みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

ヤマト政権誕生に関わる人口動態

2018年08月31日 | 俳句日記

昨日は、ハイブリッド民族倭人(弥生人)
の誕生について書きました。
今日は、倭人が樹立したヤマト政権につ
いて書き起こしたいと思います。

ついては、縄文時代と弥生、古墳時代の
人口分布と動態について「近代以前の日
本の人口統計」を参考に話を進めます。
「クニ」の形成は民の動きですから。

まず縄文・弥生時代の年代別人口分布を
民族学者、小山修三博士の地域別推定に
よって観てみましょう。
遺跡数、戸数や平均寿命から算出です。

博士は地域を九つに分けました。
東北、関東、北陸、中部、東海、近畿、
そして、中国、四国、九州です。
遺跡研究では、更に分類されています。

年代は、
①縄文早期 (8100)年前
② 同 前期 (5200)
③ 同 中期 (4300)
④ 同 後期 (3300)
⑤ 同 晩期 (2900)
⑥弥生後期(1800)、古墳時代の入口。

これに、地域と人口を当てはめます。

[地域] 東北、関東、北陸、中部、東海
①→2000....9700....400....3000...2200
②→19200..42800..4200..25300..5000
③→46700.95400.24600.71600.13200
④→43800..51600..15700..22000..7600
⑤→39500...7700...5140...6000...6600
⑥→33400.99000.20700.84200.55300

[地域] 近畿、 中国、 四国、 九州
①…→300…..400…..200..…1900
②…→1700…1300….400….5600
③…→2800…1200…200….5300
④…→4400…2400…2700…10100
⑤…→2100…2000….500….6300
⑥…→108300,58800,30100,105100

これに年代ごとの合計を入れます。

①→ 20,100
②→105,500
③→261,300 *縄文期の最大値
④→160,300
⑤→ 75,800 *縄文期の最低値
⑥→594,900*弥生期の最終値
(単位 人)

この表を観ると、どなたもお気付きの事
だと思いますが五つの事象が有ります。

〈事象〉
⑴ 全地域の④⑤間400年の急減。
⑵ にも拘らず東北は一定の水準を保つ。
⑶ 関東の⑤の激減。
⑷ 弥生期の近畿・九州の急増。
⑸ 全国合計②③間と⑤⑥間の増加率。

⑴に関しては昨日述べたように地球規模
の気温の低下による食料不足でしよう。

⑵は縄文文化の先進地域だけに対応力が
あったのではないでしょうか?

⑶は、この時期富士山が連続して4回も
噴火した事が調べて解りました。

⑷が渡来人の急増説の根拠となっていま
すが昨日述べたように、千年間で10万人
に満たないのですからハイブリッド化と
水稲栽培の恩恵でしよう。

⑸も同じことで、狩猟採集社会と農耕と
ではカロリー換算では雲泥の差があった
のだと思います。
鉄器の普及のお陰です。

しかし、争いでかなりの死者が出ている
でしよう、にも拘らず年間160人と520人の差ですから増加率は3.5倍です。
その勢いは古墳時代に更に加速します。

明日はこの環境を踏まえた上で、社会構
造の変化を探って見ましょう。

8月31日(金) 晴れ 午後に驟雨

秋の気配を探りに大濠公園へ。
ちっとも暑く無い。
気温と体温がバランスすると、
こんなにも身体が軽くなるのかと思う。

亀が二匹、気持ち良さげに甲羅干しを
いていた。


明日は長月、あとひと月もすれば水鳥達
が三々五々とやって来る。
楽しみだ。

〈軽き身を 揺らして映す 水の秋〉放浪子
季語・水の秋(秋)




