笛吹き朗人のブログ

器楽は苦手でしたがサラリーマンを終えた65歳から篠笛を習っています。篠笛を中心に日々のリタイア生活を紹介します。

「生きるための論語」を読む( 続)

2012-11-08 11:07:04 | 日記
2.論語は何故、多様な解釈がされるのか?

科学的な論文でもある程度はあるが、思想的なものは解釈が多様になる。

「論語」が多様な解釈を生んできた理由について、私は次のように思う。

① 、ことば本来が持つ多義性によるもの。
*常に、言葉は多義であり、今でも外国の著作や映画の翻訳でおよそ意味の通じないものがある。
ーー 私の経験では、入社まもなくの頃、外国文献の下訳をさせられた際、PENSION を いわゆるペンション(安宿)と訳したため、全く意味が通じないという失敗をした。(PEN SIONには、「年金」という意味があることを知らず、辞書も引かなかったため、失敗した)

② 、「論語」が一人の人間あるいは著者グループとして統一した考えの下に記述されたものでなく、 孔子又はその弟子の言った言葉の「断片」を集めたものであること。 *雑誌や年鑑などで、様々な著者が十分な意識合わせの無いままに書くため、それぞれの論文で定義が違っている、ということはよくある。

③ 、孔子の時代には文章の文法がキチンと整理されていなかったのではないか。
*現在の北京語は漢字も制限されており、文法も整理されている。 しかし、もともとが象形文字である漢字を並べて記述するために、あまり文法にこだわらなくてもそれなりに意味は通じる。
13億人の国民で沢山の方言がありながら統一出来ているのは、共通語としての漢字のおかげと言われている。
*多分、孔子の時代の文法は整理されていないから、言葉が抜けていたり、言葉の順序が違ったりしているものがあるのではないか。

④、政治的意図によるもの
・あらゆる時代に、権力関係にあるもの(権力者ばかりか、権力を目指すものも、)は、有力な思想を自分に都合よく使おうとする。

現在で言えば「民主主義」であり、「地方分権」であり、「環境問題」であり、「エネルギー問題」である。

その根本的な理念と離れたシンボルとしての言葉が使われる。
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「生きるための論語」を読む

2012-11-08 10:51:05 | 日記
11月7日、恒例の大学時代の仲間6人の勉強会がお茶の水のカラオケ店であった。

今回の課題図書は私が選んだ「生きるための論語」(安冨歩・ちくま新書)です。
今回、私は提案者でありながら個人的所要に追われ、十分な読み込みができず、従ってレポートもお座なりなモノになってしまった。残念である。

更に、報告担当者のSさんが2日前に体調を崩し20枚にわたるダイジェスト・レポートをFAXで送って来て、私に「代わりに報告してくれ」と言うことになった。

代理は上手く出来なかったが、高校の倫理・社会の先生をしていたIさんが、授業で使ったレジュメでポイントを押さえた説明をしてくれたので助かりました。

以下は私のレポートです。

(1)、私が今回この本を提起したのは、「中国、韓国、日本の間で領土問題が起きてお互いにぎすぎすした関係になっているが、各国とも「儒教」をベースに置いた国ではないか。儒教のおおもとになる「論語」について勉強したら、何か解決の糸口が見つかるかも」というものでした。

結論からいうと、「見つかりませんでした。」

(2)、この本を読んでの最大の収穫は、これまで学校で習ったり様々な書籍で読んできた「論語」の解釈に無理が多く、安冨氏の解釈は納得しやすいということでした。

その最大のものが「学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。」についての解釈です。

これまで、私は、「学んでは適当な時期におさらいする。いかにも心嬉しいことだね。だれか同じ道を学ぶ友達が遠いところ
から訪ねてくる。いかにも楽しいことだね。人が分かってくれなくても気にかけない。いかにも君子だね」という解釈を、「へえー、そう解釈するのか」と受け止めてきました。

しかし、今回、「習」の意味がこれまでの「復習する」ではなく、「身につくこと」であり、全体の解釈も「何かを学んで、それがあるときハタと理解できて、しっかり身につくことはよろこびではないか」ということであり、そのことは「昔から知り合いだった友達が突然遠くから訪ねてきてくれたような感じがしないか、よく来てくれたなあ、という感じで楽しくてうれしくてたまらないのではないか」というので、「これなら納得できる」と思ったのである。

さらに、「他人が分からないからと言って「こいつ、わかっとらん」などとブチ切れたりしない。それは全く君子ではないか」となっている。

非常に納得のいく解釈である。

このような「人間の本性に即した解釈」(私の考え)が続くのである。

(3)、著者は、「論語は、学習に基ずく社会秩序を提起している」と言い、そして、論語をサイバネテックス(人間機械論のR.ウイナー)や現代経営(P.ドラッカー)にまで援用している。

この点は、勉強不足でわからない点もあるが、何でも「論語」で解決するというのは好きではない。

(4)今回、「論語」の理解を進めようとして「論語入門」(岩波新書)と「論語と算盤」(渋沢栄一;図書刊行会)も買った。

前者は、旧来の解釈をもとにして孔子の姿を描き出そうというもので、あまり参考にならなかった。

後者は、ほとんど読んでいない。以前読んだことを思い出すと、「商売やるにも倫理観を以てやることが成功する」ということだったと思う。

(5)どうも、「論語」に関する本を読んでも、中国、韓国、日本を支配している儒教のことは理解できないので、もう1冊、「儒教とは何か」(中公新書)を買った。

これも、十分に読みこなしてはいないが、
① 、今の日本の仏教的な慣習の多くは、仏教からでなく儒教から来ていること

② 中国人は「現世の快楽を措いて他に何があろう」という現世主義であり、それだけに「死が大変な恐怖になる」が、死後、この世に帰ってくることを願う考えができた。孔子以前に「原儒」と言われるものがあり、それはこの考えを宗教的に担う「シャーマン」のようなものであった。

③ 孔子が原儒の中から『礼教性』を取り出して、整理したことで、儒教が中央集権国家の指導理念になりうるようになったこと

④ 、孔子の思想がその後、別れて儒家と法家ができたこと

などが分かり、私の当初の目的に近い中身の本だった。

(6)江戸時代には日本でも、論語の解釈をめぐる荻生徂徠と伊藤仁斎との対立や本居宣長による論語否定(国学)がされるなど解釈が多様になったのは何故だろうか?と考えるようになった。(続く)
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