@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

眠れないし映画面白くないので今年の締めを。

2020年12月30日 | Life
2020を振り返ろうと思う・・・

いや、そう思ったら悪いことしか出てこなくて流石に書くことができませんでした。
長く生きてるとこういう年もあるんだなーって感じましたが、僕の場合はコロナ禍に関係なく(ほんの少しはかすりましたけど)、大変だったしよくないことのオンパレードでした。

1つだけ良かったこともあって、それは宝くじが当たったことです。

まあまあの高額当選です。
でも、一生遊んで暮らせるとか1年遊んで暮らせるとかそういう額ではないです。本気で遊んだら1日で消えるか足りないくらいかもw

今年起こった良くないことのあれこれの1つの車の故障に関連してローンで買おうとして注文していたものが現金一括払いにできたことと、あるかないかわからないオリンピックと当たるのか当たらないのかわからないPS5のために液晶テレビを買ったくらい。車は12年落ちの10万キロなので価格はお察しということになるし、テレビは有機ELモニターのものは買えずに液晶の4Kだったこということでこちらもお察しということになります。

お察しですw

それでもローンで買おうとしてたわけなのに、どう頑張っても毎月の支払い分が捻出できないどころか、自分の貯金を使って補填しないと成り立たないような生活が続いていて、神様が今年頑張った分だけ宝くじを当ててくれたのかなっては思いました。でも、その車もこのままいくと来年の春くらいに手放さなくちゃならないかも。神様は優しいのか意地悪なのかはわからないですねw

あと良いことは何かあったかなーって探すと、体重が減ったとか、大切な人と仲直りできたとか、全くなかったかなーって思っていても少しはあるんだなって思った。特に人と仲直りできるのっては大きなことだと思うんだよね。何がって、そういう人とはもう喧嘩しないって思うんですよ。どんなに仲が良い人とでも喧嘩はあると思う。ただ、どうにもならない喧嘩じゃなくて些細な喧嘩だったり前向きな喧嘩になると思うんだよ。一度仲直りした人とはどうにもならない喧嘩はしないって確証を得るような感覚が強いんですよ。だからこれはとても良かったことに入ると思う。宝くじが当たるよりもね。


病気になった兄貴も元気になったし、病気もしたし痴呆が進んだ親父も元気になったので(痴呆はそのままですがw)、こちらは年内に解決ということに。


そうなるとやはり一番大きな出来事は愛犬の死ですね。

これについてはたくさん書きたいことがあるのだけど、せっかく暗めなブログはやめようって思って書いてることなので、いずれってことにしておきます。


我が家は40年前から3匹の犬を飼ってきました。

初代はすぐに亡くなってしまったけど、2代目は16年と5ヶ月、そして今年亡くなった3代目は16年と10ヶ月生きてくれました。

かけがえのない家族達です。

犬ってずっと傍にいて欲しいって思うんだよね。できれば溺愛しすぎた3代目には自分の命が尽きるまで近くにいて欲しかったなーって思うくらいでした。もちろん、初代も2代目も大事で大好きな犬達ですよ。
今は3代目を失ったところから前に進めずにいるけど(いまだに遺影に声をかけてます)、傍に犬がいない人生は考えられないって徐々になりつつあるので家族との相談の上、保護犬を探すか、もう一度3代目と同じ犬種を赤ちゃんから飼うか、色々なパターンで考えてベストを探したいと思いますよ。



来年は良い年にしたい。
あとは鬱っぽい感覚になった時に不平不満をTwitterでツイートしないようにしたい。そもそも鬱っぽくならないようにしたい。

そう思います。

運動もしっかりしたいです・・・多分。


それではみなさま良いお年を。

親父2

2020年12月08日 | Life
これは僕の中での親父のことについての整理として書いているものです。
なので、前回と内容が被ったり、ツイートと被ったり、普通の家族関係を築いている方などには不快な内容が含まれる可能性があることをご了承ください。ブログの正しい使い方なのかどうかわかりませんが、自分がこれから「生きていく」ために必要に感じてキーボードを叩いています。申し訳ありません。


親父はあの時代の人としては結婚が遅く、また、僕は3番目だったので親父が37歳の時に生まれたことになる。

当時我が家は社宅的なアパートに住んでおり、僕が3歳の時に現在も住んでる場所に中古の一軒家を購入して住み始めた形になる。
引っ越しの時は僕は3歳で冬の日にソリに乗せられて家まで運ばれた記憶がわずかながら残っています。
今となっては多くの記憶が失われてしまいましたが、僕はわりと小さい時からの記憶を有しており、例えば、小学校、中学校の同級生と会って、あの時はこんなことがあったよねーなどと話をすると、みんな覚えてなくて、逆に自分の記憶がおかしいのか、それともパラレルワールドに迷い込んでいるのかなんておもってしまい、寂しい思いをすることが多々あるくらいです。

兄貴達は親父とたくさん遊んでいたそうです。

親父は草野球をやるくらい野球をやるのが好きだったので、キャッチボールをやったり野球場に連れて行ってもらって高校野球を観戦したり。釣りも好きだったので釣りを教えてもらうこともあったようです。僕も釣りは少し教えてもらいましたが、親父がやってた頃、まだまだ小さくて全く意味がわからなかったです。
母方の従兄弟にはこんな話を聞いたことがあります。

「おじちゃんはね、すっごい遊び人なんだよ!遊び人って言っても女遊びとか悪いことじゃなくて、野球や釣りだけじゃなくていろんなことをして俺は遊んでもらったし、教えてもらったんだ」

従兄弟と僕は10歳離れています。長男とは6歳、次男とは4歳。
そこまで大きな差ではないのですが、僕はあまり遊んでもらえませんでした。僕が親父に遊んでもらった記憶は3つしかありません。もちろんもっと遊んでもらっているとは思いますが、僕が楽しかったと感じたのはその3つだけです。

1つは庭で僕が遊んでいたら親父が出てきて廃棄予定だった自転車のスポークと竹の枝、杉の芽を使って杉鉄砲を作ってくれたことです。
花粉症の人にはキツいことですが、杉の芽を玉として飛ばす鉄砲で器用に鉄砲を作る親父の姿とやたら楽しい鉄砲が良い思い出です。

2つ目は、ソリ滑りです。近くの小さな山に自転車の後ろに乗せてもらい行きました。正ちゃん帽を被らないと行っちゃダメと母に言われいやいや被らされて行ったことを覚えています。黄色だったから正確には正ちゃん帽じゃないかもしれませんね。僕は今はすっごいブスですが小さい頃は自他共に認めるくらいかわいい子供で親父の自転車の後ろに乗せられてる僕を見かけた女子高生らしき人たちがかわいい、かわいいと大騒ぎしたってのは余談ですがとても良い思い出ですw
親父とは1時間くらいソリ滑りをして、普段だったらやっちゃダメってこともさせてもらえた記憶があります。ま、あとでわかったことですが、お酒をあとで買ってくるからその間、子供の面倒を見てといやいや行ったソリ滑りだったようです。