ハイブリッドな倭人

2018年08月30日 | 俳句日記


さて、BC5千年頃にはまだ未開の土地で
あった朝鮮半島まで生活圏を広げ、平和
な1万年を暮らしてきた縄文人にも危機
が訪れます。

それはモンゴロイド系の御先祖様が3万
年前に日本列島に渡って来た頃から温暖
化が進んでいた気候が、BC3千年頃には
ピーク時より3度も下がった事です。

この事により海岸線は後退し、ドングリ
や栗などの暖温帯落葉樹が減ります。
自然の力が落ちて来ました。
三内丸山のムラもこの後消えました。


最大で26万人いた国内の人口も、BC 1千
年頃には8万人に減ってしまいました。
半島に居た仲間も墓を遺し、陸稲技術を
土産に、その時戻って来ました。

それから間もなく弥生時代に移ります。
稲作のお陰で人口も回復し始めました。
と同時に戦国時代だった支那では、国を
追われた人々が四方に散ります。

縄文人が去った後の半島には衛の国の人
が住み着き、衛氏朝鮮を立てました。
また前漢に滅ぼされた秦やその他の国の
遺臣達も日本に亡命して来ます。

揚子江中下流域の人々は水稲栽培を伝え
、他は鉄や銅を教えてくれました。
しかし、いい事ばかりではありません。
銅や鉄器は争いの道具となりました。

縄文遺跡からはついぞ出なかった犠牲者
の人骨が、弥生遺跡からは出るのです。

頭を割られた人。


首の無い遺体。

中国の古代史を読むと「首を刎ねる」と
言う言葉がよく出て来ます。
首を刎ねるのは大陸の呪術思想です。
当時の日本には有りません。

これらの加害者が渡来人なのか日本人な
のかは分かりませんが、弥生後期の部族
間戦争が始まりました。
でも、人口は60万にまで回復しました。

弥生人は渡来人だと習いましたが、約千
年の弥生時代に渡来した人は5〜7万人と
推定されています。
縄文人が亡ぼされた訳では無いのです。

人骨の研究によると、五つの類型がある
そうで「縄文系」「渡来系」「混血系」
混血か進んだ「新弥生人」そして九州
特有の「南九州弥生人」です。

内渡来系は4割に満たず、其れ等を総じ
て「倭人」と言う概念が生まれました。
そのあと古墳時代が4百年続きますが、
この間に人口は5百万人となります。

相変わらず大陸難民の流入は続きます。
しかし、総計44万人に過ぎません。
ハイブリッドな倭人は大和政権を立てて
他国から朝貢を受ける迄になりました。

では、どんな政権が樹立されたのでしょ
う?それは明日からの楽しみです。

8月30日〔金〕雨が降ったり止んだり

「雨音に気付いて‥♪ 」
私は、早く起きた。
「まだベッドの中で半分眠りたい‥♪ 」
のは同じだった。

昨日迄とは気が違う、折角だからと
「通りをわたって来る‥♪」
人もいないのに窓を開けて、
深呼吸をしてみた。

〈雨の朝 目覚めの床の 秋気哉〉放浪子
季語・秋気(秋)








一万年の平和「縄文時代」

2018年08月29日 | 俳句日記


ミクロネシアに「笑い族」という裸族の
住む島があります。
大人も子供もいつもニコニコしている。
島中が喜びに包まれているのです。


ゴーギャンも、晩年は仏領ポリネシアの
タヒチで過ごし、同じポリネシアのマル
キーズ諸島で死にました。
余程住み心地が良かったのでしょう。

狩猟・漁労・採取の生活は、天地自然の
恵みに感謝さえしていれば生涯を恙無く
過ごすことが出来ます。
どうやら縄文時代はそんな世界でした。

1990年代から急速に進んだ縄文遺跡の発掘によって、当時の採食文化は食材に富
み、多彩なものであったようです。
皆で働けば3〜4日は遊んで暮らせる。

寝てばかりではバカになりますから、狩
や釣りの道具を作り、布を織り、器の
制作に勤しみます。

保存の方法等の試行も行ったでしょう。

勿論、ブリコラージュの方法です。
材料はそこらじゅうにありました。
今に残る最高傑作が、火焔土器と土偶と
言うことになりましようか。





機能や写実的ではないところに縄文人の
美意識と習熟度の高さが伺えますが、そ
の精神性は何処から生まれたのか?
私はそれを悠久の時の流れに求めます。

通常、文化文明は原因は何であれ、異質
のものの交流によって急激に高められて
来ました。
精神性も同じく矛盾的に同化をします。

それが島国日本には長い間ありません。
十年一日どころか、百年、千年、一万年
の間、同じムラ、同じハラ、ヤマ、ウミ
を見て血縁者達と暮らしていきます。

凡そ刺激の無い社会ですが、だから向き
合うのは天然自然であり、それがカミと
して畏怖の対象となりました。
そして生かされている事に感謝します。

このインターフェースが「野生の思考」
の始まりなのです。
釈迦の教えも、孔子の教えも、キリスト
の教えも全てこの中にありました。

無い物は「テクネー」の技術だけ、それ
は後の異文化との接触がもたらします。
即ち既に縄文人は「具体の哲学」を完成
させ、待っていたのです。

だから、あらゆる文化も文明も立ち所に
日本化してしまう。
かえってオリジナルよりも高度化して、
支那も西洋も驚かせてしまったのです。

明日は、縄文人と弥生人の関係について
考えて見ましょう。

8月29日〔水〕晴れ 残暑
8月もあと二日、葉月と長月では気持も
ガラリと変わってくる。
皆それぞれに自分を取り戻す事になる。
明るい人は明るく、暗い人は暗いなりに
「秋の日のヴィオロンのため息の…」
てな具合に自分に還るのである。

〈あと二日 思えど今は まだ葉月〉放浪子
季語・葉月(秋)







