@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

父親

2020年11月30日 | Life
少しだけ思うことがあって書いてみようって思いました。

まずは自分の父親のことを簡単に(そのうちしっかり書きます)。

父は真面目な人間だと思います。
浮気やギャンブルなんかは絶対にしませんでした。
絶対というのは語弊があり、浮気に関しては子供ごときがわからない部分ではあります。
ギャンブルに関しては有馬記念くらいは・・・とか、ほんの少し時間があったからパチンコをくらいはやってました。でものめり込むことはありませんでした。
友達がたくさんいるタイプではなかったけど、やたらと人から慕われたり、時にはものすごく重大な相談をされたり・・・と言っても親父にはその重大な物事を解決する力もなければ方法論も知らなかったのだけど。

でも、家族からはどんな風に思われてたか?

僕は遊んでもらった記憶がほとんどありません。
でも、兄貴達は野球場に連れて行ってもらった、キャッチボールをした、釣りを教えてもらった・・・

ま、僕の時にはすでに子供を相手にすることに飽きてただろうし、それよりも何もかもめんどくさくなってたんじゃないかなーって思います。

親父は酒飲みでした。

親父の欠点は多々あれど、どれもこれも普通に一緒に家族として生活する分には問題のないものでした。
でも、この酒飲みってのだけはだめでした。

いわゆる、アルコール依存症で酒に伴って体を壊すことが何度もあり、最終的には脳萎縮、低ナトリウム血症を患い車椅子や歩行器がないと歩けなくなり、極度の物忘れ症状からそのまま認知症になってしまいました。

そして、僕の介護生活が始まるわけです。


男にとって父親は・・・


なんてことをよく言いますが、そんなことはありません。女性にとっても同じ思いはあるだろうし、男ではあってもなんとも思わない人もいます。

いうならば人それぞれです。間違いありません。


でも、僕にとって父親はどうでもいい存在でありながら、少なからず影響を受けてるしなんと言っても自分の人生で大事な時期を捧げてしまっているので、自分の人生を語るにあたって欠かせない存在になっています。



小学校の時の友人の話です。

友人はスポーツ万能、勉強もできる、イケメン、おうちはお金持ち・・・となんでも揃ってる人でした。
僕は最初は近づくのが怖いかなーなんて思っていたのですが、その友人も含めた大勢で遊ぶことがありました。ピカピカのサッカーボールをその友人は持ってきていたのですが、河原の方でなんかがあったらしく、みんな行ってしまいました。

僕はちょっと鈍い方だったので河原に行って転んだりするのはやばいなーと思い、その場に留まると伝えました。そしたら友人がちょっと持っててくれと、そのサッカーボールを僕に預けました。
まー、「少し」鈍い僕だったので、サッカーボールを落としてしまいます。水溜りにw

ドロドロになったサッカーボールを拾い上げて、

「どうしよう、怒られる・・・」

と、ビビったわけです。
友人達は5分程度で戻ってきたのですが、僕にとってその5分は永遠に感じてしまいました。やばい、殺されると。

「あの・・・ボール落としちゃった。ごめんなさい。」

友人の顔を見れるわけもなく俯いたままで言ったと思います。

「かまね」

友人はニコッと笑ってそう答えました。

「かまね」とは、構わないよーって意味っすね。そんなのどうってことないよ、構わないよと。

そう、その友人はさらに性格も良く優しかったのです。つまりはもうなんでもありなんです。


その友人のお父さんがある日突然亡くなりました。
仕事中の事故だったそうです。でも、風の噂では自殺とも謎の死とも言われていました。状況やもっと大人になってから聞いた風の噂を総合すると、多分、自殺だったのでしょう。

当時、友人とは違うクラスでした。
トイレでたまたま会った時に、大変だったねーとかそういうことは言えなくて、よー!とだけ挨拶したのを覚えています。友人も手を軽くあげるだけで返してくれました。

友人のお母さんっていうのはとても印象的な人だったのですが、お父さんがどんな人かは知りません。ただ、亡くなる1年前の学校の授業でなんでもいいから詩を書きなさいっていうのがあって、そこで友人がお父さんのことを詩にしていたことがやたらと印象に残っています。