3つ目は、映画です。これはもう小学校5年生くらいになってたと思いますが学校が休みの平日に連れて行ってもらいました。計画性がないのか、こういうことをする経験がないのか映画の開始時間には間に合わず、最初の10分くらいを見れませんでした。いわゆる、東映まんがまつりみたいなやつだったので、上映時間は一本45分とか短いものでそのうち10分を見逃しているのですから散々ですね。


ほかにも覚えているのはあります。

例えば、地元駅前のお祭りに家族で行ったのはいいけど、人が多過ぎて親父行きつけのカラオケスナックに逃げ込むってのがありました。ま、子供がスナックに入るのですから歌わされるわけです。帰ってきたウルトラマンの歌が大好きだったのでかけてもらって歌うのですが、うまく歌えない。そうしたら親父が後ろに立って一緒に歌うのです。そうすると、僕のことをかわいいって他のお客さんが言っていたのが、おじさんかっこいーに声が代わり、親父のいつもと違う一面を見たようで覚えています。
親父はイケメンだったのかなー。アルバムなんかを見ると親父はブスですwでも、親父に似てる次男はイケメンとして生活しておりモテモテでした。おかんには、なんでおかんはまあまあ美人なのにこんなのと結婚したの?なんて聞いたことがあるくらいです。
親父のいつも言ってた自慢話に、中学の時に学生代表で全校生徒の前で独唱しなければならないときがあったと。でも、緊張し過ぎて休んだとwま、歌はうまかったんでしょうね。もう親父の歌声なんて覚えてもいませんが。

もう一つは親父の実家にお彼岸で家族で行った帰りに、駅前のデパートに入って、そのおもちゃ売り場のレジ奥に当時、ようやくなんとか手に入るようになってたスーパーファミコンが5台ほどあって、あれ欲しいーってなったら親父があっさりと買ってやりなさいって。スーファミ24800円とF-ZEROを買ったので32000円くらいになるのかな。僕史上最高額のプレゼントとなりました。しかも誕生日でもクリスマスでもないのに。あれは嬉しかったなー。でも、これは裏があって、親父はベロベロに酔っ払ってた上に値段なんかわかるわけなくて下手したら数千円で買えるとおもってたのかもしれません。それに加えて、僕が買ってもらうことでスーファミで遊べると踏んだ兄貴が母を説得したんだと思われます。

この2つは僕個人のことではなく、家族でのことです。

こうやって親父との良い思い出を思い出すと心が少し暖まりますね。


兄貴達は親父が嫌いでした。
次男は本音が見えない人なので今はわかりませんが、確実に親父が嫌いな時期がありました。長男は今でも嫌いだと思います。こちらも本音はわからないですが。僕はといえば、母が、

「あんたくらいだよね、お父さんを嫌ってないの」

と言うくらいなので、兄貴達とは違い普通に父親として好きだったんだと思います。

でも、親父は僕のことが嫌いだったか興味がなかったと思います。
もしくは、もうすでに子育てに飽きていたか・・・


そう僕が感じるのは僕が生まれた時から話が始まります。

これは母に聞いた話です、生まれた時なので当然ですが。

母は父の職場にある産婦人科で僕を出産しています。
もちろん出産前には入院をしていたのですが、陣痛が始まってそろそろ生まれると、親父の仕事部屋に連絡がいったんだそうです。これも当たり前ですが。でも親父は母の分娩室の近くにもいつまでも駆けつけず、仕事部屋で本を読んでいたんだそうです。父が分娩室の方に向かったのは生まれたと連絡がきてからだったそうです。
当時の男の人だからそんなもんだろうって思うかもしれませんが、もしかしたら僕は生まれてこなかったかもしれない子供だったんですよ。妊娠中の母と中にいる僕はあまり様子がよくなくて(癒着が酷いとかだったかな詳しくは教えてくれませんでしたが)、出産の時に母子ともに危険な状態になるかもしれないって医者に言われてたそうです。2人いるのだから堕してしまった方がいいんじゃないかとまで。父はどっちでもよかったらしいのですが、母がせっかく授かった命だからどうしても産みたいと言ったんだそうです。つまりは、出産時には落ち着いたいたそうではあるのだけど、当初は危険な出産だった可能性が高いのに、親父は5分もかからず行ける距離にいたのに駆けつけなかったんだそうです。

僕は23時過ぎに生まれているので、その時間まで病院にはいたようなのですが・・・

僕が父に嫌われてるかもしれないエピソードは他にもたくさんあるのですが、書ききれないのではしょります(あとでいくつか書くと思いますが)。

ま、子育てがめんどくさくなってた、飽きてた、どうでもよかった・・・こんな感じなのはあったのでしょうね。



ここまで書いてきた中にいくつかお酒の話が出てきましたが、親父はお酒に負けた人間です。


僕が子供だった頃は酔っ払い嫌だなーくらいだったのですが、12歳、小学校6年の時に決定的なことがありました。

親父が肺結核になったのです。
ずーっと体調が悪い感じで、ご飯をあまり食べない様子が続いていました(でもお酒は飲む)。
そして夏のある日、親父の職場のレクリエーションで川で釣りとバーベキューをやるイベントがありました。僕ら家族は何故か参加しなかったのですが、職員の家族も参加するイベントで朝から夕方まで外であれこれやる感じの。親父は車を運転できなかったので友達に送ってもらって帰ってきました。その友達が心配するくらいに泥酔して、上半身は火傷みたいに日焼けして(親父はやたらと半裸になってる人でした。それもあってかすぐに脱ぐ男が嫌いだったりします。僕の友人には脱ぐやついませんし)。その親父の友人に母が手伝ってもらって親父を寝かせました。

どうせ、また酔っ払っただけだろう〜。

程度におもっていたのですが、2時間くらいで目が覚めた親父はアイスが食べたいと普段は食べないものを食べがって、冷凍庫にあったガリガリ君を何口か食べてまた寝ました。「ご飯は食べないの?」と聞いた母にいらないとだけ言って。
翌日もずーっと寝てました。

そしてその次の日、夏は何故か僕はリビングに寝ていたのですが、朝の4時半くらいにリビングのソファに親父がぐったりと座っていることに気づきました。母も気づいたらしく、

