みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

卑弥呼物語(その3)

2018年09月25日 | 俳句日記


そもそも奴国の大乱は、西暦57年に後漢の光武帝から奴国が金印を賜った事に端
を発したのである。
奴国は確かに九州では大国であった。

だが、後漢の近隣の諸国で金印を手にし
た国は西域の大月氏しかない。
北の匈奴と並ぶ一大勢力であった。
漢は匈奴を牽制する為に金印を贈る。


奴国とは月とスッポンである。
光武帝はどう取り違えたのか、金印を贈
ってしまった。
倭国の中心国と思っていたのだろう。

これを伝え聞いた銀印の高句麗や銅印の
半島諸国はいきりたって奴国を攻めた。
これがことの真相である。
奴国は縄文倭人の国々に助けを求めた。

「天照の大巫女様、西国の奴国から助け
を求めて参っておりますが、如何なされ
ますか」

天照の大巫女様とは、関東・東北の国津
神を祀る鹿島大社と香取神宮の巫女であ
り、倭国連合の神権政治(祭祀と調停)を
司っていた。


「スサノオは出雲の平定に出向いている
し、ニギハヤヒは大和へ出したばかり、
ニニギを呼びなさい」

縄文から弥生期にかけての全国の人口動
態を思い出して欲しい。
敵対的渡来人が侵入するまでは圧倒的に
関東・東北の人口が優っていた。

「ニニギ!」
「はい母上様」

天照様は事情を説明した。

「五伴緒を率いて直ちに日向へ向かい、
大山祇を頼って九州を平定してはくれま
いか⁈」
「仰せのとおりに致します」
「お前はまだ若い、呉々も大山祇を頼る
のだぞ!」
「はい母上様」
「おお!吾子よ」

天照様はニニギノミコトをひっしと抱き
しめるのであった。

こうしてニニギノミコトはお供の五人の
将官と兵と共に香取から利根川を下り、
犬吠埼を回って九十九里浜の沖を南へと
向かったのである。


古地図を見れば、鹿島大社と香取神宮は
霞ヶ浦を挟んで対岸にある。
鹿島から下手に沖へ漕ぎ出すと、黒潮に
捕まり北へ流されてしまうのである。

九十九里沖には南への湾岸流があった。
鹿島、香取、銚子辺りは水郷である。
水練と操船に長けた人材が多くいた。
今でも海自にはここの出身者が多い。
…続く。


9月25日〔火〕晴れた 満月
中秋の名月は、
祈りが足らずに
雲に隠れてばかりだった。

今夜の望月は人を天空に誘う。
早くブログを書き上げて、
酒仙とともに天地の間を彷徨おう。

〈浮いた世に 尚身も浮かす 酒と月〉放浪
子 季語・月(秋)



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卑弥呼物語(その2)

2018年09月24日 | 俳句日記


高千穂は山では無い。
山紫水明の景勝の山里である。


高千穂峰は鹿児島との境に在るが、こち
らは熊本・大分との県境に位置する。


高千穂峰は謂わば降臨のシンボルとして
古事記によって後世に伝えられた。
天孫の真実は、常陸国(高天原)から海路
日向の海岸に上陸したのである。


海幸彦が言った。
「九州平定の足掛かりは高千穂郷が良い
でしょう。阿蘇にも近いし、豊肥を超え
て日田まで行けば、筑後川を一気に下り
投馬国に突入出来ます」

「成る程、そうすれば菊池一族と共に渡
来勢を挟み撃ちにできるな」
ニニギノミコトが言った。
「御意」
海幸彦が応じた。


船を岸に着けると早速ニニギが言う。
「海幸彦、先立を頼む」
「御意」

こうして、一行は高千穂郷を目指した。
ヒミコが産まれる百年前の事である。
高千穂に陣を構えると、ニニギは肥後に
行き、阿蘇一族に加勢を頼んだ。


元々阿蘇一族は南方系の倭人である。
阿蘇勢力の北辺にクニを持つ菊池一族も
また倭人であった。


両国は直ちにニニギと盟約をした。

菊池は筑紫國にも勢力を伸ばしていた。
故に、肥前の倭人達とも交流があった。
吉野ヶ里に渡来勢が砦を築くまでは。
今は投馬国迄下がり、防戦一方である。

ニニギと阿蘇、菊池、隼人の連合勢は、
暫く肥後に滞在しながら、前線で小競り
合いを繰返し、情報を集めていた。
ニニギは再三、菊池彦と前線視察に出か
けている。

そんな時にヒコナギが嫁取りの話を持ち
出したのである。
「良かろう。父はここ数年の間は前線に
時を取られる。
汝は阿蘇に在って、高千穂と連携を取り
ながら、高天ヶ原との連絡係を務めよ」