「お父さん
 僕のお父さんはかっこいい
 僕のお父さんは優しい
 僕のお父さんはなんでもできる
 僕のお父さんは御仁王様みたいだ」


もう少し上手だったようなw
印象的だったのは最後の仁王様みたいだってフレーズ。
当時、みんな読んでた漫画の中に出てきたセリフから引用していたはず。その漫画では強さの象徴として仁王様を出していたのだ。
漫画の主人公が「御仁王様」と御をつけているのが少し癖があってよく覚えている。

友人は自分の父親を強さの象徴と評したわけなんだけど、お父さんの死はそれとは裏腹なものだった。

友人のお父さんの話はタブーだと誰かが言ったわけでもなかったけど、友人の前で話すのはだめな事となって、そしてそのまま友人とは疎遠になってしまった。


友人にとってのお父さんはどんな人だったのだろう?
友人の人生にとってお父さんはどんな影響を与えたのだろう?


たまにその友人のことを思い出すとこの2つの疑問が浮かんでしまう。
もっと大人になってから、それこそお酒を飲みながら、真面目に話をしてみたかったなー。



あなたにとっての家族ってどんなものですか?
あなたにとっての両親は?母親は?父親は?


こんなことを聞かれた時に僕は素直に全てを話すことができません。
母親のことはともかくとして、父親のことを話すのはとても複雑なことです。

嫌いではないんです。
憎んでもいないです。

でも・・・


僕ももう少しで人生の折り返しの年齢に差し掛かります。
ここまで生きていると、色んな家庭環境で育った人たちに出会います。
とても苦しんでいたり、とても幸せだったり、普通だったり、様々です。

父親を早く亡くしてしまっても、悪い部分を知らずに済んだからよかったという人もいました。それでも長生きして欲しかったという人とも出会いました。


友人にとってのお父さんはどんな人で、今、父親になった友人はどんな風に子供達に接しているんだろう。


僕はこう思います。
家庭環境は全てではない、両親の影響が全てではないと。
でも、何かしら心に引っ掛かるものがあった時、それを引きずってしまった時にはどうすればいいのだろうかと。

なんとなくですが、自分が父親になり自分の子供に対して自分が父親にやって欲しかったこと、思って欲しかったことを実践することが1つの乗り越える方法なのかなと。

でも、僕の場合はそれは無理そうです。
なんせ、結婚できませんでしたからw子供いませんからw


心理学的にはどうなんだろう。
代償とか投影とか色々な言葉を使って説明できそうですが、もう、そういう知識もなくなってしまいました。

人間はいかに自然に生きるかがテーマだと最近は思います。

自然とはいわゆる機械文明を否定して自然界に!!!!というのではなく、無理をしないでなるようになる感じだったり、普通に勉強して、遊んで、恋愛して、仕事をして、結婚をして、子供を作って、子育てして・・・こういう生き方をすることで自然とトラウマや父親のこと、その他苦労してきたことを乗り越えられるんじゃないかなと感じるんです。

友人は僕が知る限りはそんな自然な生き方ができているはずです。

だからこそ、そんな友人と父親の話がしたいと思いました。

写真作家になる方法

2020年11月25日 | TwitLonger
気軽に読んで欲しいです。

何度かあちらこちらで書いてきた内容ではありますが、少し自分の気持ちとしても昔はこうだったっていうことも整理してみたいと思ってキーボードをパチパチしています。

僕が通っていた専門学校はいわゆるカメラマンを養成するための学校ではありませんでした。

全く技術的なことを学ばないってわけではないですが、基本的に学ぶ技術的なことはモノクロフィルムの現像とモノクロ写真のプリント。これを入学と同時にみっちりと仕込まれます。僕は夜間部だったのですが、最初の2ヶ月くらいの暗室実習はまだ生徒の数も多いこともあるのだけど(辞める人がまあまあいますので)、濃密な授業内容になってて東横線の終電ギリギリまで授業が行われました。本来ならば夕方6時から9時までのはずなので、なかなかですよね。