「どうしたの?具合悪いの?」

と。父は、

「うん・・・病院が始まったら○○先生に連絡して。で、お前のねーちゃんにも連絡して車を出してもらって病院に行く」

と。
親父は病院勤め(臨床検査技師でした)のくせに病院が嫌いであまりかからなかったのですが、こうやって深刻な感じで病院に行くと言ってるのを見るのは初めてのことで、6年生になってまあまあ世の中のことがわかり始めた僕はちょっと怖くなったのを思い出します。夏休み直前のことでした。

僕は普通に学校に行き、母は親父に言われた通りにしておばさんを呼び車に乗せてもらって病院に行ったようです。
ま、昔の話なので色々と融通してもらったのかどうかはわかりませんが、紹介状なしでも総合病院で診てもらえる時代だったし、親父の職場だったので知り合いのお医者さんに色々やってもらって、親父は即入院となりました。

それから数日、ちょうど終業式が終わり教室で同級生と遊んでいた所に母が来ました。

「お父さんの病名がわかったの。1人だとあれだから一緒に来て。」

僕はドキッ!としました。母が深刻な顔をしているから。
でも、病院に向かうタクシーの中で父の病気は肺結核であると聞かされました。ほんの少ししか知識はありませんでしたが、結核という病気は現代においては死の病ではないくらいは知っていました。なので僕はほっとしましたが、母の深刻な感じは続きました。

小6の僕が着いて行っても何の役にもたたないのだけど、案の定、母がお医者さんに病状説明を聞いてる時間や、隔離病室に移動するための手続きをしている時間、各種説明を聞いている時間、僕も近くに一緒にはいたけど何を話してるか内容もあまりわからずに、役立たずだなーってだけ感じていました。

あれこれ説明や手続きが終わり、母は僕のことを病院の食堂に連れて行ってくれて、母は醤油ラーメン(母はシンプルな醤油ラーメンが大好きでした)、僕はカツカレーを注文しました。
僕がカレーを食べていても、母はラーメンにいつまでも手を付けませんでした。のびちゃうよって言おうと思って母を見たら、母は泣いていました。僕が見ていることに気づいたのか母は、

「たけし、お母さん、ほっとしたの。お父さん死んじゃうと思ったから。でも、大変な病気だからこれからどうしようね〜。」

って。あ、本名書いちゃいましたが、この時のことは自分の名前がないと何となく雰囲気が変わっちゃうので。

親父自身は完全に肺癌だと思って病院にいったんだそうです。
かなり長い期間体調が悪かったことと、ここまで体がいうことを効かないのはおかしいと感じてたらしく、末期の肺癌と勘違いしたんだそうです。だから、普段よりお酒の量も多くなっていて、イベント当日にはもう体がきつくてしょうがなかったようです。なのでイベントでもさらにお酒を飲んで・・・バカなんだと思いますよ、親父は。

母も親父が肺癌だっていうならそうなんだと思ってたそうです。
だから肺結核と聞いてものすごくほっとしたんだそうです。でも、その反面、半年以上の入院が必要って言われてその間どうしたらいいのかわからなくなって、泣いてしまったんだと思います。
母がドラマや映画を見て泣いているのは死ぬほど見てきたけど、それ以外で泣いているのを見たのはそれが初めてでした。クソ親父め・・・そんな風に僕が思った最初の時でもあります。

親父は体調が悪いからお酒の量が増えたと言っていました。
それも事実です。でも、お酒の量が増えて体調を崩す日が多かったから、結核になったのです。

家族から感染病患者が出たので親戚と僕の家族全員が結核の検査をしました。全員、陰性でした。

親父が結核で入院中に腰をやってしまい、ヘルニアの疑いがあった僕は親父が入院してる病院で診てもらっていたので、検査の時はもちろん、夏休み中や、学校が終わってからとかも母に連れられて親父のお見舞いをしていました。感染病の隔離病棟だったのでエプロンをつけたりマスクをつけたり、手指消毒をしたりで。ある時から、お子さんは感染の可能性が高いので連れてくる頻度を少なくしてくださいと言われるまで、かなりの回数お見舞いに行きました。

母は2日一度、とにかく栄養を取ることが大事だからと炊き込みご飯や親父が好きなおかずを作ってお見舞いに行っていました(病院は遠くて、自家用車もなかったからかなり大変だったと思う)。もう濃厚接触もよいところですよ。

でも、僕も母も感染はしませんでした。

結核はそんな簡単に感染しません。健康体なら。でも、親父は感染してしまうくらいに体が弱っていたのです。お酒のせいで。


親父は年末には退院していたので5ヶ月くらいで退院することができました。

165㎝45㎏くらいのガリガリ体型だった親父は、お腹がぽっこりと出て顔もまんまるになって退院してきました。

入院中は当然禁酒禁煙、それまで僕が知ってる親父の中で1番の健康体になって帰ってきたのです。もしかすると、現時点においてもあの時の親父が一番健康だったかもしれません。


親父が退院して、お酒の量も減らすことができて、タバコは吸うのをやめて・・・我が家にほんの少しの平和が訪れたような感じです、今思うと。


でも、ある時から親父が隠れてタバコを吸っているのが発覚します。
お酒の量も徐々に増えていきました。それでもまだまだ健康を保てていたので甘さも出てしまったんでしょうね。
僕が中学3年になった年に、兄貴達が大学進学で家を出ました。浪人と現役合格だったので2人同時に。

我が家は貧乏ではなかったですが裕福でもなかったです。
親父とオカンは親父の退職金を担保に学業ローンを借りて、兄貴達を大学に送り出しました。
今考えてみると片方は国立だったとはいえ、もう片方の兄貴は私立大学(しかも少し特殊な)で、2人とも地元大学じゃなかったんです。借金したとはいえ2人同時に大学に出すってすごいことだと思います。バブル時代に恩恵が全くなかった我が家ですが、バブルが崩壊しても家計は崩壊してなかったのはすごいと思う。

ただ、家は寂しくなりました。
2人いなくなって、崩壊こそしなかったけど家計は大変だったんでしょうね、食卓もかなり寂しくなったのを思い出します。


親父も寂しかったのか、寂しいと言い訳にしたのか、気がつけば病気をする前の酒量に戻っていました。


それから数年おきに親父は入院するようになりました。


ある時は酔っ払って外にタバコを吸いに行って転んだのかどこかにぶつけたのか鎖骨を骨折しました。これは入院には繋がりませんでしたが。

ある時は結核の時ほどではなかったけど、体調が悪くなり、血を吐いて入院しました。

ある時は僕が夕方バイトに行って、帰ってきたら親父がいなくて。そしたら入院してました。


僕が16歳から家を出る23歳の時までに、こういうことが4、5回あったと思います。


やがて親父は定年退職を迎えます。
定年退職後、どう考えても日中の酒量が増えることを心配した親父の友達の先生が自分の仕事部屋の職員として雇うから、何もしなくていいから午前中だけ仕事に来てくれとなり、その先生が他の病院に移るまでの2年くらいは午前中だけ働いていました。

