、人から毎日毎日、悩みや愚痴を聞きまくっているんですよね。しかも、あなたはプロでしょ?みたいに見られて、悩みも自分で解決できるって思い込まれてしまっているんですよね。もちろんケースバイケースですが。

僕は母にはよく愚痴を漏らさせてもらってました。

でも、親子関係じゃ話せないこともたくさんあって、そういうのを相談する相手ってのはいませんでした。

「僕はよく人から相談を受けるから、それを職業にしたいって思ったんです」

僕が心理学を学んだ大学で最初に話をした5つくらい年下の男の言葉です。
こやつに相談するか?って後々にはなったのですが、こやつみたいに堂々と相談をよく受けるって言えたらいいな〜、こやつは自信があってかっこいいなって当時思いました。

僕はこの当時は人から相談を持ちかけられるってことがなかったと思ってたので。

ま、ま、思い返してみればあれが相談を持ちかけられるってことだよなーみたいなのがあったので、ゼロではなかったのですが。

 

相談に乗ったことがないと自負していた僕は、相談の持ちかけ方もわからなかったんです。
それから愚痴のこぼし方もわかりませんでした。悩み事しかない人生だっては思いつつも、あっけらかんと生きていられたので必要なかったって思い込んでたのですね。

当時、実家で両親が相次いで怪我したり倒れたりして、全てを投げ捨てて横浜から実家に戻った頃でした。

なんとなーくこのブログを始めたのもその頃です。

このブログは、最初は漫画や映画のレビュー、当時ハマってたサッカーの話、それに加えて写真学校の時の話と、心理学を学んでいることについての話がメインでした。

家に縛られるようになったり、年齢も30目前だったので将来的な不安とかそういうのが渦巻き始めてたんでしょうね。家から離れたくてパチンコ屋にいくようになったり、家飲みはほとんどしなかったのに、安い焼酎買ってきて夜な夜な眠れなくて飲むようになったり、荒み始めていました。
加えて、自分は相談されないと自負していたくせに、学校で知り合った人や、過去の友人などから相談を持ちかけられることが多くなってきました。まどマギで例えるならソウルジェムが濁り始めてたんでしょうね、ブログで愚痴を書くようになったんです。

そしてその先生の死です。

あー、こういうことなんだ。
と、少し理解しました。その先生は人からの相談や愚痴を溜め込みに溜め込んで、自分のことは誰にも漏らさずに、さらに溜め込んで溜め込んで。
そして、ふと頭をよぎったのでしょう、あ、楽になりたいって。

上島さんの場合はそれが孤独だったり将来の不安だったりしたのかなって思います。

僕にはブログがある!!
そんな風に思いました。働いてなかった(というか働ける状況じゃなかった)ので、母にお金をもらってパチスロをすることにも嫌気が指してましたが、これはこれで発散してたんだなーって今は思います。でも、ギャンブルは良い時よりも悪い時の方が多く、さらにストレスを溜め込むわけです。発散しつつも何かしらのマイナスを溜め込むんですね。

それに対してブログは下手くそながらも文章を書くことにストレスを感じない僕に取ってはかなりよかったのです。

ついつい愚痴ってしまってばかりになりました。
ちょっとだけやってたバイトの面白話を書いてたつもりが愚痴になってたりね。

発散できてるだけいいとは思ってたのですが、見苦しくもあるわけですよね。そしたら案の定、写真学校時代の友人からメールがきました。

 

「愚痴ったり、言い訳ばかりしてるの気づいてる?」

 

と。
なんでこの人はそんなことを言うんだろ、俺のブログやぞ!俺が何を書いても自由じゃないか!!