暗室実習で学べる現像技術は基本プラスアルファになります。

とにかくベーシックな暗室技術を早く獲得することで、より作品作りに時間をかけられるということと、よりファインプリントに近づける時間を作ることができるっていう考えがあったんだと、後々に気付きました。

他にもスタジオ実習みたいなのもあるのですが、こちらはゼミの方はスタジオでの作品作りやアプローチの他にライティング技術を学びます。実習の場合は物撮りの基本など作品作りというよりはスタジオ技術を学ぶ感じ。
ゼミは別ですが実習でスタジオを履修した学生のほとんどはこの授業を「息抜き」と呼んでいました。座学以外のゼミなどがかなりきつかったから、色々な機材を使えたり、グループであれこれやるのが楽しかったのであくまでも息抜き扱いで何かを学ぼうとはしてなかったです。先生には申し訳なかったけど。

つまりはカメラマン養成学校ではなく、写真家、写真作家養成学校だったんですね。

創設者のおっさんは写真家ではなく写真評論家でした。

「批評家精神を身につける」

これが学校のスローガンだったはずです。正確な言葉は忘れましたが。

そんな校風は講師たちがあれこれ言わなくてもしっかりと学生にも浸透しており、一部を除いてはあっという間にみんな一端の作家・評論家となり日常的に熱く写真論を闘わせたものです。鬱陶しいくらいに。

そんな学校なのでもちろん繰上和美さんのようにカメラマンという仕事をしっかりやりながら最上の作家として活躍するような超有名な卒業生もいるし、僕の最初の先生のように知る人ぞ知るような純粋な作家さんもいます。経歴では隠してるの忘れてるのか書いていませんが、篠山紀信も研究科に在籍していたそうです。

僕はデジタルカメラ(30万画素時代)が面白くて、また、父が仕事柄カメラを扱うことが多く、家にごろごろとカメラが転がっていたこともあり、写真自体は撮ってなかったけどカメラっていう機材が好きで入学した感じでした。
なので将来写真でどうするのか全く決まっておらず、入学の面接で将来は?と問われて困ったことを思い出したりもします。

そんなあやふやな理由で入学した僕ですが、先生の力強さ、先生の写真の奥深さと情緒的な心に刺さる表現、そしてなんといっても先生の授業の素晴らしさにどんどんのめり込んでいって、写真家・写真作家を志すようになりました。
プライベートではデジタルで遊んでもいましたが、モノクロのスナップ写真、自分の作品と胸を張っていえるファインプリントを目指し日々精進していました。

僕はまあまあ他の人より器用な部分があったのか、現像のタイムスケジュールを正確に再現し続ける変な能力があったのかはわかりませんが、現像についてはすぐに基本を身につけ、他の学生より頭一つ抜きん出るくらいにはなりました。フィルム現像が安定していると、撮影条件などが揃っていればプリントはぽんぽんできてしまうんです。もちろん、あくまでも基本のプリントであってファインプリントには程遠いものでしたが。
そんな風に器用だった僕は1年時のクラス実習で先生にやたらと褒められるようになりました。褒められ始めると、僕の写真が先生に批評される順番になると他の学生が集まってきます。人見知りで恥ずかしがり屋な僕にとってはなかなかにきつい時間でしたが、それが続くとちょっとした優越感に変わっていったように思います。
でも、そんなのはあっという間に終わります。ま、すぐに行き詰まるわけです。当時、好きだったクラスメイトのリカちゃんに(途中で学校辞めちゃうけどすげー才能に溢れる子だった)、

「あー、行き詰まってる〜。顔に出てるよー」

なんて言われながら、あれこれ考えてはドツボにハマり、また考えて実践しては抜け出したりを繰り返しました。

そんな学生生活を送り、1年の時はキヤノンのEOS5という一眼レフを使っていたのだけど2年になるとマミヤ7っていうフィルムが少し大きいカメラを使うようになります。

技術的なことをさっぱり学ばない良い例として、僕がやってたランドスケープの撮影方法はピント合わせは基本置きピンです。

置きピンというのはピントを常に一定にしていちいちヘリコイドを動かしてピント調整しません。ピントの位置は無限遠(∞)の一つ手前。無限遠っていうのはどこにもピントがあってるように見えるけどどこにもピントがあってないので、そのひとつ手前に持ってくるわけです。

