雨が降ったり寒くなったり暑くなったり。
季節の変化に弱いわりにはなんとかやってますが、まあまあ大変だな〜って思うことばかりで。
それっぽいタイトルを付けましたがあまり意味はないです。
もちろんアニメや映画とも関係ないですよ。
9月はどうにも僕にとってはよろしくない月なように思います。
母が亡くなったのが2016年の4月なのでもう5年半前になります。それよりさらに遡ること2年半前の2013年の9月のことだったと思います。・・・もしかしたらそれ以前にも9月に何かあったのかもしれませんが、僕が覚えているのはその年ですね。
なんとなーく母の元気がありませんでした。
どうしたの?
と聞く感じでもなく、どうしたのかな〜?くらいで僕も思っていたのですが、母が話してくれました。
「お父さんの様子がちょっと変なの」
と。
父がある日突然に母に対して浮気を疑い出したんだそうです。
「俺が夜中見に来たら男が逃げていっただろ!」
「この間はこの部屋から出て外を走っていく男の姿を見た。あれは◯◯さんだった!」
「お前、俺が起きてきたらシャワー浴びに行っただろ!あれはなんだ!!」
って言われたんだそうです。◯◯さんっていうのはおばさんの元旦那。母のお姉さんの元旦那さんですね。おばさんはこの人と僕が9歳の時に離婚しています。30年以上前の話です。母がこの人と連絡を取る術もないし、そもそもババアとジジイですよ言い方悪いですが。そんな関係になるわけがない。
父がこういうことを言い始めた少し前から、夜中になると母が寝ている様子をドアを少し開けて見張っているような感じだったんだそうです。母は犬と寝てたので、LDKにある小上がりの和室で寝てました。最初、母は親父が水を飲みに来たのかなーくらいに思ってたそうなのですが、少々不気味に感じ始めたんだそうです。そしたら浮気を疑われたと。
事実無根であるし、父が夢でも見たのかな〜くらいに思ってた母だったのだけど、流石にこれが続くのはキツいと僕に打ち明けてくれたわけですね。
流石に僕でも父に突然話をするわけにもいかず、なんとなく父の様子が変な時に話しました。
父が母を睨みつけてるような感じ、何か言いたげだけど僕がいるから我慢してる感じ・・・そんな時ですね。
「ねえ、お父さんどうしたの?お母さんが浮気してるって疑ってるみたいだけど」
父は母が浮気してるとはっきりと言いました。そしていくらそんなわけはないよって説明しても聞いてくれませんでした。何十年も父に尽くして来た母に対するその態度には流石に頭にきました。
「土下座して謝れ!!!」
そんな風にも言ってしまったように思います。
その後、母をおばさんの家に送って避難させて、仕事から帰ってきた兄と僕で再度説得しました。父は全く持って納得いってなかったようですが、母が戻ってきたらちゃんと謝ると約束してくれたので母を迎えに行きました。
おばさんの部屋の隅っこで悲しそうに座っている母の姿を今でも忘れることはできません。母は文字通り親父に尽くした40数年でした。横暴な父ではありませんでしたが、お酒に負けてしまった人だったので母はたくさん苦労しました。母がいないと何もできない父だったので旅行もパート先の社員旅行が年に1度あるかないか程度。自分の好きなものを買うこともなかったです(これは僕達のせいでもありますが)。家族のために生きたような人で、裏切りをするようなことはもちろん、嘘をつくようなこともしない人でした。たまーにバックなどを買ったとしても数千円のもので大喜びするような・・・
これがその年の9月末のことです。
親父の本格的な痴呆症の始まりでした。
親父は今から18年前にお酒の飲み過ぎで脳がやられてしまい、記憶障害はありました。生活に支障がほんの少しあるくらいのものだったのですが、この時から幻覚、幻聴が始まったんでしょうね。親父を散々に怒った僕ですが、これも申し訳ないことをしたわけです。親父にとっては母が浮気したということは事実だったんですね。おばさんの元旦那さんの事もはっきり見えていたのでしょう。
翌年の9月も親父関連でトラブルがありました。そのときも似たような話でした。