 

「僕の状況を何も知らずにそんなことを言われる理由はありません。ブログでだけですよ、愚痴も言い訳も。それすら許されないんですか?」

 

みたいなことを返信したように思います。
友人からは謝罪が届きましたが、それっきりになりました。
ブログで愚痴を書くのやめよう・・・そんな風に思いました。止めることはできませんでしたが、書いてはアップせずに消してなんてことが多くなってました。なるべく前向きのことを書こう、そうだ、もっと今勉強してることを掘り下げて書いていこうみたいな。

僕が実家に戻ったこと、働くことができなかったこと、当時はそれでも悩んでました。

でも、どうすることもできなかったんですよね。
親父の面倒を母1人に任せて好き勝手することができなかったし、横浜に戻ろう、家を出ようと思って行動に移そうとすると親父の体調が悪くなったり、トラブルが起きたり(これ、ほんとなんですよ・・・タイミングの恐ろしさですよね)。

結婚式に呼ばれて久々に横浜の時の友人に会えるのを楽しみにしていたのですが、そこでもトラブルが。僕が横浜時代の最後に働いてた写真館の話を求められて話していたのに、1人の友人が

「人の話なんてどうでもいいの。なんで人の話しかしないの?なんで実家に戻ってそんなことしてるの?」

って。話は何故か僕のコンプレックスの話になっていって・・・

あー、僕は口を開いてもダメなんだ、友人との再会を楽しんでもダメなんだ・・・

本気でそんな風に思いました。
悲劇は続き、学校で一緒に勉強していた人がずーっとしょうもない嘘を僕についていたことが発覚。学校の実習の最終レポートをまとめる時に、みんなでスケジュールがきついなか協力して頑張ろうって時に、職場でトラブルが起こって参加できないって言ってきまししてですね、その人。僕も兄貴が骨折入院してパニくってたのだけど、なんとかする、あなたはそっちを頑張ってと。そしたらそれも嘘。旅行に行くための嘘でした。

ブログもダメ、友人と会ってもダメ、嘘もつかれる・・・

 

もう何もかもが嫌になりました。
その後、学校を無事に卒業することはできましたが、それ以外は完全に心を閉ざしていた感じです。

全部自分が悪いんだなー

そんな風に思いました。
みんなは普通に生きているのに、自分はダメ。何をやってもダメって。

どちらにしても親父の状態は徐々に悪くなっていったし、家のことも忙しくなって身動きが取れなかったので落ち込んでいても、家でずっとクヨクヨしていればいいと思えば楽なもんでしたよ。
ブログは閉鎖と再会を繰り返し、カウンセラーになる道を諦め、やることもなく何年も過ぎていきました。

 

震災があって、前向きになることがあって、勇気を出して外に出て(決して、本気の引きこもりではなかったです。むしろ家にいるのも苦痛でしたし)、でも、やはり拒絶されて。1年間、ずーっと母ちゃんに愚痴をこぼしてたら、母ちゃんが病気になっちゃって。母ちゃん死んじゃって、親父の世話をするだけで精一杯の数年間を過ごしたら、親父も死んじゃって。

気が付けば何も残ってませんでした。

空っぽです。

 

僕はいくらでも人の話を聞きますよ。
何時間でも相談に乗りますし、愚痴も聞きます。いくらでも。

たまに話を聞くよって言われることもあってそれは嬉しいし、話を聞いてもらえるのも嬉しい。

でも、僕が話したい本質は受け入れてもらえないことが多いし、そもそも聞いてもらえない、聞いてもらっても信じてもらえない・・・そんなことが多いように思います。

 

自死した先生は僕の境遇なんかよりも恵まれていたと思います。
その上でカウンセラーとしても立派だっただろうし、家庭の親としても立派だっことを想像します。
ただ、その先生もいつの間にか誰かに話を聞いてもらうってことを失ってしまっていたんじゃないかなって思うんです。僕の愚痴なんてたわいもないものです。社会で切磋琢磨してた先生が溜め込んでいたものは想像を絶します。

それでも、ほんの少し最初から最後まで話を聞いてくれる人がいたら先生は自死という突然起こった衝動にも打ち勝つことができたんじゃないかなって思うんです。

あれほど日本人をハッピーにしてくれた上島さんがこんなことになって、奥さんが悲しみに暮れるようなことだって絶対にあってはならないんだよって思うんですよ。でも、その衝動は止められないし、上島さんは誰にも真意をこぼすことができなかっただろうし。

 

なんなんだろうなーって思う。
ある人が何かを手にした時に、どこかではある人が何かを失ってる。そんなもんだと思います。

僕にメールをしてきた友人をこのブログ以外で批判することも責めることもしません。
僕に取っては友人との再会が楽しみなだけだったのに、それに水を刺した人のことも責めません。
嘘をついたあの人のことは今でも憎いけど、もう忘れました。
もう一つありますが、それは言いません。