でも、当時、横浜に住んでいた僕のところに度々母から電話が来ては、

「お父さん、お酒ばっかり飲んでるの。言ってもやめないし、体調悪い時もあって心配なんだ・・・」

と言ってました。


僕の方もまだまだ自立できてなくて、将来に不安ばかりだったせいもあって、体調を崩してしまい、リフレッシュするために3ヶ月ほど実家に戻りました。

そしたら親父は本当に酒ばっかり飲んでました。
午前中飲んで、お昼も食べたか食べなかったくらいで午後は酔い潰れて眠っていて。
夕方に起きると晩酌して、少しだけご飯を食べて8時前には眠ってしまって・・・

僕は自分の体調を整えるために(あと実家生活で太ってしまったのでダイエット)、午後になると自転車で10〜15キロくらい走るっていう運動をしてました。そしたらある日、チャリから戻ってきたら親父が起きてて、

「お前は何やってるんだ?」

と。僕は、

「ん?運動してきたんだよ」

って答えると、親父は、いや〜な笑い方をして

「へー、そんなことやってんの?」

って物凄く馬鹿にして言ってきました。
あ、やっぱりこの人は僕のこと嫌いなんだな、そんな風に思った瞬間でした。


こういうことはよくあったのです、僕がまだ小さい時から。

ある時、知り合いの人にチョークをたくさんもらったんです。
まだ小学校3年生だった僕にとってはすっごい楽しいおもちゃをもらった感じで大事に使って遊んでました。変に迷惑を掛けたがらない子供だった僕は道路や壁に落書きしちゃダメだってなってて、どこからか拾ってきた20センチ四方くらいのベニヤ板に色々書いては消して、書いては消して、そして周囲にチョークの粉を撒き散らさないように新聞紙にしまって遊んでたんです。何が楽しかったのかわからないですがw
そんな中、親父が酒を飲んで酔っ払ってリビングのソファに寝てる時に、自分の部屋の自分の机でベニヤ板に何かを描いて遊んでました。かなり楽しかったのか隣に親父が立っていることに気づかずに遊んでました。そしたら、

「お前は何をやってるんだ!」

と、親父は怒鳴ってきたのです。僕がベニヤ板で遊んでることを母も知ってたし悪いことではないと認識してたのですが、親父は怒ってました。

「チョークでこれに描いて遊んでるんだけど・・・」

「何やってんだ!!!そんなことはするな!!!!」

もう、理不尽ですよ。僕は泣きながら、

「でも、こうやって新聞紙も敷いてるし、終わったら包んで片付けるし、なんでダメなの!!!」

「いいからやめろ!!!!」

と言って殴られました。頭をゲンコツででしたが。

はっきりとお酒で理不尽に怒られた時の記憶はこの1つですが、当然、他にもたくさんありました。


こんなこともありました。これは酔っ払ってなかったと思います。

小学校2年の時です。
僕はいじめられていたってわけじゃなかったのですが、悪ふざけをする友達がすぐに頭を殴ってきたんです。テレビで見たのかなんなんかわかりませんが。それが嫌だったのと、何気に集団ではなくある特定の1人だけにいじめられる感じもあって、登校拒否になりかけていました。その日も学校にいきたくなくてぐずってたんです。母はなんで僕が学校に行きたがらないのか、理由もはっきりとわからないし、言う事も聞かないので、出勤の準備をしてた父に話をしたんです。そしたら父は僕が学校に行きたがらない理由を聞く事もなく、わんわん泣いてる僕を部屋の片隅に押し付け無言で数回殴りました。やはりゲンコツで頭をですが。
父は殴ると何も言わずにそのまま仕事に行きました。

兄貴達は聞き分けがよかったからなのか、そんな風に親父に怒られているところを見たことはありませんし、お酒で理不尽に当たられる姿も見たことはありません。兄貴達が大人になってからは少しありましたが、子供時代にそうやって親父に殴られたのは僕だけでした。酔ってるときは当たり前のように、シラフでも。

ま、体罰についてはちょっと大袈裟になり過ぎました。虐待を受けてるわけでもないし、僕が悪くて怒られるパターンがほとんどはありますw

ただ、お酒を飲むと理不尽に怒られることがあったという感じです。


話は戻りまして、親父の定年退職後の飲酒はどんどん酷くなっていったようでした。

そりゃ、午前中から飲んでて、母に注意されると今度は隠れて飲むようになりましたから(後述します)。


そして事件がおきました。


当時、僕は通信制大学で学び始めて2年目になっていました。

ちょうど夏季スクーリングの時期で、夏季スクーリングは特殊な場合をのぞいて1週間〜3週間の期間に行われます。
履修科目が多ければ3週間になるし、少なければ1週間で終わるってわけですね。僕は2年目でようやくコツを掴んだところで(通常学習及び、スクーリング)、この科目とこの科目は無理に夏季で履修せずに秋季に履修した方がいいだろう、そうすれば夏季は2週間で切り上げられるし何気にお金も安く済むと。

で、夏季スクーリングの2週目の水曜日の夜でした。母から突然電話があったのです。


「あのね、ごめんね。お母さん、自転車で転んで大怪我しちゃった」


母は普段は夜に出かけることってないのですが、何故かその日は近所の友達のところに桃を持っていこうとして、夜の8時くらいに自転車で出かけたんだそうです。母が自転車で転んだなんて話は聞いたことがなかったのですが(そんなに鈍いわけじゃない)、その時は暗くて縁石に気付かずに乗り上げてしまって、そのまま思いっきり転んだそうです。
事故現場の前にあった美容室の美容師さん(今でも僕が散髪してもらってます)と、たまたま近くを通った理学療法士の卵の方に助けてもらって、応急処置と家への連絡をしてもらったんだそうです。その日は夜も遅くて病院(これまた現場の近く)でも入院の体制が整えられないから、一度、帰宅して、翌日に入院の準備をしてきてくださいって話だった。

母の怪我の状態は非常によくなく、脳とかを打たなかったこと、内臓に関わらないことが唯一の救いくらいで、膝の複雑骨折でなかなか折れるもんじゃないような場所が見事に砕けたようでした。なので手術してもリハビリに少なくとも2ヶ月はかかるという。

当時、長男が家にいました。でも、長男は仕事柄、家の緊急事態でもそう簡単には休めなかったのと、なんと言っても、家事とか入院患者の世話とか何もできない人だったのです。実際、母が2ヶ月半入院している間に、「犬を飼ってもいいか?」と聞きに行った時以外はお見舞いに行きませんでしたから。


母がいなくなるってことは、イコール、我が家の大ピンチなわけです。

でも、僕はスクーリングが3日残ってたし、流石に、ここで投げ出して帰るわけにはいかないから頑張っても日曜日にしか帰れないと伝えました。ま、僕的には母の怪我は大事件でも、家がピンチになることはそんなに大したことじゃなかったですからw

当時は写真館でバイトをしていたのですが、理解のある人だったので夏季スクーリング中は勉強に集中しなさい、8月いっぱいは休みなさい、私は旅行とか楽しむから写真館はあまりオープンしないので!

