@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

9月は僕の嘘

2021年09月23日 | Life

雨が降ったり寒くなったり暑くなったり。
季節の変化に弱いわりにはなんとかやってますが、まあまあ大変だな〜って思うことばかりで。

それっぽいタイトルを付けましたがあまり意味はないです。
もちろんアニメや映画とも関係ないですよ。

 

9月はどうにも僕にとってはよろしくない月なように思います。

母が亡くなったのが2016年の4月なのでもう5年半前になります。それよりさらに遡ること2年半前の2013年の9月のことだったと思います。・・・もしかしたらそれ以前にも9月に何かあったのかもしれませんが、僕が覚えているのはその年ですね。

なんとなーく母の元気がありませんでした。

どうしたの?

と聞く感じでもなく、どうしたのかな〜?くらいで僕も思っていたのですが、母が話してくれました。

「お父さんの様子がちょっと変なの」

と。
父がある日突然に母に対して浮気を疑い出したんだそうです。

「俺が夜中見に来たら男が逃げていっただろ!」
「この間はこの部屋から出て外を走っていく男の姿を見た。あれは◯◯さんだった!」
「お前、俺が起きてきたらシャワー浴びに行っただろ!あれはなんだ!!」

って言われたんだそうです。◯◯さんっていうのはおばさんの元旦那。母のお姉さんの元旦那さんですね。おばさんはこの人と僕が9歳の時に離婚しています。30年以上前の話です。母がこの人と連絡を取る術もないし、そもそもババアとジジイですよ言い方悪いですが。そんな関係になるわけがない。

父がこういうことを言い始めた少し前から、夜中になると母が寝ている様子をドアを少し開けて見張っているような感じだったんだそうです。母は犬と寝てたので、LDKにある小上がりの和室で寝てました。最初、母は親父が水を飲みに来たのかなーくらいに思ってたそうなのですが、少々不気味に感じ始めたんだそうです。そしたら浮気を疑われたと。

事実無根であるし、父が夢でも見たのかな〜くらいに思ってた母だったのだけど、流石にこれが続くのはキツいと僕に打ち明けてくれたわけですね。

流石に僕でも父に突然話をするわけにもいかず、なんとなく父の様子が変な時に話しました。
父が母を睨みつけてるような感じ、何か言いたげだけど僕がいるから我慢してる感じ・・・そんな時ですね。

「ねえ、お父さんどうしたの?お母さんが浮気してるって疑ってるみたいだけど」

父は母が浮気してるとはっきりと言いました。そしていくらそんなわけはないよって説明しても聞いてくれませんでした。何十年も父に尽くして来た母に対するその態度には流石に頭にきました。

「土下座して謝れ!!!」

そんな風にも言ってしまったように思います。
その後、母をおばさんの家に送って避難させて、仕事から帰ってきた兄と僕で再度説得しました。父は全く持って納得いってなかったようですが、母が戻ってきたらちゃんと謝ると約束してくれたので母を迎えに行きました。
おばさんの部屋の隅っこで悲しそうに座っている母の姿を今でも忘れることはできません。母は文字通り親父に尽くした40数年でした。横暴な父ではありませんでしたが、お酒に負けてしまった人だったので母はたくさん苦労しました。母がいないと何もできない父だったので旅行もパート先の社員旅行が年に1度あるかないか程度。自分の好きなものを買うこともなかったです(これは僕達のせいでもありますが)。家族のために生きたような人で、裏切りをするようなことはもちろん、嘘をつくようなこともしない人でした。たまーにバックなどを買ったとしても数千円のもので大喜びするような・・・

これがその年の9月末のことです。

親父の本格的な痴呆症の始まりでした。

親父は今から18年前にお酒の飲み過ぎで脳がやられてしまい、記憶障害はありました。生活に支障がほんの少しあるくらいのものだったのですが、この時から幻覚、幻聴が始まったんでしょうね。親父を散々に怒った僕ですが、これも申し訳ないことをしたわけです。親父にとっては母が浮気したということは事実だったんですね。おばさんの元旦那さんの事もはっきり見えていたのでしょう。

 

翌年の9月も親父関連でトラブルがありました。そのときも似たような話でした。
この頃から多分、母は体に違和感があったようです。でも、この2014年は1年を通して僕が落ち込んでいたので話をすることができなかったようです。母は翌年の1月に乳癌かもしれないと僕に打ち明けますが、その時すでに手遅れになっていました。9月の出来事以上に自分の情けなさに腹が立ちました。母を殺したのは僕だって思うのです。あの時すぐに体の違和感を僕に打ち明けててくれれば・・・少なくとももう少し長く生きることができたと思います。
この年の9月に母は70歳の誕生日を迎えました。我が家では僕が母にささやかにプレゼントを渡したと思います。でも離れて住んでいる兄からおめでとうの電話がなくて、母はとても落ち込んでいたのを思い出します。いつも母の日だ父の日だ、誕生日だ敬老の日だって実家に来ていた兄貴夫婦だったのに何故かこの年に限ってはなんの連絡もなし。ま、がっかりしますよね。

