塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

Weekendの麺処巡り がんこ八代目直系小滝橋店

2008-02-16 20:10:48 | 拉麺_08
 がんこの塩を無性に摂取したい。そんな衝動に駆られる時がある。
本日も夕方、その傾向が現れた。夜の部のがんこ店は限られている。
そんな中で、「がんこ八代目直系小滝橋店」は 土曜・祝日は20時
まで開いている(平日は22時まで)。
 本日は思考回路をストレートに、また絡み合わせたりした怒鳴り
合い、いや建設的な討議を繰り広げて、ヘトヘト。こんな時こそ、
塩ッパい一杯を頂かないことには、興奮が収まらない。
 馬場から東京メトロ・東西線に乗り換え、落合駅で下車。地上へ
出ると、小滝橋店はすぐの処にある。こんばんはと、扉を開けると
森長健一店主の笑顔が出迎えてくれた。早速、『TVに出ていました
ね』の攻撃が来た。実は、私はそのTV、一度も見たことがない^^;)
ことを告げて、近頃の出来事を会話した。
 で、食券はいつものとおり「塩紫蘇」800円。末広町の八代目で
修業された頃のデータを覚えていただいているようで、塩ッパい一
杯の登場だ。このスープと縮れ麺の絶妙なコントラスト。まるで、
シンフォニーを奏でるようにリズミカルな箸の進み具合で、いつの
間にか快調に平らげていた。
 いやー、旨い旨い。やはり、がんこはコレでなくっちゃネ。


Weekendの麺処巡り RYURYU広尾でスパ

2008-02-16 12:48:33 | 拉麺_08
 本日は社内でロングランのミーティング。それでもランチと
休憩はたっぷり取れる。いつもの広尾の商店街を少し入ったと
あるビルの地下にあるスパゲティ専門店・RYURYU(リュウリ
ュウ)へ伺った。
 こちらは、年中無休でいつでも開いている。昼はランチサー
ビスがあり、ランチスパゲティを頼むと飲み物とサラダが付い
てくるし、スパは大盛りまで同料金である。
 で、本日のランチは、3種類のパスタが用意されており、私
は「コンビーフキャベツ」870円をチョイス。アルデンテに茹
で上がったばかりのスパ麺は、少し細めで喉ごしも良い。これ
に、コンビーフが絡まり、少し炒めたキャベツが脇を固める。
旨いスパだった。
 ここはササッと行って、すくに出来上がり、どれを食べても
旨いのでランチでは重宝している。

Weekendの麺処巡り やじ満で塩チャーシュー

2008-02-16 06:59:34 | Weblog
 築地市場・場内の「やじ満」といえば、“牡蛎拉麺”。
実は、やじ満では、この牡蛎拉麺しか頂いたことがない。ここらで
変化をつけて、違うメニューをオーダーしてみよう。
 と、いうか、先週伺った時に“塩拉麺に牡蛎のソテーしたのをの
せて下さい”と変則的なオーダーをしたものだから、“出来ない”
とやんわり断られ、いつもの牡蛎拉麺の他の具を一切除いた一杯が
登場した。器の中身を見た瞬間、寂しくて惨めな思いであった。や
はり、彩りがないと牡蛎拉麺もトーンダウンである。それでも、見
た目は哀れでも、味はいつもの通り、牡蛎の旨味がストレートに伝
わり良かったことは否めない。
 さて、ここでは塩のオーダーが入ると厨房に「ホワイト・・・」
と通す。そのようなやり取りを聞いていると、無性に食べたくなり、
本日は「チャーシュー麺」をホワイトで頂いてみることにした。オ
ーダー時に、刻み海苔を入れるか聞いてくるので、もちろんお願い
する。
 やはり、スープのベースは牡蛎と時と同じでもタレが違うから、
色は黄金色。このスープの輝きが好きである。やじ満のチャーシュ
ーを頂くのも初めて。ずーっと以前に、常連さんが“チャーシュー、
端っこ入れて“なんて特別オーダーする言葉を耳にしたことがあり、
一度頂いておきたかった。
 なるほど、やじ満のチャーシューは、とてもさっぱりしており中
華屋さんのチャーシューである。咀嚼するという言葉がピッタリく
る、噛みごたえのあるチャーシューが4枚のる。
 塩のスープと縮れ麺ともにオーソドックスではあるが、懐かしい
味でもある。昆布の旨味を充分味わうことが出来た。

「街を巡る」松が谷~谷中「高橋至時」の墓

2008-02-16 03:27:16 | 街を巡る
 幡随院長兵衛の墓の隣に「高橋至時」の墓がある。
 墓碑の正面には「東岡高橋君之墓」と隷書で刻んであり、
東岡とは至時の号である。
 高橋は、江戸中期の暦学者で、明和元年(1764)大坂御
蔵番同心・高橋元亮の子として生まれる。15歳で父親の職
を継ぎ、公務の傍ら数学・暦学を学び研究に励む。当時の
天文学界の第一人者、麻田剛立の門に入る。
 寛政7年(1795)、改暦の議が幕府で起き、師匠・麻田
の推挙で同門の間重富と共に幕府天文方に抜擢され、「寛
政歴」(1797)を完成させる。
 文化元年(1808)、41歳の時、肺患のため死去。
(台東区東上野6丁目18番地辺り)