ってことだったので、スクーリングが終わり次第家に戻って8月いっぱいはとりあえず、母の様子を見ながらもう1ヶ月くらいはやむを得ないかな〜って感じでいました。


ところが、大学の講義を受けてる時に携帯がなりました。
もちろん、真面目な僕ですから携帯を見る事もせずにお昼休みにチェックしました。電話は親父からでした。すぐにかけ直すと、


「な〜、早く帰ってきてくれ。家のこと誰もできないんだよ〜。頼むから。」

「お父さん、あのね、土曜日まで授業があるからそれが終わったらすぐに帰るから、それまでは我慢して。」

親父の声は完全に酔っ払ってました。
親父からの電話はそれから何度もきました。大学から戻ってアパートで夕飯を食べている時、翌日のお昼休みと、午後の講義中、そして夜。その翌日も同じ感じで。電話の親父は常に酔っ払っていました。声の感じからすると寝落ちする寸前だったり、酔って機嫌良くなってる時だったり。

あー、酒飲んでるなー。お母さんの病院にはちゃんと行ってくれてるんだろうか・・・

日曜日になり家に戻ると、当然、母はおらず、心なしか雑然としたような雰囲気が家にありました。
でも、洗濯物が溜まってる感じはないし、台所も汚れてる感じはない。ちゃんとできるやん、そんな風に思いました。でも、それは違っていて、母が怪我してから4日ほどしか経ってなくて、ご飯は親父と兄貴がそれぞれコンビニとかで済ませていたし、洗濯物はそんなに出るような日数ではない(あと、親父は洗濯物を畳むのが当時から今までずっと俺より上手)と。

母の病院に行くと、帰ってきたことを喜んだとともにごめんねと謝罪。
予定では2、3日後に手術とのこと(流石に正確なのは覚えてません。確か水曜日だったような)。その病院は院長先生が整形外科の手術の名医で県外からも腰や首の治療のために来るくらいだったので、手術は安心だったのですが、手術後は看護師さん不足なのか家族が一晩つきっきりで付き添ってくださいっていう感じだった。

じゃ、水曜日は俺が付き添うよってことになった。当たり前だけど。で、母はやはり親父のお酒のことを心配していて、

「講義受けてる時とかも電話かかってきてしつこかったんだー。さっきあったけど、ま、ちょっと酔ってるくらいだったよ。」

余計なことを言ったかな〜って思った。
というのも、母は心配そうな顔をしたからだ。

家での僕の仕事は炊事洗濯、母の病院に行くこと。

親父はやはりご飯をあまり食べたがらないので、今ほどなんでもできるわけじゃなかったのに、朝からしっかりとご飯を作った。サラダと味噌汁、メインに副菜。昼は母の病院に行くのもあってお弁当にする事も多かったし、父は寝ているので、お弁当と置き手紙を置いてとか。食べている事もあったし、食べていない事もあった。親父のお酒は、毎晩、規定料を(パック3つ)で渡して飲ませるようにした。これで飲酒量はコントロールできるだろうと。ちょっと多いよね、今思うと。

とにかく、僕もいっぱいいっぱいで必死で、色々と気を回す余裕はなかったです、母の手術までの数日だけでも。


そして手術の日。
午後2時くらいから始まって、5時くらいには終わったかなー。
僕は準備とか色々あって、早い時間から病院にいました。で、手術が終わってから一度家に戻り、親父の晩御飯のお弁当と自分の分を買って、あと、一応、手術後に母を見にきた親父もご苦労さんってことでお酒を3パック買って。親父は寝てました。だから弁当とお酒と置き手紙を書いて病院に戻りました。念の為お金も置いてきたような1000円だけど。

病院は暑くて狭くて、夜通し起きてるのはきつかったです。今でも思い出します。

母の手術は無事に成功して、最初は意識もあやふやだったんだけど、夜中近くにははっきりしてきて僕の心配をしたり。
まー、ほんときつかったんですよ、母の付き添い。母が起きて僕に話しかけてる時はいいのだけど、そうじゃない時は僕も少し寝ようもんなら、暑さと狭さにやられて目が覚める、寝落ちする、目が覚めるの繰り返しで、僕自身もそこに至るまでに疲労困憊だったし、とにかく朝に僕と交代できてくれる予定の親父が待ち遠しかったんです。

しかし親父は待てど暮らせどこない。

親父は早起きなので7時くらいにはきてくれるかなーって期待したのだけど、全然来ない。
そして11時近く、ベロベロに酔っ払った親父が千鳥足でやってきました。母は調子が悪そうだったけど、僕のことを心配して、あんたは一度家に戻りなさいって言ってた頃でした。

ベロベロの親父の姿を見て、僕も母も唖然としました。そして、情けなくなりました。

「お父さんどうしたの?」

と、母が声をかけました。

「交代しにきたんだ〜」

と。僕は母に耳打ちして、とりあえず帰ってご飯を食べて、シャワー浴びたらまた来るから。それまで親父を見張っててと。


親父は僕が用意しておいた弁当は食べてませんでした。
代わりにお酒とお金は消えていました。お酒、買って飲んだんだなと思いました。


それからしばらくして僕が母にもらっていた生活費が底をつきました。
最初にお見舞いに行った時に母が持っていた2万円を生活費として預かってたんです。なので、手術が終わって1週間後には消えてました。

「お母さん、生活費がなくなっちゃったんだけど、どうすればいい?」

「え?あんたに渡した時に言ったよね?入院する時にお父さんに生活費は渡してるからって」

そんなこと言ってたような言ってなかったような。
母が言うには、入院する時に父に6万円渡してたんだそうです。それを僕に渡してとも。僕は父がお金持ってるのは全然知りませんでした。父に聞いてみると、そんなのはないと。もしかすると、僕も覚えてないから母の記憶違いかなーって思って、再び病院で聞いてみました。母は、

