みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

卑弥呼の活躍はわずか9年だった。

2018年11月07日 | 俳句日記


卑弥呼が古代史に顔を出すのは、わずか
9年である。
AD188年に共立されたが受け身の事象で
あって事績には当たらない。

年表を整理すれば、

AD239年6月、魏に使いを出す。
同 240年、金印が帯方郡経由で届く。
同 243年、魏王に金印の答礼使を出す。
同 245年、魏王邪馬壹國に黄幢を渡す。
同 247年、卑弥呼、狗奴国を破る。
同 248年、卑弥呼死に、壱与が立つ。

これだけのことである。

それだけのことを探訪するのに私は[古事記]から入った。
遺跡から辿るには限界があると思ったか
らである。

次に[十八史略]を押入れの中から引っ張
り出した。
卑弥呼が登場するのは[魏志倭人伝]のみ
だからである。

では卑弥呼の相手の魏ではなにが起こっ
ていたのか?上記の年次と突き合わす。

239年建国の父曹操の孫の明帝が死に、
ひ孫の曹芳が斉王となる。

ならば卑弥呼は、弔問と代替わりの祝い
の為に使節を派遣したのではないか?
でも、いきなり挨拶でも無かろう。
魏とは以前から交流していたと思う。

では、斉王は何故[親魏倭王]のしかも金
印を卑弥呼に渡す約束をしたのか?
呉をライバルとして戦っていたから味方
に付けておきたかったのだろう。

240年、帯方郡の太守が金印等を届けた
と言うことは、魏は帯方郡を抑えていた
ということになる。
すると、半島は概ね親魏派という事だ。

243年、卑弥呼は金印の答礼使を出す。
答礼使は魏から卒善中郎将の位を貰う。
この位は魏の宮廷警護の役回りだ。
魏の近衛兵に取り込まれたという事か?

245年、魏は邪馬壹國の使者に[黄幢]を
持たせた。黄幢とは軍旗のこと、魏の五
行思想上の色は黄色だから旗もそうだ。
因みに漢は赤、秦は黒であった。

247年、卑弥呼は黄幢を掲げて、呉と同
盟を結んだ天孫系の狗奴国を破る。
もうまるで魏の属国振る舞いである。

金印を貰った途端にこうなるのが支那の
伝統的な遣り方である。
十八史略には良く出てくるパターンだ。

中共も其れをやっている。
国に限らず個人にもこの手を使う。

翌248年、卑弥呼は76才で死んだ。
多分晩年は渡来系の傀儡となっていたの
ではないだろうか。
同じ年、壱与が立つ。13才であった。

それから17年後、魏が滅び晋が起る。
壱与は晋に使いするが梨の礫であった。

魏の庇護も晋の保護も受けられなくなっ
た邪馬壹國は歴史の闇に消えていった。

必然的にウガヤフキアエズ王朝も消えて
なくなる。
後に残ったものは、伝説と緑豊かな八女
地方だけであった。

(…つづく)


11月7日〔水〕晴れ
冬が立ちました。

もう迷う事なく冬の歳時記を
開くことが出来ます。
机の上に常備しました。
何処へ行くにも一緒です。

初日の早朝、
笹丘の辻堂の前を通ると
馥郁とした菊の香りに
身が軽くなりました。

遅咲きの菊や冬咲きの菊が
綺麗に掃かれたお堂に
既に活けられていました。
功徳を積まれた方々に感謝。

〈寒菊の 香りこよなし 辻地蔵〉放浪子
季語・寒菊(冬)