 

その翌年の9月は母の乳癌治療の最初の段階が終わる頃でした。
母は1月に最初の診察を受け、2月に本格的な検査。ステージ4末期の乳癌であることがわかりました。手術ができる段階ではないということで抗癌剤治療を続けました。9月に抗癌剤治療が終わり、手術ができるということになりました。病院で今後のスケジュール確認と看護師さんによるカウンセリングを受けてる時に兄貴から連絡があり、骨折による入院手術が決まったとのことでした。兄は少し前に転んで骨折と診断を受けていたのですが、手術するかどうかは少し様子をみようとなっていたのでした。
今の僕なら兄貴の面倒を見ることも厭わないのですが、当時は僕的にも兄貴的にも僕に面倒を見てもらうってことがちょっと違う感じだったんですね。
母もそう感じていたというか、自分がやらなければって思ったのでしょうね。兄が入院中はまだ良かったんです。僕による母の送り迎えが必要だったので、僕も兄の病室までいき2人でやってる感じでしたから。でも、退院後は服を着せるなどの世話を母がやっていました。母は手術が終わって間もない頃でした。

「実はね、すごく疲れたの。」

兄の世話が終わった時に母がぼそっと言った言葉でした。
母の手術はその段階としては成功だったし、悪い話ばかりではなかったのですが、なんとなーく我が家が暗く疲れた日々だったことを思い出します。

 

さらにその翌年の9月は母がいない初めての9月でした。
父の痴呆症はどんどん悪化していて、母に代わって父の面倒を見始めた僕は最初の限界を迎えていました。
10月から施設を利用することが決まり、その準備段階的な9月でした。父は施設に入る前の1週間くらいの間にお漏らしが大小ともに酷くなり、父の衣類だけでその期間に10数回洗濯し、10枚近くの下着をダメにしました。あー、本格的に始まるな・・・そんな思いでした。

その翌年の2017年の9月は親父と揉めに揉めて僕が数時間家出するってことがあったり。その翌年、翌々年は少し落ち着いていた感じではあったのですが、あー、やっぱり9月はだめだ・・・そんな事はいくつか起こっていました。

で、去年の9月です。

父が3ヶ月間の入院から家に帰ってきたタイミングが9月でした。
普通に朝から親父の世話をしての生活なのは当たり前だったのですが、それプラス、夜、親父がトイレに起きる度に介助をしてました。トイレだけではなく、まだまだ暑いのにすぐにエアコンを切ってしまうもんだから、汗だくになって起きた父の着替えを手伝ったり。退院してから2週間ちょい、夜中に3、4回起きて親父の世話をする生活が続きました。
ストレスだけではなく、睡眠がほとんど取れない日々が続いたのでボロボロでした。親父が落ち着いてからも癖になってしまい、2時間くらい寝たら起きるみたいなのが続きました。トイレに起きるようになったりね。
タイミング的になんでそうなるのかな〜って思ったのですが、普段、LINEや電話をくれる友達からの連絡がパタリと止まりました。僕はLINEが苦手なので4人しか登録してなくて、常に連絡が来てた3人からぴたりと止まったんですね。1ヶ月以上。苦手なだけに僕から連絡をすることはなく、相手から来るのに答える感じではあったのですが。
親父のこと、このLINEのことでストレスマックスになった僕は、10日間くらい体を動かすことができなくなってしまいました。父がショートステイに行ってすぐに崩れ落ちるようにそうなりました。
親父はその後日常に戻って行ったのでなんとかなりました。LINEが途絶えた友人のうち1人は鬱になりスマホを放置していたことがわかり、他の2人は後々にわかったのですが僕に言えない事があって・・・という事でした。

 

で、やっと今年ですね。

これは昨日の事です。
肺炎で入院中の親父の病院から朝の8時ごろに電話があり、父の容態が急変したとのことでした。
父は左肺の誤嚥性肺炎での入院だったのですが、10月の頭には老健施設への移動が決まっていて、体力低下がどうにもならないレベルではあったけど、肺炎は快方に向かっていました。それが昨日の朝6時ごろは調子が良かったのに、7時半過ぎになって気持ち悪さと息苦しさを訴えたんだそうです。そしたら、酸素飽和量が測定不能になっていて、すぐに検査したところ今度は右肺が肺炎になっていたそうです。
健康だった右肺が全く機能しなくなっていて、治りかけの左肺のみで呼吸を行っていたとのこと。右肺は膨らんだままだったので気胸ではなく、空気が肺に入っていかない状態になっていたんだそうです。原因は痰です。
この件に関しては病院にいろいろと文句が言いたい・・・のですが、それは置いといて、そんな状態だったので、すぐに人工呼吸するために挿管して、呼吸とともに痰を取り除く治療に入りました。
午後にはバイタル全て安定したのですが、体力を戻すということが難しいこと、今回治ったとしても、いつまたすぐに何が起こるかわからない事・・・
つまりは、父はもうそんなに長く生きられないということがわかりました。

数年生きたとしてもほぼ寝たきりだし、自分で何かをやるってことも難しくなるのでしょうね。

 