露出もほぼ固定です。
基本的には絞りを優先して決定して、ブレないシャッタースピードで適性露出をみます。完全に固定してしまうと黒潰れ白飛びが起こるので、日が照っているアスファルトに向けてシャッターを半押しして露出を測るってことをしてましたね。露出計を最初は持ち歩きましたがそんなのは鬱陶しいだけだったのですぐに辞めました。
どうしてアスファルトか?となるのですが、写真の露出の基本は18%のグレーになります。これは話が長くなるので端折らせてもらいますが。

撮影時はこんな風にざっくりとした感じで撮るわけですが(大型カメラは変わってきます)、現像はそれぞれのスケジュールが出来上がってるとして、プリントにはものすごく時間をかけます。写真のベタ選び、プリント後の選択や組写真作りなんかにもかなり時間をかけます。もちろん、撮影にもかなり足を運ぶしフィルムもアホほど消費します。1年時は35ミリフィルムを3ヶ月で250本消費しました。後期はもっと使っています。2年時はフィルムがブローニーになりましたが500とか700とか使ってたはずです。
でも、こんなのまだまだ序の口で2年時のゼミの先生は年間ブローニーフィルムを少なくとも3000本以上消費すると言ってました。先生は3000本(ブローニーの場合は約3万カット)の中から10枚これだってのが出たら最高だなって言ってました。もうずいぶん前の話なので正確な数字は忘れましたが。

印画紙は最初はRCペーパーっていういわゆる写真的な物を使いますが、ファインプリントを目指すとバライタ紙というより紙っぽく光沢が少ないものを使うようになります。RCペーパーよりグレーの階調が豊かなのです。バライタ紙は扱いが難しい上に(乾燥も放置せずにプレス機が必要なので学校でしかちゃんとできなかった)、高価で、しかも現像するための薬品も高価になっていきます。フィルムはコダックのTri-Xかフジのネオパンっていうのを使っていたので、これはそんなに変化ないですが。

ま、ま、前置き部分が長くなってしまいましたが、こんな風に撮影、現像、プリント、選択(自分で)、批評・評価(ゼミなどで)というのを延々と繰り返して写真を学び、作っていったのが僕の写真学校生活でした。

それで、ではどうやって写真家になるのか?
ようやく本題です。

基本は先程の撮影から選択、批評に変わりはありません。ただ、独り立ちすると写真を自分で洗濯したのちに世の中に出してから批評されるという形になります。学生は写真を世に出すのはゼミ展(僕のゼミはなかった)や卒展でしか写真を世に出さないのですが、世に出す前提で先生からの批評を受けます。批評を受けてから写真を世に出すのでちょっとした安心感はあるようなのですが、あくまでもこれは前提の話であり、実際は卒展なんかでも先生を無視して自分で出しちゃったりもします(作風やテーマは変えませんが)。

写真家見習いみたいになったら、とにかく、撮影しまくり、写真プリントしまくりって感じで写真をどんどん作っていきます。ある程度作品となる写真が集まったら個展を開くのです。うまく世の中の目に止まれば何かしらの反応があります(批評してもらったり)、でも1度個展をやったからといってうまく行くわけではないです。

作品作りのルーティンを続けたら、今度は写真発表のルーティンを繰り返していきます。

年にできれば2、3度個展を開くということを繰り返していきます。何かしら賞レースみたいな公募があったらそれに出すのも悪くはありません。とにかく写真は写真を撮って写真を世に出すってことを繰り返すことでしか成り立たないのです。

そのうちお声がかかってお仕事をもらえるパターンもあるでしょう。
そのうちお声がかかって写真雑誌に掲載されるパターンもあるでしょう。
そのうちお声がかかって著名な写真家とグループ展をやるパターンもあるでしょう。
そのうちお声がかかって海外で個展をやることもあるでしょう。
そのうちお声がかかってパトロンが現れてお抱えのギャラリーができることもあるでしょう。
そのうちお声がかかって写真集を出版することもあるでしょう。


で、いつか何かしらの賞を受賞したら写真界で名を知られて自分が思うように作品作りして古典をして、写真集を出せるようになるかもしれない・・・

これが写真作家の生き方です。

学校を卒業した僕は学校の研究科に在籍しつつ(すぐに辞めます)、作家になる方法を模索し始めます。

とにかく個展を開こう!