「おかしいな〜。どちらにしてもお金がないんだったらこの口座からおろして使って」


それが8月の第4週の話だったと思います。

僕は家事に慣れてはきましたが、母の病院に行くのも多くなり、なかなかに忙しい日々を送ってました。9月に入ると一度横浜に戻り家の整理と職場への連絡をして一泊で戻ってきたり。
親父は相変わらずで、ご飯はかろうじて食べてくれていましたが、なんか調子が悪そうで。でも、僕は夜に3パックだけお酒を渡すことを続けていたので、それ以上は飲んでいないはず・・・

我が家に愛犬のレオが来たのもこの頃です。

レオが来た時に母からたまたま電話がかかってきて、

「いつ電話してもなんとなく暗い感じがして責任感じてたんだけど、今日は後ろが賑やかだね!やっぱりこうでなくちゃ」

母は自分のせいで僕に苦労をかけていること、家が落ち込んでいることをやたら心配していたんです。


親父の様子がさらに変になってきたのは9月の2週を過ぎた頃だと思います。


お酒の量はコントロールしてるはずなんだけどなー。
親父の体調はみるみる悪くなって、ご飯を食べることは拒否するし、ずーっと横なってばかり。
さすがにやばいかなーと思いつつも、僕は僕でいっぱいいっぱいだったので何もすることがきませんでした。


ドンっ!!!!!


夜中に突然大音が鳴りました。
慌てて起きて音のしたリビングに向かうと父が倒れてました。
意識はあって転んだだけだったようでした。

「何やってんの、立てる?」

と聞くと、立とうするのですが足がおぼつきません。っていうか、立てなくなってました。
なんとか寝室まで連れて行きそのまま寝かしました。

翌日、母にそのことを話すとすぐに知り合いのお医者さんに連絡をしてくれました。
親父の友達でもあるお医者さん(現在もかかりつけ医です)が夜にきてくれました。往診という形をとると本人が嫌がるのを知っていて、仕事帰りにちょっと寄ったよーっていう体で。

「あのね、明日、○○病院の○○先生に連絡するから。多分に入院になると思うけど、とりあえず明日の夜にまた来るからその時に話をしよう」

僕に帰り際に言って帰りました。
翌日の夜、再び往診にきてくれて、親父の足の様子、意識、血圧の他に、尿漏れがあることなどを診てくれて、やはり入院するしかないから、明日病院に行って伝えればわかるようにしておくからと。


親父は翌日即入院になりました。
先生の話を聞いていると、処置用のベッドで着替えなどをしていた親父がもどしました。そして、入院の手続きなどをしているうちに親父は病院のベッドで眠ってしまっていました。

それから1週間くらい、午前中の早い時間に親父の病院に行って、その帰りに母の病院に行くっていうのが続きました。

僕のその時に疑問に思わなかったのが不思議なのですが、9時か10時くらいに親父の病室に行くのですが、親父はいつも寝てました。
親父の着替えを置いて、新聞や雑誌を置いて、少しだけ起きるかどうか待って、起きないからそのまま帰る・・・それだけの1週間でした。

母が親父をやたら心配して、なんとか仮退院するからお父さんの病院に連れっててくれと言い始めました。

仮退院の許可が降りるには多分、それから数日かかったと思います。

母を迎えに行き、家に戻り、一通り、まだ子犬だったレオと遊んでから、すぐに病院に連れて行ってと。


父の病院に着くと、やはり父は眠っていました。
いつもこんな感じなんだよって母に伝えると、母は何かに気づきました。

「シーツのこの部分に血がついてるね。どうしたのかしら?」

母は担当のお医者さんを探しにいきました。
そう、担当のお医者さんと僕は面識がなかったのだけど、やはり親父の知り合いで母は面識があったのです。先生を捕まえると、お世話になっていますとお礼をいい父の病状を聞きました。先生は、

「これまでお伝えできなくて申し訳ありませんでした。まず病状なのですが、足が動かなくなった原因は低ナトリウム血漿によるものです。血液中のナトリウムがかなり不足してました。それによって膝から下の神経がだめになってしまい足が動かなくなったんです。」

足の神経が繋がるのはミリ単位の話で、しっかりリハビリをしても元に戻るのは難しいだろうと。
正直なところ、この段階でショックでした。母も同様だったと思います。そして母はシーツに血がついていたことについて聞きました。

「実は昨日の夜中に、尿道のカテーテルを自分で抜いたんですよ。それで出血したんです。このことについてもお話をしなければなりません。そういう行動に出たことと、眠ってばかりのことなんですが、ちょっと問題がありまして。簡単にいうと、前頭葉が萎縮しています。その原因はアルコールによるものです。意識が朦朧としてるのは離脱期間と脳の萎縮などが原因だと思われますが、脳は一度こうなると元に戻らないんです。ご主人の病気はアルコールの過剰摂取による低ナトリウム血漿と脳萎縮になります。」

脳の萎縮は記憶障害などが起こります。そして治りません・・・


数時間前にニコニコと仮退院を喜んでいた母の顔は難しいものになっていました。


親父は状態がよくないので個室に移してもらいました。
そして、昼間は寝ているけど夜に起きてるらしいことと、今後、カテーテルを抜くようなことがあると困るので家族が付き添ってくださいと言われ、その日から僕は病院に泊まり込むことになりました。

午後に母の病院に行き、洗濯などを病院で済ませて夕方に差し掛かる頃にそのまま父の病院に向かう。

父の病院では夜通し起きて、父の様子を見て、朝、病院が動き始めたら父の病室のソファに横になって眠れたら眠り、父の朝ご飯の世話をしたら家に帰る。

家に帰ったら、洗濯や自分の食事を済ませて、レオの世話をして、眠れたら寝て、また母の病院に行く・・・・


そんな生活が3週間近く続きました。
ま、基本、眠れないです。途中から看護師長さんが見るに見かねて、朝ご飯の後は私たちが面倒を見るからすぐに帰っていい寄ってことになって、1時間ほど睡眠時間が増えましたが、それでもこの3週間の間は平均睡眠時間は2時間くらいだったと思います。

母はあまり手がかからなくなっていましたが、父は全然で、夜中にコンビニに買い物に行かせられるくらいなら気分転換によかったのですが、何度もおしっこを尿瓶に取らなくちゃならなかったし、時には大きい方の面倒を見ることもあったし、完全に昼夜逆転していて、夜中はずっと話をしたり様子をみたりしなくちゃならなかった。

愛犬のレオはおしっこの躾がちゃんとできなかったり、少し問題があったりしたのだけど、それも考えてみれば、まだまだ子犬だったこの時期に親父にかかりっきりで留守番させる時間が長すぎたんだよね。大事な時期にかまってあげられなかったことは後悔でしかないです。今年の5月末に亡くなるまでの16年と8ヶ月(生きた年数は16歳と10ヶ月)の間、我が家を明るくしてくれて感謝しかないです。レオがいないことで今はもうずっと寂しい感じになってしまったよ。


