@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

母の病気

2021年01月19日 | Life

朝起きてすぐの僕のルーティンにはだいたい17分かかる。

 
夜にセットしておいたコーヒーメーカーのスイッチを入れて、仏壇と犬の遺骨・遺影に備えるお茶の用意をして、親父の1日分の麦茶を入れて…
 
昨年あった我が家の危機からこれを続けてる。それ以前はもうちょっと楽してたし、適当であった。
 
「お母さんおはよう、レオおはよう」
 
気が付けば声を出して挨拶している。
 
 
母が亡くなって今度の4月で丸5年になる。
 
長くて短くて、我ながらおかしな日々を送ってるなーと感じる。人生の早送りって自分では言ってるけど、とにかく早く次の日に、早く翌週に、早く翌月に、早く、早く…そんな風に毎日送っているのだ。
昨年愛犬のレオを亡くしてからそれはさらに加速してる。あっという間に月日がたって欲しい、あっという間に歳を取りたい、あっという間に…
 
これ以上言うと母に泣かれるかな。
 
 
両親の相次ぐトラブルと体調不良で実家に戻ってから10年以上が過ぎた年明け間もない日に、母に、
 
「相談があるんだけど…」
 
自分にしては珍しくそんな風に回りくどく話を持ち出した。
父の介護というよりは、父の介護をしている母の手伝いを10年以上続け、その間無職だった僕は、色々と立ち行かなくなっていた。それでもフルタイムで働く事も、アルバイトを定期的にするのも難しい状態だったので、家でやっていた小遣い稼ぎを強化したいのと、滞っていた年金の支払いとかどうしていくかの相談だった。
母にだいたいの事を伝えると逆に母が話し始めた。
 
「実はね、お母さん、大きな病気かもしれないの。左胸のここの所に大きなしこりがあるのよ。」
 
 
あきらかな乳癌でした。
 
すぐにかかりつけの病院に行き、総合病院の紹介状を作ってもらった。
近くの総合病院ではできない検査(PET CT)が必要とのことで、少し離れた病院で検査予約をした。
 
でも、検査日は2週間以上後。
その間に病状が悪化しないのか不安でしかたがなかった。
 
検査が終わりさらに1週間後に近くの総合病院で診察。イライラというか焦りというか、とにかく平静ではいられなかった。母を不安にさせてはいけないからと、普段ののんびりな雰囲気を出してはいたけど。
 
検査の結果はステージ4の乳癌。リンパに多数と、腰椎、頭蓋骨に転移していた。さらには右胸にも乳癌があった(これは後に転移ではなく、別の癌であることがわかった)。原発の左胸の癌はかなり大きくなっていて、皮膚が赤く炎症を起こしている所まで確認できて、医者の話では後1、2ミリで皮膚を突き破るとの話だった。
 
母はC型肝炎持ちで、これから治療を進めていく中で肝炎が暴れたら治療をストップして肝炎の治療をしなければならない。肝炎が暴れなければ治療は続行できるが、いかんせん癌が大き過ぎるので、手術までもっていけるかどうか微妙なラインであると。
話の感じでは綱渡りみたいな状態で治療を進めていく、そんな感じだった。
 
方針としては、乳癌治療ならガイドラインに従って、抗癌剤を効き具合を見ながら3種(だったはず)使っていき、癌が手術できるまで小さくなったら手術。手術の後は放射線治療やホルモン剤などを使っていく…
 
 
しかし、治療開始までさらに2週間以上待つ事に。
 
 
もうさっさと癌をとっちゃってよ!
 
 
最初の検査から思っていた事である。
さっさと取ってしまわないとどんどん悪さをする。体のあちこちに癌が広がっていく。理屈じゃない、理論じゃない、体に悪魔を入れたままでどうするんだ!!
 
駄々っ子のようにしか考えが及ばなかった。冷静でいられるわけがない。
でも、普段通りに朝寝坊をし、あれ食べたいこれ食べたいとご飯ではわがままを言い、テレビを見ては笑って過ごした。
 
晩ご飯を食べ終えると自室に行くのがいつも通りだったのでそれも続けた。
 
でも、寝ようとしてベッドに入ると母がいなくなってしまう…という事で頭がいっぱいになりどうにもならなくなった。
 
リリーフランキーさんの「東京タワー」の中の一節にもあったと思うけど、子どもの頃にお母さんが死んでしまうっていう事実に悲しくなり泣いてしまうけど、大人になれば割り切れる・・・そんなことはない。大人になっても変わらない子供の時のまんまだってやつ、本当にそのまんまだった。
 
 
結末を言うと母は1年と少しの闘病の末に亡くなる。
 
 
僕は母が死んだ時も、母がら火葬された時も泣かなかった。闘病の手伝いをやり切ったというのもあるけど、最初の検査から治療が始まるまでの間、夜な夜な眠れずに泣いてばかりだったからかなーって思う。泣いて、泣いて、泣きまくってなんとか覚悟を決めたんだと思う。
 
母がいよいよダメってなった時におばさん(母の姉)に報告に行き、
 
「お母さんが死んじゃうと、話し相手がいなくなってしまう」
 
と、自分で言った言葉に涙が出てきたけど、この闘病開始の時期に思っていたのはまさにその事だったのかもしれない。
実家に戻ってからやりたい事も出来ずに腐っていた時や、失恋した時(失恋したーとは言わなかったけど)、ネットで大好きな人を見つけた時、常に話し相手になってたのは母だった。母のことを考えずに自分勝手な理由だけど、親父の介護っていう自由の効かない生活の中で、なんでも話ができた母親っていう存在はとても大きかったのだと今になって思い知らされているし。
 
マザコンとかそういうのではなく、ある程度年齢がいってから、カッコつけたりせずになんでも話ができるようになっていた。これも自分の成長(加齢?)のひとつだと思っている。
 
 
家と地元が嫌いでなんとか家を出ようとばかり考えていた自分にとって、こんな風に母と縁が強くなるとは思ってもいなかった。
 
その母がいなくなる…
 
 
これはとても大きな事だった。
もちろん、父や子供のことばかりでろくすっぽ旅行も好きな事も出来ないまま死んでいく母がかわいそうでしょうがなかったし、これから何をしてあげられるのか、そんな時間はあるのか、なかったらどうしよう…そんな事ばかり考えては泣いていた。
 
 
話は闘病開始にもどって・・・
 
母は幸いにも抗癌剤の副作用が強く出るタイプではなかった。
抗癌剤を入れた日はだるくなってこさ起き上がれな感じだったけど、翌日には少しだるいくらいで日常生活にも支障がないくらいだった。
でも、髪の毛はどんどん抜け落ちていった。美容室で整えてもらい、帽子を買い、近所の人や友人に内緒にしたままではいられないなーと、
 