少々疲れました。
楽しかったあの頃に戻りたいです。19年っていう月日は取り戻せないし、僕はこれから老いていくだけで、ただただ毎日生きるだけです。でも、死は選びません。なんとかして生きます。

ただ、もう良い人ヅラはしません。

幸せになってる人は勝手に幸せになればいい、毎日が楽しい人はずっと楽しんでいればいい。

僕には知ったこっちゃないです。

 

と、支離滅裂に盛大に20年分の愚痴をこぼさせてもらいました。
スッキリするかなーって思ったけど、全くスッキリしません。そして、これを書いたことで失うこともたくさんあるなーって思います。それはそれでいいのです。そもそも得られるものなんてなかったし、全てが虚像だったのですから。

心配はしないでください。死にはしません。かっこ悪くも生きようとしますので。

しばらくは誰とも話したくないなーって思います。


他人の気持ちはわからない

2022年05月02日 | Life

イビチャ・オシムさんが他界されました。

今はそこまでサッカーを見なくなりましたが、ずーっとヨーロッパサッカーを見てたくらいに大好き。
世代的にドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜もしっかりと見てきたわけです。オシム監督は日本代表だけではなく、日本人に新しい風を運んできてくれました。サッカーだけではなく人間的に優れてるオシムさんが大好きでした。今はそのアカウントは削除してしまいましたが、2010年のW杯の時に、オシムさんがTwitterで実況するという企画があって、オシムさんのツイートが見たくてTwitterを登録したのが良い思い出です。どうぞ安らかにお休みください、ご冥福をお祈りします。

 

最近は少しだけ頑張っています。
なかなか成果がでない作業が続いてますが、いつか自分だけの力ってわけにはいかないけど、なんとか自立して自分の足で立ちたいなーって想いで頑張ってます。

親の力って凄いなーって感じることばかりなのですが、それでも失ってみないとわからない事ばかりで。
母が亡くなった後は、親父の面倒を見ることと、慣れない家事と家計のやりくりで必死であっという間に過ぎた5年でした。
そして父が昨年他界し、僕はあっという間に孤立してしまった感じがありました。18年間家に縛られて何もできずに過ごしていました。どうして兄弟で僕だけ・・・そんな思いもありましたし、やむを得ないんだよなーって思いも強くて。でも、今となっては父と母の晩年をしっかりと支えることができたことは良かったとおもいます。そう思う反面、自分の人生を考えると父が亡くなった途端に後ろ盾がなくなったし、家族や親戚からハシゴを外された思いもあるんですよ。だからこの半年間孤独でした。うまくいかないもんだなーってずっと思ってました。

そんな中、とある方にお仕事をしないかと良い話をいただきました。

この話に関しては喉から手が出るほど飛びつきたかったのですがお断りしました。
自分で今頑張ってることがあることが大きかったです。毎日、毎日もうやめよう、諦めよう、他の事を早く始めよう・・・そんな思いばかり頭に浮かぶのですが、この何も成し遂げてない人生において「諦める」ってことの繰り返しが、現状を招いているって思いもあるんですよね。だから中途半端では終わらせたくない・・・自分の立場、年齢、職歴、それらを考えると断る理由なんてないんですけどね。

ただ、みんなからハシゴを外れた思いの中、こんな風に気にしてくれる人がいたことがうれしかったです。

気が付けば何にもないすっからかんな人間が出来上がってしまったけど、死ぬ勇気はないんですよね。
これに勇気と言ってしまうのは問題だけど、でも、本当に勇気がないだけの話でした。失うことばかりで、何も得られないんですよ。

心から誠実に真剣に向き合ったものもあったのですが、結局は何も得られずに終わりました。

 

生きるのって難しいなーって思います。
ずっと生きづらさを感じてはいたけど、僕なりに足掻いてみせましたここまで。
もう少し頑張ってみるけど、必死になってみるけど・・・

いやいや、ちょっと前までブロガーズハイとか言って躁になってたのだけど、一気に来ましたねw