心理学のことはもう頭からほとんど抜けちゃったのだけど・・・
臨床心理学の講義を受けた時に印象的だったのは、
「人間とはアンビバレンスなもの」
って言葉。
アンビバレンスはどういう意味かというと、ま、wikipediaで調べてもらうと良いと思います。
対象に対して相反する感情を持つことって意味。
wikiでも例に使われてるので一番わかりやすい例えでいうと、「愛憎」。愛してると憎いという真逆のベクトルにある感情を同時に抱いてしまうことですね。愛憎劇なんて言葉があるくらいなんだけど、好きが強くなり過ぎると憎くもなるもんなんでしょう、きっとw
最近は普及や一般化によって有様が変わってきていると思うけど、ファンとアンチと無関心なんかがいい例かもしれないですね。
とあるアイドルのファンがアイドルの恋愛発覚や不用意な言動などでアンチになる。
アンチはなんか知らないけど、そのアイドルが嫌いなはずなのに気になってしょうがない。気になってしょうがないから情報を仕入れてはツッコミどころを探してアンチ活動をする。そんなアンチ活動の結果、アイドルが泣いてるところを見て喜ぶ・・・ま、単に泣いてるところを見て喜ぶだけではなく、もっと複雑なものがあると思うけど、捻くれてるよね、拗らせてるよね、キチガイじみてますよね・・・
愛は表面に、憎は深層心理にしまい混んでしまっているうちはまだ良いのだろうけど何かの切欠で憎が表面に出たり、深層心理の中で強くなってしまうと人間はどんどん悪い方に行ってしまうのかもしれませんね。バランスってのが大事ですよ。愛憎の。無関心が一番のほにゃららって言われるのは、好きと嫌いはとても近いところにあって、興味という点においては同レベルにあると考えられるからで、それに対して無関心ってのは、知らない、知ろうとしない、知ってもどうでもいい・・・好きでも嫌いでもなんでもない興味すらないってことです。
だから無関心が一番怖いとか言う人が出てくるのですが、僕の考えでは闇堕ちしたファンは人間ではなくなってるので(漫画・アニメ的に言うとw)、こいつらの方が絶対に怖いし、相手にしない方がいいと思われますよ。
これはあくまでも対象に対する自己の中の相反するものの存在の話で、ある意味においては自分でコントロールできるもの(コントロールが難しいから問題なのだけど)。
ハンバーガーは大好き、でもピクルスは大嫌い!
こんな人はいませんか?
これは自分の大好きなものに大嫌いが混在している状態です。
ハンバーガーの場合は比較的簡単です。ピクルスを取り除けば良いのだから。
筑前煮が大好きなんだけど、椎茸が大嫌い。干し椎茸に至っては死ぬほど嫌い!!!
これ状態の方もいらっしゃいますよね?
これは少し難しい。煮物ですから。それでも椎茸を取り除けばなんとかなります。
ただし、干し椎茸の戻し汁を使って作る筑前煮は絶品なので、椎茸を取り除いただけではあなたの大嫌いな椎茸の濃ゆい部分が残ってしまいます。
食べ物の好き嫌いは簡単な話ではあります。
これが人間関係だったらどうでしょうか?
とても難しいことになるんじゃないでしょうか。
大好きな相手の中に大嫌いがいる。
大好きな相手の周囲に大嫌いがいる。
こんな感じになります。
前者は人それぞれの決断になるでしょうね。人の全てを好きになることはできない、人には必ず嫌いな部分があると割り切ることも1つですが、大嫌いを好きになるのも1つです。大嫌いをどうにも処理できずに離れるのも1つ。なんとなくですが自分の選択1つのような気がします。人間的な成長と結びつくことでもあるでしょう。
後者は少し難しく僕には感じます。
基本的には前者と同じで、自己の成長と共に大嫌いが気にならなくなるかもしれないし、許容の範囲のなかに収まる様になるかもしれないです。でも、
先日書いたブログになりますが、この中の知り合い(男)さんのようになんとしてでも自分の思うようにしたい人もいて、自分の欲に忠実に行動すれば大嫌いを取り除くこともできるでしょう。これが近道に思えるし、後々の心の揺れ動きも抑えることができるかもしれないです。しかし、人の道に反する場合がほとんどになるかなって思います。
大嫌いを大好きに・・・
僕はトマトが嫌いでした。
でも、今となってはカプレーゼが好きだし、ハンバーガーにはトマトが入ってて欲しいと思うくらいにトマトを食べる様になっています。
これは味覚の成長なのかもしれないですねw
成長は大嫌いを克服できるものなのだと思います。
成長は嫌いの中に好きも見出せるかもしれないです。
人間関係のあれこれは成長で克服できる・・・そんな風に信じたいです。
7年も8年もこれに苦しんでる誰かさん、いい加減に成長しろと言いたいです。