これが第一目標です。

個展開くにはいくつか方法があるのですが、基本はこの2つになります。

・ギャラリーに作品を持ち込みオッケーだったら全て自費で個展を開く。
・メーカー系(ニコン、キヤノン、コダックあたり)ギャラリーに持ち込み審査をしっかり受けて、ギャラリー代金はメーカー持ちで個展を開く。

こだわりがある人はメーカー系ギャラリー(サロン)は度外視で自分で自分の本拠地となるギャラリーを探してそこで作品を発表し続けるってパターンもありますが、メーカー系ギャラリーで個展をやるってことは箔が付く意味もあるし、年度賞みたいな賞もあるし、写真雑誌に掲載されやすいってのもあるのでこちらを目指すのが近道かなーって思ったりもします。
ただし、メーカー系ギャラリーでってなると厳しい審査をパスしなくちゃならないので才能とセンスと実力がないと難しいでしょう。友人3人が卒業まもなくやりましたが、学校でも指折りの実力者ばかりです。1人は年度賞みたいなのをとって卒業から20年以上経過する今でも写真作家として生きています。

じゃ、写真展を開くには何が必要になってくるのだろう。

1つは作品、1つはやる気、1つはお金でしょう。

作品作りは日常的にやっているので問題なしです。個展をやろうとしてるのだから作品の内容はしっかりした物でしょう。
やる気も問題ないはずです。モチベーションを保つことは難しいですが、写真作家を目指した以上やる気がなければ始まりません。

問題になるのはお金です。はい。

前提として、この文章は基本としてモノクロ写真での作品作りで書いています。

まず、モノクロ写真で個展をやる場合は最低でも30万円、カラー写真で個展をやる場合は最低でも50万円と言われていました。

ギャラリー代は1週間の開催が基本となり、12万円〜20万円とか(当然、ギャラリーの立地や格式によって異なります)。その他がフレームのレンタル料金や、写真のプリント代金などになります。

カラーが高いのはプリントが基本外注だからです。
僕の友人なんかはカラープリントも自分でやっていましたが、モノクロの薬品と違い有毒なんですカラーの薬品は。だからプリントもでっかいバットを並べてやれば良いってわけじゃなく、密閉式の自動現像機なんかを使います。小さいサイズ(4つ切り程度かな)なら40万くらいで手に入るのでなんとかなるのですが、大きいサイズになると70万とかする上に大全紙などの個展で使いたいサイズに対応してないんです。対応しているものもあるでしょうが輸入品などになったり、もっと原始的なシステムになったり扱いが難しすぎたりするわけです。その上、薬品の始末は業者を依頼しなくちゃならなかったり、引き伸ばし機のヘッドがやたらと高かったり、とにかくハードルが高いのです。
なのでカラーは外注します。だからお金がかかります。外注するにしても良いプリンターに巡り合ったらラッキーですし、長年同じ人、同じラボにやってもらって自分の作品の色を出してもらわなければならないです。それまでは一発でオッケーとなるのは難しいので何度か焼いてもらうことをするはずです(やったことがない)。なのでますますお金がかかります。

モノクロの話に戻りますが、あくまでも基本は30万円からです。
とてもじゃないけど30万では収まりません。写真が仕上がっていれば、ギャラリー代の他にフレーム代、マット代にマット加工代、搬入代(レンタカーなど)がかかります。フレームレンタルをしてるところにはマットの加工までしてさらに搬入までやってくれるところがありますがもちろん有料です。これら全てで30万で収まれば良い方でしょう。

