みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

耐え難きを耐へ・・・

2017年07月31日 | 俳句日記

国と地域と、組織と人を問わず、時の神
に見放されたような時期が必ずある。
繰り返し訪れることもある。
そんな時は、頭を保護し、じっと耐える
ことだ。

頭を抱える(悩む)のではない。
頭を下げ、その場を動かずに保護する。
危機管理の鉄則だ。
動けば迷い、迷えば起死回生のチャンス
を見失う。

我が国は、チャンスを見逃さなかった。
戦には負けたが、戦争目的は達成した。
だから、今の繁栄がある。

ただ、時の神はチャンスが到来する際に
必ず複数の課題を与え給う。
今日がそんな一日であった。

朝から予定された課題が四つあり、それ
ぞれが独立している。
さらにひとつの課題から派生するアクシ
ヨンが、もうひとつ加わる。計5つ。

まず早朝5時から連続して2つ片付ける。
2時間のインターバルを置いて、3つ目
課題処理に出向く。
これから4回の移動が必要になる。

二回目の移動の頃、日盛りに入った。
暑い、すでに全身が濡れていた。
三回目の移動の途中で懸案となっていた
相手からメールが入る。

もしや⁈と思う間も無く懸案事項の解決
に向けての動きが具体化した。
しかし、もはや熱中症の初期である事は
間違いない。

休むか?休めば時間が無くなる。
そのまま五つ目の課題をクリアした。
そして、福岡市を一周して戻って来た。
床に倒れこんで彼を待った。

彼の力を借りて懸案事項を処理する。
終わった。
ん!待てよ⁉︎、ブログがある。
もはや思考力はない、どうするか?

そんな時だ、終戦の詔勅をもじったメー
ルが入った。
これだ‼︎今日1日の奮闘を描いてみよう。
ラーメンをかっ込み、スマホに向かう。

長い人生、こんな事が何度もあった。
天は、自らを助くる者を助く。
打ちてし止む、の覚悟は何時も道を示す。
斯くして、最後の一文字を打ち込んだ。

〈後になり そら恐ろしや 熱中症〉放浪子
季語・熱中症(夏)

7月31日〔月〕快晴
作戦遂行でもうひとつの課題を越えた。
歓迎すべき副産物だ。
でも、喜びと疲労が重なると空になる。




相馬野馬追祭

2017年07月30日 | 俳句日記

山笠が好きな私は、同じ国指定重要無形
民俗文化財である「相馬野馬追」には殊の外関心があった。
7月29、30、31日の3日間である。
と言うより、勇壮な祭りが好きなのだ。

処が、折角5年も福島に居たのに一度も
見ずじまいになってしまった。
と言うのも一年目は、東北全体を回るの
に忙しかった。

二年、三年めは仕事で多忙であった。
四年めは金も暇も無く、五年目は病気に
なってしまった。
六年目の今は、既に九州にある。

あれだけ憧れていた野馬追いに縁がない
のは、如何やら祭りの由来に原因がある
ようである。
相馬氏の始祖は、平将門と言われる。

935年に常陸国で「承平天慶の乱」を起
した将門が、937年に配下の騎馬武者に
野生の馬を追わせて訓練をさせたのが、
野馬追いの始まりだそうだ。

その後相馬氏が常陸国を追われ、陸奥国
に居ついてから相馬氏の行事となる。
現在の相双地区である。
古くは標葉(しねは)と言った。

その将門を打ったのが藤原秀郷である。
私の御先祖様は、父方も母方も奥州藤原
の出であるらしい。
縁がない筈だ、なんて諦めた。

地域の伝統とは根強いもので、震災の年
に相双地区ではあのように大被害を被っ
たにもかかわらず、82騎の結集で3日間
の行事を絶やさなかった。

翌年には、404騎の参加を得て通常通り
執り行なわれたと言う。
北海道の日高市に避難していた50余頭の
野馬追い馬も日高の人々に涙で見送られ
て帰郷したそうだ。

今年は1080年の節目だそうだが、何騎が
疾走しているのだろう。
未だに騎馬武者達も、避難先から、仮設
住宅から、馳せ参じていると聞く。

明日でまた、胸の熱くなる夏の祭りが
ひとつ終わる。

〈父祖の地に 野馬追う響き 永遠にあれ〉
放浪子 季語・野馬追い(夏)

