みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

高千穂の峰での誓い

2018年11月03日 | 俳句日記

五瀬命

AD102年、神武の東征軍は動き出した。
動きは既に百余国に知れ渡っている。
瀬戸内の諸国では、大乱を予測して山城
の築城にかかっる国もあった。

イワレ王は海路で有明海を八代に向かい
人吉を越えて西都原に入る。
軍団は既に編成されイワレを迎えた。
軍容粛として声も無い。

進み出てイワレ王が大音声で宣下した。

「皆の者、ご苦労である。
我が軍は、明後日、高天原にまつろわぬ
国々を知らし召す為に東進する。
各員の一層の奮励努力を期待する。

尚、吾は今より高千穂に登り、八百万の神々に長途の武運長久を祈る。
その間、各員各自別れを惜しみ、英気を
養うが良い」

この後、副官のイツセが高千穂へのお供
の名を知らせた。
一行は夕刻に麓の湯場に着いて旅の垢を
落とし、翌朝早く山頂を目指した。

朝闇に登り始め、曙には山頂に着いた。
日高見を遥拝し、朝日を拝し、大八洲の
弥栄と長途の武運長久を祈願した。
その時に鉾を山頂に立てたのである。


よく朝、東征軍は一ツ瀬川河口の船溜り
を漕ぎ出でた。
陸には残る天孫族、海人族、菊池族、奴
や豊の国からも見送りが集まった。

征く者も、残る者も皆涙を流した。
年老いた玉依姫の姿もあった。


吾平津媛は御子の手を引き唇を噛んだ。


イワレにとっては最後の日向であった。


天神地祇(てんじんちぎ)の御加護があっ
たものか、進軍は順調に進み各地で歓待
を受けて、芦屋の岡田宮に着く。
ここで一年を過ごす。


この間は九州と瀬戸内の両睨みの期間で
、王は八女ヤマトと安芸・吉備の間を、
幾度となく往き来して情勢を見守った。
八女と西都原は軍需品の生産に励む。

頃良しと翌年安芸に入り七年を過ごす。
安芸まで来ると石見経由で出雲は近い。
長門、周防は海人が抑えている。
イワレは石見にゆっくりと柵を構えた。

出雲の退路を断つ為であった。
無論、出雲は其れを知っている。
だが日高見国から西進してくる天孫軍が
気になって、動きが取れなかった。

七年の後、吉備に入る。
吉備は従来大国であった。
出雲とは友好な交流があったのである。
入った時に、実は勝敗は決していた。

出雲から言わせると、イワレの進駐で、
吉備に裏切られた形になってしまう。
そうなると出雲は四面楚歌であった。
イワレは安芸でそこまで画策をした。

後は実が熟すのを待つばかりと思ってい
た矢先、日高見からまた相談が届いた。
天孫のニギハヤヒに恭順していた長髄彦
(ナガスネヒコ)が渡来人を集め反乱を起
こしそうだと言う。


「今度は畿内に向かへと言うのか⁈
まだ包囲網が完成したばかりだぞ。
いつほころぶか分からぬのに」

神武は常に協議をする。幕僚を集めた。

「どう思う?忌憚無く申してみよ」

イツセは積極的であった。

「大君の御心配はごもっともです。
だが、吉備に腹蔵はないと見ました。
速やかに軍を整えては?」

日高見からこの件で亀のようにずんぐり
した船に乗って遣わされていたのが天照
の老臣、椎根津(シイネツ)彦である。


「日高見は一刻も早く長髄彦を撃たねば
渡来の勢力が勢い付くと観ております。

然はさり乍ら、闇雲に進撃すれば双方に
多くの犠牲が出るのは必定。

古来高天原の政り事はウシハクのでは無
くシラシメス事。

ここは、今暫く模様を観ては如何かと」

「シイネ良く言うた。原則じゃったな」

「もしご下命あらば、この椎根が先行し
て探って参りましょう」

「そうか、行ってくれるか?伴は?」

「若い者が居れば敵は疑いましよう。
この様な役廻りは年寄りが打って付け」

こうしてシイネは敵情を探りに行った。

(…つづく)


11月3日〔土〕晴れ
文化の日。

歴史はその国の文化である。
文化を学ぶことはその国の
考え方(思惟方法)を学ぶことに
他ならない。

この稿を書きながら「あっ!」と
思った。
中共のやり方と「同じじゃん⁉︎」と
思ったのである。

サラミスライスを作るように
じわじわと相手を追い込んで行く。
秀吉の小田原攻めもそうだった。
家康の大阪城の攻め方もそうだった。

ところが支那の歴史には
滅多に出てこない。
支那は直接女を使う。
夏の妺嬉、殷の妲己、呉の西施。

褒姒や楊貴妃もそうだ。
内から女で腐らせる。
しかし、昔日本には通用しなかった。
今は、両方使っている。

中共は確かに日本に学んでいる。
ただ、知らし召す根本が無い。
思惟方法の違いがそこにある。

〈肩凝りや 葛根湯の 冬初め〉放浪子
季語・冬初め(冬)