この頃から多分、母は体に違和感があったようです。でも、この2014年は1年を通して僕が落ち込んでいたので話をすることができなかったようです。母は翌年の1月に乳癌かもしれないと僕に打ち明けますが、その時すでに手遅れになっていました。9月の出来事以上に自分の情けなさに腹が立ちました。母を殺したのは僕だって思うのです。あの時すぐに体の違和感を僕に打ち明けててくれれば・・・少なくとももう少し長く生きることができたと思います。
この年の9月に母は70歳の誕生日を迎えました。我が家では僕が母にささやかにプレゼントを渡したと思います。でも離れて住んでいる兄からおめでとうの電話がなくて、母はとても落ち込んでいたのを思い出します。いつも母の日だ父の日だ、誕生日だ敬老の日だって実家に来ていた兄貴夫婦だったのに何故かこの年に限ってはなんの連絡もなし。ま、がっかりしますよね。
その翌年の9月は母の乳癌治療の最初の段階が終わる頃でした。
母は1月に最初の診察を受け、2月に本格的な検査。ステージ4末期の乳癌であることがわかりました。手術ができる段階ではないということで抗癌剤治療を続けました。9月に抗癌剤治療が終わり、手術ができるということになりました。病院で今後のスケジュール確認と看護師さんによるカウンセリングを受けてる時に兄貴から連絡があり、骨折による入院手術が決まったとのことでした。兄は少し前に転んで骨折と診断を受けていたのですが、手術するかどうかは少し様子をみようとなっていたのでした。
今の僕なら兄貴の面倒を見ることも厭わないのですが、当時は僕的にも兄貴的にも僕に面倒を見てもらうってことがちょっと違う感じだったんですね。
母もそう感じていたというか、自分がやらなければって思ったのでしょうね。兄が入院中はまだ良かったんです。僕による母の送り迎えが必要だったので、僕も兄の病室までいき2人でやってる感じでしたから。でも、退院後は服を着せるなどの世話を母がやっていました。母は手術が終わって間もない頃でした。
「実はね、すごく疲れたの。」
兄の世話が終わった時に母がぼそっと言った言葉でした。
母の手術はその段階としては成功だったし、悪い話ばかりではなかったのですが、なんとなーく我が家が暗く疲れた日々だったことを思い出します。
さらにその翌年の9月は母がいない初めての9月でした。
父の痴呆症はどんどん悪化していて、母に代わって父の面倒を見始めた僕は最初の限界を迎えていました。
10月から施設を利用することが決まり、その準備段階的な9月でした。父は施設に入る前の1週間くらいの間にお漏らしが大小ともに酷くなり、父の衣類だけでその期間に10数回洗濯し、10枚近くの下着をダメにしました。あー、本格的に始まるな・・・そんな思いでした。
その翌年の2017年の9月は親父と揉めに揉めて僕が数時間家出するってことがあったり。その翌年、翌々年は少し落ち着いていた感じではあったのですが、あー、やっぱり9月はだめだ・・・そんな事はいくつか起こっていました。
で、去年の9月です。
父が3ヶ月間の入院から家に帰ってきたタイミングが9月でした。
普通に朝から親父の世話をしての生活なのは当たり前だったのですが、それプラス、夜、親父がトイレに起きる度に介助をしてました。トイレだけではなく、まだまだ暑いのにすぐにエアコンを切ってしまうもんだから、汗だくになって起きた父の着替えを手伝ったり。退院してから2週間ちょい、夜中に3、4回起きて親父の世話をする生活が続きました。
ストレスだけではなく、睡眠がほとんど取れない日々が続いたのでボロボロでした。親父が落ち着いてからも癖になってしまい、2時間くらい寝たら起きるみたいなのが続きました。トイレに起きるようになったりね。
タイミング的になんでそうなるのかな〜って思ったのですが、普段、LINEや電話をくれる友達からの連絡がパタリと止まりました。僕はLINEが苦手なので4人しか登録してなくて、常に連絡が来てた3人からぴたりと止まったんですね。1ヶ月以上。苦手なだけに僕から連絡をすることはなく、相手から来るのに答える感じではあったのですが。
親父のこと、このLINEのことでストレスマックスになった僕は、10日間くらい体を動かすことができなくなってしまいました。父がショートステイに行ってすぐに崩れ落ちるようにそうなりました。