「乳癌になっちゃったのー。でもね、とっても良い先生に診てもらってるから、少しずつよくなってるんだー」
 
母はそんな風に話をしていた。
 
事実、抗癌剤は効果を見せて癌はどんどん小さくなっていった。
それでも余命宣告こそされていなかったけど、何ヶ月もつのかっていう状態だったわけで、手術までたどり着けても完治には程遠かった。
 
母は犬と一緒にリビングの小上がりの和室で寝ていたのだが、ある日、もう寝てるかなーと思いつつ飲み物を取りにリビングに行ったら、ソファに座ってぼーっとテレビを見てる母の姿があって、その姿がやたらさびしそうに見えて、自分は母がこんな状態なのに何やってんのかなー自分の時間なんてどうでもいいじゃないか…と、後悔と反省をし、それからは母が寝るまでリビングで一緒にいる事にした。
 
母とは特に話をする事もなかったけど、あーだこーだとずーっとテレビを見ながら話しかけていた。
こういう時、ペットがいるのはとても良く、レオは母の近くにいてくれた。
 
ネットも見れない、アニメも見れない、ゲームもできない日々だったけど、この時間がなかったらもっと後悔してたかもしれないなーって思う。
 
話が前後してしまって申し訳ないです。
 
 
母はなんとか手術まで辿り着くことができた。
体に大きな傷が残ってしまったけど、体に巣食う悪魔の親玉を排除できたという安心感はこの上なかった。
 
 
「なんか頭がブヨブヨする感じがする。この辺りを触ってみて」
 
 
手術が終わり退院したのが11月の頭。年明けには放射線治療が始まるっていう、12月の末頃の話。
母が寝る前に自分の頭を触りながら僕に言った言葉がこれ。言われるがままに触ってみる。
 
 
「うーん・・・別に普通じゃないかな?」
 
 
母の頭のある部分がほんの少しブヨブヨするように感じた。でも、ほんの少しだったし気にするようなことじゃないよなーって思った。これが間違いだとわかるのはもう少し先の話。
 
 
その年が開けてすぐに僕が大好きな人がボーカルをやっているバンドのライブが武道館であった。
 
でも、そのライブの翌々日には最初の放射線治療の日になる。体調を整えるためにも母に無理をさせるわけにはいかなかったので、武道館に遊びに行くのは諦めるとずっと言っていた。
 
 
「次はいつ行けるかわからないでしょ。大好きなYさんの晴れ舞台、しっかり見て来なさい。」
 
 
母の言葉に甘えて武道館に遊びに行くことに。
日帰りではあったけど久しぶりに友人とその娘さんに会うことができたし、とてもとても素晴らしいライブで心が晴れやかになったのを覚えてます。家では明るく努めていたけど、やはりどこか無理はあるし、夜になれば初期の頃ほどではなかったけど、母がいなくなるっていう思いに囚われてしまいどうにもならなくなっていたし、こういうほんの少しでも現実から離れることができる時間が作れたのはよかったと思う。
 
「次はいつ行けるかわからないでしょ」
 
なんとなく、色々な思いがあったんだろうなー、このフレーズには。
 
 
放射線治療は過酷だった。母にとっても僕にとっても。
放射線治療には多分の矛盾が含んでいるとも感じたけど、それは別の話なので置いといて、とにかく、土日以外毎日やらなければならないという治療だった。
 
放射線を1度当てたら癌が少し減る・・・

そういうものではなくて、放射線を当てた総量によって癌に効果が出るということらしい。
なので、毎日少しずつ放射線を当て続けることが重要で、母は1月8日から2月の第1週が終わるくらいまで通ったと思う。
 
時期的に雪が積もる日もあったし、毎日、毎日、朝一番で用意をして留守番することになる父が不自由なく過ごせるように準備したり、天候に合わせて準備をする時間を早めたり・・・まー、大変ってイメージしかなかった。
 
 
「こんなのが続いたらかえって具合悪くなるね〜」
 
 
まさにその通り。僕はなんだかんだで少し昼寝したりすればなんとかなったけど、病気を抱えている上に治療を受ける母にとっては命を削ってるんじゃないかっていう日々だった。
 
 
・・・ここから先はお世話になった先生に対する不満や愚痴、治療してもらった病院に対する不満ばかりになってしまうので多くをはしょります。
 
 
 
放射線治療の途中から腰の痛みを訴えていた母は、放射線治療が終わってしばらくたったところで整形外科で見てもらうことになった。
 
 
「ここに転移してますね。これが痛みの原因でしょう」
 
 
MRIの画像には僕でもわかるほどの影が写っていた。
母はため息を一つついただけで、わかりましたと覚悟を決めたような雰囲気があった。
 
翌日の夕方に主治医の診察があった。
 
 
「あのね、ドラマのワンシーンみたいだったよー。本当にこういうことが現実にあるんだなって」
 
 
これは僕がアシスタントのバイトをしていたカメラマンさんの言葉。
カメラマンさんは奥さんを癌で亡くしていたんだ。癌を告知された時、余命を言い渡された時、本当にドラマみたいなんだ〜。現実的に感じられなかったし・・・僕はその言葉はよくわからなかった。たくさんイメージしてみたけど、当人でなければわからないことかなって感じた。というのも病気で大切な人を亡くすということはどれだけの悲しみなのかっていうことを理解するのは難しいって感じたからだ。
 
通常の診察が終わり、受付、売店、検査棟などの電気が消されて、診察室の扉は閉められて、わずかな灯りだけの薄暗い廊下のベンチで呼ばれるの待つ時間・・・少し離れたベンチには4、5人の家族。ほんの少し深刻な雰囲気があり、車椅子でおばあちゃんが来ると深刻な雰囲気から一点笑顔に変わって。
 
「じゃ、おばあちゃん、今日からまた入院だねー。大変だけど頑張ろうね!」
 
お嫁さんらしき人の言葉。その家族は病室へと上がっていった。
 
「あ、そういうことか・・・」
 
僕は何かを察するわけです。次は僕とお母さんが呼ばれる番だな。
 
 
 
しっかりと病状や今後の方針を把握しなければならないのが付き添いできてる僕の役目。でも、頭に入らなかった。何言ってんだこの医者は。抗癌剤は癌を小さくしたんだろ、手術はうまくいったんだろ、放射線だってやり遂げたのに。なんでこんな風になってるの?おかしいよね?
 
