みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

幻のウガヤフキアエズ王朝

2018年10月31日 | 俳句日記

ヒコナギサタケウガヤフキアエズ尊

古代史を探訪する時地図は欠かせない。
時代小説を読む時、地図を傍らに置いて
おけば、よりリアルに本の世界に入って
行けるのと同じ理屈である。

それと、今一つの愉しみがある。
著者の主張とは違った発見をする事だ。
今回もまた「あっ!これかな?」と思う
地名が幾つか出て来た。

今回の試みは[古事記]の第1巻神話部を、小説風に書くことによって、太安万侶が
隠した事実を探ろうとしている。
無論、推理と憶測の領域での話だ。

さて王位は無事ヒコナギからイワレビコ
へと継承された。
では、三人の兄はどうしていただろう。
ここで私は、再度系譜を無視してみた。

この時代、縄文社会の名残で婚姻関係は
今から見ると乱れている。
力のある者は一夫多妻であったし、親族
婚も普通でギリシャ神話と同じだった。

私は、三人の兄達の母親は名もない現地
の女性だったと見ている。
ヒコナギが、父ニニギと日向に上陸して
最初に橋頭堡を築いた高千穂峡に居た。

高千穂峡は九州山地から流れる五ケ瀬川
の上流に位置する「ン!五ヶ瀬川⁈」は
てどこかで見た文字である。
ヒコナギはこの川を新妻と行き来した。

高千穂峡の近くに「飯干峠」なるものが
在って、当時の主要道であったようだ。
ここでもまた「あれれ?」と思う。
彼は新妻とこの峠で米の飯を食べた。

筑紫の戦線が拡大するとヒコナギは西都
原に移った、三人目の子が産まれた。
霊峰高千穂の峰は指呼の間にある。
その麓に「三ケ野山」なる丘があった。

「あ〜、やっぱりね」そう納得した。
三人の兄達の名をご紹介しよう。

長兄・五瀬命‥‥五ケ瀬川
次兄・稲飯命‥‥飯干峠
末兄・三毛入野命‥三ケ野山
遠方ならいざ知らず皆生活空間に在る。

父親は天孫のヒコナギ尊である。
なのに諡(贈り名)がぞんざいなのだ。
母に血統が無かったからであろうか?
イワレが居なければ跡取りなのに。

母親は三男を西都原で産んだ後、死んだ
か?海神の娘玉依姫が正妻として迎えら
れたので身を隠したか?豊玉姫の伝説に
なぞらえると後者の可能性が高い。

推理が悲しい物語へ向いてしまったが、
兎も角イワレは王として八女に戻った。
八女ヤマトは西都原を遥かに超えた筑紫
の大国になっていた。

[記紀]には記述の無いこの国は、ヒコナ
ギが建国した国と言ってもいい。
のちに書く幻の[邪馬台国]との 密接な関
係が徐々に明らかになっていく。

記紀以外の[古史古伝]には大和王朝以前
に、幻のウガヤフキアエズ王朝が存在し
たとの伝説がある。
八女ヤマトがそうだと私は思うのだ。

八女の矢部川上流には日向の地名が残っ
ている、そこのダムは日向ダムと言う。
なのに何故にヒコナギの王朝と邪馬台国
は、日本の正史から消えてしまったか?

その原因は[神武東征]にあった。

(…つづく)


10月31日〔水〕曇り
今年の秋も終わりです。
明日からは冬と呼びましょう。
今朝の子雀達はマフラーをしてました。
あと一週間で立冬。

地球の気(エネルギー)が冬至へ向けて
どんどん下がり始めます。
すると魔界から邪鬼が地上に現れて
悪さをするのです。

悪さをしないでと邪鬼に施すのが
ハロウィン、
邪鬼に化けて人間に注意を促すのが
ナマハゲ、
どちらも理由は同じです。

だから邪鬼に化けるのは良い事では
ありません。
邪鬼の気に引っ張られて
不幸なことになりますよ。

ナマハゲ役の人は、
始めと終わりに必ずお祓いを
受けるのだそうです。
お遊びではないのです。

穢れとは「気」が枯れること。
気が枯れると邪鬼が取付きます。
明日は神社にお参りをして
穢れを祓い清めましょう。

〈夕闇や 終の棲家ぞ 神無月〉放浪子
季語・神無月(冬)