でも、忘れてならないのがあります。作品作り代です。

カメラやレンズなどの機材の代金は置いといて、フィルム代と印画紙代、薬品代がかかってきます。

薬品代は些細なものなので置いといて、フィルムは年間僕のスタイルなら800から1000本消費したと思います(思いますって表現なのは後述します)。フィルムを現像したらコンタクトプリント(ベタ焼き)をそれぞれ一本に対して1枚作ります。なので印画紙が800枚〜1000枚必要になります。作品作りはいちいちRCペーパーに焼くことはありません。バライタ紙で焼いて調子を見ていきます。
個展に出すとなれば、選択した写真(ギャラリーの規模や作風にもよるけど30枚〜50枚くらいがよくある展示。ファインプリントをとことん目指した作風の場合は20枚以下の場合も)を個展に合わせたサイズで焼いていきます。もちろんここまできたら妥協はできないです。卒展の時は出展作品を一度焼いた後に全部焼き直しなんてこともありました。僕はプリントが得意だったので(ファインプリントには少し遠かったけど)、2、3度の焼き直しや調子見でしたが人によっては1枚の写真を何枚も焼いてベターを模索したりもするので、すっごい大変です。

個展のための写真は1年、2年かけて撮り溜めるのはザラな話なので(そうなると年に2度個展するのはどうすればいいのか問題などもありますがw)、作品作りに何十万消費するかわかったもんじゃないのです。フィルムも印画紙も湯水の如く使うので価格や年間いくら使っていたかなんて忘れてしまいましたw

ま、少なくとも50万円くらいはかかると思った方がいいですかね、モノクロの個展1度あたり。モノクロの場合も外注に出すこともあるので、作風によって全然違ってきますし。うちの先生なんてフレームに入れずに展示してたし。でも100枚とか展示したりもしてたのでその分お金もかかってくるでしょう。

僕は学校を卒業後すぐにバイトをはじめました。
中目黒にある道路建設設計会社でもバイトです(交通費なし時給1000円)。バイトの面接ってほとんど落ちたことがなかったのですが、その時は学芸大学にあった文房具屋さんのバイトを落ちてました。この文房具屋さん特殊で写真加工などの仕事もあったんです。バイト1つ落ちて落ち込んでるところに友人から電話があり、自分が辞めるからその代わりにやらないかと勧められたのがその中目黒の会社でした(後日談として、バイトが決まった翌日に落ちた文房具店から電話があり時間帯の問題で断ったけど人柄がとてもよかったのでうちてやってほしいと言われました)。

その他にも在学中からはじめたカメラマンのアシスタントのバイトが不定期であって、中目黒の会社が休みなどのかなり融通が効いたので、その2つで続けました。夜は学校の研究科にも3ヶ月ほど通っていました。

中目黒の会社はかなり気楽だったし、カメラマンのアシスタントも良いおじさんだったので楽しかったし勉強にもなりました。でも忙しくなってしまって作品作りが疎かになりつつあって、写真を撮れない日々が続いたのがかなり焦りました。

親からの仕送りは止めてもらうつもりだったのだけど、それでもまだ少し足りなくて情けないことにその時点でもまだ続いていました。


で、そんな頃に学校でクーデーターが起きますw

ちょっと内容は忘れてしまったのですが、派閥争い権力争いみたいなのを学生を巻き込んで盛大におっ始めたのです。僕も陰ながら巻き込まれてしまいましたw

僕がやってたのは当事者の先生(後に校長になる)に、2ちゃんねると先生が立ち上げた意見をぶつけ合う掲示板の荒らし対策のアドバイスをするっていうもの。なので表にこそ出ませんでしたが色々と内情を知ってしまいました。バイトでアシをしてたカメラマンさんもこの先生の同級だったのでその人からも話を聞いたりしてね。

で、学校に嫌気がさしました。
先生たちがやってること、裏事情、その他もろもろ。僕の恩師1人はすでに他界していて、もう1人はそういうのは我関せずだったのが救いでした。自分も作家を目指す以上、将来的にはこの学校で講師もしたいとか思ってたので、余計にがっかりしたというか。

ちなみに2ちゃんねるの方は学校とは関係な友人に依頼して散々に荒らして論争とかどうでも良い状態に持ち込みました。


そこで僕は色々考えはじめました。

自分が作家になるためには。

それはこれまで述べてきた作品作りのスタンスと、個展をするためのあれこれになります。


とにかくお金が足りませんでした。早い話が。

当時、バイトと学校で作品作りの時間がとれないと感じてもいたのですが、それ以上にお金がありませんでした。親の支援は偉大だなーって痛感しました。それでも親の仕送りはそんなに多くなかったのですけどね。やりくりを覚えたのはその頃だったわけだし。節約上手ですよ。