と、誰かさんが思いつきでブログにしてみました。
臨床心理学の講義を受けた時に印象的だったのは、
「人間とはアンビバレンスなもの」
って言葉。
アンビバレンスはどういう意味かというと、ま、wikipediaで調べてもらうと良いと思います。
対象に対して相反する感情を持つことって意味。
wikiでも例に使われてるので一番わかりやすい例えでいうと、「愛憎」。愛してると憎いという真逆のベクトルにある感情を同時に抱いてしまうことですね。愛憎劇なんて言葉があるくらいなんだけど、好きが強くなり過ぎると憎くもなるもんなんでしょう、きっとw
最近は普及や一般化によって有様が変わってきていると思うけど、ファンとアンチと無関心なんかがいい例かもしれないですね。
とあるアイドルのファンがアイドルの恋愛発覚や不用意な言動などでアンチになる。
アンチはなんか知らないけど、そのアイドルが嫌いなはずなのに気になってしょうがない。気になってしょうがないから情報を仕入れてはツッコミどころを探してアンチ活動をする。そんなアンチ活動の結果、アイドルが泣いてるところを見て喜ぶ・・・ま、単に泣いてるところを見て喜ぶだけではなく、もっと複雑なものがあると思うけど、捻くれてるよね、拗らせてるよね、キチガイじみてますよね・・・
愛は表面に、憎は深層心理にしまい混んでしまっているうちはまだ良いのだろうけど何かの切欠で憎が表面に出たり、深層心理の中で強くなってしまうと人間はどんどん悪い方に行ってしまうのかもしれませんね。バランスってのが大事ですよ。愛憎の。無関心が一番のほにゃららって言われるのは、好きと嫌いはとても近いところにあって、興味という点においては同レベルにあると考えられるからで、それに対して無関心ってのは、知らない、知ろうとしない、知ってもどうでもいい・・・好きでも嫌いでもなんでもない興味すらないってことです。
だから無関心が一番怖いとか言う人が出てくるのですが、僕の考えでは闇堕ちしたファンは人間ではなくなってるので(漫画・アニメ的に言うとw)、こいつらの方が絶対に怖いし、相手にしない方がいいと思われますよ。
これはあくまでも対象に対する自己の中の相反するものの存在の話で、ある意味においては自分でコントロールできるもの(コントロールが難しいから問題なのだけど)。
ハンバーガーは大好き、でもピクルスは大嫌い!
こんな人はいませんか?
これは自分の大好きなものに大嫌いが混在している状態です。
ハンバーガーの場合は比較的簡単です。ピクルスを取り除けば良いのだから。
筑前煮が大好きなんだけど、椎茸が大嫌い。干し椎茸に至っては死ぬほど嫌い!!!
これ状態の方もいらっしゃいますよね?
これは少し難しい。煮物ですから。それでも椎茸を取り除けばなんとかなります。
ただし、干し椎茸の戻し汁を使って作る筑前煮は絶品なので、椎茸を取り除いただけではあなたの大嫌いな椎茸の濃ゆい部分が残ってしまいます。
食べ物の好き嫌いは簡単な話ではあります。
これが人間関係だったらどうでしょうか?
とても難しいことになるんじゃないでしょうか。
大好きな相手の中に大嫌いがいる。
大好きな相手の周囲に大嫌いがいる。
こんな感じになります。
前者は人それぞれの決断になるでしょうね。人の全てを好きになることはできない、人には必ず嫌いな部分があると割り切ることも1つですが、大嫌いを好きになるのも1つです。大嫌いをどうにも処理できずに離れるのも1つ。なんとなくですが自分の選択1つのような気がします。人間的な成長と結びつくことでもあるでしょう。
後者は少し難しく僕には感じます。
基本的には前者と同じで、自己の成長と共に大嫌いが気にならなくなるかもしれないし、許容の範囲のなかに収まる様になるかもしれないです。でも、
先日書いたブログになりますが、この中の知り合い(男)さんのようになんとしてでも自分の思うようにしたい人もいて、自分の欲に忠実に行動すれば大嫌いを取り除くこともできるでしょう。これが近道に思えるし、後々の心の揺れ動きも抑えることができるかもしれないです。しかし、人の道に反する場合がほとんどになるかなって思います。
大嫌いを大好きに・・・
僕はトマトが嫌いでした。
でも、今となってはカプレーゼが好きだし、ハンバーガーにはトマトが入ってて欲しいと思うくらいにトマトを食べる様になっています。
これは味覚の成長なのかもしれないですねw
成長は大嫌いを克服できるものなのだと思います。
成長は嫌いの中に好きも見出せるかもしれないです。
人間関係のあれこれは成長で克服できる・・・そんな風に信じたいです。
7年も8年もこれに苦しんでる誰かさん、いい加減に成長しろと言いたいです。
と、誰かさんが思いつきでブログにしてみました。