日本人の「野生の思考」の起源

2018年08月28日 | 俳句日記


レヴィ博士が観る日本の伝統に遺された
「野生の思考」を探るには、まずは民族
の起源を訪ねなければなりません。
出発点は10万年前のアフリカです。



アフリカに誕生したホモ・サピエンスは
なぜか10万年前頃にアラビア半島を経由
して、一団が欧州へ(クロマニヨン人)、
一団はロシア方面に向かいます。

その時インド方面に向かう一行はチベッ
ト辺りで二手にわかれ、一団がモンゴル
を経由して日本に至ります。
支那には150万年前の北京原人が居る。

もう一団は、同じく150年前にジャワ原
人がいた東南アジアからオーストラリア
まで行きました。
ロシアの一行の足取りは消えます。


その行程は万年単位ですから気候変動等
により、絶滅したのかも知れません。
また、もともと居た原人達との争いで、
相互に滅んだことも考えられます。

幸いに3万年前に日本に渡って来た我々
の祖先は、その後縄文人となりました。


弥生時代になって大陸から渡来人が入っ
てきますが、ゲノム解析に拠れば、弥生
以降の渡来人の遺伝子プールが、現代人
に残る確率は数%に満たないそうです。

1993年の「現代人の起源」と言うシンポジウムの研究発表にありました。
我々は矢張り縄文人の末裔でした。
縄文人は一万年の間平和に暮らします。

何故そんなに長く平和だったのか?
明日は、その辺りのいきさつを調べてみ
ましょう、レヴィ博士の気づきが見えて
くるかも知れません。

8月28日〔火〕晴れ


雲がすっかり秋らしくなって来た。
まだちょっと低い。
でもこれからますます高さを増して
行くだろう。

三内丸山遺跡に行ったのは、
もう四年も前の秋だった。
天空の広さには圧倒された。
東北の秋は清々しい。

〈みちのくに 想いを致す 秋の雲〉放浪子
季語・秋の雲(秋)



レヴィ博士の日本への愛情

2018年08月27日 | 俳句日記


レヴィ博士が、11年間に及ぶ日本研究の
成果として遺された著作「月の裏側ー日
本文化への視覚ー」が日本で発表された
のは、ついこないだ2014年のことです。

100歳で亡くなられてから5年が過ぎてい
ました。
その中で博士は、日本文化の持つ特性を
論じながら、こう書いておられます。

『わたしは「はたらく」と言うことを、
日本人がどのように考えているかについ
て貴重な教示を得ました。
それは西洋式の、生命のない物質への
人間の働きかけではなく、人間と自然の
間にある親密な関係の具体化だと言うこ
とです。
他の面では、ある種の能の演目でのよ
うに、ごく日常的な仕事に詩的価値を付
与することによって、それらを顕彰して
います』

これを読んで下手な句作を楽しんでいる
私は、次の芭蕉翁の句を連想しました。

《風流の 初めや奥の 田植え歌》芭蕉

生まれた時から日本人の私達は成る程な
と思わされます。
フランス語の労働(travailトラバイユ)には
「労苦、厭わしい」の語感があります。

ところが、古代ギリシャ語や未開人の言
語にはそれに該当する言葉が無い、ギリ
シャ語では「はたらく」事を「プラクシ
ス」或は「ポイエーシス」と言います。

厳密には、プラクシスは事物を使う事、
ポイエーシスは事物の本質を導き出す事
と言う違いがあるのだそうです。
更には「テクネー」なる言葉もある。

こちらは、技術によって事物を強制的に
目的に従わせる事だそうです。
ややこしい限りですが、こう考えると分
かり易いかも知れません。

農業に例えるて、プラクシスは単に収穫
の為に種を蒔く。


ポイエーシス は作物がよく育つように、
育つ環境を整えて収穫の時期を待つ。

苗床を整然と作り、苗を一本ずつ大切に
田に戻す日本の稲作は典型でしょう。

棚田の風景も、まさに大地との会話の賜
と言ってよい芸術ではないでしようか。


そして、テクノーは差し詰め遺伝子組換
と言えますよね。
中間にあるのが「交配」による新種作り
でしょうが、此方には喜びがあります。

博士は更に日本の造作や民芸の世界にも
そうした「はたらく」を観ました。


それでは日本にそうした「野生の思考」
の構造が何故随所に継承されて来たので
しようか?
明日からその辺を考えて見ましょう。

8月27日〔月〕 晴れのち曇り 夕刻雨

今日から新学期が始まった。
子雀たちの声が通りに戻って来た。
メジロの声も唱和しているようだ。
朝の愉しみが増えた。

〈ひたぶるに 愉しき秋の 新学期〉放浪子
季語・秋の新学期(秋)