神倭磐余彦(カムヤマトイワレビコ)王となる。

2018年10月30日 | 俳句日記


「なにゆえに吾が大王なのじゃ?
兄上達がおるではないか…⁉︎」

遠く日高見から派遣されて来た思金(オモイカネ)命が天照大巫女の神託を伝えた時、イワレビコは大いに困惑した。
思金はこう切り出した。

「我ら日高見(高天原)では代々の大巫女
が、天地宇宙の創造主であられる天御中
主大神の御神託を拝し奉り、重大な事柄
を決して来まいりました。

故に我々は民から天孫と敬われ、世の穢
れや乱れの裁定者として勤めを果たして
まいったのです。
その御神託が御子に降ったのです」

「‥‥(-_-;)」

天照様が、日高見の最高の知恵袋である
思金を遣わされたのには訳があった。

「オモイカネ、汝に日向へ行って貰うの
は、イワレビコのことじゃ」

「御子が何か?」

「あれは12歳の頃じゃったかのう、ここ
にイワレが初めて来てくれたのは?
ヒコナギがニニギについてここを出たの
が15歳じゃった。


まるでヒコナギが帰ってきたようで‥」

大巫女様はまたまた涙を流された

「お察し申し上げます」

「よう似ておった。吾が抱いたら戸惑い
もせずに懐に包まれてくれよった。
あの子には人の想いを受けとめる優しさ
がある。
しかも賢く、スサノヲとは違った強さが
あるのじゃ。
じゃからこの度の御神託を唯々諾々とは
受けはしまい、兄達のことを思っての」

「成る程」

「あれを説得出来るのは汝しかいまい」

「畏まりました。恐れ多いことです」

こうして思金命は日向に降った。

玉依姫とイワレを前にして、天照様のお
言葉やご様子も交えて諄々と説いた。
母君は何度も目頭に指をやった。
イワレビコも端座して聴き入っている。

母君がイワレに優しく声を掛けられた。

「御子、大君が戦死なされた日、貴方は
夢を見たと言われましたね。

あれはお父上が今日の日の有るをお知ら
せに来られたのかも知れませんね」



その言葉を聞いてイワレビコは「ワッ!」
と突っ伏して泣き出した。
母君は震える背にそっと手を置いた。


思金は涼やかな眼でお二人を見ていた。

継承の儀式は他国の使いも含めて厳かに
執り行われた、まだ即位ではない。


「皆の者!吾は御神託を拝し奉り、先君
の務めを継ぐ。

八百万の神々に願い奉る。
我が公民(おおみたから)に幸いあれ。

吾に非あらば直ちに諌めよ。
吾に卑あらば直ちに廃せよ」

王としての最初の宣下であった。


若き王が誕生した。

(…つづく)


10月30日〔火〕晴れたり曇ったり
神無月も明日で終わる。
明後日からは神様が側にいらっしゃい
ますから、言動には気をつけて。

神無月は季語としては冬。
霜月は冬の真っ盛りである。
旧暦のことだから大目に見てもらって、
明日までを晩秋としよう。

今日の一句はリクエストに応えてます。

〈セイムスや 貴方の町の 暮の秋〉放浪子
季語・暮の秋(晩秋)








イワレビコへの神託

2018年10月29日 | 俳句日記

神日本磐余彦(神武天皇)

彦波サ武ウガ草葺不合尊。
(ヒコナギサタケウガヤフキアエズの尊)

実に長い10文字のお名前である。
おそらく[記紀]の中で最長の名ではなか
ろうか。

「彦」とは立派な人、「武」は武功があ
った人に贈られる尊称だったらしい。

あとの文字は「海岸で産気づく母親に、
産屋を建ててあげようとしたが、海茅の
屋根が間に合わなかった」
と言う意味なんだそうな。

産気づいたのは海神の娘、豊玉姫。
産まれたのがヒコナギ尊。
父親は山幸彦とされているが、私はそう
は見ていない。

海幸・山幸の物語は、太安万侶が鹿児島
の海神族を天孫の身内として位置付ける
為に、南海の伝承物語とくっつけたので
は?と思っている。


コノハナサクヤヒメ

だいたいニニギ尊と山神の娘コノハナサ
クヤ姫が鹿児島で出会うのが不自然だし
、三人の御子の名に全て「火」の文字が
使われているのが気になる。
日向三代の系譜をチェックして欲しい。