僕は小学生の頃から父のお酒のトラブルで嫌な思いをして来ました。
兄貴達はある程度大人になっていたのでうまく処理できていたのでしょう。でも、僕は常に母に付き添って親父のお見舞いに行ったりしてたのもあって、母が泣いてる姿を見たりしてたわけです。そして18年前に横浜で一人暮らしをしていた僕は、親父の介護のために夢から友人から何から全て投げて捨てて実家に戻って来たわけです。父が憎くてしょうがない時もありましたし、恨んでいた事もありました。去年の12月にはこれほど世話を毎日してるのに僕のことが誰かわからなくなってしまったり(何故か兄貴のことはしっかり覚えている)。嫌なことばかりですよ、親父のことを思い返すと。
でも、それでも、親父へのそういう怨みつらみを全部忘れて、親父が好きなように生きたいように生きるためにサポートしようって思った矢先のことです。2月に入院してやっと帰って来れる目処が立った時ですよ。
兄貴達は僕に親身になってくれることはないです。愚痴を聞いてくれる事もないし、僕を理解してくれる事もない。親父がいなくなったら僕は孤独になってしまうんですね。

そしてそんな僕のこと以上に、ずーっと半年以上病院や施設を行ったり来たりして、コロナ禍で家族にも会えずにもしかしたらそのまま死んでしまうかもしれない父が可哀想でしょうがないです。父が一生懸命働いてくれたからこそ僕達は生きて来れたわけだし、父は父でいろんなことを我慢して家族のために生きて来たわけだし。
体が不自由になってボケてしまって、家族だけで面倒を見ることは難しくなりましたけど、最後くらいは・・・って思うのです。今回の肺炎からなんとか治って、多少不自由であっても家に戻って来て欲しい・・・そう思います。もうこれ以上失うのは嫌だって思うのはワガママだし、自然の摂理に反してるってもわかってるのですが。


僕の人生はどこかで歯車が狂ってしまったのは理解してます。
それは僕自身の選択でもあったし、怠惰による結果の部分が大きいのも重々承知してます。でも、ちょいと疲れました。立派でなくてもいい、ささやかでいい、普通に暮らしたいです。生きたいです。
2013年末くらいからダメになって来てるのはわかってるんです。9月だからではなく、その頃から全てがおかしくなってしまってるんですね。

でもなかなか払拭できないどころか日々どんどん酷くなっている。
僕は自分自身の自己責任でこんなふうに陥ってしまったのは理解できてるので、せめて親父の命だけは救って欲しい・・・助かってほしい、そんな風に思います。

 

なんか、ブログを復活させてからこんな話ばかりでよろしくないな〜って思います。

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近くの花を見ることからやりなおそう

2021年09月16日 | Life

おはようございます。
珍しくこの時間に投稿と昨夜から3本目っていう。

このブログタイトルは多分、2013年に書いたやつと同じです。
今は非公開になってるのですが、内容はひと回り年下の友人から恋愛相談をされていた当時の自分の気持ちを書いていました。その知人には届かなかったと思うのだけど、高嶺の花に恋をするよりも身近な身の丈にあった人に恋した方が幸せだよって当時は彼に伝えていてね。でも、そんな風に恋をして自分を変えようと頑張ってることが羨ましいっていうような内容でした。締めは僕はもうずっと恋をしていないこと、結婚願望はあるけど自分が結婚したり恋をしてる姿が想像できないこと。もう歳をとってしまってそういう感覚がなくなったことなどが書かれてました。

まー、嘘ついてるよねw

当時は恋をしてたはずです。2013年だから8年ぶりとか9年ぶりとかに。

でもそれを隠してたわけですね。
隠した理由は友人に対してはブログ内容のような綺麗事を伝えていなかったからです。君の相手は無理だと言ってるよ。友達関係ならいいけど恋愛対象には見れないって。これ以上メールとかで好きって言われるのはきついって。そうじゃなければ友達同士今までの関係でいられるよ。

と。

ここまでキツくは言ってないけどなんとも嫌な役回りでした。
それとその相手からもここまできつくは言われてません。困ったなー、どうしよう・・・くらいですね。

「わかったーなんとかするよ」

って僕は友人にきつめに伝えたわけです。

つまりはブログで嘘をつき、それ以前に友人に対しても嘘をついたわけです。

 

うーん、嘘っていやですよ。

誰かのためについた嘘ならば、嘘をつくことによって誰かを守れるならば。これは必要な嘘だよ・・・

確かにそういうものは存在するでしょう。でも、1つの嘘がまた1つの嘘を呼ぶし、それらの嘘は月日がたつごとに真綿で自分の首を絞められるような思いにもなっていきます。

そして最近のことですが、信じていたことが嘘だったことがわかりました。
それで裏切られたとは思いません。相手は言葉をぼかしていたしはっきりとこれが真実だとは言ってませんでしたから。僕が勝手に解釈して、こうだと信じてしまったわけですからね。そしてそれを真実だと思い込んで、他に伝えて。結果的に僕はまた嘘をついてしまったことになるわけですね。