「有難う御座います父上。励みます」
「双方ともにな⁈」
ヒコナギは赤くなって俯いた。

当時の移動は海路が主である。
日向から常陸国まで、黒潮の本流に乗れ
ば、櫓や帆を使わずとも5〜6日で着く。
季節によっては帆を挙げて3日だった。


本流は、時速8キロの速さがある。
帰りは海岸流に乗るのである。
黒潮の勢いが枝分かれして、海岸沿いに
逆流を起こす現象である。

最速10日余りで、交信が出来た。
各地の状況も伝えられたに違いない。
時には援軍の上陸もあったであろう。
縄文倭人には初めての対外戦であった。

春秋戦国時代から徐々に渡来した亡命者
達の働きは大いに預かっていた。
彼らはのちに神の列に加えられる。
ヒミコの働き迄、まだ百五十年程ある。

(続く)


9月24日〔月〕曇り
沖縄の知事選は伯仲しているらしい。
国際関係論のパワーバランスを理解して
いる人は気が気ではなかろう。
沖縄県民にとっても死活問題のはずだ。

以前にも書いたが、中共や半島の反日、
反米勢力が大挙押し掛けているらしい。
もはや、対外戦争である。
手の届く人は最後まで落穂を集めよう。

〈雲早し 秋思深める 灯火哉〉放浪子
季語・秋思(秋)



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卑弥呼物語(その1)

2018年09月23日 | 俳句日記


古代史はミステリーに溢れている。
特に卑弥呼の時代は、古代日本に通史が
存在しないが故に、諸説が入り乱れて飽
きることの無いロマンの世界を残した。

私達後世の者は日常を離れて、その古代
史のロマンを、諸説を紐解きながら楽し
めば良いので有る。
何が正しいかはいずれ科学が証明する。

私の出発点は、縄文探求からであった。
日本人のルーツをただ知りたかった。
すると古事記と卑弥呼に行き当たったの
である、兎に角、面白い時代である。

諸説を当たっていくと、自分なりの探訪
の道が見えたり消えたり、いくつも枝分
かれしたりで退屈する暇はない。
いつしか古代史の森に迷い込むのだ。


抜け出る道はただ一つ、心の羅針盤に従
って舳先を向けて進むばかり。
正解を求める必要は無いのだから、止ま
ってしまうと自己嫌悪に陥るのである。

という事で、我が家のルーツが八女市で
ある事を北斗として書き続けます。
理屈っぽく書くのはやめにして、小説風
に遊んで見ましょう。

=時は後漢の霊帝の時代、倭国は攻伐が
続き、誰が王なのか分からないほど混乱
していた。


大和では、ニニギノミコトより早く常陸
国鹿島を出立したニギハヤノミコトが、
近畿の平定に苦労している。


ニニギノミコトは、同じく混乱している
九州を治める為に、海の民=隼人の多い
日向の国に上陸をした。
海の民を治めるのは海幸彦であった。

古事記では、海幸彦はニニギノミコトの
叔父にあたる、ところが私にはニニギが
山幸彦で、釣針事件を切っ掛けにして、
海幸彦が山幸彦に従ったと思える。


ニニギノミコトは東国から率いて来た軍
団と海の民を合わせて北へ進軍 した。
まだこの辺りには渡来勢の支配は及んで
いなかった。

「ヒコナギ、お前も来るか?」
「父上、勿論です。その為に乗り込んだ
のですから」

ヒコナギとは彼の長男であった。
後にイワレビコ(神武天皇)の父となる。
ニニギノミコトとヒコナギは、高千穂を
根拠地として筑紫を目指した。

「父上、妻を娶りたく思います」
「なに! まだ戦さは続くぞ、死ぬかも知
れぬぞ⁈」
「だから高天原の血を残したいのです」

高天ヶ原と言うのは常陸国である。

そして、四人の御子が生まれ、その四男
がイワレビコだった。
卑弥呼と同様に、この時代の宿命を背負
った御子であった。(To be continued)


9月23日〔日〕曇り
彼岸となると
ご先祖様ばかりでは無い。
娘が孫を連れて
稲荷寿しを届けに来た。
半世紀近くの友人が
訪ねて来る。
甘えて灯油を買いに行った。

気取った言い方をすれば
こんな草盧にである。
節句雑節は非人情の毎日を
リセットしてくれる。

〈方丈と 言えどやっぱり 秋彼岸〉放浪子
季語・秋彼岸(秋)