熊本は今でも「火の国」である。
鹿児島も桜島があるから「火の国」だ。
火を噴く山を畏敬の対象としていた海人
の元にヤマツミの子が降臨した。

はなから勝負はついていたのである。
それに太平洋側の南方系海の民は日高見
をよく知っていた、天孫を日向に導いた
のが彼らなのは確かだ。

安万侶は世界のどこにでもある人魚伝説
にヒントを得て、豊玉姫を発想し海人の
族長の子(海幸彦)とその弟をヒコナギの
兄弟にしてしまった。

本来はニニギとコノハナの直接の子であ
るヒコナギを山幸彦に見立てて兄海幸彦
と競わせて山幸彦を龍宮に誘う。
そこで豊玉姫と娶せウガヤフキアエズを
産ませるのである。

こうなれば否が応でも海人の血が天孫の
直系にはいることになる。
一地方の海神族にとっては大変に名誉な
ことであった。

それはこの時代も天武天皇の時代も半島
と事を構えた時代である事に起因する。
学校で習った天武朝の時代背景を思い出
して頂きたい。

天智2年(AD663年)、大和朝廷は白村江
の戦いで大敗した。
その18年後、天武天皇は半島に備えなが
ら[記紀]の編纂を命じるのである。

つまりは海の民の協力が、双方の時代と
も必要であった。
裏読みすれば海の民の懐柔策だが、当事
者とすれば優れた政治判断である。

天武天皇も稗田阿礼も、特に太安万侶は
優れた政治家であった。
共に目的に応じた暗黙の了解があった。
だがしかし玉依姫の血は天孫に流れた。

私は前にヒコナギの名を「海茅の屋根も
葺けない程に戦さに明け暮れた英雄」と
書いたのであるが、天の思召しと玉依姫
の愛は豊玉抜きで両族を結びつけた。

安万侶がアンデルセンを読んでいる訳は
ないが、人魚の伝説はどこにでもある。


アンデルセンは至る所の伝承をヒントに
童話集を書き綴った。
同じ意味で[古事記]は日本最古の伝承文
学の傑作なのである。

そう思って読めば、天武天皇の想いも、
安万侶の手腕も素直に伝わってくる。

兎にも角にも、ヒコナギ大王が死んだ。
八女の邑の人々は、この先の不安と共に
その死を悼んだ。
不安は筑紫の倭人にも広がった。

日向も日高見も哀しみに包まれた。
天照大巫女はいく日も泣き暮らした。


「天照様、そう悲しまれては御身に障り
ます。御身や民の為にも天御中主の大神
に道を尋ねられては如何ですか?」

知恵の神、少彦名命が進言をなした。

「おお、そうじゃったの。大八洲の使命
をないがしろにするところじゃった」

それから大巫女は三日三晩、社(やしろ)
にこもり大神を前に祈祷を続けた。
全国の天孫族と倭人国の者達は、神託が
降されるのを固唾を呑んで待った。

バチカンでのコンクラーベを待つ世界の
キリスト教信者の心境であったろう。
でも、こちらの方がずっと早い。
が、アイデンティティの働きは同じだ。

三日後に天照様が出て来られた。
老軀に鞭打っての祈祷であった。
お供の若い巫女たちに支えられながら、
居並ぶ者達にこう告げられた。

「ヒコナギの後はイワレビコに継がせよ
とのご託宣である。
すぐさま各地に伝えるがよい」

神託はアッと言う間に広がった。
西都原で母、玉依姫を庇うように囲み、
打ちひしがれる御子達にも報せが届く。

「えっ!何で俺が⁇」
イワレビコが叫んだ。

(…つづく)


10月29日〔月〕晴れ
レヴィ=ストロース博士の「野生の思考」
から始まって[古事記]に行き着き、稿を
書き殴って二ヶ月が過ぎた。

読者の方と一緒に日本の古代史を勉強す
るつもりで書いているが、何とは無しに
歴史は繰り返されるのだなぁと思う。

「在留資格の拡大」が大きく取り沙汰さ
れて来た。
縄文倭人は渡来人と対立しながらも日本
の発展の為に手を取り合った。

拒否と妥協を上手く使い分けた。

政府は大乱にならないように、あらん限
りの知恵を出して欲しいものだ。

〈冬近し 過ぎれば春を 待つ如く〉放浪子
季語・冬近し(晩秋)