 

もうちょっとで46歳になります。
このブログを始めたがの30歳になる年で区切りに何か始めようみたいなところがありました。16年です。
まだまだ若輩のレベルであるとは思っているし社会経験が少ない僕ですから、生意気な事はいえません。でも、45年と10なんヶ月生きてきて、嘘はよくないってことは学びました。

嘘をつくことは自分を苦しめるのは間違いなく、誰かを信用できなくなってくるし、どんどん人の言うことを疑うようにもなっていきますからね。

このタイトルの記事をアップしたのは先ほども言いましたが2013年のことです。

2013年はいろんなことがありました。そして、ある意味において僕が死んだ年でもありました。

 

生きることは難しいです。
これから何かしら決断してさびしさを抱えながら生きるか、それともこのまま生きて何も得ず失い続けてそれに満足するか。ちょっと朝っぱらから暗い感じですが僕は元気です。ま、この記事はこっそりアップということにしますが。

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パチスロ理論

2021年09月16日 | Life

ちょっと考え事してたら眠れなくなったので珍しく2本目。

 

先に進んだ方がいいか、戻った方がいいか。

 

こういう話ってどんなものにもあると思う。

例えば家から10分の所に駅があったとする。4分行った所で雨が降ってきた。家に戻って傘を取ってくるか、それともそのまま駅に向かうか。

この場合は戻った方が得策かもしれない。ただそれだと遅刻してしまうって場合を除いて。

家から5分のとこだとまた事情が変わる。

 

こういう話。
コンコルド効果、コンコルドエフェクトって呼ばれるやつが1番似ているかな。

主に経済で使われる用語なので雨の話だと少しずれるかも。
コンコルドエフェクトについては検索して見てください。とても簡単な理論だし僕がこれから書くことはコンコルドエフェクトとは関係してるようであまり関係ないかもですw

パチンコでもパチスロでもいいんだけど、僕はパチスロ派だったのでパチスロの話で(もう10年以上ガチではやってませんが)。

 

よし、パチスロに行こうって思って5万円を財布に入れて出かけます。

しかし、2万円打った所でさっぱり出ません。

なんとなく良い雰囲気もあるのだけどさっぱりです。1万円追加します。

さっきより良い雰囲気が続くのですが、やはり出ません。

 

そこであなたはどうしますか?

 

って話です。

・さらに2万円追加すれば大爆発するかもしれない。
・さらに2万円追加すれば少しでて4万円持って帰れるかもしれない
・さらに2万円追加すれば、3万円持って帰れるかもしれない。
・さらに2万円追加して、2万円持って帰れるかもしれない。
・1万円だけ様子見て帰ろう。
・多分この台は出ない。だからもう帰ろう。

パターンとしてはこんな感じかな。
もちろん残金は2万円あるのだから、その金額分パターンはあるけどキリがないので省略です。

あなたはこの岐路に立った時にどんな風に考えて、どんな風に未来を想像して、どんな風にお金を使いますか?

 

5万円の予算で始めたのだから5万円失っても痛くないかもしれないですね。

3万円負けてしまいましたが、2万円は残ったので3万円分遊んだ・楽しんだと思えば少し気が楽かもしれませんね。

 

やはり、考えるの負ける事前提です、今の僕はw
でも、ガッツリとパチスロをやっていた時の僕は負けのイメージが頭をよぎりながらも、残りの2万円を使って大爆発させるイメージしか持ってなかったかもですねw

お金に余裕があったからそう考えるってのが1つ。
先々の事を考えるほどの頭や経験がなかったからそう考えるのが1つ。
パチスロが大好きでもっと遊びたいからそう考えるのが1つ。

さっき書いたブログに似通ってきますが、やはり若さってのは良いかもしれません。

っていうのは、そのように考えるのはお金がたくさんあるからって場合はほとんどあり得ないです。だって僕はずーっと貧乏ですものw
それでも楽観的に残りの2万円で大爆発するって考えられるのは、ここで全額失っても、またいつか5万円を持って勝負できるって考えていたからです。これが最後とか、5万円をまたギャンブルに使うのは難しいことって考えてませんもん。もう一度言います、僕はずっと貧乏でした。だから5万円は大金ですよ。でも、その5万円がまたすぐ手に入ると思ってるのは頭がイカれてますねw

でも、それが若さなんですよね。

失ったものや時間をあまり気にすることはないのですよ。

 

5万円って額は微妙にピンとこないかもしれませんがw

 

まー、5万円の価値を今は昔より知ってますから僕的にはこれで説明がつきます。
若さは思いっきりの良さであり、無謀さであり、無知であり、チャレンジャーであり・・・今は余裕のある5万円であっても3万円失ったら2万円をしっかり持ち帰ります。いや、1万円使った所でやめて4万円持ち帰るかもしれませんね。

これはお金の話です。

 

