@PAYASO

少しだけ更新再開してます(愚痴オンリー)

昔話。

2021年07月20日 | Life

昨夜、とある経緯でピアノのコンクールの動画を見ていました。

コンクールはのだめカンタービレでくらいしか知らない世界で、思わず見入ってしまいました。
ピアノなのでそれこそ3歳とかから休む暇もないくらいに努力して、そういう猛者達が集まる中で選抜されてやっと出場。1位になるにはさらに、さらに・・・途方もないことだよね。

ピアノには詳しくないし、クラシックになるとさらに詳しくないのだけど、昔から1番好きな音色はピアノの音だし、ピアノソロっていうのも好きなんですね。あーいいな〜って聞いてるその音色は弛まぬ努力の成果なんだと思うと敬服するのでした。

で、自分がやってた写真の事を少し思い出したので、趣味としてもシャッターを切ることがなくなった僕の昔話でもしようかなと。

 

 

この写真、先日部屋掃除をしていた時に出てきたものです。

ネガもプリントもほとんど処分してしまったし、残してあるものも押し入れの奥の方にしまってあって出そうと思うと1日仕事になる始末。

手元に残してあったのだからこの写真はすごいお気に入りなんです!!

と言いたい所なんだけど、これは大失敗作。
写真自体が面白くないのは言うまでもなく、撮影条件、露出、現像、プリント・・・写真の要素全てにおいて失敗してるんですよwしかも写真のしゃの字もわかってない、理解していないから当時は何がダメなのかすぐに理解できず、頭を悩ましたこともあって、お気に入りというより、大失敗の戒めとして学生の時に近くにおいてあったんですよ。で、引っ越すときにそのままになったと。

何がダメなのか解説していきます。

まず被写体が壊滅的にダメです。
一見、少し昔風に商店街の日常的な風景で情緒的で良さげって思わなくもないのですが、それがダメなんです。情緒的って言うのがとても大きなポイントで、自分の主観的な感情が大きく盛り込まれてるわけですね。あー、この商店街好きだな〜、おばちゃんが買い物してる姿っていいよな〜とか(この写真からはそれすら感じられないけどw)。これって僕自身の主観であって、誰かに見せる作品として考えた時に単なる感情の押し付けでしかないんですね。
著名人の気持ちや感覚だったら価値があるものですが、単なる一個人の感情なんて面白くもなんともないんです。しかもそれをなんかしらのテーマやタイトルで括って押し付けようとしているわけだからタチが悪い。

これはスナップで撮っていますし人物も写っていますが、風景として撮っています。

つまりは人間が行ける範囲、写真を撮れる範囲の中の一部を切り取って作品としようとしているわけです。
世界はとても広くて面白いことがたくさんあります。写真を撮影する上で個性や個人、個人の主観、情緒とは切っても切り離せないのですが、そんなつまらないものを全面に出すよりも世界それ自体が持ってる可能性っていうのはとても大きいんです。広くて大きくて深い・・・それこそちっぽけな人間と比較した無限大に広がっているのが世界なんです。
そんな世界を見ず知らずの個人の範疇で収めてしまうことってつまらなくないですか?

感情を乗せる、自分の主観や情緒を乗せる・・・それこそがテーマだ!俺の写真だ!

これがくだらないんですよね。つまらない、もはやうんこレベルです。
まだ学校に入って2ヶ月の僕にはそれが理解できず、例え、暗室実習用に撮ったものであっても(この写真はまさにそれでした)、うんこはうんこなんです。カメラマン、写真家は黒子です。主役は被写体であり、出来上がった写真なんです。この辺の感覚がどうしても難しいのですが・・・個性が必要ないとは言ってないのです。

次に技術的な話。
露出はまあまあいいとこいってると思います。カメラ任せですから当然ですw
でも、

青く囲まれた部分は白飛びしてます。
赤く囲まれた部分はさらに酷いです。

調子を整える。

一言で言うとこれなんですが、その意味がわかってなかった僕でした。
逆光で撮影、コントラストが高過ぎる被写体・・・この2つだけで撮影条件が非常に厳しいです。そういった場所を被写体として選んだ時点で1つ失敗してます。次に露出を取る際にどこを基準とするかに失敗してます(オートにしてマルチ測光だとしても調整は必要です)。