親父はその後日常に戻って行ったのでなんとかなりました。LINEが途絶えた友人のうち1人は鬱になりスマホを放置していたことがわかり、他の2人は後々にわかったのですが僕に言えない事があって・・・という事でした。
で、やっと今年ですね。
これは昨日の事です。
肺炎で入院中の親父の病院から朝の8時ごろに電話があり、父の容態が急変したとのことでした。
父は左肺の誤嚥性肺炎での入院だったのですが、10月の頭には老健施設への移動が決まっていて、体力低下がどうにもならないレベルではあったけど、肺炎は快方に向かっていました。それが昨日の朝6時ごろは調子が良かったのに、7時半過ぎになって気持ち悪さと息苦しさを訴えたんだそうです。そしたら、酸素飽和量が測定不能になっていて、すぐに検査したところ今度は右肺が肺炎になっていたそうです。
健康だった右肺が全く機能しなくなっていて、治りかけの左肺のみで呼吸を行っていたとのこと。右肺は膨らんだままだったので気胸ではなく、空気が肺に入っていかない状態になっていたんだそうです。原因は痰です。
この件に関しては病院にいろいろと文句が言いたい・・・のですが、それは置いといて、そんな状態だったので、すぐに人工呼吸するために挿管して、呼吸とともに痰を取り除く治療に入りました。
午後にはバイタル全て安定したのですが、体力を戻すということが難しいこと、今回治ったとしても、いつまたすぐに何が起こるかわからない事・・・
つまりは、父はもうそんなに長く生きられないということがわかりました。
数年生きたとしてもほぼ寝たきりだし、自分で何かをやるってことも難しくなるのでしょうね。
僕は小学生の頃から父のお酒のトラブルで嫌な思いをして来ました。
兄貴達はある程度大人になっていたのでうまく処理できていたのでしょう。でも、僕は常に母に付き添って親父のお見舞いに行ったりしてたのもあって、母が泣いてる姿を見たりしてたわけです。そして18年前に横浜で一人暮らしをしていた僕は、親父の介護のために夢から友人から何から全て投げて捨てて実家に戻って来たわけです。父が憎くてしょうがない時もありましたし、恨んでいた事もありました。去年の12月にはこれほど世話を毎日してるのに僕のことが誰かわからなくなってしまったり(何故か兄貴のことはしっかり覚えている)。嫌なことばかりですよ、親父のことを思い返すと。
でも、それでも、親父へのそういう怨みつらみを全部忘れて、親父が好きなように生きたいように生きるためにサポートしようって思った矢先のことです。2月に入院してやっと帰って来れる目処が立った時ですよ。
兄貴達は僕に親身になってくれることはないです。愚痴を聞いてくれる事もないし、僕を理解してくれる事もない。親父がいなくなったら僕は孤独になってしまうんですね。
そしてそんな僕のこと以上に、ずーっと半年以上病院や施設を行ったり来たりして、コロナ禍で家族にも会えずにもしかしたらそのまま死んでしまうかもしれない父が可哀想でしょうがないです。父が一生懸命働いてくれたからこそ僕達は生きて来れたわけだし、父は父でいろんなことを我慢して家族のために生きて来たわけだし。
体が不自由になってボケてしまって、家族だけで面倒を見ることは難しくなりましたけど、最後くらいは・・・って思うのです。今回の肺炎からなんとか治って、多少不自由であっても家に戻って来て欲しい・・・そう思います。もうこれ以上失うのは嫌だって思うのはワガママだし、自然の摂理に反してるってもわかってるのですが。
僕の人生はどこかで歯車が狂ってしまったのは理解してます。
それは僕自身の選択でもあったし、怠惰による結果の部分が大きいのも重々承知してます。でも、ちょいと疲れました。立派でなくてもいい、ささやかでいい、普通に暮らしたいです。生きたいです。
2013年末くらいからダメになって来てるのはわかってるんです。9月だからではなく、その頃から全てがおかしくなってしまってるんですね。
でもなかなか払拭できないどころか日々どんどん酷くなっている。
僕は自分自身の自己責任でこんなふうに陥ってしまったのは理解できてるので、せめて親父の命だけは救って欲しい・・・助かってほしい、そんな風に思います。
なんか、ブログを復活させてからこんな話ばかりでよろしくないな〜って思います。