でも、お金がない。

フィルム代、印画紙代金ですら捻出が難しくなっていました。
その上、個展なんて遠い話です。現実的ではなく、遠い夢物語に感じるようになりました。

自分の生活費にプラスして個展代金を年間100万、どうやって捻出すればいいんだろう・・・


僕は手に職はありませんでした。
パソコンのスキルは当時としてはなかなかだったとは思いますがそれを役立たせる仕事がわかりませんでした(今は下の上くらいのスキルしかないです)。

じゃ、バイトを増やすかもっと条件の良いバイトを探すか。

それでもたかが知れてるし、バイトを増やしたらまた撮影の時間が減る。


うーん、どうしたものか。


そうこうしているうちに体調を崩してしまいました。
そこで2ヶ月ほど実家に戻ります。実家で療養して、また横浜に戻りましたが実家でぼーっとしているうちに色んな本やネットを見て自分の身の振り方を考えるんです。

正直、お金がないっていう圧倒的な現実問題があったのですが、それ以上に作品を作るスタンスにも疑問を感じました。そうです、僕には真になる理論などがなかったんです。そこで当時、友人が自殺未遂を仄めかす書き込みをしていたり、精神や心理に関わるあらゆる疑問や問題が立ちはだかりました。
そして、僕が好きな写真集「東京日和」みたいなものをいつかやりたいという思いも強くなり、人の心をもっと知ろうってことで心理学を学ぶことを決めたのです。

そして、その過程の中で実家でトラブルが起こり、横浜の家を引き払い実家に戻り今に至ります。17年経過しました。


お金の問題はとても大きかったです。どうにもならないし、借金して失敗したらという怖さもありました。僕が写真を撮っていたのはたかだか4、5年です。実家に戻ってからは全く撮れなくなりました。これが僕の写真人生です。大したことありません。

でも、写真を学ぶ・作る中で学んだことはとてつもなく大きいです。
出会った先生の偉大さ、懐の深さ、優しさ、情熱、どれも僕の人生において宝物となりましたし、考え方の基準となりました。作品を作るということに向き合う楽しさ、辛さ、これらはどれをとってもかけがえのない経験となりました。僕の人生から写真は欠かせなくなりました、撮影をしなくなった今でも。

お金、確かに大きな問題です。
でも、そんなお金に負けた自分が悔しかったです。今でも個展を1度はしたいっていう希望はあります。でも、銀塩からデジタルに完全に移行してしまった今、どんなふうにアプローチして行けばいいかわからなかったりもします。

それとずっとランドスケープ(スナップ的に)を撮ってきた僕ですが、やはり撮りたいのは人間です。人間を撮ることはとても難しいですアプローチもだし実践するのも。
先程出した東京日和の他にデジタルキッチンという少しマイナーなシリーズがあります。東京日和は天才アラーキーの作品、デジタルキッチンは習ったことはない学校の先生の作品。どちらもパートナーとの日常を撮ったものです。東京日和はさらに奥さんとのコラボになります。そう、撮りたくても僕にはパートナーがいないし、現状ではパートナーができる要素もないのです。無理!とまで断言したくはないですが、かなり難しいですね。やむを得ません。

個展をやることはやはり憧れです。夢です。
これを失うことは希望を失うことに等しいです。僕にとっては。でも、僕はもう写真をやることは難しいでしょう。

お金のことなど色々書いてきましたが、写真家になる方法、これは単に写真を撮り続けることです。

僕にはこれすら難しかったということになります。


母が生前に僕に言った言葉を思い出します。

「あなたがね家に戻ってきてくれて手伝ってくれるのはとても嬉しいの。でもね、写真学校の時にいつもキラキラした良い顔してたんだ。今はそれがなくて・・・ごめんね」

いや、僕には写真学校の2年間があったから生きてられるんです、写真を好きになったから生きようって思うんです。