『父の詫び状』(文春文庫)
京都のとある駅の近くに、初老夫婦が経営しているらしい小さな古本屋がある。雨の降らない日には、虫干しも兼ねようというのか、持ってけ泥棒とばかりに捨て売りするつもりなのか、段ボール箱に入れた安い文庫本を店の前に置いていた。だがそれらの本を丹念に調べてみると、とっくに絶版になったようなものがあったりして、意外と掘り出し物が見つかる。値段も、200円を超えるようなものはない。
ある日、向田邦子の『あ・うん』を見つけたので手に取って店に入っていくと、店番をしていたおばさんがやおら立ち上がり、「向田邦子に興味がおありなら、最近ほかにもいい本が入りましたよ」という。見せてもらうと、邦子の実妹の向田和子さんが書いた姉の回想記の単行本だった。ぼくはその本の存在を知っていたし、今では文庫本で安く手に入ることも知っていたので、「また今度にします」とことわって店を出ようとすると、おばさんは残念そうに「そうですか?」といい、さらに次のように付け加えるのだった。
「本当に惜しい方を亡くしましたねえ」
向田邦子が台湾の取材旅行中に飛行機事故で急死したのは、もう四半世紀以上も前の話である。それなのに、つい先日亡くなった人を偲ぶかのように感慨深げにそういったのだ。邦子の存在が、カラーテレビが普及した日本の茶の間にどれほど深く浸透し、そしてその死がいかに衝撃的に受け止められたかの証しのようだった。
おばさんはもっと話したそうだったが、こっちは急いでいるふりをしてそそくさと店を出なければならなかった。何せ、彼女が死んだのはぼくが10歳の誕生日を迎えた翌日のことであり、生前の記憶はまったくないどころか、脚本を書いたドラマさえも全然見たことがない。話を合わせようにも、とうてい無理だということが明らかだったからだ。
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以前の記事でも書いたことがあるが、去年最初に読んだ小説は向田邦子の『思い出トランプ』(新潮文庫)だった(「女性文学私見 ― 紫式部と向田邦子のはざまで ―」)。その後、随筆集『父の詫び状』(文春文庫)も読んだ。ぼくは、あまりのうまさに舌を巻かざるを得なかった。他愛もないエピソードが書き並べられているのを気楽に読みすすむうちに、しまいにはそれらが緊密に関連づけられていくおもしろさがあり、てきぱきとしたペースで紡ぎ出される簡潔な文章の小気味よさもあったが、何しろ昔なつかしい昭和の匂いが立ちのぼってくるのがうれしかった。
平成の世の都会に暮らしていると、あまりに人間が規格化されすぎ、効率的な社会を追い求める陰で個人の尊厳が踏みつけにされている恐ろしさを感じることが少なくないが、一種のほろ苦さとともに描かれる昭和の物語は、そんなぼくをなだめてくれた。もう長いこと家族のいない単身生活を送っているが、家庭というものが世の中の縮図そのものであり、肉親の情愛があるかと思えば世代間の鋭い断絶が露出したり、はたまたそれが癒合したりという絶えざるドラマに満ちた場であるということを再認識することにもなった。邦子がホームドラマを主な活躍の舞台に据えたのも、もっともだという気がした。思い起こせば、かくいうぼくも、そのような家族の亀裂から転げ出すように家を出て、福井から大阪そして京都へと移り住んできたのである。
そして、今年はじめて手にした小説本が、『あ・うん』(文春文庫)だった。なぜか年が明けると、向田邦子が読みたくなるようだ。これはもともとNHKで放送されたドラマで、新潮文庫からシナリオ版も出ているが、ぼくが選んだのは本人によるノベライゼーションだった。ひところ小説家を目指していた身としては、やはり脚本家としてよりも珠玉の小説の名手として、向田邦子の世界に向き合っていたかった。
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