 
「先生、私、頑張ります。お父さんの面倒みなくちゃならないんです。お父さんより先に私が死ぬわけには行かないから、頑張ります。よろしくお願いします」
 
 
医者との話が終わった後に母が医者に言ったこの言葉だけ、はっきりと今でも覚えてる。一生忘れないだろう。
医療ドラマが大好きだった母は常々、
 
「私が病気になったらあんまり頑張って治療はしない。痛かったり苦しかったりしないようにだけして。」
 
こんな風に言ってた。でも、今はそんな母が頑張りますって言ってる。最後の最後まで頑張る、そんな決意を忘れるわけがないのだ。
 
 
病院からの帰り道、僕が大好きなハンバーグレストランを通り過ぎて少したったところで、
 
 
「戻ってご飯食べていこう」
 
 
そう言ってレストランに行った。
レストランに入る前に翌日からの入院に備えてレストランの隣にある靴屋さんでサンダルを買った。レストランに入り、僕はいつものメニューを注文。残すどころかいつもなら母の分も食べるくらいだったのに、全然食べられなかった。
 
家に帰り入院の準備をする。書類を書いて、荷物をまとめて。
 
 
「お風呂に入れてくれるかな?」

 
母の腰痛は車椅子じゃないと歩けないし、ベッドに横になるにも手伝ってあげないとできないくらいまで悪化してた。
なので僕が介助をしてお風呂に入れなければならない。抗癌剤の影響からようやく解放されてなんとか帽子がいらないかな〜くらいまで生えてきた髪の毛は真っ白になっていた。70歳になっていたので3割くらいは白髪だったけど、抜け落ちた後に生えてきた髪の毛は白髪だけだった。そんな白髪の髪の毛をシャンプーしてあげている時にようやく気がついた。
 
母の頭は赤く炎症を起こしていたのだ。
 
 
「お母さん、あまり驚かないで聞いてね。頭のこの部分があかーくなってるんだ。明日、先生の診察の時にちゃんと伝えてね。多分大丈夫だと思うけど体の変化は報告しないとさ。ね。」
 
 
母は最初の検査で頭蓋骨への転移があると言われていた。さほど大きくないのでまずは原発の乳癌とリンパへの転移をなんとかしなければ・・・そんな話だったと思う。でも、病魔はどんどん大きくなってたんだね。年末に頭がブヨブヨするってのを軽く捉えてしまったことを激しく後悔した。
 
 
翌日、母は入院した。
 
 
母は入院してからは笑顔だった。
 
 
「ねーちゃん(僕のおばさん)と○○ちゃん(僕の従兄弟)にはさっさと報告しないとねー。あと、携帯電話を忘れちゃったから持ってきて。友達には自分で言うから」
 
 
腰の痛みがひどいとのことで、モルヒネを処方するようになった。
それから母は日に日にぼんやりするようになって、やがてご飯を食べてる最中に眠ってしまうようになった。母のお見舞いは毎日続けて可能な限り近くにいた。母の病室にいながら病院から電話がかかってくることもあった。母に気づかれないようにごまかすのが大変だった。新たな放射線治療も開始したがすぐに中断。
 
 
「脳の髄液の中に癌細胞が浮遊しているような感じかなー。」
 
 
医者の説明は全てが呪詛にしか感じなかった。
 
 
「お前がそう言うから母の病状が悪化するんだ、大丈夫だと言え!目が覚めると言え!治ると言え!」
 
 
物事の順序が逆なのもわかりつつ、僕は頭の中でそんなことを言っていた。
母は入院から1週間もたたないくらいで意識を失った。意識がなくなってから2週間後に最後の決断を迫られた。
 
 
「ちょっと無茶な治療法もあります。でも効果が出るかどうかはわからないです・・・どうしますか?」
 
 
「母を・・・母にこれ以上苦しんで欲しくないです。」
 
 
なんで僕が最後の答えを言わなくちゃならないのか。
優柔不断だし、家族の中では一番年下だし・・・でも、僕しか決断する人はいなかった。
 
 
母はそれから2週間と少しくらいの後に意識のないまま息を引き取った。
 
 
「私ね、思うんだ。今は冬でしょ?これから春になって夏になる。暖かくなっていくんだよ。これがさ逆だったら嫌だなーって。どんどん寒くなってきて、外は暗くなるのが早くなっていく・・・冬に向かう時期に治療が始まるんじゃなくてさ、春に向かう季節から治療が始まる。それなら気持ちも楽じゃない、治療頑張れるじゃない?」
 
 
 
母が亡くなる前日、母の病院の近くの桜が満開だった。
 
 
 
 
自分にとっての母親ってはなんだろう?

ずーっと考えている。
でも答えは見つからない。彼女もいない、結婚もできない自分にとっては最愛の人?
そんな感じもするけど、ちと違う。
 
僕は三人兄弟の末っ子。
僕を妊娠した時に、母は出産は命懸けになるかもしれないと医者に言われていたそうだ。
 
「もう2人もいるんだし、いいんじゃない?」
 
そんな風にも言われたらしい。
でも、産むという選択をしてくれた。
 
 
僕は上の2人と違い出来損ないだった。
運動もできない、勉強もできない、学校ではいじめられるし、登校拒否の傾向にあったし。
そのくせ真面目に勉強もしない、努力もしない。
 
でも最後まで母だけが僕のことを期待しててくれた。
 
 
「ずーっと大変だったけど、あなたがね、横浜で専門学校に行ってる時、ずーっとキラキラしてたの。それを奪ってしまってごめんね。でもあなたは大丈夫だからね」
 
 
世の中でこんな風に声をかけてくれたのは母だけだった。
 
多分、僕は話し相手を失ったのではなく、唯一の理解者を失ったのだろう。
 
 
今でも情けないことに母がいない現実が辛くてしょうがない。
弱音しか吐かないし、前向きになれない。。。でも、いつか母が期待してた自分になれるように頑張らなくちゃならない、そんな風に思う。
 
 
1年間闘病に付き添ったからやれることはやったと思う。

でも、あとほんの少しでいいから生きてて欲しかったなー。無事に自分の人生を歩けるところを見せたかった。
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好きの中の嫌い。

2021年01月10日 | Life
心理学のことはもう頭からほとんど抜けちゃったのだけど・・・

臨床心理学の講義を受けた時に印象的だったのは、


「人間とはアンビバレンスなもの」


って言葉。
アンビバレンスはどういう意味かというと、ま、wikipediaで調べてもらうと良いと思います。

対象に対して相反する感情を持つことって意味。
wikiでも例に使われてるので一番わかりやすい例えでいうと、「愛憎」。愛してると憎いという真逆のベクトルにある感情を同時に抱いてしまうことですね。愛憎劇なんて言葉があるくらいなんだけど、好きが強くなり過ぎると憎くもなるもんなんでしょう、きっとw