僕もまだ若かったとはいえ、そんな生活は限界がきていました。
それから、僕自身も決断をしなくちゃならない感じになっていました。

僕が病院に泊まる生活を続けていた頃に、母の退院が決まりました。
病院の方針としてはあと2週間は入院してほしいとのことでしたが、事情を伝えて、とにかく早く退院させてくれと懇願したようです。
幸にして母のリハビリは予想以上に進んでいて退院の許可がおりました。母は退院して2日くらいのところで、

「ね、これからはお母さんが病院に泊まるから」

と言い始めました。
親父もその時は意識がはっきりし始めていたのだけど流石にそれはさせられないと伝えました。でも、母は引き下がりませんでした。

「ねえ、お母さん。お父さんの状態はよくないと思うんだ。足も頭も治るものじゃないっていうし。家が大変になると思うから、僕が横浜の家を引き払って戻ることにするよ。」

そう伝えました。
母は最初は反対しましたが、すぐに同意してくれました。
うちの兄貴達は2人とも仕事柄、実家がピンチだからと休んだりできないし、そもそも片方の兄貴は転勤で県内を飛び回らなきゃならないし。
父の病気が数年で治るものなら良いけど、正直、先が見えない。っていうか、退院すらいつになるかわからない、そんな状況でした。

タイミングがよく、父の病院に泊まる必要がないと医者が判断してくれました。

母と一緒に夕方から夜まで父の病院に行く日々が1週間くらい続きました。
昼夜逆転の生活がなんとか元に戻ったようです。父の意識も幾らかははっきりしてきたのですが、まだまだぼんやりしてました。足はほぼ動かないままで。

母の怪我の状態もよく、実家で引越し業者に見積もり依頼したり、色々と調整をして、僕は母に1週間だけ時間をくれと伝えて横浜に戻り、引っ越しの作業と、職場への連絡、たまたま連絡の取れた友達に会うなど、全て簡単に済ませて、夢の象徴みたいな街を後にしました。


それからも夕方に母を連れて親父の面倒を見るって日々が続きました。

調子が良い時もあれば、病室を開けたらウンチまみれの親父がいるってことが2度あったり。
親父の方も日々、元の親父に戻っていく感覚があって、順調に回復しているようでした。ある程度までは。

父は12月の第3週くらいに退院しました。
入院したのが9月末・・・そうそう、親父は10月1日の僕の誕生日の前にやらかす癖がありますw入院したのが9月末だったので、3ヶ月までは入院しないくらいでなんとか退院できました。

足の方は杖を使えばかろうじて歩けるくらいまで回復し、意識ももちろんしっかりとしました。ただ、物忘れが酷くなりました。でも、まだ地球人だし、日本人だし、自分の知っている親父でした。



それからの数年間は比較的平和でした。

親父は当然、お酒を飲んではダメとなりました。足が悪いので1人で買いに行くこともできなくなりお酒を飲める環境はなくなりました。

親父が退院して間もなく、僕の一人暮らしの時の荷物の片付けがようやくできて、母に手伝ってもらいながらやっていました。

母が入院してる間、父のお酒の量はコントロールできていたはずです。
でも、親父は体を壊しました・・・その理由が片付けの最中にわかりました。

父は紙パックの日本酒(98円とかかな)を飲んでいました。
片付けをしていたら、母が1つ空きパックを見つけたんです。そして、その空きパックは2、3つ、10個と見つかり、最終的には45リットルのゴミ袋いっぱいに出てきました。これはその日からしばらく続きました。あちらこちらで見つかるんです、空きパック。親父が退院して4年後くらいに家の建て替えが決まり、家をすっからかんにしたのですが、その時にもまた出てきました、空きパック・・・合計だと45リットルのゴミ袋2袋以上になったかな。2袋までは確実に確認しています。単発でも何度も出てきたのでもっとあったでしょうね。

親父は母が入院した時に受け取った生活費全てをお酒に変えていたのでしょう。
そして、僕が時々、自分でご飯買って食べてと置いてたものもお酒にしていたのでしょう。

親父がそうやって隠れて飲んでたお酒の他に僕が毎日3パック与えていたのですから、その酒量はとんでもないものだったと思います。


紙パックが出てきた頃には親父の状態も落ち着いていたから笑い話になるのですが、依存症の怖さを実感させられました。



親父はリハビリすれば歩けるようになる、今の状態を維持できると言われるまでに回復したので、母と兄にリハビリを促されましたが、言われた時しかできませんでした。当時はまだ1人で外を歩くこともできたんですよね。

やがて親父は、尿道のカテーテルを抜いた後遺症なのかおしっこを自然に排泄できずに溜まってしまうってことが何度も起きたり(自然に治りました)、胸に水が溜まって息苦しくなり入院したりとか、色々ありましたが、落ち着いていました。

僕も大学の勉強を終わらせており、経済的な理由と英語ができない理由で大学院の進学を諦め、実家の建て直しに奔走したりして(お金以外)いましたが、落ち着いているのならもう一度写真やりたいなとか、一人暮らししたいなとか、考えることも何度もありました。でも、不思議と僕が行動に移そうとすると、親父の体調が悪くなったり、入院したり、他に何か起こったり、色々と不思議ではありますが、そういうタイミングの悪さがありましたね。


そしてまた、9月30日です。

これまで話してきたことよりも最近のことなのに正確な年は忘れてしまいました。母が病気になる前の年かその前の年なんだけど。なんか思い出せないです。

9月30日に至る以前から母の様子が変ではありました。
30日の夕方だったかな母が僕に話を持ち出したのは。

「あのね、あんまり言いたくないんだけど、お父さんの様子がおかしいのよ。わたしが寝てるとその様子を覗きに来るの。いつからか忘れちゃったけど少し前から。それでね、聞いてみたの。なんで覗くの?って。そしたら、『お前!今、そこから男を逃しただろ!俺の部屋から見えたんだぞ!昨日は俺がここにきたらお前はシャワーを浴びて股間を洗ってただろ!』って。恥ずかしい話だからあなたにはしたくなかったんだけど、このまま続くと・・・私はあまりお父さんに強く言えないし・・・」


頭がおかしくなりそうだった。
30年以上、嫌なことがあっても大して好きなこともできずに尽くしてきた母に対してこんなことを言うなんて。。。

僕は親父の腕を取りこっちに来いとリビングまで引っ張ってきた。

「な、お母さんに言ったことどう言うこと?浮気したとかなんとかって。そんなことするわけないだろ!その時間、ずっと俺は起きてるし。誰も家に入ってないし、誰も家から出て行ってない!なんでそんなこと言うんだ!!」