建物の影響で日陰になってる手前。しかも画面の多くを占領してますね。
なので、この写真はかなり暗い所で撮影されてるんです。それに対して奥の部分は思いっきり晴れていて明るい。コントラスが高い写真はモノクロの場合は黒と白が極端に出てしまいダメな写真となります。
良い写真は真っ黒に近い黒から真っ白に近い白までがあって、その間のグレーの階調性が豊かにあるものです。この写真は間がないのです。後で説明しますが、パース(パースペクティブ。遠近感)が出てしまってるのもこの写真のつまらない部分なのですが、その奥行き部分が白くなってしまってます。そして手前の赤丸の発泡スチロールです。真っ白です。

この写真は先生に注意と指導をされて何度か焼き直しています。

その際に奥の青丸の部分は焼き込みってのをしています。
焼き込みとは、印画紙に露光する際に、1度全体をあたりをつけた時間で露光した後に焼きが足りない部分を追加して焼く技術です。追加露光したくない部分には当たらないように露光します。逆に黒くつぶれてしまって露光したくない場所を覆うのを覆い焼きと言います。焼き込みは最初にやってからやる場合と後からの場合、どちらかでできると言えばできますが後からやったほうがコントロールはしやすいですね。逆に焼き込みをすべきところに露出を合わせて、他のノーマルな部分を覆い焼きするって方法もあって、覆い焼きと焼き込みは背中合わせみたいなもんなんですよね。

焼き込みをやっているからギリグレーで出てくれてますね。でもまだまだ明るすぎて、階調性の乏しさ、コントラストの高さの原因になってます。

より酷いのは赤丸の発泡スチロールです。

これは先生にこの部分が白すぎるから焼き込みをしろって言われたのです、青丸の部分と同じで。
でも、これが僕には理解できませんでした。

青丸の部分は実際は日が照っているとはいえ、実際はもっと色が濃い風景でした。だから焼き込みが必要なのが理解できました。

でも、発泡スチロールは真新しいもので、真っ白でした。なんならこの写真よりもずっと真っ白でした。実物がそうだからこのままでよくて焼き込みしてグレーにする必要がない!!そんな風に思ったのです。

しかし写真は現実を写しているけど、そのまま現実であることが正しいわけではないんですよね。

あくまでも画面の中の階調性がよくなければならないのです。
この写真の場合、青丸部分と赤丸の発泡スチロールのせいでコントラストが高くなってるし、発泡スチロールに至っては写真の全てをぶち壊すくらいに明るすぎるのです。よーく見ると発泡スチロールのディテールも見えますが、こんなん見えるとはいえないです。
焼き込んで周囲と合わせたグレーにまで濃度を濃くして、さらには発泡スチロールのディテールが見えるようにするのが正解なんです。

ただ、ここまで明るいとディテールが残ってるかどうかが怪しいです。
白飛びし過ぎて消えちゃってる場合があります。このネガがどこにあるかもわからないし、改めてプリントするのも現状では難しいので確認はできませんが、ディテールはわずかに残ってる程度でしょう。

つまりは、露出、撮影条件の段階、つまりはシャッターを押す段階で失敗してるのです。

撮影条件と露出が悪いから現像で調整するってのもありますが、そこまで激変するほどには助けることはできません。そんなネガなので、プリントで焼き込みや覆い焼きをしても助けるのは難しい・・・

プリンがうまくいかない

ネガのせい

ネガが悪いのは撮影のせい

この3つ。
シャッターを押す時が1番大切ってのがわかります。
シャッターを押す時の露出、フィルム選び、撮影場所(人なども含めて)の撮影条件(天気、時間、屋根など諸条件)・・・これら全てが揃ってようやく、良いネガができる条件が揃い。良いネガを作るための良い現像をしてこそ、ファインプリントの第一歩なわけです。

 

こういうのを理解してなかった専門学校1年の前期の自分が恐ろしく怖いですよw

300本以上のフィルムを無駄にしてたわけですから。もちろん、この先も撮影と現像・プリントの奥深さに翻弄され続け答えなんて見つからないままに学校を卒業し写真をやめる現在に至っているわけです。

 

写真の面白さってなんだろう?