最近は普及や一般化によって有様が変わってきていると思うけど、ファンとアンチと無関心なんかがいい例かもしれないですね。

とあるアイドルのファンがアイドルの恋愛発覚や不用意な言動などでアンチになる。

アンチはなんか知らないけど、そのアイドルが嫌いなはずなのに気になってしょうがない。気になってしょうがないから情報を仕入れてはツッコミどころを探してアンチ活動をする。そんなアンチ活動の結果、アイドルが泣いてるところを見て喜ぶ・・・ま、単に泣いてるところを見て喜ぶだけではなく、もっと複雑なものがあると思うけど、捻くれてるよね、拗らせてるよね、キチガイじみてますよね・・・


愛は表面に、憎は深層心理にしまい混んでしまっているうちはまだ良いのだろうけど何かの切欠で憎が表面に出たり、深層心理の中で強くなってしまうと人間はどんどん悪い方に行ってしまうのかもしれませんね。バランスってのが大事ですよ。愛憎の。無関心が一番のほにゃららって言われるのは、好きと嫌いはとても近いところにあって、興味という点においては同レベルにあると考えられるからで、それに対して無関心ってのは、知らない、知ろうとしない、知ってもどうでもいい・・・好きでも嫌いでもなんでもない興味すらないってことです。
だから無関心が一番怖いとか言う人が出てくるのですが、僕の考えでは闇堕ちしたファンは人間ではなくなってるので(漫画・アニメ的に言うとw)、こいつらの方が絶対に怖いし、相手にしない方がいいと思われますよ。


これはあくまでも対象に対する自己の中の相反するものの存在の話で、ある意味においては自分でコントロールできるもの(コントロールが難しいから問題なのだけど)。


ハンバーガーは大好き、でもピクルスは大嫌い!

こんな人はいませんか?
これは自分の大好きなものに大嫌いが混在している状態です。
ハンバーガーの場合は比較的簡単です。ピクルスを取り除けば良いのだから。


筑前煮が大好きなんだけど、椎茸が大嫌い。干し椎茸に至っては死ぬほど嫌い!!!

これ状態の方もいらっしゃいますよね?
これは少し難しい。煮物ですから。それでも椎茸を取り除けばなんとかなります。
ただし、干し椎茸の戻し汁を使って作る筑前煮は絶品なので、椎茸を取り除いただけではあなたの大嫌いな椎茸の濃ゆい部分が残ってしまいます。



食べ物の好き嫌いは簡単な話ではあります。


これが人間関係だったらどうでしょうか?


とても難しいことになるんじゃないでしょうか。


大好きな相手の中に大嫌いがいる。
大好きな相手の周囲に大嫌いがいる。


こんな感じになります。
前者は人それぞれの決断になるでしょうね。人の全てを好きになることはできない、人には必ず嫌いな部分があると割り切ることも1つですが、大嫌いを好きになるのも1つです。大嫌いをどうにも処理できずに離れるのも1つ。なんとなくですが自分の選択1つのような気がします。人間的な成長と結びつくことでもあるでしょう。

後者は少し難しく僕には感じます。
基本的には前者と同じで、自己の成長と共に大嫌いが気にならなくなるかもしれないし、許容の範囲のなかに収まる様になるかもしれないです。でも、

OGPイメージ

絶対手に入れたいものが〜 - @PAYASO

日々寒いです。年々寒さに弱くなっていくのは間違いないのですが、その質も変わっているようでただただ寒さに弱いのではなく、腰のあたりが寒いとか、...

絶対手に入れたいものが〜 - @PAYASO

 


先日書いたブログになりますが、この中の知り合い(男)さんのようになんとしてでも自分の思うようにしたい人もいて、自分の欲に忠実に行動すれば大嫌いを取り除くこともできるでしょう。これが近道に思えるし、後々の心の揺れ動きも抑えることができるかもしれないです。しかし、人の道に反する場合がほとんどになるかなって思います。

大嫌いを大好きに・・・

僕はトマトが嫌いでした。
でも、今となってはカプレーゼが好きだし、ハンバーガーにはトマトが入ってて欲しいと思うくらいにトマトを食べる様になっています。

これは味覚の成長なのかもしれないですねw
成長は大嫌いを克服できるものなのだと思います。
成長は嫌いの中に好きも見出せるかもしれないです。

人間関係のあれこれは成長で克服できる・・・そんな風に信じたいです。


7年も8年もこれに苦しんでる誰かさん、いい加減に成長しろと言いたいです。



と、誰かさんが思いつきでブログにしてみました。
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意地でも維持したいけど維持できないかも

2021年01月09日 | Life
すごい寒いです。
眠る時に毛布を追加しました。ほんの少しゆっくり眠れた感じがします。
でも、時間を見るといつもと同じでした。がっかり。


昨年、我が家は未曾有の危機に見舞われました。

母の病気が発覚して亡くなるまでの1年と3ヶ月に比べたら僕の精神的な負担は大したことなかったのですが、母の時と違って同居している父と兄にまで被害が及んだってって点では最大級だったかもしれません。家族の恥を晒す様ですが、母が病気の時に右往左往してたのは僕だけだったんですね。父も兄も平然としてました。亡くなっても。

昨年の危機っていうのは、兄の病気に続き、父の病気。愛犬の死・・・と続きました。

この件は散々ここで書いてきたので省きますが、この一連の危機のついでに僕の愛車が崩壊しました。


壊れたのじゃなくて崩壊とするのは、冷却水漏れから始まり、ABSのアラートが点灯し、他のアラートが続々と点灯し始め、コンピューターの故障、ミッションの故障、これはもうダメだとサヨナラを決意し車屋さんに持っていく直前にエンジンの異音・・・

どこかの故障がトリガーとなって続々と壊れていったのかなーと思ってたいのですが、そうでもなく同時多発的に故障が発生した様でした。各種アラートとコンピューターは連動してますけどね。


母が亡くなった1年半後くらいに雪でスリップして雪の壁に突っ込んだ際に車を壊してしまって、そこで購入したのがこの車でした。


少し長く乗りたいって思い、いつもの倍くらいの予算で買った車でした。もちろん、気に入ってました!!