今、お金とは違うものでこの岐路に立ってるように思います。

このまま進めば失っていくことを理解してる。
このまま進んでも失うだけである。
このまま進めば失うけど、ほんの少し辛いだけで済む
このまま進んで失ったらもしかしたらほんの少しだけ自分を誇れるかもしれない。
今戻ってもすでに何も残っていない。
今戻ったらこれまで失ったものが全て無意味になる。
今戻ったら確実にゼロになる。
今戻ったら間違いなくしばらく動けなくなる。
今戻ったら0.1%くらいの確率でそこそこのプラスを得られるかもしれない。

うーん、わけわからないですよねw
さっきはお金でした。これはお金ではないです。失うもの得るものが統一されてないし、「得る」という言葉は使ってすらいませんね。なので謎解きはかなり厄介ですが、このままにしておきますw

なんかね、生きるってことは難しいってずーっと考えてきたけどさ、それは自分の選択と岐路に立った時のやはり選択と諦めや切り替えによって全然難しいことなんてないんだよなーって思う。でも、これって決めたことを貫き通そうとするとぐっと難しくなる。生き方考え方の問題だけど、貫くのはかっこいいってずっと思ってたし今でも思ってるわけで。

 

・・・って、久しぶりによーわからんこと書いてしまった。深夜の寝れないノリってことで許してください。

では、おやすみなさい。

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私の中から消えたもの♪

2021年09月15日 | Life

今日は親父のことでちょっと病院へ。
ケアマネさんソーシャルワーカーさんと共に今後の相談。やっぱり疲れますねこういうの。精神的な疲れのはずなんだけど不思議とガッツリと体力を持っていかれるような体力的な疲れがありました。
そういう時は何か食べたり、ちょっと贅沢したりしてすきっと気分を切り替えるのですがレディボーデンの何人前かの大きめのアイスクリームにがっつくってのが中々に素晴らしい憂さ晴らしです。398円くらいかな?僕のプチ贅沢ってそんなもんです。今日は売ってなかったのでハーゲンダッツを税込230円くらいでした。

さてさて。

ジッタリン・ジン / プレゼント ( Jitterin’ Jinn / Present )【MV】

 

懐かしいっすね。
僕と同年代の人なら聞いたことあると思います。ジッタリン・ジンさんの「プレゼント」

あなたが私にくれたもの〜♪

とプレゼントされたものを羅列していく歌詞がなんとも良いのですよね。
ユニオンジャックのランニングとか丸いレンズのサングラスとか、想像するとしょうもないものから良いものまで物が並びます。タンクトップではなくランニングってのが時代を感じるかもです。で、サビに入る前にシャガールみたいな青い夜、夢にまで見た淡い夢、あの日生まれた恋心の3つの素敵なプレゼントをもらってるのですが、この男は彼女がいるんですよね。思わせぶりなダメなやつですよほんと。

ま、ま、ま、試しに聞いて見てください。この頃の音楽はほんと好きだったな〜。

でね、なんとなーく久々にこの曲を思い出しのだけど、僕はこんなに色々プレゼントしてもらったことはもちろんないです。20年近く前にマフラーをプレゼントしてもらってそれが最後かな〜とかw

プレゼントが全てではないのですが、例えば何かを学んで知識を手に入れる、何かを練習して技術を手にするみたいなスキルをプラスしていくみたいなことがあると思うのですが、気がつけばそういうのも全然ないのですよ。過去の遺産だけで生きてるみたいなw
過去の遺産でなんとかなっているうちはいいけど、そろそろ世の中のことについていけなくなってるし、なんなら過去の遺産も失っているのですよ。

で、プレゼントを羅列するんじゃなくて、失ったもの、消えたもの、やめたものみたいなのを羅列してみようかな〜って思ったのです。全部ってなると相当な量になるので一部だけ。

 

・視力
 これまでは近眼(ど近眼)だったのですが、老眼がきましたね。プラモもう作れないです。作れるけどすげー疲れるようになりました。

・趣味(プラモ)
 これは視力とリンクしてますね。今は2階の納戸に塗装部屋まであるのだけど、ユニコーンガンダムのパーツを塗装するのと、デカールとコーティングだけ残ってるサザピーを仕上げるが終わったら解体する予定。あ、あとRGのνガンダムを塗るか塗らないかかな。

・趣味(サッカー観戦)
 日韓W杯前から、つか兄貴達の影響で旧トヨタカップを初期から知ってたりのサッカーファンだったのだけど、見なくなってしまいました。これは夜中のヨーロッパリーグの放送を見るのが辛くなったからwそしたら選手とかわからなくなってしまって。ま、いつかまた見るようになるかもね。W杯はしっかり見るし。

・飲酒
 お酒、本当に全く飲まなくなりました。家系的に酒強いし大好きだったのだけどね。親父が依存症で大変でその影響で18年も介護生活してるってのもあるけど、酒に負けなければいいわけでその線引きはしっかりできてたのでそれが原因ではないです。とあるお酒のトラブルに間接的に関わってあんたが1ヶ月そこらの禁酒できねーんだったら俺が一生やめてやる!!とやめました。もう少しで8年になります。酒は要りません。