と、大声出すと泣きそうになる自分ですが必死に大声を出して言いました。

「俺は見たんだ!男が玄関のとこから走っていくの!!」

親父は折れませんでした。
しばらくこんな問答を続けて、僕は親父に土下座をさせました。それでも親父は自分は間違ってないと言いました。親に対してそこまで僕はやったのに、親父はその後も母が浮気したことは間違いないと言いました。

母的にはもう60の半ばも過ぎているのにそんなことを疑われるのが情けなかったようです。泣いてはいませんでしたが、悲しそうなあの時の母の顔は今でも忘れることはできません。

このままじゃどうにもならないから、母をおばさんの家に預けてきました。
そして家に戻り、また改めて父と話し合いをしましたが埒が開きませんでした。しばらくするとこの状況をおばさんから知らされた兄が帰ってきました。長男は親父のことが嫌いだし、こう言う時に迷わず怒鳴りつけるタイプなのですが、おばさんに入れ知恵されたようで、僕と親父の間に入って(その時はもう呆れて喧嘩腰ではありませんでしたが)、親父を部屋に戻してそのまま寝かしつけました。


これが親父のアルツハイマー型認知症の始まりでした。


数日置いて親父が落ち着いた頃に普段の通院のていで親父を主治医に連れて行きました。主治医には事前に連絡を入れておいて。
主治医は専門医ではないのですが、それでもよく見てくれました。親父にいくつか質問などをしながらだったようですが、当時僕は病院の中にまでは入らずに車で待っていたので診察の様子はわからないです。
親父が飲む薬の量が幾らか増えたことと、当時、すでに車椅子になっていたのでケアマネさんに連絡をし今後の方針などを検討しました。

アルツハイマーの薬は合うものを見つけるのが大変だと言われてるのですが(僕はよく知りません)、主治医が出した薬は効果があったようで親父の母への変な言いがかりは止まりました。当時は幻覚・幻聴があったのでしょうね。

介護の方はケアマネさんがデイサービスの利用やショートステイの利用を提案するも、頑なに拒否されました。母も説得することができなくて諦めてしまいました。


そして翌年の9月30日。

また、父は母の浮気を疑い始めました。浮気相手はおばさんの元旦那さん(おばさんは30年以上前に離婚してます。その旦那と親父は友人関係でした)。また始まったかと。僕は流石に我慢できずに怒鳴りましたが、これが病気のせいだっていう知識はあったのでイライラをぶつけただけでしたね。情けないことに。
そして、また、主治医に薬を変えてもらい、幻覚と幻聴、妄想は止まりました。

その後、最近も9月30日にトラブルが起こったりしたんです。だから僕は自分の誕生日が嫌いになっています。SNSなどでお祝いしてもらいたいなーっては思ったりもするのですが、自分からアピールはしないのです、したくないのです・・・


その翌年かな。母の乳がんが発覚します。
母は発覚から1年と2ヶ月の闘病をへてなくなりました。



そして現在に至ります。

僕は母の死後、必死に頑張ってきたつもりです。
何度も逃げ出そうとしたけど、逃げる場所もないので頑張ってきました。親父に尽くしてきました。

そして横浜の家を引き払って17年と数日が経過した時です。


「あなたは私の甥っ子です」


僕に父から投げかけられた言葉です。


28歳から45歳まで、母が健在の時は母に迷惑をかけるくらいに好き勝手もやりました。僕がいない方が母は楽だったかもしれないって思ったこともあったくらいです。でも、それでも、17年前のあの時に実家に戻ると決断したのは父のためだし、母が亡くなるまでは母をサポートするって言う形で、母が亡くなってからはほぼ僕1人で父の面倒を見てきました。頑張ったと思います、怠惰な僕にしては。

「あなたはだれですか?」

ではなかったのはよかったと思いますが、僕の1部を確実に忘れてしまいました。

親父は今年病気したのもあって足の状態も少し悪くなりました。

そしてアルツハイマーがまた進行してしまいました。




僕と親父の物語はまだ続くでしょう。
親父がいつか寝たきりになり、僕のことを完全に忘れてしまっても続くと思います。

親父の甥っ子発言があってから、毎日悩みました。

自分の人生を振り返った時、あまりにも自分が可哀想になってしまって。
ずっと書いてきましたが、僕は親父に遊んでもらえなかった分、好きでいたいと思っていたと思います。兄貴達が親父を嫌いなら僕は好きでいようと思っていました。母が言ったもう一つの言葉があります。

「わたしはお父さんがどんなに酷いことをしても離婚はしないけど・・・あなた達がいるからね。でも、もし離婚ってなったらあなたはお父さんについて行くでしょうね。お兄ちゃんたちは絶対にお父さんのところにはいかないもん。優しいあなたはお父さんとこ行くよね」


と。
いや、大前提としては僕は優しくはないです。でも、母が言ったことは正解です。親父が何かやらかすたびに(ここで書いてないことたくさんあります)、離婚しちゃえばいいのにって思ってたので。でも、どう考えても、僕は親父の方について行くんですよね・・・

正確や見た目、なんなら髪質まで母にそっくりで、マザコンって言われてもいいから母を好きでいた僕ですが、考えていたことはそういうことでした。



父をなんとかして老人ホームに入れるか。
この先どんなふうになってもいいから僕が家を出てしまうか。

それとも命を絶つか。



どれも無理でした勇気もなかったし、お金もなかったし。

僕にも夢や希望がまだまだあります。
でも、どんどん悪くなる親父の相手をするならば、最初からそんなものを持っていても悲しくなるだけです。

僕は兄弟の誰よりも結婚願望が強かったです。
親父があんなんだから、自分が結婚して子供ができたら・・・そんなふうにたくさん考えてました。ま、途中で色々と自ら結婚とは遠いところに行きましたが、親父の面倒を見ているうちに結婚は難しい年齢になり、親父が酷くなって結婚が無理な状態になりました。


夢や希望、全部諦めます。

良いことなんてないこれからの人生ですが、自ら死ねないんですもん、勇気がなくて。だから今一度決断しました。全て諦めます。なので、せめて生き恥くらいは晒させてください。決断しても愚痴や泣き言ばかり吐くと思うけど、死にたくはないです。生きていたいです・・・




全て親父のせいみたいな流れになってますが、選択を間違ったり、それまで怠惰だった自分の責任だと思っています。


前向きに生きることは難しいかもですが、なんとか生きたいと思います。それだけは頑張って貫こうと。




また、楽しい話が書けるようになったら書けたらいいなって思います。