7月30日〔日〕晴れ
朝から資料整理をしていたら平成24年の
野馬追い特集記事が出て来た。
当時の感情を思い出した。
先月まで福島のローカルニュースを見て
いたが、今ではよその国のように遠い。



臣と民

2017年07月29日 | 俳句日記

「国体」とはその国の持つ品格と言って
いい。
洋の東西を問わず紳士、淑女と言われる
方々は、其の国を代表して来た。

だからと言って常に高潔な人格がその国
の危機を救ったという事もない。
最たる例えが「宋襄の仁」なのかも知れ
ないが、襄公を春秋五覇に数えるむきも
ある。

マキャベリや韓非子が権力奪取のノウハ
ウ書ならば、地球はとうに滅んでいたで
あろう。
だからと言って「徳弧ならず」とも言え
ないところに人類の悩みがある。

我が国の「国体」は、と言うと、縦軸に
自然への畏敬(神道)を据え、横軸に極小
から無限までを考察する(哲学する)仏教
を置いたことに始まる。

その座標軸を定めたのが、ほかならぬ聖
徳太子の「十七条の憲法」であった。
その交差点に天皇を置き、同位に民を置
く、所謂「君民一体」である。

その同心円の中は、実に自由であつた。
「万葉集」の心根は、人としての自然な
感情に溢れている。
一万年の平和を享受した縄文人そのもの
の自由に満たされていた。

その君民を守り司るために官職が必要と
なった、「臣連(おみむらじ)」である。
君民の同心円の外側を堅くガードするの
である、支配するのではない。

日本社会はヒエラルキーではなかった。
そこに2600年続いた礎があった。
西洋の哲学では理解し難い概念である。
臣連に要求されたものも品格であった。

慣れると言うことは、ある意味思考を停
止することでもある。
だから良い習慣を身につけることに人は
努力する。

考えることなく、正しい言動が取れる人
は安心できる。
まして、臣と呼ばれる方は社会の模範と
されてきた。

仏教に言う「八正道」や「十善戒」は
その入り口を示すものだ。
森羅万象への畏敬と官としての務め、臣
に課せられた使命は大きい。

九州大学理学部を経て、官職を勤め上げ
た方が亡くなった。
しかも、学生時代から日本文化の擁護者
として生涯を捧げた方であった。

自らも和歌を良くし、後進の指導も怠ら
なかった。
頭脳と心のバランスが良く取れていた。
問題の本質に挑戦する勇気があった。

記憶力に頼り過ぎて、前頭葉辺縁系が退
化したのか、官職にありながら
「このハゲ〜ッ」などと呼ばわる人など
は、爪の垢を煎じて飲めばいい。

光栄な事に、偲ぶ会に参列を許された。
献歌の機会を与えられた。

〈千早振る 神のまします 我が国の
臣と尽くせし 人の逝くなり〉放浪子

7月29日〔土〕晴れ
午前は、室内整理に追われた。
午後は、稲垣洋一氏の偲ぶ会に参列。
爪の垢を煎じて飲みたいのは私か⁉︎


ミサイルは飛んだの?飛ばなかったの?

2017年07月28日 | 俳句日記

昨日が64年目の「戦勝記念日」なんだそ
うである。
思わずメシを噴き出した。
偏向教科書でも休戦と書いてある。

「朝鮮戦争」は、単なる其の国の政権争
いを、恰も世界史的な自由主義と共産主
義の対立に仕立てる装置のような戦争で
あった。

朝鮮民族は、またもや貧乏クジを引かさ
れてしまった。
三韓時代からずっとそうである。
日本も援軍を送ったが唐に負けた。

刀伊も元も戦わせたのは朝鮮の人達だ。
悉く利用され終いで、自分達の独自文化
を創造出来ずに歴史の海に漂って来たの
が朝鮮半島である。

気の毒な運命と言えばそれまでだが、今
漸くチャンスが訪れようとしている。
南は自由を手に入れた。
日本と同じように、もはやロシアに脅え
ることはない。

北は風前の灯火にある。
ICBMがレッドラインではなく、核の
小型化がそれだ。
スターリンの亡霊は、その時に再び死ぬ
のである。

中共の成立が動乱の引き金であった。
前年12月の中ソ会談でなにが話し合われ
たか、遡るとその年の4月にNATOが
発足し、5月に西ドイツが成立した事は
スターリンにとってどんなにショックで
あったことか。