ヒコナギの戦死

2018年10月28日 | 俳句日記


忍坂の砦が陥ちた事で渡来勢力が居なく
なったと言うわけではない。
以前として北部九州の一勢力であり、縄
文倭人との混血が進んでいた。

そして前に書いたように「金印」は彼ら
にとっては垂唾の的であった。
それは、支那本土からの亡命者よりも、
半島出身者により価値がある。

何故ならば、半島の南部は馬韓.弁韓.辰韓(三韓)の時代から、互いに小競り合いを
繰り返して来た。
この時代新羅.百済.加羅が対立している。

この何処かの国の者が金印を手にして、
奴国王となれば、彼は本国の太守となり
異例の出世が出来るのだ。
そんな思惑からまだ矛を納めずにいた。

「大君、伊都国でまた乱です」
「またか、困ったものだ」

アマオシが報告に来た。
彼はコヤネの子である。
ヒコナギの重臣であった。

「出動要請が来ているのか?」
「いや、そこまでは‥」

忍坂を陥した事で彼の名はとみに上がっ
て、他国では大王と呼ぶこともあった。

「では出動の準備だけはしておけ」
「はっ」
「今度はイツセも連れて行こう、あれは
忍坂の時は後詰めであったからむくれて
おったでな」
「はっ!」

ヒコナギの長男、五瀬命の事である。
おん年19才の若武者であった。

忍坂陥落の報せは西都原にも日高見にも
届いていた。
日高見の天照大巫女様は、

「あの可愛い少年がよく育ってくれたも
のじゃ。さぞかしニニギも黄泉の国で喜
んでおろう」
皺くちゃな手で何度も涙を拭いていた。

西都原では父の凱旋を今か今かと待ちな
がら御子らが戦さ稽古に余念がない。
やはり次男のイナメシ(17才)が強い。
三男のミケノ(15才)はいつもやられた。


しかし、気力旺盛な磐余彦(イワレビコ)
は負けてはいない。



早く兄達と共に戦場へ赴きたかった。
上の三人は早逝した豊玉姫の子である。
イワレビコの母は玉依姫であった。
御子らを分け隔てなく慈しんでいた。


忍坂陥落から二年が過ぎた。
ヒコナギは再三西都原への凱旋を勧めら
れているにも拘らず、まだ戦闘は続いて
いると退けていた。

そのさなかに又も反乱の報せが届く。

「大君様、此度の反乱は少々規模が違う
ようです。援軍の要請が来ました」
「うむ支度せい!」

今度は、末盧と伊都で同時に半島系の者
が蜂起したらしい。
おそらく楽浪と親しい新羅系の者どもで
あろうとヒコナギは推測していた。

「新羅はよく馬を使う。従って我が編成
は騎馬50、徒士(歩兵)200とする」
「大君、少な過ぎではありませんか?」

アマオシが疑問を投げかけた。

「いやよかろう、奴国は常備軍を500は
用意している。
合わせて徒士700に騎馬50じゃ。
新羅勢は500も居るまい」

その判断は甘かった。
新羅勢は本国と気脈を通じていた。
新羅は漢の楽浪郡にも使いを遣った。
漢は儀礼上、馬50頭を貸与した。

当時の騎馬兵は徒士10人に匹敵する。
騎馬集団となると破壊力は幾何級数的に
上がる、歩兵は蹴散らされるのである。
騎馬に対抗するには騎馬しか無い。

新羅勢は地元と合わせて100騎を用意し
ていた。

「大君、敵が奴国軍を蹴散らしました。
こちらに向かって来ます」
「よし、徒士隊はあの丘に登って弓陣を
張れ、騎馬隊は一旦敵の騎馬陣の真ん中
を突破する。
それからとって返し、馬ごと丘に登る。
乱戦はするな!こちらが不利になる」