・体力
 すぐに疲れたーってなります。すぐに腰が痛くなります。すぐにゴロっと横になります。ダメ人間です。はい。

・挑戦する心
 これはほんとダメだなーって。好奇心旺盛だからさ、写真学校行くのも大学で勉強するのも人より遅かったのだけどいけー!!って飛び込めたんだよね。今は何をやるのも恐怖心とかが勝ってしまうのですよね。ダメだね。ほんと。

・勇気
 何をやるにもびびるようになりました。

・バカができること
 やむを得ないですね歳をとりましたから。横浜に行ったばかりの頃、バイト先の友達と社員さんとアホみたいに飲んで食べて、帰り際に50メートル走して転んだり、逆上がりしたり・・・夜中に突然遠出したり。そういう馬鹿やれなくなりました。実はまだやりたいです。

・恋
 こいするこ〜とに〜疲れた〜み〜たい〜

・自由
 18年前に始まった介護生活ですが当初は立場的には母の手伝いをするって感じだったので好き勝手できる時間がありました。お金がなかったからそうもいかなかったけどさ。2013年にたくさん好き勝手やったのだけど、この時は少しだけこれが最後かな〜って感じてたので借金してでも無理したんだよね。見事に翌年から自由がなくなりました。

・母
 一つ前の自由の続きですね。母を5年前に病気で亡くしました。これによって介護は全て僕に回ってきたので自由がほんとなくなりました。なんとか介護施設などを利用させてもらって時間を作ってた時期もありましたが、去年からのコロナ禍と親父の病気でもう自由はないですね。
そして、僕にとって唯一の味方だった母がいなくなったのは人生の中でもものすごく大きな喪失です。なので多くは語れません。

・愛犬
 16歳と10ヶ月でした。去年の5月末のことですね。ある時から耳が遠くなったり、寝てばかりにはなったのですが最後はあっという間でした。この子がいなくなったらきついなーってずっと思ってたのですが、いなくなって1年でさらにそれを実感してます。依存してたんだなーって。

・筋肉
 母が亡くなって親父の介護が本格化してから5年ですが、ダイエットしてないし食べる量も減ってないのに20数キロ痩せました。筋トレなどをしてないので、筋肉がごっそりなくなりました。だから疲れるようになったんですね。体力を失ったわけです、筋肉と共に。

・人を信じる心
 これは限定的です。信用してる人は無茶苦茶信用してて確固たるものができてます。でも、なんか嘘くさいなーこの人って思うことが多くなりましたね。

・センスとか発想力
 センスがいいわけではないです。でも勉強するのもなんでも何気に自分の発想力ってのが武器だって思っていました。今となってはなーんも思い浮かびませんw

 

他にもたくさんあるのですが、色々失ってますねw
でも、父の介護が終わったら人生をリスタートしなきゃならないし、そうなったらまた面白いことをやりたいなーっても思うのです。でも、若い頃のようにはいかないのですね。若い頃だって立派な物じゃなかったのだから、相当気合入れて覚悟を決めてやらないと何事も難しくなります。

 

頑張れるかな、僕は。

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ボタンの掛け違い

2021年09月12日 | Life

ちょっと数日間寝不足になったのですが、少しだけ面白い体験をしました。
まー、よくない話ですよ本当は。寝不足になったせいか、ちょっとぼーっとするタイミングがあると意識が遠のくように寝落ちすることがあったんです。何度か。でもほんの短い時間なんですよ。長くても3分とか。それなのに夢を見るんですね、不思議と。眠る、夢を見る、起きる、夢を忘れるの流れが短期間で起こるので、その2、3分の時間がものすごく長く感じたり、夢と現実の違いがわからなくなったり。まー、精神的には危ういことなんだと思うのだけど、しっかりとその現象を把握できたから面白かったし、良い経験になったかなーと。

これが続くと心が病んだりするのかも・・・ってチラッと思ったりもしたのだけど、今はすっかりと回復して眠れてもいるので大丈夫です。

この流れであまり良くない話を書くと、あーやばいなーって雰囲気を醸し出してしまうので避けたいところなのですが、あまり良くない話ですね、はい。

 

僕は比較的運がない方だと思います。

それでも雑誌などの懸賞にたまに当たったり、昨年は宝くじにも当たりました。
こういうたまに起こるプチラッキー(宝くじは少額ではなかったけど、遊べるだけの高額でもなかった)を繰り返すことで運を使い切ったりしてるのだと思います。
あとは人生で2回くると言われてるチャンスなのですが、他の・・・・例えば大成するための技術や能力・才能もなかったのに必死に頑張ってそれしか見えなかった写真をやっていた時期に、あまりにものめり込み過ぎて1度目のチャンスが通り過ぎてしまったかもしれないし、あー、不幸だなー不幸だなーって塞ぎ込んでて、チャンスがきたよーって肩をトントンと叩かれたのに、落ち込んでるからほっといてくれよとチャンスを無視して2回目が通り過ぎていってしまったり。