趣味や日常なら面白いと思うもの、楽しいって思うもの、美しいって思うもの、懐かしいって思うもの、感動的って思うものなんでもいいです。良いって感じたのが良い写真です。撮ってて楽しいってのが良い写真活動です。
でも、作家としてやっていくためにはそれじゃダメなんです。

これはもう写真をやめてしまった僕には言葉にできませんので省きますが、時には普遍的であったり、時にはその時代のものであったり、時にはセンセーショナルなものだったり・・・作品には幅がありますのでいつか出会うかもしれない何かが写真作品になるのだと思います。

少し話を戻して、青丸の部分が奥行きが出過ぎててダメってありましたが、この辺は作品作りの1つの手法だと思います。遠近感って写真的なんですよね。手前の物から消失点まであるってなると肉眼で見えたものをそのまま押さえる写真がより写真的になってしまう。奥行きは当たり前にあることなんだけど、写真の小さな世界に閉じ込めるとそれが際立っちゃうというか。ま、つまらない写真になってしまうんです。

そういうので最近気になるのは被写界深度を利用した写真ですね。

花の写真やなんかによくある、手前にピントを合わせて奥をぼかすアレです。
もう一般常識になってると思うので詳しい解説は省きますが、スマホで撮れるようになったし、なんと言ってもレンズが交換できる一眼レフやミラーレスが普及した結果、よく使われる、よく見る写真になりました。

これも写真らし過ぎるので作品を作るときの遠近感と同じ扱いにしちゃっても良いんじゃないかな〜って思うことがあります。

昔はそんな簡単ではなかったし、大型カメラでやるとより綺麗にボケるとかそういう世界の話だったのですがワンタッチで誰にでもできるようになったし、何よりその仕組みを知らなくてもできるようになった。そして、簡単綺麗にできるようになったので、より写真らしい写真になっちゃったんやないかな〜って思います。

もちろん、大前提として個展や写真集のように作品にする場合の話ですよ。

商業的な写真・・・例えば雑誌のグラビアなんかはどんどん使った方がいいでしょう。主役のアイドルを際立たせるためには最高だし、なんなら背景が鬱陶しい場合もありますので。
趣味などで綺麗な写真を撮りたい場合も最高のツールになりますね!僕も庭の桜を撮るときや、今は亡き愛犬を撮る場合、映えない手料理を撮る場合によく使います。つか、気持ち良いですからね、後ろのボケが。

 

僕はあくまでも作家を目指してやってたので、あれこれ難しい話が出てくるんです。

でも、写真を楽しむためにはなんでもありです。楽しいって思う気持ちが1番大切ですから。

 

僕は何度も書きますが、作家を目指してました。
だからこめんどくさいルール的なものや、これは有り、これは無しみたいな良い写真の条件的な部分など理解できることも、全然理解できてないことも含めて、全て作品作りの要素として、条件として写真に埋め込んで撮影し現像してきました。それが楽しかったし、将来を考えてワクワクもしたし、何より何百カットに出るか出ないかの1枚の作品になる写真を作る喜びの中でやっていました。
ある時迷って悩んで、手遅れになってしまって、写真からは離れましたが。

 

本当は写真の賞の話もしたかったのですが、それはここまで。
というか、もうその話をすることもないかもwしたとしても思いつきとか気分とかでしょうね。

真剣にやる、何かを手に入れるため、何かに辿り着くために惜しみなく努力をするっていう事は最高に楽しい事だったなって今となっては思います。当時は辛い部分もたくさんありましたから。
いろんな問題を無視してでも続ける価値があった事だったな〜っても思います。

 

生きるためにはこういうものって大事なんだなって。そんな昔話です。

 


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