「イヤじゃ〜ぁ!イヤじゃイヤじゃ!」
八女津媛神社の境内を震わして卑弥呼の
声が響いた。
共に巫女の修行を積んだ少女達が心配げ
に周りを囲んでる。
ご神託を授かった八女の大巫女が諄々と
言い聞かせた。
「姫巫女、汝は天孫の血を引く者ぞ、
嘆くで無い。
汝が唐の津に行くことによって、和平が
なるのじゃ。
天御中主大神や天照大巫女が望むのは、
戦さが止む事じゃ」
唐の津とは、佐賀県唐津市である。
今でも弥生中期の遺跡が集中してある。
当時は渡来人の都であった。
博多湾は奴国であって、湾の入口を守る
志賀島は海人安曇一族の根拠地である。
従って正使以外の渡来人は、唐津に入港
していたのである。
八女の大巫女の言葉を聞いて、
「ハイ!」と卑弥呼は小さく答えた。
それでも皆と別れるのは辛い。
少女達は、神窟(かみのいわや)の中で肩
を寄せ合いさめざめと泣いた。
魏志には共立したと書いてあるが、実は
天孫族から渡来系部族への人質である。
天孫族は神権政治であるから選ばれたの
は巫女さんであった。
年若い巫女は純粋であるが故に神が降り
易いと言われる。
卑弥呼は人一倍霊力に優れていた。
だから神託が降ったのであろう。
講和会議には、卑弥呼と兄のヒミココ、
そして、八女ヤマトの反乱を起こしたタ
ギシミミ命の弟キスミミ命が同行した。
主題は、渡来系部族の本領安堵である。
彼れらにしてみれば、新興国家とは言え
大和朝廷は倭国を統一した一大勢力。
嘗ての様に筑紫平定の軍を向けられたら
倭国から追い出されるかも知れない。
だとすれば、人質を差し出すのは渡来側
の筈だが、筑紫の三十余国で天孫の巫女
を共立すれば大和朝廷の一廓となる。
旨く考えたものであった。
斯くして戦さは収まった。
その後約50年は何事もなく時が過ぎる。
卑弥呼は建前が共立された女王であるか
ら行動は自由、希望して八女に帰った。
いつもは八女に居て、祭祀や調停のウケ
イの時だけ出張すればよかった。
人はいつしか八女ヤマトをヤマト国と呼
ぶようになった、邪馬壹國である。
その頃大陸では黄巾の乱が起こり、後漢
の存立が危うくなって来た。
各地で袁紹、董卓、曹操、劉備、孫堅等
が、あわよくば漢に替わる帝国を建てよ
うと挙兵し始めた。
魏.呉.蜀の三国時代の始まりである。
そうなるとまた渡来系がざわめき出す。
卑弥呼もご託宣による各国の調停だけで
は済まなくなって来た。
そのうち曹操が黄河付近に魏を建てる。
劉備は内陸の蜀に入り蜀漢王となった。
揚子江流域では、父孫堅.兄孫策が戦死
した後若干20才の孫権が呉を率いた。
いわゆる三国鼎立である。
倭国に一番近いのは魏であった。
曹操は筑紫に密偵を放ち、北部九州と同
盟して呉を牽制しようと画策した。
それに気付いた孫権は、かねて呉の末裔
だと聞いていた出雲に遣いを出し、大和
朝廷に取次を頼んだ。
大和には事代主の御子達が要職にある。
朝廷は呉と同盟して魏に対抗した。
其れを知らなかった卑弥呼はAD239年
魏に遣いを出す、既に63才である。
と言うのも、筑紫の渡来部族は圧倒的に
支那北部の者が多かったからである。
魏王はすかさず卑弥呼に「親魏倭王」の
称号と璽を送る旨返答をした。
翌年、魏からの使節が卑弥呼を訪れる。
この時の遣いが倭人伝を書いたらしい。
斯くして邪馬壹國と朝廷は捻れた。
呉は甲斐国と摂津国に大軍を送る。
魏も邪馬壹國に魏の軍旗を送り、卑弥呼
は兄のヒミココが王をしている狗奴国と
戦闘状態に入った。
AD247年魏の帯方郡からの援軍を得た
卑弥呼は狗奴国を破る。
翌年、卑弥呼は死に、男王が立つも渡来
連合の内紛は収まらず壱与が立った。
齢13才であった。
(…つづく)
11月6日〔火〕晴れ
昨日の産経文化面にフランスの
日本マンガブームの記事があった。
空前のブームで昨年は1500万冊も
売れたと言う。
もちろん仏語訳ではあるが、
子供達の日本語教育の一助にも
なっているらしい。
日本人として誇らしくもある。
ならば一歩進めて、
どなたか大人のマンガとしての
「古事記」を描いて下されば
良いのにと思う。
何故大人のマンガかと言うと、
そのまま描写すると
エログロ・ナンセンスと
取られ兼ねないシーンもあるからだ。
そこは上手く躱して
描いてくれればありがたい。
日本人のシャイな思惟方法が
理解してもらえるのでは?
〈冬めいて タバコの煙 直に立つ〉放浪子
季語・冬めいて(冬)