昨日の八女津媛神社から、更に車で五分程登った処に良く整備された御陵(みささぎ)が在る。
八女津媛の時代から約1.200年後の南北朝時代に
征西将軍として赴任していた良成親王の御陵だ。
後醍醐天皇が、鎌倉幕府執権北条高時の失政を質す為に楠木正成らと挙兵してから45年後のこと、
後醍醐天皇の孫にあたる親王は12人の臣下と共に九州に下った、まだ6才だったと言う。
以来、南北朝の和議(明徳の和約)が成立した後も
九州各地を転戦されたのち、足利勢の包囲を受けながらも守り通したここ大杣(おおとま)の地(八女市矢部村大杣)に三十代半ばで薨去なされた。
陵墓は六角形の縁石の有る円墳である。
これが八角形となると天皇皇后クラスとなる。
いずれにせよ明治11年5月、皇室陵墓として治定
され、忌日の10月8日には祭りが執り行われる。
八女津媛様を訪ねて、良成親王の御墓に案内されるとは思わなかった。
更に史籍を調べて、我がご先祖と深いご縁のある
方だと知ると、奇しき縁を感じざるを得ない。
兎も角も皇室に生まれたが故に、時代を歴史の当事者として戦乱の中に送られた宮の生涯を思うと
また新たに「この国のかたち」を想うのである。
そして、菊池の流れもまた誇らしく思へて来る。
〈分け入りて 知れば縁よ 冬の山〉放浪子
季語・冬の山(冬)
11月16日〔金〕曇りのち雨
産経新聞に歴代天皇の御陵についての連載が10月11日から始まっている。
古事記について勝手なブログを書いたので、検証
の為に読んでいるが、書き始める前に掲載してくれれば良かったのにと、また勝ってに思う。
そんな時の陵墓との出会いであった。
やはり八女には何かがある。
良成親王の前に征西将軍として下向されたのは、
護良親王であった。
最初から阿蘇・菊池氏を拠り所としていた。
その後、中央の攻防を担う為に護良親王は大和に戻られ、南朝の御旗として良成親王が下られた。
以来、阿蘇・菊池の名だたる武将は死んだ。
にも拘らず、八女の矢部村が最終最後の砦として難攻不落であったことを知ると、なんだか不思議な感動に邂逅する。
やはり、八女津媛がお守りされたのではないか?
何度でも足を運びたくなって来ている。