なんか、そんな気がしないでもないですw

18年前に母と父が相次いで倒れて実家に戻る決心をしたのですがこれも自分で決めた事です。
横浜に残って実家のことなんて知ったこっちゃないとすることもできただろうし、横浜の家をキープしつつ半年後に戻るなんて選択もあったかもしれないです。でも、僕は完全に家に帰ることを選択したのだから、これは自分で決めたこと。

その間に愛犬と出会って昨年亡くなるまで楽しい時間を過ごさせてもらったし、母の看病をすることもできた。親父のことはまだまだ最中であるしこれからどうなるかわからないけど、良い結末にしようと考えてる。

なんていうか選択は間違ってなかったし、そうしたいっておもうんだよね。実際、どんなに歳をとっても自分の人生を自分らしく生きよう、その方法を探そう、行動しようっては思っていたわけだし。

でも、ある時期からどんどん心が前を向こうとしなくなってきてるのを感じるのですね。

何年前だろ。

ふとしたことでボタンを掛け違えてしまったことに気づきました。いつの間にかではなくしっかりはっきりと、あ、間違えたって感覚があったんですよ。

 

これまでの自分の生き方がそんな掛け違えがあっては直しても繰り返しだったからなんとなかるって思って、ずーっと何年も掛け違えを直そうとしたし、自然と直ると信じてもいたのですが、どうやらこの掛け違いは直すのがとても難しい掛け違いだったようでね。気がつけば直すことができなくなってた。例えるならボタンが全部取れて、ボタンホールが全て塞がれるか破れていたみたいな。

なんだろう。

遺伝か環境かって話だと、ほとんどが遺伝で決まるってことがわかってきてるみたいな話を聞いた。
能力が低ければ努力をしなさいと言われるわけですが、能力がある人が努力しちゃってるのでなかなかに追いつけないし、追い越せないのですね。でも、努力するには努力できる才能というか遺伝子が必要らしいんのですよ。僕は興味があること以外には無関心な子供で努力が苦手だったんです。試験勉強は一夜漬けしかしたことないし、授業中にその科目の資料集を必死に見たりすることがあったり、逆に授業を聞かなきゃって緊張し過ぎて何も耳に入ってこなかったり。
成績が悪いのも受験を失敗したのも自分が悪いのですが、努力が足りなかったことが悪いわけで他の人が当たり前にできることができないのに必死に頑張らない自分が悪いわけですね。

なので今更努力できるかどうかも遺伝子で決まるって言われてもピンと来ないし、普通より記憶力が良いのでそうやって努力をしてこなかった歴史もしっかりと覚えていて、常に自分が悪いっていうのに苛まれたり、努力しなかったのに良い思いをしていいのだろうか?ってなったり。

だからこのボタンの掛け違いだけでも必死に努力して元に戻そうってしたんだけどな〜。

ま、そういうもんですよねって話です。

運が悪いなーって思ってるのも実はその配分が悪かっただけなんですよね。
小刻みに小さく小さく運を使ってしまうから大きなラッキーはないのですよ。

あるはずの2回のチャンスにも気がつかなければそれはそれでおしまい。

本来できるはずの努力も使い所を間違うと成功にはつながらない。

 

ちょっとオカルト的な話が多く含まれてますけどねw

 

今考えてるのは努力しても無駄ならその努力をやめてしまう。それか努力し続ければどんなにボタンが取れようがボタンホールが破れようがいつかはなんとかなるし報われると考えるか。

どれもこれもラッキーを待ってるようで嫌な感じしかしないんですけどね。
それでも努力は人を裏切らない世の中であってほしいよね〜っては思うのですね。

 

ほんの少しだけいろんなことから逃げて海外移住なんてできたらいいかな〜って考えてしまうのでした。

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親父の現在

2021年09月10日 | Life

一気に涼しくなったなーって感じがするのですが雨が多くてなんとも過ごし易いとは言い難い毎日にうんざりです。

この数年の異常気象というかなんというか、僕が子供の頃にはこういうのは数年に一度歩かないかみたいな気象状況が続いてるように思います。温暖化と同時に氷河期突入の雰囲気もあるらしく、そろそろ人類は宇宙に出るべきだよなー出たいよねーって思う毎日です。嘘ですが。

さて、うちの親父の話です。

昨年、原因不明の病気で3ヶ月ほどリハビリ病院も含めて入院し年末には僕のことを忘れるみたいな風に痴呆症の方も少しずつ進行していました。ショートステイを利用しながらなんとか介護をしてきたのですが、これから大変になっていくばかりだなーって思い始めた今年の2月に調子を崩し入院をしました。

尿閉(おしっこをしたくても出ない)などの症状があり、それもやはり原因不明で老化によるものだろうと。そして入院中に血中ナトリウム値が低下したりの他の症状も出て入院が長引いてしまいました。結局、どれも原因がわからずじまい。尿閉はよくならず、ずっと導尿カテーテルをつけたまま過ごすようになりました。
入院生活が長引いたので、退院後はリハビリ病院に入院。このまま家に帰ってきてもおしっこの処理や食事のことなど課題が山積みだったので、リハビリ病院のあとは老健施設に入所してもらい、時間を稼ぐということになりました。