それでもお別れはやってくるものです。残念ながら修理は諦めて(後日分かったことですが総額で80万近くかかる様でした)、手放しました。



すぐに次の車を決めることはできないし、そもそも、その当時は父の治療費に僕のわずかながらの貯金をあてていたので資金もありません。そこで、車屋さんの在庫にあった比較的オンボロな軽自動車を10万で購入し、当面の足としました。
次の車は親父の介護もあるのでミニバンの安いやつかなーって話をしていたのですが、テンションが全く上がりません。新車を買えない貧乏人ではありますが、車は大好きです。自分の現在のライフスタイルからすると、車に乗ってる時以外に自由になれる時もなく、かといって遠出ができるわけでもないのですが、ほんの20分、30分くらいの運転している自由な時間ってのが楽しみだったりもするのです。ラジオを聞いたり、音楽を聞いたりで。

親父の治療費にあてていた僕の貯金は親父が退院すれば保険で返ってきます。

で、車屋さんに所用で行った時に気に入ったものを見つけたのです。たまたま入荷したとこでした。


予算は少し足りなかったのですが、車屋さんとの信用の話でなんとかしてくれるとなり、その場で購入を決めました。


なんといってもSUVだったのですよ。

高校生くらいの時からずーっと憧れていた車種です。
当時はIsuzuのものだったり、日産のものだったりだったし、SUVっていう呼称もなかったように思います。

30年らいの夢がようやく叶った感じ・・・


ですが、1つ目の問題が浮上します。

親父です。

僕の車=親父を病院や施設などに連れていく車でもあるのです。SUVは車高が高いので親父では乗り降りできないです・・・
そこでその時代車的に乗っていた軽自動車を残せばなんとかなるんじゃないか!!幸にして軽自動車は維持費も安いですし、同居している兄もちょっとした足として欲しいと数年前から言っていたので協力してくれることでしょう。

1つ目の問題はこうして解決しましたが、2つ目の問題が浮上します。

僕の計算間違いです。
これは親父の保険金です。ずっと自分の貯金を切り崩していたわけで、どのくらい入るのか計算していたつもりだったのですが予定していた額よりも15万円以上少なかったのです。さらにはその他に予定外の出費が5万円以上出てしまい車資金が20万円以上足りなくなってしまいます・・・


注文済みですでに整備に入っていたのですが、キャンセルかな〜ってなってきました。
しかし車屋さんに相談したところ、ローンの期間が伸びても大丈夫ですよってなり、とりあえず購入は決定・・・


したのは良いのですが、不安ばかり募ります。

しっかりとローンを払えるのかどうか。また兄貴達にこんな贅沢をしてと文句を言われるんじゃないかとか(車としては決して贅沢な価格ではないです)。


そこで神様が救いの手を差し伸べてくれました。


詳しくは省きますが、無事にローンをせずに購入することができたのです!
中古車なので少し匂いが残っていましたが、それ以外は最高です。乗り心地も乗り味もとても良いです。サイズが少し大きいですがそんなことは気になりません。あー、しあわせ!!







っていうのも長続きしませんでした。
まず、我が家の生活費医療費などが高騰してしまい、神様のお恵みを切り崩す様になってしまいました。
我が家の家計は兄貴が出している分は置いといて、親父の年金でやりくりしています。それが足りないのです。
どんどん僕の新たなる貯金が目減りしていきます・・・

そして上の写真です。

燃費・維持費問題ですね。

これは覚悟していました。
軽自動車も残すので上手に乗っていればなんとかなるだろうと。
しかし、こうやって数字にしてしまうと無視はできなくなるんですね。SUV、でかいです、重たいです。しかも少し前の車なので燃費のことあまり考えられていませんwハイオク仕様の3.2リッターエンジンはガソリンを垂れ流して走行するわけですね・・・


5月になれば自動車税の問題も出てきます。とりあえず今年は58000円です。登録から13年が経過すると自動車税が上がるので来年か再来年からは66700円になります。


困ったものです。


これら全て覚悟の上で買ったつもりだったのですが、父と兄の病気の結果として我が家の生活様式があまりにも変化してしまったんですね。それに伴う生活費の上昇は予想以上でした。自動車税がこれまでの車より高くなった分は毎月少しずつ貯金すれば解決することだったし、燃費の問題は軽自動車と併用すればなんとかなるはずでしたが、そもそも生活が立ち行かなくなってるのに車を2台維持することが難しいし、維持費のかかるSUVは重荷以外の何者でもありません。


ついでにもう1つ問題があります。

それは新型コロナウィルスです。
僕が車を選んだ理由の1つに北海道旅行という夢がありました。
自分の車で2週間程度で北海道を回るっていう旅行です。これは何年も前に計画していたことです。

車で回るなら好きな車で!!

この気持ちがとても大きかったんですね。
しかし、このコロナ禍で要介護の老人を抱えた我が家では県外に出ることができません。
県外に出た場合、利用施設に連絡し最低でも2週間の利用が止まります。現状ならばPCR検査をしなければならないかもしれません。父は今月から毎月PCR検査を受けた上でしか施設を利用できなくなりました。数週間の待機まで入れて計画を立てれば問題はないのですが、昨年、重い病気をした兄貴がコロナをとても警戒していて、僕が県外に旅行に行くことなど許してくれません。っていうか近場の温泉ですら文句を言われてしまいましたw
どちらにしても、親父が施設を利用できない期間があるというのは問題になってきます。

その上、生活費の高騰で旅費がいつ貯まるかもわからない・・・


いろんなことを諦めてる僕ですが、この北海道旅行は諦めざるをえないです。

少なくともコロナが沈静化する2年後、3年後までは無理でしょうね。



そうなると、この車を維持していることによるマイナスはどうすれば良いのだろうか?



と、なってくるわけです。
今なら人気のSUVだし購入時よりもあまりマイナスにならずに済むだろうっていう考えもあります。


なんて悠長なことを言ってはいられないくらいに生活費の高騰による貯金の目減りは止まりません。


色々と無駄がないように計算もしてるのですが、自分の食費は削れても家族の食費は削れないですからね。




とりあえず、近々車屋さんに相談してきます。
人生はなかなかに難しいですねw



少しだけ追記です↓
※途中にある燃費の画像の10キロ、15キロ、20キロ、6キロってのはリッターあたり何キロ走るかっていうやつです。燃費10キロの車は600キロ走るとガソリン代がいくらになるってことですね。600キロとしたのは僕の月の走行距離の平均がそのくらいになります。

※兄貴が軽自動車の維持費を手伝ってくれると期待してってありますが、去年の8月から乗り始めてガソリンを入れてくれたのが2回だし任意保険と5月の自動車税は僕がもつことになってます。使用目的は兄貴を職場へ送っていくのと、親父の通院、週に2度程度の1キロ先への買い物などです。兄貴も買い物で乗ったりします。ま、兄貴のことで一番使ってる車ですねw
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踏ん切りをつける日があるのか?