ヒコナギはそう下知をすると自分の馬に
跨った。
敵は集団態勢で突進して来た。

「行くぞ!」

大声で叫ぶと、先頭を切って敵の只中に
全速で突撃した。
思わず敵は馬首を右と左に振り分ける。
今で言うチキンレースである。

敵は二手に分断された。
弓をつがえる者、馬首を廻らす者、敵が
混乱しながらも、こちらを追撃する態勢
に移ろうかと思える瞬間、

「丘へ向かえ〜っ!」

再びヒコナギが叫んだ。
50騎はまた一団となって、敵の真ん中を
目指して突撃する。
騎馬を得意とする者はすれ違いざまに何
人かの首を落としていた。

丘へ駆け登るとヒコナギが下知をする。

「乗馬のまま待機せよ。
矢には気をつけるように」

そう言い置くと、自らは下馬をして弓陣
の前に進み出で陣頭指揮をした。

「突進してくる馬を狙え!」

騎兵の持つ短弓は速射には適しているが
射程も短く、威力も弱い。
和弓は充分引き絞って放つので、貫通力
は敵の比ではなかった。

これは元寇の際にも如実に実証された。
鎌倉武士の放つ矢の威力に怯えて、逃げ
惑う元の兵士の姿が元寇絵巻にもある。
従って馬も堪らずドォッ!と倒れた。

馬を失った騎兵ほど弱い者はない。
地上で右往左往している相手に、

「今だ!突っ込め〜っ」

と、待機していた騎兵に命じた。
どっと丘を駆け降りる倭軍に敵の恐怖は
極限に達し、なす術もなく討取られる。
その時である、敵の一騎が抜け出た。


地上に居たヒコナギに矢を射る。



矢はヒコナギの左肺の上部を射抜いた。

「大君‼︎」
「吾に構うな!弓隊は敵の歩兵が近付く
のを現在地で牽制せよ。
他は目前の混乱する敵を全て討取れ」

そう言うとヒコナギは絶命した。
戦さは勝利した。

その日、イワレビコは父の夢を見た。
柔和に微笑む父の姿がそこにはあった。


「母君、吾は昨晩大君の夢を見ました」
「どんな夢でしたの?」
「ただ笑っておいででした」
「まぁ面白いこと⁈ ホホホ」

二日後に大君戦死の報が日向に届いた。


「ヒコナギさまぁ〜」

(…つづく)


10月28日〔日〕照ったり曇ったり
朝刊の編集手帳に「正倉院展」の開催
の記事があった。
私の手元には「法隆寺秘宝展」の記念
グラビアがある。
1400年祭の記念冊子だ。

[古事記]を題材にブログを書く以上
様々な資料に目を通すことになるが
古人(いにしえびと)の能力の高さに
驚く事がある。

理系は別にして文系のジャンルでの
探究心や洞察力の高さには頭が下がる。
どうやら1945年を境にして「言の葉」
の能力は、日本史上最低の水準まで落ち
込んでいるのではと思ってしまう。

時間があれば古文書の解読に
挑戦をしたいなどと思い始めた。

〈燗二合 ことふるぶみの 情け哉〉放浪子
季語・燗酒(冬)






















ヒコナギの奮戦

2018年10月27日 | 俳句日記

中臣鎌足

またまた叱られてしまった。
昨日の稿の末尾にコヤネは物部氏の先祖
と書いたら、早速中臣氏ではないか?と
読者から指摘を受けてしまった。

心当たりがあった。
毎回、稿を書くにあたりメモをとる。
その際、ウィキペディアで中臣、物部、
蘇我、大伴などの資料を出した。

その時、うっかり間違えたのだった。
「お前は赤っ恥をかけば済むが、もしも
受験生が読んでいたらどうする?」と、
この長い読者(アイツ)は手厳しい。

ご指摘の通りでグウの音も出ません。
恥を恥として、慎んで訂正致します。
コヤネは天児屋命(アメノコヤネ)が記紀
の表記、中臣鎌足のご先祖様です。

それでは威儀を正して本題に入ります。

「コヤネ!、今帰ったぞ。汝の言った通り
だった。当事者の奴国以外は、皆戦さを
忘れておる、でなければ倦んでおった」

「ほう左様で」

「それで奴国王と不弥国王、そして宗像
族を加えて、毎年の会盟会議を開く事に
した」

「ほほう!それはデカしましたな」


日本最古の水稲遺跡図

上図のように奴国、不弥国は早期に発展
している事が分かる。
末盧、伊都、筑後川西域(吉野ヶ里)は同
時期だが、この時は渡来人の陣営だ。

だがしかし、宗像の海人は海を支配して
いるだけに、渡来人も一目置いていた。
彼らの地域に自由に入る事が出来る。
末盧、伊都の倭人と接触出来るのは奴国
陣営にとっては最大の強みだった。