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邪馬台国への道程

2018年09月22日 | 俳句日記


有明海に河口を開く矢部川を遡った処に
八女津媛神社があります。
第12代景行天皇も行幸されたと伝えられ
ている神社です。

卑弥呼の時から約百年後の事ですから、
世の乱れも治まっていました。
卑弥呼ゆかりの社を訪ねる御霊鎮めの旅
だったのでしょうか。

卑弥呼はここを出て、邪馬台国の女王と
なります。
齢14歳、大乱を収める為の人身御供でも
あったのです。

古来、八女津媛神社は巫女の霊域です。
取分け霊力に優れた巫女は、役割を担っ
て各地へ旅立ちました。
壱与も此処から旅立ったのでしよう。

八女には、筑紫の国造磐井の墳墓である
九州最大の前方後円墳、岩戸山古墳が在
ります。


他に300基の古墳群を抱えています。
邪馬台国に相応しい処なのです。

では魏志倭人伝で、そこへの道程を辿っ
てみましょう。
テンポ良く魏書と今の地名を並べます。
距離は短里(1里=約80m)です。

(魏書)…..(現在)
帯方郡=ソウル付近
狗邪韓国=釜山付近、上記より7千里。
対馬国=対馬、同 千里。
一支国=壱岐、同 千里。
末盧国=松浦市、同 千里。
伊都国=糸島市、同 五百里。
奴国=福岡市南区、同 百里。
不弥国=糟屋郡宇美町付近、同 百里。
投馬国=久留米市北部、同 水行20日。
邪馬台国=八女市、水行10日、陸行1日。