2021年01月08日 | Life
ブログタイトル変更しました。
元々のやつです。Payasoって何?ってブログ開設時にはよく聞かれてました。
スペイン語でピエロと言います。ブログを開設した当初はサッカー大好きでして、当時好きだったアルゼンチン人のサッカープレイヤー、パブロ・アイマールのニックネームがPAYASOだったんです。本人はそう呼ばれるのが嫌いだったらしいんですけどねw

さて、またしても親父のことです。

母が亡くなってから、実は親父の体調や認知は少し良くなりました。

母の闘病開始から1年経過した頃に父の体の状態はかなり悪くなっていました。
体調が悪くなったと言っても咳が出る様になったとか、食べ物を飲み込めなくなったとか、動けなくなったとかそういうのではなく、お漏らしが多くなったのです。母が生きている時は僕はあくまでも母の手伝いをするっていう体でいました。父に直接関わらなかったわけではないのですが、そういう体(てい)でいることが大事かなって思っていたので。

母はその年の3月には入院してそのまま意識がなくなり亡くなってしまったわけですが、母が入院する2週間くらい前のことです。母が父のお漏らしに限界を感じて僕に相談を持ちかけました。とにかくすぐに下着を汚してしまう、どうしたらいいかと。

夫婦の仲というか間柄ってそれぞれだとは思いますが、僕の母は父にあまり強く言えない人でした。父が常に高圧的だったかというとそういうわけではないのですが、なんとなく言い難いそんな感じだったんだと思います。もちろん言う時はしっかり言いますし、父が母に暴力をふるうところは見たことはありません。ま、酔っ払ってる時は手を上にあげるくらいはしてましたけど。

「僕が一緒に話するから、オムツを使う様にしよう。だから一緒に買いに行こう」

そんな風に言ったと思います。
父はその頃、お漏らしだけでなくなんとなくぼんやりもしていたのですんなりと言うことを聞いてくれました。プライドの高い父には難しいのではと母は心配していたわけですが稀有に終わりました。

それから父のオムツ(正確にはリハビリパンツ)生活が始まりました。


・・・正直なところオムツをつけたらつけたで大変でした。

1日にオムツを交換する回数は平均で4回にものぼりました。
すんなりと自分で気がついてオムツを交換してくれればよかったのですが、オムツが尿を吸い取るだけ吸い取って重たくなってズボンが下がってるなんてこともありましたし、オムツから漏れてズボンがぐっしょりなんてこともありました。もしかするとオムツをしてる安心感からそうなってるんじゃないかって思うくらいで。

やがて母が亡くなりました。

お葬式など母の死に関するあれこれが終わるまで、父はシャキッとしてたと思います。
45年以上連れ添ったわけですから、認知症のためにあれこれ忘れてしまった親父にとっても大きなものを失った悲しみは大きかったのでしょう。


母が亡くなってしばらくしても父はほんの少しだけシャキッとしてました。
尿漏れ(だけじゃないんだけどねw)の頻度は半分くらいになったと思います。

それからまたしばらくして、親父の尿漏れはまた悪くなってきました。ただ、良い時と悪い時の波があったように思います。
ま、酷い時は椅子に座ったまま大量にお漏らしをして、椅子を1つダメにしてしまいました(カリモクのやつ)。その椅子にはいまだに誰も座らないので、親父専用になってしまいましたw

そして、また月日が流れて僕の介護の負担を少しでも緩和するためにこれまでは頑なに拒否していたショートステイの利用を開始しました。


最初のショートステイの日程が十日後になった時のことでした。
親父はショートステイの日程についてはよくわかってなかったはずです。でもなんとなくぼんやりとした頭のどこかに施設に行く日が近づいているっていうのがしっかりと存在していたのか、お漏らしの頻度がハイペースになり、10日間の間に親父の下着だけで8回洗濯をして、5枚下着をダメにしました(大きい方をガッツリとやられて)。

これはキツい・・・

さすがにギブアップしそうになったのですが、ショートステイの利用開始が目前だったのでなんとか堪えました。


親父のショートステイ利用開始はその年の10月からでした。
最初は2泊3日からスタートし、少しずつ長くしたりしながら、月に2回程度合計で10日くらいの利用になりました。

外で色んな人と関わるせいか、親父の体調は少しずつよくなっていきました。

利用から半年後にズボンまでぐっしょりのをやりましたが、確実に状態はよくなりました。


お漏らしっていう点においてはですけどねw



親父はほぼ1年の間に酷くなって、回復してってのを見せたわけです。
それから数年が経過した去年、3ヶ月の入院をしました。

退院してから2週間が地獄でした。
お漏らしはするし、いうこと聞かないし、夜中に何度も起こされては面倒を見ての繰り返し。2週間の間、僕は1時間おき、2時間おきに起こされるので平均睡眠時間は3時間とか4時間。続けて眠れるのは1時間か2時間。3週目になってようやく少し落ち着きましたが、現在に至るまで僕は3時間以上続けて眠れた日は両手で足りるくらいです。ま、癖がついてしまったのですね。

親父は退院からしばらくして元に戻ったかのように思たのですが、夜中に起きることはなくなったものの、お漏らしがまた酷くなってしまっていました。状態でいうと、良い時と悪い時の波がある時と同じですね。今は尿取りパッドを入れているのでズボンがぐっしょり、布団がぐっしょりってのはなくなりましたが。


多分なんですが、親父は現状維持はあったとしても、もう回復することはないんじゃないかって思います。

親父の退院から僕はしっかりと眠れることがなくなったのと、認知症が酷くなって僕を忘れてしまったこと、さらには金銭的な困窮なども手伝って鬱っぽい状態が続いています。体調もあまりよくないってのが正直なところです。こうなってしまうと色々とバランスが崩れてきて、食べすぎたり、飲み過ぎたり(幸いなことにお酒は7年以上飲んでないのでお酒に逃げることなないです)。体のあちらこちらにストレス反応が出てるんですね。

だから色々なことを考えるわけです。

現実的には親父を施設に入れてしまうことは難しいです。
でも、このままだと僕が潰れてしまうのは目に見えています。あと何年持つかな〜そんなことばかり考えてしまうんですよ。親父より僕が先に死ぬんじゃないかとかね。


なんとか頑張って親父を施設に入れたとしても、家以外の場所が大嫌いな親父が家に滅多に帰って来れないことや、親父のオムツ交換を他人にやらせてしまうこと、そして何よりも、僕自身が自分が楽したいがために親父を施設に入れてしまったという後悔・・・