翌年、2月に中ソ友好同盟が結ばれ、5
月にNATO軍の創設決議がなされる。
そして、6月25日北鮮軍は南下を始める
のである。

スターリンの読みどおり韓国軍は脆かっ
たがトルーマンの対応も早かった。
9月には国連軍を編成し、マッカーサー
は仁川に上陸する。

国連軍は、10月20日にはピョンヤンを
占領してしまう。
ここで、打ち合わせどおり中共義勇軍が
参戦するのである。

マッカーサーは甘く見ていた。
ところがトルーマンは原爆の使用も辞さ
ぬ覚悟で国家非常事態宣言を発令する。
トルーマンは欧州も見ていたのだ。

これを受けて中共義勇軍と北鮮軍は翌年
大攻勢をかけるが、三か月で押し戻され
てしまう。
連合軍は2ヶ月ぶりにソウルに入った。

スターリンは此れ迄と国連代表のマルク
に命じて休戦交渉の斡旋をさせる。
ここが彼の狡猾なところである。
マッチポンプもいいとこだ。

しかし、交渉の現場は揉めに揉めた。
最大の原因は、互いの捕虜の数の齟齬で
あった。
共産軍の管理は、余りにも杜撰だった。

なかなか進展しない交渉に業を煮やした
連合軍は、翌年6月23日北鮮の工場地帯
に大空襲をかける。
写真はその時のものだ。

そして、翌年3月スターリンが脳溢血で
死んだ。
その年の7月27日、休戦協定が成立に至
るのである。

前の年の11月にアイゼンハワーが大統領
に当選し、1953年のこの年にフルシチョフが登場する。
時代は、雪解けを期待した。

だが、未だに冷戦は終わっていない。
「戦勝記念日」などと言っているかぎり
半島に平和は来ない。
だが、今度ばかりは違う、スターリンは
必ず二度死ぬ。

〈風立ちて 天に煌めく 刀風〉放浪子
季語・風立つ(秋)

7月28日〔金〕薄日
今日も本が読めた。
お陰でブログが遅くなった。
心も頭も沸騰している。









法師ゼミ

2017年07月27日 | 俳句日記

蝉は夏の季語だが、法師蝉と蜩(ひぐらし)
は秋の季語となっている。

ツクツクホウシと鳴く法師蝉は、立秋を
過ぎるあたりから鳴き始めるし、蜩は秋
の気配が濃厚に漂い始めてから、心地良
い声を聴かせてくれる季節最後の蝉だ。

北国の里山や関東以西の深山幽谷で聴く
蝉の声と言えば蜩が定番だが、残念なが
ら都会で聴くことは滅多に無い。
やはり秋の到来を我々に教えてくれるの
は法師蝉である。

その法師蝉の初音を今日耳にした。
九州は福岡でのことだ。
目覚まし時計のセットを間違えたか?
此処数年の気候変動なのか?

仔細は知らないが、秋が立つには、まだ
10日あまりもあるのに少し早くない⁉︎
立秋前に生涯を終えるのは、些か可哀想
な気がしてならないのである。

姿を撮り留めてやりたいが、この林の中
では詮無いこと。
暫く目を皿にしたが無理だった。
せめてもの一句を手向けておきたい。

〈つくづくと 夏も終りし 法師蝉〉放浪子
季語・法師蝉(秋)

7月27日〔木〕薄日
きのうまで、何やかやと気忙しかつた。
今日は、動きを半径2キロに抑えた。
お陰で大好きな磯田道史さんのご本が
読めた。
この人のご本は、読むたびに目から鱗。
上杉鷹山を尊敬なさっているのがとても
良い方なのである。