筑後川の東側に遺跡が出ないのは、この
時代はまだ縄文海進の名残で、有明海の
一部だったらしい。
矢部川もずっと上流にあったのだろう。

この二国と一族、そして天孫族が盟約し
た会盟会議は定期的に開かれ、天孫族の
兵站が一つの国として認められるように
なると、他国も積極的に参加するように
なって来た。

ヒコナギはあくまでも盟主を奴国王とし
て接触し、天孫族は援軍の立場にある事
、けして領土的野心は持たぬ事を彼らに
知らしめていった。

この間、後漢の明帝は匈奴対策に勢力を
奪われ、極東を返り見る暇は無かった。


従って半島情勢も安定しており、亡命渡
来人もめっきり少なくなっていた。

また、数年が経った。
八女の天孫地域は年々人も増えて、筑紫
の大国の様相を帯びて来た。
倭人の国々もそうした扱いをして来る。


その間に頼りのコヤネが死んだ。
ニニギ尊と共に日高見(高天原)を出た五
伴緒達も全てが代替わりをしていた。
子らの殆どが日高見からの移住である。

家族と共に来た者もいる、皆若い。
ヒコナギは全ての者を幕僚に加えた。
平穏とは言え農閑期には思い出したよう
に矢が飛ぶ、彼らはその中で鍛られた。

ヒコナギは既に三十路の半ばを過ぎた。
周辺諸国からは王と呼ばれている。
AD 83年、ヒコナギは密かに決断した。
直ちに幕僚会議を開いた。

「みな家族の者達は達者か?子が出来た
者もおろう。
その汝らに相談するのも心苦しいが、既
に日向に上陸してから23年の月日が流れ
、筑紫の国(この場合九州を指す)の殆どが
我ら天孫を受け入れてくれた。

残るは筑後川の向こう、渡来勢力の範囲
だけである。
奴国王も年を取られた。
薨る前に子孫の為、民の為に安寧が欲し
かろう、それが人情というもの。

そこで天孫として忍坂(忍佐賀とも言う)
を陥し、奴国王との約束を果たしたい。
既に会盟会議の了解も頂いた。
主力は我々だ、やってくれるか?」

皆に異論が有る筈が無い。
「ウオオーッ!」

皆20代の若者たちである。
勇躍して立ち上がり叫んだ。
それからの下知は速い。
攻撃開始は十日後と決まった。

天孫軍三千が筑後川の東岸に渡河の陣を
張る。
投馬軍千が同じく忍坂正面に自国防御の
陣を構えた。

奴国、不弥国の連合軍は一部伊都国以西
を牽制しながら、主力の千が忍坂を北か
ら攻めるべく南下する。
宗像の水軍は、末盧の沖に展開した。


全ては夜陰にまぎれて準備された。
各軍の準備完了の合図は火矢を放つ。

時は11月23日、午前5時。
黎明を突いての総攻撃が始まった。
渡来人は柵の外側に陣を敷いていた。


ヒコナギは最前線に立って下知をした。
天孫軍の執拗な突撃に次第に敵軍の陣が
乱れ、柵の中に逃込む者が多くなる。


その後を追うように全軍が柵内になだれ
込んだ。


戦いは正午を待たずに決着がついた。
敵の最大の拠点が陥ちた。
ヒコナギは菊池から参戦したキクチヒコ
と固く抱きあって勝利を噛み締めた。

その半年後、奴国王が死んだ。

(…つづく)


10月27日〔土〕晴れ
今朝の大気は
年末を思わせるように
冷たかった。

始まりがあれば
終わりが来る。

この物語も11月8日に終わります。

〈ゆらり立つ 紅茶の湯気の 檸檬哉〉
放浪子 季語・檸檬(秋)