難しいです、ほんと難しい。


僕に何かしらの強い理由があれば親父を施設に入れたことを後悔しないでしょうね。でも、そんなものは無いし、これからできるものでもないと思うのですよ。

親父を施設に入れても、このままでも、どっちもキツいです。


うちの場合は親父はかなり自分のことは自分でできるので(これが問題でもあるのですが)、介護自体は楽な方ですが、親父との軋轢や兄貴達のこと、そして僕自身の人生を考えた時にかなり難しい状態になります。



今年1年は親父のことと自分のこと1つくらいは答えを見つけたいと思います。
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絶対手に入れたいものが〜

2021年01月08日 | Life
日々寒いです。
年々寒さに弱くなっていくのは間違いないのですが、その質も変わっているようでただただ寒さに弱いのではなく、腰のあたりが寒いとか、手袋がないとだめとかいろいろです。朝、車を運転する時にステアリングヒーター必須だな!!って思ったり。とにかく寒さに弱くなっています。

この年末年始はダウンジャケット買おう!

と考えていました。オシャレダウンジャなくてガチのやつ。
某有名メーカーのものに目星をつけて、しっかり財布に予算を入れて、あちらこちらを見に行ったのですがまず売っていない。じゃ、違うものを・・・って考えたのですが、何故か買えない(気持ち的な意味で)。同じメーカーの売っていないもの以外のものでって考えても買うことができない・・・

ま、いろいろ考えてしまうのです。
こんなに寒い冬は今シーズンだけだよなー、前シーズンもその前も大して寒くならなかったし・・・とか。
ダウンのいいやつ買ってももったいなくてあまり着ないのじゃないかとか、クリーニングが大変じゃないかとか、いろんなことを考えるんです。

大人になったと考えればそれで良いのですが、なんとなーく、情けない気持ちになったりもします。


僕はどちらかと言えば浪費家だし、欲しいと思ったものはなんとしてでも手に入れる派だったりもします。

でも手に入れられなかったものはたくさんあります。

ラジコンやゲーム、パソコン、カメラ・・・・

物なら数え切れないほど沢山あるでしょう。


それから人の心とかね。


って言うと猟奇的だったりサイコパス的な発想ですが、とにかくモテない人生を歩んできたので好きになってもその恋が実ることがほぼないw
頭が悪いのは努力すればいい、貧乏なのも努力すればなんとか・・・そう思うのですが、まず努力をしない時点でだめですねwそのくせ、イケメンに生まれたかったなーとか、運動ができればなーとか、そういうことばかり考えてきました。
たくさん悔しい思いもしてきたし、悲しい思いも、さびしい思いもしてきたけど、

「あ、自分には無理だ」

とあきらめてしまうのですね。そのくせ、いつまでも引きずったり。


物を手に入れるためならガッツリとあの手この手でなんとかするのに、こと恋愛に関してはすぐに諦める。強欲ではないってだけ、自分の良い部分でもあるとは思いますけどねw


と、僕の話はどうでもよくて。


これはいまだによくわかってなくて、それでもかなりの頻度で思い出してもや〜っとする話なのですが。。。


ずいぶん前のことです。
知り合いがちょっとしたトラブルを起こしたのです。
知り合い(男)と、もう1人(女)が関わったトラブルだったのですが、知り合い(男)がちょっと良くなかった。というか、後々大問題につながるんじゃないかって感じで、多分、良識ある人ならば誰もがやばいって思ったり、注意しなくちゃ、怒らなくちゃって思うような話でした。

僕は注意しました。
うん、注意した。ほんとずっと前の話で僕もまだまだガキだったので注意仕方が悪かったってのもあるのだけど、知り合い(男)は注意されたくなかったんでしょうねwかなり反発されました。もしかしたらなんで注意されるのかわかってなかったのかも。その話し合いの場・・・と言っても、その話をするために注意するために呼びつけたわけじゃないのですが、その場にそのトラブルの現場に一緒にいた女性は同席しておらず、そのせいで訳がわからなくなったのかもしれないですね。

しっかりと当事者全てがいるところで話をしなかった僕のミス。

そしたら、知り合い(男)は僕がこの男女の間にヤキモチを焼いてあーだこーだ難癖つけてきたと思ったらしいのです。


「俺と○ちゃんの関係には口出しするなーーー!!!」

となり、話し合いはおしまいw


ちなみに僕はそのトラブルには直接関係ないですし、怒られる筋合いも、ヤキモチを妬いてると疑われる筋合いもない訳です。はい。


この件のおかげで知り合い(男)とはそこで疎遠になってしまったのです。


でね、いまだにわからないのが、


・この2人はこの時から付き合っていたのか?

・知り合い(男)がこの女性をこの時点で好きで、後々、告白するのか(青いな〜w)、付き合うのか、なんなら結婚するつもりだったのか?


このどっちだったのか。
これらの理由、もしくは他の何かの理由で、あーだこーだ口出ししてくる(決して彼らの男女仲についてはなんも言ってないw)僕が疎ましくなったのは間違いないと思うのです。

じゃ、他の理由ってなんだ?

って考えた時、ちっとも思いつかないのですよねw
だってさ、友達同士だったらそんなこと言わないわけだし、他に何か「口出しするなーー!!」って言うほどの関係があるかって考えた時に何も浮かばないのですよ。

ということは、知り合い(男)はこの女性に少なからず恋愛感情を抱いていたとしか考えられないのです。


この時点で付き合っていたなら言ってくれればいいだけの話なんだけど、僕が注意したことについては付き合ってる付き合ってないなんも関係ないのになーってなってます。男女の仲に口出しするとしたら、不倫関係だったり、誰かが他で悲しんでたりとかそういうのだけだし、そのトラブルってのはそういうものじゃなかったし。

じゃ、もう1つの可能性、当時好きで将来的に付き合いたいって思っていたから、何かを勘違いして僕のことが疎ましくなった・・・


ここで冒頭からの僕の物欲の話が出てくるのですよ。

人を好きになった時、その人にパートナーがすでにいたら?