地図で検証してみて下さい。
ほぼ妥当な距離です。
ただ、不弥国からの水行がミステリーを
生む原因となっていました。

だけど、福岡市で人生の大半を生きて来
た私にとって、この水行が海ではなく川
と考えれば、いとも簡単に理解がいく事
になります。

物語風に書いてみましょう。

伊都国から半日かけて不弥国に着いた一
行は、末盧国からの旅の疲れをゆっくり
と翌朝までに癒しました。
明日からはもう歩かなくていいのです。

翌日は、水行に備えて荷物の整理をしな
ければなりません、馬も乗せます。
天子様から卑弥呼に贈られる答礼品が、
山の様にあるのです。

海行の場合は、船自体が大きいので左程
手間は取りませんでした。
それを何艘かの川船に損なわないように
積み替えて流れに逆らって遡るのです。

川の名前は御笠川、席田の沃野を潤す流
れの穏やかな川でした。
次の日は川船の手配や、積込みで一日を
費やしました。

三日目の朝、彼等は川船に分乗し出発。
ところが、荷物が重たくて竿を挿しても
思うように進みません。
時は12月、水位は下がっています。


水位が下がれば、櫓を増やしても効果は
ありませんでした。
そこで彼等の幾人かが川岸に上がり、綱
で曳いて行くことにしました。

それがまた大変な作業だと気付きます。
そこで一行の長は、不弥国まで応援を求
めて伝令を差し向けました。
まだ20里も進んでいませんでした。

もう正午はとっくに回っています。
応援が来たとしても無理に出発すれば
途中で日が落ちてしまいます。
その日は、そこで野宿となりました。

御笠川の上流まで130里も進むと、南に
下る宝満川があります。
そこに辿り着くのが今日の目標でした。
どうやらそれは不可能なようです。

馬はいるのですから、路が在れば陸行に
変えれば良いのですが、船頭に聞くと、
この辺りは獣道ばかりで、かえって危険
だとにべもない返事です。

仕方なく一行は、応援を待ちながら枯れ
枝を集めて野宿の準備にかかりました。
応援が来た時には日も暮れて、辺りはま
っ暗闇、冬の月が煌々と照るばかり。

四日目の朝、寒さに震えながら彼等は出
発しました。
しかし、上へ進めば進む程難行します。
結局、目的地まで18日かかったのです。

宝満川に船を浮かべてからは下りです。
この川が筑後川と合流する投馬国迄は、
2日の行程でした。


投馬国は五万戸の大きなクニでした。
翌日、筑後川を下り有明海に入ります。


川船で海は無理ですので船を乗り換え
ます、そこで1日。
矢部川の河口で更に乗り換えに1日。


そして、二百四十里上流にある邪馬台国
まで遡るのに5日かかりました。
川岸で積み替えを済ませて陸行1日、宮殿
に到着したのです。

倭人伝の最後の陸行1月は、明らかに書き
損じです。
大体歩兵の1日の行軍距離が40kですから
30日有れば1200k進みます。

九州説でも近畿説でも日本国内ではあり
得ない事です。
ナポレオンのアルプス越えでも、そんな
にかかってはいないと思います。

私の説で、御笠川の行程が当て推量の感
を免れないと思いますが、卑弥呼が魏と
初めて接触してから死ぬ迄の10年間で、
僅か5回しか行き来は有りません。

多分最初の使いの随行者が記録したので
しようが、大陸の川とこちらの川を比肩
して計画を立てた処が間違いなのです。
そもそもこちらを見下していますから。

時代は下りますが、遣隋使の隋の答礼者
が瀬戸内海を見て、これは何という川か
と尋ねたという逸話が残っています。
感覚の違いが文字に表れたのでしよう。


通過した各々のクニの戸数も記録してあ
りますが、これも足すととんでもない数
になりました。
甚だ疑問符の付く記録なんです。

閑話休題、これで邪馬台国が八女市であ
ることが少しご理解頂けたと思います。
明日は、本筋に返り卑弥呼の実像に迫り
ます。乞うご期待!


9月22日〔土〕朝曇り 午後から晴れ
今日の午後の日差しは明るかった。
木漏陽の葉影に法師ゼミが鳴いていた。
樹液が飲めないのかと危ぶまれるほど
たどたどしかった。

役を終わるとは、こういうことか⁈
お前の分まで頑張るぞ!
と、カラ元気を出した。

〈鳴終えて 静かな木影や 秋の蝉〉放浪子
季語・秋の蝉(秋)





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倭国大乱と卑弥呼の悲劇

2018年09月21日 | 俳句日記


私は「漢書地理志」の倭の百余国と「魏
志倭人伝」の大乱する国々の範囲は、ま
るで違っていたと思っています。
魏人が見た乱は北部九州圏だけでした。

おそらく「吉野ヶ里」を前線基地とする
渡来勢力と、博多にあった「奴国」を盟
主とする「邪馬台国」や、その他の倭国
連合の戦いを見ていたのでしよう。

「後漢書東夷伝」では「奴国」は「倭」
の極南界なりと語っています。
奴国を倭の南端の国と示していました。
従って「漢の.倭の.奴の.国王」印となっ
ているのです。

金印を贈った光武帝は、前漢と倭国の交
流ぐらいは知っていました。
何せ周の時代からの付き合いですから。
ところが魏は、まだそれを知りません。


魏の始祖、三国志の英雄曹操は出は良い
のですが田舎町の暴れん坊でした。
その孫の明帝が卑弥呼に「親魏倭王」の
金印を授けた、ですが(?)があります。

この時代も健在な盟主の「奴」が抜けて
いますし、「倭」も未だ近畿で統一王朝
へ向けて懸命な歩みを進めています。
それを知っていながら「倭王」とした⁈

ならば、卑弥呼の「倭」は、魏の傀儡国
家だったという事になりませんか?
実は、私はそう思っているのです。
卑弥呼は実際の倭の女王にはなっていま
せん。

そこに「卑弥呼」の悲劇的運命があった
のです。


「卑弥呼」は、倭人の国「邪馬台国」か
ら、和睦のために渡来勢に送られた人質
だったのではないか?
ですからその後大乱は収まりました。

卑弥呼が戦っていたと魏人が書いている
「狗奴国」も倭国の一員でした。
相手の男王は「卑弥弓呼」(ひみここ)と
と言います、まるで兄妹ですよね。

そうです、兄妹だったのです。
卑弥呼はまだ14歳、霊感の優れた巫女だ
ったようで戦いの予言は百発百中。
渡来軍は大変に苦労をさせられました。

部下の大将は「狗古智卑狗」(くこちひこ)
、後の菊池一族とも言われています。
阿蘇族とともに狗奴国を形成していた倭
人でした。

その南九州の倭人勢力の基となっていた
のが日向に上陸した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の一族だったのです。
神代の作り話しではありません。

それらの全体像をお話しする前に、まず
前提として「邪馬台国」は福岡県の八女
地方にあったことの根拠を示します。
でなければ、この物語は続きません。

明日はそこから始めさせて頂きます。


9月21日〔金〕終日曇り 夜雨
安倍首相に辛口の評論が喧しい。
大体この類の選挙はドラマが無ければ
評論の仕様がないのである。
評論家の言辞など無視すれば良い。

この稿を書くために、ネットのアーカイ
ブを毎日2〜3本見ている。
今日は宮崎康平氏の「幻の邪馬台国」を
見た。凄まじい執念である。

神が書かせたご著書である事が
良く分かった。
この御夫婦は伝説になる。
そして、神話になるのである。

〈神々と 戯る秋の 灯し哉〉放浪子
季語・秋灯し(秋)




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