僕的には親父が老健施設(3ヶ月入所可能)に入っている間に、心の準備とやりたい事やらなくちゃならない事を進めたり準備したりの時間としました。他にはケアマネージャーさんや主治医と相談し今後の介護や医療の方針を定めていくような時間・・・ま、僕が精神的に参ってしまっていてそれを元に戻すための時間っていうのがほとんどだったのですが。

 

とにかく、もう一度親父の介護を仕切り直すための時間をもらった感じです。

 

そして先月の末に親父は退所予定でした。

退所に向けて家にケアマネージャー、施設スタッフ、介護ショップスタッフ、そして新たに利用することになった訪問看護スタッフと親父本人が集まって、歩行するための器具は何にするか?それを利用するためには何が必要か?何に気をつけるか?今後の食事はどうするか?施設利用はどうするか?訪問看護の契約・・・などなど、介護関連者ミーティングとシミュレーションをしました。

その2週間後に親父は退所予定だったので、それに向けてミーティング&シミュレーションの結果に基づいて調整してたんですね。

そして親父の退所2日前でした。施設から電話が来たのです。

 

「本日、肺炎で入院となりました」

 

もう半年以上家に帰ってこれてなくて、やっと帰れることになったのに。
僕も完全ではないけどしっかりと心の準備等々を整えていましたし、なんといっても親父がかわいそうで。

その日の朝からなんとなく食欲がなかったらしいのです。で、お昼くらいに息苦しさと咳が出るようなゼーゼーっていう感じを訴えたので、パルスオキシメーターで酸素飽和量を検査したところ、60台だったそうで。もう死んでるレベルですよ。すぐに酸素吸入をして95くらいまでは戻ったのだけど、肺炎なのは間違いないから入院しなければならないと。

幸いなことに新型コロナではなかったです。

その施設のお医者さんは言及はしなかったのですが、医者から聞いた症状を主治医に伝えたところ典型的な誤嚥性肺炎の症状とのこと。1週間から10日間治療すれば大丈夫だろうってことで一安心だったのですが、後期高齢者である父にとって肺炎はヤバいだろう・・・ってなるわけですよ。親父が死んでしまったらどうしよう・・・そんな気持ちでいっぱいいっぱいでした。40代後半にもなる僕なわけですが、それでも家族を失うのはきついのですよ。親父の介護のおかげで散々に苦労したどころか親父のために人生を捧げてしまったみたいなところがあるのですが、それでも大事な親父です。数少ない僕の理解者であり味方でもあるのですよね。もうちょっと生きてて欲しいわけです。

今は状態が安定しているようで、ほっとしています。

で、今後、親父の介護で考えていかなければならないことがいくつか増えました。
まずは肺炎になる前の症状についてですね。閉尿によるカテーテルの扱いについて、足が少し弱っていることから家の中での行動のサポートについて。カテーテルをつけていても家のお風呂に入れることはできます。でも、ちょっと僕には自信がなかったので、これまでのショートステイに加えて週に1度のデイケアを使うこと、これまた週に1度の訪問看護を使うこと。この2つをバランスよく配置してお風呂問題は解決します。あとはリハビリもショートステイだけではなくデイケアで補完できるので、こちらも大丈夫。歩行器もこれまでのとタイプの違うものにすることで様子を見ることに。

ここまでが肺炎になる前までの予定です。

誤嚥性肺炎ということで、食事を気をつけなければなりません。食事、飲み物にとろみをつけたり大きさや柔らかさを考えたり。さらには体重が激減しているんで(入院前52キロあったのが38キロまで落ちてしまった)、タンパク質をしっかりとってもらうことを含めた体力増強・・・

他にも色々あるのですが、トータルで考えると僕は寝る暇がなさそうですw

 

こんな状況でも親父の要介護レベルは2なんですよね。
もちろん施設に入ることはできますが、特養ホームは介護レベル3からなので使用料が高い施設しか使えないのですよ。なのでしばらくは家での介護になります。親父がは家が大好きなので施設に入れるのも状況だけではなく感情的な意味で難しいのです。

 

ま、ま、色々とあるのですが、まずは無事に退院してくれること。それからしっかりと体力を戻してもらって長生きしてもらうことですね。

 

いつも言いますが介護はケースバイケースです。
寝たきりじゃないから楽でしょうって思われがちですが、動ける方が大変な場合もあります。それから介護レベルの設定がとても微妙にできているので金銭的な負担についても収入が多いから楽ってわけではなくて、やはり良いバランスってのがあるのですよね。今後はそういう介護に関する問題だけじゃなく、僕の体力面精神面のトラブルも起こりかねないのでそういうことも含めてしっかりした準備していかねばならないのです。

親父の介護の先に何か楽しみやご褒美があるのなら僕はいくらでも踏ん張れますが、介護の先にあるのは親父の死と僕の加齢なわけです。先が見えないというより、先に良いことが全然なかったりするので親の介護って本当に難しい問題だなと他人事のように思っています。ま、頑張りますよ・・・

コメント
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