・奪う。
・遠回しに別れさせようと作戦をねる。
・諦める

他にも選択肢があると思うけど、とりあえずこの3つ。
僕は諦めるを選択します。

奪うってのと、作戦をねるってのは基本的に同じだけどイメージとして、奪うは相手の迷惑考えずにとことん自分の気持ちを押し付けて自分のものにしようとする。作戦は正当法、卑怯な手どちらもありで別れさせた上で自分のものにしようとする感じかな。

他にも選択肢があるってことが前提だけど、物欲がすごい僕でも諦める以外の選択肢は選ぶことはできないんすよ。少なからず嫌な思いをする人が出てくるので。そこまでして自分の物欲・強欲を満たそうとは思わないです。他人に迷惑をかけるとしたら、母ちゃんの財布が傷むくらいのレベルですね。せいぜい。

この知り合い(男)がトラブルの時点でその女性をなんとしてでも自分のものにしたい!って考えていたのなら、ちょっとでも障害になりそうなものは取っ払っていくっていうのが正攻法な感じがします。
実はその女性と友達として仲良しだったんです、僕。そんな僕がそもそも邪魔だったか、この時に危機感を感じたのか、どちらかわからないけど、


「俺と○ちゃんの関係には口出しするなーーー!!!」


というセリフが彼の思考の結果として出たとすると、自分勝手だなーって思うし、人間関係を自己中心的に考えてるようにも感じて怖いなーっても思うし、子供だなーwとも思うのでした。

でも、恋愛ってのは相手があってのことだし、自分勝手にあれこれ策をこうじたりするのは人間関係がうまくいかなくなるし、例え、その恋が成就したとしてもその前に友達を何人失ってるかわからないし、そもそもそんなことをしていたのがバレたらせっかくうまくいった恋もだめになってしまうことだってあるわけだし、リスクしかないなーって思うのです。


なので、最近というか数年前から思っているのは、この2人は付き合っていたのでしょうねw


僕の場合、諦めるって選択肢を選ぶ他にも付き合ってる人が他の人に取られそうになったら、自分は敵わないって感じた時点で諦めちゃうかも・・・必死には抵抗するけど。だから、この知り合い(男)はすごい人だなーって思ったのでした。



もうかなりの月日がたって、この2人とは完全に縁が切れちゃってるのですが今頃何してるのかな〜って頻繁に思い出します。僕にとって結構大きな出来事だったんだなーと思うのです。つか、専門学校時代にも勝手に勘違いされて冷たくされた事件ってのがあったので、僕の言動にもは問題があるのかもですねw



何かとストレスが溜まって自分の物欲を満たそうと試みた年末年始でしたが、最終的に、財布(9000円)を買って終わりました。自分の物欲が枯れてしまうって考えるのはさびしいですが、熟慮して買い物をすることができるようになったと考えれば良い事です。これまで奥手だった恋愛は逆に積極的に!!とも思うのですが、やはり、年齢と共に枯れてきているんだな〜と実感してます。もっとも、火がつくような燃える様なことがあったら、枯れ木にも花が咲くのかもですけどねw
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親父の良いところは悪いところ?

2021年01月03日 | Life
今日は1着しか持っていなくて困っていたパジャマを買いに行ってきました。
初売りは控えたのですが、やむをえずに。

初売り中であってもガラガラで平日の日中並だったのにはわが地元のコロナへの意識の高さを伺えました。

それでも初売りの恩恵にあずかってしまうもので、パジャマは1000円引き。ついでに買ったパンツは100円引きでした。

さらには長年の懸念であった財布を新調することもできました。
同年代の友人がヴィトンだプラダだなんて買っている中、リーズナブルなちょうど良いサイズを選べたことに満足です。


さてさて。
本題は昨日の話です。
お昼ご飯を済ませたところで、親父のことは兄貴に任せて母方の伯母の家に。

従兄弟の子供たちがゲームをしているところを口出ししながら楽しく見ながらぼーっと過ごさせてもらいました。
たくさんのお料理を出してもらったのですが、昨年末から料理し続けたせいか全然お腹が空かずに、なんとも残念な思いをしました。ほんの少しは摘んだのですけどね。

夜の10時くらいになったところで帰ろうとしたのだけど、伯母さんの話に付き合うとことに。
毎度毎度のお嫁さんと従兄弟の愚痴から何からしっかりと聞いた後に、僕の親父の話に。

伯母さんはわりと苦労した人です。
地元でとある商売を順調にやっていたのですが、旦那さんがあまり商売が上手な人ではない人で、叔母さんが商売上手な上に人付き合いも上手であってもなかなかにうまく行くものではなかったようです。そこにきて旦那さんの浮気が発覚。当時10歳だった僕と同じ年齢の子供までいたのだからびっくりです。
伯母さんは離婚することになり商売も破綻。母と伯母さんの実家も失うことになりました。

当然、伯母さんは住む家を失ったわけです。


「あのね、わたしはもう仕事も住む場所も失ったんだよあの時は」

伯母さんはそう話しました。
最終的には旦那さんの浮気が原因だったのですがその時の話はタブーというわけではなかったのですが久しぶりに聞きましたね。

「あなたは今、お父さんのことで苦労してると思う。あなたのお母さんが亡くなって4年ちょっと見てきたけど本当に大変だったね。お父さんはお酒のことでだめになっていって、私もそれをずーっと見てきたら全部わかるんだ。お母さんも随分と苦労してきたのもずーっと見てたしわかってる。でもね、」

伯母さんはここまで話と目に涙を浮かべていた。口調は穏やかだったし、親父のことがもう嫌だという僕を否定するような話でもなかったんだけど・・・

「でもね、私が離婚して何もなくなってしまった時に、あなたのお父さんは私にこういったんだよ。『姉ちゃん、住むとこ働くとこ見つからなかったら、うちにずーっと居て良いからね。大歓迎だよ』って。こんなに嬉しいことってある?あなたのお父さんはそういう人なんだよ。」

伯母さんはこの時1週間ばかりうちにいて、これではだめだと色んな人のつてを頼って出て行った。なんとなくその時のことは覚えている。


僕は親父のことは嫌いだと思う。

でも、親父の良い部分、好きな部分も兄弟の中で一番知っているとも思う。
親父に遊んでもらえなかったし、興味も持ってもらえなかった。でも、親父が善良な人間だっていうのはわかっている。良い人ゆえにストレスを溜め込んでお酒に逃げるしかなかったことも知っている。そして、そういう親父のあまちゃんな部分も自分お中にあるのもなんとなくはわかっているんですよね。僕の場合は圧倒的に母に似ているのですが、

「あんたのそういうとこってお父さんそっくり」

と、母に何度も言われたこともあるしねw


人間って、嘘つきでずる賢い方が上手に生きていけると思う。
それが正しい道だっても思う。もし仮に自分がイケメンだったら自分の良い部分を見てくれる人も居たかもしれないけど、残念ながら僕はイケメンじゃないし、上手にも生きられない。

だからこそ、親父は馬鹿だったなーっても思う。


人の生きる道、もしあるのなら正解を教えて欲しいものです。
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